文芸批評もガラパゴス? 夏目漱石研究者 ダミアン・フラナガン その1

グレン・グールドオタクの親爺は、グールドの人生観や芸術観を知りたいとずっと思ってきた。 というのは、グールドは子供のときから「結婚はしない」と発言したり、「最後の清教徒」と自称したりする人間だった。これがどこまで本気なのか、目くらましの韜晦だったのかを知りたかったわけだ。 同時に、彼が生きた時代は、第二次大戦前の宗教を含めた古い価値観から、1950年代以降の自由奔放で新しい価値観への転換期であり、その価値観の中に、性(セックス)が大きな柱だったのは間違いがない。そして、芸術観についてもプレスリーや、ビートルズ、ロックミュージックなどたくさんのポップミュージックが登場する時代で、グールドはクラシック音楽の芸術性をどう考えるか悩んでいたはずだ。

ダミアン・フラナガンさん 毎日新聞から

そうしたグールドは、夏目漱石の「草枕」を知り、その小説の虜になる。その小説は、世界の芸術を比較考察しながら、どんな芸術が価値があるか、どんな芸術は価値がないのか考えるもので、芸術と向き合う芸術家の心構えをも考察していた。

親爺は、日本人なので、「草枕」を新仮名遣いの日本語で読んでみた。この「草枕」は、日本だけではなく、西洋と中国の芸術に対する夏目漱石の博覧強記ぶりを強烈に示しており、親爺のような凡人が全てを十全に理解するのは難しい。 ただ、何度かこの小説を読むうち、だいたい夏目漱石が言わんとすることが分かってきたような気がする。

他方グールドが読んだ「草枕」は、当然英訳本ということになる。いくつかの解説書などを読むと、日本語版より、英訳版の方がずっと理解しやすいと言われる。つまり、漱石の格調高いが、難解な古語や漢語が平たくわかりやすく表現されているからだ。

親爺は、2種類の「草枕」の英語版を手に取ってみた。英訳を最初にしたのは、アラン・ターニー(1938-2006)版なのだが、KINDLE版には、メリディス・マッキンリーという翻訳者もいる。

アラン・ターニーが翻訳したペーパーバック版は、新装(2011)されており、この本の冒頭に40ページ弱にもわたる非常に充実した内容のイントロダクションが掲載されている。これを書いたのが、ダミアン・フラナガン(1969-)さんという人物だった。

このダミアン・フラナガンは、イギリス人の日本文学研究者なのだが、夏目漱石を読んで感動し、はるばる日本へやって来て日本語で博士号をとり、日英両語で漱石をはじめとする日本文学の研究成果を出版している。

彼は、当然ながらイギリス人であり、縁もゆかりもない日本語をゼロから勉強し、それも古語と言っても良い明治時代の日本語を勉強して、その研究成果を日本語で論文にする労力は、並大抵ではなかっただろう。

その彼の書く日本語の評論は、はるかに他の日本人の書いた評論より、内容の密度が高く、説得力のあるものだ。しかし、日本人の国文学者先生たちのうけは必ずしも良くなかったようだ。

というのは、彼の夏目漱石観は、他の日本人評論家の漱石観とはずいぶん違っており、日本では夏目漱石が、芥川龍之介と並んで国文学を代表する作家であると紹介されているが、それはまったく間違いだと彼は言う。

つまり、明治時代に西洋文明にキャッチアップしようとした知識人である夏目漱石という個人が、個を確立するために苦悩した物語と捉えられることが日本では一般的だが、これは間違いで、夏目漱石は、シェイクスピアに勝るとも劣らない普遍的なテーマを扱った世界的大作家だと言う。

親爺は、日本の文芸批評には詳しくないのだが、このフラナガンの夏目漱石論は日本の文壇でどうやら、完全に賛同を得られているわけではなさそうで、なぜこれだけ説得力のある文芸批評が受け入れられないのか、そこにはやはりガラパゴス化した日本の閉鎖性があるのではないかとつい思ってしまう。

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彼が、日本文学を研究するようになった経緯を紹介する。ケンブリッジ大学に在籍していたフラナガンは、19歳の時、大学の図書館にある翻訳された夏目漱石を読み漁る。「吾輩は猫である」「それから」「彼岸過迄」「坑夫」「それから」「門」「草枕」「三四郎」「坊ちゃん」「行人」「明暗」を読む。彼が言うには、夏目漱石の着眼点に感心したという。

