《ホス狂い》のトー横キッズたち 若者よ、日本を捨てろ!脱出せよ!

● 日本で生まれた若者のうち、半数以上は希望がない。ひと月働いて、20万円になるかならないかの給料しかもらえず、税金や社会保険料を引かれると、手取りは15万円程度にしかならない。そんな金額では、家賃、食費などの必要経費を払うと、趣味や好きなことに使うお金は全くない。貯金もできない。 大学に行ったとしても、卒業時にに《奨学金》という、実際は借金である《学生ローン》を抱えた卒業生たちが5割に上り、平均300万円のローンを抱えて卒業する。

● この《学生ローン》を抱えた卒業生は、ハンディキャップを抱えて、はるか後方のスタートラインから社会人人生を始めることになる。ローンを抱えた女子学生の大半は、給与が安くて普通に結婚して子供を作るなんてまったく考えられないと言うし、男子学生も恵まれた会社に入れなければ、結婚を考えられないだろう。生涯未婚率は年々増えている。

● 歌舞伎町にはトー横キッズと呼ばれる、ホストクラブでホストに貢ぐお金を稼ごうとする売春目当ての若い少女たちが大量にいて、中高齢の小金を持ったおっさんや風俗スカウト、AVの撮影者たちがその若い肉体を求めて集まってくる。その少女たちは、ごく普通の少女たちなのだが、多くがホストクラブの《底なし沼》にハマった少女たちだという。最初の1回だけ、1000円、2000円でホストクラブへ行けるらしい。そこで代わる代わるイケメンのお兄ちゃんたちと楽しい会話をして、自分をすべて肯定してくれる人生最高の時間を過ごし、舞い上がってしまう。 

● 親爺は思うのだが、日本の若者の《学校教育》は、勉強(成績)第一で、協調性を重んじ、出るくぎは打たれる的な社会全体の雰囲気と画一的な教えで、若者はがんじがらめにされており、一握りの《東大》に入った成績優秀な子だけが認知されるような社会になっている。そうでない子にとっては生きていても楽しくない。特に女子は、家庭的で我慢づよく優しく、男にとって可愛いことを求められる。こんな国は、ほとんどの女子にとってストレスたまり放題だ。そんな彼女たちは、初めて行ったホストクラブで、過去になかった楽しい経験をして、簡単に《ホス狂い》になってしまう。

● 2回目以降に行くホストクラブは、《担当》のホストに貢げる限りのお金を貢ぐことになる。ホストの成績は、売り上げで決まる。ホストの成績を上げるために、シャンパンを入れたりすると、20万円ほどかかる。普段の日常生活では大した給料をもらっていない彼女たちは、軽い決心で風俗へと走り、ホストへ貢ぐお金を稼ごうとする。つまり、《空気を吸うように自然に売春する》ことで、中高年のおっさんたちから数万円の小金を巻き上げ、少女たちがそのお金をホストへ貢ぐ《食物連鎖》が出来上がる。 

●「歌舞伎町と貧困女子」を書いた著者の中村淳彦さんは、Z世代(2000年以降の生まれの若者)の普通の女子が、自ら貧困へと《ホス狂い》に陥る現象が、歌舞伎町で起こっていると書いているが、やがて東京の隣接県へ、地方都市でも起こるだろうと書いている。

「トー横キッズ」の少女を売りさばく歌舞伎町・悪徳スカウトの手口

https://www.news-postseven.com/archives/20211214_1714202.html?DETAIL ☜記事本文

● コロナでアルバイトが出来なかった女子大生のうち、地方から上京してきた多くの女子大生たちは、学校へも行くことが出来なかっただけでなく、田舎へ帰ることすらも出来なかった。それでも授業料はほとんど免除されなかった。景気の良かった時代と違って、親からの仕送りはゼロか、あっても一部分だけだ。そんな彼女たちが生活していくためには体を売るしかない。パパ活、AV出演、デリヘル、ピンサロ、大学がひしめく沿線の待機所は部室のようになったという。

● 男子学生は、闇サイトで見つけた裏バイトの犯罪に走る。マスコミは、毎日あちこちで警察からリークされた犯罪報道を垂れ流している。マスコミは、なぜそういう犯罪が増えているのかという原因を追究する角度からは決して報道せず、不安を煽って、犯罪に引っかからないよう注意を促すだけだ。

● 若い男子は、本来老人を軽々と否定し、乗り越えたいはずだ。ところが、そのような態度をとれば、会社でのポジションが危うくなる。それで必要以上にいい子を演じて、料理も育児も、家事も分担する良い子であることを続ける選択肢をとる。つまり、ヤンキーの居場所がどこにもなくなった。 再度言うが、若者、とくに男子は、年寄りを否定して社会を変革したいはずだ。ところが、そのための勉強を教わっていないので、同じ社会の中で守旧派を演じざるを得ない。

