第6章 恩師殺し-門下生になるのだが、独学と言い張る

音楽院でゲレーロに学ぶ

グールドの公教育は、1年間小学校へ行かずに家庭教師を依頼したため、1年遅れの1939年、7歳の秋にウィリアムソンロード小学校へ入学、成績が良かったので飛び級もして卒業した。1945年、12歳の秋に公立中高一貫校のマルヴァーン高校に入学する。この高校に入る年には、普通教育より音楽教育の方を重要視するようになり、バートは学校と掛け合い、グールドを午前は高校へ、午後はトロント王立音楽院へ行かせ、夜は、家庭教師をつけ学校の授業を補習させた。最終的に高校に1951年(19歳)まで在籍した。両親は進学を望んだが、グールドは反発し、最終的に必修科目である体育を履修せず高校は卒業しなかった。

音楽教育については、グールドは、1940年、7歳のときにトロント王立音楽院で音楽理論を[1]レオ・スミスから学び始める。転調や、和音の進行、声部の進行法、和声法の基礎をすぐに習得する。特に対位法に才能を発揮し、複数の主題を絡ませたり重ねたりできるようになる。

42年からは、[2]フレデリック・シルヴェスターからオルガンを教わる。シルヴェスターは、グールド一家と家族ぐるみの付き合いをした。グールドは、オルガンを弾くことで、「足を使って考えながら」弾けるようになり、低音部を強調することが、やがて対位法の音楽を好むきっかけになった。また、鍵盤を叩くのではなく「指先で弾く」技法を身につけたため、強弱で表現するのではなく、微妙なテンポの変化でニュアンスを表現するようになり、グールドのピアノ演奏は、清潔で、「まっすぐ(アップライト)()[3]アーティキュレーションのしっかりしたものなった。

フローラは、「この子は上達し過ぎた。私にはもう教えられない。」と思うようになり、自分にかわるピアノ教師を探し始め、王立音楽院の学長のサー・[4]アーネスト・マクミランと相談し、1943年、10歳のときに[5]アルベルト・ゲレーロに依頼することになる。

20歳年下の教え子と同棲するゲレーロ

この時、ゲレーロは、妻[6]リリーと娘メリザンドがいた。チリ人であるゲレーロは、母国から特別名誉領事を任命されていた。ところが教育や公演、出張などで忙しく、当局から名誉領事職をはく奪される。彼は管理者の気質ではなく、ましてや「ボス」の気質でもなかった。そのとき、リリーはゲレーロの代わりに自分を名誉領事に任命するように依頼するのだが、女性は適切でないとして拒否された。結局、ゲレーロは解任され、他の者が任命されるのだが、最終的にはゲレーロは、真剣に仕事に取り組むことを表明して、名誉領事に再登用される。

そのようないきさつで、夫婦はうまくいかなくなり、また、二人は人に好かれる魅力的な性格でどちらにも不倫の噂があった。そして、10年以上前から別居していた。

ちょうど夫婦が不仲になったそのころ、ゲレーロは、20歳年下の教え子[7]マートルと恋に落ちる。一方リリーは、離婚することはゲレーロを自由にし、マートルと結婚することを認めることになるので、離婚をしようとしなかった。

それでグールドを教えるようになったこの時、ゲレーロは57歳で37歳のマートルと公然と同棲していた。

二人が結婚するまでには長い時間がかかった。やっと、1948年に正式に結婚する。これは当時のカナダの法律では、離婚が「不当な扱いを受けた配偶者」からしか申し出ることができなかったからだ。チリのカトリック教徒にとって離婚は禁止されていたし、プロテスタントのカナダでも非常に珍しいことだった。そのため、ゲレーロは長い間苦労した。

トロント王立音楽院は、音楽家を目指す大人たちの大学であり、養成機関である。グールドの周りは大人ばかりだった。10歳以上違う年長者も大勢いた。クラス写真には、グールドだけが思春期にも達していない子供に写っている。この年長者たちに交じって、グールドはいっぱしの主張を堂々と言うのだった。

1944年、第2次世界大戦の連合国軍は、フランス、ノルマンディーに上陸し、戦況が悪化した日本軍は、とうとうレイテ島で《神風特別攻撃隊》を初出撃させた。だが、ここカナダは幸い戦場ではなかった。

