指揮カラヤン vs バーンスタイン グレン・グールド「ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番」聴き比べ

グレン・グールドは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番をバーンスタイン指揮、コロンビア交響楽団による正規録音(1959年5月、ニューヨークコロンビア30丁目スタジオ)の他に、カラヤンとベルリンフィル交響楽団とで1957年5月にライブ録音を残している。

その他にも、1955年の彼のデビュー作「バッハ・ゴルトベルグ変奏曲」の録音直前に、カナダのテレビ局CBCで放送されたハインツ・ウンガー指揮で行ったものもあるようだが、残念ながらこちらは聴いたことがない。

この3つを並べてみると、グールドの出世譚がよくわかる。すでにカナダ国内で人気があったものの、その人気は国内に限られていた彼は、1955年のゴルトベルグ変奏曲の録音が一躍ブレイク、ベストセラーとなり、一夜にして世界一流ピアニストの仲間入りを果たした。

世界中で、ハンサムな人気ピアニストとして、VOGE(ヴォーグ)などの女性誌でも人気沸騰、あっという間にスケジュールが奪い合いになり、1957年に最初のヨーロッパ演奏旅行に出る。この時、東西対立を続けていたソ連各地で演奏を行い、戦後ソ連で初めて公演を行った西側のピアニストとして、また、東西陣営の「雪解け」を象徴するものとして、大成功を収める。

ソ連の聴衆は、グールドの弾くポリフォニー(複数の旋律が独立した多声音楽)が明晰で、自然で理知的な解釈のバッハ、シェーンベルク、ウェーベルンなど初めて触れる西側の現代音楽を聴き、おおいにたまげる。

レニングラードで行われたコンサートでは収容人員の2倍の客が、通路にまで溢れ、バッハとベートーヴェンのピアノ協奏曲2曲の演奏後の休憩時間に、アンコールの拍手が鳴りやまず、とうとう指揮者スローヴァックは、その後に演奏を予定していた《リストの交響詩》の演奏を取りやめ「私は家に帰った方がよさそうだ。演奏会はグールドが終わりにしてくれるから。みんな最後の管弦楽曲など聴く気がないらしい。」と言い、舞台に再びピアノを運び込ませ、予定のなかったグールドは、帰り支度のコート姿のまま、ピアノ独奏の《アンコール・マラソン》で応えた。

そのソ連公演に引き続き、ドイツへ移動したグールドは、ベルリンで3晩連続で、この年49歳のカラヤンとこの曲を共演する。グールドわずか25歳、飛ぶ鳥落とす大御所のカラヤンとの共演である。

このカラヤンとの演奏、コロンビアの正規録音であるバーンスタインとの演奏の双方が、YUTUBEにあるのでうしろに貼り付けた。実際に聴いてもらえると嬉しい。

この2曲を聴き比べると、カラヤンとバーンスタイン(とグールド)の両者の考え方の違いがよくわかる。カラヤンは、この曲を、いかにも大曲、大袈裟、力強く豪勢に演奏するつもりだ。また彼は、グールドの意向を尊重するつもりは全然なく、「さあ、やってごらん!」という感じで、自分の主張を貫きとおしている。ただ、惜しいのは、この1957年のカラヤン版の録音は、ライブ録音であり、客の咳払いも入っているし、モノラル録音で状態があまり良くない。

この曲は、3楽章あり、勇壮で激しい第1楽章アレグロ・コンブリオ(陽気に速く)、ゆったりと美しい第2楽章ラルゴ、ゆったりとはじまりフィナーレで再び勇壮に盛り上がる第3楽章モルトアレグロ(非常に速く)。そのいずれでも、グールドはオーケストラの存在感に負けることなく、出すぎることもなく、美しいピアノの存在感をずっと保っている。

第1楽章はオーケストラの全奏(トッティ)が極めて男性的に演奏された後、グールドが入っていくのだが、グールドも最大限このオーケストラの演奏に合わせている。

グールドのピアノの弾き方は、普通、手首を指先より下において指の独立だけで弾くフィンガータッピングという弾き方をして、手全体を鍵盤に振り下ろす弾き方をしない。このため、フォルテッシモを出せないという批判があり、それがロマン派のチャイコフスキーやメンデルスゾーンを弾けないのだと言われることがある。(何千人も入る大ホールで演奏すると、どうしても爆発的な大音量を出し、有無を言わせず観客を黙らせたくなる心情は、良く分かる。)しかし、なかなかどうして、ベルリンフィルに負けず劣らず爆発するような音で弾いている。 こうして聴いてみると、グールドは爆発するようなデカい音を必要とする、ロマン派の協奏曲も恐ろしい表現力で弾けただろうと思えるし、楽しませてくれただろうと思うと非常に残念だ。

