ブラジル ボアッチの話 その2

ブラジリアにあったボアッチ

「人生の3分の2は嫌らしいことを考えてきた。」とイラストレーターでありエッセイストであるみうらじゅんさんは、かならずこの書き出しで始める。この人に限らず、男はだいたいそうだ。主は、4分の3かもしれない。

アマゾンから

みうらじゅんさんを冒頭に持ってきたが、内容には関りがない。単に、エロから連想しただけなのだが、今回はブラジル、ボアッチネタを取り上げたいと思う。なにしろ、15年前のブラジルの話なので、事情はけっこう変わっているだろうと思うがご容赦を・・。

冒頭の写真が、当時のブラジリアにあったApple Night Clubという昼間のボアッチの写真だ。当然ながら、夜の雰囲気は全く違う。夜には、手前の駐車場が、お客の車で一杯になる。左半分が教会でブラジルらしい。ここのお姉ちゃんと話をしていて、「お客と出かけた後、となりの教会で懺悔するのよ。」という冗談を言っていた。 Googleで検索するとどんな場所でもヒットするので驚く。

こちらは、同じくGoogleで出てきたブラジリアのボアッチの写真。Lago Sul(湖の南)のボアッチの内部写真。夜が更けるにつれて、男女でいっぱいになる。ビートのきいた音楽が大音量で流れている。15年前には、この地域は豪邸の建ち並んだ地域で、ボアッチはなかった。

主がブラジルの首都ブラジリアに赴任した時、日本でボアッチというナイトクラブの存在は聞いていたのだが、どうも風俗系のことを人に聞くのが恥ずかしいタチなので、職場の人に聞けなかった。そのため、ボアッチの存在はかなり長い間よくわからなかった。しかし、さすがに1年を過ぎる辺りから事情が徐々に分かってきた。

ブラジルの法律は、日本の売春防止法のような法律がなく、組織的な売春は違法であるものの、個人が自由恋愛することは禁止されていない。日本も、組織(営業)が絡まない、「援助交際」という名目で個人が自由恋愛している分には問題ないらしいので、細かくは違うだろうが、どちらも似たようなものだと思う。

最近は日本も、途上国化が激しいので、女性の供給は増える一方で、かなりブラジル化していると思うが、ブラジルはやはり何といっても日本以上に格差が大きいので、ボアッチで稼ごうという女性は多い。端的に言ってしまえば、ボアッチ以外でも、道路の特定の場所で、こうした女性が、車のドライバー目当てに客引きをしている場所もある。

また新聞の求人(募集)欄に、こういう種類のお姉ちゃん(お兄ちゃんも?)が、例えば、『混血、美人、大柄。20歳。電話******』とか、広告を載せていた。主は、結構長くブラジルにいたのだが、このことに気づいたのは、かなり時間がたってからだ。ブラジリアの職場の現地スタッフによれば、ブラジルではどんな田舎へ行っても、この種のサービス?、仕事?は必ずあり、お金次第で、超高級なものから長距離トラックの運転手向けのもの、違法な子供が出てくるもの、同性愛向けもあるということだった。

ブラジルの女性は、全般に、日本人のように照れることもなく、フランクだ。ボアッチは、男性が入場料として料金を払うが、女性は無料でやって来ており、お酒を飲みながら、女性と話をすることを目的に来る男性も多い。意気投合すれば、一緒に出ていくこともある。店の女性の管理が厳しくないので、電話番号を教えてもらって、直接電話して、食事に誘ったりすることも可能だ。

おしまい

トーマス・マン「魔の山」その2 ネタバレのあらすじ

ネタバレのあらすじ

舞台は、世界中から結核患者が集まるスイスのダボスの高地の《ベルクホーフ》という名のサナトリウムである。

標高1500メートルのダボスには、何十件もサナトリウムがあったらしい

第1次世界大戦の7年前である1907年、24歳のドイツ・ハンブルグ生まれのハンスが、従弟のヨアヒムを3週間の予定で見舞いに訪ねる。ハンスは、造船工学を学んだエンジニアで、造船所で見習いとしての就職が決まっており、気軽な立場で、任地へ赴任する前に見舞いに立ち寄ろうとしていた。ハンスは、この就職前の試験勉強のために、たいへんな勉強をして疲れ果ててしまい、医者からアルプスでの転地療養を勧められ、ヨアヒムを訪ねるところだった。