ゲレーロは、チリ人の多才なピアニストで、サンチャゴで最初の交響楽団を結成して指揮した経歴をはじめ、南米で広く活動した後、アメリカを経て1922年からトロント王立音楽院の教授だった。ゲレーロは子供を教える気はなかったが、グールドは別だった。すぐにグールドの天才に気づき、グールドはゲレーロの寵児になる。影の薄いバートに代わって、ゲレーロは、グールドの新たな父親がわりの存在になる。

ゲレーロとグールド(11歳)

この写真のグールドは、普通の姿勢で弾いている。グールドのピアノを弾く姿勢は、オランウータンみたいに悪いと言われるほどだが、これにはゲレーロの影響がある。ゲレーロも、非常に低い位置で猫背で座り、なるべく指先だけで鍵盤を弾いた。この写真のグールドは11歳で、母フローラの教えによって、指は平らだが、まだ悪い姿勢で弾いていなかったのだろう。「子供のときグールドは、ゲレーロとまったく同じ座り方をするので、みな笑っていました」と[8]生徒の一人がいう。

この姿勢の悪い座り方については、一番心外だったのはフローラだろう。彼女は、つねに「グレン、背筋を伸ばしなさい!」と息子に言い聞かせてきた。ところが、息子にとってもっとも有害だと信じる姿勢で、ピアノを演奏するようになってしまい、公のコンサートの場でもそうだった。世間のピアノ経験者や新聞評でも姿勢の悪さはいつも指摘されるのだが、グールドは改める様子が少しもなかった。彼女は面目を失い、落胆していた。

だが、実際的な父バートは、それならそれで仕方がないと考えていた。バートは、椅子の足を約10センチほど切り、切った部分を真鍮の金具で囲み、その先に高さ調節用の回転ネジをつけた折り畳み椅子を作った。椅子は、わずか35センチの高さである。

生涯にわたって使い続けた椅子

グールドは、この父が作った椅子をどこへでも持って行き、終生、使い続けた。当然ながら年月が経つに連れて、椅子は草臥れていった。やがて座面の詰め物が飛び出し、晩年には、木枠だけになってしまうのだが、それでもこの椅子に固執し使い続けた。もちろんグールド自身も周囲の人たちは、同じような椅子を新たに作ろうとするのだが、やはり最初の椅子の使い心地の方が上回るのだった。

グールドは、それでもあきらめず、椅子をもっと低くしようとする。しかし、椅子をあまりに低くすると、今度は足が不自由になる。そのために、後にはピアノを数センチの高さの木製の台に乗せ、ピアノを持ち上げるか、特製の金属の大きな枠を作りピアノをそれに乗せて弾くようになる。

クロッケー(Wikipedia)

ゲレーロは、バートの手配でシムコー湖に別荘を買った。グールドとフローラ、ゲレーロとマートルは二組に分かれ、クロッケーを楽しんだ。運動など競争の価値を否定するグールドだったが、芝生上のビリヤードといわれる[9]クロッケーでは、負けず嫌いのグールドは、どんな汚い手を使ってでも勝とうとするのが常だった。だが、まれに負けると地団太を踏んで悔しがった。

グールドは性的なことはまだ何も知らなかった。しかし、50代半ばのキュービズムのような顔をした母と比べて、マートルに若い女性の性的な魅力を感じていた。

ゲレーロは、「ピアニストではなく、音楽家になりなさい。」とレッスンで言い、それが彼の思想だった。ピアニストはピアノが弾ければよいというのではない。人間的にも魅力のある人物になりなさいと教え子たちに常に求めていた。

実際、彼は音楽だけではなく、文学や絵画、ほかの芸術にも造詣が深いルネサンスマン(万能人間)だった。ゲレーロは、貴族的な育ち方をした。母はピアノの名手であり、姉妹や兄弟たちも医者や大学教授で同様だった。

