第3章 恋人バッチェンと新人ライター、シェンナー

カナダ建国100年記念切手。マクリーンズがフィーチャーされている。

2021/7/30 リライトしました。

カナダには、政治や文化を取り上げる『マクリーンズ』という雑誌があった。バハマの休暇から帰ってきたグールドは、この雑誌に特集されることになっていた。記者としてやってくるのは、グラディス・シェンナーという23歳の女性だった。年齢からすると経験が浅く、初の大仕事に意気込んでやってくるのだろうとグールドは思った。

グールドは、インタビューを受ける場所として、恋人であるバッチェンのアパートメントを指定した。

バッチェンは、彼より7歳年上でこのとき30歳だった。バッチェンは、ブルーグレイの才気溢れる瞳が印象的で、黒に近い茶髪のブルネットを長く広がるように伸ばし、小柄だがとても美しかった。二人は、映画や演劇、音楽、アニメなど、当時の前衛的な芸術に関心を持つ若者のグループで活動していた。バッチェンは、そのグループが作った前衛映画で、上流階級の女主人の美しいヒロインを演じ、メンバーからも慕われていた。実際の彼女は、田舎町の貧しい家庭の育ちで、バッハが何より好きで、将来ピアニストになる夢を持つ、明るく聡明な女性だった。グールドとバッチェンがはじめて知り合ったのは、トロント音楽院で、二人は、17歳と24歳だった。グールドは、年長者にまじって年長者以上に華々しく活躍をしており、音楽院で話題をさらっていた。そんなグールドにバッチェンが声をかけたのが最初の出会いだった。最初、グールドは女性に無知な子供にすぎなかったが、グールドが音楽院をやめる18歳のころにふたりは恋人関係になっていた。グールドの求婚のセリフは「僕たちは結婚すべきだ。」だったが、バッチェンは、グールドが社会生活に向かず、結婚はできないと判断し、受け入れなかった。このとき、二人の関係は、もうすでにぎくしゃくして、修復不能だった。

記者のシェンナーが部屋に入ってきたとき、グールドはソファで横になり、バッチェンの膝に頭をまるで犬のように置き、バッチェンに頭を撫でてもらっていた。彼は、いつまでもウジウジしていた。彼を取材にやってくる記者がどう感じるか、まったく頭になかった。

シェンナーは、グールドを禁欲的で中性的な修道士のようなピアニストだと予想していた。しかし、意外な性的な光景を見て、驚きがはっきりと表情に出ていた。恋人たち二人はソファから離れることなく、バッチェンは相変わらずグールドの頭を撫でていた。何故、私にこのような場面を見せるのかとシェンナーは思った。

「マクリーンズ社の依頼で、グールドさんの記事を書くことになったフリーランス記者のグラディス・シェンナーです。一昨年、マニトバ大学を出て、昨年は、ウィニペグの新聞社で働いていました。今年から、マクリーンズの仕事をするためにトロントへ出てきました。この記事は、どんなに長くなってもいいと言われています。グールドさんは、今やカナダ最大のスターです。」とシェンナーは、言った。

型通りの挨拶が終わって、シェンナーは、恋人の膝でぐずぐずしている《ペット男》の記事が書ければ、確実に特ダネになると思って、動悸がしたが、まず記事への協力を取り付けることだと思いなおした。

「フラニー、もっと下の方も撫でて。キスして。」と彼は横になったまま、バッチェンに言った。バッチェンは、グールドの髪を下の方も撫で、軽くキスして言った。

「グレン、私はこの町を出て、ニューヨークへ行くかも知れないわ。私は、もう少し稼がないとならないのよ。わかるでしょ、あなた。そうなっても、私なしでしっかりしなさいよ。」

「わかってるよ。だけど、その考えを変えられないの?どうしてもだめなの?僕には、世話を焼いてくれる女性が必要なんだよ。」

彼は、いつまでも未練たらしく懇願していた。

「グールドさん、私の話も聞いてください。」

「何だっけ?えっ、きみは誰だっけ?!」

シェンナーは、グールドより1歳若かった。利発で愛らしく、ブルネットの髪をした美人だった。彼女はマニトバ大学で政治学を学び、21歳の時にトロントへ出てきた。当時は、まだ多くの女性が働く時代ではなかった。そのような1950年代に、若い女性がどれだけちゃんとした仕事に就けるかを考えると、自分は時代の先端を走っていると感じていた。現に直前まで、他の雑誌でクロスワードパズルを担当していたばかりだった。

