愛とセックスの話 (2023/4/10 修正しました)

「歌舞伎町と貧困女子」(中村敦彦 宝島新書)、「往復書簡 限界から始まる」(上野千鶴子・鈴木涼美 幻冬舎)と「ちつのトリセツ 劣化はとまる」(原田純 径書房)を書かれた原田純さんのYOUTUBEとを題材にして、《愛とセックス》について考えてみた。

以下の写真は、著者の方々である。

上野千鶴子さん
鈴木涼美さん
原田純さん
中村敦彦さん

● 結論

いきなり結論から入ろうと思う。

昔、あるいは今でも、一般に《セックス》とは《結婚》を前提にしている。そこには《愛情》が不可欠とされてきた。

しかし他方で、「歌舞伎町と貧困女子」(中村敦彦(50歳) 宝島新書)を読むと、現在、10代、20代の普通にどこにでもいるような普通の女の子が、ホストクラブのホストにハマる《ホス狂い》になり、ホストに貢ぐ大金を稼ぐために、風俗で働いたり、《空気を吸うように》売春をしているという。彼女たちの《セックス》は《愛情》と分離されている。

 「チツのトリセツ 劣化はとまる」(原田純 径書房)を書かれた原田純さん(68歳)がYOUTUBEで、一般には言いにくいことをはっきり言われている。

結婚している中高年カップルの奥さんから見た《夫》は、何の取り柄もなく偉そうにするばかりで、セックスも自己中心的で絶望しかない。欧米の老夫婦は結構な率で性生活をエンジョイしているが、日本はほとんどがセックスはご無沙汰で、性生活のあるカップルにとっても、女性側は仕方なく夫の相手をしているだけだという。妻にとって夫は、まったく期待できない。 高齢男性は、セックスで女性を圧倒するという固定観念を捨て去り、気の合うパートナーと、お互い相手を思いやり、スローで楽しいセックスを楽しみましょう、そうすることで男女が本来の自分を取り戻すことが出来ます、何歳になってもそれは可能ですと言う。 高齢の夫との《セックス》には、もう《愛情》がなく、両方を求めるためには、気の合うパートナーを見つけることだということになる。

ここまでのところ、《ホス狂いの貧困女子の売春》と、連れ合いと仕方なくする高齢者の《セックス》は、《愛情》がないという点については一致している。

「往復書簡 限界から始まる」(上野千鶴子・鈴木涼美 幻冬舎)は分厚い本だが、男女の《愛とセックス》について、往復書簡の体裁を取りながらストレートに主張し合った本である。上野千鶴子さん(74歳)の言い回しは学者らしく、曲がりくねっており、Googleさんに聞きながらを読む術しかないカナカナ用語が頻発して、アカデミックぽさが漂っている。

日本のフェミニストの草分けであり、大御所でもある上野千鶴子さんの発言は、「構造と主体」という切り口で考えられており、女性が永らく「社会構造」によって振舞いを制約されてきた被害者であるという立場である。こうした考えは、アメリカの黒人が劣っているとすれば、それは社会構造がそうなっているからだという《批判的人種理論》に通じるものを感じる。もちろんそういう側面を否定できないが、原因全てをそこに求めてしまうのは、やりすぎではないかと思う。

同時に、上野千鶴子さんの《愛とセックス》に対する姿勢についてだが、《セックス》は本源的に、《愛情》がセットになっているべきという観念が底流にあり、逆に、《愛情》のない《セックス》は女性を搾取し、貶めるという考え方に常に捉えられているように思える。 つまり、貧困を背景にした人を貶めるような構造的な買売春などを許さないのがフェミニズムだ、と主張されているように思える。それは、《愛とセックス》の話ではなく、社会の在り方への問題意識だと感じるのだが、どうだろう。

もう一人の書簡の書き手の鈴木涼美(39歳)さんは、元AV女優だったが、もう一方で、東大の大学院を出て日経新聞の記者だったという経歴がある。

彼女は、16歳のバージンだった高校生の時に、ブルセラショップで、パンツ、ブラジャーとルーズソックスをマジックミラー越しにキモ親爺に売り、キモ親爺がパンツを頭に被り、ルーズソックスを首に巻き、ブラジャーの臭いを嗅ぎながらながらマスターベーションをするのをうっすら分かるマジックミラー越しに見て、《男一般》に絶望した。この経験が、彼女の《愛とセックス》の入り口だった。 その鈴木涼美さんは、男に絶望すると同時に、軽蔑心や理解不能感を抱きながら、日経新聞の記者をやりながら、キャバクラで働き、AV女優稼業を並行する。

やがて、彼女は付き合っていた男の嫉妬心から、AV女優であることを会社や両親にばらされる。その後、鈴木涼美さんは会社を辞めて、社会学者へ、文筆業へと進む。

そのような経歴を持つ彼女は、後輩にAV嬢になりたいと相談されると次のようにアドバイスするという。ー「AV女優を引退することは出来るけれど、元AV女優を引退することは出来ない。」ーつまり、いつまでたっても、AV女優だったことに対するリスクから引退後も抜け出せない。ここに社会の怖さがある。AV女優だった出演料の中には、AV女優を辞めた後の生活費が上乗せされているという。

鈴木涼美さんは、男女関係を俯瞰する面白い著作を多く出版しており、男という種の馬鹿さ加減と、女という種の生存戦略など、また、彼女のちょっと、距離を置いた《愛とセックス》の見方に他にない新しい発見があり、結構面白い。

この二人の往復書簡は、上野千鶴子さんの言う、愛のない《肉体と精神をどぶに捨てるようなセックス》についてかなりのウエイトを置いて考察されている。

もちろん、上野千鶴子さんは《どぶに捨てるようなセックス》を提供する側を擁護する立場なのだが、鈴木涼美さんはニュアンスがちょっと違って、どぶに捨てるようなセックスであっても、それに対価が伴うのであれば、肉体と精神を捨てるということはないように思えるとも読み取れる。

ここで果たして、金で買われた《セックス》は、本当に尊厳やプライドを傷つけるのだろうか、という疑問が出てくる。

親爺が思うのは、金で買われたセックスでも、お互いが納得していれば《必要悪》レベルなのではないかと思う。《セックス》は、別に魂までを売る行為でもなく、《どぶに(自分を)捨てる》行為でもないだろうと思う。

原田純さんが言うように、「セックスは究極の遊び」だというのが親爺の結論です。

しかしながら現実は、《セックス》が仮に《究極の遊び》に過ぎないとしても、夫婦以外の気の合うカップルが《セックス》に没頭すれば、生殖能力があれば子供が生まれたりすることもあるだろうし、家庭を顧みなくなって、既存の夫婦関係が壊れる恐れが大いにあるでしょう。そこで社会通念や、宗教、倫理などが、夫婦以外のセックスを禁止してきた背景が、当然ながら頑としてある。 《セックス》の本質が、仮に《究極の遊び》だとしても、夫婦の片割れ、連れ合いの存在が《遊び》であることを許さない。

