第7章 マネージャー、ホンバーガー

14歳のグールドが初めて、トロント交響楽団と共演した1947年1月のベートーヴェンの『ピアノ協奏曲』第4番を、22歳のウォルター・ホンバーガー(1924-2019)が聴き、「これは凄い少年が現れた。」とグールドの才能を確信する。そして、「興行主としての音楽マネージャーになりたい」とすぐに両親に申し出た。

ドイツ生まれのホンバーガーは、恰幅がよく、上品で落ち着いた紳士だった。一方、いつまでたってもドイツ訛りのアクセントがぬけず、のちにグールドがよくするものまね、ドイツ語訛りでしゃべる奇人の発音のモデルにしていた。

かれは、ドイツ、カールスルーエで私立銀行を営む家庭で生まれた。音楽経験はなかったが、周囲を優れた音楽家[1]に囲まれ、興行主を志していた。第二次世界大戦のまえにナチスから逃れ、イギリスへわたり、1940年カナダへ亡命、1942年に市民権を与えられていた。しかし、敵国からの亡命者にとっては苦しい時代で、大戦が終わる1945年まで隔離され厳しい監視下にあり、移動するにも仕事の認可を得るにも厳しい規制を受けなければならなかった。

かれは優れた実業家であり、グールドがコンサートから身を引く1964年まで、興行主としてマネージャーを務め良好な関係を続けた。つねにグールドを尊重しかばったからである。グールドは演奏の姿勢などで常に批判を浴びていたが、ホンバーガーはこういうのだった。

[2]ステージ・マナーについてグレンが批判されたときの私の答えは決まっていました。『あなたは音楽を聴くために演奏会へ行くのでしょう?でしたら目を閉じて聴いてください。彼を見たくなかったら、目の前から追い出せばいいんですよ』と。」

グールドは後に成功してから、ユーモアでホンバーガーをこう評している。

[3]ギャラ、ピアノの選択、衣装、プログラム、スケジュール、そして僕のプレスへの態度以外ならば僕とマネージャーの意見が食い違うことはまったくない。」

ゲレーロと別れたグールドにとって、ホンバーガーは新しい父親だった。

なおかれは、1962年から25年間、トロント交響楽団の興行主をつとめている。

日本の小澤征爾は、1964年から4年間トロント交響楽団の常任指揮者を務めていたので、グールド、ホンバーガーとも交友があった。

グールドの両親は、ホンバーガーのマネージャーの申し出を最終的に「神童として酷使しないこと」を条件に承諾する。

ホンバーガーとグールドの両親は、居間のソファに座り話し合っていた。

「おとうさん、おかあさん。息子さんの演奏を聴いて、ぼくは跳びあがりました。すごいです、あの年齢で、あんなに表現力があって感動的な演奏をするなんて、信じられません。小さい音で演奏する時には胸を締めつけられる気がしましたし、クライマックスでは興奮して、心臓がバクバクしました。まったく自由自在じゃないですか!まだ、14歳ですよね。ぜひ、ぼくをマネージャーにしてください。興行的に成功させてみせます。ちゃんと、かれを育てますから」

「先日は、トロント交響楽団との協演でしたが、昨年は同じ曲を、ピアノのゲレーロ先生がオーケストラのパートを連弾で伴奏してくださいました。この先生についてから、グレンは、どんどん成長しはじめて、わたしたちがどうしたらよいのか、わからないくらいになりました。遠いところに行ってしまうようで、怖いくらいです。わたしたちは、ふたりとも音楽好きで、母親が10歳までピアノを教えてきました。わたしはヴァイオリンを弾いていましたし、夫婦で讃美歌をうたい、グレンが伴奏をして聴衆の人たちから喝采をもらったこともありました」

「わたしは、声楽の教師をずっとしていたので、グレンにピアノを弾きながら歌うように言ってきかせました。そのせいで、かれのステージで歌う癖は、抜けなくなりました。グレンの上達ぶりは、ふたりとももちろんうれしいのですが、とまどいもあるのが正直なところです。かれは、まるで、わたしたちの平凡な家庭の裏庭に突然山脈が隆起して現れた[4]ようなものです。わたしたちの手に負えなくなってきたのです。わたしたちも、そういっていただくのは嬉しいのですが、どうしたらよいのかわかないところがあります。」

「神童とか天才とかいわれながら、大人になってだめになってしまう演奏家は大勢いますし、かれはまだ声変わりもしてしない子供にすぎません。我が家では「神童」とか「天才」という言葉に加えて、「モーツァルト」と軽々しくいうのも禁句なのです。かれは金魚に「モーツァルト」と名前をつけていますけどね。わたしたちは、幼いころから大勢の大人を喜ばせる、見世物にしたくないと思っていました。彼を、まずは親として、ちゃんとした人間に成長するのを見届ける義務があると思っています」

「わかりました。わたしは、音楽家ではありませんし、楽譜も読めません。しかし、ビジネスには自信があります。弱みもあるのでしょうが、強みもあるはずです。おっしゃるように、かれの意思に反して酷使するようなまねはしません。もちろん、親御さんの心配は分かります。ですが、かれには他にない才能があり、それを埋もれさせずに、開花させてあげる役目もあるのではないでしょうか。どうか息子さんを、わたしにあずけてもらえませんか」

その話し合いをしている居間のピアノの横にはフラシ天(ビロードに似た高級布地)の長椅子が置かれ、グレン少年は、ほぼ水平といえるほどのだらけた格好で寝転んでいた。母親が言った。

「グレン、背を伸ばして。いい加減にきちんと座ってちょうだい、お願いだから。この話、あなたはどうなの。ホンバーガーさんに、マネージャーをお願いするということは、ピアニストになってそれで身を立てることになるのよ」

グールドは、だらけた姿勢をほとんどかえずに答えた。

「ピアニストだけじゃないよ。ぼくは作曲家になるんだ。作曲家になる前に、まずコンサート・ピアニストになるんだけどね」

最終的に、両親はホンバーガーが興行主となって取り仕切ることを了承し、翌1947年10月20日にデビュー・コンサートを1回のみのおこなう旨の「紙切れ1枚」の契約を1947年3月13日に交わし[5]た。興業主になるにはアメリカだ、カナダで興行主として成功するはずはないと周囲からいわれたホンバーガーだったが、かれには自信があった。

この年の契約の後、グールドは、トロント王立音楽院で初の単独リサイタル、教会ではオルガンによるリサイタルを開いた。この二つのリサイタルがホンバーガーの手によらなかったのは、グールドの父バートが、マネージャーの役をなかなか手放さなかったということがある。バートはずっと、グールドの公演の話があると、相手先との交渉や手配、旅行の支度や空港までの送迎などを献身的にずっとしていた。

10月20日、ついにホンバーガーの手腕が発揮された商業リサイタルが初開催された。グールドは、15歳でプロデビューした。

グールドの写真が写されたポスターやプログラムで宣伝された。曲目は、スカルラッティ[6]のソナタ5曲、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番ニ短調作品31第2「テンペスト」、クープラン[7]のパッサカリア、ショパンのワルツ第5番変イ長調作品42、即興曲第2番嬰へ長調作品36、リストの《泉のほとりで》、メンデルスゾーンのアンダンテとロンド・カプリチオーソだった。

トロントの主要3紙がそろって批評記事を載せた。いずれの新聞もグールドの演奏を高く評価し、《グローブ・アンド・メイル》紙は「この演奏家は楽章や作品全体をひとつのまとまりとして捉えた。しかも細部は全体の構造を示すべく計算されていた」と書いた。グールド、両親、ホンバーガーの全員が、この成功に満足した。

なお、グールドは初期ロマン派といわれるショパン、リスト、メンデルスゾーンを嫌悪し、やがてこれらの曲を弾かなくなるのだが、15歳のこのときはそうではなかった。

つぎへ(まだ、飛びません)


[1] 優れた音楽家 ヴァイオリニストのカール・フレッシュを師とするヘンリク・シェリング、ゲアハルト・カンダー、イダ・ヘンデルがホンバーガーの友人だった。いずれも有名なヴァイオリニストである。

[2] 「神秘の探訪:バザーナ」第9章孤立 P117

[3] 「ギャラ、ピアノ・・」映画《HereAfter/来世》ブリュノ・モンサンジョン2007年 この映画にトロントのグールド像に語り掛けるご夫人との架空の対話で出てくる。

[4] 山脈が隆起 1983年、グールドへの追悼文集を集めた《Glenn Gould Variations, John McGreevy》《1986年日本語版 グレン・グールド変奏曲 訳:木村博江 東京創元社》が発刊され、この中で、子供時代から20歳前半までのグールドの唯一といっていい友人として過ごした《Saturday Night》誌編集者のロバート・フルフォードが、「育ち盛りのグールド」というタイトルで寄稿している。

[5] 《神秘の探訪:バザーナ 117頁》

[6]  スカルラッティ(1685-1757) イタリア出身の作曲家。同年にJ.S.バッハ、ヘンデルのバロック時代の代表的作曲家が生まれている。

[7]  クープラン (1668-1733)は、バロック時代のフランスの作曲家。

第6章 恩師殺し-門下生になるのだが、独学と言い張る

音楽院でゲレーロに学ぶ

グールドの公教育は、1年間小学校へ行かずに家庭教師を依頼したため、1年遅れの1939年、7歳の秋にウィリアムソンロード小学校へ入学、成績が良かったので飛び級もして卒業した。1945年、12歳の秋に公立中高一貫校のマルヴァーン高校に入学する。この高校に入る年には、普通教育より音楽教育の方を重要視するようになり、バートは学校と掛け合い、グールドを午前は高校へ、午後はトロント王立音楽院へ行かせ、夜は、家庭教師をつけ学校の授業を補習させた。最終的に高校に1951年(19歳)まで在籍した。両親は進学を望んだが、グールドは反発し、最終的に必修科目である体育を履修せず高校は卒業しなかった。

音楽教育については、グールドは、1940年、7歳のときにトロント王立音楽院で音楽理論を[1]レオ・スミスから学び始める。転調や、和音の進行、声部の進行法、和声法の基礎をすぐに習得する。特に対位法に才能を発揮し、複数の主題を絡ませたり重ねたりできるようになる。

42年からは、[2]フレデリック・シルヴェスターからオルガンを教わる。シルヴェスターは、グールド一家と家族ぐるみの付き合いをした。グールドは、オルガンを弾くことで、「足を使って考えながら」弾けるようになり、低音部を強調することが、やがて対位法の音楽を好むきっかけになった。また、鍵盤を叩くのではなく「指先で弾く」技法を身につけたため、強弱で表現するのではなく、微妙なテンポの変化でニュアンスを表現するようになり、グールドのピアノ演奏は、清潔で、「まっすぐ(アップライト)()[3]アーティキュレーションのしっかりしたものなった。

フローラは、「この子は上達し過ぎた。私にはもう教えられない。」と思うようになり、自分にかわるピアノ教師を探し始め、王立音楽院の学長のサー・[4]アーネスト・マクミランと相談し、1943年、10歳のときに[5]アルベルト・ゲレーロに依頼することになる。

20歳年下の教え子と同棲するゲレーロ

この時、ゲレーロは、妻[6]リリーと娘メリザンドがいた。チリ人であるゲレーロは、母国から特別名誉領事を任命されていた。ところが教育や公演、出張などで忙しく、当局から名誉領事職をはく奪される。彼は管理者の気質ではなく、ましてや「ボス」の気質でもなかった。そのとき、リリーはゲレーロの代わりに自分を名誉領事に任命するように依頼するのだが、女性は適切でないとして拒否された。結局、ゲレーロは解任され、他の者が任命されるのだが、最終的にはゲレーロは、真剣に仕事に取り組むことを表明して、名誉領事に再登用される。

そのようないきさつで、夫婦はうまくいかなくなり、また、二人は人に好かれる魅力的な性格でどちらにも不倫の噂があった。そして、10年以上前から別居していた。

ちょうど夫婦が不仲になったそのころ、ゲレーロは、20歳年下の教え子[7]マートルと恋に落ちる。一方リリーは、離婚することはゲレーロを自由にし、マートルと結婚することを認めることになるので、離婚をしようとしなかった。

それでグールドを教えるようになったこの時、ゲレーロは57歳で37歳のマートルと公然と同棲していた。

二人が結婚するまでには長い時間がかかった。やっと、1948年に正式に結婚する。これは当時のカナダの法律では、離婚が「不当な扱いを受けた配偶者」からしか申し出ることができなかったからだ。チリのカトリック教徒にとって離婚は禁止されていたし、プロテスタントのカナダでも非常に珍しいことだった。そのため、ゲレーロは長い間苦労した。

トロント王立音楽院は、音楽家を目指す大人たちの大学であり、養成機関である。グールドの周りは大人ばかりだった。10歳以上違う年長者も大勢いた。クラス写真には、グールドだけが思春期にも達していない子供に写っている。この年長者たちに交じって、グールドはいっぱしの主張を堂々と言うのだった。

1944年、第2次世界大戦の連合国軍は、フランス、ノルマンディーに上陸し、戦況が悪化した日本軍は、とうとうレイテ島で《神風特別攻撃隊》を初出撃させた。だが、ここカナダは幸い戦場ではなかった。

ゲレーロは、チリ人の多才なピアニストで、サンチャゴで最初の交響楽団を結成して指揮した経歴をはじめ、南米で広く活動した後、アメリカを経て1922年からトロント王立音楽院の教授だった。ゲレーロは子供を教える気はなかったが、グールドは別だった。すぐにグールドの天才に気づき、グールドはゲレーロの寵児になる。影の薄いバートに代わって、ゲレーロは、グールドの新たな父親がわりの存在になる。

ゲレーロとグールド(11歳)

この写真のグールドは、普通の姿勢で弾いている。グールドのピアノを弾く姿勢は、オランウータンみたいに悪いと言われるほどだが、これにはゲレーロの影響がある。ゲレーロも、非常に低い位置で猫背で座り、なるべく指先だけで鍵盤を弾いた。この写真のグールドは11歳で、母フローラの教えによって、指は平らだが、まだ悪い姿勢で弾いていなかったのだろう。「子供のときグールドは、ゲレーロとまったく同じ座り方をするので、みな笑っていました」と[8]生徒の一人がいう。

この姿勢の悪い座り方については、一番心外だったのはフローラだろう。彼女は、つねに「グレン、背筋を伸ばしなさい!」と息子に言い聞かせてきた。ところが、息子にとってもっとも有害だと信じる姿勢で、ピアノを演奏するようになってしまい、公のコンサートの場でもそうだった。世間のピアノ経験者や新聞評でも姿勢の悪さはいつも指摘されるのだが、グールドは改める様子が少しもなかった。彼女は面目を失い、落胆していた。

だが、実際的な父バートは、それならそれで仕方がないと考えていた。バートは、椅子の足を約10センチほど切り、切った部分を真鍮の金具で囲み、その先に高さ調節用の回転ネジをつけた折り畳み椅子を作った。椅子は、わずか35センチの高さである。

生涯にわたって使い続けた椅子

グールドは、この父が作った椅子をどこへでも持って行き、終生、使い続けた。当然ながら年月が経つに連れて、椅子は草臥れていった。やがて座面の詰め物が飛び出し、晩年には、木枠だけになってしまうのだが、それでもこの椅子に固執し使い続けた。もちろんグールド自身も周囲の人たちは、同じような椅子を新たに作ろうとするのだが、やはり最初の椅子の使い心地の方が上回るのだった。

グールドは、それでもあきらめず、椅子をもっと低くしようとする。しかし、椅子をあまりに低くすると、今度は足が不自由になる。そのために、後にはピアノを数センチの高さの木製の台に乗せ、ピアノを持ち上げるか、特製の金属の大きな枠を作りピアノをそれに乗せて弾くようになる。

クロッケー(Wikipedia)

ゲレーロは、バートの手配でシムコー湖に別荘を買った。グールドとフローラ、ゲレーロとマートルは二組に分かれ、クロッケーを楽しんだ。運動など競争の価値を否定するグールドだったが、芝生上のビリヤードといわれる[9]クロッケーでは、負けず嫌いのグールドは、どんな汚い手を使ってでも勝とうとするのが常だった。だが、まれに負けると地団太を踏んで悔しがった。

