第2章 バハマ休暇旅行

グールドは、1956年1月、ゴルトベルク変奏曲のビッグセールと2月、自作の弦楽四重奏曲の初演で、作曲もできるピアニストとして、世界レベルの音楽家の仲間入りを果たした。一方で、3月24日から4月5日までの2週間、カリブ海のバハマへ休暇旅行へ行った。

この旅行は、表向きは、アメリカデビューとゴルトベルク変奏曲の録音、自作の弦楽四重奏曲が初演され、これらが一段落を迎えた骨休みということになっていた。しかし実際のところは、グールドは17歳のときから5年間付き合っていた恋人[1]フラニー・バッチェンにプロポーズを断られた感傷旅行だった。グールドは一人っ子で親からの愛情を一身に受けて育ち、大人の中に混じってトロント王立音楽院で学び、コンクールへ出れば大人たちを差し押さえて優勝する神童で、挫折を経験したのは初めてだった。新進の世界的ピアニストの階段を上りはじめたスターが、プロポーズを断られるとは彼自身、思ってもいなかった。

バッチェンと知り合ったのは、グールドが17歳のとき、彼女は7歳年上だった。バッチェンは、グールドと同じロイヤル音楽院で、グールドと同じピアノ教師についていた。

グールドのピアノの演奏技術は完成していたが、性的なことは何も知らないナイーブなままだった。バッチェンは、はじめてグールドに性的な世界もあることを教えた。

グールドのプロポーズの言葉は、”We should get married.”(結婚しようよ。)だった。だが、このセリフは、まるでぼくたちは役場へでも行かないといけないというニュアンスで、結婚するのが当然であり、断られるなんて頭にまったくないものだった。つまり、自分のどこが悪いのか、結婚生活に不向きなのかを全く理解していなかった。

彼女は、世界一有名な若いピアニストの夫人になるか、ずいぶん長い間考えた。しかし、彼にはあまりに社会性がない、世界を股にかける新進の大スターでも、結婚して一緒に暮らすのは割が合わないと結論を出した。

グールドのセンチメンタルジャーニーには、グールドの複雑な性格をよく表す事情が背後にあった。

この旅行には、カナダの雑誌《ウィークエンド・マガジン》社の記者である[2]ジョック・キャロルが同行して、彼は、世界を股にかける新進の大スターが、休暇でどのような息抜きをするのか、その複雑でエクセントリックな性格を解き明かす切れ味のよい物語を書き、写真も撮って来いと言われていた。

もちろん、この旅行中、グールドはキャロルにバッチェンに振られたことはおくびにも出さなかった。付き合っているガールフレンドがいることすら隠していた。

しかし一方でこの旅行では、キャロルに、かなりありのままの素のグールドを見せていた。

しかしながら、最終的にグールドは考え、キャロルに旅行の時の様子をそのままに記事にすることは認めなかった。写真の掲載は認め、記事は自分で書き、キャロルの名前で発表させた。そして発表されたのが、《[3]ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》である。

旅行からトロントへ帰ってからも、グールドはキャロルと友人のように電話で率直に話をしていた。しかし、キャロルが電話の内容をメモに取っていたことに気づき、グールドは、すぐにキャロルとの交際を断った。グールドは、人間関係に気に入らない兆候を見つけるとすぐにその関係を絶った。

グールドにとって、たとえ友人たちとの交友関係であろうと、何か許しがたいことがあるとすぐにその関係を解消した。彼は、あらゆるものをコントロールしようとした。それができないと不安になるのだった。そのため、周囲の関係をいくつかの小さなサークルに分け、コントロールできない相手は、関係をいきなり断ち切ってしまうのだった。関係を断たれた方は、心当たりもなく何が原因なのかさっぱりわからなかった。

これは、グールドが生涯続けた人間関係の避けがたいポリシーだった。彼は、自信家で、ユーモアのある誰にも好かれる人物だったが、小さなことで交友関係を断ち、死ぬときに親しい関係があったのは、父親も除外され五指に満たなかったと言われる。

キャロルは、バハマ旅行の様子を公表しないという約束を守り、グールドが生きている間、旅行記を発表しなかった。しかし、死後である1995年に『[4]グレン・グールド光のアリア』でその時の様子をようやく明らかにした。

