医者たちの身勝手さ その1

————– 2021.7.7 Rewrite ————

主は、多くの医者たちはとんでもない存在だと思っている。そして、「そうだ、自分もそうだ」と考える医者たちが確実に増えている。

主は、近藤誠さんを始めとするとする、日本の医療を激しく批判する著作をけっこうたくさん読んだ。この近藤さんに続く医者たちが増えているのは確実だ。

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もし興味をお持ちになられたなら、何といってもご自身のQOL(Quality of life = 生活の質)にかかわる大きな問題なので、是非読んで下さい。

穏やかな死に医療はいらない (朝日新書)」を書かれた萬田緑平さんは、在宅緩和ケア医として終末期医療に献身されている。その萬田さんが、現在のコロナ対策が間違っているという小林よしのり氏との「コロナ論2」の対談中次のように語っておられる。

小林よしのり「テレビにいい加減な学者ばかりが登場するわけだ・・・」

萬田緑平「医者だけではありません。感染症の専門家や研究者も『コロナは怖い』という空気を醸成するのに加担している。前にも述べたように、彼らにとって新型コロナは恐いウイルスでなければならない。普段、風邪の研究なんてまったく注目されず、脚光を浴びるのは死をもたらすがんなどの恐い病気の研究ばかり。死にそうな病気を治す研究でなければ、学者としてのステータスは上がらない。感染症の研究者にすれば、新型コロナが死をもたらすウイルスであった方が都合がいいんです。同じ理由で、コロナが恐いことを示す実験データしか表には出てきません。」

小林よしのり「私利私欲のために、こんなことをしているのか?」

萬田緑平というより、医者ってみんなすごく頑張るんですよ。世間の抱くイメージのように、頭が良いから医者になるわけではなく、頑張るから医者なんです。論文の執筆なんて本当に大変。僕はもう書きたくないけど(苦笑)。」

コロナ論2 扶桑社

主は、萬田さんの発言の趣旨とは少し違うが、こうして異常なほど頑張ってきた人たちにとって、無意識のうちに、犠牲にした対価を求めたくなるのが、自然のなりゆきだろうと思う。

同時に、これまで脚光を浴びることがなかった感染症医が、コロナで脚光を浴び、悪気なく異常にハッスルし、知らないことまで知っているかのように断言し、世間を余分に自粛させようとしているとよく指摘される。人間の性(さが)として、よく知っているつもりのことを問われると、自分を権威付け、必要以上の啓もうをしようとするということだ。

医者は、医者になるために、医者になってからも、大きな犠牲を払っている。医者になるために、小中高と青春時代に大きな犠牲を何年間も払い、暗黒の我慢の時期を過ごしている。また、医者になってからも、臨床医の中で、出身校や、外科か内科か、麻酔医か、街中の開業医か、大学病院の教授かといったヒエラルキー争い、論文競争がある。そういうずっと競争意識の中で人生を過ごすとどうなるか。ここには主の偏見やヒガミが大いに交じるが、その後の人生において、我慢に見合う対価を得られないと満足できない人間が出来あがる。少なくとも、周囲に対して威張り散らしても許されるという潜在意識ができる。

主は、医者ほどコミュニケーションが下手にもかかわらず、周囲から奉られている職業を知らない。

昔、産業医を契約していた大学病院の助教授の医師とよく話をする機会あった。この人と話していると、彼は、自分のことを「科学者」と考えていた。一般人から見ると、臨床医は「科学者」には入らないだろう。しかし、臨床医たちは「科学者である」と思っているし、町医者であれば「かつて科学者であった」と思っているのではないか。

そうした専門家を自認する傾向は、程度の差こそあれ、エリートと思っている弁護士、有名大学を出たキャリア官僚、ジャーナリストなどにも通ずるものがあるだろう。 

ところが、暗い時期を過ごして、医学部に入学し、医師になった時、あるいは、エリートの地位を獲得したとき、大いにはじけて成功を謳歌するものの、人間はそれほど単純ではない。仮に異性にモテたとしても、「それはぼくが医師だからだ、成功したからだ。彼女が、素の僕を好きになってくれた訳じゃない。地位がなくなったら、ぼくはない。」というひがみ根性は一生抜けない。日に影に姿を現して、彼を苦しめる。

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医療に対する批判本を大量に書かれている近藤誠医師によると、女性の乳がんのかなりの割合は「がんもどき」で、治療が必要ないという。

過去に、近藤医師は、少なくとも女性の乳がんについて、アメリカの論文を日本に紹介し、全摘手術をした場合と患部のみをとった場合で生存率に変わりがないとずっと言い続けていた。しかし、日本の執刀医たちは聞く耳を持たなかった。このため、治療法が14年間変わらず、女性の乳房が全摘され、おまけに胸筋まで切り取るので、腕も上がらくなり苦しんだ女性がずっと出続けた。要するに、執刀医たちが間違いを改めるためには、執刀医の世代交代が終わるまで、改まらなかった。

