第613回定期演奏会 2021 12.14〈火〉 19:00 サントリーホール
12月14日、2021年のショパンコンクールで4位入賞された小林愛実さんのコンサートへ行ってきた。これがとても良かった。
このコンサートは、サントリーホールで行われた読売交響楽団の定期演奏会で、指揮者が2回、ピアノ独奏者が1回、コロナの影響で外人から日本人へと変わった。写真は、指揮者の高関健と、小林愛実さんである。
小林愛実さんは、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏したのだが、見事なリズム感、説得力のあるアーティキュレーションとその強弱、オーケストラのトッティの中での超絶的なスケールの上行と下降のみごとさなど、どれをとっても完璧な演奏だった。
涙腺の弱くなってきた主は、長いオーケストラの前奏のあとに入ってくるピアノに、思わず涙が出てきて困った。第3楽章の本当の最後のフィナーレの部分のピアノにも泣きそうになってしまった。年齢のせいで、涙腺が緩み、しょっちゅう涙を流しているとはいうものの、コンサートホールで、こうした経験はさすがに初めてだった。
ショパンのこの曲は、スラブの民族音楽の雰囲気が色濃くあり、それが心情的に訴えてくるのかも知れない。理知的なバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったドイツ主流派と、そこが違うところだろう。
彼女は、前半のプログラムの2曲目、休憩の前に登場した。彼女の演奏が終わった後、観客の拍手がいつまでも鳴り止まずに、アンコールで小品を1曲(ショパン前奏曲 Op.28 第17番変イ長調)を弾いてくれた。最近のコンサートでは、アンコール演奏がないことが多いように感じていたので、これも珍しい。
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余談だが、主は、NHKが1985年に放送したショパンコンクールでブーニンが優勝した時の番組を見たのがきっかけで、クラシック音楽を聴き始めた。ちょうど、レコードがら、CDへ切り替わる時期だった。
主がハマっているグレン・グールドは、「やがてコンサートはなくなるだろう」と言った。彼は、コンサートホールの聴衆を、闘牛を見に来た観客に例え、演奏者が失敗するのを期待していると考えていた。同時に、完璧主義者のグールドは、見事な演奏に聴衆から熱狂的な拍手喝采を受けている際に、「今の演奏には、マズいところがあった。もう1度やり直したい。」と思っていたらしい。
あがり症と完璧主義者的性格によって、彼はコンサートから32歳の時にドロップアウトし、スタジオに籠ってレコード制作をするようになる。そこでは、何度でも気に入るまでテイクを取り直せる。
そうしたグールドは、技術の進歩により、リスナーが音楽の一部分、例えば、だれだれの演奏(キット)と、だれだれの演奏(キット)をつないで、自分だけの好みの演奏を作って楽しむだろうといったことも言っていた。こうした実験的な試みは、パソコンを使ってデスクトップミュージックという分野で、確かにそうしたことができる時代になったが、一般のリスナーはそこまではしないし、コンサートはなくならなかった。
生演奏の、生の楽器の素晴らしい音は、自宅で簡単には再現できない。コロナ禍で、マスコミはテレワークと同様、オンラインで音楽を楽しめるとしきりに流していたが、自宅のスピーカーでコンサートホールの音が再現できるなど、ちゃんちゃらおかしい。 まして、遠隔で、合奏(アンサンブル)できるみたいなことも言っていたが、それをコンサートホールと同様の音質でわれわれが聴けるとはとうてい思えない。
完成度の高さでは、録音物の方が高いのは間違いないだろうが、やはり、生の音は良い。弦楽器が実際に音を出す前には、一瞬前に弦と弓がこすれるかすかな音がするし、クラシック音楽で使われるどの楽器でも、アコースティックな響きは非常に心地よく、録音物では表現できない良さがある。 そのため、コンサートの意義はなくなっていないのではないか。
