風変わりな性向には事欠かないカナダ人天才ピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)の性格を考えてみたい。 最初に彼の性格を示すエピソードをいくつか書いてみよう。
子供時代は、学校で過ごすことが最悪だった。授業時間よりも、休み時間の方が耐えられなかったという。友達もなく、同級生たちと一緒に遊ぶということはなかった。ボールを投げられると手を守るために背中を向けたという。だが、徐々に、学校でもそのピアノの実力により一目置かれるようになる。いじめられるということもなくなってくる。
母親のフローラが潔癖症で心配性だった。ばい菌の感染を心配し、グレンを屋外で遊ばせたり、人ごみへ出そうとはしなかった。このため、グレン自身も早くから心気症で風邪薬や抗生物質を持ち歩くようになる。睡眠薬や向精神薬なども持ち歩き、あまりに大量の薬を携行しているためにカナダとアメリカの国境で没収されたこともある。
生涯、対面して話すことより、電話をかけることを好んだ。対面して話す場合は、相手の目を見ずに喋ったという。電話は、相手の迷惑を考えず深夜でもかけ、長電話だった。話の内容は、交互に話をするというよりも、グールドが思いついたことを一方的に話し続けていた。
グールドは、デビュー作のバッハ「ゴールドベルグ変奏曲」が発売される前の20才の頃、すでにピアノの恩師ゲレーロの元を出、両親と話し合って大学へ進学しないと決め、トロントから車で1時間ほど離れたシムコー湖の湖畔にある別荘で「弦楽四重奏曲作品1」を一人作曲していた。このリヒャルト・シュトラウスを思い起こさせ、現代的だがロマン派の香りが強く漂う、独特の大曲を2年かけて完成させた。彼は4つの音(C,D♭,G,A♭)が果てしなく展開するこの曲を書くのに非常に苦労し、一晩にわずか数小節しか出来ないこともあった。
このとき、グールドは7才年上の恋人であるフラニー・バッチェンに毎夜、深夜に電話で作品の進み具合を嬉々として聞かせていた。グールドは、このころすでに昼夜逆転した生活を送っていたが、相手の都合を考えるという発想はなく、深夜の3時に長電話することも平気だった。フラニーもプロのピアニストを目指していたが、生活のために翌朝にはアルバイトへ出かけなければならなかった。このため、彼女にとって深夜の電話は負担となる。
映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」の中で、フラニーは2007年にインタヴューを受けている。この時、彼女は82歳なのだが、美人の面影がはっきりとある。(実際若い時代の写真を見るととても魅力的だ)彼女は、「グールドと結婚を考えましたか?」と問われ「もちろん」と即答している。だが、「グールドは、ある意味ロマンチストでしたが、社会性がなく一緒に暮らすのは困難でした」と語っている。(下の写真は、映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」のHPから)
最も有名なエピソードが、「コンサートドロップアウト」だろう。1964年、彼が31歳の時に公開演奏からドロップアウトする。つまり、コンサートに出演しなくなる。コンサートピアニストとして名声が高まり絶頂にあったのだが、何年も前から引退を口にし、ツアーではキャンセル魔で有名だった。聴衆を、闘牛を見に来る観客に例え、『集団としての聴衆は悪だ』と言ったり、聴衆に拍手することを禁じる演奏会を開いたりしたこともあった。ドロップアウト後は、もっぱら、スタジオのみで録音・演奏するようになる。
彼は、父親が作った特製の低い椅子を使い続けた。その椅子がボロボロになり、座面がなくなって木組みだけになり、椅子の軋む音がレコードに入るようになっても生涯使い続けた。
彼は、両親にとって待望の子であり、一人っ子で、甘やかされ放題で育っていく。母フローラは、グレンが音楽で身を立て、彼の音楽を聴く人たちに良い影響が与えられるように常に願っていたが、時間が経つにつれ、これが実現するのを目の当たりにする。一方の父バートは毛皮商を手堅く営んでいたが、グレンが小学校に行く頃には動物愛護の精神から父親の仕事に反発していた。こうした影の薄い父バートに対し、父親代わりの存在となったのが、10歳から9年間ピアノを教えたチリ人ピアニストのゲレーロである。グールド家とゲレーロ家とは家族ぐるみでつきあった。
おそらく、グレンはフローラから正しい愛情を受けられなかった。大きな愛情が注がれたのは確実だが、同じ年齢の子供たちと遊ぶことや協調するということはなかったため、社会性が身に着かなかった。フローラ自身が10歳まではピアノを教えるのだが、それを過ぎると彼女の手に余ってしまい、ゲレーロを師として迎えた。これは、音楽の能力の成長には、必要なことであり大いに貢献したが、人間性の成長という意味では、ダメなものはダメと言われる経験がなく、いびつな人間が生まれたといっていいだろう。
ゲレーロは、グレンが全く他人の助言を受け付けず、「君の弾き方は違う」と言われると憤慨してしまうので、グレンにピアノを教える時、自分でなんでも見つけさせるようにしむけていた。おかげでグレンは、フローラとゲレーロにピアノを教わったことを忘れて、生涯、「私は独学でピアノを覚えた」と言うようになる。
愛着(愛情)は、子供の成長に必須のもので、十分に正しく与えられれば安定したパーソナリティーが出来上がるのだが、その後は、甘えさせることだけではなく、甘やかしてはいけない時期が来る。この時期に、両親は甘やかしてしまったのだろう。このため、グールドは統制型の愛着障害パーソナリティを持ってしまった。この統制型の愛着障害というのは、何でも自分の思いどおりにならないと気が済まないというもので、親との愛着の不安定な子供が、4~6歳の頃から親をコントロールすることで自身の安定を得ようとする結果と考えられている。自信過剰で自己愛が強いナルシストとも、自分以外が見えず、対人関係を上手く築けない自閉症の一種であるアスペルガー症候群だったと云うこともできるだろう。
だが、彼は凡人とは違う。確かに社会性のなさや、人間関係を普通に築けなかったということはあるだろう。しかし、音楽の世界において凡人を超越していた。その性格がもとで、グレンの音楽性が常人とは違う、類を見ない領域へ達していたのは間違いない。何より、音楽の解釈において、既成概念にとらわれることなく自分自身の考えを透徹したところに、他のピアニストにはない独創性がある。
例えば、モーツアルトのピアノソナタでは、高音部の旋律だけでなく、低音部に音符を自ら加えて対旋律を強調しながら弾いている。また、過去に演奏されたスタイルと同じ録音をするなら意味がないと考えていたので、すべての曲が従来のスタイルとは全く異なった挑発的な演奏である。トルコ行進曲が付いているK331では、出だしをスタッカートでまるで近所の幼児がピアノを弾いているようなスタイルで始め、変奏の度に速度を上げ、アダージョの指定がある変奏をアレグレットで弾く。既成概念に挑戦した演奏と言っていいだろう。既存のクラシック界の常識に従うのではなく、グールドは、「作品と作曲家の内面に侵入し、その反対側に突き出た」「作曲者に対する共感を通り越し、作品を完全に乗っ取っていた」と映画「グレン・グールド/天才ピアニストの愛と孤独」でチェリストのフレッド・シェリーが語っているが、核心を衝いていると思う。