そもそも、彼は17歳の時に、自然科学を学ぼうとケンブリッジ大学に合格、在籍していた。しかし、体験就職と世界各地の旅行を経て、このまま自然科学を学んでも「工場」で実験する日々が続くに過ぎないと思い、専攻を変え、東洋学部日本語学科へ転入する。

それが縁で、日本への旅行と国際基督教大学で1学期を過ごし、東京から京都への自転車旅行などをするうち、生涯を文学の研究に身をささげようと決心する。英国に戻った彼は、まず英文学を専攻するためにケンブリッジ大学へ舞い戻る。今度はここで、ギリシャ悲劇、サルトル、ジョージ・エリオット、ジョセフ・コンラッド、ジョイス、メルヴィル、シェイクスピア、オーデン、英文学ではないが、ドストエフスキー、トーマス・マン、スタンダールなどを読み漁る。

こうして彼は、英国で正統派の英「文学」を学ぶのだが、英「文学」がピンと来ない。むしろ、夏目漱石の方がピンとくる自分に気づく。

こうして世界の文学と夏目漱石の両方を読みふけるフラナガンは、漱石の背後にニーチェの影響があることを確信する。フラナガンは、この夏目漱石がシェイクスピア以上の文豪だと確信し、再来日し、今度は日本語の勉強から始め、神戸大学で夏目漱石を研究し、文学の博士号をとった。 これが大体の経緯である。

次回は、そのフラナガンの夏目漱石観について具体的に触れたい。

その1 おしまい

グールドがいちばん愛読したトーマス・マン「魔の山」その1

兎に角長い。
上下二巻で各巻が、
800ページほどある。

1932年生まれのグレン・グールドが、ニューヨークデビューしたのは、1955年なので、第二次世界大戦も終わり、社会は平和と繁栄を謳歌し始めた幸福な時期である。その戦争の影響が非常に少なかったカナダ、トロントで育ったWASP(ワスプ=ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント《≒新大陸に渡った、白人支配層の保守派を一般に意味する》)の彼は、それまでの西洋文化のバックグラウンドと戦後の自由や民主主義、社会の旧弊への反抗などを胸に抱えて青年期を過ごしたはずだ。

そうしたグールドは、トーマス・マンを筆頭に、トルストイ、ドストエフスキー、ヘッセ、カミュなどの世界的な名著をひろく読んでいた。日本の作家では、安倍公房、三島由紀夫や夏目漱石を読んでいて、とくに夏目漱石の「草枕」を絶賛しており、「草枕」の朗読番組を作ったこともある。亡くなる直前に彼は、「草枕」の番組を作ろうとしており、枕元には日本語版と何種類ものびっしり書き込まれた英語版「草枕」が残されていた。自分を芸術家と定義するグールドは、とくに漱石の芸術観につよく共鳴し、芸術が人を長閑(のどか)にし安らぎを与えるというところに、漱石と自分の共通項を見ていたように思う。

そんなことで、グールドはどんな思いで、マンの「魔の山」を読んでいたのかと思いを巡らせながらこの本を読んでみた。

この「魔の山」だが、兎に角長い! 文庫本で上下2冊あるのだが、それぞれの巻が800ページほどある。

そのなかで、登場人物に年長のイタリア人の自称、人文主義者と、カトリックに改宗した虚無主義のユダヤ人修道士が人生の先輩として説教しに出てくる。主人公を交えて、ああだこうだと議論するのだが、これが延々と長い!!どうでもいいとしか思えない、結論が見えないような熱のこもった議論が、延々と続く。その挙句の果てのオチに、もう一人の堂々とした多くを語らないオランダ人のコーヒー王(主人公が恋心を抱くヒロインの情夫である老人)が出てくるのだが、その人間的な魅力の前に、二人の屁理屈王たちの存在が霞んでしまう。

こういう未熟な主人公が、成長するにつれて人格を形成していく小説を、「教養小説」というそうだ。夏目漱石の「三四郎」などもそうらしい。そういう意味では、様々な読み方があるはずだが、決して権威を肯定するような小説ではない。

