「身体を売ったらサヨウナラ」 著者の鈴木涼美さんご本人からコメントを

「おじさんメモリアル」(鈴木涼美)につづき、「身体を売ったらサヨウナラ」の感想文を1週間前にアップした。驚いたことに、ご本人がツイッターで取り上げてくださりコメントをいただいた。それも率直で非常に長いコメントだった。ツイッターは140文字の制約があるため、実に11回!に分けてご本人が振り返りつつ分析されていた。お陰で、ビュワーの数が普段の10倍くらいになり大いに驚いた。

このようなお作法は良いのかどうか正直心もとないのだが、鈴木涼美さんの実際のツイートと主の返信、リツイートをコピーして、後半にアップさせていただいた。

おかげで、深く考えるきっかけを与えられたと思う。おそらく、女性の側からの体験をベースにしたこのような類書は極めて少ないと思う。AVやデリヘル、援助交際などを語った本は多数あるが、ほとんどすべてが男性の視点で書かれたバイアスがかかったものだ。その点、鈴木涼美が書くものは、さらに隠していることがあるのかどうかはわからないが、率直で正直に語っているように感じられ、新鮮だったのは間違いない。もっと、女性の視点が分からない男性の為にも、これから「夜の世界」へ行こうとしている女性への忠告としても、さらに掘り下げていってもらいたいと思う。

ただ、主が感じたことは幾つかあるので、以下に書いてみたいと思う。

順不同だが、最初に思うのは、鈴木涼美の経験の物語は、何と言っても恵まれている。「・・・さらに言えば、人間はポイント制なのであって・・」という彼女にしてみれば、学歴と顔面偏差値とFカップというポイントの高い私は、高い報酬をもらって当然と考えているのかと皮肉りたくなるし、現在、風俗関係の世界に乗り出そうという女性の環境は全く違うのではないか。

彼女は今33才で、15才のブルセラ売りに始まり、キャバ嬢、AV嬢となったわけだが、その間18年経っているわけで、景気はずっと長期低迷してきた。ようやく、デフレから脱出できるかどうかの萌芽が出てきたかというのがここ2、3年のことである。このデフレ脱出の芽の恩恵も、一部大企業の正社員に限ってあるかどうかという段階で、貧困層の低落傾向は少しも変わっていない。

AV出演料はずっと下がっていると思う。キャバ嬢の収入も当時と比べると、今ではずっと下がっているのではないか。それに大きな差は、鈴木涼美の場合、AV作品はモザイクの入った合法品だろう。インターネットによる海外経由、モザイクなしの裏ビデオの出演料は、1本5万円と言われる。この搾取100%の裏ビデオの深刻さは、鈴木涼美の苦悩とは異質なもので、個人の親バレ、会社バレにより社会的制裁を受けた生きにくさの問題というだけでなく、はるかに社会問題ではないか。社会からリベンジされても、文句をいうことができない。恋人によるリベンジポルノは、文句を言う相手がいるが、5万円で出演を承諾した裏ビデオは、自分で自分を切り刻んでいるようなものだ。せめて、大金が得られるのであれば逃げ道があるが、その道もないのではないか。

かたやで、食事デートだけで月50万円 NHKが若い女性の「パパ活」に迫ったという記事もあり、そうした現実もあるのだろう。しかし、多くの女性の売春(援助交際)のリアルな相場は、1万5千円~2万円あたりであり、鈴木涼美が本で書く値段(1時間5万円とかオショックス〔お食事とセックス〕6万円)とは雲泥の差だ。女性を買う男性の年収が2000万円で、1月に20日間働くとすれば、日給は8万3千円となり、彼にとって売春の相場は大した負担ではない。会社の経営者や役員であれば、もっと収入は多いだろうし、その場合、もっと負担感は少ないだろう。