一方、従弟のヨアヒムは、ハンスより背も高く、肩幅も広い立派な体格をしていた。しかし、実のところ風邪をひきやすく、すぐに熱を出し、ある日とうとう血痰を吐いた。ハンスは、家族の希望通り法律を勉強していたが、やむなく進路を変えて、プロシア軍の士官候補生として採用されていた。ところが、結核の治療のため入院していた。

ハンスは、人生をこれから始めようとする青年であり、ヨアヒムは、一刻も早く病気を治して、軍人としてデビューをしたいと考えていた。

ハンスは、ヨアヒムに教わりながら、《ベルクホーフ》で様々な国の様々な人たちに囲まれて、サナトリウムの生活を始める。サナトリウムの生活水準は、医師や看護師の他に、料理人、給仕たちや門番などが揃って高く、患者の食事は、栄養があり豪華で、日に5度もあり、厳しいが美しいアルプスの高地を散歩をしたり、バルコニーで体を延ばして労わる安静療養の時間など規則正しい生活を送るようになっている。

しかし、バルコニーは隣の部屋とつながっており、患者同士の不倫や情事が密かにおこるなどもあり、根底にある倫理観や道徳観は、1900年ころの当時と、今も変わらない。

そのサナトリウムには、古くからの患者に、30代のイタリア人でフリーメーソンのセテムブリーニがいた。人文主義者を自称し、代々続く文学者の家系にあるセテムブリーニは、いつも同じ着古した一張羅を着こなす紳士だが、若い二人を見込んで、ヒューマニズム、啓蒙思想、自由、博愛など様々な思想について皮肉交じりにウンチクを語り、ある種、矯正的な感化及ぼそうと語ってくる。

フリーメーソン:16世紀ころに成立した秘密結社。「自由」「平等」「友愛」「寛容」「人道」を理念とする。

サナトリウムでは、補佐役の医師が、患者相手に病患形成力としての」というテーマで連続講義する時間を設けていた。世界中から集まった老いも若きも、男も女も、既婚者も未婚者も、様々な患者たちが揃っているサナトリウムだが、「愛」については、誰もが興味深々で、精神的な愛と肉欲的な愛がごちゃ混ぜになった話に、婦人たちは頬を紅潮させ、男たちは耳を揺すぶらせて聞き入っていた。その医師の結論は、「病気は、愛の表現である。」というものだった。

療養者にロシア人の若く美しいクラウディア夫人もいた。ハンスは、一目見たとたんに、彼女に恋心を抱く。クラウディア夫人は、夫と別居し、結婚指輪を嵌めず、処々方々の療養地を渡り歩き、ハンスの目には、無作法でだらしのないところがある夫人なのだが、ハンスは自身の自負心と照らし合わせ、クラウディア夫人に対し優越感を覚え、クラウディア夫人の手の平にキスをする夢を見て、甘美な感情に満たされる。ハンスは最初のうちは、クラウディア夫人との関係を休暇中の一ロマンス、遊びぐらいにしか考えていなかったが、それが微妙な関係から生まれてくる興奮、緊張、満足、失望などを感じることで、これが夏の旅行の真の目的へと変わっていく。

ハンスのクラウディア夫人に対する恋心は、ヒッペという男子の同級生に対する好意に類似していた。ハンスは12,13歳のころ、飛び級をしている模範生のヒッペに好意を寄せていた。その感情は、直接にヒッペに分かるように告白するというようなものではない淡いものだった。ハンスは、クラウディア夫人を一目見たときに、ヒッペに再開したような感覚になる。そして、ハンスは、クラウディア夫人に恋心のサインを送りはじめる。そのサインは周囲の人たちに簡単にバレていたが、ハンスの行為は、回りくどいものだったので、クラウディア夫人は知らぬ顔で無視を続ける。

従弟を見舞いに行ったはずの気楽な立場のハンスだったが、彼にも発熱症状があることがわかった。見舞いの立場から、患者としての療養生活が始まる。ハンスは、療養生活がすぐにでも治るものと考えていたが、最終的に第1次世界大戦がはじまるまでの7年間に及ぶことになる。

やっとのことで、二人きりで話ができる瞬間が訪れ、ハンスはクラウディア夫人に跪いて愛を告白する。しかし、クラウディア夫人は「坊ちゃんが、何を言うの。」と取り合わない。この時、ドイツ語やフランス語では男女の間で親しくなってからでないと使わない「君」という表現をハンスはクラウディア夫人に使い、「なんて図々しい人なの!」と呆れられる。 しかも、彼女はこのサナトリウムを明日去るという。翌日になって、ハンスは、呆然となってクラウディア夫人を建物の陰から見送ることしかできない。