この時に、ちょっとした事件が起こった。というのは、グールドの死後設立されたグールド財団が、キャロルと出版社を著作権違反で訴えた[5]。キャロルが、この旅行で撮った写真とインタビューに使ったテープとメモから書いた記事が、保護すべき著作権を侵害していると訴えた。プライバシー侵害か、パブリシティ権が優先するのかが控訴審まで争われ、最終的に、キャロルの死後の1998年に著作権の侵害よりも公開することの公益性の方が大きいと結論付けた。

この時の被告側(キャロル)の主張は、こうだった。

ここでも、誰もいないマッシー・ホール、グールドの母親の家、バハマでの休暇といったインフォーマルな場で行われたインタビューの性質は、グールドがリラックスしているときの自然な姿をとらえるためのカジュアルなものであった。二人の会話は、グールドが友人と交わすようなものであった。実際、グールドとキャロルはその後しばらく友人として付き合うことになる。グールドは、講義をしたり、キャロルに指示を出したりしていたわけではない。むしろ、キャロルはグールドと気楽に会話を交わし、その中からグールドの性格や私生活を見抜くようなコメントが出てくるのである。グールドは、公の場に出ることを承知で、何気ないコメントをしていたのである。これは、著作権法が保護しようとする会話とは異なるものである。

控訴審の判決はこうだった。

キャロルは、写真、テープ、グールドとのインタビューのメモを持っていた。キャロルは、自分の記憶をたどり、グールドに初めて会った場面を再現できる唯一の人物であった。その結果は魅惑的である。この本は、天才音楽家の人物像に説得力を与えてくれる。キャロルの芸術的創造物を保護することで、法律は、そうでなければ否定されるであろうグールドの初期の時代への洞察から、公衆が利益を得ることを許可している。

つまり、『キャロルのフォト・ルポルタージュ』は、彼が世間に見せたかった面を自分で書き、『グレン・グールド光のアリア』こそが、キャロルが見た、グールドの普段の自然な姿が表れている。

《ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》

まずは、旅行直後に発表された《ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》を紹介しよう。

《「ぼくはエクセントリックじゃない」右隅にweekend magazine vol.6 No.27, 1956 と書かれている》

前に書いたように、こちらは、キャロルが撮った写真を使いながらグールドが語っている。書かれた内容は刺激的で、彼の自信とエクセントリックさに対する弁解が、ユーモア交じりに語られていて面白く読める。だが、この旅行の事はほぼ出て来ない。グールドの音楽に対する姿勢が、願望とともにオーバーに書かれている。

この記事は、ウィークエンド・マガジンにキャロルの記事として発表されていて、グールドが記事を書いたとは明記されていない。なぜ、グールドは、キャロルに記事を書かれるのが嫌ったのだろうか。

グールドが、休暇を取ってその休暇に記者が同行するということは、生涯このバハマ旅行しかない。グールドは、365日音楽に身を捧げているところがあり、クリスマス休暇でも音楽に没頭していた。そのため、2週間の休暇を取ったバハマ旅行のようなことは他になかった。

グールドは、北米で名を上げた後、ソ連公演とヨーロッパへの演奏旅行をして、ソ連では通訳が同行している。ヨーロッパでは、この後出てくる恋人グラディス・シェンナーが同行して記事を書いているが、バハマ旅行は、記者と過ごす初めての経験だった。

つまり、グールドは、休暇を取るのが初めて、記者の同行も初めてで、率直に素の姿をキャロルに見せていたが、その姿を世間に公表することを選択しなかった。きっとさまざまな影響を考え、怖気づいたのだろう。彼は、女性関係を徹底的に秘密にするだけでなく、ホモセクシュアルではないかという噂を否定も肯定もしなかった。しかし、それ以外の、例えば処方薬の摂取の問題やばい菌への不安などは初めから公表していた。つまり世間に対し、見せたい自分は見せ、見せたくない自分は隠すという印象操作を明らかにしていた。

他方、キャロルが書いた1995年の『グレン・グールド光のアリア』に、音楽に「[6]私は門外漢で、『フーガ』はおろか、『フォルティッシモ』の意味すらわからなかった」と書いている。彼は、クラシック音楽について深い知識を持っていなかった。

