文芸批評もガラパゴス? 夏目漱石研究者 ダミアン・フラナガン その1

グレン・グールドオタクの親爺は、グールドの人生観や芸術観を知りたいとずっと思ってきた。 というのは、グールドは子供のときから「結婚はしない」と発言したり、「最後の清教徒」と自称したりする人間だった。これがどこまで本気なのか、目くらましの韜晦だったのかを知りたかったわけだ。 同時に、彼が生きた時代は、第二次大戦前の宗教を含めた古い価値観から、1950年代以降の自由奔放で新しい価値観への転換期であり、その価値観の中に、性(セックス)が大きな柱だったのは間違いがない。そして、芸術観についてもプレスリーや、ビートルズ、ロックミュージックなどたくさんのポップミュージックが登場する時代で、グールドはクラシック音楽の芸術性をどう考えるか悩んでいたはずだ。

ダミアン・フラナガンさん 毎日新聞から

そうしたグールドは、夏目漱石の「草枕」を知り、その小説の虜になる。その小説は、世界の芸術を比較考察しながら、どんな芸術が価値があるか、どんな芸術は価値がないのか考えるもので、芸術と向き合う芸術家の心構えをも考察していた。

親爺は、日本人なので、「草枕」を新仮名遣いの日本語で読んでみた。この「草枕」は、日本だけではなく、西洋と中国の芸術に対する夏目漱石の博覧強記ぶりを強烈に示しており、親爺のような凡人が全てを十全に理解するのは難しい。 ただ、何度かこの小説を読むうち、だいたい夏目漱石が言わんとすることが分かってきたような気がする。

他方グールドが読んだ「草枕」は、当然英訳本ということになる。いくつかの解説書などを読むと、日本語版より、英訳版の方がずっと理解しやすいと言われる。つまり、漱石の格調高いが、難解な古語や漢語が平たくわかりやすく表現されているからだ。

親爺は、2種類の「草枕」の英語版を手に取ってみた。英訳を最初にしたのは、アラン・ターニー(1938-2006)版なのだが、KINDLE版には、メリディス・マッキンリーという翻訳者もいる。

アラン・ターニーが翻訳したペーパーバック版は、新装(2011)されており、この本の冒頭に40ページ弱にもわたる非常に充実した内容のイントロダクションが掲載されている。これを書いたのが、ダミアン・フラナガン(1969-)さんという人物だった。

このダミアン・フラナガンは、イギリス人の日本文学研究者なのだが、夏目漱石を読んで感動し、はるばる日本へやって来て日本語で博士号をとり、日英両語で漱石をはじめとする日本文学の研究成果を出版している。

彼は、当然ながらイギリス人であり、縁もゆかりもない日本語をゼロから勉強し、それも古語と言っても良い明治時代の日本語を勉強して、その研究成果を日本語で論文にする労力は、並大抵ではなかっただろう。

その彼の書く日本語の評論は、はるかに他の日本人の書いた評論より、内容の密度が高く、説得力のあるものだ。しかし、日本人の国文学者先生たちのうけは必ずしも良くなかったようだ。

というのは、彼の夏目漱石観は、他の日本人評論家の漱石観とはずいぶん違っており、日本では夏目漱石が、芥川龍之介と並んで国文学を代表する作家であると紹介されているが、それはまったく間違いだと彼は言う。

つまり、明治時代に西洋文明にキャッチアップしようとした知識人である夏目漱石という個人が、個を確立するために苦悩した物語と捉えられることが日本では一般的だが、これは間違いで、夏目漱石は、シェイクスピアに勝るとも劣らない普遍的なテーマを扱った世界的大作家だと言う。

親爺は、日本の文芸批評には詳しくないのだが、このフラナガンの夏目漱石論は日本の文壇でどうやら、完全に賛同を得られているわけではなさそうで、なぜこれだけ説得力のある文芸批評が受け入れられないのか、そこにはやはりガラパゴス化した日本の閉鎖性があるのではないかとつい思ってしまう。

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彼が、日本文学を研究するようになった経緯を紹介する。ケンブリッジ大学に在籍していたフラナガンは、19歳の時、大学の図書館にある翻訳された夏目漱石を読み漁る。「吾輩は猫である」「それから」「彼岸過迄」「坑夫」「それから」「門」「草枕」「三四郎」「坊ちゃん」「行人」「明暗」を読む。彼が言うには、夏目漱石の着眼点に感心したという。

