神から授かった念願の子
グレンが生まれたのは、フローラが41歳になる直前だった。何度もの流産をへた高齢出産で、出産の1週間前から看護婦が泊まり込み、医者が毎日往診にやってきた。そうして生まれたグールドは夫婦にとって、やっと「神から授かった念願の子」だった。
1932年9月25日に生まれたグレン・グールドの出生証明書には、「[1]ゴールド、グレン・ハーバート」と書かれている。つまり、グールドが生まれた一家の苗字はもともと、ユダヤ人に多い「ゴールド」だった。バートが従事する毛皮業界は、衣料業界と同様ユダヤ人労働者が多く、ユダヤ人と誤解されることを避けたかった。そのため、一家は第二次世界大戦が勃発した1940年ころ、ユダヤ人排斥運動の激化にあわせ、「グールド」姓に改名した。
この1932年は、世界大恐慌のただ中にあり、日本では昭和恐慌と呼ばれ、人々のひどい貧困や悲惨な状態を目にせずにはいられなかった時代だった。しかし、裕福な家庭と幼い年のせいで、グールドは、そのような現実から守られていた。
音楽を愛した両親の目には、グレンの音楽の才能が明らかだった。生まれてすぐ、グレンは、まるで音階を弾いているように指を動かし、両腕を前後に揺らし指は動きつづけた。赤ん坊のグレンは、ほとんど泣かず、手をひらひらさせながらハミングするのだった。しかし、赤ん坊がほとんど泣かないというのは、あきらかな異常だ。手をひらひらさせる動きは、言語の発達における異常に関連して、自閉症を示しているのかもしれない。
バートは、グールドの誕生の様子を、彼の死後1986年にフランスで行われた「グールド展」のパンフレットにこう書いている。
「祖母の膝に乗ってピアノに向かえるようになるや、たいていの子どもは手全体でいくつものキーを一度に無造作に叩いてしまうものですが、グレンは必ずひとつだけのキーを押さえ、出てきた音が完全に聞こえなくなるまで指を離しませんでした。次第に減衰していく音に、すっかり魅せられていたのです。・・・・」
フローラは、グールドの首がすわるようになると、揺れる膝の上に赤ん坊をのせ、ピアノと美しい歌声を混然一体に演奏し、赤ん坊は母を感じながら聴いていた。母は、自分が親しんでほしい音楽を弾いて聴かせた。小さいころに覚えた歌、古い民謡、日曜日の礼拝の讃美歌やコラール、自分が生徒に教えているバッハやショパンの小品・・・。母はピアノを弾きながら、同時に美しい声で旋律を歌い、大事な旋律はこれよと赤ん坊に教えた。
息子の小さい手を取り、光沢のある「黒」と「白」のレバーに触れさせた。そしてその手を押し下げて、出てくる音を彼女の豊かな歌声や演奏と重ねた。母と子とピアノはすぐに一体化する。
フローラは、グレンが「[2]特別な子」となり、将来、音楽をとおして世界に貢献することを常に願っていた。そんなフローラの価値観は、ちょっと変わったところがあった。「音楽」に重きをおきすぎ、その他の面の成長はあまり顧みないのだった。
フローラは、ピアノを「[3]ピアナー」という変わった発音をして、何か特別な思いがあったのかもしれない。
フローラはまず、グールドに音楽の仕組みと決まりを教えようとした。フローラは厳しい教師だった。正しい打鍵と正しい発声をさせ、正しくできると褒め、できないと非難の声を出し定規で叩いた。経過句ひとつでもいいかげんに弾かせず、一音たりとも間違った音を許さなかった。グールドはすぐに理解し、ほどなく間違わなくなった。フローラは、この指導法を他の生徒にもとる厳しい教師だった。
グールドが、3歳になるころ、両親は息子に絶対音感があることに気づく。絶対音感は、調性や転調をすぐに識別する能力であり、耳で聴いたり、想像した音楽を書き留める能力も含まれる。複雑な曲の構造を直感的に理解するには必須の才能だが、大人になってから獲得するのは難しい。
母と子は、和音の当てっこで遊ぶようになる。母が、さまざまな和音を弾き、離れた部屋の息子が弾かれた和音をあてる。多くの音楽の天才たちがするゲームである。