映画「魔の山」

文学士、啓蒙家で、貧乏なセテムブリーニはやがて、サナトリウムを出て、村人の家の屋根裏部屋でほとんど調度のない暮らし始める。その家の階下には、贅沢な調度品に囲まれて暮らすナフタがいた。ナフタは、オーストリア生まれのユダヤ人だったが、イエズス会のカトリック教徒に改宗し、出世街道を進んでいたのだが、病気の発病により出世の道が閉ざされていた。 このセテムブリーニとナフタは全く正反対の意見を持っており、セテムブリーニから「人生の厄介息子」と評されるハンスとヨアヒムの前で、いつも議論を戦わせている。この二人の話が非常に熱を帯びていて、長いのだが、説得力はない。しかし、「魔の山」の特色を形作っているのは、間違いない。

イエズス会 資金面で豊かなだが、「イエズス会員」を表す言葉(たとえば英語のJesuit)が、しばしば「陰謀好きな人、ずる賢い人」という意味でも用いられ、近代において、プロテスタント側のみならずカトリック側の人間からも、さまざまな陰謀の首謀者と目されることが多い

セテムブリーニは、ナフタのいないところで、ナフタがいまだにイエズス会に養われている身であることをばらし、悪魔的だと非難する。ナフタは、同じようにセテムブリーニのいないところで、セテムブリーニを、フリーメーソンだとばらし、彼の思想は時代遅れも甚だしいブルジョワ的啓蒙精神と自由思想的無神論であるにも拘わらず、滑稽な自己欺瞞に酔っていると非難する。

二人の議論の一例をあげると、こういう具合である。こうした議論が、延々と果てしなく続く。

「・・・・セテムブリーニはびくともしなかった。ナフタ氏は、と彼は言った。問題は墨で字を書くことではなくて、人類の本源的要求である文学、文学的精神にほかならぬことを百も承知の上でこういうことを言われるのであるが、何とも憐れむべき嘲弄家ではないか!文学的精神とは精神そのものであり、分析と形式の結合という奇蹟であるこの精神こそあらゆる人間的なものに対する理解を覚醒せしめ、愚昧なる価値判断や信念などの力を弱めて解体させ、人類の教化、醇化、向上をもたらすのである。・・・・・

ああ、しかし相手のナフタも黙ってはいなかった。彼はセテムブリーニ氏の天使的頌歌(ハレルヤ)を意地悪い、目覚ましい反論をもって撹乱し、あの熾天使のごとく高尚なる偽善の背後に潜むのは破壊の精神であると断じ、それに対してみずからは保守と生命の味方にたつといった。セテムブリーニ氏が声をふるわせて独唱された奇蹟の結合なるものは、要するにいんちきな手品にほかならない。なぜなら、文学の精神は・・・・

それをハンスは、こう思っていた。

「・・・ところでハンスは自分の哀れな魂こそ彼らの弁証法的争論の主要な対象だと考えたがっていた。・・・」

軍での出世が約束され、軍に貢献したいと願うヨアヒムだが、いつまでたっても病気が回復しない。とうとうしびれを切らした彼は、回復しない状態で、軍に入隊すると強く決心し、サナトリウムを降り、出発する。 しばらくは、昇進し少尉になったとか、軍隊で元気にやっているといた内容のヨアヒムから手紙がハンスに届くのだが、徐々に軍隊生活が病気によりうまく勤められない様子が伝わってくる。

ハンスは、スキーを初めて履いて一人で冬の山中を彷徨う。最初天候は良かったのだが、突然吹雪き、方向が全く分からなくなる。疲労困憊し、ちょっとした小休止の時に葡萄酒を口にして眠ってしまい、海辺で母と娘や、乙女たちが舞う美しいが性的な夢を見る。やがて夢は、醜い老女が半裸で、幼児を引き裂き、肉片をむさぼり食う場面でハンスは、夢から覚める。彼のスキー行軍は、いつの間にか元の場所に戻るという非常な困難を伴うのだが、ハンスは桎梏からどうにか身をほどき、なんとか奮起して下山する。