そもそも、彼は17歳の時に、自然科学を学ぼうとケンブリッジ大学に合格、在籍していた。しかし、体験就職と世界各地の旅行を経て、このまま自然科学を学んでも「工場」で実験する日々が続くに過ぎないと思い、専攻を変え、東洋学部日本語学科へ転入する。

それが縁で、日本への旅行と国際基督教大学で1学期を過ごし、東京から京都への自転車旅行などをするうち、生涯を文学の研究に身をささげようと決心する。英国に戻った彼は、まず英文学を専攻するためにケンブリッジ大学へ舞い戻る。今度はここで、ギリシャ悲劇、サルトル、ジョージ・エリオット、ジョセフ・コンラッド、ジョイス、メルヴィル、シェイクスピア、オーデン、英文学ではないが、ドストエフスキー、トーマス・マン、スタンダールなどを読み漁る。

こうして彼は、英国で正統派の英「文学」を学ぶのだが、英「文学」がピンと来ない。むしろ、夏目漱石の方がピンとくる自分に気づく。

こうして世界の文学と夏目漱石の両方を読みふけるフラナガンは、漱石の背後にニーチェの影響があることを確信する。フラナガンは、この夏目漱石がシェイクスピア以上の文豪だと確信し、再来日し、今度は日本語の勉強から始め、神戸大学で夏目漱石を研究し、文学の博士号をとった。 これが大体の経緯である。

次回は、そのフラナガンの夏目漱石観について具体的に触れたい。

その1 おしまい

グレン・グールド 夏目漱石「草枕」と出会った経緯など

グレン・グールドは、「草枕」を読んでその芸術観につよく共感する。その経緯を、漱石研究者であるダミアン・フラナガン(Damian Flanagan)が、アラン・ターニーの翻訳による”The Three-Cornered World(草枕)”のペーパーバックの再版のイントロダクションで詳しく書いている。

ダミアン・フラナガンは、イギリス生まれの夏目漱石研究者で、日本とイギリスを往来しながら、日本語、英語の双方で著作や評論を発表されている。彼の書いた評論は、日本人研究者よりよほど核心をついていて、読んでいて納得がいく。非常にお勧めである。

そのダミアン・フラナガンが書いたイントロダクションのうち、グールドが出てくる段落を、拙いが、主が翻訳したものを最後に書いてみた。もし、目を通してもらえると有り難い。

また、そのイントロダクションと重複する部分があるのだが、ざっとした経緯を主も書いてみた。

1967年、35歳のグールドは、すでにコンサートの世界から身を引き、コンサートを開かなくなっていた。

休暇を過ごしたノヴァ・スコシア州アンティゴニッシュ(カナダの最東部にあり、トロントから約2000キロ離れている。)からトロントへもどる列車で、化学の大学教授のウィリアム・フォレイが、グールドが同じ列車に乗っていることに気づき、思い切って話しかける。二人は意気投合し、グールドは別れ際に、前年5月に「音の魔術師」と評される巨匠、ストコフスキー(1882-1977)と録音したばかりのベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番のレコードをプレゼントする。フォレイは、この日話題に上った「草枕(三角の世界)」を返礼として送った。

GoogleMapから 赤丸がアンチゴニッシュ
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番のレコードジャケット

グールドのお気に入りの本は、トーマス・マンの「魔の山」だった。しかし、アラン・ターニーの翻訳による、”The Three-Cornered World”(三角の世界・「草枕」)を読んでからは、今や彼が愛情を注ぐ本は、「三角の世界・「草枕」」が完全にとって代わった。

夏目漱石が「草枕」を発表したのが、1906年、アラン・ターニーが、27歳の1964年に、”The Three-Cornered World”というタイトルで「草枕」を翻訳した(刊行は1965年)。アラン・ターニー(1938-2006)は、1978年にロンドン大学で日本文学博士号取得、ICU(国際基督教大学)や清泉女子大学教授を務めた人である。

ちなみに、「草枕」の翻訳は、アラン・ターニー版だけではなく、何種類か出ている。夏目漱石の原作は、日本語で読むと、漢語や仏教用語がふんだんに使われ、多くの和歌や俳句、英詩やヨーロッパ文学者への批評も同時に出てきて、漱石の小説の中でももっとも難解で、漱石の知識の深さ広さに圧倒される。注釈を対照しながら読むのだが、腰を落ち着けてそれでも分からない単語をGoogleで調べて読まないと、しっかり理解できない。逆に、英訳のほうが、分かりやすく読み易いという。