グールドは性的なことはまだ何も知らなかった。しかし、50代半ばのキュービズムのような顔をした母と比べて、マートルに若い女性の性的な魅力を感じていた。

ゲレーロは、「ピアニストではなく、音楽家になりなさい。」とレッスンで言い、それが彼の思想だった。ピアニストはピアノが弾ければよいというのではない。人間的にも魅力のある人物になりなさいと教え子たちに常に求めていた。

実際、彼は音楽だけではなく、文学や絵画、ほかの芸術にも造詣が深いルネサンスマン(万能人間)だった。ゲレーロは、貴族的な育ち方をした。母はピアノの名手であり、姉妹や兄弟たちも医者や大学教授で同様だった。

もちろん彼の音楽の才能は、異色なほど優れていた。サン・サーンスのオペラ《サムソンとダリラ》を聞いた後、急いで家に帰り記憶を頼りに全曲を弾きとおしたというエピソードを、生徒の[10]スチュワート・ハミルトンに言ったことがあるのだが、ハミルトンはさすがに本当とは思えなかった。だが目の前のゲレーロは、何十年もスコアを見たことがない《サムソンとダリラ》の第1幕を弾き通した。他の生徒のレッスンでは、ハチャトリアンのピアノ協奏曲をレッスンする必要があったのだが、自分の楽譜が見つからなかった。そのときもゲレーロは、やはり、記憶を頼りにオーケストラのパートすべてを伴奏した。

もちろん、彼の才能は音楽だけではないのだった。彼はエスペラント語を含め数か国語を話し、文学や哲学に通じ、[11]コント、フッサールやサルトルまでが話題に上った。絵画通で自分でも画を描いた。美食家でもあり、ワイン通でもある洗練された教養の高い紳士だった。

ゲレーロは、また現代音楽に精通する擁護者だった。

彼は、シェーンベルクをグールドが16歳のときに教えた。

グールドは、最初この音楽をゲレーロから聴いたとき、この音楽を拒絶し、二人で激しい議論になる。しかし、数週間後にグールドはシェーンベルクの様式で作曲した曲をレッスンに持ってきた。ゲレーロは、手放しでその曲を褒め、現代音楽がグールドの目標の一つになる。

ただ一方で、ゲレーロはピアノの打鍵技法については、具体的に詳細な研究を重ね、独特の技法を編み出していた。[12]フィンガータッピングというのだが、右手と左手に分けて、右手の音を弾くときには、鍵盤の上に右手を置き、左手で右手の指をおして打鍵し、音を出す。こうして右手が自然に跳ね返る感触を身につけ、指の独立を促すというものだった。また、背筋を鍛えさせ、指の方には力を入れないで、曖昧さやむらのない打鍵ができるようにする。このような奏法では、火山の噴火のような爆発的な強音は出せない。つまり、リストやラフマニノフの協奏曲は諦めるしかなかったが、ゲレーロもグールドも、大ホールで何千人をも圧倒しようとする音楽にはあまり興味を持っていなかった。

グールドは、あまり練習をしない、むしろ練習をしない方がうまく弾けるというようなことを、プロになってからはよく言って周囲の反発をかうのだが、少年期は、このフィンガータッピングを徹底的にやり、とことん時間を忘れて練習に没頭していた。

ゲレーロが、グールドにピアノを教えようとすると、グールドは怒った。反発して従わないばかりか、逆のことをしようとした。このため、ゲレーロは、「この子を教えようとするのは逆効果だ。やめよう。」とすぐに悟った。マートルがゲレーロから聞いていたのは、「グールドを教える秘訣は、答えを自分自身で見つけさせることだ。すくなくとも見つけたと思わせること」だった。

実際、グールドとのレッスンで、

「グレン、それでいいよ」とゲレーロが言っても、

「いいえ、まだです」とグールドはと答えた。

完璧に弾けるまで延々とグールドは止めなかったので、いつも時間をオーバーしていた。おまけに、ピアノの実技というより、音楽に対する姿勢の議論が中心だったのも事実で、ゲレーロはグールドの音楽観を明確にすることに大いに貢献した。

グールドは成長するにつれ、ピアノは生涯独学だったと言い、ゲレーロを傷つけた。しかし、グールドのピアノを弾く時の極端に低い姿勢や、フィンガータッピング奏法は、はっきりとゲレーロの影響を受けている。

ゲレーロは、1959年(73歳)のときにヘルニアの手術後の合併症で亡くなるのだが、その直前に、先妻との間の娘メリザンドが、グールドが師のゲレーロを非難するような記事を見つけ、怒りながら父に見せると、ゲレーロは、”Al maestro cuchillada”(師をナイフで刺す[生徒は教師を恨むものだ])とむしろ誇らしげに言ったという。

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恩師を出し抜く

グールドは、1944年(11歳)になると、トロントで行われるキワニス音楽祭[13]へ3年連続で参加している。

あるトロント大学の美学の[14]教授は、この音楽祭の審査員たちを評し「いかにも忌まわしいタイプのイギリス人審査員、異邦人たちを啓蒙するのが目的でやってきた植民地主義者」と評した。イギリス風の音楽観だけでなく、イギリス人の風俗習慣や価値観をも強化することにあり、礼儀正しさがなにより優先される音楽祭だった。

グールドは、1966年の《[15]ハイ・フィデリティ》誌に《コンクール落ちこぼれ候補からひとこと!》というタイトルで、キワニス音楽祭にふれたユーモアあふれる辛口エッセイを書いている。

「・・・・ただし英語圏カナダでも、マイナーリーグ風の音楽祭の伝統は確かにある。しかしそれは、新進音楽家がプロとして立てるかどうかの命運を分けるようなものではなく、学生を審査する地域的な年中行事であり、高齢退職したような英国系学校関係者が主宰する。このような催しはお情けとなれ合いの雰囲気に包まれている。・・・」

それに続き、グールドはこの審査員たちを茶化し、「これはこれは、とても結構でした。67番の方ね。すばらしい気迫とか、ですね。ただ、複縦線のところでもつれたので1点だけ引かねばなりませんがね。慣れた提示部を通して4度というのは、ちょっとうんざりじゃないかな。」と書いた。

この1944年の第1回キワニス音楽祭で、グールドは一位を3つとった。1つは、バッハのプレリュードとフーガ部門で、周りはほとんどグールドより年長者ばかりだった。グールドは、200ドル(現在価値で2800ドル=31万円)の奨学金を得る。

1945年には、バッハとベートーヴェン部門で、一位2つと三位を取り、100ドルの奨学金を得る。この演奏はラジオで放送され、グールドにとって、初のオンエアとなった。

1946年には、またも一位を2つ獲得したが、それぞれバッハと協奏曲部門だった。

このとき、ゲレーロを伴奏者にして、ベートーヴェンの[16]ピアノ協奏曲4番第1楽章を弾いた。このころには、新聞などにはっきりと「神童」と批評が載るカナダ国内の本物の有名人になっていた。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番は、めずらしくピアノの独奏から始まるピアニストなら誰もが挑戦する名曲である。ベートーヴェンのピアノ協奏曲は第5番の「皇帝」が最も有名なのだが、第4番はピアノとオーケストラ(弦楽器)がまるで深遠な対話をするような違った趣で、「皇帝」以上に好まれる曲だ。

その曲の始まりは、「ダ、ダ、ダ、ダーン」と始まる交響曲第5番「運命」と同じ、同音連打を3度繰り返す。もちろん、「運命」のような大音響ではない。楽譜には「ピアノ」と「ドルチェ」と書かれているので、「小さな音」で、「やわらかく」という指示がある。しかし、これをピアノで習う生徒は、適度な快速さ(アレグロ・モデラート)で和音を和音として鳴らし、「運命」の動機と同じだと教わる。もちろん、グールドもピアノ教師からそのように教えられていた。このため普通は、同音の和音の連打であることを意識しながら弾くのだが、グールドは、「[17]アレグロ・モデラート」と指示されたこの曲をさらにゆったりと感情をこめて、わざと和音を強調するようには弾かず、下声部の和音を小さめの音量で弾き、高音部を引き立たせて弾いた。

このピアノ独奏の入りは、次に入ってくるオーケストラの同じ旋律の演奏に大きな影響を与える。「ほどよく快速」に、ピアニストが「運命」動機のように弾けば、オーケストラも「運命」動機のようにあっさり演奏する。しかし、ピアニストが穏やかにゆったりとモデラートで始めると、当然、受けるオーケストラもそのように演奏する。

グールドは、ピアノ教師から練習で何度か弾き方が違うと注意されるのだが、グールドははっきりと反論せず、はにかみながらも自分の弾き方を改めようとはしないのだった。

また、この2台のピアノによる第1楽章のみの演奏の後、この音楽教師からグールドは、来年の王立音楽院の年度末コンサートで、トロント交響楽団とこの曲で、プロオーケストラ・デビューするよう言われる。この話があった時、グールドは、11歳の時から2年間、毎日のようにこの曲をレコードで聴き、レコードに合わせ自分も演奏していたので、問題はないだろうと考えていた。

グールドが聴いていたレコードは、[18]シュナーベルだった。シュナーベルは、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、ブラームスといった狭いレパートリーを、単に技巧的に上手に、美しく弾くというものではなく、はっきりとメッセージ性を出し、曲からくみ取った自分の意図を聴き手に伝えようとしていた。

この演奏は、78回転のSPレコード全8面からなり、グールドは自動裏返し装置のついたプレイヤーで鳴らしながら、シュナーベルそのままに、ピアノパートを弾いていた。78回転で回るSPレコードは、裏表に溝があり、表面が終わると盤を自動的にひっくり返し、裏面の演奏を始める。レコードは全8面に分割されていたから、7回中断するのだが、グールドはその中断の間、[19]カデンツァを弾き、高揚を保っていた。また、その中断は、曲想の変化の造形上の重要な区切りでもあり、シュナーベルは表現法を変え、《[20]個人的述懐》を開陳するのだった。グールドも、同様の嗜好であり、この豊かで柔らかい曲の区切りを決するはっきりしたポイントを無視して弾くやり方は、我慢がならない。軽率かつ無配慮に、ゴール目指してすたすた前進する演奏では、もっと我慢がならないと考えていた。

ところが、グールドの演奏を良しとしないピアノ教師は、生徒の嗜好を甘やかすなどとはもっての外と考えて、グールドからシュナーベルのレコードを取り上げ、《個人的述懐》風な表現をするんじゃないと生徒に釘をさした。

そこで、グールドは一計を案じ、この教師との練習の間、[21]ゼルキン風にきびきびとした素早い演奏をし、ときに、洗練された[22]カサドシュ風熱情によって緩めて演奏してみせた。そして、教師のゲレーロは、グールドの進歩と従順さ、個人指導の分野における自分の腕前に至極満足を覚えていた。

ところが実際のトロント交響楽団(指揮は[23]バーナード・ハインツ)との本番で、グールドは、リハーサルでもやっていなかったシュナーベル風の演奏をはじめた。一部には、不満なところもあったが、幸い、オーケストラもうまく従いてきた。演奏後、グールドは意気軒高、師ゲレーロは面目丸つぶれになる。

この演奏を聴いた聴衆は、何度もアンコールを求め、報道関係者はこの少年の演奏を絶賛した。ただ、トロントの新聞《グローブ・アンド・メイル》は違った見解を載せ、「ベートーヴェンのとらえがたい『ピアノ協奏曲』第4番が昨夜一人の子どもの手にゆだねられた」「この坊やは、自分を誰だと思っているのだろう。シュナーベルだとでも思っているのだろうか」と結びに書いた。

ついで母殺し

グールドは、トロント交響楽団との思い出のうち、母親の思い出をユーモアと皮肉交じりで書いている。

これを書いたのは、グールドが7歳の頃、[24]「たわむれに記憶はすまじ あるいはトロント・シンフォニー・オーケストラの思い出」で、後に王立音楽院の校長になるサー・アーネスト・マクミランが指揮していたトロント交響楽団で、一般の聴衆の一人として見たときの母の様子を語っている。

「このコンサートに関して、もうひとつこんなことも覚えている。私は、両親といっしょに、たぶん私よりいくつか年上のごく上品な二人の男の子のすぐうしろに座っていたのだが、母が、彼らはサー・アーネストの息子たちだと断言した。私は、母がどこからそういう話を仕入れていたのか知らないが、彼女はこの種の情報を集めることに奇妙な偏愛を示していた。とりわけ、それらの情報を何らかの宣伝目的に使えるようなときはそうだった。あのとき、その二人の男の子は非の打ちようもなく飾り立てられていた。(あれはすみからすみまで宣伝の対象になっていた。ところが私は、実際のところ、その頃、われわれの社会の人びとにとっての模範になるには程遠い存在だった。)そして母は、彼らこそ、礼儀作法に関して私があこがれなければならないものの見本だと頭ごなしに断言した。そして私は、直ちに、彼らが大嫌いになった。」

同様に、グールドが初めてオーケストラと共演した1947年1月(14歳)、ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲』第4番の指揮者であるバーナード・ハインツを見た時の母を、次のように語っている。

「ソリストとして私がはじめてトロント・シンフォニーと出会ったのは、1947年のことだ。客演指揮者はオーストラリアのマエストロ、サー・バーナード・ハインツで、私はベートーヴェンの『協奏曲第4番』をひいた。サー・バーナードに関しては大したことは覚えていない。彼がきわめていんぎんな人物で、英国風の警句や、オーストラリア風の女性の手への口づけに夢中になっていた。母はすっかりのぼせあがっていた。」

グールドが公立中高一貫校のマルヴァーン高校に12歳で入学し、午前は授業を受け、午後はトロント王立音楽院へ行くようになってからは、グールドは「ダバ、ダバッ、ダッ」と歌いながら指揮をして、歩道と車道を交互に歩き、全くの変人で有名人だった。しかし、同級生がグールドを見る目は、将来グールドが天才的な音楽家になると自然に受けとるように変わっていった。

両親は、グールドの才能を潰さないように気にかけ、コンクールなどの競争は才能を潰しかねないと危惧していた。バートは、毛皮商としての商売でしっかり稼いでいたから、ピアニストの収入は大したことがないと思っていたし、息子にはもっと運動もして元気で暮らしてほしいと考えていた。ただ、息子の才能は高く感じていて、希望は何でも叶えようと思っていた。フローラは[25]不可能な子供を望んでいた。

「行儀がよく、姿勢よく座り、悪ガキのような、あるいはませた考えをしない天才少年、そして飛びぬけてはいるが、同時に周りに溶け込んでいくような子供を欲しかった。」

ある日、グールドがカナダの新聞記者からインタビューを受けた。

「グレン、君はどんなジャンルの音楽が好きなの。同い年の子は、ポップスだけど、興味はないの」

「ぼくはクラシックだけです。価値を認めているのは。」

それを横で聞いていたフローラがたしなめた。

「あなた、そんなことをおっしゃってはいけません。ポップスも好きな人が大勢いらっしゃるのよ。それに、あなたの気持ちもいつか変わるかも知れないでしょ」

フローラは少し立腹していたが、グールドは譲らない。

「そんなのクラシック以外の音楽に価値なんてないよ。ポップスなんて、うわっ滑りで下品で、当然じゃないか。」

「そんな決めつけるようなことを子供のあなたが言い張ってはいけません」

また、話は[26]カルーゾへ移る。カルーゾは、母フローラとグールドがこの会話をしていた20年以上前の1921年に亡くなったテナー歌劇歌手だった。一般大衆に広がったオペラ歌手の草分けといっても良かったが、テナー歌手でありながら、低いバリトンの声からテノールまでの広い音域を滑らかに出し、その声は明るく軽いテナーの声ではなく、むしろ暗くて渋い声も出せた。それはオペラ界で求められる声質だった。当時は、マーラー、トスカニーニと言った厳しい指揮者や、プッチーニと言った作曲家の前で歌うこともあり、彼はいつも原曲に忠実で端正な歌唱力で歌った。