そして、売春する側の女性の収入は1日に2人客をとったとして、3万円という計算になるものの、毎日コンスタントに客を見つけるのは難しいだろう。この場合はデリヘルなどの風俗の従業員として働くのだろうが、手取りは、客が支払う額の半分ほどにしかならない。このため、倍の人数を相手にしなければ収入にならない。確かに、パパ活や高級交際クラブなど、高額で昔と相変わらず囲われている女性もいるだろうが、格差が広がった今、地方から都市へ出てきた女子学生、正社員であっても賃金が低い女性、シングルマザーやフリーターなど、それぞれに事情を抱えた女性が、生活のために売春したり風俗で働く時代だ。こちらは、心理分析している場合ではなく、未曽有の不平等社会の被害者ではないか。

それに価値観や相場観のまったくない未成年がもっと安い対価で、身体を売っているということも聞く。SNSを使って出会い系へと繰り出す少女もいるはずで、ハードルは限りなく下がっている。

主は、「人間は弱い存在であり、頭(理性)を保ちながら、AV嬢になったり、ホスト狂いしたりはできないということだ。特に20歳未満ではそうではないか。セックスの手練手管がうまいのは、AV男優、ホスト、ヤクザが浮かぶ。AV出演に支払われる対価は、基本的に、魂を男優に奪われたふりをすることか、実際に奪われた姿を撮影されるところにある。キャバ嬢・風俗嬢として男たちから得た収入や、多額のAV出演料は、よくある話のように、ブランド品の購入と、シャンパンタワーの泡となってホストに貢いで消える。ホストは、『夜の世界』に生きる嬢にとって不特定多数の男に体を開いた空虚感や屈辱を、はたまた、お金で埋めてくれる存在ではないのか。」と書いた。

だが、鈴木涼美がツイッターでいうように、「魂を男優に奪われる」という表現はたしかに曖昧で、食い違っていたようだ。

主が、「魂を男優に奪われる」と書いた意味は、画面を見る多くの男が感じている(錯覚している)もので、単純だった。すなわち、見ず知らずの男との性交にエクスタシーを感じる、あるいは、感じたように見せる、篭絡される、篭絡されたように振舞うのは、人間の尊厳を奪われ、自分を失うことであり、魂を奪われることではないか、そういう風に捉えていた。ホストについても、お金で雇った恋人モドキだと思っていたのだが、違うのだろう。

つまり、女性の鈴木涼美の側からの思いは全く違うようで、ツイートは、AVの現場で働く人やホストは悪い人ではなく、むしろ魂を削って仕事をしているのは彼らだと言う。「魂を奪ったり汚したりするのはホストや男優なんていうものよりずっと大きいものだと思う。まず、男優さんってAV職人さん(制作スタッフさん)の一部という印象が強く、彼ら自身がある意味で魂を削って現場にいる当事者でもあり、とても私は彼らに魂を売り渡していたとは思えないんですよね。では売り渡した先は誰だったのでしょうね。AV業界?視聴者?もっと広い世間?どれもある意味では正解ですが、それほどピンとくる答えではありません。」

むしろ、彼女はツイッターに「奪われた魂は今どこにあるのかはよくわかりませんが、わたし自身は、それを嘆き悲しむというよりは、あの狂騒は一体何だったのか、どうしてあんなに苦しいほど惹かれたのか、1ミリでいいからわかりたい、という気持ちの方が少し強い。ので、色々なアプローチでその作業をしていきたいと思ってます。」と書く。魂を奪われたという感覚はなく、「狂騒」に駆り立てられたのは「一体何だったのか」と訝しがり、「苦しいほど惹かれた」理由が1ミリも分からないという感覚らしい。この理由は、本人のアプローチで見つけて発信してもらうしかないが、男が見ているものとは違うということだろう。

彼女は「おじさんメモリアル」で「100円玉で買えるぬくもりは100円ないと買えない」と面白い表現をしているのだが、結局、売り手の女(と仲間たち)と買い手の男が売買しているのは、同じようでも、双方で違って解釈されるものであり、値段分の「錯覚」や「幻想」のような気がする。

