エブリバディ・ノウズ【日本病】「国債を刷れ 廣宮孝信」& MMT (現代貨幣理論)

「通貨発行益」のことを知ろうと、よく行く図書館で「国債」をキーワードに検索してみた。そこで、8冊出てきたのだが、そのうちの1冊に「国債を刷れ」(廣宮孝信 彩図社)という本が出てきた。

何を知りたいのかというと、日本では借金の残高1300兆円を超え、財政再建のために税金を集めて、借金返済をしなければならないというのが緊急の課題と、マスコミや政府が言うからだ。

一部であるが、「そうではない、日本の財政は健全だ。国債発行残高が高すぎるということはない。財政再建よりも、景気浮揚が先決だ」という経済学者もいる。具体的気に名前をあげれば、高橋洋一、森永卓郎の名が浮かぶ。

高橋洋一や森永卓郎が、日本はそれほど借金漬けでないという根拠として、政府と日本銀行のバランスシートと統合すると、資産の部の方が大きいという。下の図は、高橋洋一の「99%の日本人がわかっていない国債の真実」(あさ出版)という本から写したものだ。画の上段が、政府だけのB/S(バランスシート)であり、下が日銀を統合したB/Sである。(クリックしていただくと、見やすくなります)

上図からわかることは、政府の資産が900兆円、国債の負債がが1350兆円である。日銀を統合すると下の図になり、日銀の分が赤字で囲ったところだと思われる。日銀が保有する国債が400兆円で資産の部、それに対して日銀券(お札)を400兆円渡しているのが負債の「銀行券等」だ。緑で囲ったのが、徴税権750兆円となっているのだが、残念ながら高橋洋一は詳しくここのことろを説明していない。おそらく、政府には毎年の税収とは別に、徴税する権利を750兆円持っているということだろう。

ここで留意すべきは、下図の統合B/Sの負債の部、「銀行券等400兆円」に矢印のついた線が引かれており、「●実質的に債務でない ●利子負担なし ●償還負担なし」と書かかれている点だ。要するに、資産の部である「国債400兆円」に対し、負債の部に計上されている「銀行券等400兆円」(=国債購入のために刷ったお札)の実態は、返済を意味する性質のものではない、というのだ。

一方、主の危機感として、平成を振り返るトピックのNHKのニュースで、約30年前と現在の平均的家庭の所得を比較したものがあった。内容は、平均的家庭の所得水準は、30年前も今も約600万円で、報道の主眼は、貧困層(300万円以下)と1200万円を超える高所得者層が30年間で増え、中間層が減って格差が拡大しているというものだった。

このニュースを聴きながら、主は、格差のこともさることながら、30年間、平均所得が横ばいだったということの意味をNHKが、報道しないことに驚いた。30年間経過すれば、ほとんどの先進国の平均所得水準は、軽く倍以上になっているはずだ。中国やアジア諸国であれば、何十倍にもなっているだろう。そうしたなか30年間日本は全然変わらない、ここ数年人口減少しているとはいえ、30年前という長いスパンで比べると人口は若干増えているだろうから、その割合だけGDP(=一人当たりのGDP×人口)は微増ということだろう。この現象は、外国と比べると異様だ。

話を元に戻すと、高橋洋一も「国債を刷れ」の廣宮孝信も、言っている内容はほぼ近いものがある。ただ、高橋洋一は東大の理学部数学科を経て、経済学部の出身の元大蔵官僚である。経済を専攻して、言いにくいことをズバッというのがセールスポイントなのだが、数学的な説明を別にすると、やはり歯切れが悪い。逆に、廣宮孝信は、阪大の工学部電子工学科出身で、経済学の学位を持っていない。しかし、よく勉強しているようで、こちらの方が説得力がある。