同時に、レコードプレイヤーを蓄音機と呼んでいた時代に、レコード録音を初めてした数少ない歌手だった。彼の実力により、いつまでも世界的な人気があった。あまりに人気が衰えないので、過去の録音が新録として再発売されていた。

グールドは、よく知らないカルーゾを批判的に断罪した。

「カルーゾなんて、偽物だよ。ちっともたいしたことないね」

「だめです、そんなこと言っちゃいけません。どうしてあなたがそうとおわかりなの。あなたはまだ子供で、判断するには経験がまったく足りていないでしょ」

「彼は道化でインチキなんだよ。人気なのは、競争相手がいないので運が良かっただけだ」

「いい加減になさい、グレン。カルーゾのことをあなたはどれだけわかっているの。あなたはレコードもろくに聴いていないでしょ。レコードでは、瘦せた音でしか聞こえないわ。カルーゾは、バリトンからテノールまで出せる、巨匠なのよ。わたしもおとうさまも、熱中したものよ」

「そんなの、すこし聞けば分かるじゃないか。ママは耳が悪いの。」

と、グールドは、今は亡きカルーゾのことをよく知らないまま断定し、母との論争を最後まで譲らなかった。

フローラは、オペラ歌手を目指していた過去があった。カルーゾは、イタリアの歌劇王であり、フローラがレコードを何枚も持っている尊敬する歌手だった。しかし、グールドはカルーゾにショービジネス的なものがあるのを感じ取っていた。グールドは、そうした商業主義は敵だと感じていた。しかし、クラシック音楽に商業主義的性質があるのは、当然だろう。その商業主義的な演奏の中に、優れたものとそうでないものがあるだけだろう。

自説を曲げないグールドは、ある程度成長するにつれ、北欧の音楽であるバッハやベートーヴェン、シェーンベルクなどの新ウィーン学派の現代音楽を肯定し、南欧の音楽であるイタリアオペラなどは享楽的だとして好きにはなれなかった。


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[1]  レオ・スミス 1881-1952 作曲家。トロント音楽界の重鎮

[2]  フレデリック・シルヴェスター1901-1966 イギリス。オルガン奏者、合唱団指揮者

[3] アーティキュレーション(articulation) 音楽の演奏技法において、音の形を整え、音と音のつながりに様々な強弱や表情をつけることで旋律などを区分すること。

フレーズより短い単位で使われることが多い。強弱法、スラー、スタッカート、レガートなどの記号やそれによる表現のことを指すこともある。アーティキュレーションの付けかたによって音のつながりに異なる意味を与え、異なる表現をすることができる。(Wikipedia)

[4]  サー・アーネスト・マクミラン1893 – 1973 カナダの指揮者。遅めのテンポを好むことから「ラルゴ卿」の異名をとった。

[5]  アルベルト・ゲレーロ 1886 – 1959 チリ出身のカナダのピアニスト・作曲家・音楽教師。現在では、グレン・グールドの学生時代の指導者として記憶されるが、トロント王立音楽院での長年にわたる指導を通じて、何世代にもわたって人材を輩出してきた。

[6] リリー(Lily Wilson Guerrero) チリの上流階級で生まれ、高価なものを好んだために家計を圧迫した。夫婦二人とも人柄がよく魅力的で不倫や浮気の噂があった。メリザンドという名前のむすめがいる。

[7] マートルローズ(Myrtle Rose) 1906年、サスカチュワン州ノースバトルフォード生。アルバータ州レスブリッジで幼少期の教育を受けた。彼女は1928年にトロントにやってきて、トロント王立音楽院で学び、最初はピーター・ケネディ、次にゲレロに師事した。

[8] マーガレット・プリヴィテッロ ゲレーロの生徒の一人だが、彼女はゲレーロから「一日中ピアノばかり弾いていてはだめだ」と言われ、音楽以外にも興味を持つように指導されていた。彼女は、「グールドはゲレーロの息子がわりだった」ともいったことがある。

[9] クロッケー イギリス発祥の芝生上の球技。クロッケーはフランス語、英語はクリッケット。体力的なハンディキャップがなく年齢や体力に関係なくプレイできる。特徴はクロッケー・ショットで、接触させた2個のボールのうち自分のボールを打ち、任意の位置に転がす。ビリヤードと同様、ボールの転がる割合と、転がる方向を打ち方で制御し、他のボールを利用して早くゴールを競い合う。技術と知力が必要。

[10] スチュワート・ハミルトン(Robert Stuart Hamilton)1929 – 2017)ピアノ伴奏者、声楽の教師でもある。カナダ・オペラ界の顔の一人で1985年、カナダ勲章を受章。

[11] コントとサルトルはフランス、フッサールはオーストリアの哲学者

[12] フィンガータッピング 神秘の探訪・ケヴィン・バザーナ

[13] キワニス音楽祭 1944年からトロントで開催された音楽祭。多くの少年、少女がカナダ全土から参加したが、プロを目指す音楽家の登竜門でない。

[14] トロント大学の美学の教授 1926年、カナダ東部のハリファックス生まれのジェフリー・ペイザント。トロント大学哲学部で美学を講じ、グールド存命中の1978年に《Glenn Gould, Music & Mind, Geoffrey Payzant》《日本語版 グレン・グールド、音楽、精神 訳:宮澤淳一 音楽之友社》を刊行し、グールドの音楽的思考を真正面から再検討した。

[15] ハイ・フィデリティ誌 1951年から1989年までアメリカで刊行されたオーディオと音楽の専門雑誌で、1989年半ばに、《ステレオ・レヴュー》誌に吸収された。

[16] 《神秘の探訪 88頁》

[17] Allegro Moderato アレグロ・モデラート ほどよく快速に

[18] シュナーベル アルトゥル・シュナーベル(Artur Schnabel, 1882- 1951)オーストリア→アメリカのユダヤ系ピアノ奏者、作曲家。シュナーベルは技巧よりも表現を重視した演奏を行ったが、大げさな表現をよしとせず客観的な表現に特に重きを置いた。シュナーベルのベートーヴェン解釈は内面的な精神と外面の造形を絶妙に両立させたものといわれ、後の世代のベートーヴェン弾きであるバックハウスやケンプらとの解釈とは一線を画す解釈を繰り広げた。(WIKIPEDIA)

[19] カデンツァ 協奏曲などで、独奏楽器がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏をする部分のこと

[20] 《個人的述懐》:音楽誌である《ハイ・フィデリティ(1970年6月)》にエッセイ「孤島のディスコグラフィ」にグールドが寄稿している。孤島へ持って行くレコードとして、中世の作曲家ギボンズ、シェーンベルク、シベリウスの3枚をあげたあと、思春期に独特の役割を果たした思い出の曲として、ベートーヴェン第4番の協奏曲を4枚目に挙げている。この14歳のコンサートデビューのエピソードに、ピアノ教師であるゲレーロに逆らって、練習ではゼルキン風に弾き、本番ではシュナーベル風に弾いて、ゲレーロの面目をつぶしたと書いている。このシュナーベル風演奏を《個人的述懐》と表現している。(「グレン・グールド著作集2」(みすず書房、ティム・ペイジ編 野口瑞穂訳))

[21] ゼルキン ルドルフ・ゼルキン(Rudolf Serkin, 1903 – 1991)は、ボヘミア出身のユダヤ系ピアニスト。

[22] カサドシュ ロベール・カサドシュ(Robert Casadesus, 1899 – 1972)は、フランスのピアニスト・作曲家。

[23] Bernard Heinze (1894– 1982)オーストラリアの指揮者。この時の演奏のことを、グールドは、「彼がきわめていんぎんな人物で、英国風の警句や、オーストラリア風の女性の手への口づけに夢中になっていた。母はすっかりのぼせあがっていた」と書いている

[24] 「たわむれに記憶はすまじあるいはトロント・シンフォニー・オーケストラの思い出」《ぼくはエクセントリックじゃない グレングールド対話集》音楽之友社 ブリューノ・モンサンジョン編 この文章は、モンサンジョンによるとグールドの死後時間がたって見つかったようだ。

[25] フローラは不可能を望んでいた(神秘の探訪:バザーナ) 友人フルフォードの回想

[26] エンリコ・カルーソー(1873 – 1921)Enrico Caruso、イタリア、ナポリ生まれ。歌劇歌手。オペラ史上において有名なテノール歌手の一人。レコード録音を盛んに行ったスター歌手は彼が最初だったこと、20世紀最初の20年間という時代もあって、カルーソーは円盤型蓄音機の普及を助け、それが彼の知名度も高めた。カルーソーが行った大衆的なレコード録音と彼の並外れた声、特にその声域の広さ、声量と声の美しさによって彼は当時の最も著名なスター歌手である。


第5章 神童誕生

神から授かった念願の子

グレンが生まれたのは、フローラが41歳になる直前だった。何度もの流産をへた高齢出産で、出産の1週間前から看護婦が泊まり込み、医者が毎日往診にやってきた。そうして生まれたグールドは夫婦にとって、やっと「神から授かった念願の子」だった。

1932年9月25日に生まれたグレン・グールドの出生証明書には、「[1]ゴールド、グレン・ハーバート」と書かれている。つまり、グールドが生まれた一家の苗字はもともと、ユダヤ人に多い「ゴールド」だった。バートが従事する毛皮業界は、衣料業界と同様ユダヤ人労働者が多く、ユダヤ人と誤解されることを避けたかった。そのため、一家は第二次世界大戦が勃発した1940年ころ、ユダヤ人排斥運動の激化にあわせ、「グールド」姓に改名した。

この1932年は、世界大恐慌のただ中にあり、日本では昭和恐慌と呼ばれ、人々のひどい貧困や悲惨な状態を目にせずにはいられなかった時代だった。しかし、裕福な家庭と幼い年のせいで、グールドは、そのような現実から守られていた。

音楽を愛した両親の目には、グレンの音楽の才能が明らかだった。生まれてすぐ、グレンは、まるで音階を弾いているように指を動かし、両腕を前後に揺らし指は動きつづけた。赤ん坊のグレンは、ほとんど泣かず、手をひらひらさせながらハミングするのだった。しかし、赤ん坊がほとんど泣かないというのは、あきらかな異常だ。手をひらひらさせる動きは、言語の発達における異常に関連して、自閉症を示しているのかもしれない。

バートは、グールドの誕生の様子を、彼の死後1986年にフランスで行われた「グールド展」のパンフレットにこう書いている。

「祖母の膝に乗ってピアノに向かえるようになるや、たいていの子どもは手全体でいくつものキーを一度に無造作に叩いてしまうものですが、グレンは必ずひとつだけのキーを押さえ、出てきた音が完全に聞こえなくなるまで指を離しませんでした。次第に減衰していく音に、すっかり魅せられていたのです。・・・・」

フローラは、グールドの首がすわるようになると、揺れる膝の上に赤ん坊をのせ、ピアノと美しい歌声を混然一体に演奏し、赤ん坊は母を感じながら聴いていた。母は、自分が親しんでほしい音楽を弾いて聴かせた。小さいころに覚えた歌、古い民謡、日曜日の礼拝の讃美歌やコラール、自分が生徒に教えているバッハやショパンの小品・・・。母はピアノを弾きながら、同時に美しい声で旋律を歌い、大事な旋律はこれよと赤ん坊に教えた。

息子の小さい手を取り、光沢のある「黒」と「白」のレバーに触れさせた。そしてその手を押し下げて、出てくる音を彼女の豊かな歌声や演奏と重ねた。母と子とピアノはすぐに一体化する。

フローラは、グレンが「[2]特別な子」となり、将来、音楽をとおして世界に貢献することを常に願っていた。そんなフローラの価値観は、ちょっと変わったところがあった。「音楽」に重きをおきすぎ、その他の面の成長はあまり顧みないのだった。

フローラは、ピアノを「[3]ピアナー」という変わった発音をして、何か特別な思いがあったのかもしれない。

フローラはまず、グールドに音楽の仕組みと決まりを教えようとした。フローラは厳しい教師だった。正しい打鍵と正しい発声をさせ、正しくできると褒め、できないと非難の声を出し定規で叩いた。経過句ひとつでもいいかげんに弾かせず、一音たりとも間違った音を許さなかった。グールドはすぐに理解し、ほどなく間違わなくなった。フローラは、この指導法を他の生徒にもとる厳しい教師だった。

グールドが、3歳になるころ、両親は息子に絶対音感があることに気づく。絶対音感は、調性や転調をすぐに識別する能力であり、耳で聴いたり、想像した音楽を書き留める能力も含まれる。複雑な曲の構造を直感的に理解するには必須の才能だが、大人になってから獲得するのは難しい。

母と子は、和音の当てっこで遊ぶようになる。母が、さまざまな和音を弾き、離れた部屋の息子が弾かれた和音をあてる。多くの音楽の天才たちがするゲームである。

「グレン、これは?」とフローラが、ピアノで和音を鳴らす。フローラは、不協和音に近いジャズで鳴らすような和音を弾いた。

「ママ、そんなのチョー簡単だよ!オクターブ下のD、Bと真ん中のD、F#、Gだよ。」

グールドは、この和音あてを間違えることは全くなかった。遊びのあと、フローラは、グールドを膝の上で頭を犬のように撫でるのだった。グールドは、母の願いを受け止め、母の願いをかなえることでご褒美がもらえると知るのだった。

少しするとグールドは、一度聞いた曲を覚える才能をみせる。一瞥しただけの初見で曲が弾けるようになる。また、聞いた曲を音符にしたり、作曲もするようになる。

グールド家には、メイドも乳母もいたが、グールドは、一人っ子で、やってくるのは叔父、叔母、祖父母などの老人、それも女性が多かった。同年齢の友だちや競争相手がいなかった。唯一の競争相手は、母にピアノを教わりに来る他の子どもたちだけが、母がとられる不安をひき起こしたくらいだった。

グールドは、両親の愛情を過剰なほど与えられ、経済的になに不自由のない家庭で、ユーモアのある才気煥発な子へと成長する。母は、息子への定期的なピアノ・レッスンを始め、他の子どもたちのレッスンを減らした。彼は、文字を読むよりも早くに、楽譜が読めるようになる。母は、グールドの健康を心配して、ときどき外で遊ぶよう言うものの、強くは言わなかったし、グールドは運動より、ピアノの中に、自分の世界を見つけて熱中する。

グールドが、何かの理由で両親の言いつけを守らないとき、グールドを叱りつける一番良い方法は、ピアノの蓋を閉じ、鍵をかけてしまうことだった。放っておくとグールドは何時間でもピアノを弾き続けた。そのため、フローラは、グールドにピアノを弾いてよい時間を一日4時間に決めていた。

他の生徒と比べると、グールドの才能は明らかに頭抜けていた。そのうえグールドは、音楽の技量と知識を恐るべきスピードと正確さで身につけていく。

教会で親子の出演

グールドは5歳の時に、両親と初めて公開の場で演奏をした。[4]トロント郊外の教会で、日曜午後の礼拝の中で両親が歌う二重唱に合わせて、グールドがピアノ伴奏をした。会場の2,000人の観客の誰もが、5歳の子どもの演奏に大いに感銘を受けた。続くプログラムで、ふたたび父バートが独唱曲を歌った。

この翌日、トロント市内の[5]教会の50周年の祝典の一環として、グールドはピアノ演奏をした。このとき地元の新聞はこう書いた。

「グールド夫妻のグレンという名の5歳の子息が数曲のピアノ演奏を行ったが、聴衆ははじまるやいなや強い印象を受けた。音楽の天才の卵を目の当たりにしたからである。演奏曲目はどれもすばらしかったが、この少年自身の作曲した2曲はことのほかすばらしく、その年齢を考えると驚くべきであり、近い将来カナダの才能ある作曲家たちの仲間入りをするであろうと思わせたのである。」

半年後には、トロントのはずれにあるインマヌエル長老教会で、金曜日の晩に催された子どものための演奏会で独奏をした。このときの演奏会は有料で、大人25セント、小人15セントだった。(現在価値で、大人23ドル=2500円、小人14ドル=1500円)入場料は、慈善団体に寄付され、グレンの演奏は11の演目中の3番目だった。

