第9章 アメリカデビュー

22歳のグールドはアメリカでのデビュー演奏を、1955年1月2日、ワシントン、フィリップス・ギャラリーと1月11日、ニューヨーク、タウン・ホールで行った。

この二回目のニューヨーク・タウン・ホールでのリサイタルをデイヴィッド・オッペンハイムが聴いていた。オッペンハイムは、33歳という若さだったが、5年前から巨大音楽レーベル、コロンビア・レコードの中枢部門であるマスターワークス部の責任者で、プロのクラリネット奏者でもあった。この会社のポピュラー音楽部門は、フランク・シナトラ、ベニー・グッドマンやビリー・ホリデイをはじめとする、ほとんどすべてのアメリカ人ビッグ・アーティストを擁し、クラシック部門は、大きな儲けは上がらないものの、裾野が広がった熱心なファンを取り込むことで、ブランドイメージをあげ、十分な貢献を果たしていた。

タウン・ホールは、クラシック演奏家のデビュー・リサイタルが行われる登竜門として人気の高い場所だった。オッペンハイムは、グールドのデビュー演奏の最初の数小節を聴いただけで異常に興奮する。

オッペンハイムは、ライターたちへのインタビューにこの日の演奏を次のように答えている。

「リサイタルは、非常にゆっくりとした音楽で始まりました。確か、スウェーリンク[1]だったと思います。いや、十七世紀のスウェーリンクと同時代の誰か別の作曲家だったかも知れません。・・もとはと言えばオルガン曲で、ほかのピアニストが弾いたらどうしようもなく退屈になってしまう曲しょう。かれはこれを演奏するにあたって、そう、宗教的な雰囲気を醸し出して、ひたすら聴く者を催眠術にかけるよう魅了したのです。それもその雰囲気を作り上げるのに音を五つか六つ鳴らせば十分でした。それは的確なリズムと内声部[2]のコントロールという魔術のおかげだったのです。・・・私は、・・ぞくぞくしましたね。それからほかのレコード会社の連中が来ていないかどうかを確かめると、・・ええ、見当たりませんでした。翌日出来るだけ早く彼のマネージャーに連絡をつけ、わたしは専属契約を申し出たのです」

当時、オッペンハイムは、若い有望な看板ピアニストを探していた。ルーマニア生まれのディヌ・リパッティという天才ピアニストがいたのだが、5年前に33歳という若さで早逝していた。リパッティは、澄んだ音色でピアノを最大限に歌わせ、ほとんどペダルを踏まずに演奏した。ピアノは、ハンマーが弦を叩いた瞬間の音が徐々に減衰しながら、鍵盤を押さえているかぎり響きつづける楽器であり、「ペダルを踏まずにピアノを弾く」というのは、音を伸ばすところはしっかり伸ばし、切るところはしっかり切るピアノの基本技術がダイレクトに出でることを意味する。もし長生きしたら今世紀最大のピアニストの一人であっただろうと言われた逸材だった。

オッペンハイムは、年長の友人である、ヴァイオリン奏者のアレクサンダー・シュナイダーの家へ行き、リパッティのレコードをふたりで聴いていた。シュナイダーは、47歳だった。オッペンハイムは、音楽家として先輩のシュナイダーに言った。

「このリパッティのような、素晴らしいピアニストはいないでしょうか?リパッティに代わる才能のあるピアニストを、これからの時代に、うちの会社の柱になる人物を見つけたいんです」

「一人いるよ。カナダの変人だが、きみがリパッティを好きなら、きっと気に入るよ。専属契約を結べばいい。ぼくは今年の夏、カナダのストラトフォード音楽祭で、その変人と共演したんだ。とにかくすごいんだ。かれは大物になるよ」

その演奏会には、オッペンハイムだけではなく、他の音楽家、ピアニスト、批評家などが、大勢つめかけていた。というのは、プロの音楽家の世界は、一般に思われているよりも意外とせまいからだ。カナダでグールドをよく知る音楽関係者が、アメリカ公演を聴くように勧め、それをきいた別の友人がパーティーを開いて宣伝するというふうに、狭い音楽界でニュースは広まっていた。