「私は、突然に、世界的なピアニストの仲間入りを果たしたあなたのことを書きたいんです。とても読み応えのある記事になると確信しています。私は、発売になったばかりの『ゴルトベルク変奏曲』を聞きました。とても生き生きしていて素晴らしかったです。これまでのクラシックの演奏とはまったく違うものを感じました。まったく新しいものを感じました。演奏の素晴らしさとあなたの人間そのものについて、読者に知らせたいのです。そのためにいろいろ教えてほしいんです。」

「あーん。・・・いいよ、問題ないよ・・・いくらでも協力してあげるよ。」と彼は、ようやく体を起こしていった。

その日から2週間ほど、彼の記事に二人でとりかかった。グールドは、まとまった時間のインタビューを受け、シェンナーがドラフトを書いた。グールドは、彼女の書いたドラフトに深夜の長電話で、彼女を励ましながらコメントを伝えた。

それはバッチェンの時にもいつもしていた、彼女を疲れさせた深夜の長電話だった。グールドは、夜型人間で、対面して話をするより、電話の方が気安く話ができ、相手の迷惑も顧みず、深夜、長電話するのだった。ただ、グールドの話はユーモアにあふれ才気煥発であり、電話をかけられた方は、人気者からの電話の聞き役になることを迷惑に思う者はいなかった。だが、毎晩深夜に電話を受けるバッチェンにとっては、睡眠不足になり、翌日の仕事に差しさわりがあるのだった。

シェンナーの記事は、よく書けている部分もあったが、足りない部分もあり、グールドは率直に情報を提供した。

はじめのうち、記事は、恋人のバッチェンを含んだグールドの女性関係も書かれていた。しかし、やがて彼は、女性のことが書かれるのは、イメージダウンになると思いだした。

そのため、一時は、記事の掲載そのものをシェンナーに止めるように言いだした。当然ながらシェンナーは、雑誌への掲載を許してほしいと懇願し、女性関係に関わる部分を削ると申しでた。最終的に、グールドは彼女の条件を了承し、その部分を削る形で記事が完成した。

そうして、インパクトのある風変わりなピアニストの写真数枚とともに、大作である記事が出来上がった。もとの記事から、グールドの女性関係をバッサリ削っても10ページ以上ある長文だった。この記事の一部を引用する。

――――――――――――――――――――――

1956/4/28 《雑誌マクリーンズ》

「演奏したがらない天才」byグラディス・シェンナー

 

グレン・グールドのピアノの技法は専門家たちをたじろがせる。彼は、錠剤とカイロプラクターのマッサージでコンディションの調整をする。さらに、人々が彼の音楽を絶賛しても、自分は作曲のためにお金を稼いでいるだけだと言う。

 才能に溢れ、神経質で若いトロントのピアニストのグレン・グールドは、1年前、ニューヨークのタウン・ホールでデビューを果たした。批評家たちは熱狂的に支持し、コロンビア・レコードは強烈な印象を受け、彼と専属録音の3年契約をすぐに結んだ。しかし、ニューヨーク・デビューは日々行われるイベントにすぎず、グールドの成功の喜びは限定されたもので、実際のところ、故郷の大衆にひろく知られたわけではなかった。

 しかしながら、ぴったり1年後の、彼の最初の録音であるバッハの難曲、ゴルトベルク変奏曲のリリースが、23歳のグールドを、一夜にして世界的に重要な音楽家にした。クラシックのレコードは、演奏家が有名だからという理由で、注目されることが一般的で、これまでほとんど知られていない演奏家に名声をもたらしたのは、唯一このレコードしかない。この年まで、グールドはアメリカでたった2度コンサートを開いただけで、カナダの都市では、数か所でコンサートを開いただけだった。

 音楽評論家たちは、グールドの新録音に、思いがけない最高の批評を降り注ぐように浴びせた。新聞各紙でさえ、彼についての社説を載せることに力を注いだ。記者は、グールドの奇癖、すなわち、処方薬とあらゆる種類の万能薬に憑りつかれていること、指を柔らかく保つために、気のすむまで腕を湯につける入念な儀式をすること、また、ピアノに向かうときのグロテスクな姿勢を描いた。

 そのレコーディングで、グールドは、コンサートツアーの世界でもっともひっぱりだこの演奏者のひとりになった。レコードのリリースの3週間後には、1956-57年のシーズンの連続した演奏スケジュールが埋まり、そのスケジュールは、秋から夏までまたがっていた。ツアーの契約は、カナダ、アメリカとヨーロッパだった。彼は、来年1月に著名なニューヨークフィルと、春にはもっとも権威あるベルリンフィルと共演する。彼は、今年と来年にかけて1回あたり1,250ドル(2019年一人当たりGDP比換算で、33,965ドル=373万円)、すなわち現状の倍額で演奏契約を受諾している。彼は音楽シーンに、火山が爆発するほどの衝撃を与えた。 