フローラは、グールドが3歳になるころには、モーツァルトと比べられる才能があるのではと思うようになる。育ち方や、子供時代が同じようだと思い、天才の素質があると確信する。ますます、グールドの音楽教育に力を入れるフローラ。それにこたえるグールド。フローラは、音楽に専念するようしむけ、家での手伝いを免除し、グールドはさらに友達と遊ばなかった。

確かにモーツァルトは、神童で天才だった。しかし、背を向けて後ろ手でピアノを弾いたり、軽業を披露しながら、父レオポルドについて猿回しの猿のように、貴族の間を回りながら育った。貴族たちに支持され、華やかな時代も過ごしたのは事実だが、やがて浪費癖により生活に困窮し、健康にも恵まれず失意のうちに35歳で早逝した。大演奏家で、大作曲家だったことは間違いないが、才能が駆け足で浪費され、人生は幸福ではなかった。

スペイン風邪

フローラは体が弱く、強い心配性だった。息子がちょっと鼻水を垂らせば、薬を飲ませて床につかせた。いつも風邪をひかないように、たいそうな厚着をさせていた。他の子供が薄着で走り回っている夏でさえ、つねに厚着をさせていた。

しかし、彼女の心配性には理由があった。夫バートの父、トマス・グールドが、先妻との間にもうけた第1子を1歳になるかならないかで亡くしたということを聞いていたし、それよりもつよい不安をもっていたのは、1918年のスペイン風邪の記憶だった。スペイン風邪を、フローラが27歳、バートが17歳の時に経験していたからだ。このスペイン風邪の伝染は、3波に及び、まずアメリカから広がり、最終的に当時の世界の人口18~19憶人の約27%にあたる、5億人が感染し、じつに4,000万人以上が死亡したといわれる。この年に終わった第1次世界大戦の死者数が1,000万人ともいわれ、スペイン風邪の猛威は圧倒的だった。

そのうちアメリカの死者は、最終的に50万人だったが、日本にも広がり、当時の人口5,500万人のうち39万人が死亡、焼き場では順番待ちの行列ができた。しかも、この感染症は、子供や高齢者より、若年層の死亡を多くひき起こし、人々の恐怖も強かった。

フローラの病原菌にたいする心配は、このスペイン風邪が原因だったが、他にもあった。グールドが生まれた1930年代はポリオ(小児麻痺)が大流行し、おおぜいの子供たちの命を奪い、助かった場合も、手足のまひなどの運動障害を残すことがあった。当時の医療水準では、《鉄の肺》と呼ばれる箱の中の気圧を下げた鉄製の拷問器のような人工呼吸器に子供たちを入れなければならず、この治療法もフローラをおおいに不安へと陥れた。

1950年代、「鉄の肺」で治療を受けるポリオ患者の少年
Photo: Kirn Vintage Stock / Corbis / Getty Images

しかし、やはりフローラの心配性はたしかに度を過ぎて、[6]パラノイアといってよいレベルだった。彼女のしゃくし定規な性格からくるパラノイアは、息子へと確実に引き継がれた。

変わった性格

また、グールドの生まれながらの性格もどこか変わっていた。それは、ある女性から、消防車のおもちゃをもらったときだったが、赤色の消防車の「色」が原因で、かれは激しいかんしゃくを起こした。消防車は、赤く塗られているのが普通だが、彼は、明るい色、とくに赤色がまったく苦手だった。彼が好きで心が落ち着く色は灰色であり、彼がいうには、《戦艦グレー》と《ミッドナイトブルー》だった。

同じように、眩しく晴れた日はテンションが上がらずダメだった。晴れた日よりも、曇った日が好きだった。彼は成長し、学校を退学した18歳の頃、教会へ行くのを完全に止め、昼夜が逆転した生活を送るようになる。夜は、仕事がはかどるという理由で好きで、朝日を嫌う彼は、明け方、日の出の直前に眠る生活の《夜型人間》になる。

英語には、「[7]どの雲も、うらは銀白」という(ことわざ)がある。この言葉はどんな不幸にもよい面があるという意味だが、グールドは、これを裏返しにモジり、「どんな銀白も、裏には雲」を生涯のモットーにしていた。

母親とピアノの世界を彷徨っていた彼は、やがて小学校に上がる年齢になる。学校へ行かないわけにはいかないが、他の子供たちとの付き合いがない。当然ながら、音楽以外の教育をどうするかという問題がとうぜんある。ただ、グレンが普通の子ではないことはすでに明らかで、音楽の才能を伸ばすことも親の務めだと、両親は考えていた。学校に行くのが心配なのはグールドだけではなかった。両親も心配だった。結局、最初の1年間は、グールドを学校へ行かせず、家庭教師を雇うことにした。

グールドは、28歳の1960年に、雑誌《ニューヨーカー》の人物紹介欄に載ったインタビューで、ライターの[8]ジョゼフ・ロディに次のように語っている。

「6歳の時に両親に言って、なんとか納得させたのは、自分はまれに見る繊細な人間なのだから、同じ年頃の子供たちから受ける粗野な蛮行に曝されるべきではないということでした。」

その結果、グールドは、6歳の1938-1939年の学年(9月から翌6月まで)は自宅で家庭教師をつけてもらい、学校へ行くのを猶予された。

これにグールドは付け加えている。「わたしを書こうとする記者のなかには、これによって自ら墓穴を掘ったのだと考える人もいます。」と。

結局、グールドは、1年遅れで、自宅の裏にあるウィリアムソン・ロード・パブリックスクール小学校に入学する。しかし、学校は彼にとって明らかに不幸な場所だった。集団活動を忌み嫌い、スポーツもすべて苦手だった彼は、ピアノを優先しほかの子供たちとの接触を避けた。級友がボールを投げても、後ろ向きに体をくねらせてボールを触ろうともしないという態度を、級友たちはののしり、いっそうグールドを自意識過剰で不愉快にさせた。

父殺し


グールド家は、トロントから北に車で2時間(約150KM)ほどの[9]シムコー湖に別荘を持っていた。その別荘からもっとも近い町がオリリアである。そこで一家は、毎年、夏の休暇を過ごしていた。

グールドは、6歳の時、バートと近所の家族と、シムコー湖へボートで釣りに出かけた[10]。ビギナーズラックだったのかもしれない。最初にパーチを釣り上げたのは、グールドだった。彼は、釣り上げた魚と目が合って、魚の目に周囲の景色を見たような気がした。あまりに強烈な体験をしたグールドは、魚の苦痛を感じて湖に放そうとする。グールドが、バタバタと魚と苦闘するとボートが揺れ、近所の父親がパーチをグールドの手の届かないところへやってしまった。

「船を揺らすんじゃない!座るんだ!」

と大きな声でどなり、グールドを席に押し戻した。皆は笑った。パニックになったグールドはひどい癇癪を起し、飛んだり跳ねたり足を踏みならし、自分の髪を引っ張ったりして、岸に戻るまで、金切り声を上げ続けた。グールドは、

「その家の子どもたちとは、夏の終わりまで一言も口を利かなかった。」という。

グールドは、父に魚釣りを止めるよう10年間にわたり懇願し続け、とうとう最後には、父に魚釣りの趣味を諦めさせた。グールドは、「たぶんこれまでぼくの成し遂げたなかで最もすばらしいことだ」と言った。

大人になってからは、愛犬や友人を連れて、しばしば轟音を立ててボートを乗り回し、釣り人たちの怒りや罵声は無視し魚を追い散らし、釣り人が釣りをするのを妨害するようになり、自らを「[11]シムコー湖の征服者」と呼んでいた。

当時のプロテスタントの家庭が一般的にそうであるように、グールド家で、性的なこと、下品なことを言うのはタブーだった。グールド家では、この傾向が特に強く、こうしたことをいうのは教養のなさだと考えていた。

ある程度の年齢になると、少年たちは平気で「ファック!」などと卑猥な言葉や異性をからかうような言葉を口に出すものだが、グールド家ではこのような性的な発言は徹底的に避けられた。

友人が、「ファック!」というのを聞いたグールドは、

「そんなことを言っちゃいけないよ。」

「そういうことを言うならおうちに帰って。」

と、母親が言うように言い、友人たちを面食らわせた。

また、グールドは毛皮商という職業が、ミンクやその他の動物を捕獲し、動物を殺すことを知り、嫌い、公然と父の職業を批判した。

グールド家では、グールドが12歳になると、フローラは54歳になっていたが、グールドと父バートが、一晩ごとに交代でフローラのベッドで寝る取り決めだった。父バートは、フローラより10歳年下で堅実な性格で商才に長けたスポーツマンだったが、口数が少なく家庭では影が薄かった。

のちのことだが、フローラが亡くなった後、バートは再婚するのだが、これにも反対し結婚式にも出なかった。

音楽への逃避 映画「ヒアアフター」から

グールドは、小学校に入るころには、まったく近所の子供たちからかけ離れた存在になり、そりが合わないグールドは、ますますピアノに逃げ込んだ。彼は、ピアノに《音楽》という別の世界を見つけ、そこを住処にした。それが人付き合いの術や社会性を成長させなかった。

グールドは、動物好きで、飼っていた動物に名前を付けていた。金魚、犬。父、母。人間よりも動物の方がうまく付き合える。

ヴァイオリン奏者で映像プロデューサーの[12]ブリュノ・モンサンジヨンが2006年に作った映画、「[13]HEREAFTER(ヒアアフター/彼岸へ)」のなかで、グールドを演じたナレーターが、小学校へ行きはじめたころのグールドを語っている。

この映画では、グールドが家庭のテープレコーダーに録音した、メンデルスゾーンの[14]ロンド・カプリチオーソの拍子が変わりプレストにはいるところが流れる。練習をやめ、グールドが、[15]ピアノから立ち上がるシーンである。

この曲は、ピアニストを目指す者なら誰でも弾く有名な曲だ。ダボっとした服を着た美男子の青年が、ピアノ椅子から立ち上がる。

場面が変わり、母フローラが、生まれたばかりのグールドを抱いている写真や、一家が生まれたばかりの赤ん坊を中心にして、幸福そうな父母と赤ん坊の写真がつぎつぎ写される。グールドの声のナレーションは、こう続く・・・

「母、フローレンス・グレイグ・グールドは、僕の最初のピアノ教師だ。キリスト教を信仰する家庭の出身で、トロントにある長老派教会のオルガン奏者として、神に仕えていた。」

「5歳のとき、僕は、自分が並外れた繊細さの持ち主であり、その繊細さを粗野な蛮行ばかりを求める現代の子供たちの前でさらけ出すことは無理だと、両親を説得することに成功した。だから、僕は1938年と39年の間、僕が預けられた家庭教師のもとでとても気持ちのいい余暇を過ごすことができた。」

ここで映画は、グールドが脚本と主演を兼ねた「グレン・グールドのトロント」(1979年、[16]CBC放送局)のシーンが使われる。グールドがトロント市内を案内するという趣向のテレビ番組で、グールドが、カナダ軍近衛兵の儀礼砲が飛び交う中に紛れ込むシーンがつかわれる。頭上で炸裂する空砲の煙と音に首をすくめ、「ゴッド、セイブ・ザ・キング”God, save the king”(国王陛下万歳)」とつぶやくグールド。

「だが、1939年がやってきて、イギリス人の魂を持つ者たちにとって、武器を持ち自らを捧げなくてはならない時がやってきた。こうして9月のある寂しい朝に僕の幼年期は終わりを告げた。」

「無為に暮らすために生まれた僕は、お国のために学校への道をたどらなくてはならなかった。どうやったら自分を外界の不条理な風俗から守ることができるのだろう?この突然の変化には目が回りそうだった。僕は子供社会の渦巻きの中に飛び降りたようなものだった。僕には団体で行動するという意思が完全に欠けていた。僕が一番嫌いだったのは、勉強のためにあてられた時間ではなく、余暇や休憩にあてられていた時間だった。」

「耳が少しでもいいすべての女性教師が好んだのは、音楽的な娯楽、あるいはカノンなどの原始的な多声音楽だ。クラスの一列ごとに[17]カノンのパートを受け持った。クラスの友達はそれぞれちゃんと役割を果たしていたが、僕は自分が役立たずに思えたので、もっと個性的な活動だけに専念し、自分の力を発揮することに決めた。だから、クラスの中で僕だけが拍子はずれに歌った。このことで、僕らの歌に半音階の興趣を与えたかったのさ! しかし、僕らの先生、ミス・ウィンチェスターは歌を途中で止めさせ、僕の頭上でチョークを叩き潰した。」

再び、メンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソのプレストのパートが流れる。こんどはたっぷり流れる。手袋をはめた親指と中指が素早くこすりあわされる画面が大写しになり、頭上に、先生のチョークが降ってくるのがイメージする。家庭用のテープレコーダーに採られた16歳の録音だが、すばらしい切れの演奏だ。

「初めて自分と他とを非好意的に識別したのは、音楽においてのことだった。他の生徒たちと仲良くできない、ということが僕を音楽へ、そして想像世界の奥深くまで逃げ込ませた。」

「音楽に対する僕の情熱は、仲間たちとの紛争よりも大きな比率を占めていた。10歳からピアノとオルガンでの技術獲得が、僕の存在全体を飲み込んでいった。そして僕の[18]対位法への情熱がミス・ウィンチェスターまでを黙らせた。」

こころの中の魔物と一家のモンスター

こうして、小学校へ入学したグールドは、級友たちとのつき合いもぎこちなく、目立って変人で、同級生たちにいじめられる。グールドはのちに当時をふりかえってインタビューでこう答えている。

「学校へ行くのは本当に悲しかった。教師たちのほとんどとうまくいかななかったし、同級生とはだれともだめだった。」

また、トロント・デイリー・スター紙に「グールドは、いじめられて、よく学校から泣きながら帰った。」と書かれると、グールドは、

[19]僕が手を出さないものだから、近所の子供たちは僕を殴っては喜んでいた。しかし、毎日殴られていたというのは、誇張だ。実際には、一日おきだったから。」

彼は、本当は興味がなくとも、アイス・ホッケーや野球に興味があるふりをする子ではなかった。誰かとつき合うという考えがまったくなかった。ほかの生徒たちから、ぽつんとはなれていた。

ある日、いじめっ子がグールドを追いかけて家の近くまでやってきて、グールドをついに殴ってしまう。ところが、グールドは、即座にその子を力いっぱいに殴り返し、その子の襟をつかんで揺さぶりながら、

「二度と近寄るな、今度近づいたらぶっ殺すからな!」

とやりかえした。いじめっ子はグールドの気迫に完全に震え上がり、グールドも自分の本気さに恐ろしくなる。両親から教わってきたキリスト教の教え、それに背く自分の心の中に、得体のしれないものを見たのかもしれない。

またある日、具合が悪くなった級友が、みんなの前で突然吐いてしまうということが起こる。吐いた子どもと汚物の周りで同級生たちが凍り付いてしまう。衆人環視の状態で自分の尊厳が傷つけられることを極度に恐れるグールドは、いつでも飲めるようにミントをポケットに忍ばせる習慣をはじめる。成長につれて、ミントは、アスピリンへ、向精神薬へとかわっていく。

母親と喧嘩した時にも、自分に恐怖を感じるようなことがあった。1965年から1979年までの15年間、レコード・プロデューサーを務めた[20]アンドルー・カズディンは、フローラとの間にあった、確執のエピソードを聞いている。

グールドが子供の頃、母親と家庭内で以前から取り決めてあった何かの約束事に反する行いを彼がしたため、母親がたしなめ、それでつい言い争いになったことを聞いている。そのとき、グールドは怒り心頭に発し、一瞬自分の母親さえ肉体的に傷つけてしまう、いやそれどころか殺害してしまうことさえできる気持ちになったという。むろんそれは、瞬間的な激情の高まりにすぎなかったが、彼自身は、たとえ一瞬とはいえ、自分が母親を殺すという恐ろしいことまで考えたという、動かしがたい事実に愕然としたという

