たまたま、YOUTUBEで見つけたヤン・リシエツキなのだが、結構よくて印象に残った。ベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集が出ていたので、アカデミー室内管弦楽団との協演、2018年、ベルリンでのライブレコーディングのDVDを購入した。アカデミー室内管弦楽団は、指揮者がいない(コンサートマスターである第1バイオリン奏者が兼ねる)楽団であり、WIKIPEDIAによると、映画「アマデウス」、「タイタニック」、ポピュラー音楽ではナイトウィッシュ「ワンス」などをヒットさせており、重厚さや伝統より、爽やかさや軽快さを売りにする楽団だといってよいだろう。
そこで共演していているリシエツキだが、早いパッセージなど正確なリズムで圧倒的に弾き切り、聴いていて非常に気持ちが良い。如何にも現代的なベートーヴェンである。
ベートヴェンのピアノ協奏曲は、豪華絢爛でスケールの大きな第5番「皇帝」がもっとも有名だろう。だが、人気の方は第4番が高いかも知れない。第4番は瞑想的、哲学的な雰囲気もあり、ちょっと変わったところがある。それで聴き比べにあたって、第4番を選択した。

一応、YOUTUBEを貼り付けることができたので、実際に聴き比べられると良いのだが・・・。
一方、主が偏愛するグレン・グールド。二人がどのように違うのか、その点にフォーカスをあてて書いてみたい。グールドの演奏は、1961年バーンスタイン指揮のニューヨークフィルとの協演である。
まず、出だしである。このピアノ協奏曲第4番は、第1楽章が、次の楽譜のとおり珍しくピアノの独奏5小節で始まる。ピアノ協奏曲で、出だしがピアノの独奏というのは、非常に珍しい。ほとんどの場合は、オーケストラのトッティ(全奏)がひと段落したことろで、ピアノが名人芸をひけらしながら入る曲が多い。
この冒頭からのピアノ独奏は、「運命の動機」と言われる和音の4連打が3回出てくる。もちろん、交響曲「運命」の強迫観念のような激しさはないのだが、ピアニストは和音の4連打を意識して弾くように教師から教わる。 そのような背景があるので、リシエツキは、普通のピアニスト同様、冒頭のメロディーを和音としてピアノを鳴らしている。
一方、グールド。彼は、10代をつうじて、チリ出身のピアノ教師、アルベルト・ゲレーロにピアノを習っていた。ゲレーロは、演奏技術だけでなく、音楽に取り組む姿勢や人間形成などにむしろ重点をおいて指導し、ゲレーロとグールドはいつも音楽の議論をするのだった。グールドは普通に弾き方を教えられると怒ったので、ゲレーロはグールドに自分で気づくように仕向けながら教えた。その結果、グールドは「僕のピアノは独学です。」と生涯言い続けた。
グールドは、13歳の時にトロント音楽院のリサイタルで、ゲレーロのピアノ伴奏でこの4番のコンチェルト第1楽章を合奏している。ほぼ、公式デビューの最初といって良い。その練習の時に、この曲の冒頭の伝統的な弾き方である和音の4連打のことを教わっても、グールドはこの教えをにっこり微笑みながら無視し、和音の4連打で和音を強調せず、和音を微妙に崩し、一つの旋律として弾いた。
また、この楽章は Allegro moderato(ほどよく快速に)と速度が指定されている。だが、グールドは moderato といっても良い、遅めの速度で弾き始める。そのため、グールドの演奏は、軽快で楽しいという印象より、優しく表情豊かだ。
第2楽章は、アンダンテ(歩くくらいの早さ)で、弦楽器だけの低音のユニゾンの旋律とそれに応答するピアノの対比が、ちょっとした哲学的、瞑想的な対話で聴くものを惹きつける。このときのグールドが、素晴らしい。弦にあっさり答えるのではなく、音量を小さく落として弾き、ベートヴェンの現代にも十分つうじる魅力的な旋律に聴く者が耳をそばだてるようさせる。
この部分を聴いていると、リシエツキは完全にオーケストラと一体になった演奏をしている。ところが、グールドの演奏では、オーケストラはオーケストラであるのに対し、グールドはあくまで別の主体を演じており、二人の思想家の対話を聞くような演奏である。
やはり、グレン・グールドの演奏は、他のピアニストとは本質的なところで何かが違う。リシエツキの場合、極端な言い方をすれば、5曲のピアノ協奏曲すべてが、勢いがあって、爽やかな演奏で、分かりやすくいってしまえば、金太郎飴。
だが、グールドは、1曲ごとに曲の印象が違っている。5番「皇帝」は豪華絢爛、威風堂々とした交響曲のように弾いているが、4番は、思索的、瞑想的だ。また、曲の弾き方がつねに一本調子ではなく、いつも変化に富んでいる。彼が常に奏法の中心におくデタシェ(スタッカート)奏法は、緊張を緩める効果がある。また、外声(いちばん上と下の声部)だけでなく、内声にも光を当て、旋律の主役を交代させ、聴くものを飽きさせない。
ほとんどのピアニストは、右手で旋律を弾き、左手は低音部を単なる伴奏として弾き、右手を強調するものの、左手は存在感が薄い。グールドは、低音部を、高音部同様に強調するし、グールドだけが、3声以上の旋律を同時に打鍵することはめったになく、違った旋律として弾き分けている。
また、グールドの演奏は、超越しながら恍惚としているのだが、しっかりと計算されており、楽章ごとに盛り上がる部分(サビ)が明確で、そこへ向かって行く。また、最終楽章には曲全体のクライマックスがある。
もちろん、リシエツキの演奏は気持ちよい。何より、録音状態がグールドより50年は新しい。実際にこの演奏をコンサートで聴ければ、幸運としか言いようがない。主は日本でリシエツキのコンサートがあれば、是非行きたい。
おしまい