前回からの続き
⑦「日本もグローバリズムに後れてはならない」ーーー グローバリズムという言葉は古く、1990年ころが最初のようだ。「地球主義」と訳されることもあるようだが、そんな空想的で理想的なことはまったくない。グローバリズムといわれると、島国日本のやり方が遅れているように聞こえるが、そうではない。 ミルトン・フリードマンが「選択の自由」を書き、1980年代以降、市場万能主義が礼賛される。この主張を理論的な柱にして、規制を撤廃し、政府の関与を最小にすることが効率的で望ましいとされた。この考え方の延長線上にグローバリズムはあり、関税を撤廃し、地球規模での競争が資源の最適配分を実現するという考え方だが、そんなことはない。資源の最適配分を実現するには、多くの前提条件が必要なのだが、これが素人が考えても満たされるはずがないとすぐにわかる。 その具体的な前提を、藪下史郎「スティグリッツの経済学『見えざる手』など存在しない」から引用してみよう。①私的利益を追求する合理的な個人と企業 ②多くの売り手と買い手がいる完全競争市場。売り手も買い手も価格支配力を持たない ③完全情報。売り手と買い手も取引される商品の価格と質に関する情報を持っており、情報量に差はない ④取引費用はない。情報のための費用を含め、取引に必要とされる費用は存在しない ⑤同種の財・サービス。一つの市場で取引される商品はすべて同質であり、たとえば労働サービスについては能力・技術などの差は存在しない ⑥完備市場。すべての財・サービスを取引する市場が存在している。 ⑦スムーズな市場調整。需給が均衡するように素早い価格調整がなされる。・・・①から⑦まで満たしてはじめて仮説は有効に働く。このようなことは到底ありえないので、市場の失敗、机上の空論、先進国側の帝国主義だと考えるべきだろう。 話は変わるが、ISOという国際規格があるが、日本企業はグローバルスタンダードの掛け声の下、このISO取得に躍起になる。おかげで、それまであった日本のQC運動が下火になってしまう。ISOとQC運動は全く性質が違う。ISOはトップダウン、QC運動はボトムアップ。QC運動のほうが、断然すぐれているのだが、日本のローカルな運動と思われ、不景気も相まって消滅してしまう。ISOを世界標準などと思い、その気になっていたがために、競争力の一部を失ってしまった。
⑧「給与は成果に応じて支払われなくてはならない。年功序列はもう古い」ーーー アメリカ人の1%の高額所得者は、その報酬の受け取りについて、高い生産性と能力に見合ったもので何十億円もらっていても当然だという。所得の低い人は、努力が足りないのだという。この発想は、成果主義の延長にある。だが、その貧者と富者の差はもちろん、正当なものではない。恣意的に社会制度や政策により生み出されたものだ。現代社会は勝者が儲けを総取りする傾向があり、1%の富裕層と99%の貧困層に以前にもまして分断されている。 社会の成員全員が持てる能力をすべて発揮し、資源が最有効に使われる状態(経済が成長し、完全雇用が実現されたプラスサムの状態)がもっとも望ましいのだが、現状は、貧者が高い失業率により持てる力を発揮できない一方で、無力につけこむ学生ローンや、無茶で高額の手数料を取られる住宅ローンなど、貧者のパイを減らし富者へ集めているマイナスサムの状態である。アメリカは機会均等が失われて久しい。機会均等がない状態で、成果主義云々はあり得ない。
成果主義と年功序列のどちらがいいかというのは、決して良し悪しの問題ではなくて、どのような社会を望むかという問題だ。安定し、長期にわたる成果を求めるなら、終身雇用、年功序列が優れている。長期の目標や外部経済(公害など)を斟酌せず、短期の成果で勝者と敗者を明確に分けるなら「成果主義」だろう。だが、北欧のように教育、医療に費用をかけ社会保障のセーフティネットを充実させて経済成長を果たしている国もある。ただし、北欧の成功は、意図的に黙殺されることが多い。
まとめーーー 主は、昔、愛読書は大江健三郎で朝日新聞のファンだった。支持政党はどちらかいうと左寄りで自民党は嫌いだった。常に政治的、倫理的にニュートラルであることをモットーにしていた。しかし、そのニュートラルはマスコミや世間の幻想に色濃く染まっており、大いにバイアスがかかっていた。このことに気付いたのは、今から10年前、50歳の頃だった。藤原正彦さんのベストセラー「国家の品格」(2005年)を読んで、衝撃を受け、目からうろこが落ち、価値観が変わった。いまや、一番ひどいと思うのは朝日新聞である。朝日新聞に限らず、日経新聞もそう。雑誌はさらにひどい。読者の興味を煽れればよしとしており、すべてのマスコミは本当のことは書かない。嘘ばかり並べていると考えるべきだ。 おしまい