《グレン・グールド光のアリア》

では、次に『グレン・グールド光のアリア』に書かれている内容を順に見てみよう。

グールドとキャロルは、バハマの首都ナッソーの飛行場に降り立った。グールドは、この南国のリゾートに来ても、相変わらずの服装だった。丈の長い黒のオーバーコート、目深に被ったいつものベレー帽、ぐるぐると首に巻き付けたウールのマフラー、黒い手袋、オーバーコートからわずかに先を覗かせた茶色のデザートブーツという恰好だった。

ナッソーがあるニュー・プロビデンス島は、マイアミからは南方へわずか200KMほどしか離れていない。東西が30キロ、南北が10キロほどの小島である。さらにバハマのすぐ南にはキューバがある。

グールドたちは、海に面したフォート・モンタグ・ビーチホテルに泊まった。人口が10万人程度のこの島で、このホテルは一番大きなホテルだった。

グールドは、到着してから数日間、部屋のドアに「Do not Disturb.(入らないで)」という札をぶら下げ、ずっと部屋に籠りっぱなしだった。

キャロルが、旅行の前、グールドの実家に打ち合わせに行ったとき、母親のフローラが、グールドの姿が見えなくなる瞬間を捉え、こういったのを思い出した。フローラは、グールドを41歳の直前に出産していたから、この時すでに63歳だった。彼女は、女性としての魅力に乏しく、草臥れ世間の常識に囚われたおばさんにしか見えなかった。

「この旅行にご同行願えるのであれば、洗濯物をしっかり出すようにグレンに言ってくださいませんか。あの子は何度も言わないと、いつも同じ服ばかりを平気で着ているのです。ですので、あの子にきちんとした服を買うように言ってくださいませんか。それと、太陽の光を浴びるように言ってくださいませんか。体が心配なんです。」

しかし、グールドは、あいかわらず部屋から一歩も出てこなかった。キャロルは、意を決してグールドの部屋をノックした。意外にも、グールドは返事をすぐに返して、しぶしぶながらに、彼を部屋に招き入れた。戸外は太陽がギラギラ照りつけていたが、部屋は厚いカーテンがしっかり引かれ、ほぼ真っ暗だった。

「ぜんぜん出てこないから、死んでいるんじゃないかと思ったよ。」

「まさか…。仕事をしていたんですよ。オペラを3小節書きました。このオペラは、完成させるのに3年はかかるでしょう。テーマは、トーマス・マンから取ったものです。『創造的な芸術家が、作品を生み出すには、いかに反社会的にならなくてはならないか』というのがテーマです。」

グールドは、2台のベッドをくっつけ、交差するように寝そべっていた。化粧台には、薬瓶がいくつも置かれ、血圧の薬、抗ヒスタミン剤、ビタミン剤、睡眠薬があった。

グールドは、有名な作家が、音楽の知識を小説にどのように生かしたかを話し始めた。やがて、フーガの技法における全音音階や不協和音の進行に話が及びはじめ、音楽に深い知識のないキャロルは、話についていけなくなった。

グールドは、発表したゴルトベルク変奏曲の演奏だけでなく、ジャケットの裏面のライナーノーツの解説も書いていた。こうした解説を演奏者自身が書くことはこれまでになく、これも話題を呼んでいた。キャロルは、このライナーノーツを旅行前に読んでいた。しかし、それは何度読み返しても理解できない代物だった。楽譜を掲げながら音楽理論を展開するのだが、文章も長文で、言い回しが難しく理解不能だった。

キャロルは、我慢しながら3度この文章を読み返した。しかし、彼が理解できたことは、その曲を作曲者J.S.バッハの不眠症のパトロンであるカイザーリンク伯爵が入眠儀式に用いたこと、それと、その曲が「終わりも始まりもない音楽であり、真のクライマックスも、真の解決もない音楽であり、[7]ボードレールの恋人たちのように、『とどまることのない風の翼に軽々ととまっている』音楽である」というところだけだった。この比喩は、よく考えると意味深でエロチックだとキャロルは思った。

グールドは、つなげた2台のベットを横切るように寝るのをやめ、机の椅子に座りなおした。そこは、ホテルのマッチが、箱から取り出されて山のようになっていた。彼はその一本を手に取り、火をつけると、目から15センチほどのところへ持って行き、燃え尽きるまで炎をじっと見ながら言い始めた。