「グレン、これは?」とフローラが、ピアノで和音を鳴らす。フローラは、不協和音に近いジャズで鳴らすような和音を弾いた。
「ママ、そんなのチョー簡単だよ!オクターブ下のD、Bと真ん中のD、F#、Gだよ。」
グールドは、この和音あてを間違えることは全くなかった。遊びのあと、フローラは、グールドを膝の上で頭を犬のように撫でるのだった。グールドは、母の願いを受け止め、母の願いをかなえることでご褒美がもらえると知るのだった。
少しするとグールドは、一度聞いた曲を覚える才能をみせる。一瞥しただけの初見で曲が弾けるようになる。また、聞いた曲を音符にしたり、作曲もするようになる。
グールド家には、メイドも乳母もいたが、グールドは、一人っ子で、やってくるのは叔父、叔母、祖父母などの老人、それも女性が多かった。同年齢の友だちや競争相手がいなかった。唯一の競争相手は、母にピアノを教わりに来る他の子どもたちだけが、母がとられる不安をひき起こしたくらいだった。
グールドは、両親の愛情を過剰なほど与えられ、経済的になに不自由のない家庭で、ユーモアのある才気煥発な子へと成長する。母は、息子への定期的なピアノ・レッスンを始め、他の子どもたちのレッスンを減らした。彼は、文字を読むよりも早くに、楽譜が読めるようになる。母は、グールドの健康を心配して、ときどき外で遊ぶよう言うものの、強くは言わなかったし、グールドは運動より、ピアノの中に、自分の世界を見つけて熱中する。
グールドが、何かの理由で両親の言いつけを守らないとき、グールドを叱りつける一番良い方法は、ピアノの蓋を閉じ、鍵をかけてしまうことだった。放っておくとグールドは何時間でもピアノを弾き続けた。そのため、フローラは、グールドにピアノを弾いてよい時間を一日4時間に決めていた。
他の生徒と比べると、グールドの才能は明らかに頭抜けていた。そのうえグールドは、音楽の技量と知識を恐るべきスピードと正確さで身につけていく。
教会で親子の出演
グールドは5歳の時に、両親と初めて公開の場で演奏をした。[4]トロント郊外の教会で、日曜午後の礼拝の中で両親が歌う二重唱に合わせて、グールドがピアノ伴奏をした。会場の2,000人の観客の誰もが、5歳の子どもの演奏に大いに感銘を受けた。続くプログラムで、ふたたび父バートが独唱曲を歌った。
この翌日、トロント市内の[5]教会の50周年の祝典の一環として、グールドはピアノ演奏をした。このとき地元の新聞はこう書いた。
「グールド夫妻のグレンという名の5歳の子息が数曲のピアノ演奏を行ったが、聴衆ははじまるやいなや強い印象を受けた。音楽の天才の卵を目の当たりにしたからである。演奏曲目はどれもすばらしかったが、この少年自身の作曲した2曲はことのほかすばらしく、その年齢を考えると驚くべきであり、近い将来カナダの才能ある作曲家たちの仲間入りをするであろうと思わせたのである。」
半年後には、トロントのはずれにあるインマヌエル長老教会で、金曜日の晩に催された子どものための演奏会で独奏をした。このときの演奏会は有料で、大人25セント、小人15セントだった。(現在価値で、大人23ドル=2500円、小人14ドル=1500円)入場料は、慈善団体に寄付され、グレンの演奏は11の演目中の3番目だった。
フローラは、グールドが3歳になるころには、モーツァルトと比べられる才能があるのではと思うようになる。育ち方や、子供時代が同じようだと思い、天才の素質があると確信する。ますます、グールドの音楽教育に力を入れるフローラ。それにこたえるグールド。フローラは、音楽に専念するようしむけ、家での手伝いを免除し、グールドはさらに友達と遊ばなかった。
確かにモーツァルトは、神童で天才だった。しかし、背を向けて後ろ手でピアノを弾いたり、軽業を披露しながら、父レオポルドについて猿回しの猿のように、貴族の間を回りながら育った。貴族たちに支持され、華やかな時代も過ごしたのは事実だが、やがて浪費癖により生活に困窮し、健康にも恵まれず失意のうちに35歳で早逝した。大演奏家で、大作曲家だったことは間違いないが、才能が駆け足で浪費され、人生は幸福ではなかった。