もちろん彼の音楽の才能は、異色なほど優れていた。サン・サーンスのオペラ《サムソンとダリラ》を聞いた後、急いで家に帰り記憶を頼りに全曲を弾きとおしたというエピソードを、生徒の[10]スチュワート・ハミルトンに言ったことがあるのだが、ハミルトンはさすがに本当とは思えなかった。だが目の前のゲレーロは、何十年もスコアを見たことがない《サムソンとダリラ》の第1幕を弾き通した。他の生徒のレッスンでは、ハチャトリアンのピアノ協奏曲をレッスンする必要があったのだが、自分の楽譜が見つからなかった。そのときもゲレーロは、やはり、記憶を頼りにオーケストラのパートすべてを伴奏した。

もちろん、彼の才能は音楽だけではないのだった。彼はエスペラント語を含め数か国語を話し、文学や哲学に通じ、[11]コント、フッサールやサルトルまでが話題に上った。絵画通で自分でも画を描いた。美食家でもあり、ワイン通でもある洗練された教養の高い紳士だった。

ゲレーロは、また現代音楽に精通する擁護者だった。

彼は、シェーンベルクをグールドが16歳のときに教えた。

グールドは、最初この音楽をゲレーロから聴いたとき、この音楽を拒絶し、二人で激しい議論になる。しかし、数週間後にグールドはシェーンベルクの様式で作曲した曲をレッスンに持ってきた。ゲレーロは、手放しでその曲を褒め、現代音楽がグールドの目標の一つになる。

ただ一方で、ゲレーロはピアノの打鍵技法については、具体的に詳細な研究を重ね、独特の技法を編み出していた。[12]フィンガータッピングというのだが、右手と左手に分けて、右手の音を弾くときには、鍵盤の上に右手を置き、左手で右手の指をおして打鍵し、音を出す。こうして右手が自然に跳ね返る感触を身につけ、指の独立を促すというものだった。また、背筋を鍛えさせ、指の方には力を入れないで、曖昧さやむらのない打鍵ができるようにする。このような奏法では、火山の噴火のような爆発的な強音は出せない。つまり、リストやラフマニノフの協奏曲は諦めるしかなかったが、ゲレーロもグールドも、大ホールで何千人をも圧倒しようとする音楽にはあまり興味を持っていなかった。

グールドは、あまり練習をしない、むしろ練習をしない方がうまく弾けるというようなことを、プロになってからはよく言って周囲の反発をかうのだが、少年期は、このフィンガータッピングを徹底的にやり、とことん時間を忘れて練習に没頭していた。

ゲレーロが、グールドにピアノを教えようとすると、グールドは怒った。反発して従わないばかりか、逆のことをしようとした。このため、ゲレーロは、「この子を教えようとするのは逆効果だ。やめよう。」とすぐに悟った。マートルがゲレーロから聞いていたのは、「グールドを教える秘訣は、答えを自分自身で見つけさせることだ。すくなくとも見つけたと思わせること」だった。

実際、グールドとのレッスンで、

「グレン、それでいいよ」とゲレーロが言っても、

「いいえ、まだです」とグールドはと答えた。

完璧に弾けるまで延々とグールドは止めなかったので、いつも時間をオーバーしていた。おまけに、ピアノの実技というより、音楽に対する姿勢の議論が中心だったのも事実で、ゲレーロはグールドの音楽観を明確にすることに大いに貢献した。

グールドは成長するにつれ、ピアノは生涯独学だったと言い、ゲレーロを傷つけた。しかし、グールドのピアノを弾く時の極端に低い姿勢や、フィンガータッピング奏法は、はっきりとゲレーロの影響を受けている。

ゲレーロは、1959年(73歳)のときにヘルニアの手術後の合併症で亡くなるのだが、その直前に、先妻との間の娘メリザンドが、グールドが師のゲレーロを非難するような記事を見つけ、怒りながら父に見せると、ゲレーロは、”Al maestro cuchillada”(師をナイフで刺す[生徒は教師を恨むものだ])とむしろ誇らしげに言ったという。

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恩師を出し抜く

グールドは、1944年(11歳)になると、トロントで行われるキワニス音楽祭[13]へ3年連続で参加している。

あるトロント大学の美学の[14]教授は、この音楽祭の審査員たちを評し「いかにも忌まわしいタイプのイギリス人審査員、異邦人たちを啓蒙するのが目的でやってきた植民地主義者」と評した。イギリス風の音楽観だけでなく、イギリス人の風俗習慣や価値観をも強化することにあり、礼儀正しさがなにより優先される音楽祭だった。