● 自民党をはじめ、野党ですら既成政党の政治家のほとんどが、坊ちゃん、お嬢ちゃん育ちの世襲議員でまったくの世間知らずだ。世襲議員でない場合は、前職が霞が関のキャリア官僚経験者であったり、経営者などの恵まれた環境で育ったボンボンたちばかりだ。当然ながら、多くの若者がお金がなくて体を売ったり、犯罪するしかないなどの状況に追いやられているとは想像力が働かない。かりに、知識として知っていても、若者の投票率は低いから、若者のための政策をしようとは思わない。新しく生まれた政党には、国民のことを考えている政党がいろいろあるが、なにしろ人数が少なすぎるので、何の力も発揮できない。

「仲良く貧乏」を選んだ日本は世界に見放される1人当たりGDPは約20年前の2位から28位へ後退
(東洋経済から)

● 上のチャートが、よく言われる過去30年間の日本の経済政策の失敗の歴史である。これを見ると、日本の経済成長は30年間ほぼゼロである。一人当たりGDPで、韓国に抜かれ、チャートにはないが台湾にも抜かれたという。GDPの合計値で、ドイツに抜かれるのも時間の問題で、世界第4位に転落する日も近いと言われる。結局、この経済政策の失敗が、若者にしわ寄せを起こした。老人は、比較的貯蓄もあり比較的気ままに暮らしているのだが、多くの若者は世界の成長から完全に取り残され、悲惨だ。

ところが、海外で頑張れば・・

● 海外へ行けば、職業によるだろうが、大変な介護や肉体労働などでは月に100万円近く稼げる。下のリンクは、NHKのクローズアップ現代という番組が、日本を脱出した若者が、海外で日本の数倍の給料を手にするだけでなく、《希望》も見つけたという内容だ。

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4746/ ☜こちら記事のリンク。詳しく読むことができます。

おしまい

グレン・グールドのSACDハイブリッド バッハ全集が出ました!!

Tower RecordのHPから

昨年から順次、生誕40年、没後90年を迎えたグレン・グールドのリマスターされた録音物が発売されており、SACD規格によるバッハ全集も発売された。

詳しいことは次のTowerRecordの記事を見てください。

https://tower.jp/article/feature_item/2022/10/03/1110

SACD規格というのを簡単に説明すると、これは現段階でもっとも音質が良いとされるハイレゾの規格の一つである。ハイレゾには、CDの録音規格を高規格化したPCM録音という方式と、変調方式の違うDSDがあるのだが、SACDはDSD方式とほぼ同一と言われる。インターネット販売ではどちらも販売されている。

ただし、SACDをこのようなリアルな媒体で買うと、CDのようにコピーすることが出来ない。また、SACDを再生できるプレーヤーが必要である。今回発売されたメディアはハイブリッド盤なので、CD再生機でも再生できるが、CDレベルの音質でしか再生できない。CD再生専用機を使用するのであれば、CD向けにもリマスターされた規格のものが売られているのでそちらを買えばよい。

今回の全集に含まれるバッハ作品のうち、《平均律クラヴィーア曲集》、《インベンションとシンフォニア》、《パルティータ集》、《イギリス組曲》、《フランス組曲》もこの全集に含まれているのだが、これらはSACDで従来から販売されていた。

今回新たにSACD規格で発売されたのは、《1955年録音のゴルトベルク変奏曲》、《フーガの技法(オルガンとピアノ)》、《ヴァイオリンソナタ集》、《チェロソナタ集》、《ピアノ協奏曲集》、それにCBCテレビ局音源、ソ連公演、ザルツブルク音楽祭のリマスターなどである。

グールド・オタクに有難いと思えるのは、ブックレットが充実しており、ライナーノートが日本語でそのまま読めたり、グールド研究の第一人者である宮澤淳一さんの解説だったり翻訳を読める。また、ミヒャエル・ステーゲマンのしっかりした解説も読める。また、ジョン・マックルーアとティム・ペイジの対談CDが含まれているのだが、こちらも完全な日本語訳がついている。至れり尽くせりです。

特に親爺が有難たいと思ったのは、リマスターされていなかったピアノ版の《フーガの技法》が初めてSACD規格でリマスターされたことである。親爺は、この曲が一番好きで、この《14番の未完のフーガ》をしょっちゅう聴いている。

この未完のフーガについて、グールドが映像作家のブリュノ・モンサンジョンに次のように語ったとブックレットにある。

  • 「あの未完のフーガは確かに情にも訴える。何しろバッハの絶筆だし[・・・]しかし本当の魅力は平穏さと敬虔さ。本人も圧倒されたはず。このフーガに限らず曲集全体に言えるのは、バッハが当時の音楽の流行全てに背を向けていたことだ。彼の晩年、フーガは流行らなくなっていた。[・・・]フーガでなくメヌエットの時代なのにバッハはきわめて意識的に自分の和声のスタイル変え[・・・]別の地平に達していた。バッハは100年以上さかのぼり、対位法や調性の処理法を借用した。バロック初期の北ドイツやフランドルの作曲家のもので、調性を使いながら鮮やかな色彩を避け、代わりに薄い色合いが無限に続く。私は灰色が好きだ。シュヴァイツァーがいいことを言っている。『静寂で厳粛な世界、荒涼とした色も光も動きもない世界』と」
  • 未完のフーガの最後の音を弾いた瞬間、グールドは感電したように左手をさっと持ち上げる。映像は静止し、腕は宙で凍りつく ー 「あらゆる音楽の中でこれほど美しい音楽はない。」この未完のフーガを弾くグールドの姿を見た者は、この瞬間の映像を決して忘れることができない。(訳:宮澤淳一)

