チェンバロリサイタルは最前列で。 辰巳美納子リサイタル・東京文化会館小ホール

1月29日(金)、東京文化会館小ホールで行われた辰巳美納子のリサイタルへ行ってきた。曲目は、バッハのフランス組曲第5番とゴルトベルク変奏曲の2曲である。

この小ホールは649席ある
開演前、休憩中ともずっと調律している

上の写真が開演前の様子である。コロナの真っ最中で、公演中止を心配していたのだが、無事開かれ、観客席は3分の1くらいが埋まっていた。

チェンバロは、おそらく鍵盤楽器では最古参だろう。金属製の弦を張り、爪が弦を引っ掻いて、音が出る仕組みになっている。鍵盤を強く叩いたからといって大きな音が出るわけではなく、優しく弾いても音量が小さくなるわけでもない。音量も小さい。そのため、楽団と合奏すると埋もれがちだ。 しかし、繊細で美しい音色が最大の魅力の楽器だ。

主は、熱烈なコンサートファンではないので、お好みのプログラムの時に、チケットの値段がほどほどのコンサートに出かけている。オーケストラの場合、S席などより、むしろホールの後ろの方とか二階席の方でも、音響設計が良くされているので問題はないし安いので、こういう席を選んでいる。今回も、足が延ばせるという理由で、中央右側の端っこの席を選んだ。鍵盤楽器の場合、演奏者が舞台に向かって左側に座るので、左側の方が手の動きが見えてよいのだが、左側は人気があり、選択できなかった。

チューニングを聞きながら、「この楽器、これはすぐ近くで聴くに限る。」と思った。大音響が出る楽器は、反響音により後ろの席のほうがよく聞こえるのだが、チェンバロは音自体が繊細で小さく、間近で聴くのが良い。

また、常にチューニングが必要なようで、20分間の休憩の間も、調律師がずっとチューニングをしていた。

そもそもこの楽器は、ヨーロッパの貴族が室内で楽しんだ楽器だ。大きなホールで民主化さとれた大衆どもが聴く楽器ではない。 というわけで、主は、コロナのせいで観客席が空いていたこともあり、休憩を挟んでほぼ最前列に移動して聴いていた。 同じように考えた観客もいるらしく、周囲には何人かステージ近くに移ってきた人がいたようだった。

この日のプログラムは、前半がバッハのフランス組曲第5番、後半がバッハのゴルトベルク変奏曲だった。

バッハは、鍵盤楽器のために有名なところでは、パルティータ集、フランス組曲、イギリス組曲、トッカータをそれぞれ6曲ほど作曲している。トッカータは、1楽章形式で、アドリブ的で奇想的な曲である。パルティータ集、フランス組曲、イギリス組曲が、当時のダンスミュージックである舞曲を何曲も組み合わせて作られた大曲である。

フランス組曲も素晴らしいのだが、やはりパルティータが全体としてのまとまりをよく考えて作られており、さらに大曲という趣がある。

辰巳美奈子のゴルトベルク変奏曲の感想を書いてみる。

何といっても、

① 演奏時間がめちゃ長い。

おそらく、80分間以上演奏していたが、グールドの倍程度になるはずだ。原因は簡単で、おそらく反復を全部しているからだ。グールドは、溌剌とした1955年のデビュー録音が38分、瞑想的な1981年の再録音が51分である。反復は、「1955年にはグールドは一切のくり返しをしなかったが、1981年には、カノン9曲と厳格な対位法の変奏曲4曲で、前半のみを繰り返した。」(「グレン・グールド神秘の探訪」 ケヴィン・バザーナ:サダコ・グエン訳 478頁)と書かれており、この日の演奏はちょっと冗長だ。グールドの2回の録音は、長短あるが、いずれの場合にも、極端に遅い演奏と極端に早い演奏が組み合わさっており、きわめて刺激的だ。

辰巳美納子の演奏も、現代的で明るく楽しい演奏を繰り広げているのだが、古楽器を使って楽譜に忠実に、当時のままに演奏しようとしているのかと思えるフシもあり、強いて言えば、指向性がはっきりしない。おそらく、彼女は、古楽を忠実に演奏するより、現代的で楽しくこの曲を演奏しようと考えているのだろうと思うのだが、さらにメリハリがほしい。冒頭のアリア、最後のアリアなどは極端にゆっくり弾いて欲しいし、疾走するところは疾走して欲しい。

逆に、グールド以前の大御所であるワンダ・ランドフスカ(1879年 – 1959年)の演奏のように、博物館にあるような年代物の演奏を、現代の今やったら、それはそれで面白く値打ちがあるだろうと思う。

