グールド 他にない 《J.S.バッハ ヴァイオリンソナタとチェロソナタ》

グレングールドは、バッハのヴァイオリンソナタ全6曲をハイメ・ラレードととチェロソナタ全3曲をレーナード・ローズと正規録音で残している。

これらの曲が他の演奏者とまったく違う。普通であれば、ヴァイオリンソナタであればヴァイオリンが主役、チェロソナタであればチェロが主役で、ピアノは伴奏であり、脇に控え小さな音で独奏楽器の引き立て役をするのだが、グールドの残したこれらの曲は、ピアノの存在感の方が大きく、対等どころかそれ以上に目立っている。

たしか、グールドより年長でキャリアも十分なレナード・ローズは、どこだか思い出せないので申し訳ないのだが、どこかでこの録音を「マニア向けの特殊な演奏」という風な意味のことを言っていたと思う。この意味は、これらの曲は本来、ヴァイオリンやチェロのための曲なのに、グールドはあたかもピアノを加えた曲全体へ公平に光を当てようとしている実験的な演奏、というような意味なんだろうと思う。

グールドは、他の曲の場合でも曲全体にスポットをあてているのだが、これらの曲を聴いていると実に面白い。基本的には、主旋律を担当するヴァイオリンやチェロのメロディーが目立つので、親父の耳はこれを追っているのだが、グールドの弾くピアノのメロディーが対等に割って入る。ときに、そのメロディーの方に耳が行ってしまい、ピアノを聞いているのか、ヴァイオリンを聞いているのか錯覚することがまま起こる。弦楽器と、ピアノのソプラノ、アルト、バスがそれぞれ入れ替わりながら、メロディーを奏でる。変化があり、飽きさせない。

また、ピアノの方は、たいてい3声(あるいは4声?)で書かれているので、ソプラノのメロディーを聞いているうちに、アルトのメロディーが出てきたり、バスのメロディーに交代したりして、弦楽奏者と合わせて4人の合奏のように聞こえたりもする。

グールドのリズム感があまりに正確ではっきりしているので、弦楽器奏者の方は、勝手にリズムを崩せないということもあると思う。また、楽器の特性上、ピアノは鍵盤を叩いたときに一番大きな音が出るのに対し、弦楽器は一番大きな音が出るのは、弓で弦をこすった瞬間ではないので、リズムがぼんやりしがちということもあるだろう。

こうして、ハイメ・ラレードとレナード・ローズは、グールドと主役が入れ替わった演奏に決して甘んじているいるわけではないが、名人芸を披露するという機会を取り上げられ、ピアノと弦楽器が一体になった穏やかでゆったりとした演奏をしている。

下が、ハイメラレードと演奏したヴァイオリンソナタである。(このあと、自己主張を譲らなかったユーディ・メニューインと比較してほしいのですが、ヴァイオリンソナタ第4番は47分21秒から始まります。)

ここではYOUTUBEを張り付けていますが、なるべくならリマスターされたCDなどを聴くのが音的には良いと思います。

さて、共演者が変わって、大人気の巨匠ユーディ・メニューインとも、グールドはヴァイオリンソナタの第4番を録音している。こちらのユーディ・メニューインは、名人らしく緊張感のある美しい演奏をする。グールドのピアノにイニシアティブを取られまいとして、これはこれで丁々発止で火花が散るような演奏で、違った聴きごたえがある。

こちらがその演奏である。

こちらが、レナード・ローズと録音したバッハのチェロソナタ(原曲は、チェンバロとビオラ・ダ・ガンバ用の曲である。)である。レーナ―ド・ローズは、「しかたないなあ。ひとつ、グールドの言うとおりにやってやるか」と言う感じで、付き合ってるに違いない。しかし、実際に出来上がったものは、お互いの楽器が最高のバランスで、最高に美しく穏やかなメロディが、手を変え品を変え奏でられる。