グールドは、1966年の《[15]ハイ・フィデリティ》誌に《コンクール落ちこぼれ候補からひとこと!》というタイトルで、キワニス音楽祭にふれたユーモアあふれる辛口エッセイを書いている。

「・・・・ただし英語圏カナダでも、マイナーリーグ風の音楽祭の伝統は確かにある。しかしそれは、新進音楽家がプロとして立てるかどうかの命運を分けるようなものではなく、学生を審査する地域的な年中行事であり、高齢退職したような英国系学校関係者が主宰する。このような催しはお情けとなれ合いの雰囲気に包まれている。・・・」

それに続き、グールドはこの審査員たちを茶化し、「これはこれは、とても結構でした。67番の方ね。すばらしい気迫とか、ですね。ただ、複縦線のところでもつれたので1点だけ引かねばなりませんがね。慣れた提示部を通して4度というのは、ちょっとうんざりじゃないかな。」と書いた。

この1944年の第1回キワニス音楽祭で、グールドは一位を3つとった。1つは、バッハのプレリュードとフーガ部門で、周りはほとんどグールドより年長者ばかりだった。グールドは、200ドル(現在価値で2800ドル=31万円)の奨学金を得る。

1945年には、バッハとベートーヴェン部門で、一位2つと三位を取り、100ドルの奨学金を得る。この演奏はラジオで放送され、グールドにとって、初のオンエアとなった。

1946年には、またも一位を2つ獲得したが、それぞれバッハと協奏曲部門だった。

このとき、ゲレーロを伴奏者にして、ベートーヴェンの[16]ピアノ協奏曲4番第1楽章を弾いた。このころには、新聞などにはっきりと「神童」と批評が載るカナダ国内の本物の有名人になっていた。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番は、めずらしくピアノの独奏から始まるピアニストなら誰もが挑戦する名曲である。ベートーヴェンのピアノ協奏曲は第5番の「皇帝」が最も有名なのだが、第4番はピアノとオーケストラ(弦楽器)がまるで深遠な対話をするような違った趣で、「皇帝」以上に好まれる曲だ。

その曲の始まりは、「ダ、ダ、ダ、ダーン」と始まる交響曲第5番「運命」と同じ、同音連打を3度繰り返す。もちろん、「運命」のような大音響ではない。楽譜には「ピアノ」と「ドルチェ」と書かれているので、「小さな音」で、「やわらかく」という指示がある。しかし、これをピアノで習う生徒は、適度な快速さ(アレグロ・モデラート)で和音を和音として鳴らし、「運命」の動機と同じだと教わる。もちろん、グールドもピアノ教師からそのように教えられていた。このため普通は、同音の和音の連打であることを意識しながら弾くのだが、グールドは、「[17]アレグロ・モデラート」と指示されたこの曲をさらにゆったりと感情をこめて、わざと和音を強調するようには弾かず、下声部の和音を小さめの音量で弾き、高音部を引き立たせて弾いた。

このピアノ独奏の入りは、次に入ってくるオーケストラの同じ旋律の演奏に大きな影響を与える。「ほどよく快速」に、ピアニストが「運命」動機のように弾けば、オーケストラも「運命」動機のようにあっさり演奏する。しかし、ピアニストが穏やかにゆったりとモデラートで始めると、当然、受けるオーケストラもそのように演奏する。

グールドは、ピアノ教師から練習で何度か弾き方が違うと注意されるのだが、グールドははっきりと反論せず、はにかみながらも自分の弾き方を改めようとはしないのだった。

また、この2台のピアノによる第1楽章のみの演奏の後、この音楽教師からグールドは、来年の王立音楽院の年度末コンサートで、トロント交響楽団とこの曲で、プロオーケストラ・デビューするよう言われる。この話があった時、グールドは、11歳の時から2年間、毎日のようにこの曲をレコードで聴き、レコードに合わせ自分も演奏していたので、問題はないだろうと考えていた。