「逃げなくちゃだめだ、って思うんです。」

「この前のコンサートの時も、本番の数分前まで今日もできるのだろうかととても不安でした。」

「いったい、何が問題なんです?」

「病気なんですよ。」病気という言葉をグールドは、強調して言った。

「痙攣性の腹痛、下痢、喉を締め付けられるような感覚。今、3人の医者にそれぞれ診てもらっています。もちろん、どの医者も残りの2つの症状については知りません。他の医者にかかっていることは、知らせていないのです。でもこの病気のせいで、他人と一緒に食事ができない。家族とだってダメです。ああ吐くぞ、吐くぞ、といつも考えている。今度は精神科ですね。」

キャロルは、この告白に非常に驚いた。

「もちろん記事には、一言も触れちゃダメですよ。何か書かれでもしたら、私の演奏家生命は一巻の終わりになりかねませんからね。」

「演奏家活動はどんな具合ですか?」

「去年は6000ドル(2020年一人当たりGDP比で、149,689ドル=1650万円)ほど稼ぎました。それでもいつもお金に困っています。これまでの出演料は、一晩750ドル(230万円)から1,000ドル(300万円)でした。来年は、1,250ドル(同380万円)になります。でも、お金のことは書かない方がいいですね。マネージャーが嫌がりますから。」

キャロルは言った。

「だんだん考えがまとまってきたんですけどね。今回の記事は、普通、記録に残らないような内容に絞ろうかと思うんです。」

グールドは声を出して笑い、言った。

「いいんじゃないですか。どんな神経症患者を相手にしているかわかるでしょう。」

グールドは、相変わらずマッチに火をつけ、燃え尽きるまで炎をじっと見ていた。キャロルは、催眠術をかけられているような気持になり言った。

「一山に一度に火をつけたらどうですか?」

「それはとっておきの方法なんですよ、一人でいるときのね!…でも母には内緒ですよ。この癖を直させようと必死ですから。」

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翌日、キャロルは、グールドを部屋から出すことに成功する。キャロルは、男二人よりも若くて美しい女性がいれば、グールドの会話も弾むだろうと踏んで、ホテルの副支配人の婚約者である女性に来てくれるように依頼していた。婚約者は、聡明ですらりとしてスタイルがよく、髪の毛を後ろで束ね、ショートパンツを穿いた魅力的な女性だった。

グールドは、彼女とのたわいのないおしゃべりにすぐに夢中になり、上機嫌で言い始めた。

「ぼくはいつまでも演奏会活動をやるつもりはないんです。作曲と、それから出来れば指揮者に転向したいんですよ。」

「70歳になるまでには、オペラが2,3曲、交響曲が数曲あるといいですね。ああ、もちろんレコードだってどっさりできています。」

この婚約者が、マリーナでモーターボート借りられると言い、マリーナまで車で送ってくれた。この車を運転しながら、婚約者が、海水浴をしないのかと訊いた。グールドは、答えた。

「海水浴はしたいけど、海水が腕に悪影響を及ぼさないかが心配なんです。海水浴するなら、肘より上まで包み込むようなゴム手袋を嵌めなくちゃだめでしょうね。」

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グールドとキャロルは、沖へ向かって全長4メートル半のモーターボートを出した。

キャロルは、グールドが、別荘がある[8]シムコー湖でモーターボートに乗り込み、自然保護派を標榜する彼が、湖面を左右にカーブを切り波を起こしながら爆走して釣り人の邪魔をするのが趣味だ、と聞かされていた。

それで、グールドが同じ爆走をするのではないかとキャロルは気が気ではなかったが、その不安は現実のものとなる。グールドは沖に大型船が停泊しているのに気づくと、そこを目標に定め爆走を始めた。沿岸部が穏やかでも、沖へ外洋へと出ると、小舟は大きく揺れ、キャロルは、船外に放り出される恐怖にかられ叫んだ。