グールドは、この本を知った後、従妹のジェシー・グレイグに二晩かけて、電話でこの本全部を朗読して聞かせたという。また、死の前年になるが、1981年に15分間のラジオの朗読番組で、第1章を抜粋して朗読した。この番組の冒頭で、グールドは次のように解説している。「・・・草枕は、いろいろな要素を含んでいますが、とくに思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観といった対立や、『モダニズム』のはらむ危険をあつかっています。私が思うに、これは二十世紀小説の最高傑作のひとつです・・・」と。

さらに、死の直前は「草枕」を使ったドラマ番組を作ろうとしており、死の床には聖書と「草枕」が残されていたという。

この小説を、漱石は脱稿するまで、わずか2週間で書いたというから驚くが、漱石(主人公)の芸術観と、主人公の絵描きの旅行先での出来事(ストーリー)が交互に語られるという珍しいスタイルで作られている。

下の絵は、「草枕」に出てくるシェイクスピアのハムレットの登場人物オフィーリアが、川で溺れる直前、歌を口ずさみながら死にゆく情景を描いたもので、漱石はこの絵を批判的に描写している。

Wikipediaから

主が手にしている、アランターニーによる”The Three-Cornered World”のペーパーバックは、2011年発行のもので、《序論》を書き加えたダミアン・フラナガン(Damian Flanagan)の「天才から天才へ」という段落を引用する。二人の天才というのは、もちろん、夏目漱石とグレン・グールドである。もし誤訳があれば、ご海容願いたい。

(以下の日本語訳文は、以前に書いたブログを改めたものです。)

序論の抜粋《天才から天才へ》(ダミアン・フラナガン)

草枕が、全員が同じく平等だという現代風の考えによって、大いに哄笑される理由となる落日の列車に乗っていると考えると、十分に皮肉なことだが、漱石の折衷的(和洋折衷的であり、過去と現代の折衷的)な傑作に精通したいと考える、おそらく、その小説を西洋でもっとも熱烈に評価する偉大な人物が、その列車に乗っていた。さらには、この熱烈な評価者は、芸術形式と音楽の第一人者であり、その小説のナレーターの音楽の第一人者は、ー おそらくは、すべての他のものの上位にあるこの芸術という形態が、穏やかな超越状態にもっとも到達できると躊躇なく認めるとはいうものの ー (「草枕」のバックボーンを)からきし何も知らないと認めている。

1967年、その世界的に有名なピアニスト、グレングールド(1932-1982)は、ノヴァ・スコシア州のアンティゴニッシュでの休暇から戻る列車旅行をしていた。グールドは22歳で彼の革命的なバッハのゴールドベルグ変奏曲の解釈で名声を獲得し、9年間の間、世界のコンサートホールをピアノ演奏の異端的なスタイルで聴衆を目も眩むような思いにさせてきた。レーナード・バーンスタインのようなクラシック音楽界の巨人たちは、ちゅうちょなく彼を天才と認めた。

グールドは、行動においてだけではなく、思想においても完全に独創的だった。彼は、ショパンとモーツアルトの多くの作品をあざ笑い、モーツアルトが、そのオーストリア人が手早い称賛のために、本質をいつも犠牲にする単に派手で「ぼくを見て」的な子供でありながら、批評家からそのような尊敬を集めたことに驚かされると主張する。グールドは、(楽壇の)支配者層を無視し、彼自身の道を追求することが完全に心地よかった。彼は、彼自身を音楽家だけではなく一人のオールラウンドな創造的な芸術家と見なして、音楽の演奏同様、著述と記述された言葉で演じることに興味を抱いていた。クラシック音楽の世界の尊大さとうぬぼれを揶揄するために、彼は想像上の性格の過度さを生み出し、彼は興味を持っているテーマのラジオ放送に関心を向けた。