一方で、そうした暗い過去と現在を持つ異常なほど頑張る大半の医師たちは、患者にサディスティックな復讐をする。同級生が異性と楽しく遊んでいた時期に、「ネクラ」と陰口を叩かれながら勉強をつづけた彼、「がんもどき」など存在しないとする標準治療の僕(しもべ)の彼は、あいかわらず不要な乳房切除術に励む。乳房の切除は肉の部分を多少多めに取っても生死に影響しづらいので、よい練習台になる。切除した後は、再建術がセットになっており、医者は、不要で多額の出費を患者に強いることができる。 

また、高齢者の前立腺治療も、前立腺がんの進行が寿命と同じくらい遅いこと、排尿障害の懸念などを考えると、やらない方が良い。しかし、これに類することが日本の医療では横行している。 要は、医者は患者が死にさえしなければ、QOLより、患部を取りきることが大好きなのだ。

付け加えると、標準治療を謳う医師たちと近藤誠さんは、お互いにエビデンスを出せと言い合い、どちらも出せないジレンマの中にいる。つまり、がんの手術をした患者が、しなかった場合にどうなったかというエビデンスは、出しようがないからである。

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日本の医療システムは、健康保険制度がどんとあり、自由診療は美容整形や歯科治療などに限られ、自由診療だけでは医師が評価されないので、患者が集まらない。

ところが、この健康保険制度は、多くの患者を診察しないと儲からない仕組みになっており、医者の側は、常に多くの患者が必要である。さもなくば、高収入・安定収入は望めない。そのため、収入を上げやすい高齢者に必要以上の措置を施すことが、安定的に高収入を得るための方策になる。つまり、余命が尽きかかっている高齢患者に対して、胃ろうや人工呼吸、透析などの延命措置を行ない、長く治療するのである。患者の心臓は動いているのだが、寝たきりであり、QOLゼロである。日本人の8割が病院で亡くなるのだが、これは非常に痛ましい。日本の医療は、延命さえすれば成功と考えている。 ところが、海外では死ねば天国へ行くという宗教の教えがあることもあり、日本のような天国へ行くのを邪魔する延命治療は、海外では「虐待」になる。

分かりやすい現象が今年(2021年)見られた。日本の医療制度では、本人が3割負担するのだが、75歳以上はこれまで1割負担だった。これを政府は改正して、一定の収入がある場合2割負担にしたのだが、負担率の増加に医師会は、患者が病院に来なくなると言って反対したのである。 日本の健康保険制度は、皆保険といえば聞こえがいいが、医療費を支払う老人にすれば安すぎ、医療側のコストである診療報酬と薬価も異常な安価に設定されているために、需要と供給が歪んで、財政的にも、死生観的にも世界とかけ離れた老人医療問題を引き起こしている。

主は、延命を希望する老人は、10割負担にすべきだと思うし、コロナのテレビ報道を見ていると日本の老人は、自身の不死身を希望しているように見えてしまう。

ちょっと観点が変わるが、各地の自治体で行われている子供の医療費無料制度も同じである。補助金(助成)を広くあまねくばらまくと当然ながら医療のマーケットは歪み、医療産業の成長にも良くない。うまく、貧困家庭に限定するとか、無料にせずに少額の料金は取るべきである。

話を戻すと、老人医療にたいする反省は、一部の良心的な医師たちの発言と、医療費の異常な膨張の危惧により、徐々に白日のもとにさらされるようになってきた。もちろん、医療が人類に貢献したのは間違いないが、医療より食糧事情と衛生環境の改善や運動の導入の方が大きい。医療で成功したのは一部の感染症などに限定され、がんや糖尿病などの加齢現象は、病巣を取り除いても、すべての場合に有効ではない。むしろ、高齢者などに対しては、望まない治療をして延命させても、QOLゼロな治療に注力してきただけだと、医者自身がとうの昔に気付き始めている。そこで疑問を感じた良心的な医者たちが、大勢転向し始めている。 

コロナは、それを逆回転させて、医者のステータスを再度、上げようとする悪あがきだ。医者たちも、特に日本の医者たちは、生気のない老人をベットに横たえ、胃ろうや人工呼吸で生かしておくことが非人間的だと、疑問を感じだした。そこで、ウイルスによる新型コロナの登場により、この恐怖を煽ることで、医療に対するマインドを根本から変えさせ、ワクチンを毎年打たせ、違った活路を見出そうとしているように見える。