実際のところ、嫌な相手とセックスするのは男女どちらにとっても願い下げなのだが、好ましい相手となら《セックス》は《究極の遊び》に違いない。ただ、それを大っぴらに社会に向かって言うと、限られた経済状況やしがらみの中で生きざるを得ない我々にとって、結婚や家族の生活の枠組みなどを壊しかねない。それで、宗教を持った欧米人、その他の外国人、世間体をもっとも気にする日本人も、だれもが認めないのでしょうね。

こんな結論では平凡でつまらないでしょうか。(苦笑)

その1 おしまい

 デフレの30年間に「萎縮」した日本人 その2 《不自然な医療・介護》

日本人の誰もが分かっていながら、当事者たちの困難を放置し、遠巻きに眺めているだけの問題に、老人医療と介護の問題がある。

介護施設や療養型の病院ではかなりの頻度で、老人の患者の殺人が起こる。看護師が、寝たきりの老人に筋弛緩剤を注射して殺したりする。

介護施設では、介護士が老人を深夜、入居者を上階から投げ落とす。こちらは、ちょっと性質が違うかもしれないが、保育園でも、幼児の虐待事件が起こった。 ニュースになるのは一部だろうから、実際はもっと頻繁に起こっていると考えるのが自然だろう。

2018.07. 大口病院の点滴殺人事件の深い闇:アゴラから
相模原施設19人殺害事件、植松被告に死刑判決
2020年3月 BBCニュースから

これらの原因の大半は、報酬が低すぎるからだと親爺は思っている。つまり、幼児保育を含め、老人介護、回復の見込めない療養老人の医療などは、肉体的に非常な重労働であるだけでなく、精神的にも非常な重労働だ。

もし、需要と供給という市場原理で給与が決定されるとすると、倍以上の報酬を受け取っても良い重労働だと思う。

ところが、介護士、看護師の給与は、公定で決められている。介護士の報酬は、介護保険制度の枠の中で決まっているし、看護師報酬も、健康保険制度のなかで、診療報酬が大枠で決まっている。医療・介護のコスト負担が財政分野に重くのしかかっている事情があるので、おのずと、安く設定されていることもある。加えて、世間の物価が上がっても、遅れてしか改訂されない。つまり、賃金の面で、一番報われない職業だ。

2022年8月9日(逮捕・殺人容疑)日テレニュースから

というのは、保育にしろ、介護にしろ、延命のための病気療養にしろ、これらは非常に不自然な仕事という側面がある。

世の中には、「共同幻想」というものが存在する。

「共同幻想」とは、日本では「生命は地球より重い。」とか、「誰しも、孤独死は可哀そうだ。家族に看取られて死ぬべきだ。」とか「個人の意思は尊重されなければならない。」・・・とかいう、社会通念上の縛りだ。 

だが、我々は、資本主義の社会に生きており、自分で勝手に他人の労力に頼らずに何かをするのであれば、それはそれで結構なのだが、他人の手を煩わせるサービスの提供を求めるのであれば、それなりの対価を支払わなければならないというのが、資本主義社会の掟である。

つまり、お金(通貨)が、限りある資源配分を調整する役割をしている。

これは、医療や介護の世界でも同じだ。技術のレベルの制限もあるし、国民の所得レベルにも制限がある。そうした中で、どれだけのサービスを受けれるのが望ましいかと考えるとき、国民全員の希望をすべて、無料で(タダで)満たすのは難しいという言うのはすぐに分かることだろう。

しかし、日本の医療・介護制度はメチャクチャである。保育も、公定で報酬が決められるということであれば、同じである。

こうした労働に対する報酬が、需要と供給だけで決まるのであれば、今より倍や3倍の賃金になっていてもおかしくない。つまり、こうした労働は大変で、肉体的にも精神的にもきつい重労働で、誰しも、高賃金でないと耐えられない。そうした、供給の少ない労働に対する賃金は、価格が自由に動くマーケット(市場、社会)であれば、高い方へ動く。改善が見込めない年寄りの面倒を家族が見てもらいたければ、高い賃金を看護師や介護士に払うしかない。

ところが、予算が崩壊しそうなほど圧迫している医療・介護の世界は、国が大々的に予算を投じ、関与していながら、実施部隊は民間企業(=病院や施設)がやっている。公営の病院や施設もあるが、こちらも独立採算で黒字を求められるので、同じ行動原理で動いている。

この分野は、国の予算を圧迫しているので、診療報酬などサービスの単価は安く抑えられている。そうした中で、永遠の存続が使命の病院や施設の経営者たちは、当然ながら、薄利多売で患者や入居者を集めるという行動を選択する。 つまり、老人たちの囲い込みである。 医者たちは、日本で最も政治力のある団体である。 テレビや雑誌、新聞などで、健康情報を流し、国民の不安を煽る。そうすることで、老人たちが医療にアクセスし続ける。

ヨーロッパでは、医師の身分は基本的に公務員なので、日本のように無駄な治療をしない。アメリカは、貧困者にメディケアがあるが、一般的には民間の高い医療保険に加盟し、治療が無料なのだが、保険会社が診療内容を厳しく査定する。

日本のコロナで、重症患者にはECMOという血液に酸素を送り込む装置をつけて、何歳の老人でも救命措置が取られるようだが、これは1000万円ほど治療費がかかるそうだ。こんなことを1割の本人負担(高額医療制度があるので、もっと安い金額しか本人は負担しないだろう。コロナは無料なのかな?)でやっているのは、日本だけで、儲けているのは病院経営者だけだ。

病院で療養している老人も、日本の場合は、生きているのか死んでいるのか分からない状態で、生かされている。人工呼吸器につながれると麻酔が使われるし、胃ろうや透析も一旦開始すると、回復する確率は極めて低い。これらを老人にするのは、欧米では虐待である。

そもそも昔、子供はもっとほっといて自然に成長していた。介護もそうだ。むかし、食事をとれなくなったら、亡くなっていた。療養もそうだ。昔は、人工呼吸器も、胃ろうも透析もなかった。このような延命をさせるということは考えられてなかった。 こうした自然の摂理に反することを人為的に、美名のもとに言い換えても、それは無理というものだ。 そうした行為を日常的に介助者がすることは、大変つらいことだ。

結局のところ、公的資金で健康保険や介護権を維持する制度の実施を、民間事業者に任せてはダメだ。民間の使命は、ずっとその事業を継続することであり、そのためには、無駄であっても儲けを出すことを考える。そうしないためには、医者を、診療した患者数で収益が変わらない公務員にすることだ。

今、死期の近い老人、その家族、看護師、介護士すべてが不幸だ。死期の近い老人は、平穏死、尊厳死、自然死させてもらえない。老人を抱える家族は、「老人を虐待してはならない」という社会の空気に縛られている。看護師、介護士は、医者と同じで「患者、入居者の死は敗北だ。」という考えを教育され、老人を穏やかに死なせる方が自然だということを忘れている。