「このままでは海に放り出されてしまう!スピードを緩めてくれ!!」

しかし、グールドは聞こえないふりを続けた。

やがて、大型船の下まで到着し、乗客が見下ろす中、何やら熱狂的な衝動にかられた様子のグールドは立ち上がり、指揮者のポーズをとりながらオーケストラのメロディーを大声で歌いだした。

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グールドは、ピアノの練習のため深夜の2時から4時まで、ナイトクラブのグランドピアノを自由に使えるようキャロルに頼んでいた。二人がそこへ行くと、ピアノは舞台の隅に置かれていた。

キャロルが、そのピアノを照明がよくあたる舞台の中央へ移動させようと動かしたところ、突然、舞台の床の一部がバリっと音を立てて破れ、ピアノの脚の一つが舞台の下へめり込み、ピアノが斜めに傾いてしまった。

これを見たグールドは、意地の悪い笑いを浮かべたまま、このありさまとキャロルの狼狽ぶりをじっと見ていた。彼は、吹き出しそうになるのを懸命にこらえながら、真面目くさった顔でこう言った。

「あのね、ぼくはわずかに角度をつけて弾くのは好きなんだけど、これじゃちょっと角度のつきすぎだね。」

と言って、自分の冗談にけらけら笑うと、楽譜を持ってさっさと部屋に戻って行った。

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次の晩、二人は改めて同じ時刻にナイトクラブへ向かった。

ピアノを弾き始めるグールド。グールドの写真を撮るキャロル。

キャロルは、グールドの様子に驚く。キャロルは、巷間言われている、[9]オランウータンのような姿勢で、歌を歌いながらピアノを弾くとか、空いている手で指揮をするということに半信半疑だった。しかし、グールドは誰もいないこの空間で、言われている伝説のまま、大きな声でハミングしながら、歌いながらピアノを弾き、片方の手が空いているときには、想像上のオーケストラを指揮しながら恍惚となってピアノを弾いていた。

脚を切った低い椅子に座ったグールドが、猫背になって前に屈みこむと、指の方が手首より上にあり、長い髪が鍵盤に触れた。彼はピアノで、頭の中に響く音楽と一体になっていた。アコースティックな生のピアノの音は圧倒的で、キャロルは、グールドを現世とどこか神の世界とつなぐ伝道師かシャーマンのように感じた。

キャロルは、クラシック音楽のことはよく知らなかった。しかし、グールドの演奏の強烈さに圧倒され、ときおり写真を撮るのを忘れ見惚れてしまった。グールドは、普段ピアノを弾いていないときでも美男子で、フォトジェニックだった。しかし、ピアノを弾き始めると、現実の世界から別の世界へと行ってしまい、現世を飛び越え、エクスタシーの中に入り込み、別の世界へ行ってしまったようだった。

ナイトクラブを閉めて出るとき、他の宿泊客から昼間言われたことを、キャロルは、グールドに何気なしに質問した。このホテルに女性の宿泊客がいて、娘がジュリアード王立音楽院のピアノ科の学生で、娘がグールドさんの演奏を見学できないかとキャロルは言われていた。

「グレン、そのジュリアード王立音楽院の娘に練習を見せても構わないか?」

グールドはそれを聞いた瞬間、真っ青な顔をして、いきなり人が変わったようにすごい剣幕でキャロルを怒鳴り始めた。

「いったいぼくが練習しているということを、その婦人に伝える権利が、きみのどこにあるんだ!?」

「ごめんよ。わかったよ。悪気はなかったんだ。明日その人に会ってだめだって言っておくよ。」

「どうして、黙っていられなかったの?」とグールドは、キャロルをなじり、最後にぴしゃりと捨て台詞を吐いた。

「気を付けて行動するんだね。ぼくの写真が撮りたいのなら。」

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翌日、グールドの運転で、二人は赤いオープンカーで島を巡った。

グールドが運転するそのオープンカーは、ギアを入れるなり、がくんと揺れ、キャロルは前につんのめった。次の一瞬、エンジンをふかしたその車はタイヤの金切り音をあげ、猛ダッシュをはじめた。スピードの出しすぎではすまないスピードをだして、グールドはわき道を抜けてナッソーの市外へ向かった。キャロルがスピードを落とせといくら喚いても、グールドは聞く耳を持たなかった。