要は、その人なりの「狂気」がないと面白くない。グールドは、音高と音価(=楽譜上の音の長さ)は変えていないが、拍子や速度記号を無視し、場合によっては音符も加えている。

② この日のパンフレットに「鋭い感性と自在な表現で全体を支える通奏低音に定評がある」と書かれていた。伴奏ともいえる通奏低音をホメるというのは、パンフレットとして、どうなのかなと思った。しかし、通奏低音のリズム感は安定していて、こういうことなんだと納得する。聞いていて安定していて、とても気持ちが良い。もちろん、他の声部もなかなか良かった。 

③ このゴルトベル変奏曲は、最初と最後のアリアの間に、30曲の変奏曲が挟まるのだが、最後の方に近づくにつれ、クライマックスに近づくのが感じられ、最後の変奏曲、クオドリベット(=宴会などで行う、複数人がそれぞれちがう歌を同時に歌う遊び:Wikipedia)で爆発する、その感じがよく出ていた。

このクオドリベットは、当時の俗謡が2曲入っていて、楽しくてとても聞きやすい。それまでのバッハの小難しさが消えて、すっかり楽天的になる瞬間である。ある意味、この曲はクオドリベットが出てくるまでが辛抱であり、この曲の到来で辛抱から解放され、最終的に、再び静かで美しいアリアの円環に戻る。

そう考えると、アリアに戻るところは、もっとゆっくり、極端にゆっくり、じっくり聴かせたらどうなんだろう。 しかし、終わりよければすべて良し。とても、感動的で、楽しめる演奏だった。観客も大きな拍手を盛大におくっていた。 主は、アンコールになにか、最低もう1曲を弾いて欲しかった。

おしまい

グレン・グールド 夏目漱石「草枕」と出会った経緯など

グレン・グールドは、「草枕」を読んでその芸術観につよく共感する。その経緯を、漱石研究者であるダミアン・フラナガン(Damian Flanagan)が、アラン・ターニーの翻訳による”The Three-Cornered World(草枕)”のペーパーバックの再版のイントロダクションで詳しく書いている。

ダミアン・フラナガンは、イギリス生まれの夏目漱石研究者で、日本とイギリスを往来しながら、日本語、英語の双方で著作や評論を発表されている。彼の書いた評論は、日本人研究者よりよほど核心をついていて、読んでいて納得がいく。非常にお勧めである。

そのダミアン・フラナガンが書いたイントロダクションのうち、グールドが出てくる段落を、拙いが、主が翻訳したものを最後に書いてみた。もし、目を通してもらえると有り難い。

また、そのイントロダクションと重複する部分があるのだが、ざっとした経緯を主も書いてみた。

1967年、35歳のグールドは、すでにコンサートの世界から身を引き、コンサートを開かなくなっていた。

休暇を過ごしたノヴァ・スコシア州アンティゴニッシュ(カナダの最東部にあり、トロントから約2000キロ離れている。)からトロントへもどる列車で、化学の大学教授のウィリアム・フォレイが、グールドが同じ列車に乗っていることに気づき、思い切って話しかける。二人は意気投合し、グールドは別れ際に、前年5月に「音の魔術師」と評される巨匠、ストコフスキー(1882-1977)と録音したばかりのベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番のレコードをプレゼントする。フォレイは、この日話題に上った「草枕(三角の世界)」を返礼として送った。

GoogleMapから 赤丸がアンチゴニッシュ
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番のレコードジャケット

グールドのお気に入りの本は、トーマス・マンの「魔の山」だった。しかし、アラン・ターニーの翻訳による、”The Three-Cornered World”(三角の世界・「草枕」)を読んでからは、今や彼が愛情を注ぐ本は、「三角の世界・「草枕」」が完全にとって代わった。

夏目漱石が「草枕」を発表したのが、1906年、アラン・ターニーが、27歳の1964年に、”The Three-Cornered World”というタイトルで「草枕」を翻訳した(刊行は1965年)。アラン・ターニー(1938-2006)は、1978年にロンドン大学で日本文学博士号取得、ICU(国際基督教大学)や清泉女子大学教授を務めた人である。

ちなみに、「草枕」の翻訳は、アラン・ターニー版だけではなく、何種類か出ている。夏目漱石の原作は、日本語で読むと、漢語や仏教用語がふんだんに使われ、多くの和歌や俳句、英詩やヨーロッパ文学者への批評も同時に出てきて、漱石の小説の中でももっとも難解で、漱石の知識の深さ広さに圧倒される。注釈を対照しながら読むのだが、腰を落ち着けてそれでも分からない単語をGoogleで調べて読まないと、しっかり理解できない。逆に、英訳のほうが、分かりやすく読み易いという。