グールドが聴いていたレコードは、[18]シュナーベルだった。シュナーベルは、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、ブラームスといった狭いレパートリーを、単に技巧的に上手に、美しく弾くというものではなく、はっきりとメッセージ性を出し、曲からくみ取った自分の意図を聴き手に伝えようとしていた。

この演奏は、78回転のSPレコード全8面からなり、グールドは自動裏返し装置のついたプレイヤーで鳴らしながら、シュナーベルそのままに、ピアノパートを弾いていた。78回転で回るSPレコードは、裏表に溝があり、表面が終わると盤を自動的にひっくり返し、裏面の演奏を始める。レコードは全8面に分割されていたから、7回中断するのだが、グールドはその中断の間、[19]カデンツァを弾き、高揚を保っていた。また、その中断は、曲想の変化の造形上の重要な区切りでもあり、シュナーベルは表現法を変え、《[20]個人的述懐》を開陳するのだった。グールドも、同様の嗜好であり、この豊かで柔らかい曲の区切りを決するはっきりしたポイントを無視して弾くやり方は、我慢がならない。軽率かつ無配慮に、ゴール目指してすたすた前進する演奏では、もっと我慢がならないと考えていた。

ところが、グールドの演奏を良しとしないピアノ教師は、生徒の嗜好を甘やかすなどとはもっての外と考えて、グールドからシュナーベルのレコードを取り上げ、《個人的述懐》風な表現をするんじゃないと生徒に釘をさした。

そこで、グールドは一計を案じ、この教師との練習の間、[21]ゼルキン風にきびきびとした素早い演奏をし、ときに、洗練された[22]カサドシュ風熱情によって緩めて演奏してみせた。そして、教師のゲレーロは、グールドの進歩と従順さ、個人指導の分野における自分の腕前に至極満足を覚えていた。

ところが実際のトロント交響楽団(指揮は[23]バーナード・ハインツ)との本番で、グールドは、リハーサルでもやっていなかったシュナーベル風の演奏をはじめた。一部には、不満なところもあったが、幸い、オーケストラもうまく従いてきた。演奏後、グールドは意気軒高、師ゲレーロは面目丸つぶれになる。

この演奏を聴いた聴衆は、何度もアンコールを求め、報道関係者はこの少年の演奏を絶賛した。ただ、トロントの新聞《グローブ・アンド・メイル》は違った見解を載せ、「ベートーヴェンのとらえがたい『ピアノ協奏曲』第4番が昨夜一人の子どもの手にゆだねられた」「この坊やは、自分を誰だと思っているのだろう。シュナーベルだとでも思っているのだろうか」と結びに書いた。

ついで母殺し

グールドは、トロント交響楽団との思い出のうち、母親の思い出をユーモアと皮肉交じりで書いている。

これを書いたのは、グールドが7歳の頃、[24]「たわむれに記憶はすまじ あるいはトロント・シンフォニー・オーケストラの思い出」で、後に王立音楽院の校長になるサー・アーネスト・マクミランが指揮していたトロント交響楽団で、一般の聴衆の一人として見たときの母の様子を語っている。

「このコンサートに関して、もうひとつこんなことも覚えている。私は、両親といっしょに、たぶん私よりいくつか年上のごく上品な二人の男の子のすぐうしろに座っていたのだが、母が、彼らはサー・アーネストの息子たちだと断言した。私は、母がどこからそういう話を仕入れていたのか知らないが、彼女はこの種の情報を集めることに奇妙な偏愛を示していた。とりわけ、それらの情報を何らかの宣伝目的に使えるようなときはそうだった。あのとき、その二人の男の子は非の打ちようもなく飾り立てられていた。(あれはすみからすみまで宣伝の対象になっていた。ところが私は、実際のところ、その頃、われわれの社会の人びとにとっての模範になるには程遠い存在だった。)そして母は、彼らこそ、礼儀作法に関して私があこがれなければならないものの見本だと頭ごなしに断言した。そして私は、直ちに、彼らが大嫌いになった。」

同様に、グールドが初めてオーケストラと共演した1947年1月(14歳)、ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲』第4番の指揮者であるバーナード・ハインツを見た時の母を、次のように語っている。

