リフレ派の間違い 浜田宏一氏、黒田日銀総裁など

ELLEから 真ん中がオカシオ・コルテス

主は、安倍政権の登場以来ずっとリフレ派といわれる経済学者を支持して、ブログを書いたりしてきたのだが、いつまでたっても一向に景気が回復せず、今年、MMT(Modern Monetary Theory=現代貨幣理論です。)を知って、リフレ派のどこが間違っていたのかがようやく分かるようになった。

主流派経済学者の中にリフレ派といわれるグループがあり、浜田宏一さん、若田部昌澄さん、安達誠司さんなどがおり、黒田日銀総裁もその中に入れて間違いがないだろう。

彼らは、量的緩和による金融政策で、市中に通貨を大量に供給し、金利を下げることで経済を刺激することでデフレを脱出しようと考える人たちである。具体的には、銀行などの民間が保有する国債を日銀が大量に買い取り、通貨を市中に供給すれば、投資に回りやすいだろうというのが目論見である。

しかし、このリフレ派の量的緩和は、リフレ派以外の主流派経済学者から、この方策はカンフル注射見たいものなので、いつまでもやるべきでない、出口戦略を練るべきだと当初から評判が悪かった。

ここで注意したいのは、このリフレ派、リフレ派以外のどちらも、新自由主義、新古典派と言われる主流派の経済学者である。(詳しくは書かないが、グローバリズム、自由貿易、小さな政府などが理論の中心になります。)

一方、非主流派(だが、正しい!)のMMTは、主流派経済学と貨幣観のところが全く違う。

主流派経済学の貨幣観は、昔、希少な貝殻を貨幣の代わりに使っていたことを起源とし、やがてアメリカで金本位制が導入されたように、貨幣は「金」との交換を約束する証書であり、政府は「金」がなければ貨幣を発行できなかった。大戦後、「金」と交換しない不換紙幣、管理通貨制度(政府の裁量で通貨が発行できる)の時代になるのだが、主流派は、従来の貨幣観をアップデートしなかった。ここに間違いがある。

つまり、MMTは、現代の主権国家(変動相場制のものとで自国通貨建てで国債を発行できる。)である、日本、アメリカ、イギリスなどは、インフレにならない限り国債を、いくらでも発行可能だという。

そして、発行した国債を元手に政府がお金を手にして、民間企業や国民に公共事業や年金給付などでお金を使うと、企業や国民の資産が増える。

また、通貨のうちの1万円などの紙幣は、2割程度の流通量にすぎず、残り8割は銀行預金なのだが、この銀行預金は、いくらでも元手なしに銀行が発行できる。すなわち、ソフトバンクがみずほ銀行から1兆円融資を受けるとしよう。そのとき、みずほ銀行は、ソフトバンクの口座に、1兆円とデータを入力するだけである。それで、1兆円の通貨が増え、ソフトバンクが手にする。

こうして考えると、浜田宏一さんや黒田日銀総裁のやってきた(異次元の)量的緩和というのは、国債を銀行から買い集めただけで、売却代金を手にした銀行にとって、ほとんど運用先がない、借り手がいないブタ積みになっているだけなので、たいした効果がない。

このように書くと、「政府がいくらでも国債を発行できるなら、税金を取る必要がない」という意見が出るだろうが、① 政府が税金を取り納税の手段として認めることで、通貨を人々が求めるようになる効果と、② 景気の調整、不公平の是正の手段として、税金は非常に重要である。

しかし一方で、このようなバラ色のMMTが、なぜ世間で認知されないのかという問題がある。

このMMTの理論は難しいものではないし、経済に興味がある人には、雑誌でもYOUTUBEでも見る機会はいっぱいあり、財務省の役人も国会で追及されているので、十分に知っているはずだ。しかし、国債を財源に国民にお金をバラまいたり、消費税を廃止して景気が良くなったら、主流派経済学者や財務省、マスコミのメンツは丸つぶれだ。20年以上続いた不景気で、苦しい人生を歩んだ人は限りなく大勢いるだろう。

そんなところで「王様は裸だ!」とバラしても、権力者たちは簡単に認めるわけにはいかない。

ただし、世界中でコロナ禍で、各国政府が財政支出を拡大している現状がある。

日本も、第3次補正予算が議論にあがり、100兆円程度の支出になるかもしれない。これは、2年分の予算になる。バカなことを素面でいう池上彰氏や、小林慶一郎氏をはじめとする主流派経済学者のバカな連中が、コロナが終わったら増税だと言っているようだが、まず、自身の非を認めるか、発言を控えてもらいたい。まず、マインドチェンジが必要だ。この100兆円の支出を行っても、国債は暴落せず、金利も上昇しない、主流派が説明できない事態が続く。