スペイン風邪
フローラは体が弱く、強い心配性だった。息子がちょっと鼻水を垂らせば、薬を飲ませて床につかせた。いつも風邪をひかないように、たいそうな厚着をさせていた。他の子供が薄着で走り回っている夏でさえ、つねに厚着をさせていた。
しかし、彼女の心配性には理由があった。夫バートの父、トマス・グールドが、先妻との間にもうけた第1子を1歳になるかならないかで亡くしたということを聞いていたし、それよりもつよい不安をもっていたのは、1918年のスペイン風邪の記憶だった。スペイン風邪を、フローラが27歳、バートが17歳の時に経験していたからだ。このスペイン風邪の伝染は、3波に及び、まずアメリカから広がり、最終的に当時の世界の人口18~19憶人の約27%にあたる、5億人が感染し、じつに4,000万人以上が死亡したといわれる。この年に終わった第1次世界大戦の死者数が1,000万人ともいわれ、スペイン風邪の猛威は圧倒的だった。
そのうちアメリカの死者は、最終的に50万人だったが、日本にも広がり、当時の人口5,500万人のうち39万人が死亡、焼き場では順番待ちの行列ができた。しかも、この感染症は、子供や高齢者より、若年層の死亡を多くひき起こし、人々の恐怖も強かった。
フローラの病原菌にたいする心配は、このスペイン風邪が原因だったが、他にもあった。グールドが生まれた1930年代はポリオ(小児麻痺)が大流行し、おおぜいの子供たちの命を奪い、助かった場合も、手足のまひなどの運動障害を残すことがあった。当時の医療水準では、《鉄の肺》と呼ばれる箱の中の気圧を下げた鉄製の拷問器のような人工呼吸器に子供たちを入れなければならず、この治療法もフローラをおおいに不安へと陥れた。
しかし、やはりフローラの心配性はたしかに度を過ぎて、[6]パラノイアといってよいレベルだった。彼女のしゃくし定規な性格からくるパラノイアは、息子へと確実に引き継がれた。
変わった性格
また、グールドの生まれながらの性格もどこか変わっていた。それは、ある女性から、消防車のおもちゃをもらったときだったが、赤色の消防車の「色」が原因で、かれは激しいかんしゃくを起こした。消防車は、赤く塗られているのが普通だが、彼は、明るい色、とくに赤色がまったく苦手だった。彼が好きで心が落ち着く色は灰色であり、彼がいうには、《戦艦グレー》と《ミッドナイトブルー》だった。
同じように、眩しく晴れた日はテンションが上がらずダメだった。晴れた日よりも、曇った日が好きだった。彼は成長し、学校を退学した18歳の頃、教会へ行くのを完全に止め、昼夜が逆転した生活を送るようになる。夜は、仕事がはかどるという理由で好きで、朝日を嫌う彼は、明け方、日の出の直前に眠る生活の《夜型人間》になる。
英語には、「[7]どの雲も、うらは銀白」という諺がある。この言葉はどんな不幸にもよい面があるという意味だが、グールドは、これを裏返しにモジり、「どんな銀白も、裏には雲」を生涯のモットーにしていた。
母親とピアノの世界を彷徨っていた彼は、やがて小学校に上がる年齢になる。学校へ行かないわけにはいかないが、他の子供たちとの付き合いがない。当然ながら、音楽以外の教育をどうするかという問題がとうぜんある。ただ、グレンが普通の子ではないことはすでに明らかで、音楽の才能を伸ばすことも親の務めだと、両親は考えていた。学校に行くのが心配なのはグールドだけではなかった。両親も心配だった。結局、最初の1年間は、グールドを学校へ行かせず、家庭教師を雇うことにした。
グールドは、28歳の1960年に、雑誌《ニューヨーカー》の人物紹介欄に載ったインタビューで、ライターの[8]ジョゼフ・ロディに次のように語っている。
「6歳の時に両親に言って、なんとか納得させたのは、自分はまれに見る繊細な人間なのだから、同じ年頃の子供たちから受ける粗野な蛮行に曝されるべきではないということでした。」
