108~海馬五郎の復讐と冒険~

あらすじ

名脚本家として成功している海馬五郎は、ある日、元女優の妻・綾子の浮気をFacebookの投稿によって知ってしまう。コンテンポラリーダンサーである“ドクタースネーク”という男への恋心を綴ったその投稿を見て、わめき散らす海馬。あまりのショックに離婚を考える海馬であったが、財産分与で資産の半分を慰謝料で支払わなければならないことを知り大激怒。“不貞”の妻に慰謝料で支払わなければならない1000万円を、自分の“不貞”で使い切ることで復讐を決意した海馬。妻のFacebookの浮気投稿についた、108もの“いいね!” に湧き上がる猛烈な怒り。その数を目標に女を買いまくる、肉慾全開、前代未聞の復讐劇が幕を開ける――。( https://www.cinemacafe.net/movies/28796/ から)

 

https://rockinon.com/news/detail/189620 から

松尾スズキは、本も出している(下)。本の装丁で分かるように、この映画は妻や恋人と行ってはならない。全編、下ネタなのである。主は、けっこう下ネタが好きで、こういうバカバカしい話が、平和で大好きだ。ただ、きっとこの種の映画は、観客になる可能性のある半分の数を占める「女性」に見てもらう気はないのだろうとしか思えない。でも、男には、バカバカしくて「罪がなくて楽しい」映画だ。

主は、松尾スズキはNHKで放送された「木曜時代劇 ちかえもん」が、独特の存在感で気にいっていた。他と違って力が入っていなくて、ユルイ主人公なのだ。「ちかえもん」全体に、どこか浮世離れしたユルさが漂っていて、演劇風というか、舞台風というか、切迫感のないところに大きな魅力があった。

エンドロールで主題歌「夜のボート」が流れるのだが、雰囲気があって星野源を再発見した気分がして、とても良かった。

おしまい

ボヘミアンラプソディー 見てきた!!

テニスクラブで音楽の話をよくする知人から良かったと聞き、「ボヘミアンラプソディー」を見てきた。音楽が最高だった!!ボーカルのフレディー・マーキュリーがすごい。初めて気づいたのだが、歌詞も抜群にいいのだ。セリフと歌があまりに自然なので、この歌は俳優の地声かと思っていたが、ネットで調べると吹き替えで、本物のフレディ・マーキュリーのものを使っていると書かれていた。ブライアン・メイのギターのソロなどもとても感動的で、クイーンの演奏をかぶせて使っているのだろうが、全然違和感がない。

主は、学生時代にツェッペリン、ピンクフロイド、オールマン・ブラザーズバンドなどに熱中していたが、歌詞はほとんど気にせずに聞いていた。ところが、この映画では素晴らしい歌唱力に加えて、屈折したやるせない思いに溢れる歌詞が字幕に映し出され、これにはシビれた。思わず涙が出てきた。主はジムへ行った帰りに見たのだが、バッグからスポーツタオルを取り出し、音楽が始まるたびに泣きながら見ていた。筋の方は、ベタと言えばベタだが、その分分かり易いし、2時間で過不足なく理解するにはちょうどよい。また、映画のメッセージがわかりやすく、共感を呼ぶのだろうと思う。

映画館では普通、声を出したりできないように注意が流れる。しかし、映画館によっては、客席でスクリーンと一緒歌えるところがあるらしい。そんな仕掛けで、何度も足を運ぶ客が多く、動員数を伸ばしているらしい。

「映画.COM」には、次のように書かれている。- 第91回アカデミー賞で5部門にノミネートされた映画「ボヘミアン・ラプソディ」が、1月22日までに累計興行収入100億4168万7580円、観客動員727万904人に到達した。2018年公開作では唯一、興収100億円という“天井”に穴をあけた作品に。国内の音楽・ミュージカル映画で歴代1位を誇る「美女と野獣」(124億円)を超えるか

主が見た映画のベスト10に入る!

おしまい

「身体を売ったらサヨウナラ」 著者の鈴木涼美さんご本人からコメントを

「おじさんメモリアル」(鈴木涼美)につづき、「身体を売ったらサヨウナラ」の感想文を1週間前にアップした。驚いたことに、ご本人がツイッターで取り上げてくださりコメントをいただいた。それも率直で非常に長いコメントだった。ツイッターは140文字の制約があるため、実に11回!に分けてご本人が振り返りつつ分析されていた。お陰で、ビュワーの数が普段の10倍くらいになり大いに驚いた。

このようなお作法は良いのかどうか正直心もとないのだが、鈴木涼美さんの実際のツイートと主の返信、リツイートをコピーして、後半にアップさせていただいた。

おかげで、深く考えるきっかけを与えられたと思う。おそらく、女性の側からの体験をベースにしたこのような類書は極めて少ないと思う。AVやデリヘル、援助交際などを語った本は多数あるが、ほとんどすべてが男性の視点で書かれたバイアスがかかったものだ。その点、鈴木涼美が書くものは、さらに隠していることがあるのかどうかはわからないが、率直で正直に語っているように感じられ、新鮮だったのは間違いない。もっと、女性の視点が分からない男性の為にも、これから「夜の世界」へ行こうとしている女性への忠告としても、さらに掘り下げていってもらいたいと思う。