アメリカでは、カマラ・ハリス(=医者と大学教授の娘、夫は弁護士で、けっこうエスタブリッシュ。)が、副大統領になる可能性があるが、もう一人人気のある下院議員オカシオ・コルテス(ブロンクス生まれ、本当の貧乏人育ち。)がおり、主は、バーニー・サンダースともどもこちらを好んでいる。オカシオ・コルテス、バーニー・サンダースともに、MMTをバックグラウンドにしている。

さらに白状すると、グローバリズムにたった一人で反対を唱えているトランプ大統領の支持者でもある。

アメリカ民主党の人気女性議員、ELLE : カマラ・ハリス&オカシオ・コルテスを徹底比較

おまけ

下が、MMTの重鎮、ニューヨーク州立大学ステファニー・ケルトン教授。オカシオ・コルテス、ステファニー・ケルトンと美人ぞろいで、ブログの趣旨が変わってしまったかな。

ステファニー・ケルトン WIKIPEDIAから

おしまい

グローバリズムのどこが悪いのか エマニュエル・トッド Part 2

re-written on 22th /August /2017

つづき

ちょっと激しい言い方になってしまったかも知れない。ここで、もう一つの要点であるグローバリズム(自由貿易)の根幹をなす思想を書いてみよう。

例えばアメリカが、中国からの安い生産物にマーケットを奪われ、アメリカの労働者が雇用を失うことになったとしても、中国では新しい多くの雇用を生み出しており、地球規模で見れば、中国で多数の労働者が豊かになっており、正しい方向なのだとの説明がなされる。アメリカで職を失った労働者は、比較優位な新しい産業へ転換すればよいと言われる。

また前述したように、グローバリズムによる自由貿易(=資本主義。ちょっと概念が違うが、こう言うことにする)のもとでは、保護主義貿易よりも高い成長が実現する、と言われてきた。

だが、この説明は間違っていることが今では証明されている。日本でも非常に大きく脚光を浴びたフランス人経済学者のトマ・ピケティが、証明して見せた。すなわち、以前の経済学が、第二次世界大戦直後の経済発展の黄金期の1950年代をベースに労働分配について分析していたために、資本主義の発展が、自動的に社会の構成員の経済格差を縮小させると考えていた。だが、ピケティは19世紀以降の膨大な量のデータを集め、1950年代の経済成長とともに格差が縮まったという栄光の時期は例外であり、常に資本主義の下で常に格差が広がってきたことを証明して見せた。

同じことだが、グローバリズムを批判的に捉える韓国人経済学者ハジュン・チャンも、経済成長率を、高成長率や完全雇用があった1950年から1975年までの繁栄の時期とグローバリズムが広がった1980年からの30年間を比べ、保護主義の時代の方が高いことを明らかにしている。この傾向はアフリカ、南米で顕著だが、他の地域でもグローバリズムの時代に入ると成長率が低下している。

要するにグローバリズムにより、社会の格差は縮小し、保護主義より高い経済成長が可能になると言われてきたのだが、この両方ともが間違っていたということだ。

この発見は、資本主義の下で格差は、政策的な手段を打たないと拡大し、経済学は分配を倫理や哲学の問題と捉えるのではなく、経済学自身の本来の解決課題にしなければならなくなったということを意味する。

そもそも、中国からの輸入によりアメリカ人が職を失い困窮化する度合いと、中国労働者の生活の向上度合いを比べて、中国労働者の向上の方が大きいので、アメリカ人は我慢しろというのは異常な暴論だ。ここでアメリカ人と言っているが、アメリカ人全体が我慢するのではない。我慢しなくてはならないのは、中国製品に負けた弱小なアメリカ人工場労働者、その家族だけだ。消費者と資本家、その他の金融業などの恵まれた労働者の幸せ度は上がっているはずだ。

また、中国労働者が向上すると書いたが、その向上は最初の時期はそうなのだが、やがて、アメリカ人労働者の雇用の悪化に伴い、アメリカ国内需要が減退するため、中国労働者の賃金は上昇しなくなる。また、中国も周辺諸国(ヴェトナム、ミャンマーなど)との低賃金競争に巻き込まれるために、労働者が本来得られるもっと高い賃金を得ることがない、といったことを次に述べたいと思う。

