「こけろ! アベノミクス」と陰の合唱

今回は、ちょっと硬い話をなるべく柔らかく語りたい。

日経新聞は、株価が少し下がると相変わらず日本の産業力の低下を憂いて見せる。円高によって日本株で利益を出した海外の投資家が、ポートフォリオを一定に保つために売っているとは決して言わない。(「日経新聞の真実」のトピックがカテゴリー『経済学』にあるので興味のある人は見てね。) ヒステリックとも言えるほど、啓蒙主義的で、常に読者に警告を発しようとする。アベノミクスの成功で、20%以上円安になり株価は大幅に上昇、企業収益も改善、その果実を労働者にも分配する傾向が見え始めてきた。日本の産業構造は、昔のように輸出一辺倒ではないが、依然として輸出産業のウエイトが高く、円安は有利に働く。現在の為替レートは102円/ドル程度。民主党政権時の80円/ドルに比べると大幅な改善だが、バブル崩壊時以降は120円/ドルの水準が長く続いた。それを考えると、まだ昔の円安水準にまで戻っているわけではない。(なお、経済オンチの人のために付け加える。1ドル80円が1ドル100円になったら、円高になったと思う人が結構いる。しかし、表現を変えると1円あたり0.0125ドル/だったものが1円あたり0.0100ドルになったということで、値打ちが下がっているので、円安だ。)

安倍政権の発足に伴う黒田日銀総裁の「異次元の量的緩和」により、円安と株高が同時に起こりデフレ脱却の希望が見えてきた。しかし、世界を見るとリーマンショック後、ヨーロッパの通貨危機、中国経済の減速、アメリカの金融引締めを発端にする新興国不安、現在はクリミア半島の欧米・ロシアの対立が起こっている。こうした要因は円安の阻害要因であり、円高の原因である。(信頼を失った国の通貨は売られ、信用のある国の通貨が買われる。)アメリカの金融引き締め(量的緩和の中止)は、ドル安政策の転換を意味し、本来であれば相対的に円の価値を下げ、円安になるはずだ。だが、実際にはアメリカの新興国への投資資金が引き上げられ、新興国経済が失速するという懸念から新興国で通貨安が起こった。日本はそうした不安材料が少ないために、相対的に安心感があり円は上昇傾向になる。もちろん、日本は財政赤字という大きな問題を抱えているが、世界から致命的な問題と見られていない。

アベノミクスの最大のブレーンのイエール大学教授浜田宏一は「アメリカは日本経済の復活を知っている」の中で、白川日銀前総裁とそれまでの金融政策を激しく非難した。この浜田の提唱する政策を掲げた安倍政権が経済政策の転換を行った。日本の「失われた20年」と言われるデフレから脱出できるかどうか、ようやくこの成果が出るかどうか期待されるところだ。浜田の書名のとおり、日本経済の底固さは世界中が思っていることなのだ。

第二次大戦後、経済学の主流は新古典派と言われる学派だった。この新古典派はケインズの理論を発展させ、「合理的経済人」を仮定する。すなわち、人間は合理的で常に正しい決断が出来ることを前提にすれば、市場を通じて資源が最適配分されると考える。その後ミルトン・フリードマンが「選択の自由」を発表し、大きな影響を与える。マネタリストであるフリードマンは財政支出に反対(=ケインズ経済学の否定。公共事業の否定。)し、景気循環を貨幣供給量と利子率により説明した。彼は同時に「小さな政府」を提唱したため、レーガン、父ブッシュ、クリントン、子ブッシュ、オバマ大統領とアメリカの経済政策に大きな影響を与える。すなわち、国内向けには減税、規制改革、民営化、対外的にはグローバリズム宣伝の根拠となる。

しかし、2001年、スティグリッツが「情報の非対称性」によりノーベル経済学賞を受賞する。「情報の非対称性」と言うのは、需要者と供給者で情報が非対称であること、例えば学生ローンを借りる学生は銀行ほどの情報量を持っていないことを言う。そのような状態で資源が最適に配分されないことを証明した。この学生ローンの場合は、社会全体でゼロサムではなくマイナスサムが生じているという。スティグリッツの著作には「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」もある。 2008年、クルーグマンが次のことを証明しノーベル経済学賞を受賞する。生産規模が拡大するほど費用が低下する「収穫逓増」の産業は、歴史的な偶然によって国際競争力が決まることをモデルで説明した。例えば米国の航空機産業は、ベトナム戦争に伴う生産拡大で競争力が高まったという。(従来の経済学は「収穫逓減」を謳っていた。)