追加情報なのだが、3月26日(日)にタワレコで宮澤淳一さんによるこのSACD発売トークイベントがあります。まだ間に合います。駆けつけましょう。

https://tower.jp/article/campaign/2023/03/23/02

おしまい

性愛の話 その1(まず結論から)

「歌舞伎町と貧困女子」(中村敦彦 宝島新書)、「往復書簡 限界から始まる」(上野千鶴子・鈴木涼美 幻冬舎)と「ちつのトリセツ 劣化はとまる」(原田純 径書房)を書かれた原田純さんのYOUTUBEとを題材にして、《性愛》について考えてみた。

以下の写真は、著者の方々である。

● 結論

いきなり結論から入ろうと思う。

昔、あるいは今でも、一般に《性》と《結婚》は切り離せない。そこには《愛情》が不可欠とされてきた。しかし他方で、「歌舞伎町と貧困女子」(中村敦彦(50歳) 宝島新書)を読んでみると、現在、10代、20代の普通にどこにでもいるような女の子が、ホストクラブのホストにハマる《ホス狂い》になり、ホストに貢ぐ大金を稼ぐために、風俗で働いたり、《空気を吸うように》売春をしているという。

 「チツのトリセツ 劣化はとまる」(原田純 径書房)を書かれた原田純さん(68歳)がYOUTUBEで、一般には言いにくいことをはっきり言われている。

結婚している中高年カップルの奥さんから見た《夫》は、何の取り柄もなく偉そうにするばかりで、セックスも自己中心的で絶望しかない。欧米の老夫婦は結構な率で性生活をエンジョイしているが、日本はほとんどがセックスはご無沙汰で、性生活のあるカップルにとっても、女性側は仕方なく夫の相手をしているだけだという。妻にとって夫は、まったく期待できない。 高齢男性は、セックスで女性を圧倒するという固定観念を捨て去り、気の合うパートナーと、お互い相手を思いやり、スローで楽しいセックスを楽しみましょう、そうすることで男女が本来の自分を取り戻すことが出来ます、何歳になってもそれは可能ですと言う。

「往復書簡 限界から始まる」(上野千鶴子・鈴木涼美 幻冬舎)は、分厚いのだが、男女の《性愛》についての往復書簡の体裁を取りながらストレートに主張し合った本である。上野千鶴子さん(74歳)の言い回しは学者らしく、曲がりくねっており、Googleさんに聞きながらを読むしかないカナカナ用語も出てきて、アカデミックぽさが漂っている。

この日本のフェミニストの草分けであり、大御所でもある上野千鶴子さんの発言は、「構造と主体」という切り口で考えられており、女性が永らく「社会構造」のなかで振舞を制約されてきた被害者であるという立場である。こうした考えは、アメリカの批判的人種理論に通じるものを感じる。もちろんそういう側面は否定できないが、全否定してしまえばやりすぎではないかと思う。

同時に、上野千鶴子さんの《性愛》に対する姿勢についてだが、《性愛》は本源的に、《愛》がセットになっているべきという観念が底流にあり、逆に、《愛》のないセックスは女性を搾取し、貶めるという考え方に常に捉えられているように思える。 つまり、貧困を背景にした人を貶めるような構造的な買売春などを許さないのがフェミニズムだ、と主張されているように思える。それは、《性愛》の話ではなく、社会の在り方への問題意識だと感じるのだが、どうだろう。

もう一人の書簡の書き手の鈴木涼美(39歳)さんは、東大の大学院を出て日経新聞の記者だったという肩書がある。

彼女は、バージンだった高校生の時に、ブルセラショップで、パンツ、ブラジャーとルーズソックスをマジックミラー越しにキモ親爺に売り、キモ親爺がパンツを頭に被り、ルーズソックスを首に巻き、ブラジャーの臭いを嗅ぎながらながらマスターベーションをするのをうっすら分かるマジックミラー越しに見て、《男一般》に絶望した。この経験が、彼女の《性愛》の入り口だった。 その鈴木涼美さんは、男に絶望すると同時に、軽蔑心や理解不能感を抱きながら、日経新聞の記者をやりながら、キャバクラで働き、AV女優稼業を並行する。

やがて、彼女は付き合っていた男の嫉妬心から、AV女優であることを会社や両親にばらされる。その後、鈴木涼美さんは会社を辞めて、文筆業へと進む。

そうした彼女は、後輩がAV嬢になりたいと相談されると次のようにアドバイスする。ー「AV女優を引退することは出来るけれど、元AV女優を引退することは出来ない。」ーつまり、いつまでたっても、AV女優だったことに対するリスクから引退後も抜け出せない。ここに社会の怖さがある。AV女優だった対価の中には、AV女優を辞めた後の生活費が上乗せされているという。

鈴木涼美さんは、男女関係を俯瞰する面白い著作を多く出版しており、男という種の馬鹿さ加減と、女という種の生存戦略など、また、彼女のちょっと、距離を置いた《性愛》の見方に他にない新しい発見があり、結構面白い。