飛躍するが、生物学的に考えると、ヒトは隠れてセックスする動物であり、公然とセックスする動物であればAVという商売は成立しない。ゴリラやチンパンジーのペニスは3センチしかない。ヒトは、生殖だけの機能だけでない、不必要な長さのペニスやヴァギナを持つように進化してきた。子孫を残すという観点から考えると、発情期以外にセックスするという、無駄にエネルギーを消費する生物はヒトだけだ。遺伝子を残すというプログラムは生き物全般にインプリントされているのは間違いないが、そこに「快楽」という余剰を伴っているのはヒトだけだ。

この余剰は余剰ではなくなってきて、生殖よりも快楽の方が本来の目的のようになったのが現代だと思う。ヒトの歴史がアフリカではじまり700万年、文明がメソポタミアで始まってわずか7000年ほどだが、飢餓状態から脱したのは何百年か前、文化的な生活ができるようになったのは、ここ数十年前からのことだろう。

このセックス(結婚)の形態だが、一夫一婦制というのは明らかに歴史が短く、人類史から見るとごく最近のことである。何百万年の間、人間の性は試行錯誤を繰り返し、乱婚や一夫多妻などの時代を経ている。そうした中で、女性と男性にとっても、遺伝子を残したいという本能は同じでも、女性が一生のうちに産める子供の数は多くて10人だが、男性が産める数は、千人の子供を作った王がいるほど多い。この違いは次の矛盾を常にはらむ。男は遺伝子を残すため、広く乱婚し精子をあちこちへとばら撒きたい。女は、優秀な男の遺伝子を選んで残したい。ところが、ヒトの子供の養育には10年以上、庇護を必要とする期間を要するという問題、前提がある。

こうした長い歴史の中では、夫が他の男に殺されるということはしばしばあった。自分の遺伝子を残すという観点から、新しい男にとって、妻が産んだ前夫の子供を新しい夫が殺し、後に妻に自分の子供を産ませるのは正しい戦略となる。だが、この男の戦略は、子供を産める数に制限がある妻にとっては、許容できない。このため、生物進化学者のジャレド・ダイヤモンドは、ヒトの女性は排卵を隠すことで、子供が誰の子供かを男にわからなくし、男の性行為を普段から受け入れることで、男にとって子供が自分の子供だと思わせることで、子殺しを防ぎ、養育に協力させるという進化の過程をたどったと考えている。

この余剰を、不倫をしている男女やAV俳優だけが多く享受していると思われているならば、一夫一婦制で満足している、満足しているふりをしている大衆には、認めがたいし、許しがたいだろう。なにしろ、一夫一婦制は歴史がごく浅く、我々の本能に染みついているというより、教育で刷り込まれた(共同幻想の)効果に頼っているだけであり、人間の長い歴史の生物としての本能が、時として顔を出す。そうした抑圧された気分が隠されている限り、AV嬢に対するバッシングは続くだろう。そしてそのバッシングは、出演料の中に対価として含まれているのだろう。だが前に書いたように、希少性が薄れたことで、対価が見合っていないほど安くなった今、出演者の女性は後悔先に立たずで哀れな気がしてならない。それを利用する側も心無いが。

いや、この結論は男の論理であり、女性にとってはいくら対価が安くても、AV出演自体は、後悔などするという性質のものではないのかもしれない。後悔するのは、社会からリベンジされた場合だけということなのかもしれない。

思いっきり歯切れの悪い結論になってしまったが、 おしまい

 

→魂を奪ったり汚したりするのはホストや男優なんていうものよりずっと大きいものだと思う。まず、男優さんってAV職人さん(制作スタッフさん)の一部という印象が強く、彼ら自身がある意味で魂を削って現場にいる当事者でもあり、とても私は彼らに魂を売り渡していたとは思えないんですよね。

→では売り渡した先は誰だったのでしょうね。AV業界?視聴者?もっと広い世間?どれもある意味では正解ですが、それほどピンとくる答えではありません。ブルセラでパンツを買ったのはマジックミラーの向こう側のおじさんたちですが、わたしの魂を奪ったものがあるとしたら、彼らだったのでしょうか?