ただ一つ、こうした背景にありながら、病院経営者、施設経営者たちだけが、国の予算を大量に受け取って儲けているのだが、そのことは黙っている。

おしまい

「医者に殺されない47の心得」 近藤誠さん死去

医療界から総スカンを食らっていた近藤誠さんが8月13日、虚血性心不全で亡くなられた。ほっとした医者も多いと思う。ご冥福をお祈りする。

近藤誠さんが、有名なのは乳ガンの温存療法だろう。アメリカにも留学して、日本のガン治療に疑問をもつ。つまり、欧米ではすでに病巣だけを取る「乳房温存療法」が当たり前だったが、日本では治癒率が同じなのに無残にも乳房が丸ごと切り取られていた。これを1988年、月刊『文芸春秋』に発表、日本は十何年か遅れて全摘をやめ温存するようになったという話だ。

じじいは、氏の本を何冊も読むファンだった。ガン放置療法は、近藤さんも言うように誰にでも適合するものではないかもしれない。しかし、実際問題として、多くの医者がガンを見つけるとすぐに切ってしまうので、切らなくても良いガン(ガンもどき)まで切っているという感じは非常にする。欧米でガンの死亡率は下がっていると言われるのに、日本はそうでないのは、健康診断やら人間ドックでガンをせっせと見つけ出すのが主因だろうと思う。

とくに高齢になると自然と体力が衰えるので、手術や抗がん剤治療などをすると、延命したとしても、QOL(生活の質)は確実に低下する。

医者は基本的に患者が死なず、延命さえできれば治療は成功だと考えているが、患者は元の健康状態に回復するのが成功だと考えているので、両者の思いの間にはそもそも大きな隔たりがある。 

本当のガンでも、高齢者は「知らぬが仏」で医者へ行かず生活し、具合が悪くなってはじめて医者へ行って「病を得た」ことを知り、もしそのとき痛みが激しく出るなら、緩和療法でモルヒネなどで痛みを取ってもらいながら、のこりの普段の生活を続けるのが、最後まで人間本来の暮らしをする道のような気がするし、本を読んでいると、最後まで痛みが出ず、枯れるように自然死することも多いと書かれている。なまじ治療をするから、生体反応で痛い思いをするというのはアルアルな気がする。

加えて問題は、高齢者の治療費は原則1割負担だが、のこり9割は公的なお金が投入されている。医者の方は簡単に治療しましょうと言うが、患者の方は、もし10割負担であれば、簡単に「治療します」とは言わないだろう。自分の懐は痛まないが、国民の懐は確実に痛んでいる。

日本の医療は民間病院が中心で、公的な病院も独立採算制で、儲けを出さないと存続できない仕組みになっている以上、医者の方には患者をどんどん捌きたいという動機がつねに働いている。今の健康保険制度が、医者にとっていくら薄利で提供されるとしても、多売で儲けを出すことで、国全体で見た無駄は減らないだろう。

MMT的観点から言えば、こうした高齢の患者は1割の負担で気軽に医療を受けられ、医者にとっては、9割の公的負担と合わせた10割のお金が入ることは、医療業界の需要を拡大し繁栄につながっているという良い面はたしかにある。だが、患者にガマンを強いる治療はアダ花だとしか言いようがない。医療分野とは違う、もっと他の分野で公的なお金を投入すべき分野はたくさんあると思う。

以下の二つは、じじいが過去に近藤誠さんに触れたブログだ。よかったら、読んでもらえれば嬉しい。

おしまい(合掌)

たらい回しにされろ! 岸田首相コロナになる

日本経済がこれだけ悪いのに何もしない岸田首相。いつも「検討します!」と言うだけで何もしないので、「遣唐使」と揶揄される。

その首相が、新型コロナに感染した。是非、あちこちの病院に電話して、どこの病院でも見てもらえずたらい回しになって布団の中で苦しんでもらいた。

そうすれば、国民の多数が、熱が出て喉の痛い病気になっても、病院にかかれない辛さがわかるだろう。病院の事を心配するより、まず国民の事を心配して欲しい。

おしまい

再上映「痛くない死に方」「けったいな町医者」見てきた

尼崎に長尾和宏さんという医師がおり、お昼のテレビのワイドショーに出て、コロナの対応方針について熱く語っておられた。今年(2021年)の夏ごろだったと思うが、デルタ株が蔓延しPCR検査で陽性者が多数発生したにもかかわらず、医療施設に収容しきれずに、自宅待機を余儀なくされていた時期と思う。

この長尾さんの主張は、コロナの分類を2類から5類に変更することと、治療薬として、イベルメクチンの使用を認めることの2点だった。イベルメクチンというのは、北里大学大村智さんがノーベル賞をとった薬で、アフリカや南米で広く使われ、動物用にも使われている。

ところが、この発言は日本の『感染症の専門家たち』から完璧に無視され、長尾医師は医者の世界で、完全に孤立した存在になる。

そんなで主は、長尾さんのコロナについてのYOUTUBEを見たりしていたのだが、たくさんの著作とともに、医療をテーマにした映画もあることを知った。

それが、「痛くない死に方」と「けったいな町医者」である。

始まるころには、もう少し増えた。観客の平均年齢は、80歳に近いかも(東京都写真美術館)

だれしも歳を取って高齢になると、死ぬのは仕方がないが痛い思いをしたくない、というのが一般的だろうと思う。また老いぼれて、オシメをして下の世話で、家族に迷惑を掛けたくない、というのも普通だろう。

医者たちが、庶民に手の届かなかった時代、つまり太平洋戦争より前の時代は、便所に行けないような年寄りは、食事介護され食物を口に放り込まれることもなかったはずだ。生命活動が自然に低下した年寄りは、寝たきりとなり、ぼんやりとなって意識が低下して、まもなく死んでいったはずだ。死ぬ間際には、脳内ドラッグ(ホルモン)が出て、幸福な夢を見ながら動物は死ぬ。

臨死体験の謎を解く「脳内ドラッグ」 死の直前30秒間に放出

ところが、この死ぬ間際のまどろみを破るものが出てきた。現代の医者である。医者たちは、患者が死ぬことを敗北と教えられる。患者がオシメをして、ベットで意識を失っていても、それが勝利だという教育を受けている。そして点滴で過剰な栄養を補給するため、患者は最終的に溺死する。溺死では、脳内ドラッグは出ない。

この二つの映画は、そんな話です。

おしまい

菅退陣はあるのか? 強制捜査間近の安倍前首相 vs 二階幹事長

横浜市長選で、自民党の国務大臣を辞めて無所属で立候補した小此木八郎さんが敗退し、立憲民主党の新人・山中竹春さんが圧勝した。その敗北の原因が、菅総理が真剣に応援したのが逆効果になったことだと言われる。