ハンスは、スポンサーであるティーナッペル叔父の訪問を受ける。叔父は、ハンスがいつまでこの高地にいるつもりか詰問しにやってきたのだった。しかし、サナトリウムの多くの病人たちや感染状況などを知るにつれ納得するようになり、また、自分が狭量だと思われたくもなかった。ティーナッペルは、サナトリウムで下界ではできないような様々な体験をして、療養中のある夫人の豊満な乳房に魅了されたたり、むしろ下界の生活を送ることが当分の間、完全に間違った不自然な不法なものに感じられるという予感を抱いて恐ろしくなり、ハンスに別れを告げることなく、朝一番の列車で逃げるように帰ってしまう。 これで、下界にはハンスの療養生活を否定する者はいなくなる。

さらに時間がたち、ヨアヒムは、再び病気がひどくなり、母親に伴われてサナトリウムに戻ってくる。ハンスはもちろん、サナトリウムでヨアヒムを知る者たちは、ヨアヒムの帰還を知ってを喜ぶ。

ヨアヒムと彼の母親は、アルプス旅行中の汽車の中で、クラウディア夫人に会い、近く彼女がサナトリウムに戻ってくるということを聞かされていた。母親が、ハンスにそのことを伝え、「とても奇麗な人でした。どこか開けっ放しで投げやりなところがあったけど・・・」と言うのに対して、ハンスは、「あの人には人文的風俗習慣の尺度をもって近づいてはいけない。・・・」と急に饒舌になり、ネガティブな言葉ばかりを言い、母親を驚かせる。

ヨアヒムは、再入院の当初、軍隊生活で男らしさを増したように感じられ、ハンスをはじめとするサナトリウムの面々は喜ぶ。しかし、ヨアヒムの病状は、目に見えて悪化し、やがて食事さえも困難になり、ヨアヒムはまもなく死亡する。呆然とするハンス。ここで物語は、第二部へと進む。

そこへハンスが恋心を抱いているクラウディア夫人がベルクホーフに戻ってくる。ハンスは、軍隊に行っていたヨアヒムから、クラウディア夫人が戻ってくると前もって聞かされていた。しかし、クラウディア夫人は、オランダ人のコーヒー王、ペーペルコルンという老年の男性と一緒に戻ってきた。衝撃を受けるハンス。 しかも、ペーペルコルンは大きな存在感、人間性があり、議論好きなセテムブリーニやナフタをはっきり凌駕する。

もともと慇懃すぎる性格のハンスは、クラウディア夫人をペーペルコルンと争うようなことは全くせず、どんな場面でも王者で、支配者であるペーペルコルンを「人物だ!」と尊敬する。冷淡だったが、どこか肩透かしをされるクラウディア夫人。

ハンスとセテムブリーニ、ナフタ、クラウディア夫人、ペーペルコルンとあと二人、ヴェーザル(ピアノで結婚行進曲を弾くマンハイム生まれの商人・青年)とフェルゲ(ペテルスブルグ出身。高尚な話に向かないと自称する善良な忍従者)の6人は、行動を共にすることが多かった。ヴェーザルは、ハンス同様、クラウディア夫人を自分のものにしたいと思っており、同類と感じてハンスのコートを持ったり、ハンスに対しへりくだった態度をとる。

金持ちのペーペルコルンが費用のすべてを負担して、彼らは、盛大にカード遊びや酒盛りを連夜、遅くまでする。

セテムブリーニとナフタは相変わらず、熱心に哲学的な神学論争を烈しく続けるのだが、ペーペルコルンのいるところでは、いつも彼の存在感の方が上回り、「彼の影響力のために、論争はその決定的に重要だという印象をぼかされてしまい ー こう言っては大変気の毒だが ー 結局こういう議論はどうだっていいのだという印象をみなに与えてしまった。」

遊びなど、共通体験を深めることで、ペーペルコルンに信頼を寄せるハンスをペーペルコルンも評価する。その長い盛大な酒盛りの深夜、別れ際に、酔っぱらったペーペルコルンは、ハンスがクラウディア夫人に接吻するように求める。「お別れにこの美しい女(ひと)の額に接吻したまえ、お若いお方。」と言い、ハンスは「いけません、閣下」「あなたの旅のお連れに接吻するなどということは、私にはできないからです。」と拒む。

ある晩、ハンスは、クラウディア夫人がパトロンであるペーペルコルンが寝ている時間を見計らい二人だけで話をするチャンスを得る。相変わらずハンスはクラウディア夫人を、「君」と呼び、クラウディア夫人は「そういういい方は、問題にしないことにするわ」と応じる。ハンスは、相変わらず、理屈っぽく遠回りにクラウディア夫人に言い寄る。最後に、クラウディア夫人は「あたしはあんたが冷静なのに腹をたてていたのよ。」「あんたがあの人を尊敬しているのを見て、うれしかったわ。いいわ、二人で同盟を結びましょう。」といい、ハンスの手を取り、ロシア風のキスをする。