→それは主さんの言葉を借りれば私がからめとられた夜の世界の吸引力とも関係する問題でしょう。確かに私は一般的な意味での善悪の区別や、越えるべきでない一線が見えなくなるくらいには、そちらの世界の価値観に侵食されていたと思うし、それは魅力と言うこともできるけど、罠や怖さでもあります。

→奪われた魂は今どこにあるのかはよくわかりませんが、わたし自身は、それを嘆き悲しむというよりは、あの狂騒は一体何だったのか、どうしてあんなに苦しいほど惹かれたのか、1ミリでいいからわかりたい、という気持ちの方が少し強い。ので、色々なアプローチでその作業をしていきたいと思ってます。

「AV女優の社会学」のようなストレートな論文アプローチが届く箇所もあれば、ひたすら空気感を再現しようとした「身体を売ったら〜」が届くこともあると幾ばくかは信じます。「愛と子宮〜」「おじさんメモリアル」のように親や客なの女の子の内面以外の周縁から攻めるのも私としては面白い作業です。

もちろん、ヤクザ的なものに騙されただけ、と言ってしまえる部分もありますが、それだけで自分がピンとくるほど説明できないところがまだある、というのが一つの執筆動機であるわけです。最初の撮影の次の月に、事務所の二階で手渡された90万円の封筒の重みは何の重みだったのか。

その答えは毎秒変わります。可愛いから100万円もらえると思った時期も、勇気があるから100万円もらえると思った時期も、一生「元AV女優」としてしか生きるのを許されないことに払われたとも、親を傷つける代償と思った時も、彼氏に殴られることへの100万円だったと思ったこともあります。

少なくとも、私は私があの日に事務所の二階で桃の天然水のペットボトルを灰皿にしながら片手で100万円受け取ったことで、今、自分を愛してくれたり自分が傷つけたくないと思ったりする相手に、嫌な思いをさせたり恥ずかしい思いをさせたり悩ませたりするかもしれないという事実と共に生きています。

その事実は忘れた瞬間に思い出されるし、常に思っているようでしょっちゅう忘れてますが、そういったことへの責任として気づいたことは書き留め、書くことでまた考えることはやめないでいようと思ってます。私が今いる場所は、当初の能天気な私が想像していたよりも厳しいけれど、意外と幸せだし、

自分の記憶を起点にして何か言葉を探していく人生は、それほど辛いことではありません。 今の所、AV出たいんです、と相談してくる後輩たちに対して、それを引き止める言葉を私は持っていません。10年後の彼氏に、ごめんねって言いながら出なね、くらいは言えるけど。

 

 

「身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論」鈴木涼美 

「おじさんメモリアル」(鈴木涼美)が結構面白かったので、続いて、幻冬舎文庫「身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論」を読んでみた。下に予告編のリンクを貼ったが、こちらは、2017年7月に映画化もされている。主は、ずいぶん、宣伝に貢献しているなと思う・・・(*注:正直に告白すると、この本は途中で嫌になったので半分程度しか読んでいない。しっかり読むと意味が違ってくるかもしれません!)

こちら、本の方

例によってアマゾンの要約を紹介しよう。

【内容紹介】
もしもかつて自分が体を売っていたことが彼氏にばれたら、そのとき彼氏はどうなる? 「お乳は生きるための筋肉」と語る夜のおねえさんの超恋愛論
Fカップ。両親とも大学教員、実家は鎌倉、絵に描いたようなお嬢様。慶応SFCから東京大学大学院を卒業後、日本を代表する新聞社で働いてもみた。その他もろもろの経験も豊富すぎるほど豊富、収入もまあまあある。でもでもでも、全然幸せじゃない! なぜ? 恋で得たものと、恋で失ったものをひとつずつあげていけば、確実に後者が前者を凌駕する。まわりの夜のおねえさん方(水商売をやる女性)や昼のおねえさん方(OLとか)を見渡せば、不思議とそんな方々ばかり。みんな恋愛でほんとうに幸せになれるのか。本当の幸せって何? オカネで買えない幸せなんかあるのか? 気鋭の社会学者が、考えつくありとあらゆることをやりまくって、女の幸せを考えた尽くした超恋愛論! !

