日経新聞のいい加減さ 真逆へ世論誘導

日本は30年来の経済不況と言われている。この要因は、人口減少、高齢化など様々な要因が言われるが、親爺は《為替レート》が非常に大きな要素だと思っている。

日本は第二次大戦後に目覚ましい復興を遂げるだけでなく、《ジャパン・アズ・ナンバーワン》という本がアメリカで出版されるほど好景気に沸いていた。

逆にアメリカは日本からの輸出に赤字が爆増、テレビでは日本からの輸入車をアメリカ人労働者がハンマーで壊すテレビ映像が連日流されていた。

1985年9月、アメリカは、G5である英国、フランスとともに、日本とやはり経済が好調だったドイツを呼び出し、為替レートの切り上げを要求した。この時の会合がニューヨークのプラザホテルで行われたために《プラザ合意》と言われる。もちろん、輸出産業にとっては、為替レートの切り上げは国際競争力の低下を意味する。

この時、日本の政治家と日銀総裁はアメリカの言うことをすぐに受け入れた。為替の《是正》という表現が使われたが、日本のバカな政治家たちはアメリカにやすやすと屈し、円高を容認し、これを機に日本は円高不況へ突入する。政府は円高不況に対し金利を下げたり不況対策を打つのだが、投資先を失った大量の資金は不動産へと向かい、バブルとなる。やがて、ハードランディングしてバブルは弾け、日本の不況は現在まで30年続くことになる。

この時、ドイツもマルク高の是正を求められたと言われている。しかし、EU創設の機運は1970年代頃から始まり、共通通貨であるユーロの開始以前から、欧州地域内の通貨共同フロート・メカニズムのせいで、ドイツの為替変動の幅は抑制されていた。経済のしわ寄せは、域内のイタリアやスペインなどの弱い国へと向かったが、ドイツは、EU域内で有利な交易条件を保てた。

ウィキペディアから プラザ合意の前後5年間のG5の為替レートの推移

上のチャートは、”Plaza Accord”と書かれた水色の破線が縦に入っているが、プラザ合意の前後の為替レートの推移が示されている。赤線がフランスのフラン、紫が日本の円、水色がドイツのマルク、緑がイギリスのポンドであり、アメリカ・ドルに対する交換比率を示している。 

見てのとおり、日本だけが4から6の水準にあったものが、2以下になっている。つまり、倍以上の円高になったわけだ。

同じ内容だが、円とマルクの為替レートの推移を下に示す。

上が1ドル360円時代から現在の1ドル130円ほどへと変化した日本の為替レートの変化である。日本は、プラザ合意を境に、倍の円高になっている。

下が同じ時期のドイツである。目盛りに注目してもらいたいのだが、そもそも日本と目盛りの幅がドイツとは違う。日本は、8倍の差がある。ドイツは4倍である。

似たような印象の二つのグラフだが、1970年代の水準から見ると、日本は倍の為替レートになっているが、ドイツは5割増し位である。しかも、1980年には現在と同じ水準の時期がある。つまり、ドイツは日本ほど、為替レートの変化をしていない。

こうして日本は、為替レートが倍になり、輸出企業は競争力を半分失った。早い話、日本の政治家と日銀総裁たちは、プラザホテルで判断を誤ったのだが、誰も失敗を認めていない。経済専門紙を自称する日経新聞は、円高で始まった不況だが、円高は円の信認が増した、良いことだとずっと持ち上げてきた。

通貨が高かろうが安かろうが国民にとって何の関係もない。通貨の信認が増し、日本の国が国際的に評価されたから円高が起こるという書き方を日経新聞はするが、信用力が上がったとしても、腹は満たされない。そもそも、国際貿易が普通に決済されていたら、信認があるということのはずだ。こうして、30年間、円高を喜んでいたら、日本経済は空洞化した。

日本の製造業は壊滅し、ほどんど国内で売られている製品は、中国製などになった。スーパーで売っているもの、100均で売っているもの、非常に多くの品物が輸入品に置き換わっている。

日本は国力を失ったのである。日経新聞の責任は重い。

おしまい

グールドの演奏の秘密 驚く椅子の低さ! 角野隼人さんのコメント NHK《孤独のピアニストの肖像から》

2023年2月26日、NHKのFM放送で3時間という長時間にわたる「アート・オブ・グールド ~ 孤独のピアニストの肖像」というグレングールドについて特集した番組の再放送があった。