ただ、主が感じたことは幾つかあるので、以下に書いてみたいと思う。

順不同だが、最初に思うのは、鈴木涼美の経験の物語は、何と言っても恵まれている。「・・・さらに言えば、人間はポイント制なのであって・・」という彼女にしてみれば、学歴と顔面偏差値とFカップというポイントの高い私は、高い報酬をもらって当然と考えているのかと皮肉りたくなるし、現在、風俗関係の世界に乗り出そうという女性の環境は全く違うのではないか。

彼女は今33才で、15才のブルセラ売りに始まり、キャバ嬢、AV嬢となったわけだが、その間18年経っているわけで、景気はずっと長期低迷してきた。ようやく、デフレから脱出できるかどうかの萌芽が出てきたかというのがここ2、3年のことである。このデフレ脱出の芽の恩恵も、一部大企業の正社員に限ってあるかどうかという段階で、貧困層の低落傾向は少しも変わっていない。

AV出演料はずっと下がっていると思う。キャバ嬢の収入も当時と比べると、今ではずっと下がっているのではないか。それに大きな差は、鈴木涼美の場合、AV作品はモザイクの入った合法品だろう。インターネットによる海外経由、モザイクなしの裏ビデオの出演料は、1本5万円と言われる。この搾取100%の裏ビデオの深刻さは、鈴木涼美の苦悩とは異質なもので、個人の親バレ、会社バレにより社会的制裁を受けた生きにくさの問題というだけでなく、はるかに社会問題ではないか。社会からリベンジされても、文句をいうことができない。恋人によるリベンジポルノは、文句を言う相手がいるが、5万円で出演を承諾した裏ビデオは、自分で自分を切り刻んでいるようなものだ。せめて、大金が得られるのであれば逃げ道があるが、その道もないのではないか。

かたやで、食事デートだけで月50万円 NHKが若い女性の「パパ活」に迫ったという記事もあり、そうした現実もあるのだろう。しかし、多くの女性の売春(援助交際)のリアルな相場は、1万5千円~2万円あたりであり、鈴木涼美が本で書く値段(1時間5万円とかオショックス〔お食事とセックス〕6万円)とは雲泥の差だ。女性を買う男性の年収が2000万円で、1月に20日間働くとすれば、日給は8万3千円となり、彼にとって売春の相場は大した負担ではない。会社の経営者や役員であれば、もっと収入は多いだろうし、その場合、もっと負担感は少ないだろう。

そして、売春する側の女性の収入は1日に2人客をとったとして、3万円という計算になるものの、毎日コンスタントに客を見つけるのは難しいだろう。この場合はデリヘルなどの風俗の従業員として働くのだろうが、手取りは、客が支払う額の半分ほどにしかならない。このため、倍の人数を相手にしなければ収入にならない。確かに、パパ活や高級交際クラブなど、高額で昔と相変わらず囲われている女性もいるだろうが、格差が広がった今、地方から都市へ出てきた女子学生、正社員であっても賃金が低い女性、シングルマザーやフリーターなど、それぞれに事情を抱えた女性が、生活のために売春したり風俗で働く時代だ。こちらは、心理分析している場合ではなく、未曽有の不平等社会の被害者ではないか。

それに価値観や相場観のまったくない未成年がもっと安い対価で、身体を売っているということも聞く。SNSを使って出会い系へと繰り出す少女もいるはずで、ハードルは限りなく下がっている。

主は、「人間は弱い存在であり、頭(理性)を保ちながら、AV嬢になったり、ホスト狂いしたりはできないということだ。特に20歳未満ではそうではないか。セックスの手練手管がうまいのは、AV男優、ホスト、ヤクザが浮かぶ。AV出演に支払われる対価は、基本的に、魂を男優に奪われたふりをすることか、実際に奪われた姿を撮影されるところにある。キャバ嬢・風俗嬢として男たちから得た収入や、多額のAV出演料は、よくある話のように、ブランド品の購入と、シャンパンタワーの泡となってホストに貢いで消える。ホストは、『夜の世界』に生きる嬢にとって不特定多数の男に体を開いた空虚感や屈辱を、はたまた、お金で埋めてくれる存在ではないのか。」と書いた。

だが、鈴木涼美がツイッターでいうように、「魂を男優に奪われる」という表現はたしかに曖昧で、食い違っていたようだ。

主が、「魂を男優に奪われる」と書いた意味は、画面を見る多くの男が感じている(錯覚している)もので、単純だった。すなわち、見ず知らずの男との性交にエクスタシーを感じる、あるいは、感じたように見せる、篭絡される、篭絡されたように振舞うのは、人間の尊厳を奪われ、自分を失うことであり、魂を奪われることではないか、そういう風に捉えていた。ホストについても、お金で雇った恋人モドキだと思っていたのだが、違うのだろう。