1967年に、グールドは列車のラウンジに一人座っている時に、聖フランシス・シャビア大学の化学の教授であるウィリアム・フォレイが気付く。彼は、グールドの音楽の録音物への称賛を表明する勇気を奮い起こし、会話に引き込んだ。二人の男は意気投合し、その会話で、フォレイは最近読んだ「草枕(三角の世界)」と呼ばれる魅力的な本に言及した。二人の男たちが別れる時、グールドは自身のベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」の演奏のレコードをフォレイにプレゼントし、そして、後にフォレイは、ピーター・オーウェン版の「草枕」をグールドに送ることで好意に報いた。

行き当たりばったりに出会った本が、それほどのインパクトを読者に与えるのはまれなことだ。「草枕」は、たんにグールドの好きな本になったというだけではなく、彼の人生の残りの15年間で夢中になりとり憑かれたものの一つになった。日本に特別な興味を持っているわけでもなく、その国を訪れたわけでもないのに、最後にはその本の版を4冊所有し、2冊が英語版で、驚くことには2冊はオリジナルの日本語版だった。彼は、他の小説家の手による本よりも多く、書店に並んでいる全ての漱石の売られている小説の翻訳を、購入したと思われる。彼の人生を通じて彼にもっとも近かった人物である、従妹のジェシー・グレイグに、彼は、「草枕」への愛を、電話口でその全部を二晩かけて読むことで表明した。

彼がフォレイから受け取った版に激しく注釈を書き込んだだけではなく(残念なことに、これと、その他の素材は1988年に行われたパリでのグールドの展覧会での運送で失われた)、グールドは実際に37ページの別のノートを小説として生み出した。彼は第1章を凝縮し、それを1981年11月にCBCラジオ「ブックタイム」で、15分のラジオ放送番組として朗読した。(同じ月に、彼は、26年の歳月を経て、ゴールドベルグ変奏曲を改めて解釈し直し再録音した)また、彼は、翌年の死の間際まで、「草枕」に基づくラジオ劇を書き、公演する準備をしていた。彼が亡くなった時に、たった2冊の本しか枕元になかった。1冊は聖書で、もう1冊は「草枕(三角の世界)」だった。

その「草枕(三角の世界)」が1965年に刊行されたとき、その若い翻訳者もその刊行者も、その文学史上の重要性の観点からなんの真の理解をしていなかった。当時のスタイルに適合させるために、その本のカバーは日本に言及されることはなく、上品で最小限主義の黒地に中心を外れた小さな円の絵があった。それは、ピンク・パンサーかゴールド・フィンガーの一連のタイトルと同種なものに見え、その小説は東洋的な作品の一つとして印をつけられ、その著者は世界中の主要な、あるいは主要でない才能の大勢のひとりとして、ひとくくりにされていた。

グールドにとって、それは本当に単純に20世紀のもっとも偉大な大作の一つだった。以前には、グールドのお気に入りの本はトーマス・マンの「魔の山」だったが、今や彼が愛情を注ぐもののなかで、これ「草枕(三角の世界)」が完全にとって代わっていた。実に、グールド自身が指摘したように、多くの親和性が二つの小説の中にあった。マンの小説もせかせか立ち回る資本主義の世界から、穏やかなアルプスの風景への後退を描いているが、漱石の小説のなかの大量殺戮(戦争)の引力同様、ここの若いヒーローのハンス・カストルプが世界大戦を逃れられない。

何がグールドの興味をそれほど漱石の小説が呼び起こしたのか。それは、彼にとって、ほとんど自分のためにだけに書かれた一つの小説がここにあったと思えることに違いない、あるいは、彼自身によるものかと思えるほどに、完全に彼の芸術的な信念を例示していた。グールドは、音楽と芸術が非常に感情主義になっていることに飽き飽きし、悪態をつき、それから自由になることを求めていた。すなわち、彼の願いは個人へ向かい、超越することと静穏さだった。さらに、グールド自身の(従来の観念から)超然としたクラシック音楽の再解釈よりも、漱石の芸術の区分ほど、主題物と単なる雰囲気を定義し明らかにするものはなかった。漱石はいかにすべてものが見られ、再び違って見られるか、聴かれ再び違うように聴かれるか、書かれ再び違うように書かれるかを示し、創造性と芸術は文化的なパースペクティヴと精神的な状態から生まれるだけではなく、たえず、再発明と再解釈されるものだと示した。