この放送の中で、グールド好きのリスナーにとって非常に興味深い《グールド体験》がレポートされたのでこれを報告したい。

宮澤淳一氏

この番組は3時間あったため、グレン・グールドについてかなり掘り下げたものになっていた。彼の演奏をわりと長くオンエアしつつ、日本のグレン・グールド研究の第1人者である宮澤淳一氏と、漫画家のヤマザキマリ氏のお二人がメインスピーカーだった。宮澤氏は、グールドを1980年頃からずっと研究されてきた青山学院大学教授で、グールドに関連する書籍の翻訳や映画の字幕監修、多くの評論などを手掛けておられ、この人なしでグールドは語れない。

ヤマザキマリ氏は、親爺は単純にテレビにも出られる人気漫画家だと思っていたが、なによりそれ以前に画家、芸術家であり、芸術と芸術家に対する洞察力はたいへん素晴らしく大いに感銘を受けた。

ヤマザキマリ氏

他に2名のゲストとして、ピアニストを目指していた時期にトロントで実際にグレン・グールドに会われた熊本マリ氏と、2021年のショパン・コンクールでセミ・ファイナルまで進まれた角野隼人氏が登場された。

角野隼人氏は、クラシック音楽だけでなく他のジャンルのピアノも弾かれ、「Cateen かてぃん」という愛称のYOUTUBEでも人気のピアニストである。また、東大の情報工学系のAIなどの研究者でもある。

グールドの演奏は、低い椅子に座り指だけでピアノを弾くもので、何千人も入る大ホールで演奏されるショパン、リスト、チャイコフスキーなどロマン派の作曲家の大曲は、鍵盤を打ち下ろして大音量を出すことが必要だが、彼はそもそもこうした作曲家を評価していなかったし、実際に弾けなかったと思われる向きがある。

角野隼人氏

というのは、彼はピアノを弾くときには、脚を10センチほど切り取った低い椅子に座り、おまけにピアノの3本の脚を3センチほどの高さの木のブロックに乗せ、ピアノを持ち上げて弾いていた。

写真の椅子は、グールドが生涯使い続けたもので、グールドを語る上でのある種のシンボルになっている。この椅子は、グールドの父バートが作ったもので、脚を切った後、真鍮のネジで高さを微調整出来るようになっている。グールドはこの椅子が気に入り、アクシデントに備えるためにスペアの椅子を作り、音楽については、すべてに入念で妥協することない性格のグールドは、この椅子とスペアの椅子の二つを持ち運んでいた。やがて、スペアの椅子は持ち運ぶ必要がないと気づくのだが、最初に作った椅子を生涯使い続けた。この椅子の他に、他の椅子も作るのだが、結局のところ気に入ったものは出来なかったという経緯がある。

この椅子も、もちろん最初のうちはお尻のところにクッションが入った座面があった。しかし彼は、ツアーへ行くにも、スタジオにこもって録音するようになっても死ぬまで使い続け、座面のクッションは、やがて内容物がやがてはみ出すようになり、晩年には座面が無くなって、とうとう木の枠組みだけになってしまった。おかげで、演奏するグールドの写真に写る椅子の傷み具合を見ると、おおよその年代を推察できる。

おまけに、彼は低い位置でピアノを弾くだけでなく、彼が好むピアノは、即応性に富んだ軽いタッチの鍵盤を持つピアノだった。

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この日の放送では、レプリカの椅子を使って角野隼人さんに弾いてもらい、一般的なピアノと比べたときの違いについて感想を語ってもらうというのが、実験の内容だった。

いよいよ、角野隼人さんがスタジオのピアノで《グールド体験》をする。

角野「はい、グールドの気持ちを味わっております。」

角野「でもなんか、座って見たら思ったより低くはないというか、まあ、気持ちは理解できるかもぐらいの・・・もっと、低いときもあったんでしょうか。」

宮澤「椅子としてはそうなんですが、ピアノの脚の下にブロックを入れて、鍵盤を高くするから、相対的にはもう少し低い椅子になるんですよ。・・・角野さんとしては、どうなんですか。はっきり言って弾きやすい、弾きにくい?」

角野「・・・この状態だと、これで弾きやすくなるという表現はある気がします。・・・これより低くなると、鍵盤に体重をかけることが難しくなるので、大きな曲は難しくなるのではないかと思います。・・・それは、グールドのレパートリーとも絶対に関係していると思いますが。」

角野「自分の体が下に行くということは、すべてが体が、下に行く、手首が下に行くわけですが、鍵盤を押し下げるときのエネルギーというのか、おそらく、必要な体を動かす量が最小限でおそらくすむので、そういうところは絶対演奏に影響してきますよね。」