この二人の往復書簡は、上野千鶴子さんの言う、愛のない《肉体と精神をどぶに捨てるようなセックス》についてかなりの重きを置いて考察されているように読める。

もちろん、上野千鶴子さんは《どぶに捨てるようなセックス》を提供する側を擁護する立場なのだが、鈴木涼美さんはニュアンスがちょっと違って、どぶに捨てるようなセックスであっても、それに対価が伴うのであれば、肉体と精神を捨てるということはないように思えるとも読み取れる。

ここで果たして、金で買われた《セックス》は、本当に尊厳やプライドを傷つけるのだろうか、という疑問が出てくる。

親爺が思うのは、金で買われたセックスでも、お互いが納得していれば《必要悪》レベルなのではないかと思う。別に魂までを売る行為でもなく、《どぶに(自分を)捨てる》行為でもないだろうと思う。原田純さんが言うように、「セックスは究極の遊び」だというのが結論です。

しかしながら現実は、セックスが仮に《究極の遊び》だとしても、夫婦以外の気の合うカップルがセックスに没頭すれば、生殖能力があれば子供が生まれたりすることもあるだろうし、家庭を顧みなくなって、既存の夫婦関係が壊れる恐れが大いにあるでしょう。そこで社会通念や、宗教、倫理などが、夫婦以外のセックスを禁止してきた背景が、当然ながら頑としてある。

とはいうものの、嫌な相手とセックスするのは男女どちらにとっても願い下げなのだが、好ましい相手となら《セックスは究極の遊び》に違いない。ただ、それを大っぴらに社会に向かって言うと、限られた経済状況やしがらみの中で生きざるを得ない我々にとって、結婚や家族の生活の枠組みなどを壊しかねない。それで、宗教を持った欧米人、その他の外国人、世間体をもっとも気にする日本人も、だれもが黙っているのでしょうね。

こんな結論、平凡でつまらないでしょうか。(苦笑)

その1 おしまい

《COMPLETE INSANITY》なピアノ演奏 Yuja Wang(ユジャ・ワン)

YOUTUBEのリコメンド機能で、ピアノの演奏INSANITY(狂気)という字が目に入ってきた。親爺はかねがね、音楽はどこか狂気がないと面白くないと思っているので興味をそそられてしまった。

実際に見たのは、Yuja Wang(ユジャ・ワン)が弾くリムスキーコルサコフの《熊蜂の飛行》で確かに刺激的で狂気があふれていた。

親爺は、「演奏家が客にお金を払って見てもらえと言われる演奏」と「お客が、お金を払って演奏家に演奏をしてもらう演奏」の2種類[1]があると思っている。これはお金を取れる演奏に入るだろう。

WIKIPEDIAで見ると、このYuja Wang(ユジャ・ワン)は、1987年生まれの中国人で、北京の中央音楽学院、フィラデルフィアのカーティス音楽院で学んだとある。

ラフマニノフ、プロコフィエフやスクリャービンなどのロシアの近代音楽をよく演奏している。ベートーヴェン、モーツァルトやバッハなどのドイツ古典派以前の音楽は、これから長い時間をかけて取り組みたいとイギリス版のヴォーグで語っていると書かれている。 なかなかのポリシーである。

こちらがそのYOUTUBEだ。

こちらが、アンコールで演奏されたトルコ行進曲である。彼女自身の編曲かと思ったが、残念ながらヴィロドスという人の編曲のようだった。それでも、アンコールでこのような曲を披露するという根性は大したものだし、お客もきっと楽しいに違いない。

こうしてみるとクラシック音楽の世界も、昔とは様変わりしているのだろう。

一昨年のショパンコンクールで、反田恭平さんと小林愛実さんを抑えてブルース・リウというカナダ人が優勝した。ブルース・リウは正統的な演奏ではなく、《自分で考えた事を表現する》危険な賭けをして勝ったと言われる。つまり審査員たちではなく、観客の圧倒的な支持を得た彼が優勝した。

https://www.hongkong-ouchi.com/bruce-interview/ ←こちら記事です

おしまい

[1] 海外で活躍されている車田和寿さんというオペラ歌手のYOUTUBE《車田和寿‐音楽に寄せて》に、日常的で平凡な表現をすると、先生が生徒を叱責するときにこのような表現を使われるという話が出てきます。

オリンピックにかかった経費について考える その5 (組織委員会・会計処理規程から考える)おしまい

JBPRESSから バッハIOC会長と森組織委員会長

次に掲げたのが、「オリンピック組織委員会会計処理規程」である。

組織委員会の内規である「会計処規程」を見ると、冒頭に、書類の保存年限は7年で、伝票や証拠書類は10年間の保存期間と書かれている。

ここで、再び調達結果の総合計の表を見ると、随意契約の中に「パートナー供給」として1,939億円と書かれている。これは詳しいことが割らなかったのだが、どうやらスポンサー契約を結んだ企業へ発注した額のようである。他方、2枚目の収支を表した表では、スポンサー料を約4,300億円受け取っている。