つまり、女性の鈴木涼美の側からの思いは全く違うようで、ツイートは、AVの現場で働く人やホストは悪い人ではなく、むしろ魂を削って仕事をしているのは彼らだと言う。「魂を奪ったり汚したりするのはホストや男優なんていうものよりずっと大きいものだと思う。まず、男優さんってAV職人さん(制作スタッフさん)の一部という印象が強く、彼ら自身がある意味で魂を削って現場にいる当事者でもあり、とても私は彼らに魂を売り渡していたとは思えないんですよね。では売り渡した先は誰だったのでしょうね。AV業界?視聴者?もっと広い世間?どれもある意味では正解ですが、それほどピンとくる答えではありません。」

むしろ、彼女はツイッターに「奪われた魂は今どこにあるのかはよくわかりませんが、わたし自身は、それを嘆き悲しむというよりは、あの狂騒は一体何だったのか、どうしてあんなに苦しいほど惹かれたのか、1ミリでいいからわかりたい、という気持ちの方が少し強い。ので、色々なアプローチでその作業をしていきたいと思ってます。」と書く。魂を奪われたという感覚はなく、「狂騒」に駆り立てられたのは「一体何だったのか」と訝しがり、「苦しいほど惹かれた」理由が1ミリも分からないという感覚らしい。この理由は、本人のアプローチで見つけて発信してもらうしかないが、男が見ているものとは違うということだろう。

彼女は「おじさんメモリアル」で「100円玉で買えるぬくもりは100円ないと買えない」と面白い表現をしているのだが、結局、売り手の女(と仲間たち)と買い手の男が売買しているのは、同じようでも、双方で違って解釈されるものであり、値段分の「錯覚」や「幻想」のような気がする。

飛躍するが、生物学的に考えると、ヒトは隠れてセックスする動物であり、公然とセックスする動物であればAVという商売は成立しない。ゴリラやチンパンジーのペニスは3センチしかない。ヒトは、生殖だけの機能だけでない、不必要な長さのペニスやヴァギナを持つように進化してきた。子孫を残すという観点から考えると、発情期以外にセックスするという、無駄にエネルギーを消費する生物はヒトだけだ。遺伝子を残すというプログラムは生き物全般にインプリントされているのは間違いないが、そこに「快楽」という余剰を伴っているのはヒトだけだ。

この余剰は余剰ではなくなってきて、生殖よりも快楽の方が本来の目的のようになったのが現代だと思う。ヒトの歴史がアフリカではじまり700万年、文明がメソポタミアで始まってわずか7000年ほどだが、飢餓状態から脱したのは何百年か前、文化的な生活ができるようになったのは、ここ数十年前からのことだろう。

このセックス(結婚)の形態だが、一夫一婦制というのは明らかに歴史が短く、人類史から見るとごく最近のことである。何百万年の間、人間の性は試行錯誤を繰り返し、乱婚や一夫多妻などの時代を経ている。そうした中で、女性と男性にとっても、遺伝子を残したいという本能は同じでも、女性が一生のうちに産める子供の数は多くて10人だが、男性が産める数は、千人の子供を作った王がいるほど多い。この違いは次の矛盾を常にはらむ。男は遺伝子を残すため、広く乱婚し精子をあちこちへとばら撒きたい。女は、優秀な男の遺伝子を選んで残したい。ところが、ヒトの子供の養育には10年以上、庇護を必要とする期間を要するという問題、前提がある。

こうした長い歴史の中では、夫が他の男に殺されるということはしばしばあった。自分の遺伝子を残すという観点から、新しい男にとって、妻が産んだ前夫の子供を新しい夫が殺し、後に妻に自分の子供を産ませるのは正しい戦略となる。だが、この男の戦略は、子供を産める数に制限がある妻にとっては、許容できない。このため、生物進化学者のジャレド・ダイヤモンドは、ヒトの女性は排卵を隠すことで、子供が誰の子供かを男にわからなくし、男の性行為を普段から受け入れることで、男にとって子供が自分の子供だと思わせることで、子殺しを防ぎ、養育に協力させるという進化の過程をたどったと考えている。

この余剰を、不倫をしている男女やAV俳優だけが多く享受していると思われているならば、一夫一婦制で満足している、満足しているふりをしている大衆には、認めがたいし、許しがたいだろう。なにしろ、一夫一婦制は歴史がごく浅く、我々の本能に染みついているというより、教育で刷り込まれた(共同幻想の)効果に頼っているだけであり、人間の長い歴史の生物としての本能が、時として顔を出す。そうした抑圧された気分が隠されている限り、AV嬢に対するバッシングは続くだろう。そしてそのバッシングは、出演料の中に対価として含まれているのだろう。だが前に書いたように、希少性が薄れたことで、対価が見合っていないほど安くなった今、出演者の女性は後悔先に立たずで哀れな気がしてならない。それを利用する側も心無いが。

