実のところ、グールドは、「草枕(三角の世界)」を自分のラジオ劇に書きなおしたいという彼自身のアイデアがあった。もし、ターニーが「草枕(Pillow of Grass)」を「三角の世界(Three-Cornered World)」へ変えることを決めたのであれば、グールドは他のタイトルを使うことを計画していた。彼が持つその本の表紙と彼が書いた37ページのノートの両方に、グールドは傑出している志保田の娘を描いた。誰もが無慈悲な早すぎる心臓発作が、芸術の天才たちの間のこのもっとも魅力的な衝突の世界を奪ったことを残念に思うだけだ。もし、グールドがさらに生きたとしたら、「三角の世界」が、カルトなクラシックと高い評価を受けている英語圏の世界の名声の状態を、打ち壊してしまっただろうと信じるに足るかなりの理由はある。END
このように、グールドがこの本に愛情を注いだことについて、3つの理由を考えてみた。
① 漱石は、非人情を重んじた芸術観を持っていた。現世は煩わしいことで満ちているが、これらから距離を置き、突き放した(=「非人情」)ところに芸術があり、芸術の尊さは、「人の世を長閑にし、人の心を豊かにする」「・・・して見ると、四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」というと考えていた。「則天去私」(小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きて行くこと。「則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。「去私」は私心を捨て去ること)との漱石晩年の思想は、グールドの芸術観に一致していた。
③ 西洋中心ではない価値観が読み取れる。西洋の詩などが中国の漢詩などと対比されながら語られるが、東洋の詩歌には、西洋の価値観を解脱、超越したものがあると読み取れる。西洋文化は「滑った転んだ」ことばかりを問題にするが、東洋の文化は、そうしたことを超越している場合が描かれているのではないかと読める。いつも世界の中心にいると考える西洋人(さらには今の日本人にも)には、これは目新しく感じられるだろう。
アラン・ターニーは、不人情を “inhuman” との単語を使い、非人情は、”non-human” 、”detachment”、さらには “objective way” 、 “detached manner”と使い分けながら訳している。次のような具合である。「もし世界に非人情な読み方があるとすれば正にこれである。聴く女も固より非人情で聴いている」→ “If there is such a thing as an objective way of reading, then mine was certainly it.The woman too seemed to be listening in a completely detached manner. “ 何通りもの言い方をしているために、英語になっても理解しやすいのではないか。 また、「憐れ」は “compassion”(同情、哀れみ)と訳している。
他方、メリディス・マッキンニー版は、不人情を “un-emotional”、非人情を “non-emotional” で通している。「もし世界に非人情な読み方があるとすれば正にこれである。聴く女も固より非人情で聴いている」は、”If there were ever a “nonemotional” way of reading, this is it, and she too, of course, will be hearing it with a “nonemotional” ear.” と訳している。 なお、「憐れ」は “pitying love”(同情する恋心?)と訳している。