初日のワシントンのリサイタルを聴いた《ワシントン・ポスト》紙の批評家ポール・ヒュームは、次のように絶賛した。

「1月2日の段階でいうのは早すぎるかも知れないが、ことし昨日の午後フィリップス・ギャラリーでのピアノ・リサイタル以上に素晴らしいリサイタルが催される可能性は少ない。これと同じくらい美しく、かつ示唆に富んだリサイタルがあるとすれば、わたしたちは幸運である。・・・グレン・グールドは類まれな才能をもったピアニストである。すぐにでもその演奏を聞き、しかるべき敬意と歓迎の意をしめさなくてはならない。どの世代を見てもグールドに匹敵するピアニストは皆無である」

二日目のニューヨークのリサイタルは、観客数は、せいぜい200人と少なかったが、ヒュームの記事によって、有名ピアニストたち、ニューヨーク在住の評論家たち、カナダからきた記者や評論家が聴きに集まっていた。

観客席には、両親とマネージャーも座っていた。母親は、

グールドは、一番アピールできると考え、ワシントンとニューヨークの両日とも同じプログラムを演奏した。

曲目は、前半が、ギボンズ[3]の《ソールズベリー卿》のパヴァーヌ、スウェーリンク[4]の幻想曲ニ短調、バッハの《インヴェンションとシンフォニア》の3声のシンフォニアから5曲とパルティータ第5番ト長調、後半が、ヴェーベルン[5]の変奏曲作品27、ベートーヴェンのソナタ第30番ホ長調作品109のソナタ、そして最後にベルク[6]のソナタ作品1だった。

つまり、古楽を2曲、バッハを2種類、ここで休憩をはさみ、無調の12音音楽、ベートーヴェン、現代音楽と並べた。この選曲は、自分が古楽を演奏でき、現代音楽にも通じていることをしめしたいという意欲があらわれたものだったが、反面きわめて風変わりだった。

デビュー・リサイタルをおこなうピアニストは、普通、ショパンやリストをかならず弾く。これらを弾かないことは、今後にむけて、奇妙な嗜好をもっていることをしめす意味があると同時に、これら曲は、後のコンサート・ツアーでも演奏曲の中心となるものだった。

タウン・ホールは、リヒャルト・シュトラウス、アイザック・スターンが、アメリカ初公演し、ジャズのディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカーがデビューした歴史のあるホールだった。比較的な小さなホールだったが、1500人収容できた。

グールドは、習慣的な燕尾服に白いネクタイではなく、大舞台に暗めのダーク・スーツで現れた。少し照れたような表情をうかべ、はにかみながら舞台に登場した。まだ幼さを残すその青年が舞台に現れた姿は、どこか心もとなく見えた。

だが鍵盤に向かったとたん、グールドのためらうような雰囲気なくなった。すばらしい集中力を発揮してみせたのだった。

グールドは、オルガン用に作曲されたギボンズとスウェーリンクの2曲ではじめた。グールドは、ピアノの大屋根を短い方の支え棒で持ち上げた状態ではじめた。

どちらもバッハよりさらに1世紀古く、古楽と呼ばれるルネサンス期の音楽家たちであり、リサイタルの場でプログラムに、普通は入れない曲だった。

ギボンズの《ソールズベリー侯》のパヴァーヌは、ゆっくりとしずかにはじまる対位法で書かれた曲だが、ゆっくりした各声部の違いをはっきりだしたうえで、余韻を残しロマンチックに弾くのは、細部まで緻密に考え抜かれた計算と、それをかなえる技術がなければできない。静かで落ち着いて、ロマンチックでありながら、ドラマチックな烈しさもある、胸がどきどきする、そんな演奏だった。

スウェーリンクの幻想曲ニ短調は、はかないくらいの頼りのない、せつない音列から曲がはじまり、やがて他声部が加わり、徐々に宗教的な合唱を思わせるように変化していく。グールドは、いちばん高い声部をつよく弾くことをせず、むしろ低音部や内声部を強調する。聴衆は、不思議な感覚に囚われ、「こんな曲を聴いた経験はない。こんなふうな曲を聴くのは、初めての体験だ」と思わせる。やがて曲は展開し、同じリズムをたもちながら下声は短い音符の連続へと、烈しい性格に変わる。その後、また再び最初の曲想にもどって、最後はドラマチックなフィナーレで終わる。つねに平等に扱われる多声のメロディーと500年前の不思議な和音の響きの世界へ聴衆をつれて行く。