いや、この結論は男の論理であり、女性にとってはいくら対価が安くても、AV出演自体は、後悔などするという性質のものではないのかもしれない。後悔するのは、社会からリベンジされた場合だけということなのかもしれない。

思いっきり歯切れの悪い結論になってしまったが、 おしまい

 

→魂を奪ったり汚したりするのはホストや男優なんていうものよりずっと大きいものだと思う。まず、男優さんってAV職人さん(制作スタッフさん)の一部という印象が強く、彼ら自身がある意味で魂を削って現場にいる当事者でもあり、とても私は彼らに魂を売り渡していたとは思えないんですよね。

→では売り渡した先は誰だったのでしょうね。AV業界?視聴者?もっと広い世間?どれもある意味では正解ですが、それほどピンとくる答えではありません。ブルセラでパンツを買ったのはマジックミラーの向こう側のおじさんたちですが、わたしの魂を奪ったものがあるとしたら、彼らだったのでしょうか?

→それは主さんの言葉を借りれば私がからめとられた夜の世界の吸引力とも関係する問題でしょう。確かに私は一般的な意味での善悪の区別や、越えるべきでない一線が見えなくなるくらいには、そちらの世界の価値観に侵食されていたと思うし、それは魅力と言うこともできるけど、罠や怖さでもあります。

→奪われた魂は今どこにあるのかはよくわかりませんが、わたし自身は、それを嘆き悲しむというよりは、あの狂騒は一体何だったのか、どうしてあんなに苦しいほど惹かれたのか、1ミリでいいからわかりたい、という気持ちの方が少し強い。ので、色々なアプローチでその作業をしていきたいと思ってます。

「AV女優の社会学」のようなストレートな論文アプローチが届く箇所もあれば、ひたすら空気感を再現しようとした「身体を売ったら〜」が届くこともあると幾ばくかは信じます。「愛と子宮〜」「おじさんメモリアル」のように親や客なの女の子の内面以外の周縁から攻めるのも私としては面白い作業です。

もちろん、ヤクザ的なものに騙されただけ、と言ってしまえる部分もありますが、それだけで自分がピンとくるほど説明できないところがまだある、というのが一つの執筆動機であるわけです。最初の撮影の次の月に、事務所の二階で手渡された90万円の封筒の重みは何の重みだったのか。

その答えは毎秒変わります。可愛いから100万円もらえると思った時期も、勇気があるから100万円もらえると思った時期も、一生「元AV女優」としてしか生きるのを許されないことに払われたとも、親を傷つける代償と思った時も、彼氏に殴られることへの100万円だったと思ったこともあります。

少なくとも、私は私があの日に事務所の二階で桃の天然水のペットボトルを灰皿にしながら片手で100万円受け取ったことで、今、自分を愛してくれたり自分が傷つけたくないと思ったりする相手に、嫌な思いをさせたり恥ずかしい思いをさせたり悩ませたりするかもしれないという事実と共に生きています。

その事実は忘れた瞬間に思い出されるし、常に思っているようでしょっちゅう忘れてますが、そういったことへの責任として気づいたことは書き留め、書くことでまた考えることはやめないでいようと思ってます。私が今いる場所は、当初の能天気な私が想像していたよりも厳しいけれど、意外と幸せだし、

自分の記憶を起点にして何か言葉を探していく人生は、それほど辛いことではありません。 今の所、AV出たいんです、と相談してくる後輩たちに対して、それを引き止める言葉を私は持っていません。10年後の彼氏に、ごめんねって言いながら出なね、くらいは言えるけど。

 

 

「身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論」鈴木涼美 

「おじさんメモリアル」(鈴木涼美)が結構面白かったので、続いて、幻冬舎文庫「身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論」を読んでみた。下に予告編のリンクを貼ったが、こちらは、2017年7月に映画化もされている。主は、ずいぶん、宣伝に貢献しているなと思う・・・(*注:正直に告白すると、この本は途中で嫌になったので半分程度しか読んでいない。しっかり読むと意味が違ってくるかもしれません!)

