「グレン・グールド、音楽、精神」ジェフリー・ペイザント 訳:宮澤淳一 音楽の友社2007年

上の写真の「グレン・グールド、音楽、精神」(ジェフリー・ペイザント 宮澤淳一訳 音楽之友社)は、グールドの生前に書かれた、世界最初の単行本である。これは非常に良い本だった。内容の方は、あまりに盛りだくさんなため紹介しないが、主には新しい発見が山のようにあった。加えると、遅まきながらで申し訳ないが、おそらく、グールド好きならまず押さえるべき最初の本だと思う。

ここでは、この本の出版と再版の経緯や、気づいたことを書きたいと思う。

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ジェフリー・ペイザント(1926-2004)は、本書の裏に書かれている略歴によると、カナダ東部のハリファックス生まれで、トロント大学で博士号をを取得し、長年同大学哲学部で美学を講ずるとある。グールドとは、ゴールドベルグ変奏曲が発売された1956年の秋にグールドに論文を依頼したことが、二人の交流の最初である。その後は、会えば挨拶を交わす程度で、密接な関係ではなかったようだが、おひざ元のトロントでグールドの活躍を間近で見ていたはずだ。

次に、ペイザントがこの本を書こうと思った動機。彼は、第6版(第6版はグールドの死後になる)の前書きに次のように書いている。「・・・当時のグールドは、自分の(ときに奇妙な)考えをエッセイや各種メディアの台本の形で公表し始めてから、すでに20年を費やしていた。著作は恐るべき量にのぼっていたわけだが、数名の評者に嘲弄されたのを除けば、ほとんど無視されてきたし、著作全体が厳密に検討されたためしは一度もなかった。このギャップを埋めたい。それが本書を書いた動機である」

グールドの死は1982年だが、初出版は、生前の1978年春である。ペイザントが着手した時期は、宮澤淳一氏のあとがきによると1974年9月からで、ペイザントは、執筆にあたって自ら4つの制約というか条件を課していた。すなわち、①執筆は公にされたものを題材にする ②グールドと出版まで会わない ③グールドは原稿を見ることができ、中止させる権利がある ④事実関係の確認にグールドが応じる というのがそれだ。

この4条件の結果、グールド自身が驚くほどの明晰な分析となっており、グールドが亡くなる直前に「あなたの本が私を変えた」と語るほど、読者のみならずグールド本人に、影響を与えたということが非常に興味深い。宮澤氏は、あとがきで次のように書いている。「(グールドが)分析され、肯定され、高められた自分と対峙することで、何かに気づいてしまったのであろうか」

グールドの演奏は、ほとんど常に高く評価された。ただし、もちろん『正統派』の人たちは常に批判したのだが、グールドの演奏に心酔し、救われたファンのほうが圧倒的に多い。

他方、彼の発言や著作がメディアで取り上げられた場合、それには、時として厳密な一貫性がなかったり、部分的に冗談があったり、奇妙だったり常識外れな面が、一部とはいいながら、あるのは間違いなかった。このため、専門家や評論家からは、良くてバッシング、ほとんどの場合は無視されるのが常だった。一方で、ヒポコンデリー(心気症)で薬物依存症のグールドには、そうした批判や無視は耐えがたかったはずだ。そうした位置に置かれたグールドを、ペイザントが一から丁寧、真剣に、是々非々、かつ大局的にこれまでの発言や著作を解釈し直したことにより、彼自身が整理できていなかった矛盾点を、整理できたのではないか。

ペイザントは原稿を書き上げた時に、二つの出版社と交渉する。一つは、アメリカの大学の出版局、もう一つは一般向けの出版社だった。ペイザントは一般向けの出版社を選ぶのだが、「これは原稿に手を入れて、哲学や心理学の調子を抑えることを意味していた」と書いているように、編集者から、哲学や心理学は一般向けではないと判断され、省かれているからだ。おかげで、最初の出版は、読みやすいものとなっている。そのせいがあるのかもしれないが、この本はベストセラーとなった。

その後カナダでは、出版社が何度か潰れたこともあって、1984年に新版が出されることになり、これまで割愛されていた部分が補遺Aとなって、新版に加えられた。日本では1981年に「グレン・グールド – なぜコンサートを開かないか」というタイトルで音楽之友社から翻訳出版されロングセラーとなるのだが、2007年に翻訳者が宮澤淳一氏に代わり、氏が集められたペイザントの論文を新たに加えた補遺Bも加わり、新訳・増補版が出された。