「ソリストとして私がはじめてトロント・シンフォニーと出会ったのは、1947年のことだ。客演指揮者はオーストラリアのマエストロ、サー・バーナード・ハインツで、私はベートーヴェンの『協奏曲第4番』をひいた。サー・バーナードに関しては大したことは覚えていない。彼がきわめていんぎんな人物で、英国風の警句や、オーストラリア風の女性の手への口づけに夢中になっていた。母はすっかりのぼせあがっていた。」

グールドが公立中高一貫校のマルヴァーン高校に12歳で入学し、午前は授業を受け、午後はトロント王立音楽院へ行くようになってからは、グールドは「ダバ、ダバッ、ダッ」と歌いながら指揮をして、歩道と車道を交互に歩き、全くの変人で有名人だった。しかし、同級生がグールドを見る目は、将来グールドが天才的な音楽家になると自然に受けとるように変わっていった。

両親は、グールドの才能を潰さないように気にかけ、コンクールなどの競争は才能を潰しかねないと危惧していた。バートは、毛皮商としての商売でしっかり稼いでいたから、ピアニストの収入は大したことがないと思っていたし、息子にはもっと運動もして元気で暮らしてほしいと考えていた。ただ、息子の才能は高く感じていて、希望は何でも叶えようと思っていた。フローラは[25]不可能な子供を望んでいた。

「行儀がよく、姿勢よく座り、悪ガキのような、あるいはませた考えをしない天才少年、そして飛びぬけてはいるが、同時に周りに溶け込んでいくような子供を欲しかった。」

ある日、グールドがカナダの新聞記者からインタビューを受けた。

「グレン、君はどんなジャンルの音楽が好きなの。同い年の子は、ポップスだけど、興味はないの」

「ぼくはクラシックだけです。価値を認めているのは。」

それを横で聞いていたフローラがたしなめた。

「あなた、そんなことをおっしゃってはいけません。ポップスも好きな人が大勢いらっしゃるのよ。それに、あなたの気持ちもいつか変わるかも知れないでしょ」

フローラは少し立腹していたが、グールドは譲らない。

「そんなのクラシック以外の音楽に価値なんてないよ。ポップスなんて、うわっ滑りで下品で、当然じゃないか。」

「そんな決めつけるようなことを子供のあなたが言い張ってはいけません」

また、話は[26]カルーゾへ移る。カルーゾは、母フローラとグールドがこの会話をしていた20年以上前の1921年に亡くなったテナー歌劇歌手だった。一般大衆に広がったオペラ歌手の草分けといっても良かったが、テナー歌手でありながら、低いバリトンの声からテノールまでの広い音域を滑らかに出し、その声は明るく軽いテナーの声ではなく、むしろ暗くて渋い声も出せた。それはオペラ界で求められる声質だった。当時は、マーラー、トスカニーニと言った厳しい指揮者や、プッチーニと言った作曲家の前で歌うこともあり、彼はいつも原曲に忠実で端正な歌唱力で歌った。

同時に、レコードプレイヤーを蓄音機と呼んでいた時代に、レコード録音を初めてした数少ない歌手だった。彼の実力により、いつまでも世界的な人気があった。あまりに人気が衰えないので、過去の録音が新録として再発売されていた。

グールドは、よく知らないカルーゾを批判的に断罪した。

「カルーゾなんて、偽物だよ。ちっともたいしたことないね」

「だめです、そんなこと言っちゃいけません。どうしてあなたがそうとおわかりなの。あなたはまだ子供で、判断するには経験がまったく足りていないでしょ」

「彼は道化でインチキなんだよ。人気なのは、競争相手がいないので運が良かっただけだ」

「いい加減になさい、グレン。カルーゾのことをあなたはどれだけわかっているの。あなたはレコードもろくに聴いていないでしょ。レコードでは、瘦せた音でしか聞こえないわ。カルーゾは、バリトンからテノールまで出せる、巨匠なのよ。わたしもおとうさまも、熱中したものよ」