グールドは、この本を知った後、従妹のジェシー・グレイグに二晩かけて、電話でこの本全部を朗読して聞かせたという。また、死の前年になるが、1981年に15分間のラジオの朗読番組で、第1章を抜粋して朗読した。この番組の冒頭で、グールドは次のように解説している。「・・・草枕は、いろいろな要素を含んでいますが、とくに思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観といった対立や、『モダニズム』のはらむ危険をあつかっています。私が思うに、これは二十世紀小説の最高傑作のひとつです・・・」と。

さらに、死の直前は「草枕」を使ったドラマ番組を作ろうとしており、死の床には聖書と「草枕」が残されていたという。

この小説を、漱石は脱稿するまで、わずか2週間で書いたというから驚くが、漱石(主人公)の芸術観と、主人公の絵描きの旅行先での出来事(ストーリー)が交互に語られるという珍しいスタイルで作られている。

下の絵は、「草枕」に出てくるシェイクスピアのハムレットの登場人物オフィーリアが、川で溺れる直前、歌を口ずさみながら死にゆく情景を描いたもので、漱石はこの絵を批判的に描写している。

Wikipediaから

主が手にしている、アランターニーによる”The Three-Cornered World”のペーパーバックは、2011年発行のもので、《序論》を書き加えたダミアン・フラナガン(Damian Flanagan)の「天才から天才へ」という段落を引用する。二人の天才というのは、もちろん、夏目漱石とグレン・グールドである。もし誤訳があれば、ご海容願いたい。

(以下の日本語訳文は、以前に書いたブログを改めたものです。)

序論の抜粋《天才から天才へ》(ダミアン・フラナガン)

草枕が、全員が同じく平等だという現代風の考えによって、大いに哄笑される理由となる落日の列車に乗っていると考えると、十分に皮肉なことだが、漱石の折衷的(和洋折衷的であり、過去と現代の折衷的)な傑作に精通したいと考える、おそらく、その小説を西洋でもっとも熱烈に評価する偉大な人物が、その列車に乗っていた。さらには、この熱烈な評価者は、芸術形式と音楽の第一人者であり、その小説のナレーターの音楽の第一人者は、ー おそらくは、すべての他のものの上位にあるこの芸術という形態が、穏やかな超越状態にもっとも到達できると躊躇なく認めるとはいうものの ー (「草枕」のバックボーンを)からきし何も知らないと認めている。

1967年、その世界的に有名なピアニスト、グレングールド(1932-1982)は、ノヴァ・スコシア州のアンティゴニッシュでの休暇から戻る列車旅行をしていた。グールドは22歳で彼の革命的なバッハのゴールドベルグ変奏曲の解釈で名声を獲得し、9年間の間、世界のコンサートホールをピアノ演奏の異端的なスタイルで聴衆を目も眩むような思いにさせてきた。レーナード・バーンスタインのようなクラシック音楽界の巨人たちは、ちゅうちょなく彼を天才と認めた。

グールドは、行動においてだけではなく、思想においても完全に独創的だった。彼は、ショパンとモーツアルトの多くの作品をあざ笑い、モーツアルトが、そのオーストリア人が手早い称賛のために、本質をいつも犠牲にする単に派手で「ぼくを見て」的な子供でありながら、批評家からそのような尊敬を集めたことに驚かされると主張する。グールドは、(楽壇の)支配者層を無視し、彼自身の道を追求することが完全に心地よかった。彼は、彼自身を音楽家だけではなく一人のオールラウンドな創造的な芸術家と見なして、音楽の演奏同様、著述と記述された言葉で演じることに興味を抱いていた。クラシック音楽の世界の尊大さとうぬぼれを揶揄するために、彼は想像上の性格の過度さを生み出し、彼は興味を持っているテーマのラジオ放送に関心を向けた。

1967年に、グールドは列車のラウンジに一人座っている時に、聖フランシス・シャビア大学の化学の教授であるウィリアム・フォレイが気付く。彼は、グールドの音楽の録音物への称賛を表明する勇気を奮い起こし、会話に引き込んだ。二人の男は意気投合し、その会話で、フォレイは最近読んだ「草枕(三角の世界)」と呼ばれる魅力的な本に言及した。二人の男たちが別れる時、グールドは自身のベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」の演奏のレコードをフォレイにプレゼントし、そして、後にフォレイは、ピーター・オーウェン版の「草枕」をグールドに送ることで好意に報いた。