【内容(「BOOK」データベースより)】
おカネで買えない愛はほしい。でもそんな退屈なものだけじゃ、満たされない。話題の書『「AV女優」の社会学』著者が赤裸々かつ健気に語る、ワタシたちの幸せの話。

【ここから主のコメント】

 アマゾンのコピーを読んでいると、社会学者の元AV嬢が超恋愛論を語っているように書かれているが、主の受け取り方は違った。

 「おじさんメモリアル」は、お金を出して女の娘を買う男の悲哀、おかしさが読んでいて面白かったのだが、学歴(一般常識や世間知)とAV(セックス、ホスト、性的刺激)の対立軸で考えた時に、AVの方が強く、彼女はそちらにからめとられただけではないかと感じる。

 たしかに、女性が普通に生きて一人の男と生活を共にして、つつがなく人生を終わることに、物足りなさがあることはわかる。15歳の高校生の時に、刺激的なブルセラ売りで、パンツを見知らぬ男に何度も売ったことを手始めに、キャバ嬢、AV嬢、風俗嬢として高収入を稼ぎながら、ホスト通いの生活にハマっていく。一方で、日経新聞の記者をやり、社会学者を名乗り、やがて2014年10月「週刊文春」に日本経済新聞記者の鈴木涼美(当時30才)が芸名・佐藤るりのAV嬢だとすっぱ抜かれる。彼女は、世間の厳しい目にさらされ、「十分に罰を受けた」と感じながら、年齢的なものもあるのだろう、文筆業へと転換し成功する。

 だが、主が感じるのは、人間は弱い存在であり、頭(理性)を保ちながら、AV嬢になったり、ホスト狂いしたりはできないということだ。特に20歳未満ではそうではないか。セックスの手練手管がうまいのは、AV男優、ホスト、ヤクザが浮かぶ。AV出演に支払われる対価は、基本的に、魂を男優に奪われたふりをすることか、実際に奪われた姿を撮影されるところにある。キャバ嬢・風俗嬢として男たちから得た収入や、多額のAV出演料は、よくある話のように、ブランド品の購入と、シャンパンタワーの泡となってホストに貢いで消える。ホストは、「夜の世界」に生きる嬢にとって不特定多数の男に体を開いた空虚感や屈辱を、はたまた、お金で埋めてくれる存在ではないのか。無目的に贅沢な生活をしていると言えばずいぶん聞こえがいいが、実際はヤクザに性的にからめとられたのと同様に、AVビデオへに何度も出演するように都合よくマインドコントロールされたオンナに過ぎないのではないか。

 書いている内容が、ストレートで刺激的だが、社会学的なところはほとんどない。これは売らんかなのエッセーであり、論文は違うのかもしれないが・・。この本の帯に書いてあるのだが、言っていることを要すれば、ブランド品で身を包みたい、退屈はイヤ、「お金をもらって愛され、お金を払って愛する夜の世界へ出ていかずにいられない」、AV出演が親バレ、会社バレ、学校バレして、身が引き裂かれてしまったというところでしかないのではないか。

 AV出演がバッシングされるのは、昨今の不倫騒動と同じ根っこだろう。不倫はそこら中に存在するが、公認すると社会のレーゾンデートルが崩れる。もし、AV出演がすべての女性に推奨される事態となれば、社会規範は転覆し、やはりこれを許すわけにはいかないだろう。どちらの背景にも「快楽」が横たわっており、外野席の人たちの妬み、嫉み、嫉妬は異常に大きい。バッシングが、激しくなるのは当然だろう。