ヤマザキ「余計な負荷がかからないための工夫だったんですね。」

角野隼人氏、パラパラとピアノを鳴らしながら、考える。ジャズ的な和音も鳴らす。

角野「あと、ピアノとかピアニシモの絶妙な表現とかは、まあ、ぼくもグールドほど低くはないですが、姿勢を下げることで細かな表現はしやすくなるという印象は持っています。」

宮澤「生演奏(ツアー)をしていたグールドの誉め言葉としては、『ピアニシモが美しい』という指摘はあったんですよ。」

ヤマザキ「『あと姿勢よくして弾いたらどう』って感じなんですけど、しょうがないんですよね。そうすると弾けないんですもの仕方ないですよね。」(笑い)

角野「あと、疲れないですよね。疲れたときにピアノ弾きたいときには、こんぐらいの方がいいですよね。」

宮澤「あと、グールドのピアノの鍵盤はもっと軽い鍵盤だったと思うんですよ。そうするともっと快適だったかも知れませんね。」

角野「鍵盤を軽くすると、高い椅子で弾くことは難しいでしょうね。低い椅子じゃないと鍵盤を極端に軽くする意味はないように思います。・・・上からだと自分の体重をコントロールしなければならない訳だから、椅子が低いと重心が下にあって指を下に下げるだけで弾けることになって、そして軽いとなって、指先でのコントロールを望んでいたんですかね。どうなんですかね。」

宮澤「鋭い指摘だと思います。」

おしまい

インド映画 RRR(蜂起・咆哮・反乱)

1カ月ほど経ってしまったが、インド映画の《RRR》を観てきた。評判を聞いて口コミが良かったので行ったのだが、どんな映画なのか全く知らないで見た.。なにやらすごくヒットし、今でもロングラン興行を続けているらしい。

ほぼ上映時間が、3時間と長いのは間違いないが、筋が派手で、言ってみれば《勧善懲悪》ですっとするし、どんでん返しがいっぱいあり、観客を飽きさせない。なお、タイトルの「RRR」(読み:アール・アール・アール)は、「Rise(蜂起)」「Roar(咆哮)」「Revolt(反乱)」の頭文字に由来するとのことだ。

こちら主人公の二人である。
https://filmarks.com/movies/100400 ☜ こちらは、上映情報や口コミを掲載したサイトである。

あらすじと感想

舞台は1920年、英国植民地時代のインド。英国軍にさらわれた幼い少女を救うため、立ち上がるビーム。大義のため英国政府の警察となるラーマ。熱い思いを胸に秘めた男たちが運命に導かれて出会い、唯一無二の親友となる。しかし、ある事件をきっかけに究極の選択を迫られることに。彼らが選ぶのは、友情か?使命か?

一応、筋としては1920年代のイギリスに支配されていたインドの独立運動で、インド人の主人公たちが暴虐非道な支配者であるイギリス人達をやっつけるというものだが、痛快劇で、全編ずっとクライマックスである。

何しろ主人公たちが、めちゃくちゃ強い。親爺は映画をたくさん見ているわけではないので、比喩が陳腐だが、ハリウッド映画のターミネーターや、香港映画のジャッキーチェン、変身はしないスパイダーマンが合わさったような強さである。

インド映画には、ラブシーンがないらしい。それで男女のロマンスを表現する場面になると、ナートゥダンスという男女の歌と踊りになるのがお定まりらしく、映画館の音響は迫力があって楽しい。場面は、英国軍との戦いと歌と踊りが続くので、いつも大音響が続きっぱなしである。

下がネットから取ってきた予告編である。

RRRのトレイラー

おしまい

ChatGPT 使ってみた。英語と日本語でどう結果が違うか調べてみた。

知人が無料のChatGPTを使えているのだが、親爺は無料版で試したところ動かなかった。仕方なく、1カ月20ドルの有料版にしたら、さすがに今度は動いた。有料版はバージョンが4.0で無料版より高性能とのことである。(4/15追記 今回の記事はV4.0なのかV3.5だったのかはっきり分からず書いています。おそらく3.5だと思います。)

使った感想を書くと、世間で言われているとおりの素晴らしい性能である。今回は、親爺が興味を持っているMMTについて質問したところ、おそらく大学院生くらいのレベルでちゃんとした返事が返ってくる。

もし大学受験にこれを使えば難関校でも合格するのではないかと思わせる。

今回、親爺のした質問は次のようなものだ。

まず、親爺が関心を持っている《MMT(Modern Monetary Theory=現代貨幣理論)》を説明させた。次にMMTと主流派経済学との違いを説明させ、さらに同じことを英語で回答させた。これを再び日本語に翻訳させた。最後に、ChatGPTに英語で回答する場合と日本語で回答する場合で、データベースに違いがあるのか質問した。

