アスペルガー症候群とグレン・グールド

グールドは、さまざまな疾患を生涯にわたって抱えていた。少年期の終わりには、早くも処方薬を手放せなくなり、大人になると薬を山のように飲んでいた。カナダとアメリカの国境で、あまりに大量の薬を持っているために不審がられ、税関で拘束されたくらいだ。確かグールドがデビューしたての頃の映画にも、似たようなシーンがあった。インタビュアーが旅行の時には、薬でトランク一つが一杯になっているそうですね?」と尋ねる。 それに対し、グールドは「トランクは大きすぎるよ。アタッシュケースぐらいなもんだよ」と答える!!

グールドが抱えていた疾患のうち、心気症(ヒポコンデリー)はよく知られているが、不眠や情緒不安定にも悩まされていた。複数の医師にかかり、他の医師の診察を受けていることを隠して、精神障害や情緒障害の処方薬を同時にもらい、大量に飲んでいた。彼の友人の精神科医のピーター・オストウォルドが1996年に書いた伝記を読むと、グールドの根底にある性向として、アスペルガー症候群が強く示唆されている。アスペルガー症候群が広く認知されるようになったのは、1990年代というから、グールドの生前には知られていなかった障害である。アスペルガー症候群は自閉症の一種で、対人関係が不器用で、他人の気持ちや常識を理解しづらいことから、社会に溶け込むことができずさまざまな問題を引き起こす。だが、一方で人並み外れた能力(高度な集中力や深い知識)を持っていることが特徴である。

そうした関心から「アスペルガー症候群」(岡田尊司 幻冬舎新書)を読んでみたのだが、アスペルガー症候群がグールドにまさにぴったりあてはまり、非常に驚いた。

一般にアスペルガー症候群を持つ人は、他人の気持ちを理解できづらいために周囲から疎まれ、それが原因となって、持てる能力を発揮できず、生きづらい生活になってしまう場合が多い。しかし、グールドの場合は、母親をはじめとする周囲のサポートがあったために、生涯をとおして彼が持つ高い能力を音楽の分野で発揮することができた。このため、音楽の才能をどんどん高めることが出来た。演奏のみならず、音楽評論家、作曲家、プロデューサーでもあったが、それらはすべて音楽から出たもので、(株で儲けていたとか、安倍公房原作の映画「砂の女」や夏目漱石の「草枕」に夢中になったりしたという事実などもあるにはあるが・・・)彼は音楽に人生のすべてを、土曜も日曜もなく、朝から晩まで捧げていたと言っても間違いではない。

グールドと同じくアスペルガー症候群を抱えながら功績を残した人物として、アインシュタイン、エジソン、グラハム・ベル、ヒッチ・コック、ダーウィン、西田幾多郎、ディズニー、ビル・ゲイツなど多くの例が上げられている。

以下で、アスペルガー症候群を感じさせるグールドの子供時代を紹介しよう。

グールドの母フローラグリーグ(Grieg 1843-1907、ノルウェーの作曲家)が母親のいとこにあたることを誇りにする声楽教師であり、ピアノ教師でもあった。教会の聖歌隊が縁で10歳年下の父親バートと知り合い1925年に結婚する。二人とも敬虔なプロテスタントで、深く音楽を愛していた。バートは毛皮商を営んでいたが、美声の持ち主でヴァイオリンを弾くこともできた。フローラは、バートとの結婚によりプロの声楽家になることをあきらめる。当時の女性にとって結婚は、主婦に専念することを意味する時代だった。このことが、グールドをプロの音楽家にしたいと考えるきっかけになったかも知れない。

フローラは何度かの流産ののち、1932年40歳で待望の子供グールドに恵まれるのだが、子供がお腹の中にいるときから、歌いながらピアノを弾き、胎児に聞かせていた。この夫婦にとってグールドは「念願の子」であり、一人っ子で甘やかされ過保護に育てられる。

グールドに絶対音感があることをバートが見抜き、フローラは3歳の時にピアノを教え始める。グールドは文字を読むよりも先に、楽譜が読めるようになる。グールドの死後1986年にフランスで催されたグールド展のパンフレットに、バートは赤ん坊のグールドの様子を次のように書いている。「祖母の膝に乗ってピアノに向かえるようになるや、たいていの子供は手全体でいくつものキーを一度に無造作に叩いてしまうものだが、グレンは必ず一つのキーだけを押さえ、出てきた音が完全に聞こえなくなるまで指を離さなかった」音楽の才能は、明らかだった。フローラはピアノで弾くさまざまな和音を、家の離れた場所のグールドに当てさせるというゲームをするのだが、グールドが間違えることはなかった。一方、グールドは、同年齢の子供とまったく遊ばなかった。フローラは音楽を熱心に教えたが、音楽以外の、例えば友達と協調することや我慢することなど、子供に必要なことを上手に教えることができなかった。こうして、グールドは、6歳になった時人間よりずっと動物となかよくできる自分を発見する! 小学校に行く年齢になると、グールドは両親にこう訴える。「6歳の時に両親に言って、なんとか納得させたのは、自分はまれに見る繊細な人間なのだから、同じ年頃の子供たちから受ける粗野な蛮行に曝されるべきではないということでした」その結果、両親は1年弱、自宅で家庭教師を雇う。2年生から仕方なく小学校へ行くようになるのだが、全く教師、同級生と溶け込むことがない。「ぼくは先生たちとほとんどとうまくいかず、生徒のだれとも仲良くすることができなかった。ぼくの性格には児童心理学者のいう集団精神がまったく欠けていたのです」と語っている。ピアノに没頭する、他の子供たちとうまくいかない、ますますピアノに逃避するというサイクルにグールドは入っていた。

他方、グールドは音楽家としての才能は、すぐに母のレベルを追い抜いてしまう。もう、子供へ教えることができないのだ。すると、フローラはしかるべく次の行動に出る。7歳になるとトロント音楽院へ午後通わせるのである。また、グールドの音楽の才能が遥か高みに上ってしまった10歳の時には、高名なチリ人のピアニストのゲレーロに教師を依頼する。ゲレーロは、子供を弟子にとらない主義だったが、グールドの天才をすぐに認め教師になることを承諾する。このときの、教授法が変わっている。グールドの性格を見抜き、教えるのではなく、グールドが正解に気付くようにしむけたのだ。どんどん、正解を見つけ才能を伸ばしていくグールド。

グールドを形作ったのは、明らかにこのゲレーロなのだが、グールドはピアノは独学だったと生涯言い続け、ゲレーロの影響を認めなかった。

おしまい

 

brasileiro365 について

 ジジイ(時事)ネタも取り上げています。ここ1年、YOUTUBEをよく見るようになって、世の中の見方がすっかり変わってしまいました。   好きな音楽:完全にカナダ人クラシック・ピアニスト、グレン・グールドのおたくです。他はあまり聴かないのですが、クラシック全般とジャズ、ブラジル音楽を聴きます。  2002年から4年間ブラジルに住み、2013年から2年間パプア・ニューギニアに住んでいました。これがブログ名の由来です。  アイコンの写真は、パプア・ニューギニアにいた時、ゴロカという県都で行われた部族の踊りを意味する≪シンシン(Sing Sing)≫のショーで、マッドマン(Mad Man)のお面を被っているところです。  
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