もちろん、グールドの良さは、そのような強烈なオーケストラに負けない大音量だけではなく、むしろ、ゆったりしたフレーズで気持ちのよりリズムを刻みながら、多声をはっきり区別しながら見事に歌うところにある。しかし、この曲の演奏では、最後の部分、オーケストラと一体となった見事なめちゃ盛り上がったフィナーレを聴かせる。カラヤンも十分に満足しただろう。(カラヤンもなかなか色っぽいですね。)

一方、バーンスタイン版。こちらはカラヤンのような強引な圧迫感がない。第1楽章はカラヤンよりゆっくり、抑え目で始まる。このように穏やかに初めの数小節が始まると、のちのちの展開も決めてしまい、冒頭で曲全体の印象が決まるのかもしれない。バーンスタイン版の方は、強引さがない。ある意味民主的。しかし、理知的で説得力があり美しい。何とも言えない切ない美しさがある。

このバーンスタインとグールドは、ブラームスのピアノ協奏曲第1番の演奏をめぐって、表現が適当だかわからないが、「衝突」したことがある。ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、流麗で豪華絢爛な曲として演奏されるのが一般的なのだが、グールドは第1楽章を極端にゆっくり演奏するとこで、交響曲全体が統一されたリズムで結ばれ、より一体感が生まれると主張した。そのような演奏は、田舎くさく牧歌的で、前代未聞であり、バーンスタインは承服できない。バーンスタインは、グールドの主張どおりの演奏をすることにしたのだが、観客を前にして、演奏前の舞台から一席ぶったのである。「指揮者とピアニスト、どちらがボスか?」「ぼくは、承服できないが、才能のあるグールドの言うことだからそれを信じて、そのように演奏します。みんなびっくりしないでね。・・・」まあ、そんな感じ。 この演奏は、音楽批評家たちからもさんざんに言われ、後にグールドがコンサートを開かなくなる要因の一つになったと言われている。

ただ、グールドの協奏曲の演奏全般を聴いていると、ヴィルトーゾたるピアニストが、オーケストラを向こうに彼らをねじ伏せる的な演奏を良しとしていなくて、ピアノ協奏曲をなるべく、ピアノ伴奏付きの交響曲のように弾きたい意思を持っているのは明らかだ。彼は、協奏曲に限らず、どんな曲でも、全体としてベストなものを聴かせたいと常に考えていた。 伝統的なピアノの名人芸はそのようなものでなく、男性と女性、正と邪、静と動、陰と陽などの二項対立を原動力にして、曲の推進力にする者が多いが、グールドはそうではなった。

恐るべきなのは、彼はベストな演奏をするために、作曲家が書いたスコアさえもベストでないと判断すると、修正して演奏したことである。よく、彼は「再作曲家」と言われるのだが、これが理由だ。普通、音楽家はスコアを読み込んで、スコアに忠実に絶対と考えた上で、楽器の特性はもちろん、時代背景なども調べて、作曲された時代を忠実に考えることが普通である。作曲家が書いた曲に不足があると考え、楽譜を改ざんするというのは、グールド以外もやっているのだろうか? 非難されこそすれ、手を加えているというのは聞いたことがない。

グールド研究者であるケヴィン・バザーナの「グレン・グールド演奏術」に、この曲の1楽章にあるベートーヴェンが書いたカデンツァ(協奏曲のなかで、ピアノが独奏する部分)にグールドは手を加えていると書かれている。

ケヴィン・バザーナ「グレン・グールド演奏術」から

上が、その本に出てくるグールドの弾いたカデンツァの一部分である。グールドは、原典になかった低音部のメロディを書き足して弾いているということだ。

ただし、カデンツァは作曲者が書いている場合もあるが、ピアニストが作曲する場合も多く、協奏曲の場合には、カデンツァは演奏者の技量だけでなく、音楽性も伺えるハイライト、お楽しみというべき部分で、部分的に改良してもさほど違和感はない。

しかし、ここにはグールドの感性が良く表れており、グールドは右手の旋律だけを重視するショパン弾きなどを「右手の天才」とか言ってバカにしており、右手だけで美しく弾く演奏は嫌いであり、他の旋律が隠れているとか、どの旋律も対等に扱われ、攻守が変わるような曲が好きだったのは間違いがない。