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プログラムの後半には、高関健指揮で、プロコフィエフ(1891-1953)の交響曲第5番が演奏された。主は、このプロコフィエフという作曲家の交響曲を初めて聴いた。パンフレットの解説によると、革命を嫌気して西側へのがれたプロコフィエフだが、結局、革命後のソ連に戻ってくる。このソ連時代に書かれた曲で、旋律がニュース映画に出てきそうで、いかにもソ連的だ。
演奏するオーケストラの団員数は、ショパンの協奏曲と比べるとずいぶん多い。特に、後列の打楽器奏者は、5人ほどいたはずだ。彼らが銅鑼やらシンバル、大太鼓などを鳴らすので、フォルテッシモでは、超絶、大迫力である。
こうした曲をCDやストリーミングで自宅で聴くのは、大掛かりな再生装置が必要になるので、難しい気がする。こうした大曲は、生でコンサートホールで聴くに限る、そんな気がする。大音量で、こうした交響曲をホールで聴くのは、ストレス発散にいいかも知れない。
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そう思ったところで、確かグールドはプロコフィエフを弾いていたはずだと思い調べてみたら、コロンビア(現在ソニー)の正規録音で、ピアノソナタ第7番「戦争ソナタ」を1968年にニューヨークのスタジオで残していた。
このピアノソナタは、6,7,8番をひっくるめ、第二次大戦中に作曲されたために「戦争ソナタ」と西側陣営がつけたらしい。だが、ソ連ではたんに「3部作」と呼ばれていたようだ。交響曲第5番も、同時期に作曲されていて、雰囲気が似ている。
このグールドの演奏だが、「おお、交響曲第5番も、こんな感じやったぞ!」と思った。グールドの演奏はピアノソナタなので、ピアノ1台なのだが、そもそも、オーケストラの交響曲の雰囲気を出すのがうまい。とにかく彼の演奏は切れが良い。音量を変えながら、気持ちの良いリズムを刻んでいく。また、和音の響きが、古典派などの予定調和な響きとは全く違って、現代的で、これはこれで、なんとも気持ちよい。彼は手を変え品を変え、曲の魅力をリスナーに見せる。
多くのピアニストは、右手の高音部と左手の低音部だけしか聞こえてこないのだが、グールドは内声部も強調する。そのように弾くには、楽譜の音を単に鳴らせばよいというものではなくなり、別のメロディとして弾く必要があるので、彼はしばしば指を持ち替える。(=最初に鳴らした音を鳴らし続けるために、別の指で押さえ続ける。)
3声や4声を弾き分けることで、複数の声部があらわれて鳴っているので、聴いていると発見がある。現代曲にあるような気難しさより、多彩なきらめきが勝っている。
また、彼は和音を同時に打鍵することがほとんどない。もちろん、同時に鳴らした方が良いときは同時に打鍵するが、和音は、複数の旋律の音が合わさっている場合が多いので、バラしながら打鍵することがほとんどだ。はやいアルペジオ風で、目立たせたい音を最初にもってくる。
彼は、ピアノを弾くときに、弦楽四重奏の奏者のように、ソプラノ、アルト、テノール、バスの4人の奏者がいるようなイメージをしているという。ピアノを習うときには、楽譜の同じ拍のところにある音符は同時に鳴らしなさいと習うはずなので、拍を崩さずに和音をばらして弾き、なおかつ、自然に聴こえるように弾くのは、難しい。
最終楽章である第3楽章は、早い烈しいリズムで、ジャズ風に聴くとことができる。狂気を感じることもできる。 ここには、ソ連的という地域に根差した音楽ではなく、もっと普遍的な音楽の楽しさがある。ちょうど、第3楽章のYOUTUBEがあったので、聴いてください。
激しくアップテンポで連続する和音の中に、二つの高音の違ったリズムのメロディが出入りしていて、「こりゃあ、超絶技巧だな。」と思わせる。やがて、もりあがった最終盤にちょっと速度を緩めることで、「もう終わりよ。」と示して、突然終止する。
ジャズか現代音楽か、どちら属するのかよく知らないが、スティーヴ・ライヒという人がいて、「ディファレント・トレインズ」という曲があるのだが、ちょっと似ている。
なお、少し上等のイヤホンを使って、近年リマスターされた正規版のCDを聴くと、グールドの唸り声と生涯使い続けた椅子がきしむ音が聞こえてきます。
おしまい