その結果、グールドは、6歳の1938-1939年の学年(9月から翌6月まで)は自宅で家庭教師をつけてもらい、学校へ行くのを猶予された。
これにグールドは付け加えている。「わたしを書こうとする記者のなかには、これによって自ら墓穴を掘ったのだと考える人もいます。」と。
結局、グールドは、1年遅れで、自宅の裏にあるウィリアムソン・ロード・パブリックスクール小学校に入学する。しかし、学校は彼にとって明らかに不幸な場所だった。集団活動を忌み嫌い、スポーツもすべて苦手だった彼は、ピアノを優先しほかの子供たちとの接触を避けた。級友がボールを投げても、後ろ向きに体をくねらせてボールを触ろうともしないという態度を、級友たちはののしり、いっそうグールドを自意識過剰で不愉快にさせた。
父殺し
グールド家は、トロントから北に車で2時間(約150KM)ほどの[9]シムコー湖に別荘を持っていた。その別荘からもっとも近い町がオリリアである。そこで一家は、毎年、夏の休暇を過ごしていた。

グールドは、6歳の時、バートと近所の家族と、シムコー湖へボートで釣りに出かけた[10]。ビギナーズラックだったのかもしれない。最初にパーチを釣り上げたのは、グールドだった。彼は、釣り上げた魚と目が合って、魚の目に周囲の景色を見たような気がした。あまりに強烈な体験をしたグールドは、魚の苦痛を感じて湖に放そうとする。グールドが、バタバタと魚と苦闘するとボートが揺れ、近所の父親がパーチをグールドの手の届かないところへやってしまった。
「船を揺らすんじゃない!座るんだ!」
と大きな声でどなり、グールドを席に押し戻した。皆は笑った。パニックになったグールドはひどい癇癪を起し、飛んだり跳ねたり足を踏みならし、自分の髪を引っ張ったりして、岸に戻るまで、金切り声を上げ続けた。グールドは、
「その家の子どもたちとは、夏の終わりまで一言も口を利かなかった。」という。
グールドは、父に魚釣りを止めるよう10年間にわたり懇願し続け、とうとう最後には、父に魚釣りの趣味を諦めさせた。グールドは、「たぶんこれまでぼくの成し遂げたなかで最もすばらしいことだ」と言った。
大人になってからは、愛犬や友人を連れて、しばしば轟音を立ててボートを乗り回し、釣り人たちの怒りや罵声は無視し魚を追い散らし、釣り人が釣りをするのを妨害するようになり、自らを「[11]シムコー湖の征服者」と呼んでいた。
当時のプロテスタントの家庭が一般的にそうであるように、グールド家で、性的なこと、下品なことを言うのはタブーだった。グールド家では、この傾向が特に強く、こうしたことをいうのは教養のなさだと考えていた。
ある程度の年齢になると、少年たちは平気で「ファック!」などと卑猥な言葉や異性をからかうような言葉を口に出すものだが、グールド家ではこのような性的な発言は徹底的に避けられた。
友人が、「ファック!」というのを聞いたグールドは、
「そんなことを言っちゃいけないよ。」
「そういうことを言うならおうちに帰って。」
と、母親が言うように言い、友人たちを面食らわせた。
また、グールドは毛皮商という職業が、ミンクやその他の動物を捕獲し、動物を殺すことを知り、嫌い、公然と父の職業を批判した。
グールド家では、グールドが12歳になると、フローラは54歳になっていたが、グールドと父バートが、一晩ごとに交代でフローラのベッドで寝る取り決めだった。父バートは、フローラより10歳年下で堅実な性格で商才に長けたスポーツマンだったが、口数が少なく家庭では影が薄かった。
のちのことだが、フローラが亡くなった後、バートは再婚するのだが、これにも反対し結婚式にも出なかった。
音楽への逃避 映画「ヒアアフター」から
グールドは、小学校に入るころには、まったく近所の子供たちからかけ離れた存在になり、そりが合わないグールドは、ますますピアノに逃げ込んだ。彼は、ピアノに《音楽》という別の世界を見つけ、そこを住処にした。それが人付き合いの術や社会性を成長させなかった。