かれが言うには、政府でも日銀でも、不換紙幣(兌換紙幣の反対で、政府なり日銀が紙幣発行に対し、義務を負わない紙幣)を発行するのは、江戸時代の通貨の改鋳、明治政府の太政官札発行など、普通におこなっていることで、すべて通貨発行益になる。悪性のインフレさえ起こさなければ、不換紙幣を刷って、景気を回復させよ、これがかれの主張だ。日銀や政府、学者は通貨の過剰発行は、第二次大戦敗戦後のハイパーインフレ同様になると、しきりに警告するのだが、その率は、たった300%で、ジンバブエやブラジル、ベネズエラなどの何万%というハイパーインフレと比べると極めて少なく、むしろすぐに日本はデフレ傾向になっているという。要するに、太平洋戦争のあとのインフレ率でさえ、300%で、困ったことになったのは、金持ちと企業が持っている債権の値打ちが1/3になったということで、大衆は、所得が増えればどうということもない。

この本を読んでいると、他の経済学者が書いたような、歯にモノが挟まった物言いではなく、明解だ。「通貨発行益」は、造幣局が発行する硬貨のみだと考える学者と、日銀が所有する国債や株式の利子や配当が国庫納付されるために、国庫納付金が「通貨発行益」と考える学者がメジャーだ。森永卓郎は、はっきりと通貨の発行自体を、「通貨発行益」と言うのだが、経済学者のなかでは、マイノリティーである。

いま日本で行われている国債発行は、政府が国債を発行し、日銀が直接引き受けると「国債発行が際限なくできる」という理由で、直接引き受けは認められていない。このため、政府が発行した国債を市中の金融機関が買い入れし、それを日銀が買い集めている。やっている中身は、日銀が直接引き受けているのと何も変わらない。

こうしてみると、日銀はマーケットが必要としている通貨供給しているのか、怪しい。こういう言い方をすると、通貨供給を増やしても、ヘリコプターからばら撒く訳には行かない、お金の借り手がそもそもいないのだ、という議論になる。そうではなく、それでは、この本のように政府が財政支出をもっとすればよいのだ。一部やろうとしているが、子育て、保育所もそうだし、何より、科学研究、社会福祉、ぼろぼろの学校校舎の建て替えなど課題は山積だ。直接の財政政策ではないが、最低賃金の大幅アップをやれば、公務員や、勤労者の給与も上がるだろう。廣宮孝信が言うように、極端なインフレさえ起らない範囲で、国債を刷って、貧困から抜け出さないとマズイ。

この本が書かれたのは2009年で、10年前だが、病状は徐々に悪化している。主が危惧するのは、日本がこのまま、財政再建を念仏のように唱えていると、国債を外人が買うようになる時代がくる。もうかなり来ているだろう。

そうなると、海外でハイパーインフレを起こした、ジンバブエやギリシャ、ブラジルのようになりかねない。バカな経済学者たちは、国債と為替がが暴落して、金利が暴騰するという。日本が、国力を今の調子で失えば、最後の最後はそうなる。その時に、主流派の学者が「それみたことか」となるのが恐ろしい。

単純に国債の残高だけを見て、「1350兆円もあるから、すぐに減らさないと」などといっているようではだめだ。例えば、ソフトバンクの負債が何兆円もあるのに、世間は高い評価を与えている。その理由は、負債の残高だけを見ているのではなく、相手科目の資産と、収益を見ているからに他ならない。負債の残高をグロスで見て、1350兆円と騒ぐのは、財務諸表の見方を知らない議論だ。 国の負債は、国民の資産のはずだ。 おまけに、国の借金は、企業よりさらに条件が良い。すなわち、通貨の発行権を持っているからだ。

こんな「基本のキ」の話、主流派の経済学者も気がついているんだろうが、言わないのだろうと思えて仕方がない。デフレ状況で、持てる者にとっては、資産の保全には何もしないことが一番良い方法だからだ。

廣宮孝信の分析に説得力があるのは、学位がないということが、それが妙な経済学の先入観やしがらみがないというメリットなのだろう。

世の中で幅を利かせているのは、法学部出身者、それも東大法学部出身者だろう。財務省のキャリアには法学部と経済学部出身者で差があり、法学部出身者が出世する。その経済オンチたちが「借金を次の世代に背負わせるな!」と間違った経済を語る。そう語ることで、かれらが握る「予算」のありがたみがまし、誰も逆らえなくなっている。

おしまい 参考:2013年に「国債を刷れ」の新装版が出ていた。

2019/5/25追記

最近の経済学の動向で、MMT(Modern Monetary Theory=現代貨幣理論)をよく耳にするようになった。MMTとは、端的に言えば、通貨を自国で発行している国では、国債の残高がいくらになろうと問題がなく、インフレになる前に、税額をアップさせればよいというドラスティックなものだ。