中身がまったく分からないのが、「特別契約」である。規程を読むと、「特別契約」は《緊急時》、《他に供給先がない独占》、《事務総長が特に必要と認めるとき》などとなっているのだが、「特別契約」は2,897件と数も多く、金額も2,791億円ともっとも多額なのだが、多少なりとも詳しい説明は、入札があった案件だけしか公表しておらず、「特別契約」の案件ごとについては、契約金額、契約日、選定理由すら公表されていない。よって、詳しいことは闇の中である。

もちろん、契約書や評価のプロセスなども、実際の書類にアクセス(情報公開請求)することが出来ない。

つまり、「特別契約」2,897件、金額2,791億円について、分かるのは件名と契約相手名だけである。件名と契約社名から、どんなことがどんな風に契約がされたのか想像するしかない訳だ。

2021年度の調達案件一覧 (PDF 1.8MB)から

また、「競争契約」では、価格で契約相手を選定する《一般競争入札》と、《提案書と価格》の両方で契約相手を選定する《総合評価落札方式》があるのだが、ひとくくりに「競争契約」とされている。

前にも記述したが、この総合評価落札方式入札は、入札結果を見ると、どの案件も「技術点及び価格点を総合的に評価した結果、他社より優位であると認められた」と書かれており、本当に1社入札ではなかったのか疑問に感じるところだ。また、技術点と価格点をどのような割合で評価したのか明らかにされていない。選定者(採点した人物)が、身内なのか利害関係者なのかどうかも明らかにされていない。

総合評価落札方式は、運用の仕方次第で恣意的に落札者を決めることが可能であり、どのような体制で運用していたのかを示し、恣意的で不公平なことをしていないと、発注者は社会の疑念を晴らす責務がある。

そもそも「プロポーザル」方式は、提案書の審査・評点のみで契約相手を決めるので、そうであれば競争契約にカテゴライズするのではなく、随意契約に入れるべきではないか。

●結論

オリンピックの契約について、組織委員会に契約情報の開示義務がないというのは考えられない。国や東京都は、税金で箱モノを作って情報公開の対象だったり、会計検査の対象になるが、オリンピック組織委員会は、直接に税金を使わずに運営されているので、対象から除外されているというのであれば、オリンピック自体が多額の税金を投入した国家事業であり、国民感情からすると到底受け入れられない。

公益財団法人であるオリンピック組織委員会が情報公開の義務がないことを盾に、不正があっても明るみに出ないというのであれば先進国とは言えない。

東京地検が受託収賄罪や談合などの容疑で取り調べをしているが、それ以外にも仲間内で不労所得を得て、おいしい汁を吸っている連中が裏で生き延びているのではないか。それは望ましい姿でないことは明らかだ。

札幌オリンピックの誘致をするという動きもあるようだ。大阪では、万博とIRも計画されているようだ。これらの開催でも今回と同じロジックの法律や規程によって、公益財団法人を作り、非開示が許されるというシステムを作ることがないようにすべきだ。

ビッグイベントに際し、これを例外規定にする特別法なりを一つ作れば、簡単に国民の目が届く制度をつくることができる。 さもなければ、設立された公益財団法人とスポンサーたちは、いくらでも身内で仕事を分配し、国民はチェックすらできないという事態が続くだろう。

おしまい

オリンピックにかかった経費について考える その4(法令と規程について)

WIKIPEDIAから

以下は、2022年10月、オリンピック組織委員会の文書公開が都立の図書館で始まったというNHKの報道で、公開される内容は限定的だという内容だ。

https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20221025/1000086148.html ← 記事はこちら

上記の記事に書かれている組織委員会に公表の義務がないという点について、法的な根拠などについて調べてみた。

最初は、「公益財団法人の認定等に関する法律」である。この法律には、役員諸侯の報酬、財産目録の公表義務は謳われているものの、財産目録とは財務諸表などをいい、経営状態を示すもので、個別の契約内容などについては開示義務の定めがない。また、監督官庁の職員には、活動状況の検査権限があると定められているものの、これは情報公開にはつながらない。

下が、「情報公開法」である。情報公開法は、行政機関の情報公開が趣旨なので、「行政機関」に含まれない公益財団法人のオリンピック組織員会は、そもそも対象外である。

では、会計検査院はどうか。税金が投入されているのだから、検査の対象ではないのかと普通は思う。 ネットでググってみたところ、検査院は検査を実施しているようだが、2枚目の図を見ると、国が予算を出したところを検査しているようであり、オリンピック組織委員会の支出分は検査対象でないようだ。組織員会の収支を見ると、補助金や交付金と言った税金が入っていないという建前なのだろう。

ただ会計検査院の「所見」として、「国が負担する経費の総額(見込額)を適時に明らかにするとともに、・・・イベント全体の経費の総額を明らかにする仕組みをあらかじめ整備するなど、・・・情報提供を行う態勢を検討すること」と措置すべき要求を書いている。これも、やはり公益財団法人については何も触れていない。

これは親爺の想像だが、オリンピックの経費は、組織委員会と国と東京都が支出しており、組織員会には税金が入っていない建前になっており、会計検査院の検査対象から除かれているのだろう。しかし、経費の半分は税金で賄われているのは事実なので、検査の対象にするのが、本来の姿のように思える。

次回は、いよいよオリンピック組織委員会の会計処理規定を見てみる。

その5へ つづく

その4 おしまい

オリンピックにかかった経費について考える その3(具体例と契約方法)