グールドは、ゴルトベルク変奏曲のアメリカ録音以前から、ストラトフォード音楽祭で、レーナ―ド・ローズと音楽祭を主宰する側をやっていた。このストラトフォード音楽祭は、実験的な演奏が許される場でもあり、《拍手禁止計画》(正確には、「拍手喝采およびあらゆる種類の示威行為を廃止するためのグールド計画」(グレン・グールド著作集2))を実行したりしたこともある。

おしまい

ジュリアード弦楽四重奏団協演 グールドvsバーンスタイン ピアノ演奏スタイルの違い

グレン・グールドの器楽曲との合奏はそれほど多くない。

正規録音には、バッハは、チェロ・ソナタ集(レナード・ローズ:3曲)、ヴァイオリン・ソナタ全曲集(ハイメ・ラレード:全6曲)が録音されている。他は、シェーンベルク、ヒンデミットやウェーベルンの現代曲がある。

正規録音ではないが、テレビのCBC(カナダ放送局)で放送されたドビュッシーのクラリネットピアノのための第1狂詩曲、ショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲などがある。また、有名なヴァイオリニストのユーディ・メニューインと共演したバッハ、ヴァイオリン・ソナタ第4番、シェーンベルク、幻想曲作品47、ベートーヴェン、ヴァイオリン・ソナタ第10番の3曲がある。他に、バッハのチェロ・ソナタ3曲を録音したレナード・ローズが、ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番を協演している。

言ってしまえば、チェロのレナード・ローズとヴァイオリンのハイメ・ラレードは、グールドの子分のような存在だ。メロディーを奏でるチェロやヴァイオリンがピアノを伴奏者として従えるのが一般的だろうが、グールドの場合は、伴奏しているピアノがリズム感、存在感の両方で大きく、主客が完全に逆転している。

片や、ヴァイオリニストのユーディ・メニューインとの協演は、さすがに一流奏者らしく、簡単に主導権をグールドに渡さない。お互いに丁々発止と譲らず、ずっと緊張感が漲っている。3曲とも名曲というのも作用しているだろう。

グールドは、ロマン派の弦楽器との合奏では、シューマンをジュリアード弦楽四重奏団と協演している。録音されているのは、ピアノ四重奏曲変ホ長調作品47なのだが、このレコードはレナード・バーンスタインが弾いたピアノ五重奏曲変ホ長調作品44がカップリングされている。ディスクガイドを読むと、本来五重奏曲もグールドと共演したものが使われる予定だったが、双方の関係が途中で険悪になり、最後には修復不能までになってしまった。このためバーンスタインの演奏が使われたということだ。

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この2曲のジュリアード弦楽四重奏団の協演が、バーンスタインの場合とグールドの場合でどのように違うのか感じているところを書きたい。

この2つの曲は、同じ調で、同じく4楽章の構成で作曲されており、かなり似た印象を持つ。こっちがバーンスタインだよな、グールドだよなと聴きながらも聞き流していたが、真剣に聴き比べてみた。

バーンスタインは、チェロやバイオリンが主役になるメロディーの場合は、かなり音量が抑え気味で、リズムの崩し方も弦楽器にゆだねている。この場合のピアノは控えめで、弦楽器はのびのび自由に弾いている。曲が進みピアノが主役になるときには、俄然音量を上げ、自分のリズムで演奏し、存在感を急に高める。間違いなく、このように主役が交代しながら、自分のアーティキュレーションで演奏するのはストレスがなく楽しいだろうと思う。しかし、うまく行くときは良いが、ややもすると曲全体の構想が希薄だったり、ベクトルのはっきりしないものになりがちだ。(後で述べるが、たいていこの現象が起こっていると言って過言ではない。)

グールドの場合は、真逆だと言っていいだろう。チェロやヴァイオリンがメロディーを奏でているときでも、バックのピアノがリズムをインテンポで奏で、なおかつ存在感を消さない。このため、弦楽器が崩して演奏したりすることが、全体のバランスが崩れるためにできない。ピアノが足枷となるのだ。弦楽器の裏で、ピアノが小さめの音で伴奏をする場合でも、リズム感に大きな説得力がある。もし、ジュリアード弦楽四重奏団がグールドと違った考えを持つなら、グールドとの協演は大きなストレスになるだろう。