いなか道には、現地の人の住む粗末な小屋がいくつかずつまとまって見えた。オープンカーは、小さな丘を勢いよく登った。そして、鶏や犬や子供たちを追い散らしながら、この丘を猛烈な速さで駆け下りた。グールドはゲラゲラ笑っていた。彼には、こんな運転をしていたら、事故を起こしかねないと理解できていないようだった。キャロルは、「前に子供がいるぞ、速度をおとすんだ!」「カーブだ、左側を走って曲がるんだ!」と何度も叫んだ。

途中、グールドは何度か車を降りて、キャロルはグールドの写真を撮ったが、この時だけが心休まるときだった。

キャロルの我慢も限界に近づいていた。やがて、ホテルへ帰るという道で、キャロルが横を見ると、グールドは、両手を宙に浮かせ、指揮をしていた。

「バカヤロー、ハンドルを握れ!」とキャロルが大声をだすと、グールドはハンドルを握ったが、顔はニヤニヤと笑っていた。

「この運転のことを母には言わないでね。いつも、止めろとうるさいんだ。内緒だよ。」

この1年後、案の定グールドは、トラックに追突する事故を起こし、それまでの事故と合わせ4回の事故により、裁判所から自動車学校へ通うべしという判決が下りる。グールドは、生涯しょっちゅう交通事故を起こしていた。

グールドは、その後も危険運転を止めず、キャデラックのような一番大きなサイズの自動車を運転する。このような大型車は、事故にあっても自分が負傷する可能性が低く、無謀な運転をしても対向車が道を譲ってくれることが多いからだ。

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休暇の時間もいよいよなくなってきた。

グールドは、キャロルが映画の機材とフィルムを持って来たと知り、それで映画を撮ろうと言い出した。

シナリオは、いかに自分が性的誘惑に無縁かを描くことにしようという。

グールドが、浜辺で読書をしていると、褐色でエキゾチックな現地女性ダンサーがグールドのオーバーコートを羽織って現れる。彼女がグールドの正面にやってきて、オーバーコートを脱ぎ、ビキニ姿になって、腹と腰を交互に突き出すバンプというディスコの踊りを激しく踊って彼を挑発する。ビキニのお尻にピンクの貝殻が多数ついていて、楽し気に揺れている。

それでも、グールドは読書をやめず、ダンサーは悲しげに再びレインコートを羽織って、椰子の木立に帰っていく。そこで、グールドが読んでいた本が、《決断をためらうことの美徳》を語る[10]ツルゲーネフの随筆だとわかる。

これが、シナリオだった。キャロルは内心、ずいぶん妙なシナリオだなと思っていた。

ところが、準備が整い、さあ撮影というばかりになって半ば予想されたことだが、グールドが出演したくないと言い出した。その理由は、熱があって、頭が痛いという些細なものだった。

キャロルは、憤懣やるかたなかったが、主役が嫌だというのではどうしようもない。しかたなく、自分がグールドの役になって、映画を撮り始めることにした。彼にとって、演技は簡単だった。激しく腹と腰をゆするバンプを踊るダンサーの挑発に乗らず、浜辺で読書に集中するふりをすることは難しいことではなかった。

映画のフィルムが残り半分になったときに、グールドが「ぼくも出たい。」と言い出した。

グールドは、海辺のディレクターズチェアに向かって歩く。長いオーバーコートを着て、マフラーを首に巻き、デッキシューズを穿き、ベレー帽を横向きに被り、サングラスをずらして鼻にかけ、葉巻を手にしている。手袋を脱ぎながら、チェアに座ったグールドは、振り返る格好で話し始める。

もう一つの撮影で、グールドは、浜辺に落ちていたビールの小瓶を振り回しなはら、ビキニのダンサーに対抗するように熱狂的に踊り始める。ついには、海の中へ入って奇妙な手ぶりで自分の頭の中にあるオーケストラを指揮した。

グールドは、振り返る格好で社会的な貧困問題を声色を使って話し始める。

次のシーンでは、降り注ぐ太陽の下で海水パンツをはいたキャロルが浜辺で、《ためらうことの美徳》を語るツルゲーネフの随筆を読んでいる。

そこへグールドのオーバーコートを羽織った褐色の若いダンサーがやって来て、オーバーコートを脱いでビキニ姿になり、キャロルの周りを誘惑しながら踊り始める。バックの音楽には、カリブ海の軽快なサルサがずっと流れている。