ハンスは、ペーペルコルンとさらに仲良くなり、いろいろ教わる間柄になる。ある日、病気の老人であるペーペルコルンはハンスに問いかける。ここが、この小説のハイライト。

あなたは、一度もマダム(クラウディア夫人)を『あなた』と呼んだことがない。・・・あなたは、盛り上がった宴の最後に私がマダムに接吻するように求めたとき、馬鹿げているという理由で承知されなかった。そう言う釈明では、もう一つ別の釈明が入用だとあなたも異存がないはずです。その義務を果たしていただくわけにはいきませんか。あなたはクラウディアが前にここに居たときの愛人だった?」

「あなたには嘘をいいたくないです。ぼくはクラウディアを ー 御免なさい ー 旅のお連れを世間的な意味合いでは交際は全くありませんでした。しかし、ぼくは心の中でクラウディアを親しみを込めて『君』と呼んでいました。ただ、クラウディアがサナトリウムを出ていく前の晩、はじめて親しく話をしたのです。」

「あなたは今でもあの人を愛しておいでなのですね。」

「ぼくはあなたを非常に尊敬し讃嘆しておりますから、ぼくのあなたの旅のお連れに対する気持ちを、ぼくのあなたへの気持ちから言ってどうもおもしろくないのですが。」

「あの人(クラウディア夫人)も同じ気持ちを持っているのでしょうか?」

「ぼくはあの人が今までにそういう気持ちを持ったことがあるとは申しません。ぼくにはむろん女性に愛されるようなところはあまりありません。ぼくにはどんな人間的な大きさがあるでしょう。・・・ぼくがこんなことをお話したのは・・・過去のいきさつのせいで、ぼくに好意をお寄せくださるのをおやめにならないようにお願いしたかったからです。それだけが気がかりなのです。」

「それにしても、私があなたに自分では知らずに与えた苦しみは、たいへんなものたったに違いない。」

ハンスとペーペルコルンの熱のこもった会話は続く。

ハンスは、病気により長くサナトリウムに留まり世間と縁が切れてしまい、死んだも同然で、クラウディアへの理性を失った愛情表現も病気に屈服したからだというような意味のことを述べる。これに対し、ペーペルコルンは、もし自分が悪性の熱に参っていなければ、男対男ととして武器を手にして、あなたの名誉回復の要求にこたえただろう、また、自分が知らずにハンスに与えた苦痛に対して、また、自分の旅の連れがあなたに与えた苦痛に対して、あなたの満足のいくように取り計らっただろうと言う。さらに、ペーペルコルンはハンスに、お互い『君』と呼び合う兄弟になろうと申し出る。 ふたりは、グラスを交わして兄弟と認め合う。

仲の良い6人は、2頭の馬車を仕立てて森と峡谷の中にある滝へピクニックに出かける。

その途中、同じ馬車に二人で乗るヴェーザルはハンスに言う。「あなたは今では、ペーペルコルンが出てきて、おかしなことになっているが、一度はうまい巡り会わせで楽園に遊んでクラウディア夫人の腕を頸に巻き付けられたことがあるから、わたしに対して上から目線なんです。」「私は、クラウディア夫人に、もう、ぞっこんです。私がどんなに彼女に焦がれ飢えているか、しかもその思いが遂げられずに我慢していなければならないか、その苦しみはとても言葉ではいいあらわせません。・・・。」とハンスにこぼす。

滝では、ペーペルコルンがワインを何杯も飲みながら、立ち上がって口を動かすのだが、何を言っているのか誰にも理解できないものの、全員がその存在感に圧倒され、頷きながら頭を縦に振って納得していた。やがて、ペーペルコルンは出発を命じた。

そのピクニックの晩、ペーペルコルンは、象牙を使いコブラの歯を模し、毒を入れた注射器で自殺する。その夜、よく眠れなかったハンスは、深夜2時、クラウディアに呼び出されペーペルコルンが自殺した部屋で二人で話をする。

「この人は私たちのことを知っていたのかしら。」とクラウディアが言う。「この人は、ぼくが君にキスをしなかった時に、万事察してしまったのです。いま、この人が言ったとおりにするのを許していただけないでしょうか。」とハンス。クラウディア夫人は目を閉じて、彼の方へ顔を差し出した。ハンスはその額に唇をつけた。そのあと、クラウディア夫人はベルクホーフを去る。