そして、その後人前に出るときグールドは、憤怒という彼の内側に棲む魔物を二度とふたたび外にだすまいと自ら誓って生きてきたとそのプロデューサーに語っている。

父バートは、手堅い商売を営む男で、現実的で深く音楽を愛していたものの、グレンには健康で男らしくスポーツもし、将来は家業を継いでくれる子供を望んでいたが、やはり子供の才能は誇らしく、子供の願いを何でも叶えたいと思っていた。

グールドは子供時代から、同じピアノに長く満足することはなかった。バートは息子のために、新しく、質のよいピアノを買いつづけた。最初はアップライトを何度か買い替え、のちにはグランド・ピアノを買い替えるようになった。グールドが12歳の時に無邪気に欲しがったパイプオルガンは、さすがに尻込みしたが、10代のグールドはすでに夜更かしの癖がつき、夜半まで練習したがったため、バートは、6,000ドル(現在価値で3,500万円)をかけて、家の後部の壁を取り壊し、音楽室を作った。グールドは、その部屋をたくさんの本、楽譜、録音装置、そして「もう一台のグランド・ピアノ」などでいっぱいにした。

一家はトロントの北部、シムコー湖に別荘をもっていたので、バートはほぼ毎年、アップライトピアノを新しく買い換えていた。冬の厳しい寒さのために1,2年でピアノはダメになってしまうからだった。

フローラは、このグールドが7歳の頃には、自分にはもうグールドにピアノを教えることがないと感じていた。あまりに、グールドはフローラの教えることを完璧にこなすようになったからだ。

フローラは、非凡なグールドを教えるようになってから、生徒の数を減らし、ほぼ慈善学校の生徒に絞って教えていた。ただ、以前から、ピアノ教室の優秀な生徒に、これまでも[21]トロント王立音楽院の実力認定試験を受けさせていた。

グールドが、地元の小学校、ウィリアムソン・ロード公立学校へ通っているこの7歳の時から10歳までのあいだに、同じように、トロント王立音楽院の試験を3種類受けさせた。グールドは、いずれも国内最優秀と言ってよい成績で合格する。

グールドの幼年時代、一家では、母フローラが息子とべったりと密接し、グレンに自分のもっている音楽のすべてを教え、いつもグレンの顔色を白すぎると心配し、《食べなさい、これこれをもっと食べなさい、これをやりなさい、あれをやりなさい、外へ出て日に当たりなさい、ちゃんと座りなさい》とガミガミいうのだった。だが、一方で、グールドの才能が誇らしく、ほかに競争相手のいないグールドはつねに一挙手一投足を注視されいつも過保護だった。

両親は、グールドに大きな才能があることを確信し、このまま埋もれさせるのは社会への義務を果たせないと思う一方で、どのような形で世に出すのが良いのか、グールドを見ながら考えていた。社会生活を普通に送れる必要もある。両親は慎重だった。幼くして才能を消してしまう音楽家も多いからだ。

両親の二人は、子供をかなり早い時期から尊敬の目で見始めた。

グールドは時間をおかず、一家のモンスターになる。

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[1] ゴールド、グレン・ハーバート Gold, Glenn・Herbert 父バートのバートという名は愛称であり、ハーバートが正式な名前である。Goldが旧姓で、ユダヤ人に間違われないよう一家はGould姓へと改姓した。

[2] 「特別な子」従妹のジェシー・グレイグがCBCテレビで1985年、「グレン・グールド:肖像」で語った言葉。(グレン・グールド伝、ピーター・オストウォルド 筑摩書房 原注429ページ)

[3] 「ピアナー」グラディス・シェンナーがフローラが、‘pian-a.’という言い方をしていたと言っている。(Genius in Love Michael Clarkson 第5章)

[4] トロント郊外 ここはアックスブリッジ uxbridgeをいう。 トロントから約60キロ北方、車で1時間。グールドの両親は、ともにアックスブリッジの出身で、聖歌隊の仕事をつうじて、この町で知り合った。毛皮商を始めた祖父トマス・グールドは、トロントに寝泊まりする場所を持っていたが、アックスブリッジから汽車で通っていた。

[5] トロント市内の教会 トリニティ合同教会をいう。

[6] パラノイア ある妄想を始終持ち続ける精神病。妄想の主題は、誇大的・被害的・恋愛的なものなどさまざまである。偏執(へんしゅう)病。妄想症。

[7] どの雲も、うらは銀白=“Every cloud has a silver lining”  これをグールドは、次のように語っている。“my private motto has always been that behind every silver lining there is a cloud.” このような表現は、夏目漱石の「草枕」にもたびたび出てくる。

[8] ジョセフ・ロディ 《ニューヨーカー》は、アメリカの1925年に創刊された週刊誌で、ルポ、批評、エッセイ、風刺漫画、詩、小説など幅広い記事が掲載される。村上春樹の作品が多く掲載されている。ジョセフ・ロディは、ライターで、グールドの死後、追悼に友人たちが原稿を寄せて発刊された「グレングールド変奏曲」(東京創元社)に、ニューヨーカーに「アポロン派」(アポロン派は、美と秩序と制御を重んじる。これに対し、ディオニュソス派は、陶酔と快感と激しさを重んじる。)と題して書いた記事が、転載されている。

[9] シムコー湖 五大湖の一つであるオンタリオ湖に面するトロントから北に約140キロのところにアプターグローブという小さな町があり、そこからすぐのところにグールド家のシムコー湖の別荘があった。なお、シムコー湖は琵琶湖の4倍、オンタリオ湖は28倍の大きさである。

[10] 釣りに出掛けた:「グレングールド発言集」(ジョン・P・L・ロバーツ) 新聞のインタビュー《私は自然児です》中、「強烈な幼児体験」P45

[11] シムコー湖の征服者:「グレン・グールド 神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ)48P。

1956年「ウィークエンド・マガジン」第6巻第27号《ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》では、《シムコー湖の疫病神》と呼ばれていたと書かれている。

[12] ブリュノ・モンサンジヨン Bruno Monsaingeonフランス人。(1943~)20世紀の有名なミュージシャンについて、グールド、リヒター、オイストラフ、メニューインなどの数多くのドキュメンタリー映画を製作している。グールドについては、他にAlchemist(錬金術師・1974年)、Extasis(エクスタシス・1995年)も作っている。

[13]映画「HEREAFTER(来世)・時の向こう側へ」 2006年 晩年のグールドと一緒に仕事をしていたバイオリニストのブルノ・モンサンジョンによる映画。『ブリュノ・モンサンジョンが撮影・構成したこのフィルムは、世界各地でグールドに“啓示を受けた人々”が登場し、初出の映像も交えて、グールド自身のナレーションや演奏映像などによって彼の本質が解き明かされていく・・・未公開映像を含み、グールド自身が語っているかのような、彼の生涯と作品を振り返る。』(HMVのコピー)。日本語字幕は、グールド研究の第1人者、宮澤淳一氏の監修による。

[14] 映画「Hereafter 時の向こうへ」で、1948年(16歳)の家庭録音となっている。

[15] この時使われているピアノは、当時の恋人だったフラニー・バッチェンがレンタルで使っていたチッカリングという会社のグランドピアノだった。ところが、バッチェンが経済的に困窮して、レンタルを続けられなくなっていた。グールドはバッチェンの気持ちを考えず、そのレンタル契約を続けられないことを良いことに、グールドがそのピアノを買い取ったものだった。

[16] CBC Canadian Broadcasting Corporation カナダ放送協会

[17] カノン 多声音楽(ポリフォニー)の一つの典型で、一般に輪唱と訳されるが、輪唱は全く同じ旋律を追唱するのに対し、カノンでは異なるものが含まれる。(Wikipedea)

[18] 対位法 対位法とはカウンターポイントとも呼ばれ、複数の独立したメロディーを同時に組み合わせる曲を作る時に使われる技法のことを指す。対位法と並び、西洋音楽の音楽理論の根幹をなすものとして和声法がある。和声法が主に楽曲に使われている個々の和音の種類や、和音をいかに連結するか(声部の配置を含む和音進行)を問題にするのに対し、対位法は主に「いかに旋律を重ねるか」という観点から論じられる。バッハの時代にこの二つが大成し、以後古典派、ロマン派の時代になるとともに和声法(旋律と伴奏)が優勢になる。

[19] ケヴィン・バザーナ真理の探訪P.49

[20] アンドルー・カズディン 「グレン・グールド アット・ワーク 創造の内幕」(アンドルー・カズディン 石井晋訳 1993年・音楽之友社)P.170

[21] トロント王立王立音楽院 今はロイヤル王立音楽院(The Royal Conservatory of Music)に改称されている。

第4章 カナダという国、両親のフローラとバート

イギリス領だったカナダが、自治権を得て独立した[1]建国は、1867年である。今もって150年あまりしか経っていない。日本の明治維新のわずか1年前だ。

カナダは、今でこそ、[2]人口3,700万人のうち、約30%が他国からやってきた移民が暮らす多国籍国家だが、グールドが生まれた1932年は、人口は全土で1,000万人ほどしかなかった。カナダが世界で一番移民を受け入れるようになったのは、移民政策が始まった1971年の「多文化主義」宣言が契機だ。このとき、インドや南米、フィリピン系などの移民が爆増し、コスモポリタンな姿になった。

もっとさかのぼれば、この国はエスキモーの呼称で知られるイヌイットが住む国だった。世界の約7%をしめる広大な土地に、15世紀にわずか2百万人しか住んでいなかった。大航海時代がはじまった16世紀に、この地に最初にやってきたヨーロッパ人はフランス人だった。南米大陸などと同様、自然免疫のない先住民たちのところに、銃と病原菌をもった侵略者がやってきて、インフルエンザやはしかなどの感染症にまったく免疫のない先住民の25%~80%が死亡した。17世紀には、フランスとイギリスの領土争いが起こり、カナダは英連邦の一員になる。この国を最初につくった人たちの多くは、スコットランドやアイルランド、ドイツ、イタリア、中国、ウクライナの出身者だった。

グールドが生まれたオンタリオ州の州都のトロントは、現在、人口250万人、周辺都市を入れると500万人を超えるカナダ最大の大都市だが、彼の生まれた1930年代の人口は、周辺都市を入れてもわずか80万人ほどしかなく、宗主国イギリス移民のプロテスタントが多い、静かな田舎だった。同じオンタリオ州の他の町からは、多くの豚を生産、販売していたから[3]ホグタウン(豚の街)というありがたくないニックネームでずっと呼ばれていた。近代的な大都市ではなく、反外国人、反ユダヤ人の空気の強い保守的な場所だった。

グールド家のルーツは、父バートがイギリスとスコットランドで、アメリカを経由したカナダ移民だった。母フローラは、スコットランドからの移民だった。

両家はどちらもプロテスタントだったが、父の家系は、メソジスト派、母の家系は長老派で、伝統的な中産階級の信仰である。この二つの宗派は、1925年に統一し、カナダ合同教会になった。当時のカナダで成功するには、信心深いことが不可欠だったが、あからさまな、例えばバプテスト派やエホバの証人は「裏通りの信仰」と陰口を言われていた。

グールドの父バートは教会に熱心に通い、合唱に加わるほど歌がうまかった。また、ヴァイオリンもずっと愛好していた。

グールドの母となる[4]フローラ・グリーグは、1891年生まれだった。フローラは、祖先に有名なノルウェーの作曲家、エドヴァルド・グリーグがいることが誇りで、祖父の従弟にあたった。フローラは結婚前、オペラ歌手をめざし、トロント王立音楽院の教授やほかの先生からも学んでいた。同時に、自宅では声楽とピアノの個人レッスンをしながら家計を助けていた。

ふたりは、教会の音楽が縁で結婚したが、音楽は単なる娯楽ではなかった。音楽は、信仰と同じく重要だった。二人は、篤い信仰としっかりした道徳心を持ち、聖書を尊重し地域の奉仕活動に貢献し、生活のあらゆる場面で神の存在を感じられないとならないと思っていた。

二人が結婚したのは、1925年10月31日、フローラの誕生日で、バートが23歳、フローラが34歳で11歳年上だった。

この時代、女性が結婚することは主婦に専念し、職業につくことを諦めることと同義だった。二人は道義をわきまえ、高潔で責任感が強く、しかも愛想のいい心の温かい隣人として文句のつけようがなかった。しかし逆に言えば、古い観念に縛られ、文化的に洗練されず、感情表現は紋切り型だった。

一家の自宅は、トロントの東の郊外のビーチといわれる中産階級のイギリス系白人が住む地区にあった。バートの順調な商売のおかげで、ビーチの中では、グールド一家は裕福な方だった。住み込みの家政婦がいたし、必要な時には、乳母や家庭教師を雇えた。ビーチというグールドの生家がある地区は、南をオンタリオ湖に面しているが、バートが経営するトロント中心部の商業地域と約10キロ離れ、のどかで保守的で、ダウンタウンの猥雑さがまったくなかった。

グレンの父のバート・グールドは1901年生まれで、祖父が経営する毛皮商を手伝っていた。その店はユニオン駅に近いトロントの中心部、となりが新聞社のある金融街の端に位置するビルの上階にあった。「高級毛皮問屋」の看板を掲げ、顧客にコートを販売し、同業者たちと毛皮を売買するのが業務内容だった。経営は実直で誠実だったが、大きな儲けをあげていた。

フローラが結婚前の30歳の頃、友人の歌仲間の女性と合唱を楽しんだあと、将来の希望を語っている。

「わたしは、いつか結婚して、可愛い子供を産んでグレンと名付けるの。」

「きっと音楽の豊かな才能に恵まれるわね、その子は。あなたは、ありきたりのものにはぜんぜん満足しないで、いつも最高のものだけを追い求めてきから。」

「ええ、そうするつもりよ。その子は、音楽家として成功しなくてはならない。できれば大ピアニストにしたいわ。」

フローラは、何度かの流産の末、グレンを妊娠する。フローラは、グレンがお腹の中にいる胎児の時から、ピアノを弾き、歌い、ラジオやレコードであらゆる好ましいと思う音楽を聴かせていた。友人はだれもが、「まちがいなく赤ちゃんは、豊かな音楽の才能を持って生まれるでしょう。」というのだった。

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[1] カナダ建国 イギリスから自治権を得た1867年7月1日を指す。外交権を得たのは、グールド誕生の前年である1931年である。

[2] カナダの人口の歴史 https://en.wikipedia.org/wiki/Population_of_Canada

[3] How Toronto got the nickname Hogtown. https://www.blogto.com/city/2013/10/how_toronto_got_the_nickname_hogtown/

[4] フローラ・グリーグ(1891~1975) 正しくは、フローレンス・エマ・グリーグ・グールド(Florence Emma “Flora” Greig Gould)。フローラは愛称。

第3章 恋人バッチェンと新人ライター グラディス・シェンナー

バハマの休暇から帰ってきたグールドは、政治や文化を取り上げる[1]マクリーンズ』という雑誌に特集されることになっていた。記者としてやってくるのは、グラディス・シェンナーという23歳の女性だった。年齢からすると経験が浅く、初の大仕事に意気込んでやってくるのだろうとグールドは思った。

グールドは、恋人である[2]バッチェンのアパートメントをインタビューを受ける場所として指定した。

バッチェンは、彼より7歳年上でこのとき30歳だった。バッチェンは、青灰色の才気溢れる瞳が印象的で、黒に近い茶髪のブルネットを長く広がるように伸ばし、小柄だがとても美しかった。

バッチェンもプロのピアニストを目指していたが、映画や演劇、音楽、アニメなど、当時の前衛的な芸術に関心を持つ若者のグループでも活動して、彼女は、そのグループが作った無声映画で、上流階級の女主人の美しいヒロインを演じメンバーから慕われていた。実際の彼女は、田舎町の貧しい家庭の育ちで、バッハが何より好きで、将来ピアニストになる夢を持ち、明るく聡明だった。

ブルネット(Hot Pepper Beautyから)

