もうそろそろ死にたい、と思っている年寄りは山のようにいる。ただ、死ぬのに痛い目をするとか、恐ろしい目にあいたくないという場合が多いのではないか。それでは、主は薬局で青酸カリを自殺用に売ればよいと考えていた。
ただし、これには自殺に見せかけて殺人をする輩がきっと出てくるだろう。そんなことが起こるようでは、青酸カリを薬局で売るわけにはいかない。ちょっと、乱暴すぎるか。
そのうちネットでググっていると、医師による安楽死を行っている国がいくつかあるようだ。スイスは、自殺ほう助が合法化されてから約40年という長い歴史を持ち、必ずしも医師でなくても自殺ほう助が可能だ。オランダ・ベルギー・ルクセンブルクは、医師による自殺ほう助と毒薬の投与が認められている。これを積極的安楽死というらしい。
一方、患者の苦痛を軽減する意味で延命措置を施さないというのが消極的安楽死というらしい。日本はといえば、現在は、医師が人工呼吸器を外すと刑事責任を問われたりする。これを見直そうという機運はあるようだが、弁護士会が反対しているとある。
時代劇、NHKの大河ドラマなどを見ていると、登場人物があっけなく死んでいく。侍は戦闘で討ち死にをするし、そうでなくても50歳くらいになると病死する。当時、「責任を取る」ということはハラを切るか斬首されるかを意味していた。今との対比でいうと、実に潔い。
主は1954年に発表された深沢七郎の「楢山節考」を、ふと思いだした。「楢山節考」は、2回映画化され、2回目の映画化である1983年のカンヌ国際映画祭にてパルム・ドール(最高賞)を受賞している。ある種普遍的なテーマなのだろう。
この小説では、口減らしのため70才になる寒村の老人が山へ捨てられる、という厳しい掟(棄老)が描かれている。他にも哀しい現実が全編に残酷なまでに描かれているのだが、登場人物は、掟に抗うことなく淡々と定めを受け入れているところが印象深い。今と当時は時代が違い経済状況が劇的に良くなったとはいえ、歴史の上でたかだか半世紀ほどしか経っておらず、日本人のDNAには貧困の記憶がまだ残っている気がする。
アマゾンのこの本の紹介文には次のように書かれている。ーーお姥捨てるか裏山へ、裏じゃ蟹でも這って来る。雪の楢山へ欣然と死に赴く老母おりんを、孝行息子辰平は胸のはりさける思いで背板に乗せて捨てにゆく。残酷であってもそれは貧しい部落の掟なのだ―因習に閉ざされた棄老伝説を、近代的な小説にまで昇華させた『楢山節考』。。
今は、違う。食糧事情も医療事情も昔とは比較にならないくらい改善した。だが、一部では、貧困の果ての老老介護殺人や子の親殺しなど悲惨な現実もありながら、姥捨てすることは許されず、つらさがさらに厳しいものになっている。
もちろん、誰しも生きたいだけ生きればよいと思う。しかし、憲法で謳われている健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を政府が保障しているとは思えないし、それは別にしても、死ぬ自由も与えるべきだと思う。