ハンスは、ペーペルコルンとクラウディア夫人を失い、完全に行き詰まっていた。ハンスの顔は、ヨアヒムが自暴自棄な反抗を固めはじめたころに見せた顔つきを、はっきりと思い出させた。 ハンスは、自分の周囲を見渡した。周囲のものは、時間のない生活、心配も希望もない生活、停滞していながらうわべだけは活発に見える放蕩な生活、死んだ生活だった。

ベルクホーフでは、あらゆる慰みごとが流行っていた。写真の現像、切手の蒐集、チョコレートをむさぼり食う、目をつぶってブタの絵を描く、数学、トランプなど、ハンスもこられに夢中になる。 ハンス自身、自分の身に巣くう「恐ろしい鈍感」に慄然とする

 サナトリウムに突然最新鋭の蓄音機が設置させる。その蓄音機は最高級品であり、素晴らしい音を出した。また、200枚以上のレコードがあり、最高峰の楽団が演奏していた。療養者全員が夢中になるのだが、ハンスはその蓄音機の操作者になることを買ってでる。そして、一人でもその音楽を楽しむ。ハンスが好きだった曲は、オペラ、「アイーダ」。これを味わった後にドビュッシーの「牧神の午後」を聴いて息抜き。その次が、オペラ、「カルメン」。グノーのオペラ、「ファウスト」の中の「祈り」の歌。最後にシューベルトの「菩提樹」の「泉のほとりに」。 ハンスは、この「菩提樹」の中に希望を見出す。

ベルクホーフでは補佐役の医師が研究結果を講演で発表していたが、やがて神秘的な世界へと入り込んでいく。若い生娘を霊媒にしてこっくりさんに熱中する。生娘には霊が取りつき、死者を呼べる。ハンスは、ヨアヒムを呼び出すよう依頼する。不思議な現象が様々に起こる。

ベルクホーフは、毒々しい口論、憤怒の爆発、名状しがたい苛立ちに支配されるようになる。 最近入所した反ユダヤ主義者は、ユダヤ人の入所者と悪童のような取っ組み合いから、誰も見たことがないような死に物狂いの喧嘩をする。

また、ポーランド人の間で、名誉棄損事件が起こり、お互いが非難する文書を入所者にばら撒いていた。これを受け取ったセテムブリーニとナフタの二人は、決定的な口論に発展し、ナフタはついにセテムブリーニに決闘を申し込む。これを受けるセテムブリーニ。何とか翻意させようとするハンス。

しかし、二人は翻意せず、ピストルを至近距離から撃ちあう決闘を行う。フェルゲとヴェーザルが介添え人となり、ハンスは立会人となる。15歩離れたところで、お互いが向き合い、3歩ずつ前進し、ピストルを互いの胸に向けあう。その時、セテムブリーニは空に向けて何発かは発射する。「あなたは空へ向けて発射された。」怒るナフタ。「どこへ撃とうと私の自由です。」「もう一度うちたまえ。」「そのつもりはない。さあ、あなたの番だ。」 ナフタは「卑怯者!」と絶叫し、自分の頭に弾丸を打ち込んだ。

ハンスは、サナトリウムでは人畜無害な人物であり、放置されるようになっていた。自由と呼んでよいのか放恣(気儘で節度がない)なのか。

 しかし、このとき轟然と世界がどよめき、青天の霹靂がとどろいた。オーストリア・ハンガリー皇太子銃撃事件を契機にする第1次世界大戦の勃発である。セテムブリーニは、決闘事件以来、呆然自失となり無気力だったが、破局へ向かうヨーロッパの運命とともに複雑な心境だった。

ベルクホーフは、母国へ降りていこうとする人たちで混乱していた。ハンスもそうだ。セテムブリーニは、ハンスを駅まで見送り、「あなた」と呼びかけるのを止め、「ジョヴァンニ」(Giovanni)と「君」と何度も呼びかける。「私は君がもっと違った形での出発をするところを見たかった。でも、いいでしょう。・・・勇敢にお戦いなさい。さようなら。」 

ジョヴァンニというのは、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」からきている呼びかけで、「色男!」的な親近感を表す呼びかけだろうと、主は思う。

ハンスは、3千人の増援部隊の一員として、戦場にいた。彼らはすでに甚大な被害を被っていたが、目的地まで戦わなければならない。弾丸が当たり、額を、心臓を、腹部を撃たれ、腕を伸ばしながら倒れる、顔を泥の中に伏せて横たわる戦友の間を、よろめきながら突進していく。生存を期待できない悲惨な戦争である。