有明体操競技場(BUILTのHPから)

実際の契約案件を具体的に見ていきたい。

まずは、「有明体操競技新築工事」のための設計業務である。これはプロポーザル方式であり、プロポーザル方式というのは、この設計業務を発注者の仕様書に基づいて、どのように設計し、設計図に落とし、請負工事契約を結ぶための入札図書を作ることが最終成果品となるのだが、これをどのようにするのか提案するのかを競うのがプロポーザル方式である。

プロポーザル方式というからには、落札の条件に《価格》は条件として含まれていないはずで、予定価格の範囲内であれば、《プロポーザル》(提案)の優劣のみで決定される随意契約であり、ブログのその2で書いた「調達情報の総括表」で競争契約に分類されているのは、おかしいと感じる。何か理由があるのだろうか。

次は、東京都が発注したらしい「有明体操競技新築工事」の本体工事である。これも「総合評価落札方式」で、205億円で落札されている。この案件は、こちらも、応札者が1社のみだったか、複数社あったのか記述されていない。

下は、「スポーツプレゼンテーション実施の検討に向けた基本計画策定支援業務委託」契約を総合評価落札方式で実施したもの。2千万円で電通が落札している。他社より有利と認められたと書かれており、複数社の競争があったとされている。また、「事業者選定実施要領」というのは、入札説明図書のようなものなのだろうか。

下は、「Tokyo2020 ブランドデザイン開発にかかる業務委託」契約を総合評価方式で入札したものだ。やはり、電通が5,400万円で落札している。

下は、契約金額が公表されていない「聖火リレー実施運営業務等委託」契約である。電通が契約して、3年間にわたり行っているいるのだが、契約金額が書かれていない。聖火リレーは全国で長期間おこなわれた納税者誰もが知っているもので、金額を知りたい。

上記のうち、「有明体操競技新築工事」の基本設計がプロポーザル方式契約と、東京都が施主になっている「有明体操競技新築工事」の本体工事の総合評価落札方式の契約を除き、「提案書が他者よりも優位と認められた・・」と書かれているが、調べた範囲ではすべて同じように記述されており、1社応札のケースがあった方が自然に思われる。

その4では、公益財団法人の情報公開の義務について触れたい。

その4へつづく

その3 おしまい

オリンピックにかかった経費について考える その2 (組織委員会の情報公開は?)

電通の本社(日経新聞HPから)

●オリンピック組織委員会の全体の調達(契約)額について

東京2020組織員会の2014~2021年度の調達情報が、下の図のとおりオリンピック・パラリンピックの東京都ポータルサイトに掲載されている。

2014年度~2021年度 調達全体の状況(東京都ポータルサイトから)

この表を見ると、総額が6,825億円、うち競争契約したものが2,165億円、随意契約したものが4,660億円である。随意契約が競争契約の倍以上あり、公平性を保って契約したのか知りたいというのが、納税者の気持ちというものだろう。

この競争契約と随意契約の違いの詳細については、後に述べたい。(前回その1のブログに書いた6,400億円と数字が400億円ほど違っているが、おそらくデータの集計方法が微妙に違うのだろう。)

● 一例として、2018年度の調達情報を見てみると

2018年度の調達情報の総括表は次のようになっている。この年度に2,504億円契約し、競争契約が1,364億円、随意契約が1,139億円である。

2018年度 調達全体の状況 (PDF 0.3MB)

この年度のうち、オリンピック委員会が公表している具体的な調達(契約)情報を例を上げて見てみる。

例えば、2018年6月に入札が行われた「テストイベント実施に向けた計画立案及び計画支援業務(5) さいたまスーパーアリーナ」という電通が落札した案件は、次のような形式で公開されている。(この形式で公表しているのは、競争契約に限られる。)

調達(入札結果一覧)から

赤線は、親爺が引いたものだが、技術点と価格点を評価する総合評価落札方式で行われ、「他社より優位と認められた」と書かれているので、応札は複数社あったように見える。

下が、2018年度の案件一覧である。

2018年度 調達案件一覧

● 疑問点を書いてみる

2018年度の調達情報の総括表を見ると「競争入札」という区分に「184件」と書かれており、赤字でアンダーラインを長くひいた案件一覧には当該案件が「競争入札」と書かれているので、「競争入札」には、《総合評価落札方式》と《一般競争(価格のみの競争)》の両方が含まれているようだ。 一覧には、契約金額の記載がないので、両方を照らし合わして見る必要があり、不便である。落札者は書かれているのだが、実際の応札者は、他に誰がいたのか書かれていない。

また、「プロポーザル」が競争契約に分類されているが、「プロポーザル」は、提案を意味し、《価格》を考慮していないと受け取れるので、随意契約に分類すべき可能性がある。

また、「パートナー供給」、「特定契約」の二つは随意契約に分類されているが、金額が非常に大きい。これについては、会計処理規定を参照しながら今後、見ていきたい。

その3へ続

その2 おしまい

オリンピックにかかった経費について考える その1(総合評価落札方式が生まれた経緯となぜ公表義務がないのか)