実のところ、グールドは、「草枕(三角の世界)」を自分のラジオ劇に書きなおしたいという彼自身のアイデアがあった。もし、ターニーが「草枕」を「三角の世界」へ変えることを決めたのであれば、グールドは他のタイトルを使うことを計画していた。彼が持つその本の表紙と彼が書いた37ページのノートの両方に、グールドは傑出している志保田の娘を描いた。誰もが無慈悲な早すぎる心臓発作が、芸術の天才たちの間のこのもっとも魅力的な衝突の世界を奪ったことを残念に思うだけだ。もし、グールドがさらに長生きしていれば、「三角の世界」が、「カルト・クラシック(少数ながら熱狂的なファンを獲得している過去の有名人)」という評価を打ち壊し、英語圏で受けるべきより高い世界の名声を獲得したと信じられる十分な理由はある。

Introduction by Damian Flanagan
“The Three-Cornered World” by Natsume Soseki Tlanslated by Alan Turney

次回のブログは、このダミアン・フラナガンさんの研究成果をもとにいろいろ書ければと思っている。

おしまい

夏目漱石「草枕」に傾倒したグールドの芸術観 その2

主の手元にグールドが愛好した、漱石の「草枕」のアラン・ターニーの英訳本があり、そのイントロダクションの部分にグールドが「草枕」を手にした経緯が書かれていた。かなり長いのだが、概ねこんなもんだろうという翻訳をした。