以下のリンクは、安達誠司がMMTを解説をしているものである。安達誠司は、リフレ派で主は高く評価している人物であり、著作も多いが非常に信用できるものを書いている。このMMTは、従来の経済学の枠組みから逸脱するものであり、当然ながら、安達誠司も懐疑的である。しかし、昨今、消費税を10%に上げるかどうか、政治の世界ではせめぎ合っており、幼稚園、保育園の無料化、低所得者層の大学奨学金の無償化などは、消費税のアップがこれらの財源とされており、消費税を上げずに財政出動する根拠にMMTが急浮上しているらしい。

本当におしまい

従兄と「元気なうちに」会ってきた 「クラス会」行ってきた

いろいろ書いているが、主もよい年になってきた。定年は4年前に済ませ、再任用だったり、嘱託で4年経過し、3月に退職していよいよ「サンデー毎日」の生活がはじまった。(親父ギャグすいまへん)

昨年より前から、大阪と千葉で離れて30年会っていない従兄と会いたいと話をしていた。主の女房は高校の同級生で、昨年、大阪へ我が家を代表してクラス会に出席していた。それで今年は、従兄の件もあるし、主の出番と思って旅費を払って大阪まで行ってきた。

大阪のクラス会は2年ぶりなのだが、ホテル代が異様に高騰していた。2年前に高いホテルへ泊まろうとした難波の「スイスホテル」のシングルは、2万5千円ほどと倍以上する。他も似たようなもので、アパホテルでさえ場所によって2万円近い。実際に新大阪駅についてみると、おおさか東線というのが開業していた。日本橋で入った地下街で、近鉄線が阪神なんば線を経由して神戸方面とつながっていた。京阪線は、淀屋橋が終着ではなく、中之島まで伸びていた。

定年退職した身、なるべく倹約しようと持っている切符だけで済まそうと、天王寺~難波間、翌日は淀屋橋~難波間を歩いた。この道中で、新世界のあたりも、外人旅行客が多く町もきれいになっていたし、日本橋は、東京の秋葉原のようなメイドカフェが立ち並び、コスプレ姿のメイドと中古のPCショップの客で賑やかだった。戎橋付近では、心斎橋筋のメインストリートより、脇道にそれた方が賑やかで人も多く、大阪を離れて10年ほどになる主は、すっかり方向感覚がなくなっていた。この賑やかさの何割かは、外人旅行客のおかげだろう。

30年ぶりの従兄との再会は、時間を感じさせないくらいに話も盛り上がった。従兄はマメに他のいとことも連絡を取っていたので、親戚の消息を詳しく知ることができた。従兄は78歳、主は64歳なのだが、最近のことはあまりうまく思い出せないくせに、昔のことなら記憶が蘇るものだと感心した。従兄と話をすると、出るわ、出るわ、昔のエピソードである。

クラス会の方も同じで、こちらは「病気自慢」の様相を呈した。主は、言わなくていいこと、むしろ、言わない方がよいことを、いろいろ言ってしまったのだが、いつものことである。

千日前あたりで宮根誠司の番組に使う《街頭インタビュー》を、ADらしき人のよさそうな一人の若者が、カメラを担ぎながら答えてくれる通行人を探していた。彼が放送したい内容は、「平成の失敗トーク」に対するコメントが欲しいようだった。「失敗トーク」には、石田純一の「不倫は文化」、森喜朗の「あの子、大事なときには必ず転ぶ」など20種類あるのだった。

若いADはなかなかインタビューに応じてくれる通行人を見つけられず、困り顔をしていた。酔っ払いである同級生の面々のうち男たちは「わし、宮根誠司、嫌いやねん!」とか「そんなんゆうたら、放送されへんやろ!」言っていたのだが、マドンナたち二人がマイクに向かって、どういう話の文脈かわからないのだが、「べったこでもええねん!頑張っただけで!!」と思いっきり大阪弁で力説するのが主の耳に入り、「ええこというやん!」と、納得したのであった。

おしまい

 