このため、任期が迫っている衆議院選挙で、菅総理が自民の顔にならないので、テレビは今、フルスペックの自民党総裁選挙を9月にやるということが報道されている。

現段階では、この総裁選に、岸田前政調会長、高市前総務省、下村政調会長さんが出るとともに、菅総理も立候補をすると言っている。

要するに、テレビの報道は、自民党の総裁選挙をやって総裁を再び決めてから、衆議院選挙を10月以降にやるということだ。

しかし、YOUTUBEを中心に、菅総理は表向き総裁選挙をやってから、衆議院選挙をやるといいながら、パラリンピックが終わった途端に、総理大臣の専権と言われる解散権を発動し、解散する可能性があると言われている。

なぜ、このようなことになるのか、けっこう面白いことが言われている。具体的な動画こちら。《特ダネ!横浜市長選決着後の政局!自民党は菅首相のせいで敗北!追い詰められた菅総理は驚きの9月●日に衆議院を解散する!野党の対応は間に合うのか?元朝日新聞記者ジャーナリスト佐藤章さんと一月万冊》

「1億5千万の半分持って行っちゃった」は、18分頃流れます。

この動画は、自民党の中で実権を握っているのは、3Aと言われる安倍晋三、麻生太郎、甘利明さんなのだが、一方に対抗馬の二階俊博さん(と小池都知事)がいる。二階さんは、和歌山選出で幹事長なのだが、早々に選挙の地盤を息子に譲ろうとしており、この選挙区が人口減の関係で議席が減らされることになっており、菅政権を継続させ、自民党の公認権を握る幹事長を続けたいという願いを持っている。

もちろん、実権を握っている3Aが、「菅では選挙に勝てない。菅は降りろ。」と言えばそのとおりになるのだが、1審有罪になった河井克行元法相夫妻による広島県の買収事件で、安倍首相は、1億5千万を元法相 に渡しており、安倍首相は「とりあえず半分を持って行っちゃった。とり半というのです。」(=とり半疑惑)という。二階幹事長は、その情報を裏も表もよく知っており、検察から返された押収資料が二階幹事長の手元にあるという。

この動画からコピーさせてもらいました。

これをネタに二階幹事長が、ギャング映画のように安倍首相にピストルを突きつけ、安倍首相がホールドアップしてしまったという。それで、3Aは二階幹事長に反対できなくなったということらしい。つまり、横浜市長選で大敗北を喫したのに、自民党は、総裁候補を立て、幹事長を変えて、フレッシュさを出すという戦術がまったくとれないらしい。

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《おまけ》 今回の総裁選に名乗りを上げている高市前総務相であるが、主は、彼女が首相になることを切望している。

というのは、彼女は、「プライマリバランス凍結」を訴え、「日本は、幸い自国通貨を持ち通貨発行権があり、国債の発行が経済の足かせにならない。」という旨を文藝春秋の記事に寄稿している。 プライマリバランスと言うのは、家計や民間企業と同じように、政府の支出と税収をバランスさせなければならないという考えであり、財務省が金科玉条のように言うので多くの政治家もマスコミも信じているが、昔の経済学である。 それどころか、このようなドグマに縛られない中国が目覚ましい発展できたのは、政府の巨額の財政支出のせいだし、欧米もそうである。 この固定観念に縛られる日本のみが、マイナス成長を30年続けた。

高市前総務相が、総理になり、負け続けの日本を変えてくれることを切望している。

高市早苗が自民党総裁選に出馬宣言 政権構想「日本経済強靭化計画」の中身は…

おしまい

楢山節考 深沢七郎 (医者たちの身勝手さ その4)

我々は、戦前まで医療とは無縁の世界に生きていて、人間も犬猫などの動物と同じで、死ぬのにそれほど苦しまなかったのではと、かねがね主は思っている。人類が誕生してから、700万年といわれるのだが、医療にアクセスできるようになったのは、わずかこの数十年である。

昭和32年に発表された深沢七郎、42歳の処女作、短編小説「楢山節考」は、中央公論新人賞を受賞したベストセラー小説であり、映画のほうも、木下恵介と、今村昌平が監督をし、後者はカンヌ映画祭でパルムドールを受賞したというあまりにも輝かしいものだ。

ネットでの評に、この映画は「日本では昔、棄老がひろく普通に行われていたとの誤解を招く」といったものがあるが、人類の歴史は、生存のための食料の調達があってこそであり、この物語に出てくる、 棄老や嬰児殺しは、世界中で普遍的に、19世紀ころまであっただろう。だからこそ、誰でも理解できる普遍的なこととして、カンヌ映画祭で捉えられ評価されたと思う。

新潮文庫(発表は昭和32年、中央公論社)

あらすじと感想を取り混ぜて書こう。

山梨県あたりの寒村が舞台だが、時期は書かれていない。「銭屋」という家族の話が出てくるので、江戸末期か明治の初期の話と思われる。この 「銭屋」 は、村では流通しておらず、役に立たない貨幣の「天保銭」を1枚持っているので、村人から「銭屋」と呼ばれているからだ。

なお、本文に説明はないが、この「天保銭」は、8枚で1文になるという値打ちのないもので、「価値のない、役立たず」といった意味も込められているらしい。

主人公は、69歳のおりん、45歳の孝行息子の辰平だが、辰平の子供たち、辰平の後家として隣村から来る玉やん、16歳の長男の嫁の松やん、近隣の村人たちが登場し、村の様子がよくわかる。彼らが住むのは、非常に貧しく、毎年冬になると、その一家が餓死をせずに冬を越せるかどうかが問題になるほどの寒村である。彼らにとって、なにより食料にありつけるかどうかが問題である。

村の習わしとして、老人は、70歳になると口減らしに、信仰の神の山である楢山に捨てられる(「楢山まいり」する)ことになっている。

おりんは、若いときは村一番の器量良しといわれたが、亭主を20年前に亡くし、他の後家のような嫌な噂を立てられることもなく、人にとやかく言われることもなかった。楢山に捨てられるにもしっかりして、模範として捨てられようと、その目標を果たす日を前から心待ちに、準備もしていた。おりんは、次の正月をすぎたら、楢山に行こうと心に思っていたが、ひとつ気がかりなことがあった。それは、年齢に不相応な、丈夫な歯をしていることだった。

おりんは、健康でたくさん食べると人から思われる丈夫な前歯を、火打石で砕き、血を流しながら一つ懸案を片付けた、と満足する。しかし、口からの出血が止まらず、口を開くたびに、口から血を流す老婆を見た子供たちは、わーっと逃げ出し、おりんは「鬼婆(おにばばあ)」と不名誉な称号をもらう。

大人は、小さい子におりんのことを、「食いついたら放さんぞ」「食い殺されるぞ」と吹き込み、泣いている子に「おりんやんのうちにつれていくぞ」と殺し文句に利用したりする。

楢山に捨てられようかという老婆が、丈夫な歯をしていることを恥じて、おりんは歯を砕くのだが、血まみれになり、口から流血する鬼婆になり、周囲を驚かせ、「根っこの鬼婆(おにばばあ)」と陰口を叩かれる。

