グレングールド(カナダ人ピアニスト1932~82)の友人、プロデューサーだったバイオリニストのモン・サンジョンが、グールドは生前に音楽評論家から全く理解されなかったと語っている。
グールドは、集団としての観客を「悪」と言い、大喝采を浴びているカーテンコールの最中でさえ、「たった今の演奏は気に入らなかった。もう一度やり直したい。」と思っていたという。人気ピアニストの地位が不動になった32歳の時に「コンサートは死んだ。」と言い、コンサートから「ドロップ・アウト」宣言し、発表の場をスタジオに移してしまう。 グールドにとってスタジオは、やり直しができる最高に贅沢な場所だ。録音の前にはピアノに触れず、発想を縛らずアイデアを膨らませ、10通り以上の演奏法を頭に描きながらスタジオ入りする。そして、録音テープを聴き比べながら絞り込み、そのスタイルの演奏を気に入るまで何テイクも録音する。 そうして何日もかけ、必然と言えるスタイルを完成させる。
こうした方法で録音されたもの(コンサートを開いていた時期のものは絶賛か酷評)は、聴取者から大きな評価を得るものの、音楽評論家からは酷評されるづける。グールドがうまく演奏できたと考えたものでさえ酷評され、「評論家に気に入ってもらうためには、下手に弾かないといけない。」と言っている。(下手とは昔の演奏スタイルのこと。)
この評論家がグールドを評価しない原因について、モンサンジョンはグールドの音楽が評論家にとって「脅威」だったのだと語っている。グールドの考えは常識(最高の演奏には生の観衆が必要だという通念)を覆すものだったし、コンサートを全否定した。グールドの方法論を認めれば、ベストな演奏が出てくればそれでお終い。毎回毎回、あれが良い、これが悪いという商売が成り立たなくなる。それを評論家は本能的に感じたのだろう。
モーツアルトのピアノソナタ11番は最後に「トルコ行進曲」がついていることもあり、誰もが知っている有名な曲だ。グールドは、この曲が「これまで多くの演奏家によってさまざまにアプローチされつくした」ため、極端に遅い、前代未聞のスタッカートで演奏し、聴く者の度肝を抜く。これを聴いたブログの主の女房は「近所の女の子が弾いているみたい。」と言ったほどだ。その後、徐々にスピードを上げ、グールド曰く「邪悪なところまで行き」、譜面にアダージョと指定されているところをアレグロで突っ走る! それでも、グールドの演奏に納得させられるのは、私だけではないだろう。