「そんなの、すこし聞けば分かるじゃないか。ママは耳が悪いの。」

と、グールドは、今は亡きカルーゾのことをよく知らないまま断定し、母との論争を最後まで譲らなかった。

フローラは、オペラ歌手を目指していた過去があった。カルーゾは、イタリアの歌劇王であり、フローラがレコードを何枚も持っている尊敬する歌手だった。しかし、グールドはカルーゾにショービジネス的なものがあるのを感じ取っていた。グールドは、そうした商業主義は敵だと感じていた。しかし、クラシック音楽に商業主義的性質があるのは、当然だろう。その商業主義的な演奏の中に、優れたものとそうでないものがあるだけだろう。

自説を曲げないグールドは、ある程度成長するにつれ、北欧の音楽であるバッハやベートーヴェン、シェーンベルクなどの新ウィーン学派の現代音楽を肯定し、南欧の音楽であるイタリアオペラなどは享楽的だとして好きにはなれなかった。


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[1]  レオ・スミス 1881-1952 作曲家。トロント音楽界の重鎮

[2]  フレデリック・シルヴェスター1901-1966 イギリス。オルガン奏者、合唱団指揮者

[3] アーティキュレーション(articulation) 音楽の演奏技法において、音の形を整え、音と音のつながりに様々な強弱や表情をつけることで旋律などを区分すること。

フレーズより短い単位で使われることが多い。強弱法、スラー、スタッカート、レガートなどの記号やそれによる表現のことを指すこともある。アーティキュレーションの付けかたによって音のつながりに異なる意味を与え、異なる表現をすることができる。(Wikipedia)

[4]  サー・アーネスト・マクミラン1893 – 1973 カナダの指揮者。遅めのテンポを好むことから「ラルゴ卿」の異名をとった。

[5]  アルベルト・ゲレーロ 1886 – 1959 チリ出身のカナダのピアニスト・作曲家・音楽教師。現在では、グレン・グールドの学生時代の指導者として記憶されるが、トロント王立音楽院での長年にわたる指導を通じて、何世代にもわたって人材を輩出してきた。

[6] リリー(Lily Wilson Guerrero) チリの上流階級で生まれ、高価なものを好んだために家計を圧迫した。夫婦二人とも人柄がよく魅力的で不倫や浮気の噂があった。メリザンドという名前のむすめがいる。

[7] マートルローズ(Myrtle Rose) 1906年、サスカチュワン州ノースバトルフォード生。アルバータ州レスブリッジで幼少期の教育を受けた。彼女は1928年にトロントにやってきて、トロント王立音楽院で学び、最初はピーター・ケネディ、次にゲレロに師事した。

[8] マーガレット・プリヴィテッロ ゲレーロの生徒の一人だが、彼女はゲレーロから「一日中ピアノばかり弾いていてはだめだ」と言われ、音楽以外にも興味を持つように指導されていた。彼女は、「グールドはゲレーロの息子がわりだった」ともいったことがある。

[9] クロッケー イギリス発祥の芝生上の球技。クロッケーはフランス語、英語はクリッケット。体力的なハンディキャップがなく年齢や体力に関係なくプレイできる。特徴はクロッケー・ショットで、接触させた2個のボールのうち自分のボールを打ち、任意の位置に転がす。ビリヤードと同様、ボールの転がる割合と、転がる方向を打ち方で制御し、他のボールを利用して早くゴールを競い合う。技術と知力が必要。

[10] スチュワート・ハミルトン(Robert Stuart Hamilton)1929 – 2017)ピアノ伴奏者、声楽の教師でもある。カナダ・オペラ界の顔の一人で1985年、カナダ勲章を受章。

[11] コントとサルトルはフランス、フッサールはオーストリアの哲学者

[12] フィンガータッピング 神秘の探訪・ケヴィン・バザーナ

[13] キワニス音楽祭 1944年からトロントで開催された音楽祭。多くの少年、少女がカナダ全土から参加したが、プロを目指す音楽家の登竜門でない。

[14] トロント大学の美学の教授 1926年、カナダ東部のハリファックス生まれのジェフリー・ペイザント。トロント大学哲学部で美学を講じ、グールド存命中の1978年に《Glenn Gould, Music & Mind, Geoffrey Payzant》《日本語版 グレン・グールド、音楽、精神 訳:宮澤淳一 音楽之友社》を刊行し、グールドの音楽的思考を真正面から再検討した。