「『根っこ』の鬼婆(おにばばあ)」の 『根っこ』 というのは、おりんの家の前には、大きな木の切り株があり、人が腰を下ろして一休みしていた。その根っこという場所を指している。お互いの家族は、苗字ではなく、 『根っこ』 とか『銭屋』とか呼んでいた。 

おりんには、気がかりがもう一つあった。息子である辰平の嫁が、去年栗拾いに行って、谷底へ転落して死んでしまっていた。辰平には、4人の子供がおり、16歳の長男のけさ吉を筆頭に男が3人、末が3歳の娘だった。あいにく、適当な後家が見つからず、辰平は再婚できないままだった。

ところが、山一つ隔てた隣村で3日前に亭主と死別したという後家が現れ、その後家を辰平の後妻に迎えてくれという使者がやってきて、辰平は再婚することになる。当時、結婚は当事者同士の意思にかかわりなく、年恰好だけで簡単に決められていた。

おりんが孫たちに、すぐに新しいおっかあがやってきて、お前たちの家事も楽になるというと、孫のけさ吉が、意外なことに辰平が後添えをもらうことに大反対する。

ここのところ、家族の在り方がよく表れていて、非常に面白い。

けさ吉「向こう村からおっ母あなん来なくてもいいぞ! 俺が、嫁を貰うから後釜なんいらんぞ。 めしのことがめんどうなら俺の嫁にさせるから黙っていろ。」

おりん「バカヤロー!飯を食うな。」 とけさ吉の顔めがけてはしを投げる。

13歳になる次男の孫「けさあんやんは池の前の松やんを貰うのだぞ」と、けさ吉と松やんが仲の良いと知っていることを皆の前で暴露する。

けさ吉 「バカー、黙ってろ!」

この村では食料事情が厳しいので、晩婚が奨励されており、そのような歌もでてくる。おりん、辰平は、まだ子供だと思っていた16歳のけさ吉が松やんを嫁に貰うと言い出すほど成長していたことに驚き、それを察しないで、うっかり怒ってしまったことを申し訳なく思いもする。

辰平は、後妻を貰うことに照れていたが、隣村で夫を亡くしたばかりの玉やんが、辰平の後妻としてやってくる。玉やんはよい人柄だった。

けさ吉も松やんと結婚し、家族が増え、ますます食料の確保が問題となるのだが、松やんは大飯ぐらいだった。おりんは、「これでは、松やんは、前の家族から厄介払いをされたも同じだ」と思い、「この子は、あっちの方だけが、達者だ」と思うのだが、それでとくに松やんを否定することなく、そんなものだと受け入れている。

そのころ村で、食料泥棒が発覚する。雨屋(=山に入るたびに雨が降るので雨屋と呼ばれている)の亭主が、隣の焼松(=近くに落雷で焼けた松の木がある)の家の豆のかます(=臭いにおいがする納豆のようなもの)を盗んで家人に見つかり、袋叩きにされ、村中が大騒ぎになる。食料を盗むことは、極悪人である。食料を盗むと、最も重い制裁である「楢山さまに謝る」ということをしなければならない。その制裁は、その家の食料を他の家の者たちにすっかり、奪われてしまうことである。分配にあずかる他の家の者たちが、盗人の現場に駆け付けるときにも、掟があり、必ず裸足で駆けつけないとならない。もし、草鞋を履いて駆けつけると、逆に袋叩きに合うことになっており、駆けつける者たちも死に物狂いである。雨屋の家は、「家探し」をされ、芋が縁の下からぞくぞくと出てきて、一坪ほどの山になった。雨屋の亭主は、半殺しの目にあい息も絶え絶えだが、その家族はその横で泣き喚くばかりである。

その3日後の夜遅く、雨屋の家族12人は、裏山の方向に消える。

雨屋の家族が村から消えた興奮が冷めやらぬまま、松やんのお腹が目立って大きくなり始まる。おりんのような老婆が、ネズミっこ(ひ孫)を見るのは、性欲にまみれた一家だと思われ、おりんは早い楢山参りを望む。玉やんは、「ネズミっこが生まれたら、わしが赤子を捨ててやる」と明るく、言う。こんどは、けさ吉が「コバカー、俺が捨ちゃってくらァ、わきゃァねえ」と応じ、松やんが「ああ、ふんとに、たのんだぞ」という。

12月末、いよいよ、おりんは楢山参りを決心する。それまで蓄えてきた食材や振舞酒で、村の重役たちをもてなし、重役たちは言い伝えである楢山参りの注意事項をおりんと、辰平に伝える。順番に要点が伝えられるのだが、このとき、誰も何も喋ることは許されない。重役たちが、順に発言するのみである。

次の夜、辰平は、おりんを背板に乗せ、楢山に向かって出発する。村の重役たちが言ったとおりの光景が順におこる。 最後の楢山の頂では、多くの骸が転がり、カラスが大勢舞っていた。辰平はちょうどよい窪みを見つけ、おりんを下ろす。おりんは、辰平の手を堅く握りしめるのだが、辰平の背をどーんと押した。大粒の涙を流しながらよろよろと山を下っていく辰平。

村へ戻ろうとする辰平だが、やがて、雪が降ってくる。雪は、楢山参りで、吉兆とされていたし、おりんの望みでもあった。辰平は、おりんのところへ戻り、「雪が降ってきた!」とひとこと言いたくて、村の掟にそむいて戻る。再び、戻れと手ぶりをするおりん。

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おりんは、村の掟のとおり70歳で死ぬのだが、それは名誉を保ったまま家族の犠牲になることであり、最愛の息子の手によって殺されるのであり、死ぬこと自体は恐ろしいにせよ、嬉しいことだろう。山へ捨てられ、空腹と寒さがやがて意識を遠のかせ、知らずに死んでしまうだろう。 人間が死ぬ瞬間には、β(ベータ)エンドルフィンという幸福ホルモンが放出されるという。

もちろん、今は、昔とあらゆる面で事情が違い、生きること自体はこうまで過酷ではなくなった。しかし、このような過酷な時代でも、人々は淡々と、シンプルで最低限の道徳と、自分たちの生活をしっかり守って生きていた。

いまはどうか。いろいろ知恵はつき、食料事情は改善したが、それがかならずしも生きる幸福に役立っていない。失ったことが、かなり多いのではないか。もちろん母親を背中に背負って山に捨てに行く、嬰児を河原に捨てに行くわけにいかない。

老人が、具合悪くなったら、きっと救急車を呼べ、介護施設に入れろと言われるだろう。しかし、うっかりしていると、ここに大きな落とし穴がある。

楽に静かに穏やかに死ねる、チャンスを逃しているのではないか?