この二人の研究は新古典派の学者の経済理論を葬り、フリードマンの市場至上主義の誤りを指摘したはずだ。「勝者総取り」という現代最大の問題が透けて見えてくる。「勝者総取り」は、主の最大の問題意識である。)しかし、スティグリッツやクルーグマンも書いているが、旧来の経済学者はなかなか自分の非を認めようとしない。それは日本も同じだ。

日本の書店に並んでいる経済学の書籍は、浜田宏一をはじめとする金融政策によるリフレ派(インフレターゲットを設定し、デフレから脱出しようとするグループ)はマイノリティーだ。相変わらず新古典派経済学者やフリードマンを崇拝する学者が主流だ。当然ながら、従来型の学者はアベノミクスの金融政策について国債の暴落と金利の上昇を声高に警告し、財政健全化を至上命題にしている。決して、日本の財政赤字はお札を輪転機で刷れば解消するというようなことは言わない。

1年前の消費税引き上げ論議を思い出してほしい。浜田宏一はじめとするリフレ派は消費税増税に反対だった。デフレから脱却できるかどうかという大事な時期の消費税増税は、「風邪をひいている患者に、体力をつけるために『グラウンドを走ってこい!』と言うようなものだ。」と時期尚早を説いていた。しかし、財務省の「財政再建」宣伝が行き届いているため、世論は「消費税増税せよ!」の大合唱だった。野田前首相は財務官僚に完全に丸め込まれた。 前述のクルーグマンは、日本がどうしても消費税を上げたいという場合でも、経済への影響を最小にするためには、消費税を毎年1%づつ上げたらよいと発言していた。ところが、この案は技術的に困難であると一蹴されてしまう。その結果、5%から8%、10%へと上がることが決まる。(おかげで今、駆け込み需要の後の反動が心配されている。そやから1%ずつ上げ言うたやろ!)ここに日本人の性癖がよく表れている。事の本質より、小銭の扱いが面倒とか煩わしいという枝葉末節を優先する発想が出てくる。景気への影響より、技術論が優先したのだ。もっとひどいことには、増税により景気が良くなると真面目に主張した経済学者もいた。かくして、マスコミをはじめとする消費増税キャンペーンは奏功する。 安倍首相は、世論とブレーンであるリフレ派の板挟みとなり、消費税増税を決定するが、経済の落ち込み分を財政支出で補うという折衷案を採用する。

ところが、マスコミや御用学者たちは消費増税が昨年秋に決定したとたん、発言内容が180度転換し、消費の冷え込みによる不況の懸念を声高に言い始める。常に世間に向かって危機を煽っている。(そんなことを言うなら、最初に消費税を増税すべきだと言うべきでないだろう。)

主の学生時代(40年前)、経済学の講義で一番最初に教わったのは「賃金の下方硬直性」だった。「賃金の下方硬直性」というのは賃金が生産性の向上に関係なく、上がることはあっても下がりにくいことを言う。しかし、日本はバブル崩壊後、ずっと名目賃金が下がり続けた。企業は収益の落ち込みに対して、生産性を上げることより費用を小さくすること、すなわちリストラや賃下げを競って行った。

ここで、名目賃金の解説を少ししよう。もしインフレ下で賃金水準が同じ場合、インフレ分だけ実質賃金は下がっている。逆に、デフレの場合、実質賃金は上がることになる。このため日本のデフレを、まことしやかに「良いデフレ」と言った学者がいたほどだ。同時に為替レートのことも考慮する必要がある。名目賃金が同じでも、円高になるとドルで換算した賃金は増加することになる。すなわち、民主党政権では急激な円高が起こったが、ドルで換算した日本人の賃金水準は、円高にに比例して上昇した。これは国際競争力を失うことを意味する。為替レートの変動(円高)で国際競争力を失い、実際に倒産したエルピーダメモリーのような企業がある。

