第7章 マネージャー、ホンバーガー

14歳のグールドが初めて、トロント交響楽団と共演した1947年1月のベートーヴェンの『ピアノ協奏曲』第4番を、22歳のウォルター・ホンバーガー(1924-2019)が聴き、「これは凄い少年が現れた。」とグールドの才能を確信する。そして、「興行主としての音楽マネージャーになりたい」とすぐに両親に申し出た。

ドイツ生まれのホンバーガーは、恰幅がよく、上品で落ち着いた紳士だった。一方、いつまでたってもドイツ訛りのアクセントがぬけず、のちにグールドがよくするものまね、ドイツ語訛りでしゃべる奇人の発音のモデルにしていた。

かれは、ドイツ、カールスルーエで私立銀行を営む家庭で生まれた。音楽経験はなかったが、周囲を優れた音楽家[1]に囲まれ、興行主を志していた。第二次世界大戦のまえにナチスから逃れ、イギリスへわたり、1940年カナダへ亡命、1942年に市民権を与えられていた。しかし、敵国からの亡命者にとっては苦しい時代で、大戦が終わる1945年まで隔離され厳しい監視下にあり、移動するにも仕事の認可を得るにも厳しい規制を受けなければならなかった。

かれは優れた実業家であり、グールドがコンサートから身を引く1964年まで、興行主としてマネージャーを務め良好な関係を続けた。つねにグールドを尊重しかばったからである。グールドは演奏の姿勢などで常に批判を浴びていたが、ホンバーガーはこういうのだった。

[2]ステージ・マナーについてグレンが批判されたときの私の答えは決まっていました。『あなたは音楽を聴くために演奏会へ行くのでしょう?でしたら目を閉じて聴いてください。彼を見たくなかったら、目の前から追い出せばいいんですよ』と。」

グールドは後に成功してから、ユーモアでホンバーガーをこう評している。

[3]ギャラ、ピアノの選択、衣装、プログラム、スケジュール、そして僕のプレスへの態度以外ならば僕とマネージャーの意見が食い違うことはまったくない。」

ゲレーロと別れたグールドにとって、ホンバーガーは新しい父親だった。

なおかれは、1962年から25年間、トロント交響楽団の興行主をつとめている。

日本の小澤征爾は、1964年から4年間トロント交響楽団の常任指揮者を務めていたので、グールド、ホンバーガーとも交友があった。

グールドの両親は、ホンバーガーのマネージャーの申し出を最終的に「神童として酷使しないこと」を条件に承諾する。

ホンバーガーとグールドの両親は、居間のソファに座り話し合っていた。

「おとうさん、おかあさん。息子さんの演奏を聴いて、ぼくは跳びあがりました。すごいです、あの年齢で、あんなに表現力があって感動的な演奏をするなんて、信じられません。小さい音で演奏する時には胸を締めつけられる気がしましたし、クライマックスでは興奮して、心臓がバクバクしました。まったく自由自在じゃないですか!まだ、14歳ですよね。ぜひ、ぼくをマネージャーにしてください。興行的に成功させてみせます。ちゃんと、かれを育てますから」

「先日は、トロント交響楽団との協演でしたが、昨年は同じ曲を、ピアノのゲレーロ先生がオーケストラのパートを連弾で伴奏してくださいました。この先生についてから、グレンは、どんどん成長しはじめて、わたしたちがどうしたらよいのか、わからないくらいになりました。遠いところに行ってしまうようで、怖いくらいです。わたしたちは、ふたりとも音楽好きで、母親が10歳までピアノを教えてきました。わたしはヴァイオリンを弾いていましたし、夫婦で讃美歌をうたい、グレンが伴奏をして聴衆の人たちから喝采をもらったこともありました」

「わたしは、声楽の教師をずっとしていたので、グレンにピアノを弾きながら歌うように言ってきかせました。そのせいで、かれのステージで歌う癖は、抜けなくなりました。グレンの上達ぶりは、ふたりとももちろんうれしいのですが、とまどいもあるのが正直なところです。かれは、まるで、わたしたちの平凡な家庭の裏庭に突然山脈が隆起して現れた[4]ようなものです。わたしたちの手に負えなくなってきたのです。わたしたちも、そういっていただくのは嬉しいのですが、どうしたらよいのかわかないところがあります。」

「神童とか天才とかいわれながら、大人になってだめになってしまう演奏家は大勢いますし、かれはまだ声変わりもしてしない子供にすぎません。我が家では「神童」とか「天才」という言葉に加えて、「モーツァルト」と軽々しくいうのも禁句なのです。かれは金魚に「モーツァルト」と名前をつけていますけどね。わたしたちは、幼いころから大勢の大人を喜ばせる、見世物にしたくないと思っていました。彼を、まずは親として、ちゃんとした人間に成長するのを見届ける義務があると思っています」