現代は、年老いて、具合が悪くなってもすぐに死ぬことは減ったという言い方ができるのかもしれない。しかし、救命したが、その後、延命措置されています、というのでは意味はない。もとどおりの元気にならないで、胃ろうや人工呼吸器をつけられると、苦しいばかりで、死ぬ間際にこうした幸福ホルモンはきっと出ないに違いない。

おしまい

追記: WIKIPEDIAを読んでいたら、深沢七郎の小説・「楢山節考」とパルムドールを受賞した今村昌平監督の映画では筋が違っているようだ。

映画では、深沢七郎の他の作品も使い、次男以降は、結婚もできないとか、父親の遺言で、セックスできない次男以降とセックスさせられる娘が出てきたり、さらに過激で、こうしたシーンが上手に筋に加えられているらしい。

それで、下のポスターのコピー、「人間の大らかな『生と性』を謳う今村節 笑い・感動・愛・衝撃」ということになるのだろう。

余談だが、1983年のカンヌ映画祭でのパルムドール受賞は、今村昌平監督・「楢山節考」ではなく、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」が大本命だろうと言われていた。ところが、この圧倒的な大方の予想を覆して「楢山節考」が受賞したのだった。

「戦場のメリークリスマス」4K修復版を大規模劇場公開から

医者たちの身勝手さ その3(こういうちゃんとしたことを云う医者もいる)

おばあさんが笑いながら森の中で死んでいる?

森田洋之さんという医師が書いた本、世の常識とは違う「うらやましい孤独死」(フォレスト出版)を紹介したい。

森田洋之 さんのことは、ツイッターで知った。投稿におおいに共感したからである。

本を買う前に経歴を読み、惹かれるものがあった。

この本の背表紙で、この森田洋之氏が一橋大学経済学部を卒業してから、宮崎医科大学(国立)へ入りなおし、医師になったということを知る。

氏の出身の宮崎医科大学は、2003年に宮崎大学医学部に統合された。国立で授業料も安いのだろうが、林真理子の週刊誌小説「下流の宴」(2009年~)に宮崎大学医学部が出てくる。この小説は、自分は上流だと考えるある母親の、フリーターの息子とやはりフリーターのヒロインがつき合い始める話だ。母親は、このヒロインにさんざん冷たくあたるのだが、いろいろと苦難があって、ヒロインは医者を目指すことになる。そこへカリスマ塾講師が登場し、国立大の医学部の一番入りやすいところとして、宮崎大学医学部が出てくる。

また主の現役時代の経験談をすると、健康管理室という部署で勤務したことがある。その法人は、海外関係の仕事をしており、人員を多勢海外に派遣しており、産業医(顧問医)を何人も雇い、時に、医師を医療事情の良くない国へ出張させ、顧問医に現地の日本人関係者を診てもらっていた。そうした関係で、昼食を顧問医ととったり、出張もよく一緒に行き、医者の世界には、出身大学による強いヒエラルキーがあること、上の教授、助教授連中からみると、下の者はほぼ発言権がないことなどを、薄々感じた。

読みすすめると、やはり思ったとおり、この森田さんは、メジャーな医療、一般的に日本で行われている医療に幻滅し、標準治療からドロップアウトした医師だった。

まず、この著者が医師になった経緯を書くと、次のようなものだ。 一橋大学に在籍していたが勉強に身が入らず、ちょうど起こった阪神大震災のボランティア活動で、周囲の人たちに役立ったと思えたのが、きっかけのようだ。まじめなタイプなのだろう。普通に卒業する気になれず、再び学びなおして、赤ひげ先生のような世に役に立つ医者になろうと決心する。

宮崎大学を卒業し、地元で研修医を終了する。最初の2年間の初期研修で、内科、小児科、外科、産婦人科などを回り、のちの3年間の後期研修で、「認定内科医」を取得し、一人前の医師としてスタートする。

しかし、その内科医の後期研修中に、療養病院の大部屋に、ただただ天井を見つめたままの高齢者がずらっと並んで、胃ろうから栄養を入れられている日本の標準医療の光景を見たときに、学んできた医療技術や医療知識が「善」とは思えなくなってしまう。

徐々に日本の医療のあり方に懐疑心を抱いてた森田医師だが、やがて確信となり、彼は、ちょうど募集があった財政破綻で再建中の夕張市立診療所の医師に応募する。 誰もが知っているとおり、夕張市は財政破綻をして、他の市のような行政サービスを提供できず、病院も例外でなく、規模を大幅に縮小していた。しかし、この窮地にやってきた前任の医師、村上智彦医師は、標準的な病院医療に頼らず、予防医療や終末期医療に重点をおいた地域医療を実践、成果を上げているのを知ったからだ。

そこへ赴任した森田医師は、さまざまな目からウロコの経験をする。

夕張豊生会のHPから

病院がなくなってからの夕張を、素人の主は、大変だろうと思うのだが、実際は真逆のことが起こる。マスコミでは無視されているが、住民の健康レベルが以前より上がったのだ。こうしたことを発表すると嫌がられ、炎上したりすることもあったようだ。

  • ▶夕張市の総病床数が171床から19床に激減した。
  • ▶高齢化率は50%を超えた。(市としては、日本一)
  • ▶それにもかかわらず、夕張市民の総死亡率は変わらなかった。
  • ▶病死は減った。その代わり老衰死が増えた。
  • ▶救急出動が半減した。
  • ▶一人あたり高齢者医療費も減った。

つまり、端的に言ってしまえば、市民の意識が病院に頼るより、天命を受け入れるように徐々に変わってきた。おまけに、病院がなくなると、入院も減るのだが、死亡率は変わらないという、驚くべき変化が起きる。老人たちは、自然で幸福な死を迎える。本人も周りの家族もみんな生き生き。こういう種類の本で、主は、はじめて涙を流した。主は、自分の子供たちにもこの本を読まそう!と思う。結局、死ぬ間際には医療がなければ、苦しまずに死ねる。世界中の人間は、そうして最近まで死んでいた。死ぬときは、一人で死んでも何の問題もない。それまで、元気なときに、他者と関係性がありさえすればばよい。

ところが現代では、医療無しで死のうとすると、周囲の家族たちの理解が必須だ。そうでなければ、救急車で運ばれ、医者たちの手でさまざまな延命措置が自動的に始まる。

もちろん、医療は若者や元気が残っている人には有効な場合が多いかもしれない。しかし、平均寿命に近いようなケースでは、余計なお世話だ。たしかに、骨折などの怪我や、心筋梗塞などのつまり物を取り出せば元気になるケースもあるので、一概に言えないし、また、何十年か後には、根本的に治療法が変わって200歳まで生きるのかもしれないが、少なくとも現状の延命措置は不要だ。

個人的な話になってしまうが、主が医療に疑問を持ったきっかけは、母が風呂場で倒れ、父が救急車を呼んだときに始まる。地元の高度医療ができる救急病院に運ばれ、認知症の父は頼りにならず、主は東京から新幹線で駆け付け、主治医と治療方針の相談をした。母は人工呼吸のマスクをつけられ、ほぼ意識がなかった。医師は、喉を切開して人工呼吸器をつけたいという。素人目にも、もしそうしても、元に戻るようには見えないし、医師も戻る可能性はゼロではないが、ほぼないと認める。それで、躊躇っていたのだが、医師は、「救急車で運ばれてきて、何もしないわけにはいかないんですよ。これだけはさせてください。」と懇願するようにいうのだ。

そうなのかよ、身勝手な話だなあと思うが、結局、ゆっくり考える暇もなく、家族全員が狼狽えていることもあり手術に同意する。その高度医療設備を整えたその救急病院には、次々と患者が運び込まれるので、1週間程度で退院させられ、長期療養病院へ転院した。そこの医師は、延命させるだけなら、様々な方法があると言う。濃い血液のようなものを注入すると何年も生きるという。勿論、回復するわけはない。 これでは、医者の儲けために、患者が生きているのも同然だ。

暗い話になってしまい、いつまで立っても、落ちないが、昔、人間は苦しむことなく死んでいた。なまじ、病院に行くと死なせてもらえない。・・・やっぱり、落ちないなあ!!