こちら、本の方

例によってアマゾンの要約を紹介しよう。

【内容紹介】
もしもかつて自分が体を売っていたことが彼氏にばれたら、そのとき彼氏はどうなる? 「お乳は生きるための筋肉」と語る夜のおねえさんの超恋愛論
Fカップ。両親とも大学教員、実家は鎌倉、絵に描いたようなお嬢様。慶応SFCから東京大学大学院を卒業後、日本を代表する新聞社で働いてもみた。その他もろもろの経験も豊富すぎるほど豊富、収入もまあまあある。でもでもでも、全然幸せじゃない! なぜ? 恋で得たものと、恋で失ったものをひとつずつあげていけば、確実に後者が前者を凌駕する。まわりの夜のおねえさん方(水商売をやる女性)や昼のおねえさん方(OLとか)を見渡せば、不思議とそんな方々ばかり。みんな恋愛でほんとうに幸せになれるのか。本当の幸せって何? オカネで買えない幸せなんかあるのか? 気鋭の社会学者が、考えつくありとあらゆることをやりまくって、女の幸せを考えた尽くした超恋愛論! !

【内容(「BOOK」データベースより)】
おカネで買えない愛はほしい。でもそんな退屈なものだけじゃ、満たされない。話題の書『「AV女優」の社会学』著者が赤裸々かつ健気に語る、ワタシたちの幸せの話。

【ここから主のコメント】

 アマゾンのコピーを読んでいると、社会学者の元AV嬢が超恋愛論を語っているように書かれているが、主の受け取り方は違った。

 「おじさんメモリアル」は、お金を出して女の娘を買う男の悲哀、おかしさが読んでいて面白かったのだが、学歴(一般常識や世間知)とAV(セックス、ホスト、性的刺激)の対立軸で考えた時に、AVの方が強く、彼女はそちらにからめとられただけではないかと感じる。

 たしかに、女性が普通に生きて一人の男と生活を共にして、つつがなく人生を終わることに、物足りなさがあることはわかる。15歳の高校生の時に、刺激的なブルセラ売りで、パンツを見知らぬ男に何度も売ったことを手始めに、キャバ嬢、AV嬢、風俗嬢として高収入を稼ぎながら、ホスト通いの生活にハマっていく。一方で、日経新聞の記者をやり、社会学者を名乗り、やがて2014年10月「週刊文春」に日本経済新聞記者の鈴木涼美(当時30才)が芸名・佐藤るりのAV嬢だとすっぱ抜かれる。彼女は、世間の厳しい目にさらされ、「十分に罰を受けた」と感じながら、年齢的なものもあるのだろう、文筆業へと転換し成功する。

 だが、主が感じるのは、人間は弱い存在であり、頭(理性)を保ちながら、AV嬢になったり、ホスト狂いしたりはできないということだ。特に20歳未満ではそうではないか。セックスの手練手管がうまいのは、AV男優、ホスト、ヤクザが浮かぶ。AV出演に支払われる対価は、基本的に、魂を男優に奪われたふりをすることか、実際に奪われた姿を撮影されるところにある。キャバ嬢・風俗嬢として男たちから得た収入や、多額のAV出演料は、よくある話のように、ブランド品の購入と、シャンパンタワーの泡となってホストに貢いで消える。ホストは、「夜の世界」に生きる嬢にとって不特定多数の男に体を開いた空虚感や屈辱を、はたまた、お金で埋めてくれる存在ではないのか。無目的に贅沢な生活をしていると言えばずいぶん聞こえがいいが、実際はヤクザに性的にからめとられたのと同様に、AVビデオへに何度も出演するように都合よくマインドコントロールされたオンナに過ぎないのではないか。

 書いている内容が、ストレートで刺激的だが、社会学的なところはほとんどない。これは売らんかなのエッセーであり、論文は違うのかもしれないが・・。この本の帯に書いてあるのだが、言っていることを要すれば、ブランド品で身を包みたい、退屈はイヤ、「お金をもらって愛され、お金を払って愛する夜の世界へ出ていかずにいられない」、AV出演が親バレ、会社バレ、学校バレして、身が引き裂かれてしまったというところでしかないのではないか。

 AV出演がバッシングされるのは、昨今の不倫騒動と同じ根っこだろう。不倫はそこら中に存在するが、公認すると社会のレーゾンデートルが崩れる。もし、AV出演がすべての女性に推奨される事態となれば、社会規範は転覆し、やはりこれを許すわけにはいかないだろう。どちらの背景にも「快楽」が横たわっており、外野席の人たちの妬み、嫉み、嫉妬は異常に大きい。バッシングが、激しくなるのは当然だろう。

 要は、東大院卒とか日経新聞記者だった過去はあるものの、AV男優、ホストの性的な魅力に屈し、その快楽が平凡な日常より楽しいという話の域を出ていない。たまたま、高学歴だったのでその話が売れただけではないか。当然と言われそうだが、日常生活と性的な快楽を比べた善悪の問題ではなさそうだ。(どんな華々しい恋愛でスタートしても、確かに平凡な日常生活が3年すれば色褪せる宿命は不可避だが・・)鈴木涼美は、才色兼備で金銭的に恵まれている。しかし現実は、彼女のように恵まれないで夜の世界に生きる嬢たちの方が多いし、こちらの方が問題なのではないかと思う。

おしまい

 