 要は、東大院卒とか日経新聞記者だった過去はあるものの、AV男優、ホストの性的な魅力に屈し、その快楽が平凡な日常より楽しいという話の域を出ていない。たまたま、高学歴だったのでその話が売れただけではないか。当然と言われそうだが、日常生活と性的な快楽を比べた善悪の問題ではなさそうだ。(どんな華々しい恋愛でスタートしても、確かに平凡な日常生活が3年すれば色褪せる宿命は不可避だが・・)鈴木涼美は、才色兼備で金銭的に恵まれている。しかし現実は、彼女のように恵まれないで夜の世界に生きる嬢たちの方が多いし、こちらの方が問題なのではないかと思う。

おしまい

 

ベートーヴェン・ピアノソナタ”テンペスト”聴き比べ 辻井伸行 vs グールド vs グルダ 

辻井伸行(29歳・1988~)は、2005年(17歳)にショパンコンクールで批評家賞、2009年(21歳)にヴァン・クラインバーン国際ピアノコンクールで優勝した。この優勝は、全盲のピアニストであることもあり大きく取り上げられ、お母さんがたいそう喜ばれていたのが印象的だった。父親は産婦人科医である。元アナウンサーのお母さんが、全盲の我が子を案じながら、音楽の才能に早くから気付き、英才教育を施した。やがて、猛烈なステージママとなり、有名コンサートの優勝に向かって二人三脚で努力してきたNHKの放送を見た記憶がある。

主は、辻井伸行が、お師匠さんの手ほどきした弾き方を目が見えないため単純になぞっているような印象を放送から持っていた。このため彼の演奏は、完全に「聴かず嫌い」だった。ただ、彼の出すピアノの音色は、シャープで澄んだ綺麗な音だとは思っていた。

だが、たまたまピアノ好きの知人から、ベートーヴェンのテンペスト、ショパンの英雄ソナタやムソルグスキーの展覧会の絵など、とてもいい演奏だということを聞いた。実際にYOUTUBEで聴いてみたら、他の日本人ピアニストとは異質のレベルの高さだとすぐに気が付いた。

コンサート情報などが載っている雑誌を主はよく見るのだが、辻井伸行のコンサート情報は全然宣伝していない。多分、宣伝する必要がないほどに売れているのだろうなとは思っていた。クラシック人気が凋落して久しいが、レンタルCDショップでは、辻井伸行のCDはほとんど並んでるのではないかというほど多数のCDが並んでおり、彼の人気ぶりが窺える。

実際、チケットの売れ行きはすさまじいようで、東京や大阪などの都会ではすぐに売り切れ、プレミアをつけてネットで転売され、地方公演ならやっと取れるかどうかという状況だ。また彼は、毎週のように全国をコンサートツアーで巡っている。コンサートのプログラムを見ると、作曲もするようで、自作曲が相当含まれる。グールドファンの主としては、グールドがコンサートツアーが嫌でツアーを引退し、スタジオに籠った経緯があるので、辻井伸行が全国ツアーをいつも巡っていると音楽生命を消耗してしまうのではないか心配になる。

さて、世界の巨匠(グレン・グールド(カナダ・1932-1982)とフリードリヒ・グルダ(オーストリア・1930-2000))と比べるのはちょっと無理があるとも思うが、ベートーヴェンのピアノソナタ17番”テンペスト”の第3楽章の録音で比べてみたい。いずれもYOUTUBEからリンクだが、この第3楽章は、とっつきやすい曲で、非常に聴きやすく心地よい。