こうしたことから、この本は「日本の読者へ」で始まり、「前書き」が3つあり、「後書き」が2つ、「訳者あとがき」があり、本文の他に、補遺A、補遺B、注、文献目録、ディスコグラフィーA,B、があるという盛沢山さである。注釈など非常に厳密なものであり、これを辿っていけば原典に容易にあたることができるだろう。本文もさることながら、補遺もとても読みごたえがある。帯に書かれているとおり、「今なおグールド研究の最良の基本書」だ。

おしまい

グレン・グールド・ギャザリング その4 宮澤淳一さんのトークショー

12月15日(金)に行われたグレン・グールド・ギャザリング(Glenn Gould Gathering = GGG)の一環で行われた宮澤淳一さんのトークショーのことを書いてみたい。宮澤さんは、ライブに先立ち、13日~14日にカナダ大使館で上映されたグールドに関連する映画5本すべての解説をされた。ご自身でも、吉田秀和賞を受賞した「グレン・グールド論」(2004年 春秋社)を書かれている。また、今年でグレン・グールドに関する書物は、85冊が刊行されているとのことだが、日本語に翻訳されたものの半分は、宮澤さんが翻訳されていると思う。また映画など映像の字幕の翻訳は、ほぼすべて宮澤さんが監修されているのではないか。日本のグールド研究の第一人者であるだけではなく、世界の第一人者だ。

では、メインイベントの宮澤さんから伺ったお話の主なところを紹介しよう。下が、トークショーが行われた会場の様子だが、開始時には満席になっていた。

まず最初に、おっしゃっていたのは、クラシック音楽の特殊性あるいは伝統のことだ。つまり、クラシック音楽は、ずっと作曲者が一番偉くて、演奏者は下。聴衆はさらに下という歴史があった。(この言い方は、ちょっとデフォルメがあると思うが、喩えとしては分かりやすい)。作曲者が王で、演奏者は家来、聴衆は臣民という位置づけで、仮に作曲者がなくなっても、演奏者は作曲家のことを尊重するのは自明のことだ。(そういう教育が音楽大学でずっと行われてきたはずだ)。それが、曲の言い表し方に端的に表れている。クラシックでは、誰が演奏しようと作曲者と曲名が表記される。例えば、「ベートーヴェンの交響曲第5番」と言われる。付随的に、バーンスタイン指揮、ニューヨークフィルというのが説明的に出てくるが、曲名はあくまで「ベートーヴェンの交響曲第5番」だ。これが、ポピュラーやジャズ、歌謡曲であれば、「マイルス・デイヴィスのカインド・オブ・ブルー」がタイトルになり、そのものズバリである。

ところが、グレン・グールドは正統的なクラシックの演奏家とはまったく違った。ケヴィン・バザーナが「グレン・グールド演奏術」で明らかにしているように、グールドは音程と長さは守っているものの、それ以外のテンポ、強弱、アーティキュレーション(フレーズの作り方)、装飾音、反復記号など、作曲家の指示があっても自分の考えを優先し、囚われていない。さらには、モーツァルトのピアノソナタなどで低音部に音符を足して、低音部に別のメロディーラインを作っている。これが、「再」作曲家と言われる所以だ。

映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」で、不倫関係にあったコーネリア・フォスが、グールドのバッハ演奏を次のようにいう。 : 「グレンの演奏は、いわば楽曲を組みなおした感じね。分解した時計を元どおりでなく別の形にしたのよ。時計は動くけど全く異質のものになった。音楽に対する前例のない画期的なアプローチだったわ。私はあまり好きじゃない。バッハの良さが台無しだと思った。でも音楽家は衝撃を受けたでしょうね。演奏技術はすばらしかったわ。見事だった」

同じ映画でチェリストのフレッド・シェリーはいう。 : 「作品と作曲家の内面に侵入し、その反対側に突き出た。作曲者に対する共感を通り越し、作品を完全に乗っ取っていたと思う。自分の個性に塗り替えたんだ」

グールドが、このような演奏態度をとった理由をいくつか宮澤さんは上げられていた。そのうちの大きなものとして、グールドは作曲家でもあったことを指摘されている。すなわち、グールドがニューヨークでデビューし、コロンビアレコードと専属契約した1955年は当時22歳で、「ゴールドベルグ変奏曲」を録音した時期でもあるが、「作品1番 弦楽四重奏曲」を完成した時期でもあった。こうした彼は、他の作曲家が書いた楽譜を作曲家である自分の目で見ていた。こうした態度をとるクラシックの演奏家は、他にまったくいないわけではないが、ここまで徹底した態度をとり、それが説得力を持ったのはグレン・グールドだけだろう。

そうしたグールドは、レコードが爆発的に売れ、一夜にして世界一流のピアニストになった。そのため、世界中を演奏旅行する期間が1964年(32歳)まであった。その後は、よく知られているようにスタジオから自分の「再」作曲家としての試みで挑戦を続け、彼本来の作曲活動は、結果的に十分にできなかった。