次回は、深沢七郎の映画にもなり、カンヌ映画祭でパルム・ドール最高賞を受賞した「楢山節考」という小説を取り上げよう。この小説は、単に、貧しいがゆえの悲しい小説ではない。死のうとする老婆の側に、家族に対する愛情と決意があり、家族にも深い愛情があるからこそ、長男が、母親の婆さんを背板に乗せ、泣きながら山へ捨てに行くのだ。 こんどは落ちたかな。

その3 おしまい

医者たちの身勝手さ その2(まやかしの数字を使う)

今回のコロナ禍でも痛感するが、医療関係の表現は非常に紛らわしい。誤解を招くのが狙いとかしか思えない。例えば、・・・

報道では、たとえば「どこどこ(南アフリカ型)の変異ウイルスは、1.7倍の感染力がある」とかという表現がある。「2倍死ぬ」とかとの表現も一般になされる。このような表現をテレビなどで聞くと、「うわっ怖い!!」と素人が思うようにアナウンサーは喋っている。しかし、こうした表現には、非常なまやかしがある。つまり医療機関の発表する数字は、いつも変化率を言っており、母数を考慮から除外した表現である。

例えば、下の表は、新型コロナの今年3月23日現在の各国の感染者数と死者数である。これを見ると、何よりまず、日本が欧米と比べると何十分の1という、少ない数字でありながら、禄に金銭的な補償もしないまま、欧米と同じような制限を社会に加えているのには驚くが、それはここでは脇におく。

つまり、ここで言いたい何倍とかいう表現だが、表を見ると日本では100万人あたり感染者が3626.1人、死亡者が70.4人であるので、日本の人口を1億2千万人とすると、全体の感染者が、435,132人、死亡者が8,448人となる。 つまり、もし感染力が1.7倍になると、739,724人になるのだが、人口に対して0.36%の感染率だったものが、0.6%になるということだ。死亡率に至っては、0.007%が、仮に倍になったとしても0.014%になるという話だ。つまり、圧倒的にコロナにかかっていない人が大多数(99.5%)で、死ぬ人はさらに少ないと数字は語っている。 しかも、この死亡者数は、厚労省の通達が出ており、交通事故で死んだ人でも、がんで死んだ人でもPCR検査で陽性ならばコロナ死にカウントされ、相当水増しされている。 

おまけによく指摘されることだが、この感染者数は、PCR検査で、陽性になった者のことを指しており、健康で無症状の者が含まれている。しかし、この無症状者は、従来の概念では、治療の必要がないので感染者に含まれなかったものであり、除外するなら感染率はさらに下がる。

主が思うのは、このコロナの被害者の多くは既往症のある高齢者なので、この人達に重点をおいた対策をすべきだ。それも、隔離というようなQOLが下がる方法ではなく、屋外の公園を散歩するなど、免疫が上がるような配慮をすべきだ。そして、若者や健常者は通常通りの社会生活を認めるべきだ。そうでないなら、100%の生活保障を政府はまずするべきだ。

札幌医科大学医学部 附属フロンティア医学研究所 ゲノム医科学部門のHPから引用
札幌医科大学医学部 附属フロンティア医学研究所 ゲノム医科学部門のHPから引用

その2 おしまい その3へ続く

医者たちの身勝手さ その1

————– 2021.7.7 Rewrite ————

主は、多くの医者たちはとんでもない存在だと思っている。そして、「そうだ、自分もそうだ」と考える医者たちが確実に増えている。

主は、近藤誠さんを始めとするとする、日本の医療を激しく批判する著作をけっこうたくさん読んだ。この近藤さんに続く医者たちが増えているのは確実だ。

アマゾンから

もし興味をお持ちになられたなら、何といってもご自身のQOL(Quality of life = 生活の質)にかかわる大きな問題なので、是非読んで下さい。

「穏やかな死に医療はいらない (朝日新書)」を書かれた萬田緑平さんは、在宅緩和ケア医として終末期医療に献身されている。その萬田さんが、現在のコロナ対策が間違っているという小林よしのり氏との「コロナ論2」の対談中次のように語っておられる。

小林よしのり「テレビにいい加減な学者ばかりが登場するわけだ・・・」

萬田緑平「医者だけではありません。感染症の専門家や研究者も『コロナは怖い』という空気を醸成するのに加担している。前にも述べたように、彼らにとって新型コロナは恐いウイルスでなければならない。普段、風邪の研究なんてまったく注目されず、脚光を浴びるのは死をもたらすがんなどの恐い病気の研究ばかり。死にそうな病気を治す研究でなければ、学者としてのステータスは上がらない。感染症の研究者にすれば、新型コロナが死をもたらすウイルスであった方が都合がいいんです。同じ理由で、コロナが恐いことを示す実験データしか表には出てきません。」

小林よしのり「私利私欲のために、こんなことをしているのか?」

萬田緑平「というより、医者ってみんなすごく頑張るんですよ。世間の抱くイメージのように、頭が良いから医者になるわけではなく、頑張るから医者なんです。論文の執筆なんて本当に大変。僕はもう書きたくないけど(苦笑)。」

コロナ論2 扶桑社

主は、萬田さんの発言の趣旨とは少し違うが、こうして異常なほど頑張ってきた人たちにとって、無意識のうちに、犠牲にした対価を求めたくなるのが、自然のなりゆきだろうと思う。

同時に、これまで脚光を浴びることがなかった感染症医が、コロナで脚光を浴び、悪気なく異常にハッスルし、知らないことまで知っているかのように断言し、世間を余分に自粛させようとしているとよく指摘される。人間の性(さが)として、よく知っているつもりのことを問われると、自分を権威付け、必要以上の啓もうをしようとするということだ。

医者は、医者になるために、医者になってからも、大きな犠牲を払っている。医者になるために、小中高と青春時代に大きな犠牲を何年間も払い、暗黒の我慢の時期を過ごしている。また、医者になってからも、臨床医の中で、出身校や、外科か内科か、麻酔医か、街中の開業医か、大学病院の教授かといったヒエラルキー争い、論文競争がある。そういうずっと競争意識の中で人生を過ごすとどうなるか。ここには主の偏見やヒガミが大いに交じるが、その後の人生において、我慢に見合う対価を得られないと満足できない人間が出来あがる。少なくとも、周囲に対して威張り散らしても許されるという潜在意識ができる。