データベースは共通だという回答だったが、実際に日本語ベースの回答と英語ベースの回答では、返事が少し違っていた。 

具体的に気づいた点を書くと、日本語ベースでは「主流派経済学が、雇用と失業に負の相関(トレードオフ)があるフィリップス曲線を(現実に適合すると)主流派経済学は主張し、政府の介入が市場の効率性を損ね経済成長の阻害要因となる。」と書き、一方MMTは、「完全雇用を実現することでインフレを抑制できる。」と書いているのだが、この記述は英語データベースにはない。

逆に、英語データベースには「主流派の経済学者は、インフレ抑制や財政規律の維持を優先する傾向があります。」と書いているものの、日本語データベースにはない。

感想だが、英語データベースの方が、全体に抽象的で《玉虫色》に結論付けている傾向が強いような気がした。(ChatGPTは、「データベースは、言語に関係なく同じ一緒よ。」と回答しているが、どうも怪しい。)

以下は、実際の応答の記録を掲げてみた。

こちらのアイコンは親爺を示している。

こちらのアイコンは、ChatGPTを示している。

MMTについて説明して

MMT(現代貨幣理論、Modern Monetary Theory)は、マクロ経済学の一分野であり、通貨や財政政策に関する新しい見方を提案しています。主に次のような主張をしています。

  1. 通貨発行権を持つ国(主権通貨を発行する国)は、自国通貨での債務不履行(デフォルト)のリスクがほぼない。なぜなら、国家は必要なだけ自国通貨を発行できるためである。
  2. このような国家は、インフレが主要な制約となるまで、財政赤字を増やしても問題ない。インフレが増加する前に、失業を解消し、経済成長を促進することができる。
  3. 財政赤字の増加は、自動的にインフレを引き起こすわけではない。インフレが起こるのは、経済の実質的な生産能力が限界に達し、需要が供給を上回る場合である。
  4. 通貨発行国は、通貨の価値を安定させるために、財政政策と金融政策を適切に調整する必要がある。これにより、インフレを抑制しながら、失業を減らし、経済成長を促すことができる。

MMTは政府支出に対する新しい視点を提供し、財政赤字や国債に対する懸念を和らげることができます。しかしながら、MMTには批判も多く、インフレのリスクや通貨価値の変動に対する懸念があるため、経済学者の間で議論が続いています。

経済学の主流派の主張とMMTの違う点を教えて

経済学の主流派(通常、新古典派や新ケインジアン派などと呼ばれる)とMMT(現代貨幣理論)は、いくつかの重要な点で相違があります。以下にその違いを示します。

  1. 財政政策と金融政策の役割: 主流派経済学は、金融政策(主に中央銀行による金利調整)が景気の安定化に適切な手段であると考えています。一方で、MMTは財政政策(政府支出と課税)が、景気安定化やフル雇用の達成により効果的であると主張しています。
  2. 財政赤字と国債: 主流派経済学は、財政赤字が持続的に増加することで、インフレ、金利上昇、または債務危機を引き起こす可能性があると考えています。しかし、MMTは主権通貨を発行する国家においては、インフレが制約となるまで、財政赤字を増やすことが問題ないと主張しています。
  3. フル雇用: 主流派経済学は、市場メカニズムが最終的にフル雇用に近い状態を達成すると考えていますが、MMTは政府がフル雇用を達成するための積極的な役割を果たすべきだと主張しています。例えば、MMTは政府が雇用者最後の手段(Employer of Last Resort、ELR)として機能し、失業者に公共事業などの雇用機会を提供すべきだと提案しています。
  4. 通貨発行: MMTは、主権通貨を発行する国家が自国通貨での債務不履行(デフォルト)リスクがほぼないと主張しています。これに対して、主流派経済学は、国家が通貨発行を行いすぎると、インフレや信用不安を引き起こす可能性があると警告しています。

これらの相違点により、主流派経済学とMMTは、政府の財政政策や金融政策に対するアプローチが異なります。MMTは、より積極的な政府の役割を主張する一方で

続けてください

、主流派経済学は、市場メカニズムと中央銀行の金融政策により経済を調整することを重視しています。両者の違いは、政府の経済に対する介入の程度や、インフレと失業のトレードオフに関する考え方にも現れています。

MMTは、政府が経済の安定化やフル雇用の達成に重要な役割を果たすべきだと主張しているのに対し、主流派経済学は、政府の役割は必要最小限に抑えるべきだと考えています。主流派経済学は、過度な政府介入がしばしば市場の効率性を損ない、経済成長を妨げる要因になると主張しています。