グールドは、動物好きで、飼っていた動物に名前を付けていた。金魚、犬。父、母。人間よりも動物の方がうまく付き合える。
ヴァイオリン奏者で映像プロデューサーの[12]ブリュノ・モンサンジヨンが2006年に作った映画、「[13]HEREAFTER(ヒアアフター/彼岸へ)」のなかで、グールドを演じたナレーターが、小学校へ行きはじめたころのグールドを語っている。
この映画では、グールドが家庭のテープレコーダーに録音した、メンデルスゾーンの[14]ロンド・カプリチオーソの拍子が変わりプレストにはいるところが流れる。練習をやめ、グールドが、[15]ピアノから立ち上がるシーンである。
この曲は、ピアニストを目指す者なら誰でも弾く有名な曲だ。ダボっとした服を着た美男子の青年が、ピアノ椅子から立ち上がる。
場面が変わり、母フローラが、生まれたばかりのグールドを抱いている写真や、一家が生まれたばかりの赤ん坊を中心にして、幸福そうな父母と赤ん坊の写真がつぎつぎ写される。グールドの声のナレーションは、こう続く・・・
「母、フローレンス・グレイグ・グールドは、僕の最初のピアノ教師だ。キリスト教を信仰する家庭の出身で、トロントにある長老派教会のオルガン奏者として、神に仕えていた。」
「5歳のとき、僕は、自分が並外れた繊細さの持ち主であり、その繊細さを粗野な蛮行ばかりを求める現代の子供たちの前でさらけ出すことは無理だと、両親を説得することに成功した。だから、僕は1938年と39年の間、僕が預けられた家庭教師のもとでとても気持ちのいい余暇を過ごすことができた。」
ここで映画は、グールドが脚本と主演を兼ねた「グレン・グールドのトロント」(1979年、[16]CBC放送局)のシーンが使われる。グールドがトロント市内を案内するという趣向のテレビ番組で、グールドが、カナダ軍近衛兵の儀礼砲が飛び交う中に紛れ込むシーンがつかわれる。頭上で炸裂する空砲の煙と音に首をすくめ、「ゴッド、セイブ・ザ・キング”God, save the king”(国王陛下万歳)」とつぶやくグールド。
「だが、1939年がやってきて、イギリス人の魂を持つ者たちにとって、武器を持ち自らを捧げなくてはならない時がやってきた。こうして9月のある寂しい朝に僕の幼年期は終わりを告げた。」
「無為に暮らすために生まれた僕は、お国のために学校への道をたどらなくてはならなかった。どうやったら自分を外界の不条理な風俗から守ることができるのだろう?この突然の変化には目が回りそうだった。僕は子供社会の渦巻きの中に飛び降りたようなものだった。僕には団体で行動するという意思が完全に欠けていた。僕が一番嫌いだったのは、勉強のためにあてられた時間ではなく、余暇や休憩にあてられていた時間だった。」
「耳が少しでもいいすべての女性教師が好んだのは、音楽的な娯楽、あるいはカノンなどの原始的な多声音楽だ。クラスの一列ごとに[17]カノンのパートを受け持った。クラスの友達はそれぞれちゃんと役割を果たしていたが、僕は自分が役立たずに思えたので、もっと個性的な活動だけに専念し、自分の力を発揮することに決めた。だから、クラスの中で僕だけが拍子はずれに歌った。このことで、僕らの歌に半音階の興趣を与えたかったのさ! しかし、僕らの先生、ミス・ウィンチェスターは歌を途中で止めさせ、僕の頭上でチョークを叩き潰した。」
再び、メンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソのプレストのパートが流れる。こんどはたっぷり流れる。手袋をはめた親指と中指が素早くこすりあわされる画面が大写しになり、頭上に、先生のチョークが降ってくるのがイメージする。家庭用のテープレコーダーに採られた16歳の録音だが、すばらしい切れの演奏だ。
「初めて自分と他とを非好意的に識別したのは、音楽においてのことだった。他の生徒たちと仲良くできない、ということが僕を音楽へ、そして想像世界の奥深くまで逃げ込ませた。」