ただし、市民社会と言いながら、社会階級からくる差別意識は色濃い。夏目漱石の小説もそうだが、このマンの小説にも、下層階級のだらしなさを非難する描写がふんだんに出てくる。こうした下層階級の人たちを二人の作家が否定しているわけでは全くないが、ある種のエリート意識があるのは否めない。 むしろ、グールドの場合、彼は自分を芸術家と考えており、それは普通の人たちとは違うことを意味しており、その分芸術で、視聴者に責任を負っていると考えていたのは明らかだ。むしろ、人類みな平等というスローガンより、芸術家としての義務感が感じられてよろしい。グールドの思いが出ているところを例示すると、次のようになる。

● 「本質的には、芸術の目的は、癒しなおすことです。音楽は心を安らかにする経験なのだと思いたいのです。」(「グレングールドは語る」)

● 「聞くものにこの世のことを忘れさせてくれない音楽は、それができる音楽より本質的に劣っていると私は思う。」(「グレン・グールド 著作集2」)

● グールドではないが、カラヤン大先生の発言は分かり易い。『演奏者だけが盛り上がって聴衆は冷めているのは三流、 聴衆も同じく興奮して二流、 演奏者は冷静で聴衆が興奮して一流。』ヘ ルベルト・フォン・カラヤン

小説の登場人物それぞれに、やむをえない事情があり、それぞれが正しい人生や模範となる人生を歩もうとしながらも、簡単にそうはならない矛盾がとうぜんある。とりわけ、最後に出てくる「霹靂」の第1次世界大戦は、世界中から患者が集まるサナトリウムを一瞬で一変させ、患者たちがわれ先にと出身国に帰り、戦争に参加しようとするという結末は、それまでのサナトリウム内の騒動である喧嘩や、情事、人文主義者とニヒリストの議論、日常的に起こる個人の死などすべてのひとの営みを軽々と吹き飛ばすものだ。

もう一つのテーマと思えるヒロインとの淡い恋物語も、単純でキレイな話ではなく、主人公ハンスのプライドや世間体と、淫蕩な欲望が絡んだせめぎあいから出発している。主人公の態度は現代ではじれったいし、時代がかっているだろう。しかし、主人公のまどろっこしい態度とヒロインのある種の冷ややかな態度は、万国共通で時代を超えて普遍的であり、とても納得ができるものだ。

読みながら主は、自身のプライドや自尊心を守りながら、女性に対し欲望や欲情を満たそうとしても、簡単に見破られ、とても成就しないものだと感じる

グールドは、両親が極端にまじめなプロテスタントの家庭で育ち、性的な話や下ネタ系の下品な話は全くタブーだった。このため、友達が「ファック!」とかガールフレンドとの性的な話などと言おうものなら、そんな言い方は止めてと懇願したらしい。そんな抑圧を抱えたグールドは、自分の女性関係を徹底的に隠し、女性関係は今もってベールに奥深く包まれている。

しかし、プロデューサーのアンドルー・カズディンは、グールドが精力的に仕事をしていた後半の15年ほどの期間、一緒に仕事をしていたのだが、グールドの女性への態度を次のように語っている。

グールドには、正常な発達がどこかで阻害されたのではあるまいかと思われることろが幾つかあった。それは・・・世間一般の常識からすると、確かにグールドの女性に対する態度は変わっていた。それは私にもはっきり感じられた。彼は女性を、あたかも思春期前の少年のような純真な眼差しで見ていたのである。彼が抱く想像の世界では、十代の若者にありがちな未熟な要素と、年輪を重ねた者でなければ決して持ち得ない、創造性に飛んだ高度の知的要素といったものが分かち難く同居していた。そして、その二つが同時に顔をのぞかせることが多かった。」

「創造の内幕 グレン・グールド・アット・ワーク」

この小説の主人公のヒロインに対する恋心は、相手を貶めながらも、自分のものにしたいという矛盾したところがあり、グールドにも似たような部分があるかもしれない。

この長い小説を読むのには、骨が折れた。特に前半は、展開がゆっくりして忍耐を要した。しかし、話の展開が進むにつつれて、意外な事件が次々おこり、読みやすくなった。 

この本を読んでいると、西洋の歴史の厚みというか、圧政で押さえつけられてきた民衆がやっとのことで王政を打ち壊し、自由や平等、啓蒙思想の市民社会を作り上げた分厚くて困難な歴史が背景にあることを実感する。そのプロセスには、様々な哲学論争や、政治思想、また、カトリックだけでなくプロテスタントによる宗教革命など激しい争いがあったのだろう。そうした歴史を経て生まれた市民社会だが、それは依然として完成形ではなく、戦争によって簡単に壊されてしまう、そんな風にも読めた。