ブラジル ボアッチ(出会い系バー)の話

————-2022.8.24追記しました————

第2弾は、ボアッチ(出会い系バー)の話。

いきなり最近の政治ネタになってしまうが、獣医学部設置をめぐる加計特区問題で、文部省の前川前事務次官が出会い系バーに出入りしていたと、読売新聞が報道し、ソースが官邸のリークだと他のマスコミが叩き、三面記事的な話題なこともあり、菅官房長官も入って両サイドから盛大に報道された。

出会い系バーは、ボアッチの日本版だと考えてもらえばよい。とうとう日本も、ブラジル化したもんだと思った。ブラジルの方は少し明るいかもしれない。下は、ググったら出てきた前川前事務次官が行ったという、出会いバーの紹介ムービー(YOU TUBE)だ。

出会い系バーもボアッチも、女性のところへ客の男性が行き、交渉次第でお持ち帰りができるというところは一緒だ。下の写真の1枚目は、ボアッチの感じが出ている。ソファが並べられ、派手な照明とロックなどのうるさい音楽が大音響で流れている。繁盛する時間帯になると、下の写真のようになる。入場料は女性無料、男性5000円くらいか。(昔の話なので、今は違うかもしれない)銀座や大阪・北新地のクラブのように専属の女性がいて、ママやホステスが話し上手で接待するというシステムではない。キャバクラ同様、女の子が客にドリンクをおごってくれとか言ってくる。ブラジル人はこだわりがないので、断っても何の問題もない。

昔は、南米の美人が多い国を、ABCとか、3Cとか表現した。ABCは、アルゼンチン、ブラジル、チリに美人が多いという意味で、3Cというのは、チリ、コスタリカ、コロンビアだと思う。間違っているかもしれないが、ブラジルを除いて、これらの国はみな、欧米が出自の国の女性たちだろうと思う。

主は、これらの国でブラジル以外で行ったことのあるのはアルゼンチンだけだ。だが、アルゼンチン女性は、日本人のことを黄色の洗濯屋くらいに考えており、おそらく、黄色人種は一段下に見られている。(洗濯屋さん、すみませんm(__)m)その点、ブラジルは混血が進んでいることもあって、多民族、多人種なため、日本人に対してもフレンドリー、むしろ、日系移民のこれまでの貢献により、明らかにリスペクトしてくれる。

主が説明するのは難しいが、何故、ブラジルに混血が多いのか。その混血のせいで、人種へのこだわりが少ないように思える。聞いたところだが、遥か昔、アフリカからつれて来られた奴隷を乳母にしたり、子供の面倒を見させたりして、欧米系の子供たちが黒人を身近に感じて育ち、偏見を持たずに育ったからだという。結果、混血の比率が非常に多い。(外務省のHPによると、欧米系48%、混血43%、アフリカ系8%、東洋系1%、先住民0.4%とある)

ポルトガル人がブラジルを植民地にしようと先住民と戦った16世紀、先住民を奴隷にし、先住民同士を戦わせようとしたのだが、彼らは奴隷にされ、いくら酷い仕打ちをされても働こうとしなかったという。それで仕方なく、黒人奴隷をわざわざアフリカから連れてきたとのことだ。

主が好きな文化人類学者のジャレド・ダイヤモンド*の著作「銃・病原菌・鉄」のなかに、南米の先住民たちは、欧米人が持ち込んだチフス、ペストなどの病原菌に対し、免疫が全くないためバタバタ死んだとか、欧米人の銃に打倒され根絶やしにされたとか書かれている。結局、ブラジルの場合、先住民はほとんど絶滅に近く、アマゾンの奥地くらいにしか生き延びることができなかった。

* ジャレド・ダイアモンドは進化生物学、生物地理学等の幅広い知見を持つアメリカ人で、UCLAの教授。著作の「銃・病原菌・鉄」「文明の崩壊」などオススメだ。パプア・ニューギニアでもフィールドワークをしている。壮大なスケールで「人間とは何か」を問い続ける。彼のおかげで、主のぼんやりしていた文明観がかなりはっきりしたと本人は思っている。

泣ける映画だ。(アマゾンから)

前にも書いたが、ブラジルは格差が大きく、お金に困っている人が多い。男が体を売るケースは少ないが、女性は簡単で多い。金に恵まれない男に多い職業で、最初に思いつくのは靴磨きだ。客の靴を乗せる台を肩に担ぎながら、酒場などを回って客の靴を磨く。主が愛するブラジル映画「フランシスコの二人の息子」は、貧乏な息子たちが、苦労しながらセルタネージョ(カントリーミュージック)で大成功を収めるサクセスストーリーだが、子供時代の主人公は、学校へ通いながら靴磨きをしていた。ブラジル映画なかなか、いいっす! 切ないっす!