「音楽に対する僕の情熱は、仲間たちとの紛争よりも大きな比率を占めていた。10歳からピアノとオルガンでの技術獲得が、僕の存在全体を飲み込んでいった。そして僕の[18]対位法への情熱がミス・ウィンチェスターまでを黙らせた。」
こころの中の魔物と一家のモンスター
こうして、小学校へ入学したグールドは、級友たちとのつき合いもぎこちなく、目立って変人で、同級生たちにいじめられる。グールドはのちに当時をふりかえってインタビューでこう答えている。
「学校へ行くのは本当に悲しかった。教師たちのほとんどとうまくいかななかったし、同級生とはだれともだめだった。」
また、トロント・デイリー・スター紙に「グールドは、いじめられて、よく学校から泣きながら帰った。」と書かれると、グールドは、
「[19]僕が手を出さないものだから、近所の子供たちは僕を殴っては喜んでいた。しかし、毎日殴られていたというのは、誇張だ。実際には、一日おきだったから。」
彼は、本当は興味がなくとも、アイス・ホッケーや野球に興味があるふりをする子ではなかった。誰かとつき合うという考えがまったくなかった。ほかの生徒たちから、ぽつんとはなれていた。
ある日、いじめっ子がグールドを追いかけて家の近くまでやってきて、グールドをついに殴ってしまう。ところが、グールドは、即座にその子を力いっぱいに殴り返し、その子の襟をつかんで揺さぶりながら、
「二度と近寄るな、今度近づいたらぶっ殺すからな!」
とやりかえした。いじめっ子はグールドの気迫に完全に震え上がり、グールドも自分の本気さに恐ろしくなる。両親から教わってきたキリスト教の教え、それに背く自分の心の中に、得体のしれないものを見たのかもしれない。
またある日、具合が悪くなった級友が、みんなの前で突然吐いてしまうということが起こる。吐いた子どもと汚物の周りで同級生たちが凍り付いてしまう。衆人環視の状態で自分の尊厳が傷つけられることを極度に恐れるグールドは、いつでも飲めるようにミントをポケットに忍ばせる習慣をはじめる。成長につれて、ミントは、アスピリンへ、向精神薬へとかわっていく。
母親と喧嘩した時にも、自分に恐怖を感じるようなことがあった。1965年から1979年までの15年間、レコード・プロデューサーを務めた[20]アンドルー・カズディンは、フローラとの間にあった、確執のエピソードを聞いている。
グールドが子供の頃、母親と家庭内で以前から取り決めてあった何かの約束事に反する行いを彼がしたため、母親がたしなめ、それでつい言い争いになったことを聞いている。そのとき、グールドは怒り心頭に発し、一瞬自分の母親さえ肉体的に傷つけてしまう、いやそれどころか殺害してしまうことさえできる気持ちになったという。むろんそれは、瞬間的な激情の高まりにすぎなかったが、彼自身は、たとえ一瞬とはいえ、自分が母親を殺すという恐ろしいことまで考えたという、動かしがたい事実に愕然としたという
そして、その後人前に出るときグールドは、憤怒という彼の内側に棲む魔物を二度とふたたび外にだすまいと自ら誓って生きてきたとそのプロデューサーに語っている。
父バートは、手堅い商売を営む男で、現実的で深く音楽を愛していたものの、グレンには健康で男らしくスポーツもし、将来は家業を継いでくれる子供を望んでいたが、やはり子供の才能は誇らしく、子供の願いを何でも叶えたいと思っていた。
グールドは子供時代から、同じピアノに長く満足することはなかった。バートは息子のために、新しく、質のよいピアノを買いつづけた。最初はアップライトを何度か買い替え、のちにはグランド・ピアノを買い替えるようになった。グールドが12歳の時に無邪気に欲しがったパイプオルガンは、さすがに尻込みしたが、10代のグールドはすでに夜更かしの癖がつき、夜半まで練習したがったため、バートは、6,000ドル(現在価値で3,500万円)をかけて、家の後部の壁を取り壊し、音楽室を作った。グールドは、その部屋をたくさんの本、楽譜、録音装置、そして「もう一台のグランド・ピアノ」などでいっぱいにした。