またこの小説は、様々な二項対立を描いている。我々の世界観の中に含まれる両極端な考えを、わかりやすく対比して示しているのは間違いない。それがグールドの価値観、我々の価値観の形成につながっているに違いない。

なお、次回アップしようと思うのだが、「魔の山」のあらすじをできるだけわかりやすく面白く書きたい。

おしまい

「グレン・グールドは、クラシックの音楽家ではない」宮澤淳一 

青山学院大学教授で日本のグールド研究の第一人者の宮澤淳一氏は、「グレン・グールドはクラシックの音楽家ではない」と言う。http://www.walkingtune.com/gg_07_kangaeruhito.html 氏は、「グールド本人が意識していたかどうかはともかく、彼の演奏はクラシック音楽での解釈の約束事を無視した営為であって、これは作曲家よりも演奏家の創意が重視されるジャンル(ジャズやロック等のポピュラー音楽)でこそ輝く個性である。だから、異端視するよりも、『グールドはクラシック音楽ではない』と考えた方がすっきりする。」と結論づける。 この発言は、もちろんデフォルメした言い方でグールドはクラシックの音楽家なのだが、グールドだけが他の演奏家と比べるとまったく違った考え方をしているという意味で、とても分かりやすい。

昨年12月カナダ大使館で行われたGlennGouldGatheringでの宮澤氏の解説風景

クラシック音楽の世界では、作曲家が王様であり、演奏者は作曲家の家来という構図であり、演奏家は如何に作曲家の意図を忠実に再現することができるかが、この業界の指標となっていた。楽譜に忠実に演奏することに加えて、作曲年代と楽器の制限(例えば、現代のピアノの性能はロマン派の作曲家の時代と性能が異なっている)を考慮する古楽器ブームもある。バッハの時代にピアノはなかったし、モーツアルト、ヴェートーベンの時代のピアノも今のピアノに比べるとちゃちで、当時の楽器で忠実に再現したらという考えは今でもある。音楽を楽しむことより、方法論を優先する、言ってみれば原理主義が幅を利かしている。

時代とともに楽器そのものが変わり、作曲家たちも新しい語法で作曲し、オーケストラの規模は大きくなり続け、行き着いた極限がマーラーだと言われる。

主は、最近読売交響楽団(井上道義指揮)が演奏するそのマーラーの「千人の交響曲」のコンサートへ行ってきた。この「千人の交響曲」はオーケストラ自身の各楽器の構成数が大きいのもあるが、パイプオルガンが使われ、ハープが何台も並び、チェレスタ、トライアングル、マンドリン、ソロ歌手8人に加え、大人の合唱団200人以上、子供の合唱団50人以上が加わる。第1部と第2部を合わせて90分ほどある大曲なのだが、手を変え品を変えさまざまな旋律を楽しむことができ、あっという間の90分で大いに感動した。しかし、感動の仕方が、ピアニッシモとフォルテッシモの落差のスケールに圧倒されるという面が確実にあり、「こりゃあ、一種のスポーツだな。何の哲学も感じられないな」とも思ったし、「やっぱ、ヴェートーベンの方が深いな。シェーンベルクの方がカッコ良いな」とも感じた。当り前だが、音楽は時代を下れば良いものになるとは限らない。

グールドの音楽の演奏態度は、音程以外、どのクラシックの音楽家誰もが金科玉条とする作曲家の指示を守らない。楽譜の強弱記号、速度記号、反復記号を守らない。常に守らないわけではないが、自分の判断を優先する。音符の装飾方法も業界の概念を覆して独自な面があるらしい。和音を和音として同時に打鍵することはほとんどなく、10本しかない指で3声、4声を際立たせる。モーツアルトは「クリシェ」(紋切り型でありきたり、新しいものがない)だと批判して、世間に対して挑戦的になり、「こうしたら面白くなるぞ」と上声のメロディーだけだったところに内声の音符を加えポリフォニックに改変した。グールドには作曲家への指向が常にあり、どの曲もその持つ曲の本来の良さ、作曲家さえ知らなかった良さを、従来の演奏方法・観念に囚われず示そうとした。