「わかりました。わたしは、音楽家ではありませんし、楽譜も読めません。しかし、ビジネスには自信があります。弱みもあるのでしょうが、強みもあるはずです。おっしゃるように、かれの意思に反して酷使するようなまねはしません。もちろん、親御さんの心配は分かります。ですが、かれには他にない才能があり、それを埋もれさせずに、開花させてあげる役目もあるのではないでしょうか。どうか息子さんを、わたしにあずけてもらえませんか」

その話し合いをしている居間のピアノの横にはフラシ天(ビロードに似た高級布地)の長椅子が置かれ、グレン少年は、ほぼ水平といえるほどのだらけた格好で寝転んでいた。母親が言った。

「グレン、背を伸ばして。いい加減にきちんと座ってちょうだい、お願いだから。この話、あなたはどうなの。ホンバーガーさんに、マネージャーをお願いするということは、ピアニストになってそれで身を立てることになるのよ」

グールドは、だらけた姿勢をほとんどかえずに答えた。

「ピアニストだけじゃないよ。ぼくは作曲家になるんだ。作曲家になる前に、まずコンサート・ピアニストになるんだけどね」

最終的に、両親はホンバーガーが興行主となって取り仕切ることを了承し、翌1947年10月20日にデビュー・コンサートを1回のみのおこなう旨の「紙切れ1枚」の契約を1947年3月13日に交わし[5]た。興業主になるにはアメリカだ、カナダで興行主として成功するはずはないと周囲からいわれたホンバーガーだったが、かれには自信があった。

この年の契約の後、グールドは、トロント王立音楽院で初の単独リサイタル、教会ではオルガンによるリサイタルを開いた。この二つのリサイタルがホンバーガーの手によらなかったのは、グールドの父バートが、マネージャーの役をなかなか手放さなかったということがある。バートはずっと、グールドの公演の話があると、相手先との交渉や手配、旅行の支度や空港までの送迎などを献身的にずっとしていた。

10月20日、ついにホンバーガーの手腕が発揮された商業リサイタルが初開催された。グールドは、15歳でプロデビューした。

グールドの写真が写されたポスターやプログラムで宣伝された。曲目は、スカルラッティ[6]のソナタ5曲、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番ニ短調作品31第2「テンペスト」、クープラン[7]のパッサカリア、ショパンのワルツ第5番変イ長調作品42、即興曲第2番嬰へ長調作品36、リストの《泉のほとりで》、メンデルスゾーンのアンダンテとロンド・カプリチオーソだった。

トロントの主要3紙がそろって批評記事を載せた。いずれの新聞もグールドの演奏を高く評価し、《グローブ・アンド・メイル》紙は「この演奏家は楽章や作品全体をひとつのまとまりとして捉えた。しかも細部は全体の構造を示すべく計算されていた」と書いた。グールド、両親、ホンバーガーの全員が、この成功に満足した。

なお、グールドは初期ロマン派といわれるショパン、リスト、メンデルスゾーンを嫌悪し、やがてこれらの曲を弾かなくなるのだが、15歳のこのときはそうではなかった。

つぎへ(まだ、飛びません)


[1] 優れた音楽家 ヴァイオリニストのカール・フレッシュを師とするヘンリク・シェリング、ゲアハルト・カンダー、イダ・ヘンデルがホンバーガーの友人だった。いずれも有名なヴァイオリニストである。

[2] 「神秘の探訪:バザーナ」第9章孤立 P117

[3] 「ギャラ、ピアノ・・」映画《HereAfter/来世》ブリュノ・モンサンジョン2007年 この映画にトロントのグールド像に語り掛けるご夫人との架空の対話で出てくる。

[4] 山脈が隆起 1983年、グールドへの追悼文集を集めた《Glenn Gould Variations, John McGreevy》《1986年日本語版 グレン・グールド変奏曲 訳:木村博江 東京創元社》が発刊され、この中で、子供時代から20歳前半までのグールドの唯一といっていい友人として過ごした《Saturday Night》誌編集者のロバート・フルフォードが、「育ち盛りのグールド」というタイトルで寄稿している。

[5] 《神秘の探訪:バザーナ 117頁》

[6]  スカルラッティ(1685-1757) イタリア出身の作曲家。同年にJ.S.バッハ、ヘンデルのバロック時代の代表的作曲家が生まれている。

[7]  クープラン (1668-1733)は、バロック時代のフランスの作曲家。

投稿者: brasileiro365

 ジジイ(時事)ネタも取り上げています。ここ数年、YOUTUBEをよく見るようになって、世の中の見方がすっかり変わってしまいました。   好きな音楽:完全にカナダ人クラシック・ピアニスト、グレン・グールドのおたくです。他はあまり聴かないのですが、クラシック全般とジャズ、ブラジル音楽を聴きます。  2002年から4年間ブラジルに住み、2013年から2年間パプア・ニューギニアに住んでいました。これがブログ名の由来です。  アイコンの写真は、パプア・ニューギニアにいた時、ゴロカという県都で行われた部族の踊りを意味する≪シンシン(Sing Sing)≫のショーで、マッドマン(Mad Man)のお面を被っているところです。  

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