一番最後の部分を写し取ると、・・

「君は『鬼ごっこ』によって、死と肉体の放縦との中から、予感に充ちて愛の夢が生まれてくる瞬間を経験した。この世界を覆う死の饗宴の中から、雨の夜空を焦がしているあの恐ろしい熱病のような業火の中から、そういうものの中からも、いつかは愛が生まれてくるであろうか?」

(あらすじ終わり)

上巻は、物語がゆっくり、どこか牧歌的に展開し、下巻ではピッチを上げて、異常事態が短いインターバルで頻発する。最後には、第一次世界大戦が起こり、ハンスが病気をおっぽりだして、ドイツ軍の作戦に加わる。他の患者たちも、出身国の兵士となるべくサナトリウムを我先にと飛び出し帰国する。物語は、ハンスの生死も不明な状態で終わる。戦争は、これまでの病死や喧嘩、自殺などとはるかにスケールが違う。

翻訳が、率直に言うと、読みにくい。一般に意味が通じない日本語表現が、かなり出てくる。例えば、「あなた」と「君」という表現の違いは、ドイツ語やフランス語の二人称が親近度や長幼で変化するのだが、読者向けに補足説明があったら親切だろう。

おしまい

グールドがいちばん愛読したトーマス・マン「魔の山」その1

兎に角長い。
上下二巻で各巻が、
800ページほどある。

1932年生まれのグレン・グールドが、ニューヨークデビューしたのは、1955年なので、第二次世界大戦も終わり、社会は平和と繁栄を謳歌し始めた幸福な時期である。その戦争の影響が非常に少なかったカナダ、トロントで育ったWASP(ワスプ=ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント《≒新大陸に渡った、白人支配層の保守派を一般に意味する》)の彼は、それまでの西洋文化のバックグラウンドと戦後の自由や民主主義、社会の旧弊への反抗などを胸に抱えて青年期を過ごしたはずだ。

そうしたグールドは、トーマス・マンを筆頭に、トルストイ、ドストエフスキー、ヘッセ、カミュなどの世界的な名著をひろく読んでいた。日本の作家では、安倍公房、三島由紀夫や夏目漱石を読んでいて、とくに夏目漱石の「草枕」を絶賛しており、「草枕」の朗読番組を作ったこともある。亡くなる直前に彼は、「草枕」の番組を作ろうとしており、枕元には日本語版と何種類ものびっしり書き込まれた英語版「草枕」が残されていた。自分を芸術家と定義するグールドは、とくに漱石の芸術観につよく共鳴し、芸術が人を長閑(のどか)にし安らぎを与えるというところに、漱石と自分の共通項を見ていたように思う。

そんなことで、グールドはどんな思いで、マンの「魔の山」を読んでいたのかと思いを巡らせながらこの本を読んでみた。

この「魔の山」だが、兎に角長い! 文庫本で上下2冊あるのだが、それぞれの巻が800ページほどある。

そのなかで、登場人物に年長のイタリア人の自称、人文主義者と、カトリックに改宗した虚無主義のユダヤ人修道士が人生の先輩として説教しに出てくる。主人公を交えて、ああだこうだと議論するのだが、これが延々と長い!!どうでもいいとしか思えない、結論が見えないような熱のこもった議論が、延々と続く。その挙句の果てのオチに、もう一人の堂々とした多くを語らないオランダ人のコーヒー王(主人公が恋心を抱くヒロインの情夫である老人)が出てくるのだが、その人間的な魅力の前に、二人の屁理屈王たちの存在が霞んでしまう。

こういう未熟な主人公が、成長するにつれて人格を形成していく小説を、「教養小説」というそうだ。夏目漱石の「三四郎」などもそうらしい。そういう意味では、様々な読み方があるはずだが、決して権威を肯定するような小説ではない。

ただし、市民社会と言いながら、社会階級からくる差別意識は色濃い。夏目漱石の小説もそうだが、このマンの小説にも、下層階級のだらしなさを非難する描写がふんだんに出てくる。こうした下層階級の人たちを二人の作家が否定しているわけでは全くないが、ある種のエリート意識があるのは否めない。 むしろ、グールドの場合、彼は自分を芸術家と考えており、それは普通の人たちとは違うことを意味しており、その分芸術で、視聴者に責任を負っていると考えていたのは明らかだ。むしろ、人類みな平等というスローガンより、芸術家としての義務感が感じられてよろしい。グールドの思いが出ているところを例示すると、次のようになる。