デビュー・リサイタルの9年後の1964年にCBC[7]テレビ「水曜日のためのコンチェルト」で《変奏曲アンソロジー(選集)》と題し、このスウェーリンクの幻想曲ニ短調をグールドが解説[8]しながら、実演を放送した番組がある。

番組は、このリサイタルでも弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番第3楽章の静かにはじる冒頭の演奏をバックに、グールドが変奏曲についてこれから考察したいというナレーションではじまる。

ピアノに向かっていた彼が、一区切りをつけ、カメラに向かって姿勢を変え、少し早口ながら落ち着いた声で話しはじめる。かれが一生使いつづけた、父親が作った椅子の座面の詰め物ははみだし、どこか妙だ。椅子の脚はこれ以上切れないほど短くしたため、4センチほどの高さの木製のブロックの上にピアノの3本脚をのせている。32歳のかれは、さすがにテレビに出演するためだろう、ちゃんとダークスーツに身を包み、胸にチーフを差し、髪はオールバックにしている。かれは話し始める。

「かつて誰かが、初めて音楽らしきものを作りました。触発された別の人が、すぐに自らの音楽を作ったはずでしょう。両曲の共通点はきっと多く、2曲目は1曲目と深く関わります。模倣と拡張がおそらくそこにあるでしょう。だが、作品にはそれぞれの作り手の自我もにじみます。それが音楽の歴史であって、ある曲が成り立つのは他の曲がすでに存在するからです。・・・」

かれは、話しながら、手の位置をかえてピアノにおいたり、脚を組みなおしたり、つねに体を落ち着きなく動かしている。いつの間にか、胸の飾りのチーフを取り出したかとおもうと、汗を拭き、後ろのポケットに突っこんでいる。両方の手のひらの動きは、ピアノの演奏のように冗舌で、まるで会話をしているようにみえる。

「16世紀オランダのスウェーリンクの作品を弾きます。彼のオルガンのための幻想曲は1個の長い動機に基づき、動機は20以上の音から成ります。弾いてみると・・・」と鍵盤へ向きなおり、立ったまま、左手で弱々しい中世の雰囲気がのこる冒頭の動機を弾いてみせる。

「7~8分続く音楽の中で、この動機が部分的に現れ、反復されて全体の進行を支えており、分割された楽想の連続は、結果的に変奏になっています。固有の題名を持ちませんが、変奏曲になっているのがこの作品です」

場面が暗転し、グールドが演奏をはじめる。上体をリズムにあわせて旋回させ、右足は折り曲げて後ろへ向けられ、右ペダルをまったく使わず、弱音ペダルのみ使用する。口をつねにパクパクさせ、メロディーを口ずさんでいる。ときに、鼻で弾くかと思えるほど、顔が鍵盤に近くなる。

3曲目から弾いたバッハの、《インヴェンションとシンフォニア》は、ずっと若い音楽家の育成用の作品と考えられていた。この曲集からシンフォニア5曲を、グールドは、かれの特徴でもあるノンレガート[9]を主体にした、生命力あふれる、見事な統一感のある演奏をしてみせた。おなじように、バッハのパルティータ第5番ト長調も、従来のバッハ観を変えるものだった。

バッハは、グールドが弾く前から高い評価をされていたが、それは宗教と結びつき、難しい、取りつきにくい、埃をかぶった18世紀の遺物に分類されるような種類の音楽としてだった。本当のバッハの良さは、まだ墓の中にはいったままだった。

グールドが弾くバッハは、みずみずしく生命力にあふれ、これまでの演奏とはまったく違い、ドライヴし、疾走し、グールド本人は、スウィングするといっていた。しかも、高音部の旋律だけでなく、他の旋律を対等に扱い、主従関係をなくし、目立たせる旋律をレガートとノンレガートを順番に変えることもしながら、つねにコントロールしていた。このため、右手の高音部の旋律だけを浮き上がらせる場合と比べて、最後まで手を変え、品を変え、曲の趣を変化させ、一本調子になることがない刺激的なものだった。まるで、二人で連弾をしているか、ジャズトリオの演奏を思わせた。

バッハの時代になかった楽器であるモダン・ピアノで弾くのは、相応しいかという議論は、いまでもある。また、この当時から古楽器運動があり、作曲家が生きた当時の楽器を使って演奏しようという考えがある。だが、その是非はともかく、ピアノで十分に表現可能なことをグールドは示した。