音楽家は普通、師匠に師事し師匠の言う事を絶対として受け取り、業界の固定観念の中で生きるのが常だ。有名な音楽家への道は、コンクールで優勝することだ。そうして名を知られ、コンサートツアーへ年に何百日も巡る。コンクールで優勝するためには、多くの審査員からまんべんなく票を得る必要があり、優れた感受性や斬新さよりも、そつなくこなす技術が求められる。当然、曲の解釈も個性的なものより平均的で新味がないものになる。こうしてどんな名曲に対しても、ありきたりで、平均的な演奏をする演奏者が再生産されるシステムが出来上がる。

ところがグールドの両親は、コンクールで優勝するための競争は息子を消耗させると考え、コンクールに息子を極力出さないようにし、グールドは自由に自分の頭で音楽を考えるように育った。グールドは母親に10才までピアノを教わったが、やがて母親が教えることができないレベルになる。案じた母親は、10才から19才までチリ人のピアニスト、アルベルト・ゲレーロが教えるように手配した。ゲレーロは生徒に子供を取らない主義だったが、グールドのレベルの高さにすぐ気づき生徒に取ることを引き受けた。ゲレーロに言わせるとグールドは “Unteachable” な生徒だったという。教えようとすると猛烈に反発するために、答えを自分で発見させるように仕向け、単に教えられるよりも自分で発見させるほうがグールドにとってより活性化できると考えたという。プロデビューを果たした後、ゲレーロから大きく影響を受けたのは明らかだったにも拘わらず、グールドは「ピアノは独学でした」と言い張りゲレーロは落胆したが、「それでいいんだ」と落胆したそぶりを見せなかった。

ピアノは打鍵した後、鍵盤を押さえている間、打鍵された音が減衰しながら続く楽器だ。ピアニスティックとかピアニズムという言い方があり、いかにもピアノらしく響かせるという意味なのだが、メロディーをレガートに音価(音の長さ)一杯に引っ張り、メロディーと伴奏をゴージャスに、流麗に弾くのがピアニスティックな演奏である。ところが、2回目のゴールドベルグ変奏曲の録音に関する1982年のティム・ペイジ(TP)との対談では、グールド(GG)は自分の奏法に関して次のように言っている

(GG)「・・僕が大バッハを扱う時の音のコンセプトは、また例の言葉をあえて使うなら、デタシェ(=音と音がつながらない、隙間がある)なんだ。つまり、ふたつの連続した音の間のノン・レガートの状態そのものや、ノン・レガートの関係、ないしは点描画法的な関係が基本なのであって、これが例外的な奏法ではない。むしろ例外的なのはレガートでつなげることなんだ」

(TP)「もちろん、君の主張がピアノ奏法の大前提を覆すことになる点は承知しているよね!?」

(GG)「うん、結局そうしようとしているんだ」(翻訳:宮澤淳一)


このデタシェという言葉はフランス語なのだが、英語は “Detach”(=de-touch 切り離す、分離させる)、名詞形は “Detachment” である。

この”Detachment” が、夏目漱石の小説「草枕」に出てくる。グールドは、「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る」という名文で始まる「草枕」をこよなく愛した。冒頭から芸術と世俗、非人情と人情の対比をして、漱石の「芸術とは何か?」が語られる。「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有(有難)い世界をまのあたりに写すのが詩である。画である。あるは音楽と彫刻である」と言う。人情を「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世にはつきものだ。余も30年の間それを仕通して、飽き飽きした」と言い、これに対して、超然としているさまを漱石は「非人情」と言い、「非人情」の訳語に翻訳者のアラン・ターニーは “Detachment” を使った。「・・・淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、少しの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ。 勿論、人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ」と言う。グールドは「草枕」を二十世紀小説の最高傑作のひとつだと愛してやまず、従妹のジェシーに電話で全文を読み聞かせたり、晩年にはラジオで「草枕」を朗読する番組を作ったほどで、死後グールドの部屋には多くの書き込みがされた何種類もの「草枕」の翻訳本があり、脚本を書こうとしていたという。