グールドとバッチェンがはじめて知り合ったのは、トロント王立音楽院で、二人は、17歳と24歳だった。グールドは、上級クラスで、年長者にまじって華々しく活躍をしており、いつも王立音楽院の話題をさらっていた。そんなグールドにバッチェンが声をかけたのが最初の出会いだった。最初、グールドは女性に無知でナイーブな子供にすぎなかった。しかし、グールドが王立音楽院をやめ、グールド一家が所有するシムコー湖の別荘で長い時間を過ごすようになる18歳のころには、ふたりは恋人関係になっていた。グールドは、このシムコー湖で時間を過ごすようになって、弦楽四重奏曲作品第1を長い時間をかけて少しずつ作曲し、進み具合を毎夜遅くにバッチェンに電話していたのだが、翌日に仕事のあるバッチェンにとっては負担だった。

グールドの求婚のセリフは「[3]僕たちは結婚すべきだ。(”We should get married.”)」だった。しかし、バッチェンは、グールドがあまりに社会生活に向かず、結婚はできないと判断し、受け入れなかった。このとき、二人の関係は、もうすでにぎくしゃくして、修復不能だった。

記者のシェンナーが部屋に入ってきたとき、グールドはソファで横になり、バッチェンの膝にプードルのように頭を置き、頭を撫でてもらっていた。彼はいつまでもウジウジしていた。彼を取材にやってくる記者がどう感じるか、まったく頭になかった。

シェンナーは、グールドを禁欲的で中性的な修道士のようなピアニストだと予想していた。しかし、意外な性的な光景を見て、息をのんだ。驚きがはっきりと表情に出ていた。恋人たちはソファから離れることなく、バッチェンは相変わらずグールドの頭を撫でていた。何故、私にこのような場面を見せるのかとシェンナーは思った。

「マクリーンズ社の依頼で、グールドさんの記事を書くことになったフリーランスのグラディス・シェンナーです。一昨年、マニトバ大学を出て、昨年は、ウィニペグの新聞社で働いていました。今年から、マクリーンズの仕事をするためにトロントへ出てきました。この記事は、どんなに長くなってもいいと言われています。グールドさんは、今やカナダ最大のスターです。」とシェンナーは、言った。

型通りの挨拶が終わって、シェンナーは、恋人の膝でぐずぐずしている《ペット男》の記事が書ければ、確実に特ダネになると思って動悸がした。しかし、まず記事への協力を取り付けることだと思いなおした。

「フラニー、もっと下の方も撫でて。キスして。」と彼は横になったまま、バッチェンに言った。バッチェンは、グールドの髪を下の方も撫で、軽くキスして言った。

「グレン、私はこの町を出て、ニューヨークへ行くかも知れないわ。私は、もう少し稼がないとならないのよ。わかるでしょ、あなた。そうなっても、私なしでしっかりしなさいよ。」

「わかってるよ。だけど、その考えを変えられないの?どうしてもだめなの?僕には、世話を焼いてくれる女性が必要なんだよ。」

彼は、いつまでも未練たらしく懇願していた。

「グールドさん、私の話も聞いてください。」

「何だっけ?えっ、きみは誰だっけ?!」

シェンナーは、グールドより1歳若かった。利発で愛らしく、やはりブルネットの髪をした美人だった。彼女はマニトバ大学で政治学を学び、21歳の時にトロントへ出てきた。当時は、まだ多くの女性が働く時代ではなかった。そのような1950年代に、若い女性がどれだけちゃんとした仕事に就けるかを考えると、自分は時代の先端を走っていると感じていた。現に直前まで他の雑誌で、クロスワードパズルを担当していたばかりだった。

「私は、突然に、世界的なピアニストの仲間入りを果たしたあなたのことを書きたいんです。とても読み応えのある記事になると確信しています。私は、発売になったばかりの『ゴルトベルク変奏曲』を聞きました。とても生き生きしていて素晴らしかったです。これまでのクラシックの演奏とはまったく違うものを感じました。まったく新しいものを感じました。演奏の素晴らしさとあなたの人間そのものについて、読者に知らせたいのです。そのためにいろいろ教えてほしいんです。」

「あーん。・・・いいよ、問題ないよ・・・いくらでも協力してあげるよ。」と彼は、ようやく体を起こしていった。

———————–

その日から2週間ほどの間、二人で記事にとりかかった。グールドは、まとまった時間のインタビューを受け、シェンナーがドラフトを書いた。グールドは、彼女の書いたドラフトに深夜の長電話で、彼女を励ましながらコメントを伝えた。

それはバッチェンの時にもいつもしていた、彼女を疲れさせた深夜の長電話だった。グールドは、対面して話をするより、電話の方が気安く話ができ、夜型人間で、相手の迷惑も顧みず、深夜長電話するのだった。ただ、グールドの話はユーモアにあふれて才気煥発であり、電話をかけられた方は、人気者からの電話の聞き役になることを迷惑に思う者はいなかった。だが、毎晩深夜に電話を受けるバッチェンにとっては、睡眠不足になり、翌日の仕事に差しさわりがあるのだった。

シェンナーの記事は、よく書けている部分もあったが、足りない部分もあり、グールドは率直に情報を提供した。

はじめのうち、記事は、恋人のバッチェンを含んだグールドの女性関係も書かれていた。しかし、やがて彼は、女性のことが書かれるのは、イメージダウンになると思いだした。

そのため、一時は、記事の掲載そのものをシェンナーに止めるように言いだした。当然ながらシェンナーは、雑誌への掲載を許してほしいと懇願し、女性関係に関わる部分を削ると申しでた。最終的に、グールドは彼女の条件を了承し、その部分を削る形で記事が完成した。

そうして、インパクトのある風変わりなピアニストの写真数枚とともに、大作である記事が出来上がった。もとの記事から、グールドの女性関係をバッサリ削っても10ページ以上ある長文だった。それが、《[4]演奏したくない天才》だった。

MACLEAN’S April/2/1956

バッチェンは職を求めてニューヨークへ旅立ち、二人はとうとう別れた。グールドは、いつまでも思いを引きずっていた。

この記事で、シェンナーは有望な記者として認められ地位を確立した。

グールドとシェンナーの関係は、グールドがコンサートツアーをしなくなる7年ほどの間、彼女はグールドの演奏旅行に同行し、記事にするという関係が続き、二人の親密な交際を示す手紙がいくつも残っている。

シェンナーはグールドの頭の髪の毛を犬のように撫でるという役目をバッチェンから引き継ぐとともに、グールドが住んでいる世界と、現実の世界の間の橋渡しの役目をした。

また、グールドは同時に他の女性にも恋心を抱いていた。

グールドの物語を、彼の性格がよくわかるようにアメリカでの成功の後、プロポーズの失敗と、その後のセンチメンタルジャーニーにスポットライトを当ててきたが、ここからは、グールドの出生から順を追って語ろうと思う。

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[1] マクリーンズ:カナダのニュースマガジン(1905年設立)で、政治、ポップカルチャー、時事問題などのカナダの問題について報道。2017年1月から週刊から月刊になった。

[2] バッチェン:フラニー・バッチェン(Frances Batchen Barrault)

[3] 「僕たちは結婚すべきだ」“We should get married.”「The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter4, page51」この表現は、英語のプロポーズの文例をネットで調べてみると、かなり上から目線で、普通はこう言わなないのではないか。(著者注)

[4] 「演奏したくない天才」The genius who doesn’t want to play 巻末に拙訳を添付した。

おことわり 小説・グレングールド

おことわり

小説グレングールドを何とか書こうとしているのだが、ドキュメンタリーなのか小説なのか、いろんな人が読んで楽しめるものを書くのはとても難しい。そうした才能は残念ながらどうもないらしく、一生懸命書いたら難しくて誰もが読めるというものではなくなってしまう。

長い間試行錯誤しているのだが、どうもうまく行かない。

しかし、そういうばかりでは進まない。それで試行錯誤の最中であるが、出来たものをアップしようと思っている。

コメントなどあれば、今後の改良に役立つと思うので、もしいただければありがたい。そういったこともあり、随時改訂しながら進めるつもりだ。

おしまい

はじめに

クラシック音楽の世界に、グレン・グールドという人物がいた。彼は、カナダ人のピアニストで1932年に生まれ、1982年に死んだ。つまり、生誕90年、没後40年ということになる。

普通のピアニストは、まっすぐな姿勢で指を鍵盤に振り下ろすように叩いて音を出すのに対し、彼は手首を平らにして指で鍵盤を引っ張るように弾くので、非常に美しい音を出す。爆発するような弾き方はできないが、リズムが明瞭で粒が揃って天国へいざなう説得力がある。

人気は、今なお根強く、放送局に眠っていたテープなどを使ってCDが新たに発売されたり、曲の組み合わせを変えてCDが発売されたり、音楽雑誌でピアニストの特集があれば、必ず取り上げられる人気を保っている。

この本は、音楽について素人で、クラシック音楽に精通しているわけでもない作者が、グールドの音楽について語ろうというものだ。このため至らぬ点や間違いがあるに違いない。また、グールドは、全般に率直な人だったが、素の自分を語らず、隠していた部分が多かった。このため、グールドに関する伝記や評論は非常に多数ありながら、核心部分を知るのは難しい。だが、これまでに書かれた著作を辿ることで、彼の本性にかなり近づけたと自負している。

ただ、これを書こうと思った動機は、何といっても彼の音楽を知らなかった人にもグールドを聴いて欲しいということだ。

このため、グールドの事について、あまりに音楽の専門的なことを詳しく語ると、多くの人は気楽に読めないだろうし、逆にそうしたことを全く語らないと、説得力の弱いものになってしまう危惧があった。そのため、本書は誰にとっても読みやすいものにしながら、細かい専門的なことやこれまでの研究家の研究結果は、なるべく脚注や別の参考資料に書く形にした。こうすることで、もっとグールドを深く知りたい人は、そちらを読んでいただければ深く理解できるように心掛けた。

彼の演奏は、他のピアニストと大きく違っている。

どこが違っているのかというと、一般のピアニストは、高音部のメロディーと伴奏の低音部の二本立てが普通だ。しかし、彼は、その中間にある内声と言われる部分にスポットライトをあて、別の旋律を浮かび上がらせる。まるで連弾しているかのように弾き、どの旋律にも対等に主役の座を与える。

また、演奏の基本を、音を短く区切るスタッカート奏法においている。一般のピアニストは、ピアノはレガートに弾くものだと教わるが、ずっとレガートの演奏を聴かされると飽きるし、疲れる。レガートは緊張、スタッカートは弛緩と考える彼は、ここぞという場面に美しく緊張感のあるレガートを取っておく。

彼は、一般のピアニストと違って、ペダルをほとんど使わず指を持ち替えながら弾く。このため、音が混じらず出てくる音がクリアで非常に美しい。

また、最大の違いは、作曲家が書いた楽譜に手を加えることをためらわないことだ。彼は、楽譜に書かれた音楽記号に囚われない。正統派のクラシック音楽界は、作曲家の意図の再現を最重要視するのに対し、彼は、どうすればベストな曲になるかを考えて、再作曲をする。これをもっとも過激にやったのがモーツァルトである。

彼は、[1]ジェームズ・ディーンの再来といわれるほどの美男子だった一方で、ずっと独身で私生活を隠してきた。グールドは、潔癖症の大富豪ハワード・ヒューズのように生きたいと言い、私生活を徹底的に隠した。そのせいで長い間ゲイとか、ホモセクシュアルだと言われ、女性関係がまったくないと思われてきた。だが、近年、ゲイどころかプライベートな生活では、実に多くのロマンスがあったことが分かった。

この多くのロマンスを明らかにしたのは、映画「[2]グレン・グールド《天才ピアニストの愛と孤独》」の原作本である「[3]グレン・グールド・シークレットライフ《恋の天才》」だ。彼の女性関係は、この原作に基づいている。

彼は、母親の不安症が影響し、子供のころから薬物に依存していた。その依存症は、年月を経るほどに激しくなり、やがて、幻影や被害妄想に憑りつかれるまでになる。

だが、彼は芸術家としての責任をつねに感じていた。見せたい自分を生涯にわたって演じ続けた。音楽にすべてをささげていた。それが原因で、結婚しなかったし、強迫観念によって薬物依存にもなった。

他方、日本ともゆかりが深く、彼が後半生に熱中した夏目漱石をはじめ、阿部公房原作の映画「砂の女」、音楽を担当した日本の現代作曲家武満徹、そして実際に親交があった小澤征爾が登場する。

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[1] ジェームズ・ディーン:(James Dean、1931年- 1955年)は、アメリカの俳優。孤独と苦悩に満ちた生い立ちを、迫真の演技で表現し名声を得たが、デビュー半年後に自動車事故によって24歳の若さでこの世を去った伝説的俳優である。

[2] 映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」監督:ミシェル・オゼ、ピーター・レイモント 角川書店、2012年発売

[3] 《The Secret Life of Glenn Gould: A Genius in Love》 Michael Clarkson ECW press, KINDLE版

第1章 ゴルトベルク変奏曲のビッグセールス

1956年1月、カナダ人ピアニストのグレン・グールドは、J.S.バッハのゴルトベルク変奏曲でレコード・デビューを果たした。

このレコードはすぐさま、ジャズやポピュラーを含めた[1]北米の新盤の中でベストセラーになった。

彼は、このゴルトベルク変奏曲を死ぬ直前に再録音した。どちらも、楽譜通りに反復はせず、1回目とは対照的に2回目は非常にゆったりと、形容しがたいほど瞑想的で穏やかな演奏をした。もし仮にCDショップのバッハのコーナーへ行けば、一番目立つ場所に並べられているはずだ。

[2]ゴルトベルク変奏曲は、不眠に悩むカイザーリンク伯爵が眠るとき、ゴルトベルクに隣室で弾かせたという有名な逸話がある。アリアで始まり、30もある変奏曲の最後に、[3]クオドリベットという俗謡を二つ合体させ、その気楽で楽しい曲が演奏されたあと、再び、静かで美しいアリアに戻る。最初のアリアに戻るので、もう1回始まってもおかしくない。始まりも終わりもない曲といわれる。

グールド以前に、女性鍵盤奏者の[4]大御所がこの曲をチェンバロで演奏し、教養と謹厳さを感じさせる重々しい演奏だったが、楽しいものではなかった。グールドはこの曲をピアノで演奏し、まったく違ったアプローチをとった。それは、快活で、現代的なドライヴ感が(みなぎ)った過去にまったく例のないバッハだった。

このレコードの発売である翌月の2月には、グールド自身が作曲した現代曲の弦楽四重奏曲作品1を、モントリオール弦楽四重奏団がCBCテレビ(カナダ放送協会)で初演した。この弦楽四重奏曲は、主題の[5]上昇する4音の構成するたった一つのモチーフを楽想にして、すべての旋律、和声を作り出した調性がある現代曲だった。この曲はすべての音楽家から高い評価を受けたわけではなかったが、ゴルトベルク変奏曲ヒットのセンセーションが起こった直後だったので、23歳のグールドは一夜にして、作曲もできる国際的なスターになった。

ただ、その成功の裏にはグールドのさまざまな奇癖があった。この奇癖をレコード会社をはじめとするメディアが大々的に宣伝した。

彼が出かけるときは、30℃ある真夏の暑い盛りでも、オーバーコートを着てウールのベレー帽を被り、マフラーを巻き手袋をはめて歩いていた。父が作った折り畳み式のピアノ椅子をいつも持ち歩き、その椅子の脚の下部は10センチ切りとられ、そこへ金具をはめて高さを微調節できた。彼は演奏を始める20分前から肘から先を熱いお湯の中に浸け、血行をよくする儀式が必要で、電気湯沸かし器も運んでいた。抗不安薬や鎮静剤、血液の循環を良くするための処方薬をしょっちゅう飲み、大量の薬剤を携行していた。

ピアニストにはあり得ないような悪い姿勢でピアノを弾き、ピアノを弾き始めるとすぐに恍惚としたトランス状態に入り、上体をぐるぐる旋回し、鼻歌ともハミングともつかない声を出すことを止められなかった。

グールドのレコードが驚異的なほど売れるにつれ、前年に24歳で自動車事故で亡くなった映画俳優の[6]ジェームズ・ディーンと比べられ、音楽誌だけでなく一般誌でもセンセーションを引き起こした。