話を元に戻すと、「賃金の下方硬直性」は確かにあり、欧米では名目賃金は下がっていない。不況で名目賃金を下げたのは、唯一日本だけなのである。欧米では不況は起こっているが、デフレになっていない。日本のデフレは世界の不況とは様相が異なっており、かなり特殊だ。この原因の一つは、国民性にあるのではないか。他の国では、企業の利益が出なくなった時にも、名目賃金を下げることは出来なかったのだ。もちろん、ペイオフや人員整理はやっているだろうが、賃金水準は保たれた。ところが、日本の労働者はリストラとともに賃金水準の低下も受け入れたのだ。日本人は、外国人に比べ真面目なのだ。こうしたスパイラルの結果、デフレになった。

現在日本の新古典派学者も表立って、私は新古典派だと名乗っている訳では勿論ない。フリードマン信奉者はそれより、分かり易く敬意を表明している。しかし、その両者の理論はあり得ない前提が必要だ。彼らは根拠を明らかにせず、表向き様々な学派の意見を公平にくみ取っているかのような発言をする。だが、彼らは心の中で思っている。「こけろ!アベノミクス。」

 

 

グレン・グールド考 お勧め作品(その2)

グレン・グールドを描いた映画に「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」(2009年。日本公開は2011年。)がある。このなかで、グールドが初めて弾く曲を練習する時の様子を、数年間不倫関係にあった画家のコーネリアが語っている。グールドは36歳ころから40歳ころまでコーネリアと二人の子供と一緒に過ごしている。グールドが演奏家として一番充実していた時期と言って良いだろう。(グールドの女性関係は、別に書きたいと思っている。)

グールドが初めて曲を弾く様子は、他のピアニストと全く違っている。練習を始める前に女中に部屋で掃除機をかけさせ、同時にテレビとラジオの音量を最大にする。つまり、自分が弾くピアノの音が聴こえないようにするのだ。初めて弾く曲にとりかかる時は、すでに楽譜は頭の中に入っており、曲のイメージもすでにあった。そのようなときに不慣れな指使いから出る音が、自分の抱いているイメージに影響することを嫌ったのだ。 グールドは、「ピアノは指で弾くんじゃない。頭で弾くんだ。」と言っている。『当然だろう!』と言われるかもしれないが、彼の言っていることは、身体的な制約を受けずに頭の中にある音を直接出すことを言っている。実際、彼の演奏は指(手)の存在を感じさせない。彼の演奏は、直接音楽に触れているようだ。

プロは、テクニックを保つために毎日4時間も5時間も練習練習するというが、様相が全く違う。同じような意味だが、「演奏に技術的な困難を感じることがありますか?」とインタビュアーから質問されると「僕は戦場を見ないようにしているんだ。」と答えている。この場合の『戦場』とは、鍵盤のことだ。つまり、彼は意識を技術的な指使いなどのテクニックのことから逸らし、もっと重要なこと、たとえば曲の構成や、旋律ごとの強弱、どのような表現方法をとるべきかかなどを、陶酔の中にありながら常に計算している。彼は「もし、演奏家が意識を演奏技術に向けたら、困難さはさらに増すだろう。」と言っている。 また、子供時代を別にすると練習をしないピアニストで有名だ。1週間以上ピアノを弾かないことは普通にあったようだ。さすがに1か月弾けないと心理的にピアノを弾くことを渇望し、ピアノが弾けると嬉しくなるという事を言っている。

例により、前置きが長くなっってしまったが、おすすめ作品を続けよう。No.2はやはりこれ、J.S.バッハの「フーガの技法」だ。これだ。グールドの演奏は35分である。

「フーガの技法」は、バッハ(1685-1750)の最晩年である1740年代後半に書かれており、最後のフーガが未完のままで終わっている。シュバイツァーは、この曲を“静粛で厳粛な世界、色も光も動きもない”と言っている。確かに、静謐で宇宙的な深遠さがある。また、心的に穏やかな充足感が感じられ、宗教的な統一感を感じることができる。

