クラシック音楽の世界に、グレン・グールドという人物がいた。彼は、カナダ人のピアニストで1932年に生まれ、1982年に死んだ。つまり、生誕90年、没後40年ということになる。
普通のピアニストは、まっすぐな姿勢で指を鍵盤に振り下ろすように叩いて音を出すのに対し、彼は手首を平らにして指で鍵盤を引っ張るように弾くので、非常に美しい音を出す。爆発するような弾き方はできないが、リズムが明瞭で粒が揃って天国へいざなう説得力がある。
人気は、今なお根強く、放送局に眠っていたテープなどを使ってCDが新たに発売されたり、曲の組み合わせを変えてCDが発売されたり、音楽雑誌でピアニストの特集があれば、必ず取り上げられる人気を保っている。
この本は、音楽について素人で、クラシック音楽に精通しているわけでもない作者が、グールドの音楽について語ろうというものだ。このため至らぬ点や間違いがあるに違いない。また、グールドは、全般に率直な人だったが、素の自分を語らず、隠していた部分が多かった。このため、グールドに関する伝記や評論は非常に多数ありながら、核心部分を知るのは難しい。だが、これまでに書かれた著作を辿ることで、彼の本性にかなり近づけたと自負している。
ただ、これを書こうと思った動機は、何といっても彼の音楽を知らなかった人にもグールドを聴いて欲しいということだ。
このため、グールドの事について、あまりに音楽の専門的なことを詳しく語ると、多くの人は気楽に読めないだろうし、逆にそうしたことを全く語らないと、説得力の弱いものになってしまう危惧があった。そのため、本書は誰にとっても読みやすいものにしながら、細かい専門的なことやこれまでの研究家の研究結果は、なるべく脚注や別の参考資料に書く形にした。こうすることで、もっとグールドを深く知りたい人は、そちらを読んでいただければ深く理解できるように心掛けた。
彼の演奏は、他のピアニストと大きく違っている。
どこが違っているのかというと、一般のピアニストは、高音部のメロディーと伴奏の低音部の二本立てが普通だ。しかし、彼は、その中間にある内声と言われる部分にスポットライトをあて、別の旋律を浮かび上がらせる。まるで連弾しているかのように弾き、どの旋律にも対等に主役の座を与える。
また、演奏の基本を、音を短く区切るスタッカート奏法においている。一般のピアニストは、ピアノはレガートに弾くものだと教わるが、ずっとレガートの演奏を聴かされると飽きるし、疲れる。レガートは緊張、スタッカートは弛緩と考える彼は、ここぞという場面に美しく緊張感のあるレガートを取っておく。
彼は、一般のピアニストと違って、ペダルをほとんど使わず指を持ち替えながら弾く。このため、音が混じらず出てくる音がクリアで非常に美しい。
また、最大の違いは、作曲家が書いた楽譜に手を加えることをためらわないことだ。彼は、楽譜に書かれた音楽記号に囚われない。正統派のクラシック音楽界は、作曲家の意図の再現を最重要視するのに対し、彼は、どうすればベストな曲になるかを考えて、再作曲をする。これをもっとも過激にやったのがモーツァルトである。
彼は、[1]ジェームズ・ディーンの再来といわれるほどの美男子だった一方で、ずっと独身で私生活を隠してきた。グールドは、潔癖症の大富豪ハワード・ヒューズのように生きたいと言い、私生活を徹底的に隠した。そのせいで長い間ゲイとか、ホモセクシュアルだと言われ、女性関係がまったくないと思われてきた。だが、近年、ゲイどころかプライベートな生活では、実に多くのロマンスがあったことが分かった。
この多くのロマンスを明らかにしたのは、映画「[2]グレン・グールド《天才ピアニストの愛と孤独》」の原作本である「[3]グレン・グールド・シークレットライフ《恋の天才》」だ。彼の女性関係は、この原作に基づいている。
彼は、母親の不安症が影響し、子供のころから薬物に依存していた。その依存症は、年月を経るほどに激しくなり、やがて、幻影や被害妄想に憑りつかれるまでになる。
だが、彼は芸術家としての責任をつねに感じていた。見せたい自分を生涯にわたって演じ続けた。音楽にすべてをささげていた。それが原因で、結婚しなかったし、強迫観念によって薬物依存にもなった。
他方、日本ともゆかりが深く、彼が後半生に熱中した夏目漱石をはじめ、阿部公房原作の映画「砂の女」、音楽を担当した日本の現代作曲家武満徹、そして実際に親交があった小澤征爾が登場する。
[1] ジェームズ・ディーン:(James Dean、1931年- 1955年)は、アメリカの俳優。孤独と苦悩に満ちた生い立ちを、迫真の演技で表現し名声を得たが、デビュー半年後に自動車事故によって24歳の若さでこの世を去った伝説的俳優である。
[2] 映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」監督:ミシェル・オゼ、ピーター・レイモント 角川書店、2012年発売
[3] 《The Secret Life of Glenn Gould: A Genius in Love》 Michael Clarkson ECW press, KINDLE版