魅力をふりまくダンサーが、キャロルの気を惹こうとするのだが、無視するキャロル。

今度は、場面が変わって、グールドが憑りつかれたように踊っている姿と、ビキニ姿のダンサーの踊りが交互に切り替わり、二人が向かい合って踊っているようにフィルムが繋がれている。

ついには、グールドは海の中に入り、奇妙な手ぶりで、オーケストラを指揮をしているのかのように踊り続ける。最後のシーンで、キャロルはとうとうツルゲーネフの随筆を顔に乗せて、浜で寝てしまう。

エンディングは、口惜し気に、ダンサーがキャロルを誘惑するのを諦め、オーバーコートを再び着て、トボトボと林の方へ帰っていく。

実際に出来上がった短編映画《ためらいの美徳》は5分ほどの長さで、たいした意味のないバカバカしいものだったが、クラシックピアニストの巨匠のイメージを拭うには十分だった。

つぎへ


[1] バッチェン:フラニー・バッチェン(Frances Batchen Barrault)注釈21と同じ。

[2] ジョック・キャロル Jock Carroll (1919 – 1995) カナダのトロントテレグラムを含むメディアで働いたライター、ジャーナリスト、写真家。キャロルはこの時、37歳だった。

[3] 雑誌に掲載:『ウィークエンド・マガジン』第6巻第27号(1956年)ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ。この記事は、『ぼくはエクセントリックじゃないグレン・グールド対話集』(音楽の友社ブリューノ・モンサンジョン編粟津則雄訳)で読める。

[4] 『グレン・グールド光のアリア』(筑摩書房ジョック・キャロル宮澤淳一訳)原書は、”GLENN GOULD some portraits of the artist as a young man”Jock Carroll, 1995, Stoddart, Toronto

[5] この裁判の概要は、https://en.wikipedia.org/wiki/Gould_Estate_v_Stoddart_Publishing_Co_Ltd から引用している。また、参考資料として、巻末に張り付けている。

[6] 私は門外漢で:『グレン・グールド光のアリア』(筑摩書房ジョック・キャロル宮澤淳一訳)5P

[7] ボードレールの恋人たち:ボードレール(1821年 – 1867)は、フランスの詩人、評論家。韻文詩集。象徴主義詩の始まりとされ、「近代詩の父」と称される。唯一の韻文詩集「惡の華」は、反道徳的であるとして、多くが罰金を科され、削除を命じられた。ボードレールの恋人たちとは、娼婦を含む、彼自身の生涯にわたる多くの恋人たちの意味。

[8] シムコー湖 注37参照

[9] オランウータン:グールドのアメリカデビュー後、ブリュッセルの万国博覧会(1958年)で、指揮者ボイド・ニールとバッハのピアノ協奏曲第1番ニ短調を演奏し、『ル・ソワー』紙は米国の新聞報道を真似て、グールドの「オランウータンのようなスタイル」に不満を示した。

[10] ツルゲーネフ(1818 – 1883):ドストエフスキー、トルストイと並ぶ、19世紀ロシア文学を代表する文豪。人道主義に立って社会問題を取り上げる一方、叙情豊かにロシアの田園を描いた。


 [*]オストウオルドの伝記には、キャロルの書いたものとして、エキセントリックさに対する弁解が出てくる。つまり、オストウォルドは、この記事をキャロルの原稿ととらえていたはずだ。

投稿者: brasileiro365

 ジジイ(時事)ネタも取り上げています。ここ数年、YOUTUBEをよく見るようになって、世の中の見方がすっかり変わってしまいました。   好きな音楽:完全にカナダ人クラシック・ピアニスト、グレン・グールドのおたくです。他はあまり聴かないのですが、クラシック全般とジャズ、ブラジル音楽を聴きます。  2002年から4年間ブラジルに住み、2013年から2年間パプア・ニューギニアに住んでいました。これがブログ名の由来です。  アイコンの写真は、パプア・ニューギニアにいた時、ゴロカという県都で行われた部族の踊りを意味する≪シンシン(Sing Sing)≫のショーで、マッドマン(Mad Man)のお面を被っているところです。  

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