ブラジリア当時唯一のゴルフ場と湖に架かる自慢の斜張橋。センスの良さが窺える

主がプレーしたゴルフ場のキャディーも、金に恵まれない男の職業だろう。主のキャディーをよくしてくれた男は、「公務員試験を受けるが、倍率が凄いんだ。会場の周りに何百人も受験者がいるんだ」と言っていた。明るい顔をしているがみんな大変なのだ。

最初に戻って、ボアッチネタに戻りたい。主が日本から赴任する直前、周囲のブラジル通からボアッチのことを教えてもらった。現地へ行き、タウン誌に書かれていた広告を見つけ、期待をふくらませながら実際に行ってみた。だが、お店が回転してしばらくすると、どうもカップルがソファなどで抱き合ったりキスしたりしているのだが、男同士に見える。目を凝らすと、男同士だった。店員に確認したら、やっぱり、ここはホモセクシュアル専用のボアッチだった! とほほ(涙)ブラジルは広い!

VICTORIA HAUSという名のLGBT向けのボアッチ

そういう失敗を重ねて、やがて、ブラジリアにも何件も普通の、今風に言えばストレート向けのボアッチがあるのが分かった。どうやら、ブラジルという国どんな小さな田舎でもボアッチはあるらしい。店の扉のところには、屈強な大男がガードしており、(たいていは警官OBらしい)、中には女性たちがいる。男は入場料がいるのだが、女性は無料だ。ブラジル人たちは、お酒を飲みながら何を話しているんだか、ゆったりとだべっている。もう記憶が定かではないが、彼女たちを連れ出すときにお店に料金を別に払うシステムだったと思う。

下記のリンクにボアッチ噺の続編を書きましたので、よろしければご覧ください。

ブラジル ボアッチの話 その2

おしまい

映画「沈黙」 / 監督:スコセッシ 原作:遠藤周作

遠藤周作(1923-1996)は、1966年に小説「沈黙」を発表している。これをアカデミー賞を受賞したことのあるマーティン・スコセッシ監督が長い年月を経て映画にした。

遠藤周作は、主が若いころ「狐狸庵先生」という名前でインスタントコーヒーのコマーシャルなどに登場しており、読んだことはなかったが飄々とした雰囲気に親近感を抱いていた。しかし、この作品はWIKIPEDIAにはノーベル文学賞をとるかというところまでいったと書かれている。

映画の様子は下の予告編にも出てくるので、あっさりネタバレしてしまうと次のようなものだ。

キリスト教が禁止されていた江戸時代初期、ポルトガルから派遣された宣教師が日本で棄教したらしいことが伝わってくる。ポルトガルから二人の若い宣教師が布教と、先に送られた宣教師が本当に棄教してしまったのか真偽を確かめるために日本へ送り込まれる。日本にその二人の宣教師が来ると、村人は隠れキリシタンとなり弾圧を逃れながらも、信仰を捨てず暮らしていた。幕府(長崎奉行)は、当然のようにキリシタンを弾圧し、拷問や見せしめの処刑により彼らの信仰を根絶やしにしようとする。

宣教師は、隠れキリシタンの村人や自分が、こんなに厳しい仕打ちをされていることに対し、「なぜ、神は沈黙しているのか」と問い続ける。しかし、神が答えることはない。

村人が隠れキリシタンとなり、それに対して厳しい処分をすればするほど、村人の中には殉教、殉死こそすれ、信仰がかえって強まることに幕府は危惧するようになる。キリスト教をなくすためには、隠れキリシタンを殺すことではなく、宣教師(パードレ)自身を転ばせ、棄教させることが、村人の信仰心を捨てさせるのに効果的であると幕府の役人は考えた。このため宣教師を捉え、目の前で村人を拷問し、「お前ひとりが棄教すれば、大勢の村人は救ってやる」と幕府は条件を出す。

村人が拷問され、村人を救うためには自分が信仰をすてることしか、方法がとうとうなくなる。彼がキリストの踏み絵をするとき、彼の耳にキリストの声が聞こえる。「私を踏め。私もお前と同じように苦しんでいるのだ」という声が聞こえる。

この映画を観終わって思ったのだが、この話は信仰という人間の根幹に係るものかもしれないが、普段の生活の人間関係の中にあり、自分の気持ちにこだわり過ぎてはならないのだ、むしろ、相手の気持ちを尊重することのほうが、全体として大事な場合があると感じた。

確かに「信仰」というものは大事かもしれない。だが、時と場合で譲歩することの方が大事な場合もある。ましてや、日常生活の些末ないざこざでは、自己中心的な拘りか、それとも、譲ることのできない本当に大事なことかよくよく考えなくてはならない。たいていの場合は、相手に譲歩することがお互いのためになるような気がする。——– そんな風に思った。

映画は、淡々と進む。拷問があったり処刑されたり暗いのだが、そのような場面は霧(山の噴火の煙)でぼかされていたり、むごたらしい描写は最低限にして、観る者に必要以上の心理的な負担は起こらない。