また、主流派経済学とMMTでは、インフレと失業の関係に対する考え方も異なります。主流派経済学は、フィリップス曲線を用いてインフレと失業の間にトレードオフの関係があると考えています。一方、MMTは、フル雇用を達成することでインフレを抑制することが可能だと主張し、政府が積極的に雇用政策に取り組むことを推奨しています。

このように、経済学の主流派とMMTは、いくつかの重要な点で相違があります。これらの違いは、政策立案者や経済学者が経済政策の選択肢を評価する際に考慮すべき要素となります。

「経済学の主流派の主張とMMTの違う点を教えて」を英語圏のデータをサーチして、英語で答えてください

There are several key differences between mainstream economic theories (usually referred to as neoclassical or New Keynesian economics) and Modern Monetary Theory (MMT). Here are some of those differences:

  1. Role of fiscal and monetary policy: Mainstream economics believes that monetary policy (primarily central bank interest rate adjustments) is the appropriate tool for stabilizing the economy. In contrast, MMT argues that fiscal policy (government spending and taxation) is more effective in stabilizing the economy and achieving full employment.
  2. Fiscal deficits and government debt: Mainstream economics argues that persistently increasing fiscal deficits could lead to inflation, rising interest rates, or debt crises. However, MMT contends that sovereign currency-issuing nations can increase fiscal deficits without issue until inflation becomes a constraint.
  3. Full employment: While mainstream economics believes that market mechanisms will eventually bring the economy to a state close to full employment, MMT asserts that the government should play an active role in achieving full employment. For example, MMT proposes that the government should function as an employer of last resort (ELR), providing job opportunities in public works and other projects for the unemployed.
  4. Currency issuance: MMT claims that sovereign currency-issuing nations have virtually no risk of defaulting on their debts in their own currency. In contrast, mainstream economics warns that excessive currency issuance by a nation could lead to inflation or credit instability.

These differences result in different approaches to fiscal and monetary policies between mainstream economics and MMT. While MMT advocates for a more active role for the government in the economy, mainstream economics emphasizes the importance of market mechanisms and central bank monetary policies in adjusting the economy.

These differences in viewpoints lead to distinct policy recommendations and economic outcomes. Proponents of MMT argue that the government can use its fiscal policies to address issues such as income inequality, unemployment, and infrastructure development, whereas mainstream economists tend to prioritize controlling inflation and maintaining fiscal discipline.

Moreover, the contrasting perspectives on the role of government intervention in the economy often influence the political debate on economic policy. MMT supporters generally align with progressive policy proposals that emphasize government spending on social programs, while mainstream economists often advocate for a more balanced approach that combines government spending with market-oriented solutions.

In conclusion, the key differences between mainstream economic theories and MMT shape the discussions and decisions surrounding fiscal and monetary policies. Understanding these differences is essential for policymakers, economists, and other stakeholders as they evaluate and implement economic policies to achieve desired goals.

和訳してください。

主流派経済理論(通常、新古典派や新ケインズ派と呼ばれる)と現代貨幣理論(MMT)の間には、いくつかの重要な違いがあります。以下にその違いを示します。

財政政策と金融政策の役割: 主流派経済学は、金融政策(主に中央銀行による金利調整)が経済を安定化させるための適切な手段であると考えています。一方で、MMTは財政政策(政府支出と課税)が、経済の安定化や完全雇用の達成においてより効果的であると主張しています。

財政赤字と政府債務: 主流派経済学は、財政赤字が持続的に増加することで、インフレ、金利上昇、あるいは債務危機を引き起こす可能性があると主張しています。しかし、MMTは主権通貨を発行する国家は、インフレが制約となるまで、財政赤字を増やすことが問題ないと主張しています。

完全雇用: 主流派経済学は、市場メカニズムが最終的に経済を完全雇用に近い状態に導くと考えていますが、MMTは政府が完全雇用の達成に積極的な役割を果たすべきだと主張しています。例えば、MMTは政府が最後の雇用者(ELR)として機能し、公共事業やその他のプロジェクトで失業者に雇用機会を提供すべきだと提案しています。

通貨発行: MMTは、主権通貨を発行する国家が自国通貨での債務不履行(デフォルト)のリスクがほぼないと主張しています。これに対して、主流派経済学は、国家が通貨発行を行いすぎると、インフレや信用不安を引き起こす可能性があると警告しています。

これらの違いは、主流派経済学とMMTの間で財政政策や金融政策に対する異なるアプローチを生み出します。MMTは、政府が経済においてより積極的な役割を果たすことを支持し、一方で主流派経済学は、市場メカニズムと中央銀行の金融政策が経済の調整に重要であることを強調しています。