一般に合奏では、主旋律を演奏する者に合わせて、他のメンバーがサポート役に回る。ただ、主旋律は時に違う楽器へと交代するし、同じメロディーをユニゾン(同度の音程)で奏で、音色の違いや緊張感を楽しませることもある。この場合、曲全体をどのように解釈して表現するかはっきりさせ、全員が理解したうえで、意図に沿った演奏ができなければならない。

グールドの頭の中には、常に曲の全体像がある。曲の構造と言ってもいいだろう。それを見失うことがない。だが、その全体像の着想を保ちながら、目の前の演奏の細部を失うこともない。ここが彼の凄いところだと。

同じことをバッハのフーガの技法BWV.1080で説明したい。この曲はグールドがピアノで演奏したものとオルガンで演奏したものと二つある。オルガンも良いが、ピアノ版が空前絶後だ!バッハの遺作で未完の曲なのだが、楽器の指定をしていないこともあって、ピアノの外にもチェンバロ、オルガン、弦楽四重奏、金管楽器、アンサンブルやオーケストラなどで演奏されている。

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第1曲は4声のテーマで、2曲目以降はフーガがさまざまに変形される。第1曲目のテーマだが、グールドの演奏は速度が非常に遅い。もちろん、すべてを聴いたわけではないのだが、グールドの演奏がダントツに遅い。曲を一定以上の遅さで演奏するというのは、非常に難しい。バランスを保つことが難しいからだ。だが、グールドはその遅いスピードで演奏しても破綻しないし、強い緊張感を保っている。4つの声部を弾き分け、最初はどの声部もレガートで弾くのだが、曲が進むと、主旋律をレガートなまま、対旋律をデタッシェ(ノン・レガート)で弾き趣を変える。彼の演奏は、常に時間に沿った横のメロディーが、4声なら4つのメロディーが並行しながら流れていく。ほとんどのピアニストは拍の頭に4つの音が楽譜に書かれていると、4つの音を同時にならす。それでは4声にはならない。鳴るのは和声、和音になってしまう。一人のピアニストでありながら、グールドの頭の中では、あたかも違う楽器を持った4人が演奏しているイメージで演奏している。

そして、テーマの最後に、休符が2度来るのだが、グールドは完全無音の状態を長い時間演奏する。このように完全な無音を奏でた演奏は、フーガの技法を演奏した他の演奏者にはないだろう。グールドがこの曲を録音したのは1974年だが、グールドの死後、1987年にジュリアード弦楽四重奏団がやはりフーガの技法を録音しており、休符を長くとって演奏しているが、グールドほどではない。(グールドは、楽譜どおりに演奏するより、この方がインパクトがあり彼にとって正しいと考えていたのだろう。そのような例は他にもいろいろありそうだ)

そして本題。グールドはこのような対位法で書かれた曲やポリフォニーの曲は、旋律ごとに違う楽器を持った演奏者が演奏している意識でピアノを弾いている。このために、実際の弦楽四重奏団や室内楽団が演奏する場合より、曲の統一感がずっと明確だ。管弦楽団によるフーガの技法で非常に美しく演奏されたもの(シュトゥットガルト室内管弦楽団など)があったりするが、美しいだけで、「それで何が言いたいの?」という感想だけが残る。

いろんな演奏者によるフーガの技法があるが、どれもグールドの演奏にある緊張感、深遠さ、美しさ、無常感、虚無感、統一感、十全さ、ドラマ性、永遠性、宇宙を感じさせる広大さといったものが及ばない。

グールドのポリフォニー的演奏については、「グレン・グールド発言集」(みすず書房 宮澤淳一訳)で自身が述べている。これについては、あらためて述べてみたい。

 

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