主は、医者ほどコミュニケーションが下手にもかかわらず、周囲から奉られている職業を知らない。

昔、産業医を契約していた大学病院の助教授の医師とよく話をする機会あった。この人と話していると、彼は、自分のことを「科学者」と考えていた。一般人から見ると、臨床医は「科学者」には入らないだろう。しかし、臨床医たちは「科学者である」と思っているし、町医者であれば「かつて科学者であった」と思っているのではないか。

そうした専門家を自認する傾向は、程度の差こそあれ、エリートと思っている弁護士、有名大学を出たキャリア官僚、ジャーナリストなどにも通ずるものがあるだろう。 

ところが、暗い時期を過ごして、医学部に入学し、医師になった時、あるいは、エリートの地位を獲得したとき、大いにはじけて成功を謳歌するものの、人間はそれほど単純ではない。仮に異性にモテたとしても、「それはぼくが医師だからだ、成功したからだ。彼女が、素の僕を好きになってくれた訳じゃない。地位がなくなったら、ぼくはない。」というひがみ根性は一生抜けない。日に影に姿を現して、彼を苦しめる。

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医療に対する批判本を大量に書かれている近藤誠医師によると、女性の乳がんのかなりの割合は「がんもどき」で、治療が必要ないという。

過去に、近藤医師は、少なくとも女性の乳がんについて、アメリカの論文を日本に紹介し、全摘手術をした場合と患部のみをとった場合で生存率に変わりがないとずっと言い続けていた。しかし、日本の執刀医たちは聞く耳を持たなかった。このため、治療法が14年間変わらず、女性の乳房が全摘され、おまけに胸筋まで切り取るので、腕も上がらくなり苦しんだ女性がずっと出続けた。要するに、執刀医たちが間違いを改めるためには、執刀医の世代交代が終わるまで、改まらなかった。

一方で、そうした暗い過去と現在を持つ異常なほど頑張る大半の医師たちは、患者にサディスティックな復讐をする。同級生が異性と楽しく遊んでいた時期に、「ネクラ」と陰口を叩かれながら勉強をつづけた彼、「がんもどき」など存在しないとする標準治療の僕(しもべ)の彼は、あいかわらず不要な乳房切除術に励む。乳房の切除は肉の部分を多少多めに取っても生死に影響しづらいので、よい練習台になる。切除した後は、再建術がセットになっており、医者は、不要で多額の出費を患者に強いることができる。 

また、高齢者の前立腺治療も、前立腺がんの進行が寿命と同じくらい遅いこと、排尿障害の懸念などを考えると、やらない方が良い。しかし、これに類することが日本の医療では横行している。 要は、医者は患者が死にさえしなければ、QOLより、患部を取りきることが大好きなのだ。

付け加えると、標準治療を謳う医師たちと近藤誠さんは、お互いにエビデンスを出せと言い合い、どちらも出せないジレンマの中にいる。つまり、がんの手術をした患者が、しなかった場合にどうなったかというエビデンスは、出しようがないからである。

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日本の医療システムは、健康保険制度がどんとあり、自由診療は美容整形や歯科治療などに限られ、自由診療だけでは医師が評価されないので、患者が集まらない。

ところが、この健康保険制度は、多くの患者を診察しないと儲からない仕組みになっており、医者の側は、常に多くの患者が必要である。さもなくば、高収入・安定収入は望めない。そのため、収入を上げやすい高齢者に必要以上の措置を施すことが、安定的に高収入を得るための方策になる。つまり、余命が尽きかかっている高齢患者に対して、胃ろうや人工呼吸、透析などの延命措置を行ない、長く治療するのである。患者の心臓は動いているのだが、寝たきりであり、QOLゼロである。日本人の8割が病院で亡くなるのだが、これは非常に痛ましい。日本の医療は、延命さえすれば成功と考えている。 ところが、海外では死ねば天国へ行くという宗教の教えがあることもあり、日本のような天国へ行くのを邪魔する延命治療は、海外では「虐待」になる。

分かりやすい現象が今年(2021年)見られた。日本の医療制度では、本人が3割負担するのだが、75歳以上はこれまで1割負担だった。これを政府は改正して、一定の収入がある場合2割負担にしたのだが、負担率の増加に医師会は、患者が病院に来なくなると言って反対したのである。 日本の健康保険制度は、皆保険といえば聞こえがいいが、医療費を支払う老人にすれば安すぎ、医療側のコストである診療報酬と薬価も異常な安価に設定されているために、需要と供給が歪んで、財政的にも、死生観的にも世界とかけ離れた老人医療問題を引き起こしている。

主は、延命を希望する老人は、10割負担にすべきだと思うし、コロナのテレビ報道を見ていると日本の老人は、自身の不死身を希望しているように見えてしまう。

ちょっと観点が変わるが、各地の自治体で行われている子供の医療費無料制度も同じである。補助金(助成)を広くあまねくばらまくと当然ながら医療のマーケットは歪み、医療産業の成長にも良くない。うまく、貧困家庭に限定するとか、無料にせずに少額の料金は取るべきである。

話を戻すと、老人医療にたいする反省は、一部の良心的な医師たちの発言と、医療費の異常な膨張の危惧により、徐々に白日のもとにさらされるようになってきた。もちろん、医療が人類に貢献したのは間違いないが、医療より食糧事情と衛生環境の改善や運動の導入の方が大きい。医療で成功したのは一部の感染症などに限定され、がんや糖尿病などの加齢現象は、病巣を取り除いても、すべての場合に有効ではない。むしろ、高齢者などに対しては、望まない治療をして延命させても、QOLゼロな治療に注力してきただけだと、医者自身がとうの昔に気付き始めている。そこで疑問を感じた良心的な医者たちが、大勢転向し始めている。 

コロナは、それを逆回転させて、医者のステータスを再度、上げようとする悪あがきだ。医者たちも、特に日本の医者たちは、生気のない老人をベットに横たえ、胃ろうや人工呼吸で生かしておくことが非人間的だと、疑問を感じだした。そこで、ウイルスによる新型コロナの登場により、この恐怖を煽ることで、医療に対するマインドを根本から変えさせ、ワクチンを毎年打たせ、違った活路を見出そうとしているように見える。

つまり、各国の権力者たちにとっても、1本5,000円と言われるワクチンを何十億人にも打つビジネスは、自国民を恐怖に陥れ、従順に接種させることが、医者たちの利害とも一致する。自国が、ワクチンを開発する側に回ろうが、購入する側に回ろうが、製薬会社が手にする何兆円もの利益のおこぼれにあずかれる。そのためには、怖いウイルスであると何かと都合がいい。

その1 おしまい その2へ続く