●問題意識

親爺は例えば、オリエンタルラジオ・中田敦彦さんのYOUTUBEなどを見て、オリンピックの経費の詳細について怪しいなあと思っていても、、オリンピック委員会に情報公開の義務がないために追及の方法がないのはよろしくないと思っていた。 同様に、郷原弁護士の「日本の権力を斬る」という正義感溢れるYOUTUBEを見ながら、東京地検が電通の高橋理事容疑者らを受託収賄罪で捜査、逮捕したことを応援していた。この高橋容疑者の逮捕は、オリンピック組織委員会の理事は「みなし公務員」になるので罪に問われたもので、民間人なら罪に問われないとのことだ。

その事件の背景であるオリンピック組織委員会が発注する契約は実際にどうなっているのか、ネット上にある公開情報を、さらっと、調べてみることにした。これまでのサラリーマン生活の経験で、おそらくオリンピック組織委員会は、様々な調達(契約)に際し、仲間内で仕事を分配していたのではないかという懸念をぬぐえないからである。

その具体的な事例を見る前に、国などの公的機関の調達方法の変遷、《総合評価落札方式》入札という方式が生まれた経緯について、まず触れたい。

2009年から2013年の間続いた民主党政権の直前に、国には埋蔵金があると言い出し、埋蔵金はもちろんなかったのだが、民主党は《随意契約》が無駄の温床だといって、何でも《一般競争入札》にしろといい出した。

なんでも一般競争入札で契約するのは、事務方としては大変な業務であり、応札する側も落札できないとそれまでの努力が無駄になるので、大きな犠牲をはらうことになる。とくに期限が決まっているオリンピックなどの事業の場合は、入札がもし不調になると、工程の遅れに直結する。

ところがこの時、霞が関の官僚たちは、《随意契約》を避けるための知恵を働かせ、「総合評価落札方式一般競争入札」という新手を編み出した。これまで、《一般競争入札》というのは、極めて厳格な仕様書を作成し、価格のみで入札するのが一般競争入札だった。このルールを変えて、《提案書》と《価格》の2本立てで契約できるようにして、これを一般競争入札のカテゴリーに入れた。

この《提案書》は、発注者が提示した案件概要や入札説明書などに従って、応札者がどのように業務を遂行するのかを提案するものだ。この採点には、応札社の過去の類似業務の実績や従事する社員の経歴や経験も評価の対象になる。 同時に、それとは別に《価格》を書いた札も入れる。 この提案書と価格の配点割合は発注者が決め、半々あたりが多いはずだが、価格よりも出来栄えを重視する際には、提案書の評価のウエイトを倍にしたりする。 問題なのは、この提案書の採点を基本、発注者側がすることだ。発注者側の管理職が複数名で当たることが多いだろう。

コンサルタント業務を別に委託している場合や外部の専門家に採点を依頼する場合は、そちらが当たるかもしれないが、コンサルタントは業務を受注している立場であり、外部の専門家の場合は《謝金》を受け取っているはずなので、発注者の意向を働かせることが容易なことが想像される。これらの場合でも、評価者は4名ほどで採点しているはずで、発注者の内部の管理職などが含まれることが多いと思われる。

つまり、受注者を誰かにしようという外圧がもしあった場合、このような定性的な採点では公平性を保った判断ができない。つまり、悪事が背景で働いていても、「信念に従って、正しい判断しました。」と言われれば、それ以上追及のしようがない。

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今回のオリンピックでは、かかった経費が1兆4,200億円と公表されている。見込まれてた1兆6,400億円だったものが、簡素化やコロナによる無観客になったために約2,000億円減ったという。

1兆4,200億円の内訳は、オリンピック組織委員会が6,400億円、東京都が6,000億円、国が1,800億円を使ったと公表されている。

東京都オリンピック・パラリンピック調整部のHPから

●公益財団法人には公表義務がない

この6,400億円を使った一般公益財団法人であるオリンピック組織委員会の情報公開すべき義務は、財務諸表などのみである。そのため、どんな契約を結んだのか、つまり、具体的な契約書や契約のプロセスは、国民の目に明らかにされない。それで、冒頭のような新聞記事が出る。

親爺は、公的な資金が投入された世紀の大事業であるオリンピック事業で、マスコミがもっと積極的にどのようにお金が使われたかを追及すべきだと思っている。ところが、マスコミは、政治をチェックするという本来の機能をまったく果たしていないと感じている。

その2へつづく

その1 おしまい

ナイーブな日本人 思想もへったくれも何もない!!

日本人は、ナイーブという言葉の意味を肯定的なプラスの意味で受け取っていることが多いが、これは外国人の言うことを真にうけ、騙されやすい日本人の悪癖かもしれない。

ボディーソープ・ナイーブ(クラシエ)

例えば、ナイーブという言葉をプラスの意味で受け取っているので、繊細な肌の人向けにナイーブという名のボディソープが売られている。デリケートな肌、赤ちゃんぽい無防備な肌向けの人用の商品ということを示したネーミングなのだろう。

このナイーブという言葉の語源を調べてみると、どうやら、フランス語のnaïveが語源であり、英語では、naivと表記するらしい。WIKIPEDIAには、「童心的」「うぶ」「世間知らず」「お人よし」「無警戒」「ばか正直」を意味すると書かれている。