一家はトロントの北部、シムコー湖に別荘をもっていたので、バートはほぼ毎年、アップライトピアノを新しく買い換えていた。冬の厳しい寒さのために1,2年でピアノはダメになってしまうからだった。
フローラは、このグールドが7歳の頃には、自分にはもうグールドにピアノを教えることがないと感じていた。あまりに、グールドはフローラの教えることを完璧にこなすようになったからだ。
フローラは、非凡なグールドを教えるようになってから、生徒の数を減らし、ほぼ慈善学校の生徒に絞って教えていた。ただ、以前から、ピアノ教室の優秀な生徒に、これまでも[21]トロント王立音楽院の実力認定試験を受けさせていた。
グールドが、地元の小学校、ウィリアムソン・ロード公立学校へ通っているこの7歳の時から10歳までのあいだに、同じように、トロント王立音楽院の試験を3種類受けさせた。グールドは、いずれも国内最優秀と言ってよい成績で合格する。
グールドの幼年時代、一家では、母フローラが息子とべったりと密接し、グレンに自分のもっている音楽のすべてを教え、いつもグレンの顔色を白すぎると心配し、《食べなさい、これこれをもっと食べなさい、これをやりなさい、あれをやりなさい、外へ出て日に当たりなさい、ちゃんと座りなさい》とガミガミいうのだった。だが、一方で、グールドの才能が誇らしく、ほかに競争相手のいないグールドはつねに一挙手一投足を注視されいつも過保護だった。
両親は、グールドに大きな才能があることを確信し、このまま埋もれさせるのは社会への義務を果たせないと思う一方で、どのような形で世に出すのが良いのか、グールドを見ながら考えていた。社会生活を普通に送れる必要もある。両親は慎重だった。幼くして才能を消してしまう音楽家も多いからだ。
両親の二人は、子供をかなり早い時期から尊敬の目で見始めた。
グールドは時間をおかず、一家のモンスターになる。
[1] ゴールド、グレン・ハーバート Gold, Glenn・Herbert 父バートのバートという名は愛称であり、ハーバートが正式な名前である。Goldが旧姓で、ユダヤ人に間違われないよう一家はGould姓へと改姓した。
[2] 「特別な子」従妹のジェシー・グレイグがCBCテレビで1985年、「グレン・グールド:肖像」で語った言葉。(グレン・グールド伝、ピーター・オストウォルド 筑摩書房 原注429ページ)
[3] 「ピアナー」グラディス・シェンナーがフローラが、‘pian-a.’という言い方をしていたと言っている。(Genius in Love Michael Clarkson 第5章)
[4] トロント郊外 ここはアックスブリッジ uxbridgeをいう。 トロントから約60キロ北方、車で1時間。グールドの両親は、ともにアックスブリッジの出身で、聖歌隊の仕事をつうじて、この町で知り合った。毛皮商を始めた祖父トマス・グールドは、トロントに寝泊まりする場所を持っていたが、アックスブリッジから汽車で通っていた。
[5] トロント市内の教会 トリニティ合同教会をいう。
[6] パラノイア ある妄想を始終持ち続ける精神病。妄想の主題は、誇大的・被害的・恋愛的なものなどさまざまである。偏執(へんしゅう)病。妄想症。
[7] どの雲も、うらは銀白=“Every cloud has a silver lining” これをグールドは、次のように語っている。“my private motto has always been that behind every silver lining there is a cloud.” このような表現は、夏目漱石の「草枕」にもたびたび出てくる。
[8] ジョセフ・ロディ 《ニューヨーカー》は、アメリカの1925年に創刊された週刊誌で、ルポ、批評、エッセイ、風刺漫画、詩、小説など幅広い記事が掲載される。村上春樹の作品が多く掲載されている。ジョセフ・ロディは、ライターで、グールドの死後、追悼に友人たちが原稿を寄せて発刊された「グレングールド変奏曲」(東京創元社)に、ニューヨーカーに「アポロン派」(⋆アポロン派は、美と秩序と制御を重んじる。これに対し、ディオニュソス派は、陶酔と快感と激しさを重んじる。)と題して書いた記事が、転載されている。