つづく

グローバリズムのどこが悪いのか エマニュエル・トッド Part 1

re-written on 22th /August /2017

”グローバリズム”と”自由貿易”は譲れない絶対的なものだと考えている人が圧倒的だ。日本のマスコミはもちろんそうだし、アメリカのマスコミもそうだ。なぜならトランプ大統領が出てくるまで、ずっとこの二つを合唱してきたからだ。トランプ批判は非常に大きいので、その声は逆に強くなった感がある。

だが、現実のグローバリズムがもたらしたものは、巨大な格差だ。世界で最も裕福な8人が保有する資産は、世界の人口のうち経済的に恵まれない下から半分にあたる約36億人が保有する資産とほぼ同じだと言われる。グローバリズムが始まって30年、1%の金持ちはさらに莫大な大金持ちになったが、99%は貧しくなるか、長期停滞に甘んじている。

簡単に昔を振り返ってみると、グローバリズムが始まる1980年代以前、日本は高度成長を謳歌した時代で、当時は「一億総中流時代」と言われていた。国民のほとんどが中流意識を持っていた。ところが今はどうだろう、「総中流」は影も形もなくなった。中流層が減少し、多くの貧乏人とわずかな金持ちに分かれてしまった。この傾向は世界中どこでも一緒だ。

ところで、マスコミについて注意しなければいけないのは、この「一億総中流時代」と称される幸せな時代においても、建設的なことは言わず、センチメンタルな批判(目先の財政支出への批判、ハコモノ投資への批判など)ばかりしていた。売るためには批判記事が好まれるということがあり、手っ取り早いのだろうが、めくらまし的であり、国民のリテラシーが向上するのではなく、さまざまな分野で誤解・曲解が広く信じられるようになった。

話を元に戻すと、グローバリズムの30年で、世界中で格差が広がった結果、グローバリズムに疲れて(Globalism Fatigue)グローバリズムの終焉が始まっているという人物がいる。それが、フランス人のエマニュエル・トッドという人物だ。このエマニュエル・トッドは、家族人類学者、人口学者だが、歴史学者でもある。家族制度や識字率、出生率などの指標を使って、現代政治や社会を国ごと、地域ごとに非常に小さなメッシュに細分化することにより分析し、ソ連崩壊、アラブの春、英国EU離脱、トランプ勝利を予言していた。

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写真はアマゾンから

ここで、グローバリズムについておさらいをしよう。グローバリズムは1980年代、イギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領が始めたと言われる。グローバリズムは、「新自由主義」(Neoliberalism)と同時に世界を席巻した概念である。Wikipediaは「新自由主義」を「1930年以降、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきと提唱する。」と書いている。

ちょっと慣れない言葉が出てきたかもしれない。ほとんどの人は経済学を勉強したわけではないだろう。そのため、主がざっくりとかみ砕いて説明したい。

まずは、「市場(しじょう、いちばと読まないんですね。マーケットともよく言われる。)」という言葉から説明しよう。

この「市場」という言葉は、経済学では非常に重要な言葉だ。経済学の始祖と言われるイギリス人のアダム・スミス(1723-1790)が「国富論」の中で「まるで見えざる手に導かれるように、・・・各人が自分の利益を追求することが、一般にとってよいことを促進する」と言った。この考えが、現代の経済学でも大きな位置を占めている。ざっくり言うと、我々が物品を売買する時、売り手と買い手がおり、その価格は「市場」で調整され、自動的に社会の構成員全員にとって望ましいように資源(労働や原材料、貨幣)が使われる、言い換えると、物が高く売れれば作り手が増え、そうすると販売価格が下がり買い手が増える、その時に「市場」において、構成員全員の幸せの総量を最大にする「見えざる手」が働くとスミスは言ったのだ。その後の新古典派の経済学が、これを数学的に証明してみせた。(因みに、主は「新古典派の経済学」を40年前に大学で習った。その後ほとんど忘れていたのだが、パプアニューギニアに赴任した時に時間があり、アベノミクスに興味を持ち、経済学の本を買うようになった。)

誰かの幸せ度を下げずに、誰かの幸せ度を上げることができない状態のことを–ちょっと専門的だが–「パレート最適」という。人間が合理的に行動さえすれば、そのような状態が「市場」を通じて実現されることが、数学的に証明されたのだ。

これに対して、「そんな単純じゃないだろう!!」と思った人は、鋭いし正しい! 

