ブログの主は、処方薬を買う薬局でたいてい憤慨してしまう。
医者に行ったあと、処方箋にしたがって薬局の薬剤師が処方薬を販売するのだが、薬を渡す際に「調子はいかがですか?」「前回と違う薬ですが大丈夫ですか?」的なことを聞いてくる。ここで彼らを専門家だと思って、薬について質問したりしてはダメだ。知識があっても、無難なことしか言わない。
医師の診察でじっくりと話を聞けることは少ないので、薬剤師から病状などを質問されると、ついこちらも質問してしまうのだが、結局のところ素人とたいして変わらない無難なことを言うだけだ。当然だが、医師の診察分野は、細分化されている。その細分化された分野で医師が処方した薬について、薬剤師がそれ以上の詳しい知識を持っているはずがないし、慢性病の場合は患者もそれなりに詳しくなっている。それでもし薬剤師に聞けば、最終的に「相談は医師にしてください。」となる。
主はアレルギー体質で、長年アトピー性皮膚炎を患っている。大学病院の皮膚科の教授から「アイピーディーという薬を体質改善のために2,3年飲みましょう。」と言われたことがあった。その後、大学病院へ行きつづけるのは大変で、町医者に通っている。このように長く飲む薬というのは、どのように評価したらよいのか(効果の判断がわからない、どうなったらやめるのか?)疑問に思ったので薬剤師に質問すると、大学病院の医師に聞いてくれと言われる。このような時、せめて次回までに調べてくれてもよさそうに思う。それぐらいの勉強はしているはずだ。
医療費は、診察より薬剤費のほうが何倍も高い。薬剤以外に、薬局にかかる費用もあるはずだ。薬を受け取る際には、薬の説明書などや、「お薬手帳」に貼るシールなどを受け取るが、これらは調剤基本料や薬学管理料として上乗せされている。医薬分業になって久しいが、医薬分業の狙いは、薬価差(昔、医院は薬を処方する際に、薬代の仕入値と患者が支払う差額で儲けを出していると言われていた。)をなくすことだった。これが院外処方により医療費の削減につながったかというと、薬剤師は医師の処方通り調剤するのみで、そのような効果は上がっていない。むしろ、医薬分業により調剤コストは増えており、節減には薬価基準の引き下げが大きい。
この調剤薬局の多くは、MR(Medical Representative=製薬会社の営業社員)が起業したものなのだそうだ。MRは、自社の製薬会社のために営業活動で医院を回っている。この営業で生まれる医師とのコネクションを生かし、医院の門前薬局という形で調剤薬局を開店する。
薬剤師の働きぶりを見ていると、6年間勉強する割には、せっせと薬を棚から取り出し、詰めているだけだ。混ぜ薬も少なくなっているし、処方箋の内容どおり正しく薬を詰めるだけなら、機械でも可能だ。テレビの報道では、実際にコンピューター制御された機械が、薬を多くの棚からピックアップするところがあるらしい。なんで、薬局にはあんなに多勢薬剤師が働いているのか。薬局は、コンビニより数が多いという。
また、最近薬学部は、4年制から6年制へと変更されたが、薬剤師の供給過剰が背景にあるのだろう。多くの薬剤師は、専門家であるという幻想をすでに抱いていなさそうに見えるが、専門的なことを言わないのであれば、矛盾が多い、おかしな職業だと思う。
また、こうして見ると、医療費が高い原因が透けて見えてくる。
日本の薬の値段は、世界水準では異常に安いという。つまり、医療費が老人医療のせいで膨張し、その膨張を抑えるため、政府は診療報酬と薬価を上げないばかりか、むしろ、下げて、医療費を抑制しようとする。しかし、国民皆保険制度は、75歳以上の老人は基本的に1割負担である。こうした助成は、確実にマーケットの需給を歪ませる。 つまり、必要がないのに医者へ行く患者が多数現れ、医療費を膨張させる。
こうした老人を優遇する医療制度と、生きてさえいれば成功とする医師の条件反射のような救命マインド。安楽死を否定する司法の判断。延命を常に唱えるマスコミの報道。一般大衆は、いつまでも生き続けたいという無理な願望を持つように洗脳されているのではないか。
そして、必要がないのに医者へ行って治療を始め老人たちは、やがて死期が近づいても、体中にチューブをつけられて生かされる。天井を向いて、生きているのか死んでいるのかわからない老人がチューブにつながれて碌に意識もない、というのは本人も望まない、尊厳を踏みにじる虐待でしかない。
おしまい