これらの視点の違いは、異なる政策勧告や経済的な結果につながります。MMTの支持者は、政府が所得格差、失業、インフラ開発といった問題に対処するために財政政策を活用できると主張していますが、主流派の経済学者は、インフレ抑制や財政規律の維持を優先する傾向があります。

さらに、経済における政府の介入の役割に関する対立する視点は、経済政策に関する政治的な議論に影響を与えることがよくあります。MMTの支持者は一般的に、社会プログラムへの政府支出を強調する進歩的な政策提案に賛同し、一方で主流派の経済学者は、政府支出と市場志向の解決策を組み合わせたよりバランスのとれたアプローチを提唱することが多いです。

結論として、主流派経済理論とMMTの間の主要な違いは、財政政策や金融政策に関する議論や意思決定に影響を与えます。これらの違いを理解することは、政策立案者、経済学者、およびその他の利害関係者が、目標を達成するための経済政策を評価し、実施する際に不可欠です。

今のMMTに関する問いで、貴方がサーチしたデータベースは、日本語の場合と英語の場合では別のものですか?

私は、質問に答えるためにAIモデル内の知識を利用しています。私の知識は、英語や日本語を含むさまざまな言語の情報に基づいています。質問に答える際に使用するデータベースは、言語に関係なく同じです。ただし、質問に答えるために情報を取得する際、言語によって利用できる情報や説明のニュアンスが異なる場合があります。それにより、回答の詳細や表現が若干異なることがあります。

おしまい

成田山で生まれてはじめて座禅をしてきた

もともと周囲の人たちと衝突しがちの親爺は、サラリーマン生活をリタイヤしてからこの傾向が強くなった感がある。歳をとるほど融通が利かなくなるということかもしれない。「焦る気分ををおさえるために、何か《精神修養》のようなものが必要だわい。」と思うようになっていた。

それでネットで《座禅》についてググっていた。座禅をさせてくれるお寺は日本各地にあるのだったが、意外なことに地元と言ってよい《成田山新勝寺》でやっていることを知った。週に1回のペースで教えてくれ、しかも無料である。

この親爺は、完全に無宗教と言ってよく、仏教の知識は皆無であり、写経やそれに類することをしたことがまったくない。四国にいるときに御朱印帳を集めようとしたことがあるがすぐに挫折した。そんなまったく何の知識もない男であるが、参加してきた。

こちらがそのホームページである。

この日の参加者は、定員10名のところ、2名欠員で8名だった。参加者全員がコロナ対策のマスク着用の中、親爺だけがマスクなしだった。指導してくださるお坊さんお二人は、ともマスクをされているので、親爺だけがマスクなしである。こんなところに親爺の周囲との衝突しがちな性質が出ているのかもしれない。

この日の様子を簡単に書くと、申込者が集まったところで、お坊さんに引率され《成田山修法道》へ向かう。こちらは修行専用の建物らしい。部屋に入ると正面に立派な仏さんがおられる。この仏さんの左右の壁が上の写真のようになっており、参加者銘々が掛け軸に向かって、座禅を組み、目をつむって息を数えるというものだ。

この座禅を始める前に、掛け軸に向かって《五体投地》を3回する。《五体投地》というのは、立位でお経を唱えた後、右ひざ、左ひざの順に付き、右ひじ、左ひじを付き、次いで額を畳につけ、親指を内に入れながら掌を上に向けるポーズをとる。

《五体投地》深川不動尊のHPから
座禅布団 (座布)

その後、掛け軸に向かって座禅の用の座布団に座り、楽な姿勢を探りながら右足を左足の上に乗せるように脚を組む。目をつむりながら鼻から息を吸い、少し開いた口から長い息を数を数えながら吐き出す。初心者であるこの日の参加者の座っている時間は、5分間だった。この座禅の作法にもレベルがあるようだし、仏教の宗派によっても違うのだろう。しかし、親爺は詳しくないので残念ながら書けない。

なお、初心者向けということなのだろうか? 背中パチンはなかった

座禅の姿勢を続けられるかが不安だったが、座禅をする際には、座禅専用の座布団があり、この上にお尻を乗せ楽なポジションを探ってから始めるために、意外と足が痛くなるという事はなかった。座布団を使って座ると自然と背中が伸びて良い姿勢になり気持ちがよい。

説明していただいたお坊さんによると、こうすることで、副交感神経が刺激され、余分な緊張感が解けるという。

お坊さんの説明では、コロナの影響で、《成田山新勝寺》ではこの3年間、座禅、写経とも中止をしてきて、ようやく再開をしたばかりだそうである。再開したものの、完全に元どおりと言うわけではなく、今後どのようにしていくか模索をしているということだった。