おしまい

グレン・グールド 楽譜の理解の仕方 & ベートーヴェンを弾く前

グールドに関する本を読めば読むほど、グールドって変わった音楽家だったんだと思う。グールドとグールド以外と言っていいくらいに、グールドは違っている。

彼は「再作曲家」と言われることがあるのだが、音高とリズムだけはおおむね守ったものの、それ以外は楽譜を重視しなかったようだ。「グレン・グールド演奏術」(ケヴィン・バザーナ著、サダコ・グエン訳、白水社)に書かれているのは、グールドが「印刷された楽譜のページに記載されたすべてのもの、つまり音符とそれを補足するための音楽用語や記号など、演奏するさい、作品の輪郭をはっきりさせるものすべて」をどのように演奏するかについて、演奏者の自由裁量に委ねられるべきと考えていた。主は、グールドが批判的に考えていたモーツアルトに限ったことだと思っていたが、バッハでも他の作曲家でもそうらしい。グールドは曲(楽譜)を絶対視せず、曲に改善の余地があると考えると積極的に手を加えていた。

そうした彼のエピソードを二つ紹介したい。
一つは音楽を学ぶ学生に向けて語ったもので、もう一つはまだコンサートを開いていた時分、ベートーヴェンのピアノコンチェルトを弾くにあたっての、彼の態度である。

ひとつめ。先に引用した「グレン・グールド演奏術」に、1964年トロントのロイヤル音楽院の卒業生のための講演や、1980年のインタビューで、「お互いの意見や演奏をききあうのは止めなさい」「自分でよく理解し、それなりの見解を持つ前に、あるいは自分の見解をもたずに、同輩の意見や演奏をきくことは、ピアノ演奏の伝統において継続してきた事柄を無反省に受け入れることになってしまうと思う。そして個人としての価値を強く主張するのが困難になるのは確かである」というグールドの発言を紹介している。

おなじく同書で、グールドは「心の耳」(the innner ear of the imagination)ということを言い、「これの『創造のための着想すべて』を生み出す『背景となる、計り知れないほど大きな可能性』の重要さを強調し、演奏者は、知識その他学習によって獲得したものに抑制されぬよう、そして新しい可能性を発見するために、常に現存しないもの、および潜在するものを意識しつづけなければならないと考えていた」と書いている。

バザーナは別のところでこうも言っている。「グールドは、演奏者はスコアに書かれたことに忠実でなければならぬという前提をいとも簡単に拒否したが、それは過去二世紀にわたるクラシック音楽の習慣を支配した価値を拒否したことになるのである」

ふたつめ。「グレン・グールド変奏曲」(ジョン・マクリーヴィ編・木村博江訳、東京創元社)は、グールドの死後間もない1983年に友人たちがグールドの記事を寄せたものだ。このなかに、ニューヨーカー誌のライターであるジョセフ・ロディが、グールドがまだコンサート公演を行っていた1950年代、カーネギーホールで行われたバーンスタインの指揮によるニューヨークフィルとのベートーヴェン・ピアノ協奏曲2番のコンサートの様子を書いている。

ジョセフ・ロディが、午前中のリハーサル後にグールドがホテルへ戻る様子を描いている。「今晩はホールへは9時半近くまで入らないつもりだという。これは演奏予定時刻の数分前であり、コンサートの前半を聴きたくないというのだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾く時には、その前にオーケストラで別の曲は絶対に聴きたくないというのがその理由だった。」「バッハを弾く場合は、その前にシュトラウスでも、フランク、シベリウス、ジュークボックス ― 何でも聴けるんですけどね。でも、ベートーヴェンの前には何もだめです。弾く前に自分を繭(まゆ)みたいなものの中に閉じ込めないと。目隠しをした馬のような感じで出て行くんです。午後は、ベッドで過ごしますよ。風邪をひきそうなんでね」

そして、7時30分、「グールドはベッドから起き上がると、それまで着けていた二組のミトンをはずし、協奏曲の二度目の演奏にとりかかった。部屋にはピアノがあったが、触ろうとはしなかった。その代り、歩き回りながらソロのパートを指で弾き、オーケストラのパートをあごで指揮し、その両方を声高く歌った。これより騒がしくない、手を(お湯に)浸す儀式が8時半頃に始まり、およそ1時間続いた。グールドの出番の1、2分前に、彼はカーネギーホールに着いた。そのいでたちは、まるで北極の氷原を抜けて長期旅行に出かけるようだった。三重、四重のえり巻やコート、毛皮製品の下から現れた彼は、いつものだぶだぶの礼服姿だった。白いチョッキの下に、グールドは分厚い縄編みのセーターを着ていた」

音楽への献身の徹底ぶりは、あまりにも凄いですよね。

おしまい

 

 

 

 

グレン・グールド・ギャザリング その4 宮澤淳一さんのトークショー

12月15日(金)に行われたグレン・グールド・ギャザリング(Glenn Gould Gathering = GGG)の一環で行われた宮澤淳一さんのトークショーのことを書いてみたい。宮澤さんは、ライブに先立ち、13日~14日にカナダ大使館で上映されたグールドに関連する映画5本すべての解説をされた。ご自身でも、吉田秀和賞を受賞した「グレン・グールド論」(2004年 春秋社)を書かれている。また、今年でグレン・グールドに関する書物は、85冊が刊行されているとのことだが、日本語に翻訳されたものの半分は、宮澤さんが翻訳されていると思う。また映画など映像の字幕の翻訳は、ほぼすべて宮澤さんが監修されているのではないか。日本のグールド研究の第一人者であるだけではなく、世界の第一人者だ。