この曲は楽器の指定がないこともあり、ピアノ、チェンバロ、オルガン、弦楽四重奏、オーケストラなど様々な形式の演奏が行われている。チェンバロやオルガン単体では音色の変化や強弱などの表現力が乏しい。一方、合奏形式のものは、各楽器が個性を主張しまとまりが感じられなかったり、逆にまとまっている場合も、伝えたいものが何なのか分からなかったりすることがある。合奏に比べるとピアノ独奏の場合は、一人で演奏するため、演奏者の伝えたいものが等身大で伝わってくる。やはりピアノ独奏の場合に、曲の統一感が一番よく出る。

名前が「フーガの技法」と言うだけあり、最初の主題が次々と対位法的に展開する。対位法は、複数の独立した声部(パート)からなる音楽をポリフォニーといい、ポリフォニーである対等な関係の最大4声の旋律が奏でられる。異なる旋律が同時に奏でられるので、必然的に和声(ハーモニー)も形成されるが、各声部の旋律(メロディー)が中心となる。グールドは単純な和音にならないように和音を崩しアルペジオにして旋律の違いが分かるように演奏するところが特長だ。そういう意味では逆に、オーケストラのお互いの楽器が主張しあう旋律の重なり自体を楽しむという聴き方もできる。DVDのベルリン古楽アカデミーの演奏は、最初主はまとまりがないと思っていたが、数十人の演奏者による様々な弦楽器、管楽器による旋律がそれぞれ行きつ戻りつする様子に着目すると楽しい。また、ピアノなのだが、コンスタンチン・リフシッツというピアニストはピアノ1台だが多重録音している。明らかに4手で弾いている。

だが、グールドのこの曲の演奏は、他の演奏家のどれとも全くレベルが違う。最初のテーマのテンポの遅さ。強い緊張感を保ちながら、この遅さで演奏できる奏者を知らない。テーマの終わりで2度休符するのだが、グールドの演奏は、完全な何秒かの無音を奏でる。初めて聞いた主は、ステレオ装置が具合悪くなったと思ったほどだ。最初のテーマの後、テーマを様々に変形させたフーガやカノンが続く。これらをグールドは旋律を弾き分け、あたかも全体を一つの構築物を見せるかのように演奏する。その演奏は、誰より明晰で、押しつけがましさがない全く自然なものだ。ついに終曲。シュバイツァーが“静粛で厳粛な世界、色も光も動きもない”と言ったのはこの曲だろう。この曲を聴いていると、普遍性、宇宙、抑えた愉悦、幸福、善といった表現が浮かぶ。ところが、そうした落ち着いた幸福感が虚空に突然ストップする。絶筆なのだ、この曲は。それでもこの曲の価値は失われることがない。

つづく

 

 

 

刺さる動画 — 3.11

『祈りにも悲鳴にも異なる声をあげて、今すべてが止まるようにと願いを心から言った』http://dout.jp/305

Face Bookを通じて知人にこの『刺さる動画』を教えてもらった。3年目となる3.11の映像なのだが、いまさらながらあまりの悲惨さに言葉がない。合掌。

ただ、思うところが一つあった。このリンクをクリックして是非実際に見て貰いたいのだが、多くの写真に人が写っている。亡くなった人の手足だったり、救助する自衛隊員や消防隊員、幸い生き延びる事が出来た人が、とても現実とは思えない背景のうちに写っている。人が写っていることで、被災した人、自衛隊員、消防隊員が見たであろう惨状が目に浮かぶ写真がある。おかげでこれを見て、初めてこの災害が我がこととして実感できたような気がした。

何故なんだろう?『刺さる動画』に刺さったのか。

前から気になっていたのだが、日本のマスコミの自主規制のせいだ。日本のテレビ局の報道では、死体や血の流れる映像は削除されて報道される。当然ながら、その分リアリティが失われる。瓦礫の山だけをいくら流しても、人間が写っていなければ他人事だ。人間が写っていて初めて自分のこととして共感する。

なお、こういうリンクの仕方がアリなのかよく分からないのだが、うまくTweet出来なかったので、このようになってしまった。

3.11

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