つまり、各国の権力者たちにとっても、1本5,000円と言われるワクチンを何十億人にも打つビジネスは、自国民を恐怖に陥れ、従順に接種させることが、医者たちの利害とも一致する。自国が、ワクチンを開発する側に回ろうが、購入する側に回ろうが、製薬会社が手にする何兆円もの利益のおこぼれにあずかれる。そのためには、怖いウイルスであると何かと都合がいい。

その1 おしまい その2へ続く

エブリバディ・ノウズ【日本病】その4 日本の医療のすりこみ

日本は病気だと、主は確信している。「日本の医療水準は世界のトップクラスだ。健康保険制度はどこの国より優れている」というのはどうやらそうでもなく、我々は間違った情報を与えられているようだ。

主は、近藤誠さんの「医者に殺されない47の心得」「クスリに殺されない47の心得」の2冊の本を読んだ。近藤誠さんは医師で、元慶応大学医学部の講師、現在は近藤誠がん研究所長である。肩書が定年まで勤めて、慶応大学の講師というのにも医学界における立ち位置が表れている。次がYOUTUBEのご本人の講演で、冒頭を見るだけでどのように過激なのかわかる。

とにかくこの本の内容はすごい。この2作の全編を貫いているのは、日本の医療は、患者不在で、ビジネスを動機にして行われている。様々な医療界で使われるデータは、効能が不明であるにも拘らず、明白で大きな副作用がある。主は、この2点に要約できると思う。結局のところ、我々が抱いている日本の医療のイメージの全否定である。ビデオを見るのが面倒だと言う人のために、この本の「章」タイトルを6個紹介しよう。こういう内容が、2冊の本で94個ある。

  • ① 「とりあえず病院へ」は、医者の”おいしい”お客様
  • ② 医者によく行く人ほど、早死にする
  • ③ 「血圧130で病気」なんてありえない
  • ④ がんほど誤診の多い病気はない
  • ⑤ 「乳がん検診の結果は、すべて忘れないさい」
  • ⑥ ポックリ逝く技術を身につける

もちろん、こんなことを言う近藤医師は、前記のとおり、既存の医学界から総スカンされているのは間違いないわけで、もちろん反論もさまざまある。参考に、2つだけリンクを貼っておく。

ただ、主が両者の主張を比べると、反論は弱く、近藤医師の主張の方に分があるように感じられる。どの反論でも、近藤医師の主張を真っ向から否定していない。否定できているのは部分的であり、かなりの割合で無駄な治療が現実に行われていることが、いずれの論からでも窺える。

話が転換するが、主は母親の死の際に、医療の奇妙さを実感した。死に際になっても、出来る限りの医療措置をするのが、日本社会の社会常識(共同幻想)で、医師はとことん延命させることが役割と思っているようだった。だが、主は腑に落ちなかった。

高齢の母は、ちょっと認知症が始まった父と二人で暮らしをしていたのだが、風呂場で倒れ、呼吸不全を起こし、意識不明になり救急車で救急病院へ運ばれた。主が、千葉から関西の救急病院へ駆けつけたとき、意識がない状態で酸素呼吸のマスク(気管挿管)をされていた。このとき医師は、このあと気管切開して人工呼吸器をつけたいと言った。当然ながら、医師に「前のような生活に戻れるのか?」と聞くと、「そのような可能性はほぼない」という答えがかえってくる。やるせなさはもちろんあるが、母親が元に戻らないというのは素人目にも見てわかる。それならばと積極的な治療に難色を示すと、救急医は「救急車で救急病院へ患者が運ばれてきた以上、我々としては何もしないわけにはいかない。人工呼吸器をつけさせてほしい」と選択の余地がないと説明する。その説明に違和感は感じるものの、母が危篤なのは現実であり、少しでも生かしてやりたいと思う気持ちは当然ある。同意書にサインし、母には気管切開をして人工呼吸器がつけられた。その高度な医療が可能な救急病院は、患者が次つぎと運ばれ、ベッドを回転させる必要があり、1週間ほどで違う病院へ転院させられる。転院した先の病院では、意識が戻らないままでの延命措置はいくらでも可能だと説明を受けた。結局、母は1か月ほどで亡くなったのだが、傍らで見ていて、意識がないといっても、苦しい思いをしているのはわかる。栄養は点滴で注入され、麻酔も含まれているらしいが、意識が全くないわけではなく、無理に生かされている状態で苦しんでいるのが横にいてわかる。

一方で、医者たちは高額の治療報酬を手にし、公的なお金はさらにもっと多く使われたはずだ。こんなことを日本中でしていたら、医療制度が破たんするのは当然だ。それに加えて、それより先に、我々は安らかに死にたいではないか。

つづく

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