こう言われると、彼の特異な演奏については「やっぱり、そうだったんだ!!具体的な証拠があるのね!」という風に感じる。

ところで、カナダ大使館は巨大だった。上の3枚の写真は、カナダ大使館の外側から撮ったもの、4階のロビーへ向かうエスカレータ、地下2階にある、GGGの映画が上映されたオスカー・ピーターソンホールの入り口受付の写真だ。カナダ大使館は実にでかい!欧米の大使館は、ずいぶん立派だと思う。日本の海外の大使館と、比べ物にならない。いろいろ税金を使っている関係で、あれこれ言われるのだろうが、この大使館をみていると日本ももう少し頑張ってもいいような気がする。

おしまい

グレン・グールド・ギャザリング その3 ライブ(坂本龍一、フランチェスコ・トリスターノ)

12月13日(水)~12月17日(日)、グールドへのオマージュ(尊敬)というべきグレン・グールド・ギャザリング(Glenn Gould Gathering = GGG)という催しが開かれている。そのメインとなるのが草月ホール(青山一丁目)で行われている坂本龍一、フランチェスコ・トリスターノ、アルヴァ・ノト、リクスチャン・フェネスによるライブである。

この催しは、グールドの関連映画の上映や、グールドにまつわるトークショーとライブがあり、キュレーター(展覧会を企画する人)が、坂本龍一氏である。主は、9月頃に先行予約のチケットをとろうとしたのだが、抽選にはずれて全く取れなかった。そのため、一般販売が始まる時刻をカウントダウンしながら待ち、宮澤淳一氏によるトークショー(1,500円)とライブ(8,500円)のチケットをようやく1枚ずつだけ手に入れることができた。3日あるトークショーの他の日のチケットも取りたかったのだが、次につながった時には、すでに売り切れで買えなかった。グレン・グールドは没後35年で、主はこれほど人気のあるプログラムだとは思っていなかった。

ところで、下の写真は草月ホールの入り口すぐのGGGのパネルを撮った写真だ。

こちらが12月15日(金)、草月ホールのライブ会場の様子。写真では空席があるが、実際は満席になった。スクリーンにグールドが生きた時代のカナダの様子などが写されていた。演奏が始まると、抽象的な画像になるのだが、昔懐かしい大阪万博を思い出した。リーフレットには、「還元主義」「実験音楽」「ビジュアル」「独特な世界観」「概念的」「クラシックと電子音楽の融合」という言葉が並び、全くその通りなのだが、こうした種類の音楽は何十年も前からある音楽で、主は一言で言えば、「環境音楽」という言葉を想起した。

冒頭は、バッハの「フーガの技法」から未完となった最終第14曲、主がとても好きな部分を、坂本龍一が照明の落ちたステージで静かに演奏した。これでいやがおうにも主の期待が高まったのであるが、約2時間ずっとだらだら演奏が続き、途中、バッハ以前の作曲家であるバードだったか、ギボンズだったかの曲がアコースティックピアノで演奏された時と、現代ジャズ風に盛り上がった時だけ、「いいな!これからどうなるのだろう!?」と思ったが、基本的に誰かのオマージュ(芸術や文学において、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事)というのは難しいものだと感じさせられた。CDでもグールドのオマージュ作品が、何点か出ているのだが成功しているものは少ない。なお、氏はオマージュという言葉は使わないで、「リモデル/リワークを披露する」という表現をしている。

また、主はこのライブに先立ち宮沢淳一さんのトークショーを聞いたのだが、その中でグールドの作曲したものを何曲か披露するとの情報があった。そのためそれを期待をしていたのだが、実際のライブではそのようなことはなく非常に残念だった。

ただ、この一連の催しは、坂本龍一氏の人気や評価に大いにあやかっていることは間違いない。これだけ人を集められたのは、彼の功績だ。また、演奏後には観客の非常に大きな拍手が起こり、この種の音楽を好きな人には良い演奏会だったのだろう。

また、同じ3日間の日程で、草月会館の入り口のプラザでカナダ人でグールドに影響を受けたコンポーザーのLoscilが、スペシャルライブを行った。写真はその様子である。このプラザは非常に大きな空間なのだが、草月流の生け花を感じさせる、巨石で構成されたバブリーな作りで、近くに行ったならこれだけでも見に行く価値のある場所だ。

写真に写っている観客は少なく見えるが、実際はかなり盛況だった。主がおそらくグールドの映画の中で見たのだと思うが、彼に影響を受け、新しいものを作っているLoscilの姿を見たことがある。結構ユニークな人だったように思う。惜しむらくは、時間の都合で主がちらっと前を通り過ぎただけだったことだ。

おしまい

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