「草枕」By 夏目漱石 アラン・ターニー訳 イントロダクション(天才から天才へ)から
十分に皮肉なことに、「草枕」が、全員が同じ水準になるという近代の原動力を大いに哄笑しており、落日の列車に乗っていると考えられるが、その列車には、漱石の折衷的な大作に精通したいと願う、たぶんその小説をもっとも賞賛する西洋の熱烈なファンが乗っていた。さらには、この熱烈なファンは、芸術の形式と音楽の第一人者であり、その小説のナレーターは、- おそらくは、すべての人の上に位置する、この芸術という形態だけが、我々に穏やかで超越した状態を達成できるとためらいなくなく認める一方で -「草枕」についてからきし何も知らないことを認めている。
 1967年、その世界的に有名なピアニスト、グレングールド(1932-1982)は、ノヴァ・スコシア州のアンチゴアニッシュでの休暇から戻る列車旅行をしていた。グールドは22歳で彼の革命的なバッハのゴールドベルグ変奏曲の解釈で名声を獲得し、9年間の間、世界のコンサートホールをピアノ演奏の異端的なスタイルでまぶしく幻惑してきた。レーナード・バーンスタインのようなクラシック音楽界の巨人たちは、ちゅうちょなく彼を天才と認めた。
 グールドは、行動においてだけではなく、思想においても完全に独創的だった。彼は、ショパンとモーツアルトの多くの作品をあざ笑い、モーツアルトが、そのオーストリア人が手早い称賛のために本質をいつも犠牲にする単に派手で「ぼくを見て」的な子供でありながら、批評家からそのような尊敬を集めたことに驚かされると主張する。グールドは、その支配者層を無視し、彼自身の道を追求することが完全に心地よかった。彼は、彼自身を音楽家だけではなく一人のオールラウンドな創造的な芸術家と見なして、音楽の演奏同様、著述と記述された言葉を演じることに興味を抱いていた。尊大さとクラシック音楽の世界のうぬぼれを揶揄するために、彼は想像上の性格の過度さを創作し、彼は興味を持っているテーマのラジオ放送に注意を向けた。
 1967年に、グールドは列車のラウンジに一人座っている時に、聖フランシス・シャビア大学の化学の教授であるウィリアム・フォレイに見つかる。彼はグールドの音楽の録音物への彼の称賛を表明する勇気を奮い起こし、会話に引き込んだ。二人の男は、意気投合した話をし、その会話の間に、フォレイは最近読んだ「草枕(三角の世界)」と呼ばれる魅力的な本に言及した。二人の男たちが別れる時、グールドは自身のベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」の演奏のレコードをフォレイにプレゼントし、そして、後にフォレイは、ピーター・オーウェン版の「草枕」の版をグールドに送ることで好意に報いた。
 行き当たりばったり出会った本がそれほどのインパクトを読者に与えるのはまれなことだ。「草枕」は、たんにグールドの好きな本になったというだけではなく、彼の人生の残りの15年間で彼が夢中になりとり憑かれたものの一つになった。日本に特別な興味を持っているわけでもなく、その国を訪れたわけでもないのに、最後にはその本の版を4冊所有し、2冊が英語版で、驚くことには2冊はオリジナルの日本語版だった。彼は、他の小説家の手によるものよりも多く彼の書棚に並んでいる、漱石の売られている小説の全ての翻訳を購入したと思われる。彼の従妹のジェシー・グレイグ、彼の人生を通じて彼にもっとも近かった人物へ、彼は、「草枕」への愛を、電話口でその全部を二晩かけて読むことで表明した。
 彼がフォレイから受け取った版に激しく注釈を書き込んだだけではなく(残念なことに、これとその他の素材は1988年に行われたパリでのグールドの展覧会での運送で失われた)、グールドは実際に37ページの別のノートを小説として生み出した。彼は第1章を凝縮し、それを1981年11月にCBCラジオ「ブックタイム」で、15分のラジオ放送番組として朗読した。(同じ月に、彼は、26年の歳月を経て、ゴールドベルグ変奏曲を改めて解釈し直し再録音した)また、彼は、翌年の死の間際まで、「草枕」に基づくラジオ劇を書き、公演する準備をしていた。彼が亡くなった時に、たった2冊の本しか枕元になかった。1冊は聖書で、もう1冊は「草枕(三角の世界)」だった。
 その「草枕(三角の世界)」が1965年に刊行されたとき、その若い翻訳者もその刊行者も、その文学史上の重要性の観点からなんの真の理解をしていなかった。当時のスタイルに適合させるために、その本のカバーは日本に言及されることはなく、上品で最小限主義の黒地に中心を外れた小さな円の絵があった。それは、ピンクパンサーかゴールドフィンガーの一連のタイトルと同種なものに見え、その小説は東洋的な作品の一つとして印をつけられ、その著者は世界中の主要な、あるいは主要でない才能の大勢のひとりとして、ひとくくりにされていた。
 グールドにとって、それは本当に単純に20世紀のもっとも偉大な大作の一つだった。以前には、グールドのお気に入りの本はトーマス・マンの「魔の山」だったが、今や彼が愛情を注ぐもののなかで、これ「草枕(三角の世界)」が完全にとって代わっていた。実に、グールド自身が指摘したように、多くの親和性が二つの小説の中にあった。マンの小説もせかせか立ち回る資本主義の世界から、穏やかなアルプスの風景への後退を描いているが、漱石の小説のなかの大量殺戮の引力同様、ここの若いヒーローのハンス・カストープが世界大戦を逃れられない。
 何がグールドの興味をそれほど漱石の小説が呼び起こしたのか。それは、彼にとってほとんど彼のために書かれた一つの小説がここにあったと見えることに違いない、あるいは、彼によってでさえ、それほど完全に彼の芸術的な信念を例証していた。グールドは、音楽と芸術が非常に感情主義になっていることに飽き飽きし、悪態をつき、それから自由になることを求めていた。すなわち、彼の願いは個人へ向かい、超越することと静穏さだった。さらに、グールド自身の(従来の観念から)切り離したクラシック音楽の再解釈よりも、漱石の芸術の区分以上に、主題物と単なる雰囲気を定義するものはなかった。漱石はいかにすべてものが解釈され、ふたたび違う解釈をされるか、聴かれ再び違うように聴かれるか、書かれ再び違うように書かれるかを示し、創造性と芸術は文化的なパースペクティヴと精神的な状態から生まれるだけではなく、たえず、再発明と再解釈されるものだと示した。
 実のところ、グールドは、「草枕(三角の世界)」を自分のラジオ劇に書きなおしたいという彼自身のアイデアがあった。もし、ターニーが「草枕(Pillow of Grass)」を「三角の世界(Three-Cornered World)」へ変えることを決めたのであれば、グールドは他のタイトルを使うことを計画していた。彼が持つその本の表紙と彼が書いた37ページのノートの両方に、グールドは傑出している志保田の娘を描いた。誰もが無慈悲な早すぎる心臓発作が、芸術の天才たちの間のこのもっとも魅力的な衝突の世界を奪ったことを残念に思うだけだ。もし、グールドがさらに生きたとしたら、「三角の世界」が、カルトなクラシックと高い評価を受けている英語圏の世界の名声の状態を、打ち壊してしまっただろうと信じるに足るかなりの理由はある。END