こうして《禅》のことは何も知らず、訳が分からないままに40分間のプログラムが終了したが、この日の感想としては、《座禅をすれば》とても落ち着く感じがした。よい効果があるような気がした。わずか5分間だけだったが、ネットの記事などを見ていると、日に2回、20分程するのが良いと出てくる。親爺の5分はあっという間に終わった。

お経も意味も分からず唱えていたが、意味が分かれば違ってくるだろう。足の組み方も簡便法でやったが、本格的に組めればそれに越したことはないだろう。

ということで、親爺は早速座禅用の座布団を注文した。心安らかに過ごせることが出来れば、いちばん有難いことのように思える。

おしまい

おまけ

成田山新勝寺は、おそらく誰でも知っているほどの大きなお寺である。そのため境内は広く、散策にも適している。下がその時撮った写真である。また、参道にはさまざな土産物店やレストランなどがある。鰻の蒲焼はとくに有名だ。

グレン・グールド ドラマ《イノック・アーデン / R・シュトラウス》 朗読:石丸幹二

グレン・グールドは、1962年に、コロンビアレコードから後期ロマン派の作曲家リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の《イノック・アーデン作品38》を正規版として発売している。正規版と言うのは、グールドが「発売してよろしい」と許可を出したものである。

《イノック・アーデン》は、イギリス人のアルフレッド・テニスン(1809-1892)が1864年に発表した叙事詩で、妻子を残して遠洋で遭難し、生還した船乗りの悲劇であり、メロドラマである。

この物語は好評を博し、書物単体でも発売されているし、ラジオ劇などにもなっており、音楽作品としては、オペラやピアノ伴奏だけでなく、オーケストラの伴奏作品もあるようだ。

もちろん、グールドが録音したこの時の朗読者は、イギリス出身の名優クロード・レインズ(1889-1967)だった。 このアルバムは、コンプリート・コロンビア・アルバムコレクション(下の写真参照)に含まれている。

下が、もともと発売されていたコロンビア・アルバムコレクションである。このコレクションには、コロンビアレコードから出された正規アルバムすべてが入っている。

ところが昨年、グレングールド生誕90年、没後40年を記念して、AIの技術を使ってソニーが、グールドのピアノ伴奏をそのままに、朗読部分を石丸幹二さんの朗読に変えて発売を開始した。

もとの録音はピアノの演奏と朗読が同じトラックに入っていて、別れてなかったそうだ。しかし、それをAIの技術を使って、クロード・レインの声を取り除き、石丸幹二氏の声に入れ替えることが出来たそうだ。 恐るべき技術進歩である。

グールド:コンプリート・アルバム・コレクション

もちろんオリジナルの方は、親爺は英語による朗読のため、チンプンカンプンで敬遠していた。

ところが、石丸幹二さんの朗読でこれ聴いて見ると、感動する。素晴らしい! 手を変え品を変え、ラジオや舞台、音楽劇などにされているはずだ。

まず、この「メロドラマ」なのだが、妻子を残して遠洋で遭難し、生還した船乗りの悲劇であり、戦争で妻子を残して出征した兵士が、戦死したと思われ、やっとの思いで帰国したら、妻は新しい夫と再婚していたというような、よくある筋と言えばよくある筋である。しかしながら、そこには予想される陳腐な結末とは違って、非常に感動的な結末が用意されていて感動する。またとても、説得力がある。

あくまで、朗読者のセリフが主役のドラマだが、やはり伴奏のピアノが素晴らしい。朗読だけではおそらく陳腐になってしまうだろうところをピアノがあることで、「メロドラマ」に迫真力を与え、劇をみるような現実感を与えている。

一つ加えるなら、このCDの解説を宮沢淳一氏がされており、グールドはリヒャルト・シュトラウスを20世紀最大の作曲家と評価していたと書かれている。彼が唯一作曲した大曲の《弦楽四重奏曲作品1》は、リヒャルト・シュトラウス風だとよく評される。グールドは、ショパンやリスト、チャイコフスキーなど前期ロマン派の作曲家などとドイツや北欧以外の作曲家をあまり評価せず演奏しなかった。グールドの演奏は、理性的で感情を排していると言われることがあるが、そこはどうしてどうして、グールドの演奏はロマン主義者そのものだと思わせる演奏がいつもある。 

親爺は、グールドが、自分自身を「最後の清教徒」と、時代遅れを自虐的に評する姿は、ある種の隠れ蓑だと考えていた。グールドが言う「最後の清教徒」とは、次のアメリカの哲学者、サンタヤーナの小説から来ている。