このとき、問題は二つある。

一つ目。この新古典派の経済学でも、アダム・スミスの市場がもたらした『自由市場の均衡を傷つけかねないいくつかの要因を認識している。その要因には、ある人物の行動により直接他人が影響を受けるような経済活動が含まれる(「外部性」と呼ばれる)。またよくない所得分配も含まれる。だから経済学者たちは、こうした阻害要因がない限り自由市場の働きに介入したがるのはバカだと考えるのが通例だ。そしてもちろん、経済学者たちは昔から、規模の大きい企業が市場を完全に競争的にしないかもしれないという点も認識してきた。』(『』書きは、「不道徳な見えざる手」(アカロフ/シラー)から引用)阻害要因はあるものの、要は、市場の働きに介入したがるのはバカだと考えているんですね。61W-lAubY3L._SX341_BO1,204,203,200_

二つ目。新古典派の経済学者が前提においている「人間が合理的に行動するならば」というところに、疑問を投げかける新古典派以外の学者が実に多い。新古典派の経済学では、大学に入ったばかりの新入生に、スーパーでオレンジとリンゴを買うときにさまざまな組み合わせと価格で購入する例を使って教え始める。オレンジとリンゴなら問題ないのだが、圧倒的に多い他の財の購入では、広告やマーケティング、社会通念(例えば、結婚式や葬式には多額の金がかかって当然、と我々は刷り込まれている)、資生堂の高級化粧品や高須クリニックの整形手術、上野クリニックの包茎手術など、実際の価値を、みんなに幻想を植え付けることで価値をもっと高く見積もらせ、渇望させるというバイアスをかけることで、消費者を消費へと駆り立てる。こうしたことは、むしろ経済学者以外で当然と実感している点だ。また、新古典派の経済学を批判するスティグリッツは、「情報の非対称性」で、ノーベル賞を受賞した。アダム・スミスの発想には売り手と買い手が対等で同等の情報を持っていることが、暗黙の前提になっている。しかし、現実に我々が金融機関から融資を受けるとき、双方が同じ情報を正しく持っているだろうか?きっと、金融機関は難しい約款や契約書で自分を守り、我々の方は何もわからずハンコを押しているはずだ。このような情報の非対称性はあちこちにある。

ここまでで、「グローバリズム」、「新自由主義」、「新古典派経済学」という言葉が出てきたが、どれも一緒と考えてもらって構わない。

上述したような場合に、「市場」は正しい資源配分をするという機能を果たせない。だが、この「市場(=マーケット)に任せよ!」、「政府は何もするな!」という声は、金持ちや特権階級に今なお強い。

このような根拠が薄弱な単純化された”信念”が、グローバリズムへ、「新自由主義」へとつながっている。「新自由主義」によると、経済は自律的にコントロールされるため、貿易を自由化し政府の規制(介入)を最小限にすることが、資源の最適配分と、最大の成長率、富の最大化を達成する道だと言われる。もちろん、実際の経済はこのような単純なものではなく、現実にはあり得ない理論上のモデルにすぎない。だが、市場は有効であり、市場に介入しないことが必要だとの考えが、特に資本家や政治的リーダー、従来型の経済学者の世界で趨勢を占めてきた。

だが、ここで大きな問題の存在がある。だがグローバリズムが有効に機能するとき、徐々に格差は拡大するのだろうか?それとも経済のパイが大きくなるにつれ、時の経過とともに、格差は縮小するのだろうか。政策の分かれ目となる最大のポイントだ。

これに対する従来の答えは、経済のパイが大きくなれば格差は自動的に縮小する、貧乏人の取り分の方が多い、というのが従来の経済学の立場だった。

これが大きな間違いだった。この前提に立つと、所得を金持ちから貧乏人に再分配(経済学では、金持ちから貧乏人へ所得を移転することを「分配」や「再分配」という言葉を使う。)する是非を考える必要はないことになる。時間とともに経済成長が達成されれば、問題(格差)が自然に解決するからだ。

このことが経済学で大きな問題を生じさせてしまった。つまり、経済成長により、金持ちよりも貧乏人の方が早く豊かになるのであれば、金持ちが貧乏にお金を回す必要がないことになると先に書いたとおりだ。このように考えた前提を置いたために、グローバリズム、「新自由主義」以降の経済学は、「分配」を経済学の問題ではなく、倫理や道徳の問題として避けてきた経緯がある。このため、主流派の経済学者は、貧富の格差がこれほど大きくなっても、なかなか自分の研究対象にしようとない。大金持ちが、「貧乏人が貧乏なのは努力が足りなかったためで、自己責任だ!俺の金を貧乏人に使われたくない」と平然と言うことが許される原因にもなった。

つづく

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