では、メインイベントの宮澤さんから伺ったお話の主なところを紹介しよう。下が、トークショーが行われた会場の様子だが、開始時には満席になっていた。

まず最初に、おっしゃっていたのは、クラシック音楽の特殊性あるいは伝統のことだ。つまり、クラシック音楽は、ずっと作曲者が一番偉くて、演奏者は下。聴衆はさらに下という歴史があった。(この言い方は、ちょっとデフォルメがあると思うが、喩えとしては分かりやすい)。作曲者が王で、演奏者は家来、聴衆は臣民という位置づけで、仮に作曲者がなくなっても、演奏者は作曲家のことを尊重するのは自明のことだ。(そういう教育が音楽大学でずっと行われてきたはずだ)。それが、曲の言い表し方に端的に表れている。クラシックでは、誰が演奏しようと作曲者と曲名が表記される。例えば、「ベートーヴェンの交響曲第5番」と言われる。付随的に、バーンスタイン指揮、ニューヨークフィルというのが説明的に出てくるが、曲名はあくまで「ベートーヴェンの交響曲第5番」だ。これが、ポピュラーやジャズ、歌謡曲であれば、「マイルス・デイヴィスのカインド・オブ・ブルー」がタイトルになり、そのものズバリである。

ところが、グレン・グールドは正統的なクラシックの演奏家とはまったく違った。ケヴィン・バザーナが「グレン・グールド演奏術」で明らかにしているように、グールドは音程と長さは守っているものの、それ以外のテンポ、強弱、アーティキュレーション(フレーズの作り方)、装飾音、反復記号など、作曲家の指示があっても自分の考えを優先し、囚われていない。さらには、モーツァルトのピアノソナタなどで低音部に音符を足して、低音部に別のメロディーラインを作っている。これが、「再」作曲家と言われる所以だ。

映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」で、不倫関係にあったコーネリア・フォスが、グールドのバッハ演奏を次のようにいう。 : 「グレンの演奏は、いわば楽曲を組みなおした感じね。分解した時計を元どおりでなく別の形にしたのよ。時計は動くけど全く異質のものになった。音楽に対する前例のない画期的なアプローチだったわ。私はあまり好きじゃない。バッハの良さが台無しだと思った。でも音楽家は衝撃を受けたでしょうね。演奏技術はすばらしかったわ。見事だった」

同じ映画でチェリストのフレッド・シェリーはいう。 : 「作品と作曲家の内面に侵入し、その反対側に突き出た。作曲者に対する共感を通り越し、作品を完全に乗っ取っていたと思う。自分の個性に塗り替えたんだ」

グールドが、このような演奏態度をとった理由をいくつか宮澤さんは上げられていた。そのうちの大きなものとして、グールドは作曲家でもあったことを指摘されている。すなわち、グールドがニューヨークでデビューし、コロンビアレコードと専属契約した1955年は当時22歳で、「ゴールドベルグ変奏曲」を録音した時期でもあるが、「作品1番 弦楽四重奏曲」を完成した時期でもあった。こうした彼は、他の作曲家が書いた楽譜を作曲家である自分の目で見ていた。こうした態度をとるクラシックの演奏家は、他にまったくいないわけではないが、ここまで徹底した態度をとり、それが説得力を持ったのはグレン・グールドだけだろう。

そうしたグールドは、レコードが爆発的に売れ、一夜にして世界一流のピアニストになった。そのため、世界中を演奏旅行する期間が1964年(32歳)まであった。その後は、よく知られているようにスタジオから自分の「再」作曲家としての試みで挑戦を続け、彼本来の作曲活動は、結果的に十分にできなかった。

こう言われると、彼の特異な演奏については「やっぱり、そうだったんだ!!具体的な証拠があるのね!」という風に感じる。

ところで、カナダ大使館は巨大だった。上の3枚の写真は、カナダ大使館の外側から撮ったもの、4階のロビーへ向かうエスカレータ、地下2階にある、GGGの映画が上映されたオスカー・ピーターソンホールの入り口受付の写真だ。カナダ大使館は実にでかい!欧米の大使館は、ずいぶん立派だと思う。日本の海外の大使館と、比べ物にならない。いろいろ税金を使っている関係で、あれこれ言われるのだろうが、この大使館をみていると日本ももう少し頑張ってもいいような気がする。

おしまい

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