このように、グールドがこの本に愛情を注いだことについて、3つの理由を考えてみた。

① 漱石は、非人情を重んじた芸術観を持っていた。現世は煩わしいことで満ちているが、これらから距離を置き、突き放した(=「非人情」)ところに芸術があり、芸術の尊さは、「人の世を長閑にし、人の心を豊かにする」「・・・して見ると、四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」というと考えていた。「則天去私」(小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きて行くこと。「則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。「去私」は私心を捨て去ること)との漱石晩年の思想は、グールドの芸術観に一致していた。

ところで、「非人情」を翻訳者のアラン・ターニーは”detachment”と訳しており、グールドも”detach”(切り離す、距離をおく)ということを重要視しており、奏法はデタシェ(フランス語の”detache”)で、ノンレガート、セミスタッカートな奏法を基本にしていた。グールドは、デタシェを用いることで、レガートが生み出す緊張を緩和させると考えていた。レガート奏法は、はクラシックの世界の感情重視の奏法であるが、これを嫌い、理性的な演奏をおこなった。もちろん、理性的とはいえ、むしろエクスタシーが溢れるロマンチックな演奏だったが、感情的ではなかった。

② この小説は、主人公である30歳ほどの画書きの目から見た、自然や西洋の詩、日本、中国の詩歌、彼の芸術観と、出戻りのヒロイン那美と取り巻きのストーリーが交互に語られるという構成になっている。漱石の知識の深さと見識に圧倒されるが、よく読んでみるととても奥深い。

主人公の画描きは、俳句や漢詩を作るばかりで、なかなかヒロインの絵を描くことができない。ヒロインは那美という魅力的な出戻りの女性で、画描きが書いた俳句を添削するほどの知性もあり、突如風呂に入って来て裸体をしめし、完璧な美貌を感じさせ、当時の女性らしからぬ強靭なところもあるのだが、「御那美さんの表情のうちには、この憐れの念が少しも現れておらぬ。そこが物足らぬ」といい、憐れを「憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情である」という。そのまま話は、最終盤へと進み、御那美さんが、満州の戦場へ志願兵として出兵する従弟の久一をステーションに送り、蒸気機関車が出発する時、三等列車に乗った離縁された前夫が窓から顔を出し、二人が顔を合わせる。御那美さんの顔に、憐れがそこで初めて浮かぶ。それを見て、絵描きの主人公が「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と那美さんの肩を叩きながら小声で言い、「余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである」と結ぶ。ここに至って、漱石が、非人情だけを重視したのではなく、同情や憐みの大事さも、最重視していたことが読みとれる。

③ 西洋中心ではない価値観が読み取れる。西洋の詩などが中国の漢詩などと対比されながら語られるが、東洋の詩歌には、西洋の価値観を解脱、超越したものがあると読み取れる。西洋文化は「滑った転んだ」ことばかりを問題にするが、東洋の文化は、そうしたことを超越している場合が描かれているのではないかと読める。いつも世界の中心にいると考える西洋人(さらには今の日本人にも)には、これは目新しく感じられるだろう。

最後に、この小説に出てくる「不人情」「非人情」と、「憐れ」という言葉を、アラン・ターニー版、キンドルのメリディス・マッキンニー版の二つで、どのような英単語を使っているのか調べてみよう。

アラン・ターニーは、不人情を “inhuman” との単語を使い、非人情は、”non-human” 、”detachment”、さらには “objective way” 、 “detached manner”と使い分けながら訳している。次のような具合である。「もし世界に非人情な読み方があるとすれば正にこれである。聴く女も固より非人情で聴いている」→ “If there is such a thing as an objective way of reading, then mine was certainly it.The woman too seemed to be listening in a completely detached manner. “ 何通りもの言い方をしているために、英語になっても理解しやすいのではないか。 また、「憐れ」は “compassion”(同情、哀れみ)と訳している。

他方、メリディス・マッキンニー版は、不人情を “un-emotional”、非人情を “non-emotional” で通している。「もし世界に非人情な読み方があるとすれば正にこれである。聴く女も固より非人情で聴いている」は、”If there were ever a “nonemotional” way of reading, this is it, and she too, of course, will be hearing it with a “nonemotional” ear.” と訳している。 なお、「憐れ」は “pitying love”(同情する恋心?)と訳している。

もちろんだが、他の文章をとってもいずれも翻訳者でかなり違っている。

おしまい

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