・・・・・・

 グールド自身が書いたライナーノーツでさえが、博学ぶりを発揮し、レコードへの注目を引き起こした。彼が書いたライナーノーツにおける、物の見方と独創性によって、ハイ・フィデリティとミュージカルクリエという二つの音楽雑誌が記事の執筆を申し出た。

 ピアニストとして驚異的な名声の頂点に立つ、ヒポコンデリー症[1]患者のグールドにとって、ピアニストとしての成功に実のところ興味がないというのは、どこからみても大きな皮肉だ。「ピアノは、ぼくが作曲をするために十分な金を稼ぐことができる、都合の良い手段にすぎない」と彼は言う。「10年か15年のうちにピアニストではなく、まず作曲家として知られたい」

・・・・・・

グールドのプロとしてのピアノ演奏に対する態度には、彼の奇行の他の一面がでている。プリマドンナ[2]がいまや流行ではなくなり、芸術家が、近所の少年のように親しく振舞うのを求められることが一度に起こっている。それに代わって、グールドは、他の何よりも独立した個人である。5フィート11インチ(180センチ)の彼はやせっぽちというにはあまりに痩せていて、ほとんど異常なほどにやつれている。彼の顔は、病気でやつれているのにちかい。彼の服装は、風変わりな異国風で、もっとも暑い気候の時でさえ、トロントの街を、防寒靴を履き、重いオーバーコートを着て、ウールのベレー帽を被り、二組の手袋をして大股で駆ける。彼が練習する時には、なだらかなストライプ仕立てのガウンか、襟ぐりと袖ぐりを深く切り込んだだぶだぶの水色のセーターを着ている。

 グールドは、みさかいなく錠剤を飲む。彼がピアノを演奏する前に行う両腕を熱い湯につける儀式は見ものだ。彼がウィニペグ交響楽団のゲスト演奏者だった時、ピアノに向かう姿勢が、数か月前ウィニペグで熱い論争の中心になった。どの新聞もが、熱心にコラム記事でグールドの演奏の流儀について割いた。

 ほとんどのピアニストはまっすぐ座り、ペダルの前に両足を揃え、両手と両腕を鍵盤の上に優雅に構える。グールドは、鍵盤に向かって屈みこみ、肩の位置は高く、頭は胸へと深く押し付け、両足はクロスさせて組んでいる。彼の肘と手首は、鍵盤の下に吊り下げられ、長く柔らかいブロンドの髪が額に落ち、しょっちゅうピアノのキーを撫でる。しばしば、彼の骨ばった鼻で演奏しているように見える。彼は、ピンク色のシートを貼った革張りの木製の折り畳み椅子に座り、両足を上げることも下げることもある。演奏につれて、低音の唸り声で歌い、そして、もし片方の手が空いていれば、その手で指揮をする。しばしばペダルの上の脚をバタバタさせて拍子をとる。

・・・・・・

彼のヒポコンデリーは、演奏とほとんど同じくらいの注目を浴びている。神経質で、激しく興奮しやすいグールドは、病気を恐れている。予防策として、彼は何百という錠剤をバクバク飲む。気持ちを抑えるために、彼は6種類の異なる鎮静剤を飲む。彼は目の前にずんぐりした瓶を一列に並べ、そして、どれを飲むか決める。彼は新種の薬を絶えず試していて、古い瓶を取り除き、他の瓶と置き換えている。

 鼻をすする最初の段階で、彼は風邪を予防する抗ヒスタミン剤と抗生物質のテラマイシンを飲む。最近、オタワのコンサート後のレセプションで、堂々とした紳士から、いかにコンサートを楽しんだかを、グールドは接近してくどくどと言われた。

 「私の妻がここに来るように説得したことにとても感謝している。」とその男は言った。「一日中熱がありましたが、ベッドを出てあなたの演奏を聞きに来る値打ちがありました。」

 恐れをなしたグールドは急いで電話口に行き、テラマイシン20ドル分を(2019年一人当たりGDP比価格で489ドル=53,790円)注文した。

・・・・・・

 「私は他の生徒たちにやったように、彼を教えることはできませんでした。」チリ人ピアノ教師のゲレーロはこう言う。「もし、君の弾き方は間違っているよ、といったら憤慨させることになったでしょう。グールドは、11歳にして自分の能力を完全に把握していました。それ以来、グレンは変わっていません。」 