[15] ハイ・フィデリティ誌 1951年から1989年までアメリカで刊行されたオーディオと音楽の専門雑誌で、1989年半ばに、《ステレオ・レヴュー》誌に吸収された。

[16] 《神秘の探訪 88頁》

[17] Allegro Moderato アレグロ・モデラート ほどよく快速に

[18] シュナーベル アルトゥル・シュナーベル(Artur Schnabel, 1882- 1951)オーストリア→アメリカのユダヤ系ピアノ奏者、作曲家。シュナーベルは技巧よりも表現を重視した演奏を行ったが、大げさな表現をよしとせず客観的な表現に特に重きを置いた。シュナーベルのベートーヴェン解釈は内面的な精神と外面の造形を絶妙に両立させたものといわれ、後の世代のベートーヴェン弾きであるバックハウスやケンプらとの解釈とは一線を画す解釈を繰り広げた。(WIKIPEDIA)

[19] カデンツァ 協奏曲などで、独奏楽器がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏をする部分のこと

[20] 《個人的述懐》:音楽誌である《ハイ・フィデリティ(1970年6月)》にエッセイ「孤島のディスコグラフィ」にグールドが寄稿している。孤島へ持って行くレコードとして、中世の作曲家ギボンズ、シェーンベルク、シベリウスの3枚をあげたあと、思春期に独特の役割を果たした思い出の曲として、ベートーヴェン第4番の協奏曲を4枚目に挙げている。この14歳のコンサートデビューのエピソードに、ピアノ教師であるゲレーロに逆らって、練習ではゼルキン風に弾き、本番ではシュナーベル風に弾いて、ゲレーロの面目をつぶしたと書いている。このシュナーベル風演奏を《個人的述懐》と表現している。(「グレン・グールド著作集2」(みすず書房、ティム・ペイジ編 野口瑞穂訳))

[21] ゼルキン ルドルフ・ゼルキン(Rudolf Serkin, 1903 – 1991)は、ボヘミア出身のユダヤ系ピアニスト。

[22] カサドシュ ロベール・カサドシュ(Robert Casadesus, 1899 – 1972)は、フランスのピアニスト・作曲家。

[23] Bernard Heinze (1894– 1982)オーストラリアの指揮者。この時の演奏のことを、グールドは、「彼がきわめていんぎんな人物で、英国風の警句や、オーストラリア風の女性の手への口づけに夢中になっていた。母はすっかりのぼせあがっていた」と書いている

[24] 「たわむれに記憶はすまじあるいはトロント・シンフォニー・オーケストラの思い出」《ぼくはエクセントリックじゃない グレングールド対話集》音楽之友社 ブリューノ・モンサンジョン編 この文章は、モンサンジョンによるとグールドの死後時間がたって見つかったようだ。

[25] フローラは不可能を望んでいた(神秘の探訪:バザーナ) 友人フルフォードの回想

[26] エンリコ・カルーソー(1873 – 1921)Enrico Caruso、イタリア、ナポリ生まれ。歌劇歌手。オペラ史上において有名なテノール歌手の一人。レコード録音を盛んに行ったスター歌手は彼が最初だったこと、20世紀最初の20年間という時代もあって、カルーソーは円盤型蓄音機の普及を助け、それが彼の知名度も高めた。カルーソーが行った大衆的なレコード録音と彼の並外れた声、特にその声域の広さ、声量と声の美しさによって彼は当時の最も著名なスター歌手である。


投稿者: brasileiro365

 ジジイ(時事)ネタも取り上げています。ここ数年、YOUTUBEをよく見るようになって、世の中の見方がすっかり変わってしまいました。   好きな音楽:完全にカナダ人クラシック・ピアニスト、グレン・グールドのおたくです。他はあまり聴かないのですが、クラシック全般とジャズ、ブラジル音楽を聴きます。  2002年から4年間ブラジルに住み、2013年から2年間パプア・ニューギニアに住んでいました。これがブログ名の由来です。  アイコンの写真は、パプア・ニューギニアにいた時、ゴロカという県都で行われた部族の踊りを意味する≪シンシン(Sing Sing)≫のショーで、マッドマン(Mad Man)のお面を被っているところです。  

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