例えば、性的にナイーブと言えば、「童貞」「処女」を指すのだが、誉め言葉ではなく、幼稚、子供っぽいという意味が含まれる。

ナイーブと聞くと、純真とか繊細で感受性が強いなどと、イメージしてしまう日本人が多いと思うのだが、実際外国人が考えているのは、「世間知らず」「お人よし」「無警戒」「ばか正直」といったマイナスの意味だろう。

親爺は、戦後の《民主主義教育》を受けて育ってきた。つまり、太平洋戦争で敗戦しGHQが作った憲法を押し付けられたとしても、太平洋戦争は侵略戦争であり否定されるべきものだったことに加え、GHQが押し付けた《自由・平等》《民主主義》と言った価値観は普遍的に正しいので、《戦争放棄》を謳う憲法や戦後の新しい体制を維持するのが正しいと言うような教育を受けてきた。

ナイーブな親爺は、この教育をずっと真にうけてきたのだが、いろいろ本を読んでみると、どうもこれは怪しいなと思うようになってきた。とくに、新型をコロナが始まったこの3年を経て、日本人は、馬鹿だナイーブだと思うようになってきた。

具体的に戦後の教育のどこに疑問を感じたのかといえば、《自由・平等》の自由と平等は同時に達成し得ない。あらゆる人が自由に振舞っては、平等は達成できないので、矛盾する。また、欧米中心に発達してきた資本主義や経済ルール(会計基準、決済基準、銀行制度など)の歴史は浅く、人類にとって普遍的とまでは言えない。欧米の中で発達してきたシステムは、特定の団体の利益を実現するための手段であり、必ずしも正しくないと思うようになってきた。

親爺は、そこへ《クライテリオン》という藤井聡京都大学教授が主宰する2023年1月の雑誌に掲載されているある記事を読んで、完全に日本人観が変わってしまった。

その記事は、小幡敏(おばたはや)の「危機の時代を前に」というものだ。小幡敏さんは、東京大学文学部思想文化学科倫理学専修課程卒業後、自衛官を経て、著述業へと進んだ方のようだ。旧のペンネームが磯邉精僊というらしい。

この小論で、現在のロシアのウクライナ侵攻について、次のように話を始める。

「平和主義も専守防衛も、そんなものは敵さん次第でどうにでも蹂躙され得ることが証明された。真に実効的な安全保障の実力を求めず、未だに核の傘などを前提としている日本(先日聞いた話では、外務省内で核の傘の実効性に関する議論はタブーだそうだ)において来る日に周辺国から攻撃を受ける事があってっも、そんなものは悲劇ですらない。無防備のままでいた自分が悪いのである。網棚に鞄を置いて眠りこけていた酔客が置き引きにあったといって、誰が同情してくれるものか。我々は、今現在、77年に渡る怠惰を清算される立場にあるのである。」

さきの大東亜戦争に関しては、「・・・すなわち、日本人は、何の為に戦うのかをあまり問題にしてこなかったきらいがある。戦いというのは自明に与えられるものであり、そこに放り込まれた以上やるしかないものでしかなかった。あの戦争に確固たる目的などなかったし、戦争遂行の責任者すら居なかった。戦争前夜、誰もが『もはや戦争は不可避である』と考えたけれども、その判断を決定していたのは事実ではなく空気だった。」という。

そして、「戦争をするには民族の信念が必要だが、そうした信念が日本人にあったのかという疑問である。」と、こう続く

今度は、《日本人に足りないものは何か》というタイトルで、何にもない、あらゆるものがないという意味の、敗戦直後のエピソードを紹介しているのだが、これがきわめて強烈である。

「多くの日本人がほとんど一夜のうちに、あたふたとアメリカ人を礼賛するようになり、「平和」と「民主主義」の使徒となったかのような有様をみると、そこには笑うべきことが山のようにあった。皮肉屋は、この「改宗ゲーム」に参加して、政治看板の書き換えや政治上の主義・主張の大転向を、恰好の風刺の的にした。さらに厄介だったのは、日本人の占領軍への対応の仕方が例をみないほど無邪気で、親切で、浅薄だったことである。たとえば原爆が投下された長崎においてさえ、住民は最初に到着したアメリカ人たちに贈り物を準備し、彼らを歓迎したのである(贈り物はガラス・ケース入りの人形で、放射能の影響を調査しに来たアメリカの科学チームの責任者に贈呈された)。またそのすぐ後にも住民たちは、駐留するアメリカ占領軍とともに「ミス原爆美人コンテスト」を開催したのである。(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』)」

「ありふれた話だった。鮮やかな”転向”を遂げたのは軍部に”虐げれられていた”庶民だけではなかった。戦後、GHQ主導で十数万人に及ぶ公職追放が行われるが、権力者たちもまた、敗戦に我を失ったのである。」

「『みんな自分だけは解除してくれと頼みに来る。見るも無残だな。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと』ー後藤田正治回顧録」

そして小幡敏さんの結論はこう結ばれる!!

「こうした転向が皮相上滑りであったかを証明するエピソードは無尽蔵にある・・・中略・・・日本人は確固不動、堅忍不抜の思想なり生き方なりを欠いているのである。

おしまい

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