なお、グールドの演奏は、1960年10月にCBCテレビ(カナダ放送協会)で放送されたものと思われる。約60年前のものであり、白黒だし録音状態が良くない分不利だ。別にレコードでは、1971年8月に録音したものが発売されており、こちらはかなり録音が良いのだが、YOUTUBEにはアップされていないようだった。フリードリヒ・グルダの演奏は1968年にアマデオというレーベルから発売されてたもので、こちらもかなり古い。辻井伸行の演奏は、2012年の録音なので、他の二つとは完全に異質の録音のレベルだ。最近の録音は、iPodなど安い機器で聴いても十分に美しい音がする。

まずは、辻井伸行から。彼の演奏を聴いて驚くのは何といっても、曲全体の構成がしっかりしていて、それを貫き通す力があるところだろう。日本人のピアニストの場合、一定の意図したテンポを守れないことが多い。もちろん好きなようにルバート(自由にテンポを変えること)していいのだが、自己陶酔だけではリスナーは不愉快だし、ましてテクニックがないためにリズムが揺れてしまうとすぐわかる。その点、辻井伸行はテクニックに裏打ちされた構成力を見せる。また、曲の表情の変化のつけ方もうまい。強弱、レガート、ノンレガートなど弾き方を意図しながら自在に変え、聴くものを飽きさせず愉しませる。アーティキュレーション(フレージング)も自然で、正統派の弾き方なのだろうと思う。

次は主が一番好きなグレン・グールド。録音が古く、おそらくモノラル録音で、小さい音量で録音されているのが残念だが、グールドの力量は十分に分かる見事な演奏だ。この曲は、バッハ以前の曲のようにポリフォニック(複旋律的)ではないが、彼の演奏は、高音部のメロディのみが目立つ演奏とは違い、他の声部も同様に存在感がある。メロディーと伴奏ではなく、複数のメロディーが入れ代わりながら、並走するところに妙味がある。このために、「低音部を強調しますね」と評される。正確なリズム、一音一音の粒立ちの良さ、コントロールされた強弱、10本の指のレガート、ノンレガートの弾き分け、慈しむようなタッチ、決して爆発し暴力的にならないフォルテッシモ。グールドを普段聴いていると、他のピアニストの演奏は、「乱暴!」とか「楽天主義!」「単細胞!」という風に感じてしまう。

グールドのタッチは、フィンガータッピングという特殊な奏法だ。指が鍵盤を押さえた時に、力を抜くと指は自動的にバネのように戻ろうとする。この反作用を徹底的にチリ人ピアニストのゲレーロに叩きこまれ、先生のレベルを超えたのがグールドだ。だが、この奏法は爆発的な大音量を出せない。現代奏法、特にロマン派の曲の演奏では、この爆発する大音量のフォルティシモは、ピアニッシモとともに不可欠な奏法だが、グールドには出せないものだ。これがグールドがロマン派の曲をほとんど演奏しない大きな理由だろう。

最後にフリードリヒ・グルダ。このピアニストは、裸でステージへ上がったり、ジャズへと走った時期もあるため、格調高いクラシックファンには好かれないのだが、オーストリア生まれで生粋のウイーン正統派どストライクの音楽家だ。ジャズに走ろうが、自作の現代曲をやろうが、どんなに崩しても、体の奥底にはクラシックウイーン正統派の精神が流れている。この流れるような美しい演奏は、何といってもピカイチだ。

だが、やはり高音部のメロディーとそれを支える左手の伴奏という感じがしてならない。また辻井もそうだが、フォルテッシモでは、グールドにはない爆発するような強音を出すことができる。指を鍵盤へと叩きつけるので、表現のダイナミックレンジ(強弱の差)が大きい。ただし、強弱の烈しさによりドキッとさせられ、感動し、美しく聴きやすい。

時代がポリフォニー(複旋律)からモノフォニー(単旋律)へと移ったように、われわれの耳はメロディーと伴奏・和音の組み合わせが聴きやすいのはたしかだ。だが、ジャズバンドのようにいろんなメロディーを同時に聴くのは、メロディーの丁々発止の掛け合いが喚起する非常に楽しい感覚だと思うのだが・・・

おしまい

 

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