● 「本質的には、芸術の目的は、癒しなおすことです。音楽は心を安らかにする経験なのだと思いたいのです。」(「グレングールドは語る」)

● 「聞くものにこの世のことを忘れさせてくれない音楽は、それができる音楽より本質的に劣っていると私は思う。」(「グレン・グールド 著作集2」)

● グールドではないが、カラヤン大先生の発言は分かり易い。『演奏者だけが盛り上がって聴衆は冷めているのは三流、 聴衆も同じく興奮して二流、 演奏者は冷静で聴衆が興奮して一流。』ヘ ルベルト・フォン・カラヤン

小説の登場人物それぞれに、やむをえない事情があり、それぞれが正しい人生や模範となる人生を歩もうとしながらも、簡単にそうはならない矛盾がとうぜんある。とりわけ、最後に出てくる「霹靂」の第1次世界大戦は、世界中から患者が集まるサナトリウムを一瞬で一変させ、患者たちがわれ先にと出身国に帰り、戦争に参加しようとするという結末は、それまでのサナトリウム内の騒動である喧嘩や、情事、人文主義者とニヒリストの議論、日常的に起こる個人の死などすべてのひとの営みを軽々と吹き飛ばすものだ。

もう一つのテーマと思えるヒロインとの淡い恋物語も、単純でキレイな話ではなく、主人公ハンスのプライドや世間体と、淫蕩な欲望が絡んだせめぎあいから出発している。主人公の態度は現代ではじれったいし、時代がかっているだろう。しかし、主人公のまどろっこしい態度とヒロインのある種の冷ややかな態度は、万国共通で時代を超えて普遍的であり、とても納得ができるものだ。

読みながら主は、自身のプライドや自尊心を守りながら、女性に対し欲望や欲情を満たそうとしても、簡単に見破られ、とても成就しないものだと感じる

グールドは、両親が極端にまじめなプロテスタントの家庭で育ち、性的な話や下ネタ系の下品な話は全くタブーだった。このため、友達が「ファック!」とかガールフレンドとの性的な話などと言おうものなら、そんな言い方は止めてと懇願したらしい。そんな抑圧を抱えたグールドは、自分の女性関係を徹底的に隠し、女性関係は今もってベールに奥深く包まれている。

しかし、プロデューサーのアンドルー・カズディンは、グールドが精力的に仕事をしていた後半の15年ほどの期間、一緒に仕事をしていたのだが、グールドの女性への態度を次のように語っている。

グールドには、正常な発達がどこかで阻害されたのではあるまいかと思われることろが幾つかあった。それは・・・世間一般の常識からすると、確かにグールドの女性に対する態度は変わっていた。それは私にもはっきり感じられた。彼は女性を、あたかも思春期前の少年のような純真な眼差しで見ていたのである。彼が抱く想像の世界では、十代の若者にありがちな未熟な要素と、年輪を重ねた者でなければ決して持ち得ない、創造性に飛んだ高度の知的要素といったものが分かち難く同居していた。そして、その二つが同時に顔をのぞかせることが多かった。」

「創造の内幕 グレン・グールド・アット・ワーク」

この小説の主人公のヒロインに対する恋心は、相手を貶めながらも、自分のものにしたいという矛盾したところがあり、グールドにも似たような部分があるかもしれない。

この長い小説を読むのには、骨が折れた。特に前半は、展開がゆっくりして忍耐を要した。しかし、話の展開が進むにつつれて、意外な事件が次々おこり、読みやすくなった。 

この本を読んでいると、西洋の歴史の厚みというか、圧政で押さえつけられてきた民衆がやっとのことで王政を打ち壊し、自由や平等、啓蒙思想の市民社会を作り上げた分厚くて困難な歴史が背景にあることを実感する。そのプロセスには、様々な哲学論争や、政治思想、また、カトリックだけでなくプロテスタントによる宗教革命など激しい争いがあったのだろう。そうした歴史を経て生まれた市民社会だが、それは依然として完成形ではなく、戦争によって簡単に壊されてしまう、そんな風にも読めた。

またこの小説は、様々な二項対立を描いている。我々の世界観の中に含まれる両極端な考えを、わかりやすく対比して示しているのは間違いない。それがグールドの価値観、我々の価値観の形成につながっているに違いない。

なお、次回アップしようと思うのだが、「魔の山」のあらすじをできるだけわかりやすく面白く書きたい。

おしまい

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