ジェームズ・ディーン
グレン・グールド

ファッション誌の[7]グラマー』は4月号で特集し、やはり女性向けの『[8]ヴォーグ』は5月にグールドを特集した。さらに、報道誌の『[9]ライフ』は4ページにわたる写真を中心にした特集を組んだ。

そうした記事や写真のどれにも、格式ある伝統的なクラシック演奏家の姿はなかった。175センチの痩身のグールドが、流行に無頓着な服装で、乱れた長い髪で写り、ピアノに向かう彼の指は長く細く痩せて、その表情は完全に心ここにあらず恍惚として、ピアノの音の向こうに心があるように見えた。

とくに女性誌はグールドがどこか雌鹿のようで男性を感じさせず、中性的で、女性ファンに強い母性本能を感じさせる、同性愛者に強烈なセックスアピールがあると書いた。

のちにグールドは、自虐的なユーモアでこの時をこう書いている。—「[10]あれがわたしの人生で最も困難な年の始まりだった」

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[1] 当時、北米で、一番売れていたのは、ポピュラーで女優・歌手のドリス・デイだった。ジャズでは、ルイ・アームストロングだった。アフリカ系アメリカ人のジャズ・ミュージシャンで、 サッチモ (Satchmo) という愛称で親しまれた、20世紀を代表するジャズ・ミュージシャンの一人でトランペット、コルネット奏者である。

[2] ゴルトベルク変奏曲:J.S.バッハが1741年に出版。カイザーリンク伯爵(ザクセン宮廷駐在のロシア大使)の委嘱と考えられるが証拠がなく、バッハの弟子、ゴルトベルクは当時まだ14歳であり、演奏技術を考えると困難で、この逸話は懐疑的といわれる。

[3] 30番目のカノン変奏をクオドリベット(Quod libet)という。クオドリベットは、ラテン語で「好きなものをなんでも」という意味で、大勢で短いメロディの歌を思いつきで歌い合う。

[4] ランドフスカ:ワンダ・ランドフスカ(1987-1959)ポーランド出身のチェンバロ奏者、ピアニスト。忘れられた楽器となっていたチェンバロを20世紀に復活させた立役者である。(Winkipedia)

[5] 上昇する4音 フーガの主題の最初の4音(嬰ハ-ニ-嬰ト-イ) (「神秘の探訪」P.150)

[6] ジェームズ・ディーン(1931年 – 1955年)アメリカの俳優。「エデンの東」「理由なき反抗」などが代表作。

[7] 『グラマー』4月号は、「あなたに会わせたい男たち」という見出しで「華奢でしなやかな体つき、豊かな明るい茶色の髪をしたカナダ人は、その特異な振る舞いで伝説につつまれている。その振る舞いを構成しているのは、どこにでも持って行く何種類もの薬、ミネラルウォーター、特製の椅子である。また食生活に関する独特な考え方もそうだ。「友人は言う、『グレン、何か君にあわないものでも口にしたのかい?まさか食べ物じゃなかろうね?』」と書いた。

[8] 『ヴォーグ』は、「グレン・グールドは・・・・今年アメリカの批評家の間で祝いのかがり火を真っ赤に燃やした。緊張し、やつれた容貌をもつ、ブルーベリーの目をしたグールドは、調教されていない馬のようにピアノに向かい、強力かつ抒情的な音を生み出すのである・・・・・」

(グラマーとヴォーグの記事:「グレン・グールドの生涯/オットー・フリードリック/宮澤淳一訳」青土社96頁)

[9] 『ライフ』は、スタンウェイ社の地下室にいる姿、コートを着て、例のピアノ椅子を抱えてニューヨークの通りを歩く姿、ミルクとクラッカーの軽食をとりながら、スタジオの技師たちと冗談を言い合う姿、靴を脱いでペダルを踏む足、革の手袋を脱いでその下のミトンをはめた手を見せる姿、洗面所で腕を湯に浸している姿、ピアノを弾いていない方の腕で、空(くう)を指揮する姿などを掲載した。

[10] 《グレン・グールド神秘の探訪》ケヴィン・バザーナ第3章寄席芸人 P172

第2章 バハマ休暇旅行

グールドは、1956年1月、ゴルトベルク変奏曲のビッグセールと2月、自作の弦楽四重奏曲の初演で、作曲もできるピアニストとして、世界レベルの音楽家の仲間入りを果たした。一方で、3月24日から4月5日までの2週間、カリブ海のバハマへ休暇旅行へ行った。

この旅行は、表向きは、アメリカデビューとゴルトベルク変奏曲の録音、自作の弦楽四重奏曲が初演され、これらが一段落を迎えた骨休みということになっていた。しかし実際のところは、グールドは17歳のときから5年間付き合っていた恋人[1]フラニー・バッチェンにプロポーズを断られた感傷旅行だった。グールドは一人っ子で親からの愛情を一身に受けて育ち、大人の中に混じってトロント王立音楽院で学び、コンクールへ出れば大人たちを差し押さえて優勝する神童で、挫折を経験したのは初めてだった。新進の世界的ピアニストの階段を上りはじめたスターが、プロポーズを断られるとは彼自身、思ってもいなかった。

バッチェンと知り合ったのは、グールドが17歳のとき、彼女は7歳年上だった。バッチェンは、グールドと同じロイヤル音楽院で、グールドと同じピアノ教師についていた。

グールドのピアノの演奏技術は完成していたが、性的なことは何も知らないナイーブなままだった。バッチェンは、はじめてグールドに性的な世界もあることを教えた。

グールドのプロポーズの言葉は、”We should get married.”(結婚しようよ。)だった。だが、このセリフは、まるでぼくたちは役場へでも行かないといけないというニュアンスで、結婚するのが当然であり、断られるなんて頭にまったくないものだった。つまり、自分のどこが悪いのか、結婚生活に不向きなのかを全く理解していなかった。

彼女は、世界一有名な若いピアニストの夫人になるか、ずいぶん長い間考えた。しかし、彼にはあまりに社会性がない、世界を股にかける新進の大スターでも、結婚して一緒に暮らすのは割が合わないと結論を出した。

グールドのセンチメンタルジャーニーには、グールドの複雑な性格をよく表す事情が背後にあった。

この旅行には、カナダの雑誌《ウィークエンド・マガジン》社の記者である[2]ジョック・キャロルが同行して、彼は、世界を股にかける新進の大スターが、休暇でどのような息抜きをするのか、その複雑でエクセントリックな性格を解き明かす切れ味のよい物語を書き、写真も撮って来いと言われていた。

もちろん、この旅行中、グールドはキャロルにバッチェンに振られたことはおくびにも出さなかった。付き合っているガールフレンドがいることすら隠していた。

しかし一方でこの旅行では、キャロルに、かなりありのままの素のグールドを見せていた。

しかしながら、最終的にグールドは考え、キャロルに旅行の時の様子をそのままに記事にすることは認めなかった。写真の掲載は認め、記事は自分で書き、キャロルの名前で発表させた。そして発表されたのが、《[3]ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》である。

旅行からトロントへ帰ってからも、グールドはキャロルと友人のように電話で率直に話をしていた。しかし、キャロルが電話の内容をメモに取っていたことに気づき、グールドは、すぐにキャロルとの交際を断った。グールドは、人間関係に気に入らない兆候を見つけるとすぐにその関係を絶った。

グールドにとって、たとえ友人たちとの交友関係であろうと、何か許しがたいことがあるとすぐにその関係を解消した。彼は、あらゆるものをコントロールしようとした。それができないと不安になるのだった。そのため、周囲の関係をいくつかの小さなサークルに分け、コントロールできない相手は、関係をいきなり断ち切ってしまうのだった。関係を断たれた方は、心当たりもなく何が原因なのかさっぱりわからなかった。

これは、グールドが生涯続けた人間関係の避けがたいポリシーだった。彼は、自信家で、ユーモアのある誰にも好かれる人物だったが、小さなことで交友関係を断ち、死ぬときに親しい関係があったのは、父親も除外され五指に満たなかったと言われる。

キャロルは、バハマ旅行の様子を公表しないという約束を守り、グールドが生きている間、旅行記を発表しなかった。しかし、死後である1995年に『[4]グレン・グールド光のアリア』でその時の様子をようやく明らかにした。

この時に、ちょっとした事件が起こった。というのは、グールドの死後設立されたグールド財団が、キャロルと出版社を著作権違反で訴えた[5]。キャロルが、この旅行で撮った写真とインタビューに使ったテープとメモから書いた記事が、保護すべき著作権を侵害していると訴えた。プライバシー侵害か、パブリシティ権が優先するのかが控訴審まで争われ、最終的に、キャロルの死後の1998年に著作権の侵害よりも公開することの公益性の方が大きいと結論付けた。

この時の被告側(キャロル)の主張は、こうだった。

ここでも、誰もいないマッシー・ホール、グールドの母親の家、バハマでの休暇といったインフォーマルな場で行われたインタビューの性質は、グールドがリラックスしているときの自然な姿をとらえるためのカジュアルなものであった。二人の会話は、グールドが友人と交わすようなものであった。実際、グールドとキャロルはその後しばらく友人として付き合うことになる。グールドは、講義をしたり、キャロルに指示を出したりしていたわけではない。むしろ、キャロルはグールドと気楽に会話を交わし、その中からグールドの性格や私生活を見抜くようなコメントが出てくるのである。グールドは、公の場に出ることを承知で、何気ないコメントをしていたのである。これは、著作権法が保護しようとする会話とは異なるものである。

控訴審の判決はこうだった。

キャロルは、写真、テープ、グールドとのインタビューのメモを持っていた。キャロルは、自分の記憶をたどり、グールドに初めて会った場面を再現できる唯一の人物であった。その結果は魅惑的である。この本は、天才音楽家の人物像に説得力を与えてくれる。キャロルの芸術的創造物を保護することで、法律は、そうでなければ否定されるであろうグールドの初期の時代への洞察から、公衆が利益を得ることを許可している。

つまり、『キャロルのフォト・ルポルタージュ』は、彼が世間に見せたかった面を自分で書き、『グレン・グールド光のアリア』こそが、キャロルが見た、グールドの普段の自然な姿が表れている。

《ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》

まずは、旅行直後に発表された《ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》を紹介しよう。

《「ぼくはエクセントリックじゃない」右隅にweekend magazine vol.6 No.27, 1956 と書かれている》

前に書いたように、こちらは、キャロルが撮った写真を使いながらグールドが語っている。書かれた内容は刺激的で、彼の自信とエクセントリックさに対する弁解が、ユーモア交じりに語られていて面白く読める。だが、この旅行の事はほぼ出て来ない。グールドの音楽に対する姿勢が、願望とともにオーバーに書かれている。

この記事は、ウィークエンド・マガジンにキャロルの記事として発表されていて、グールドが記事を書いたとは明記されていない。なぜ、グールドは、キャロルに記事を書かれるのが嫌ったのだろうか。

グールドが、休暇を取ってその休暇に記者が同行するということは、生涯このバハマ旅行しかない。グールドは、365日音楽に身を捧げているところがあり、クリスマス休暇でも音楽に没頭していた。そのため、2週間の休暇を取ったバハマ旅行のようなことは他になかった。

グールドは、北米で名を上げた後、ソ連公演とヨーロッパへの演奏旅行をして、ソ連では通訳が同行している。ヨーロッパでは、この後出てくる恋人グラディス・シェンナーが同行して記事を書いているが、バハマ旅行は、記者と過ごす初めての経験だった。

つまり、グールドは、休暇を取るのが初めて、記者の同行も初めてで、率直に素の姿をキャロルに見せていたが、その姿を世間に公表することを選択しなかった。きっとさまざまな影響を考え、怖気づいたのだろう。彼は、女性関係を徹底的に秘密にするだけでなく、ホモセクシュアルではないかという噂を否定も肯定もしなかった。しかし、それ以外の、例えば処方薬の摂取の問題やばい菌への不安などは初めから公表していた。つまり世間に対し、見せたい自分は見せ、見せたくない自分は隠すという印象操作を明らかにしていた。

他方、キャロルが書いた1995年の『グレン・グールド光のアリア』に、音楽に「[6]私は門外漢で、『フーガ』はおろか、『フォルティッシモ』の意味すらわからなかった」と書いている。彼は、クラシック音楽について深い知識を持っていなかった。

《グレン・グールド光のアリア》

では、次に『グレン・グールド光のアリア』に書かれている内容を順に見てみよう。

グールドとキャロルは、バハマの首都ナッソーの飛行場に降り立った。グールドは、この南国のリゾートに来ても、相変わらずの服装だった。丈の長い黒のオーバーコート、目深に被ったいつものベレー帽、ぐるぐると首に巻き付けたウールのマフラー、黒い手袋、オーバーコートからわずかに先を覗かせた茶色のデザートブーツという恰好だった。

ナッソーがあるニュー・プロビデンス島は、マイアミからは南方へわずか200KMほどしか離れていない。東西が30キロ、南北が10キロほどの小島である。さらにバハマのすぐ南にはキューバがある。

グールドたちは、海に面したフォート・モンタグ・ビーチホテルに泊まった。人口が10万人程度のこの島で、このホテルは一番大きなホテルだった。

グールドは、到着してから数日間、部屋のドアに「Do not Disturb.(入らないで)」という札をぶら下げ、ずっと部屋に籠りっぱなしだった。

キャロルが、旅行の前、グールドの実家に打ち合わせに行ったとき、母親のフローラが、グールドの姿が見えなくなる瞬間を捉え、こういったのを思い出した。フローラは、グールドを41歳の直前に出産していたから、この時すでに63歳だった。彼女は、女性としての魅力に乏しく、草臥れ世間の常識に囚われたおばさんにしか見えなかった。

「この旅行にご同行願えるのであれば、洗濯物をしっかり出すようにグレンに言ってくださいませんか。あの子は何度も言わないと、いつも同じ服ばかりを平気で着ているのです。ですので、あの子にきちんとした服を買うように言ってくださいませんか。それと、太陽の光を浴びるように言ってくださいませんか。体が心配なんです。」

しかし、グールドは、あいかわらず部屋から一歩も出てこなかった。キャロルは、意を決してグールドの部屋をノックした。意外にも、グールドは返事をすぐに返して、しぶしぶながらに、彼を部屋に招き入れた。戸外は太陽がギラギラ照りつけていたが、部屋は厚いカーテンがしっかり引かれ、ほぼ真っ暗だった。

「ぜんぜん出てこないから、死んでいるんじゃないかと思ったよ。」

「まさか…。仕事をしていたんですよ。オペラを3小節書きました。このオペラは、完成させるのに3年はかかるでしょう。テーマは、トーマス・マンから取ったものです。『創造的な芸術家が、作品を生み出すには、いかに反社会的にならなくてはならないか』というのがテーマです。」

グールドは、2台のベッドをくっつけ、交差するように寝そべっていた。化粧台には、薬瓶がいくつも置かれ、血圧の薬、抗ヒスタミン剤、ビタミン剤、睡眠薬があった。

グールドは、有名な作家が、音楽の知識を小説にどのように生かしたかを話し始めた。やがて、フーガの技法における全音音階や不協和音の進行に話が及びはじめ、音楽に深い知識のないキャロルは、話についていけなくなった。

グールドは、発表したゴルトベルク変奏曲の演奏だけでなく、ジャケットの裏面のライナーノーツの解説も書いていた。こうした解説を演奏者自身が書くことはこれまでになく、これも話題を呼んでいた。キャロルは、このライナーノーツを旅行前に読んでいた。しかし、それは何度読み返しても理解できない代物だった。楽譜を掲げながら音楽理論を展開するのだが、文章も長文で、言い回しが難しく理解不能だった。

キャロルは、我慢しながら3度この文章を読み返した。しかし、彼が理解できたことは、その曲を作曲者J.S.バッハの不眠症のパトロンであるカイザーリンク伯爵が入眠儀式に用いたこと、それと、その曲が「終わりも始まりもない音楽であり、真のクライマックスも、真の解決もない音楽であり、[7]ボードレールの恋人たちのように、『とどまることのない風の翼に軽々ととまっている』音楽である」というところだけだった。この比喩は、よく考えると意味深でエロチックだとキャロルは思った。