Sonyノイズ・キャンセリング・イヤホン or AKG K812 で聴く マリンバ奏者 加藤訓子 J.S.バッハ

主はすっかり《グレン・グールド親父》であるが、通勤の途上でソニーのスマホXperia Z3というちょっと古い機種を使い、2015年に購入したSONY ノイズキャンセリング搭載カナル型イヤホン(下の写真・4000円ほどだった)を使ってグールドを聴いていたのだが、なかなかいけると思っていた。これを使ってジュリアード弦楽四重奏団によるシューマンのピアノ五重奏(バーンスタイン)、ピアノ4重奏曲(グールド)を通勤途上で、聴き比べし結構感動した。電車のなかとか、歩きながらになるのだが、自宅のように気持ちよくなって寝てしまうことがない。

自宅では、Luxman L-550AXというアンプに、B&W 805D3というスピーカーというまあまあの値段の製品を使っているのだが、明らかにヘッドホンのAKG K812で聴く方が良い音がする。

これまで主は、どうもヘッドホンは、頭に圧迫感を感じるためあまり使っていなかったのだが、ヘッドホンの方がスピーカーより確実に良い音がすると思うようになってきた。このヘッドホンは、オープンエア型というタイプだ。ソニーのカナル型イヤホンは耳の穴に突っこむタイプであり、音源がその分が鼓膜に近い。距離が近い分、少ないパワーで駆動でき、その分安くても性能が良いのだろう。

主は、基本的にバッハは大好きなので、グールド以外の演奏もよく聴く。この加藤訓子はマリンバ奏者なのだが、このアルバムは、ビックリの芸術性の高さ!完成度の高さ!で、あの有名な平均律第1巻第1曲のプレリュード、無伴奏チェロ組曲第1,3,5番、リュートのための前奏曲、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1,2,3番が入っている。(ちなみにこのハイブリッドSACD・CDは、ホームページに「2017年リリースの「B A C H」は、リンレコーズの年間ベストアルバムに輝き、第10回CDショップ大賞2018クラシック部門を受賞する等、世界的にも大きな話題を呼んだ」と書かれている)

この演奏、おそらく叩き方を変えているのだろう。音色を変えたり強弱、アクセントを変えることでニュアンスをだし、飽きさせず、音楽性が高くてとてもいい。添付のライナーノーツには「エストニア、タルトゥ、ヤンニ教会にいる。相変わらずしつこい私は納得のいくまでレコーディングができることを幸せに思う。勿論苦しいのだが・・・」とあり、録音日を見ると、2015.9.1-11と2016.3.14-24とかなり長い日数をかけて録音しているのが分かり、「ああ、このひとはグールドと同じタイプなのかもしれない」と思ってしまった。というのも、グールドは、気が済むまでテイクをとり、つなぎ合わせて作品を完成させていたからだ。

この演奏だが、最初スピーカーで漫然と聞いたとき、実は、それほど良いとは思っていなかった。だが、ヘッドホンで聴いてみて、その良さを再発見した。恐縮なたとえで申し訳ないが、「生の演奏で聴けない演奏はない。下手でも生なら聴ける」と主は思っている。生の演奏には、スピーカーにない、楽器自体がだす音色の魅力が確実にあると思っている。

グールドは、「コンサートは死んだ」と言ったのだが、実際にはクラシック・コンサートは無くなっていない。クラシック音楽はあまり流行らなくありつつあるが、原因は他のところにあり、クラシック・コンサートは相変わらず盛況だ。とくに小中学生、アマチュア、市民楽団など草の根のコンサートは続くだろうし、根っこには、生の楽器のだす音色の魅力があると思う。

ところで、この加藤訓子の演奏、やはり音色の魅力が半分を占めており、イヤホンでもヘッドホンでもスピーカーでもよいが、ある程度のレベルの再生装置でないとその魅力を実感できないだろうと思う。安っぽい再生装置では、この良さはなかなか実感できないだろう。これは、他の演奏者にも言えることだ。商業化されている演奏の場合、良い音で再生して聴くと、その良さに感動する。だが、安物の再生装置ではなかなかそうはいかないと思う。

ホメているのか、けなしているのか?!ありきたりの結論になってしまったような・・・

おしまい

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