いろいろ書いているが、主もよい年になってきた。定年は4年前に済ませ、再任用だったり、嘱託で4年経過し、3月に退職していよいよ「サンデー毎日」の生活がはじまった。(親父ギャグすいまへん)
昨年より前から、大阪と千葉で離れて30年会っていない従兄と会いたいと話をしていた。主の女房は高校の同級生で、昨年、大阪へ我が家を代表してクラス会に出席していた。それで今年は、従兄の件もあるし、主の出番と思って旅費を払って大阪まで行ってきた。
大阪のクラス会は2年ぶりなのだが、ホテル代が異様に高騰していた。2年前に高いホテルへ泊まろうとした難波の「スイスホテル」のシングルは、2万5千円ほどと倍以上する。他も似たようなもので、アパホテルでさえ場所によって2万円近い。実際に新大阪駅についてみると、おおさか東線というのが開業していた。日本橋で入った地下街で、近鉄線が阪神なんば線を経由して神戸方面とつながっていた。京阪線は、淀屋橋が終着ではなく、中之島まで伸びていた。
定年退職した身、なるべく倹約しようと持っている切符だけで済まそうと、天王寺~難波間、翌日は淀屋橋~難波間を歩いた。この道中で、新世界のあたりも、外人旅行客が多く町もきれいになっていたし、日本橋は、東京の秋葉原のようなメイドカフェが立ち並び、コスプレ姿のメイドと中古のPCショップの客で賑やかだった。戎橋付近では、心斎橋筋のメインストリートより、脇道にそれた方が賑やかで人も多く、大阪を離れて10年ほどになる主は、すっかり方向感覚がなくなっていた。この賑やかさの何割かは、外人旅行客のおかげだろう。
30年ぶりの従兄との再会は、時間を感じさせないくらいに話も盛り上がった。従兄はマメに他のいとことも連絡を取っていたので、親戚の消息を詳しく知ることができた。従兄は78歳、主は64歳なのだが、最近のことはあまりうまく思い出せないくせに、昔のことなら記憶が蘇るものだと感心した。従兄と話をすると、出るわ、出るわ、昔のエピソードである。
クラス会の方も同じで、こちらは「病気自慢」の様相を呈した。主は、言わなくていいこと、むしろ、言わない方がよいことを、いろいろ言ってしまったのだが、いつものことである。
千日前あたりで宮根誠司の番組に使う《街頭インタビュー》を、ADらしき人のよさそうな一人の若者が、カメラを担ぎながら答えてくれる通行人を探していた。彼が放送したい内容は、「平成の失敗トーク」に対するコメントが欲しいようだった。「失敗トーク」には、石田純一の「不倫は文化」、森喜朗の「あの子、大事なときには必ず転ぶ」など20種類あるのだった。
若いADはなかなかインタビューに応じてくれる通行人を見つけられず、困り顔をしていた。酔っ払いである同級生の面々のうち男たちは「わし、宮根誠司、嫌いやねん!」とか「そんなんゆうたら、放送されへんやろ!」言っていたのだが、マドンナたち二人がマイクに向かって、どういう話の文脈かわからないのだが、「べったこでもええねん!頑張っただけで!!」と思いっきり大阪弁で力説するのが主の耳に入り、「ええこというやん!」と、納得したのであった。
おしまい