何年にもわたって、ゲレーロはグレンにベートーヴェンの第四ピアノ協奏曲のオープニングフレーズの演奏方法を教えようとした。その少年は、冷ややかな笑みを浮かべるだけで、自分が思うとおりの演奏を続けた。 

「彼は、何に対しても誰の言葉もけっして受け入れようとしなかった。」とゲレーロ。さらに彼はこうも言う。「彼が独創性を保ち続けるには、その方がいいのです。」 

・・・・・・

 「僕は、時間をスケール練習[3]に使うのは好きじゃない。」とグールドは言う。彼は、代わりにバッハを弾く。

 競争の激しいコンサートの世界、そこはアーティストが行うコンサートの数で名声と経験が数えられるが、グールドは過去5年間で50回未満だった。もう一人のカナダ人ピアニスト、レイ・ダドリー[4]は、1シーズンで60回ものコンサートを行う。 

グールドは、限られたレパートリーに固執することで、もう一つのルールを破るのに成功した。彼は、広大な分野である19世紀のロマン派音楽を嫌うので、彼のプログラムはかなり難解だ。ショパン、シューマン、リストのような作曲家は、グールドのプログラムに登場することはない。代わりに、彼はルネッサンス音楽、他の誰もピアノで演奏しない質素な16世紀の音楽を演奏する。彼はバッハとベートーヴェンを専門とし、ブラームスの作品をいくつか、メンデルスゾーンの曲をたまに演奏する。彼は、かならず現代作品もいくつか演奏する。 

グールドのマネージャーのウォルター・ホンバーガーは、レパートリーを広げてほしいと思っている。グールドは引き続き専門化し続けることにこだわっている。

 彼は、将来に対する態度がまさに揺るぎない。彼は有名になることを、急いでいない。今、彼は、好きな音楽だけを、どんなであろうと自分が好きなやり方で、演奏し続ける決心をしている。

 グールドは、15歳の1947年にトロントでデビューしたとき、彼を神童にしてしまいかねないカナダとアメリカのコンサートツアーを拒否した。

 「何百ものコンサートで演奏し、そこで終わってしまうピアニストを見てください。」とその時、彼は言った。「僕はそのようになるつもりはない。」

 彼の信念が、プロとしてのキャリアを妨げることはなかった。彼の奇行もそうだ。

 「何百もののコンサートを開くことと、あらゆるレパートリーを弾くことは、誰の利益にもならない。」と彼は言う。「しかし、彼ら聴衆は、そこにいるだけで傷つくことはない。」 

――――――――――――――――――――――

バッチェンは職を求めてニューヨークへ旅立ち、二人はすぐに別れた。グールドは、いつまでも思いを引きずっていた。

この記事で、シェンナーは記者として認められ、地位を確立する。

グールドは、この記事への協力によって、シェンナーと非常に親密でプライベートな関係になる。そのあとグールドが、コンサートツアーをしなくなる7年ほどの間、彼女は、グールドの演奏旅行に同行し、彼女が記事にするという関係が続いた。その間に、二人の親密な交際を示す手紙がいくつか残っている。

おしまい

[1] ヒポコンデリー症患者 自分を病気だと思い込む心気症患者

[2] プリマドンナ オペラの主役となる女性歌手

[3] スケール練習:様々なキーの音階を練習すること。一般に、上達の近道と言われる。

[4] レイ・ダドリー: Raymond Dudley(1931-2004) ピアニスト。グールドと共にアルベルト・ゲレーロにピアノを教わっていた。

brasileiro365 について

 ジジイ(時事)ネタも取り上げています。ここ1年、YOUTUBEをよく見るようになって、世の中の見方がすっかり変わってしまいました。   好きな音楽:完全にカナダ人クラシック・ピアニスト、グレン・グールドのおたくです。他はあまり聴かないのですが、クラシック全般とジャズ、ブラジル音楽を聴きます。  2002年から4年間ブラジルに住み、2013年から2年間パプア・ニューギニアに住んでいました。これがブログ名の由来です。  アイコンの写真は、パプア・ニューギニアにいた時、ゴロカという県都で行われた部族の踊りを意味する≪シンシン(Sing Sing)≫のショーで、マッドマン(Mad Man)のお面を被っているところです。  
カテゴリー: 小説・グレン・グールド タグ: , , , , , , , , パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中