[9] シムコー湖 五大湖の一つであるオンタリオ湖に面するトロントから北に約140キロのところにアプターグローブという小さな町があり、そこからすぐのところにグールド家のシムコー湖の別荘があった。なお、シムコー湖は琵琶湖の4倍、オンタリオ湖は28倍の大きさである。
[10] 釣りに出掛けた:「グレングールド発言集」(ジョン・P・L・ロバーツ) 新聞のインタビュー《私は自然児です》中、「強烈な幼児体験」P45
[11] シムコー湖の征服者:「グレン・グールド 神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ)48P。
1956年「ウィークエンド・マガジン」第6巻第27号《ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》では、《シムコー湖の疫病神》と呼ばれていたと書かれている。
[12] ブリュノ・モンサンジヨン Bruno Monsaingeonフランス人。(1943~)20世紀の有名なミュージシャンについて、グールド、リヒター、オイストラフ、メニューインなどの数多くのドキュメンタリー映画を製作している。グールドについては、他にAlchemist(錬金術師・1974年)、Extasis(エクスタシス・1995年)も作っている。
[13]映画「HEREAFTER(来世)・時の向こう側へ」 2006年 晩年のグールドと一緒に仕事をしていたバイオリニストのブルノ・モンサンジョンによる映画。『ブリュノ・モンサンジョンが撮影・構成したこのフィルムは、世界各地でグールドに“啓示を受けた人々”が登場し、初出の映像も交えて、グールド自身のナレーションや演奏映像などによって彼の本質が解き明かされていく・・・未公開映像を含み、グールド自身が語っているかのような、彼の生涯と作品を振り返る。』(HMVのコピー)。日本語字幕は、グールド研究の第1人者、宮澤淳一氏の監修による。
[14] 映画「Hereafter 時の向こうへ」で、1948年(16歳)の家庭録音となっている。
[15] この時使われているピアノは、当時の恋人だったフラニー・バッチェンがレンタルで使っていたチッカリングという会社のグランドピアノだった。ところが、バッチェンが経済的に困窮して、レンタルを続けられなくなっていた。グールドはバッチェンの気持ちを考えず、そのレンタル契約を続けられないことを良いことに、グールドがそのピアノを買い取ったものだった。
[16] CBC Canadian Broadcasting Corporation カナダ放送協会
[17] カノン 多声音楽(ポリフォニー)の一つの典型で、一般に輪唱と訳されるが、輪唱は全く同じ旋律を追唱するのに対し、カノンでは異なるものが含まれる。(Wikipedea)
[18] 対位法 対位法とはカウンターポイントとも呼ばれ、複数の独立したメロディーを同時に組み合わせる曲を作る時に使われる技法のことを指す。対位法と並び、西洋音楽の音楽理論の根幹をなすものとして和声法がある。和声法が主に楽曲に使われている個々の和音の種類や、和音をいかに連結するか(声部の配置を含む和音進行)を問題にするのに対し、対位法は主に「いかに旋律を重ねるか」という観点から論じられる。バッハの時代にこの二つが大成し、以後古典派、ロマン派の時代になるとともに和声法(旋律と伴奏)が優勢になる。
[19] ケヴィン・バザーナ真理の探訪P.49
[20] アンドルー・カズディン 「グレン・グールド アット・ワーク 創造の内幕」(アンドルー・カズディン 石井晋訳 1993年・音楽之友社)P.170
[21] トロント王立王立音楽院 今はロイヤル王立音楽院(The Royal Conservatory of Music)に改称されている。