グールドは、バッハの後に、ヴェーベルンの現代曲をもってきた。作品番号をもった唯一の独奏ピアノの変奏曲作品27である。グールドらしい作品に感応した、おおいに何かを触発する、なによりカッコいい12音技法による現代曲が聴かせる。グールドは、この曲の演奏でも、大きな声で鼻歌を歌っている。しかも、グールドはこの曲をベートーヴェンのソナタと同じ構造をもっているからと舞台で説明し2度弾いた[10]

次のベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番も、従来の伝統からはみ出した演奏だった。まず、低音部を強調して弾いた。一般的な演奏では、右手の高音部の主旋律が浮き上がるように弾き、左手の低音部は一段音量をおさえて、目立たせたいときにだけ音量を上げるのが普通で、このときにも高音部のメロディーが存在感を失うことはない。しかし、グールドは、常に左手の低音部をずっと、右手の高音部と同じか、強いくらいに演奏した。そのため、一般の奏法では、音符の重なる曲の激しい部分であっても、目立つ音符は高音部だけなので、すっきりしている。しかし、グールドの演奏は、高音だけでなく、低音の伴奏部、内声部の全てが主張しドラマチックすぎ、とりようによってはうるさいほどだった[11]

また、第3楽章は、穏やかでゆっくりとしたアンダンテで始まり、変奏をへるたびに速く激しくなっていくのだが、第4変奏では「主題よりやや遅めに」と指示があり、激しさが小休止するはずのところを、倍の速度で弾きとおした。こうしたリズムの変化だけではなく、強弱のつけ方もしばしばスコアに反し[12]ていた。

そして、最後に現代曲であるベルクのソナタ作品1を演奏した。この曲も、ヴェーベルン同様、作品番号をつけた唯一の独奏ピアノ曲であるが、ロ短調を主調とした12音技法で作られており、調性が安定しないことが混沌や矛盾、不安感をかきたてるが、主調を伴っていることで美しさや安定感があり、はるかに聴きやすい。

リサイタルは大成功だった。休憩時間にも人々は拍手してアンコールを求めたし、演奏終了後のアンコールも熱烈だった。楽屋に100人以上の聴衆が新しいスターにお祝いの言葉をかけようと押し寄せた。

トロントの新聞《トロント・スター》、《トロント・テレグラム》は大々的に熱気をもってアメリカデビューの成功を伝えた。

ニューヨークの新聞《タイムズ》の批評家は、「わたしの聴いたなかでもっとも幸先の良いデビューのひとつ」と言い、《ヘラルド・トリビューン》紙も「この若いピアニストがひたむきで繊細な鍵盤の詩人であることは明らかである」と好意的な記事を掲載した。しかし、こちらは毎日活字になる部類の寸評に過ぎなかった。その日、他の場所で行われたコンサートにもっと大きな注目をはらっていた。

レセプションが開かれたが、グールドは30分いただけで、会場を後にして、顰蹙をかった。

このリサイタルに要した費用は、地元の興行会社への宣伝費として約1000ドル(現在価値で9500ドル=100万円)、ホール使用料450ドル(現在価値で4300ドル=47万円)で、それに加えて、ニューヨークまでの旅費や宿泊費も必要だった。一方、収入は、一番高い席の料金が2ドル88セント(現在価値で27ドル=3千円)だった。デビュー・リサイタルが、一般にそうであるように、このリサイタルも赤字だった。

[1] スウェーリンク:(1562-1621)J.S.バッハに100年先立つオランダの作曲家・オルガニスト。ルネサンス音楽の末期からバロック音楽の最初期において、北ドイツ・オルガン楽派の育成に寄与した。イタリアのフレスコバルディに匹敵する存在である。(Wikipedia)

[2] 「内声部」 複数の声部が同時に演奏するとき、最も高い音を担当する声部と、最も低い音を担当する声部とを合わせて外声(がいせい)といい、外声以外の声部を内声(ないせい)という。たとえば混声四部合唱では、ソプラノとバスが外声で、アルトとテノールが内声に当たる

[3] ギボンズ ギボンズ(1583-1625)は、J.S.バッハに100年先立つイングランドの作曲家、オルガニスト。大量の鍵盤楽器作品、ヴィオールのための幻想曲、マドリガル、ヴァース・アンセム(独唱や楽器の伴奏がつく宗教合唱曲)を作った。コラールは、すぐれた対位法が特徴。