このデタシェの点描画法は「非人情の天地に逍遥」することであり、緊張の弛緩、軽妙なユーモアだ。逆に、レガートは緊張を高める。グールドは、複数の旋律があるポリフォニックな曲では、旋律にデタシェとレガートを弾き分けており、時に交代させ飽きさせない。一般的なピアニストの場合はレガートが基本で、美しく緊張を保つものの一本調子となり飽きてくる。

グールドは、ポリフォニックな対位法で書かれた曲を好んだ。また、子供時代にオルガンを学び足でも旋律を弾くことで、和音であっても自然と和音を分解し、別のメロディーとして捉える。ピアノで各声部を弾くとき、あたかも弦楽四重奏を演奏するように別の楽器が鳴っているように演奏していた。

普段の生活でも、コンピュータ用語を使えばマルチタスク人間だった。レストランでは、近くの席の複数のテーブルで交わされる3つか4つの会話を同時に理解できた。テレビでドラマを、ラジオでニュースを流しながら、スコアを頭に入れ、どれも理解できていたという。彼は対位法的ラジオと言われるドキュメンタリーのラジオドラマ、極北で暮らす人々の孤独をテーマにした「北の理念」などの「孤独三部作」を作ったのだが、5人の登場人物が全く違う内容を語る話声をフーガのように合成したもので、誰も話の内容を理解できないとの批判もあったが、グールドは「私たちの大半は、自覚しているよりもはるかに多くの情報を取り入れる耳を持っている」とライナーノーツに書く。後にはこのラジオドラマのTVバージョンも作られる。

グールドは、誰でも知っている有名な曲は、特に確信犯的にこれまでになかった演奏をした。バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第1曲のプレリュードは有名で、ググってみたら大和ハウスと資生堂がCMに使っていた。この有名な曲は、どのピアニストも流れるように優しく美しく弾くのが普通だが、グールドはやはりスタッカートで弾き、度肝を抜いた。変っているが、この曲がもつ良さは伝わってくる。 ベートーベンのピアノソナタ「月光」、これも第1楽章は特に有名だろう。(大和ハウスはクラシックが好きなようで、この曲の第3楽章をCMに使っている)こちらは感情を思い切りこめスローテンポでドラマチックに弾くのが普通なところ、グールドはアップテンポで抑揚をつけず淡々と同じリズムで弾きとおす。それが新鮮で、逆に清潔、潔癖、秘めた激情を感じさせる。 モーツアルトで有名な曲と言えば、「トルコ行進曲」だろう。この「トルコ行進曲」はピアノソナタ第11番の最終楽章なのだが、やはりグールドは破天荒な演奏をしている。下の写真は、「グレン・グールド・オン・テレヴィジョン」に収録されている1966年に行われたハンフリーバートンとの対話だ。この番組でグールドは、自分の音楽観を披露しながらピアノを弾く。これが実に刺激的だ。ごく一部だが、YOUTUBEにその様子アップされていたので、再生していただけたら嬉しい。また、「トルコ行進曲」聴き比べというのもあり、ギーゼキング、グールド、グルダ、バックハウス、ホロヴィッツが並んでいるのだが、グールド以外は軽快な元気さだけが伝わってくるくるのみだ。グールドはこの「トルコ行進曲」を断然ゆっくりと、初めは控えめに弾き始め、徐々に抑揚をつけメロディーの音色を変え、変化を楽しませてくれる。伴奏の和音をことさら崩して弾き、やはり抑揚をつけクライマックスを最後に持ってきているのが良く分かる。主は大いに感動してしまった。

1966年BBC向けハンフリーバートンとの対談

ちょっと長くなってしまったが、この番組の中で、他にもグールドは面白いことをいくつか発言している。自分は偏屈だったので、誰でも練習するこのピアノソナタを弾いたことがなく、どのように弾くか1週間前までアイデアが決まらず、スタジオに入ってもまだ確信がなかった。また、すでに立派な演奏が残されているので、それと同じ演奏をするのではなく、違った演奏をするのが演奏家の務めで、それが出来なければ職業を変えるべきだとまで言っており、次回にでも紹介したい。

おしまい

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