グールドは、つなげた2台のベットを横切るように寝るのをやめ、机の椅子に座りなおした。そこは、ホテルのマッチが、箱から取り出されて山のようになっていた。彼はその一本を手に取り、火をつけると、目から15センチほどのところへ持って行き、燃え尽きるまで炎をじっと見ながら言い始めた。

「逃げなくちゃだめだ、って思うんです。」

「この前のコンサートの時も、本番の数分前まで今日もできるのだろうかととても不安でした。」

「いったい、何が問題なんです?」

「病気なんですよ。」病気という言葉をグールドは、強調して言った。

「痙攣性の腹痛、下痢、喉を締め付けられるような感覚。今、3人の医者にそれぞれ診てもらっています。もちろん、どの医者も残りの2つの症状については知りません。他の医者にかかっていることは、知らせていないのです。でもこの病気のせいで、他人と一緒に食事ができない。家族とだってダメです。ああ吐くぞ、吐くぞ、といつも考えている。今度は精神科ですね。」

キャロルは、この告白に非常に驚いた。

「もちろん記事には、一言も触れちゃダメですよ。何か書かれでもしたら、私の演奏家生命は一巻の終わりになりかねませんからね。」

「演奏家活動はどんな具合ですか?」

「去年は6000ドル(2020年一人当たりGDP比で、149,689ドル=1650万円)ほど稼ぎました。それでもいつもお金に困っています。これまでの出演料は、一晩750ドル(230万円)から1,000ドル(300万円)でした。来年は、1,250ドル(同380万円)になります。でも、お金のことは書かない方がいいですね。マネージャーが嫌がりますから。」

キャロルは言った。

「だんだん考えがまとまってきたんですけどね。今回の記事は、普通、記録に残らないような内容に絞ろうかと思うんです。」

グールドは声を出して笑い、言った。

「いいんじゃないですか。どんな神経症患者を相手にしているかわかるでしょう。」

グールドは、相変わらずマッチに火をつけ、燃え尽きるまで炎をじっと見ていた。キャロルは、催眠術をかけられているような気持になり言った。

「一山に一度に火をつけたらどうですか?」

「それはとっておきの方法なんですよ、一人でいるときのね!…でも母には内緒ですよ。この癖を直させようと必死ですから。」

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翌日、キャロルは、グールドを部屋から出すことに成功する。キャロルは、男二人よりも若くて美しい女性がいれば、グールドの会話も弾むだろうと踏んで、ホテルの副支配人の婚約者である女性に来てくれるように依頼していた。婚約者は、聡明ですらりとしてスタイルがよく、髪の毛を後ろで束ね、ショートパンツを穿いた魅力的な女性だった。

グールドは、彼女とのたわいのないおしゃべりにすぐに夢中になり、上機嫌で言い始めた。

「ぼくはいつまでも演奏会活動をやるつもりはないんです。作曲と、それから出来れば指揮者に転向したいんですよ。」

「70歳になるまでには、オペラが2,3曲、交響曲が数曲あるといいですね。ああ、もちろんレコードだってどっさりできています。」

この婚約者が、マリーナでモーターボート借りられると言い、マリーナまで車で送ってくれた。この車を運転しながら、婚約者が、海水浴をしないのかと訊いた。グールドは、答えた。

「海水浴はしたいけど、海水が腕に悪影響を及ぼさないかが心配なんです。海水浴するなら、肘より上まで包み込むようなゴム手袋を嵌めなくちゃだめでしょうね。」

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グールドとキャロルは、沖へ向かって全長4メートル半のモーターボートを出した。

キャロルは、グールドが、別荘がある[8]シムコー湖でモーターボートに乗り込み、自然保護派を標榜する彼が、湖面を左右にカーブを切り波を起こしながら爆走して釣り人の邪魔をするのが趣味だ、と聞かされていた。

それで、グールドが同じ爆走をするのではないかとキャロルは気が気ではなかったが、その不安は現実のものとなる。グールドは沖に大型船が停泊しているのに気づくと、そこを目標に定め爆走を始めた。沿岸部が穏やかでも、沖へ外洋へと出ると、小舟は大きく揺れ、キャロルは、船外に放り出される恐怖にかられ叫んだ。

「このままでは海に放り出されてしまう!スピードを緩めてくれ!!」

しかし、グールドは聞こえないふりを続けた。

やがて、大型船の下まで到着し、乗客が見下ろす中、何やら熱狂的な衝動にかられた様子のグールドは立ち上がり、指揮者のポーズをとりながらオーケストラのメロディーを大声で歌いだした。

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グールドは、ピアノの練習のため深夜の2時から4時まで、ナイトクラブのグランドピアノを自由に使えるようキャロルに頼んでいた。二人がそこへ行くと、ピアノは舞台の隅に置かれていた。

キャロルが、そのピアノを照明がよくあたる舞台の中央へ移動させようと動かしたところ、突然、舞台の床の一部がバリっと音を立てて破れ、ピアノの脚の一つが舞台の下へめり込み、ピアノが斜めに傾いてしまった。

これを見たグールドは、意地の悪い笑いを浮かべたまま、このありさまとキャロルの狼狽ぶりをじっと見ていた。彼は、吹き出しそうになるのを懸命にこらえながら、真面目くさった顔でこう言った。

「あのね、ぼくはわずかに角度をつけて弾くのは好きなんだけど、これじゃちょっと角度のつきすぎだね。」

と言って、自分の冗談にけらけら笑うと、楽譜を持ってさっさと部屋に戻って行った。

——————————————-

次の晩、二人は改めて同じ時刻にナイトクラブへ向かった。

ピアノを弾き始めるグールド。グールドの写真を撮るキャロル。

キャロルは、グールドの様子に驚く。キャロルは、巷間言われている、[9]オランウータンのような姿勢で、歌を歌いながらピアノを弾くとか、空いている手で指揮をするということに半信半疑だった。しかし、グールドは誰もいないこの空間で、言われている伝説のまま、大きな声でハミングしながら、歌いながらピアノを弾き、片方の手が空いているときには、想像上のオーケストラを指揮しながら恍惚となってピアノを弾いていた。

脚を切った低い椅子に座ったグールドが、猫背になって前に屈みこむと、指の方が手首より上にあり、長い髪が鍵盤に触れた。彼はピアノで、頭の中に響く音楽と一体になっていた。アコースティックな生のピアノの音は圧倒的で、キャロルは、グールドを現世とどこか神の世界とつなぐ伝道師かシャーマンのように感じた。

キャロルは、クラシック音楽のことはよく知らなかった。しかし、グールドの演奏の強烈さに圧倒され、ときおり写真を撮るのを忘れ見惚れてしまった。グールドは、普段ピアノを弾いていないときでも美男子で、フォトジェニックだった。しかし、ピアノを弾き始めると、現実の世界から別の世界へと行ってしまい、現世を飛び越え、エクスタシーの中に入り込み、別の世界へ行ってしまったようだった。

ナイトクラブを閉めて出るとき、他の宿泊客から昼間言われたことを、キャロルは、グールドに何気なしに質問した。このホテルに女性の宿泊客がいて、娘がジュリアード王立音楽院のピアノ科の学生で、娘がグールドさんの演奏を見学できないかとキャロルは言われていた。

「グレン、そのジュリアード王立音楽院の娘に練習を見せても構わないか?」

グールドはそれを聞いた瞬間、真っ青な顔をして、いきなり人が変わったようにすごい剣幕でキャロルを怒鳴り始めた。

「いったいぼくが練習しているということを、その婦人に伝える権利が、きみのどこにあるんだ!?」

「ごめんよ。わかったよ。悪気はなかったんだ。明日その人に会ってだめだって言っておくよ。」

「どうして、黙っていられなかったの?」とグールドは、キャロルをなじり、最後にぴしゃりと捨て台詞を吐いた。

「気を付けて行動するんだね。ぼくの写真が撮りたいのなら。」

——————————————-

翌日、グールドの運転で、二人は赤いオープンカーで島を巡った。

グールドが運転するそのオープンカーは、ギアを入れるなり、がくんと揺れ、キャロルは前につんのめった。次の一瞬、エンジンをふかしたその車はタイヤの金切り音をあげ、猛ダッシュをはじめた。スピードの出しすぎではすまないスピードをだして、グールドはわき道を抜けてナッソーの市外へ向かった。キャロルがスピードを落とせといくら喚いても、グールドは聞く耳を持たなかった。

いなか道には、現地の人の住む粗末な小屋がいくつかずつまとまって見えた。オープンカーは、小さな丘を勢いよく登った。そして、鶏や犬や子供たちを追い散らしながら、この丘を猛烈な速さで駆け下りた。グールドはゲラゲラ笑っていた。彼には、こんな運転をしていたら、事故を起こしかねないと理解できていないようだった。キャロルは、「前に子供がいるぞ、速度をおとすんだ!」「カーブだ、左側を走って曲がるんだ!」と何度も叫んだ。

途中、グールドは何度か車を降りて、キャロルはグールドの写真を撮ったが、この時だけが心休まるときだった。

キャロルの我慢も限界に近づいていた。やがて、ホテルへ帰るという道で、キャロルが横を見ると、グールドは、両手を宙に浮かせ、指揮をしていた。

「バカヤロー、ハンドルを握れ!」とキャロルが大声をだすと、グールドはハンドルを握ったが、顔はニヤニヤと笑っていた。

「この運転のことを母には言わないでね。いつも、止めろとうるさいんだ。内緒だよ。」

この1年後、案の定グールドは、トラックに追突する事故を起こし、それまでの事故と合わせ4回の事故により、裁判所から自動車学校へ通うべしという判決が下りる。グールドは、生涯しょっちゅう交通事故を起こしていた。

グールドは、その後も危険運転を止めず、キャデラックのような一番大きなサイズの自動車を運転する。このような大型車は、事故にあっても自分が負傷する可能性が低く、無謀な運転をしても対向車が道を譲ってくれることが多いからだ。

——————————————-

休暇の時間もいよいよなくなってきた。

グールドは、キャロルが映画の機材とフィルムを持って来たと知り、それで映画を撮ろうと言い出した。

シナリオは、いかに自分が性的誘惑に無縁かを描くことにしようという。

グールドが、浜辺で読書をしていると、褐色でエキゾチックな現地女性ダンサーがグールドのオーバーコートを羽織って現れる。彼女がグールドの正面にやってきて、オーバーコートを脱ぎ、ビキニ姿になって、腹と腰を交互に突き出すバンプというディスコの踊りを激しく踊って彼を挑発する。ビキニのお尻にピンクの貝殻が多数ついていて、楽し気に揺れている。

それでも、グールドは読書をやめず、ダンサーは悲しげに再びレインコートを羽織って、椰子の木立に帰っていく。そこで、グールドが読んでいた本が、《決断をためらうことの美徳》を語る[10]ツルゲーネフの随筆だとわかる。

これが、シナリオだった。キャロルは内心、ずいぶん妙なシナリオだなと思っていた。

ところが、準備が整い、さあ撮影というばかりになって半ば予想されたことだが、グールドが出演したくないと言い出した。その理由は、熱があって、頭が痛いという些細なものだった。

キャロルは、憤懣やるかたなかったが、主役が嫌だというのではどうしようもない。しかたなく、自分がグールドの役になって、映画を撮り始めることにした。彼にとって、演技は簡単だった。激しく腹と腰をゆするバンプを踊るダンサーの挑発に乗らず、浜辺で読書に集中するふりをすることは難しいことではなかった。

映画のフィルムが残り半分になったときに、グールドが「ぼくも出たい。」と言い出した。

グールドは、海辺のディレクターズチェアに向かって歩く。長いオーバーコートを着て、マフラーを首に巻き、デッキシューズを穿き、ベレー帽を横向きに被り、サングラスをずらして鼻にかけ、葉巻を手にしている。手袋を脱ぎながら、チェアに座ったグールドは、振り返る格好で話し始める。

もう一つの撮影で、グールドは、浜辺に落ちていたビールの小瓶を振り回しなはら、ビキニのダンサーに対抗するように熱狂的に踊り始める。ついには、海の中へ入って奇妙な手ぶりで自分の頭の中にあるオーケストラを指揮した。

グールドは、振り返る格好で社会的な貧困問題を声色を使って話し始める。

次のシーンでは、降り注ぐ太陽の下で海水パンツをはいたキャロルが浜辺で、《ためらうことの美徳》を語るツルゲーネフの随筆を読んでいる。

そこへグールドのオーバーコートを羽織った褐色の若いダンサーがやって来て、オーバーコートを脱いでビキニ姿になり、キャロルの周りを誘惑しながら踊り始める。バックの音楽には、カリブ海の軽快なサルサがずっと流れている。

魅力をふりまくダンサーが、キャロルの気を惹こうとするのだが、無視するキャロル。

今度は、場面が変わって、グールドが憑りつかれたように踊っている姿と、ビキニ姿のダンサーの踊りが交互に切り替わり、二人が向かい合って踊っているようにフィルムが繋がれている。

ついには、グールドは海の中に入り、奇妙な手ぶりで、オーケストラを指揮をしているのかのように踊り続ける。最後のシーンで、キャロルはとうとうツルゲーネフの随筆を顔に乗せて、浜で寝てしまう。

エンディングは、口惜し気に、ダンサーがキャロルを誘惑するのを諦め、オーバーコートを再び着て、トボトボと林の方へ帰っていく。

実際に出来上がった短編映画《ためらいの美徳》は5分ほどの長さで、たいした意味のないバカバカしいものだったが、クラシックピアニストの巨匠のイメージを拭うには十分だった。

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[1] バッチェン:フラニー・バッチェン(Frances Batchen Barrault)注釈21と同じ。

[2] ジョック・キャロル Jock Carroll (1919 – 1995) カナダのトロントテレグラムを含むメディアで働いたライター、ジャーナリスト、写真家。キャロルはこの時、37歳だった。

[3] 雑誌に掲載:『ウィークエンド・マガジン』第6巻第27号(1956年)ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ。この記事は、『ぼくはエクセントリックじゃないグレン・グールド対話集』(音楽の友社ブリューノ・モンサンジョン編粟津則雄訳)で読める。

[4] 『グレン・グールド光のアリア』(筑摩書房ジョック・キャロル宮澤淳一訳)原書は、”GLENN GOULD some portraits of the artist as a young man”Jock Carroll, 1995, Stoddart, Toronto

[5] この裁判の概要は、https://en.wikipedia.org/wiki/Gould_Estate_v_Stoddart_Publishing_Co_Ltd から引用している。また、参考資料として、巻末に張り付けている。

[6] 私は門外漢で:『グレン・グールド光のアリア』(筑摩書房ジョック・キャロル宮澤淳一訳)5P

[7] ボードレールの恋人たち:ボードレール(1821年 – 1867)は、フランスの詩人、評論家。韻文詩集。象徴主義詩の始まりとされ、「近代詩の父」と称される。唯一の韻文詩集「惡の華」は、反道徳的であるとして、多くが罰金を科され、削除を命じられた。ボードレールの恋人たちとは、娼婦を含む、彼自身の生涯にわたる多くの恋人たちの意味。

[8] シムコー湖 注37参照

[9] オランウータン:グールドのアメリカデビュー後、ブリュッセルの万国博覧会(1958年)で、指揮者ボイド・ニールとバッハのピアノ協奏曲第1番ニ短調を演奏し、『ル・ソワー』紙は米国の新聞報道を真似て、グールドの「オランウータンのようなスタイル」に不満を示した。

[10] ツルゲーネフ(1818 – 1883):ドストエフスキー、トルストイと並ぶ、19世紀ロシア文学を代表する文豪。人道主義に立って社会問題を取り上げる一方、叙情豊かにロシアの田園を描いた。


 [*]オストウオルドの伝記には、キャロルの書いたものとして、エキセントリックさに対する弁解が出てくる。つまり、オストウォルドは、この記事をキャロルの原稿ととらえていたはずだ。

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