[4] スウェーリンク 脚注8と同じ

[5] ヴェーベルン(1883-1945)は、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。シェーンベルクやベルクと並び、新ウィーン楽派の中核メンバー。20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開したが、生前は顧みられる機会がほとんどなかった。戦後の前衛音楽勃興の中で再評価された。

[6] ベルク アルバン・ベルク(1885-1935)はアルノルト・シェーンベルクに師事し、ヴェーベルンと共に、無調音楽を経て十二音技法による作品を残したオーストリアの作曲家。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。

[7] CBCテレビ カナダ放送協会(Canadian Broadcasting Corporation)カナダの公共放送局で、テレビとラジオがある。

[8]全文は次のとおり。「かつて誰かが初めて音楽らしきものを作った。触発された別の人がすぐに自らの音楽を作ったはずだ。両曲の共通点はきっと多く、2曲目は1曲目と深く関わる。模倣と拡張がおそらくそこにある。だが、作品にはそれぞれの作り手の自我もにじむ。それが音楽の歴史であって、ある曲が成り立つのは他の曲がすでに存在するからだ。つまり、どんな音楽も別の音楽の変奏なのだ。今や現代人にとっては過去の音楽全体が変奏の連続に見える。だからこの変奏の発想に抵抗感は少ないし、近年の大作曲家がその本質を解明してきた。代表はシェーンベルクだ。彼は全ての音楽が変奏の形式に従っていると考えた。自作を拘束するほどこの考えに執着していたのだ。音楽の核が全局面に関与して発展していく構成原理、その独創的な理論の適用は過去の作曲家にも及んだ。自分が提唱した構成原理の普遍性を証明し、変奏の伝統を回復させたのだ。伝統への執着自体が変奏だと言う人もいるだろう。シェーンベルクは誇張し過ぎだが、創造行為における変奏の意味を我々も考えるようになった。変奏に対する現代の見方には精神分析の影響が大きい。注目されるようになったのは、偶然と故意や、本能と思考の関係だ。創造性の特質も検証の対象だ。まず創造性と表裏一体にある知識や想像力を学ぶべきで、それは否定の力、核時代における忘却の概念でもある。その結果、音楽構造の考察に持ち込まれたのが沈黙という発想だ。16世紀オランダのスウェーリンクの作品を弾く。彼のオルガンのための幻想曲は1個の長い動機に基づく。動機は20以上の音から成る。弾いてみると・・・7~8分続く音楽の中でこの動機が部分的に現れ反復されて全体の進行を支えており、分割された楽想の連続は結果的に変奏になっている。固有の題名を持たないが、変奏曲になっているのがこの作品だ」

[9] ノンレガート ピアノは普通、レガートに音符の音価一杯に弾くのが良いとされているが、グールドは、レガートは「緊張」であり、「緊張の緩和」としてノンレガートを奏法の基本に考えていた。フランス語では「デタシェ」とも言い、英語では「デタッチ”Detachment”」であり、「切り離す」ことを意味する。後年、グールドは夏目漱石に傾倒するが、「草枕」のキーワード《非人情》に訳者は、”Detachment”を使った。

[10] 2度弾いた 神秘の探訪160頁

[11] うるさいほどだった 1950年代当時は、録音技術の黎明期であり、モノラル録音で、クリアではなかった。このため、演奏会場で聴く音とレコードの録音を聴く音の場合とでは、印象が違っていたと思われる

[12] スコアに反した グールド演奏術 267頁

brasileiro365 について

 ジジイ(時事)ネタも取り上げています。ここ1年、YOUTUBEをよく見るようになって、世の中の見方がすっかり変わってしまいました。   好きな音楽:完全にカナダ人クラシック・ピアニスト、グレン・グールドのおたくです。他はあまり聴かないのですが、クラシック全般とジャズ、ブラジル音楽を聴きます。  2002年から4年間ブラジルに住み、2013年から2年間パプア・ニューギニアに住んでいました。これがブログ名の由来です。  アイコンの写真は、パプア・ニューギニアにいた時、ゴロカという県都で行われた部族の踊りを意味する≪シンシン(Sing Sing)≫のショーで、マッドマン(Mad Man)のお面を被っているところです。  
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