行き当たりばったりに出会った本が、それほどのインパクトを読者に与えるのはまれなことだ。「草枕」は、たんにグールドの好きな本になったというだけではなく、彼の人生の残りの15年間で夢中になりとり憑かれたものの一つになった。日本に特別な興味を持っているわけでもなく、その国を訪れたわけでもないのに、最後にはその本の版を4冊所有し、2冊が英語版で、驚くことには2冊はオリジナルの日本語版だった。彼は、他の小説家の手による本よりも多く、書店に並んでいる全ての漱石の売られている小説の翻訳を、購入したと思われる。彼の人生を通じて彼にもっとも近かった人物である、従妹のジェシー・グレイグに、彼は、「草枕」への愛を、電話口でその全部を二晩かけて読むことで表明した。

彼がフォレイから受け取った版に激しく注釈を書き込んだだけではなく(残念なことに、これと、その他の素材は1988年に行われたパリでのグールドの展覧会での運送で失われた)、グールドは実際に37ページの別のノートを小説として生み出した。彼は第1章を凝縮し、それを1981年11月にCBCラジオ「ブックタイム」で、15分のラジオ放送番組として朗読した。(同じ月に、彼は、26年の歳月を経て、ゴールドベルグ変奏曲を改めて解釈し直し再録音した)また、彼は、翌年の死の間際まで、「草枕」に基づくラジオ劇を書き、公演する準備をしていた。彼が亡くなった時に、たった2冊の本しか枕元になかった。1冊は聖書で、もう1冊は「草枕(三角の世界)」だった。

その「草枕(三角の世界)」が1965年に刊行されたとき、その若い翻訳者もその刊行者も、その文学史上の重要性の観点からなんの真の理解をしていなかった。当時のスタイルに適合させるために、その本のカバーは日本に言及されることはなく、上品で最小限主義の黒地に中心を外れた小さな円の絵があった。それは、ピンク・パンサーかゴールド・フィンガーの一連のタイトルと同種なものに見え、その小説は東洋的な作品の一つとして印をつけられ、その著者は世界中の主要な、あるいは主要でない才能の大勢のひとりとして、ひとくくりにされていた。

グールドにとって、それは本当に単純に20世紀のもっとも偉大な大作の一つだった。以前には、グールドのお気に入りの本はトーマス・マンの「魔の山」だったが、今や彼が愛情を注ぐもののなかで、これ「草枕(三角の世界)」が完全にとって代わっていた。実に、グールド自身が指摘したように、多くの親和性が二つの小説の中にあった。マンの小説もせかせか立ち回る資本主義の世界から、穏やかなアルプスの風景への後退を描いているが、漱石の小説のなかの大量殺戮(戦争)の引力同様、ここの若いヒーローのハンス・カストルプが世界大戦を逃れられない。

何がグールドの興味をそれほど漱石の小説が呼び起こしたのか。それは、彼にとって、ほとんど自分のためにだけに書かれた一つの小説がここにあったと思えることに違いない、あるいは、彼自身によるものかと思えるほどに、完全に彼の芸術的な信念を例示していた。グールドは、音楽と芸術が非常に感情主義になっていることに飽き飽きし、悪態をつき、それから自由になることを求めていた。すなわち、彼の願いは個人へ向かい、超越することと静穏さだった。さらに、グールド自身の(従来の観念から)超然としたクラシック音楽の再解釈よりも、漱石の芸術の区分ほど、主題物と単なる雰囲気を定義し明らかにするものはなかった。漱石はいかにすべてものが見られ、再び違って見られるか、聴かれ再び違うように聴かれるか、書かれ再び違うように書かれるかを示し、創造性と芸術は文化的なパースペクティヴと精神的な状態から生まれるだけではなく、たえず、再発明と再解釈されるものだと示した。

実のところ、グールドは、「草枕(三角の世界)」を自分のラジオ劇に書きなおしたいという彼自身のアイデアがあった。もし、ターニーが「草枕」を「三角の世界」へ変えることを決めたのであれば、グールドは他のタイトルを使うことを計画していた。彼が持つその本の表紙と彼が書いた37ページのノートの両方に、グールドは傑出している志保田の娘を描いた。誰もが無慈悲な早すぎる心臓発作が、芸術の天才たちの間のこのもっとも魅力的な衝突の世界を奪ったことを残念に思うだけだ。もし、グールドがさらに長生きしていれば、「三角の世界」が、「カルト・クラシック(少数ながら熱狂的なファンを獲得している過去の有名人)」という評価を打ち壊し、英語圏で受けるべきより高い世界の名声を獲得したと信じられる十分な理由はある。

Introduction by Damian Flanagan
“The Three-Cornered World” by Natsume Soseki Tlanslated by Alan Turney

次回のブログは、このダミアン・フラナガンさんの研究成果をもとにいろいろ書ければと思っている。

おしまい

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