村は貧しく切ないのだが、むしろ、奉行所のある長崎は賑やかで、人々の身なりも裕福に描かれている。幕府の役人に狂気や残虐性のようなものはなく、奉行と囚われた宣教師の会話も論理的な楽しさがある。スコセッシ監督の演出には、日本に対する敬意が感じられる。

奉行のイッセー尾形の演技が特に秀逸だ。窪塚洋介、浅野忠信もうまい。おそらく原作がそうなのだろうが、会話が抽象的ではなく、先にも書いたが論理的・具体的であり、どのセリフにも説得力がある。

遠藤周作の「沈黙」に対し、ローマ教会を含め賛否が渦巻いたというのはそうだろうと思った。

 

グールドが100回見たという「砂の女」(阿部公房)

グールドが100回見たという映画「砂の女」を主が3回見た後で、阿部公房の原作「砂の女」を読んだ。忘れないうちに、ブログに書いておこう。

小説「砂の女」のあらすじは次のようなものだ。

同僚との関係に倦み、家庭にも倦んだ大学で昆虫を研究する教師が、行方も告げずに、真夏の砂丘へと昆虫採集に出かける。シュールなのだが、そこで、村人に騙され囚われの身となる。宿と言われた海辺の家は、砂を20メートルほどの穴を掘った底にあった。その家は防風林の役割を果たしていおり、家が壊れないよう落ちて来る砂を毎晩砂かきをして、砂を外へ出さなければならない。その男はそこで囚われてしまうのだ。その家には、女が独りで住んでいた。男はありとあらゆる方法で脱出しようと試みるのだが、蟻地獄のような砂の底の家から脱出することができない。外界から全く遮断された生活。砂の底の家から外の景色をも見ることができない生活。やがて、男は脱出することをあきらめ、男と女は交わるようになり、砂かきに協力するようになる。8か月たったころ、女は子宮外妊娠による激しい腹痛をおこし、村人に布団にくるまれモッコに乗せられ病院へ連れていかれる。縄梯子が残されたままになっており、男はその梯子を上り約1年ぶりに外の海の様子を見る。だが、「逃げるのはいつでもできる」と、穴の底へ戻っていく。その後、7年経ち、家庭裁判所が失踪者としての審判を下し、とうとう、その男が戻らなかったことが読者にわかる。

この小説で描かれているのは、誰もが求める自由とはどんなものなのかを考えさせるものだ。家庭と職場を行き来し、電車に乗り、新聞を読み、あれこれ批評する自由。それがいったいどういう価値のあるものなのか。男は自由を奪われ、囚われた男が言う『サルでもできる』砂かきを行う。空を見上げることができるだけだ。そうした中で、砂の下で毛細管現象により水が貯留する現象が起こることを発見するのだが、これを最初に報告するのにふさわしいのは、ここの村人たちだと考える。価値観が徐々に変わっていくさまがうまく表されている。

映画の方は1964年に公開され、カンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞している。主人公仁木順平を岡田英次、女を岸田今日子が演じており、いわゆる不条理劇なのだが、エロチシズムをはらみながらリアリティのある作品だ。原作の方も英訳が1964年に行われたのをはじめ、20数か国語に翻訳されている。

また、この映画の音楽は作曲家・武満徹が作っており、オリジナルな現代音楽で、場面にふさわしい、場面にすっかり溶け込んだ魅力に溢れている。グレン・グールドはこの映画を100回見て、プロットのすべてを理解したといわれるが、武満徹の音楽の素晴らしさもあったのは間違いない。

アマゾンのDVDのジャケット

砂の女

グレン・グールドの映画「ヒアアフター(時の向うへ)」で、次のように語るくだりがある。

「僕は刑務所の囚人になってみたい。もちろん潔白の身であることを条件にしてだ。なぜならアルコールの消費やすべての競争を拒む清教徒として、西洋では優越視されている自由の概念に僕は賛成できないから。ある運動が自由を得た時、しばしば無益な大騒ぎになり、社会から容認された言論の暴力に終結する。だから禁錮は自己の内部の可動性を測るのに適している。とはいえ、魂が自由に呼吸できるように、僕は看守にいくつか注文をつける:独房の壁の色は灰色に塗ること、煖房と換気のシステムは僕自身が調節できること。僕は気管支炎にかかりやすいから」

グールドは大衆が嫌いだといっている。アスペルガー症候群で他人の心が理解できなかったのかもしれない。大勢でいると居心地が悪くなり、二人を好んだ。また、直接話すことより、電話で話す方が好きだった。芸術家の特権は、世俗と距離を置けることにあるとも言っている。

おそらく彼は大衆が好む『自由』は、無益な大騒ぎをするだけの値打ちしかなく、言論の暴力に向かうのみで、何も生み出していないと看破していたのではないか。逆説的だが、自由を奪われた時にこそ、どのような精神的活動ができるのかはっきりとわかると考えていたのだろう。

 

 

 

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