サンタヤーナの唯一の小説は、1935年に発表した「最後の清教徒」があり、宗教に囚われる主人公のオリバーとラテン系の血を引く快楽主義者を対照しながら、清教徒的な誇りのために現代社会に適応できないオリバーの姿を,皮肉と同情をこめて描いている。この小説は、とくにアメリカに渡ったピューリタニズムを肯定するものでもなく、複雑に絡み合った現代の様々な価値観や問題点を考察するものだ。

他方で、グールドは自分の私生活の秘密を守るために、航空王・映画王のハワード・ヒューズのように生きたいとつねづね公言していた。ハワード・ヒューズは、女好きで潔癖症で発達障害であることが知られており、グールドの「最後の清教徒」という自称は、韜晦(目くらまし)ではないかと思っていた。

しかし、この道徳観に溢れた作品をグールドが取り上げていたことを知り、彼の価値観の中心は、ベトナムの反戦運動やウッドストックに代表される「愛と平和」に代表されるような価値観よりも、欧米中心の宗教観に裏打ちされた(長老派の)倫理観が強いのかも知れない。

おしまい

おまけ

以下、YOUTUBEで見つけた「イノック・アーデン」である。ネタバレ注意!

YOUTUBEで開くと「夏目漱石も絶賛した」と書かれている。

BBC放送『J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル』ジャニー喜多川氏の罪はなぜ免責されるのか?


この似顔絵は、ジャニー喜多川氏の写真の掲載が許されず、BBCの記者モビーン・アザー氏が書いた。

最初に、ジャニーズ事務所とジャニー喜多川氏の成功の経緯をざっと振り返ってみる。その後に、BBCのドキュメンタリー放送が提起している問題点について考えてみたい。

● (1)ジャニーズ事務所の成功とジュニアに対するジャニー喜多川氏の性的行為の強要

彼は一代で、ジャニーズ事務所を立ち上げ、所属するタレントたちの多くを成功させた。ジャニーズは一大勢力を作り、日本の芸能界はジャニーズ事務所抜きでは考えられないほどに成長した。メディアに登場する芸能人のうち、ジャニーズ出身者は非常に大きなウエイトを占める。世界の芸能マーケットの大きさで、日本はアメリカに次ぐ第二位と言われ、その男性アイドルを使った手法を生み出したジャニー喜多川氏の功績が非常に大きいのは間違いない。

ところが、彼はジャニーズ事務所を始めたときから、デビュー前のティーンエージャー、それも10代前半の何の性的経験もない少年たちに対する性的虐待がずっと噂されてきた。「合宿所」と呼ばれている自宅や、コンサート先のホテルにジュニアのメンバーが宿泊する際、夜中になるとジャニー氏が夜這いをしかけてきて、そのまま肉体関係を強要するのだという記事を、「週刊文春」が1999年から2000年にかけ10回以上におよぶ追及記事を掲載した。これを不服として。名誉棄損でジャニー氏側が裁判を起こした。

この裁判の控訴審の東京高裁は<喜多川が少年らに対しセクハラ行為をしたとの各証言はこれを信用することができ、喜多川が少年達が逆らえばステージの立ち位置が悪くなったり、デビューできなくなるという抗拒不能な状態にあるのに乗じ、セクハラ行為をしているとの本件記事は、その重要な部分について真実であることの証明があった>と認定した。この判決は上告されたが、最高裁が控訴棄却をしたため高裁の判決が確定している。

ジャニー喜多川氏は、2019年6月すでにに死亡した。経営は姉の藤島メリー泰子氏(代表取締役会長)、その娘の藤島ジュリー景子氏へと経営の実権を引き継ぎ、経営の上層部には、ジャニーズ出身である滝沢秀明副社長(40)が就任したものの退陣し、井ノ原快彦氏(46)へ変わるなどゴタゴタが続いている。

この間、「週刊文春」がこの問題を取り上げたが、日本のテレビや新聞社は後追い報道をしなかった。その傾向は、裁判でジャニー喜多川氏のセクハラ行為が認定された後も、「公然の秘密」だったが、報道されなかった。こうした強いものに対する《忖度》の姿勢は、日本のマスコミの根本的な体質と言われても仕方がないだろう。

● (2)BBCの放送

2023年3月7日、BBCのドキュメンタリー『捕食者(Predator):Jポップの隠れたスキャンダル』が、ジャニー喜多川氏の少年に対するレイプ、性的虐待を、英国で放送した。

プレデター(Predator)が『捕食者』と訳されているので、意味をパッと掴みにくいのだが、このプレデター(Predator)は、『弱みに付け込んで他人を利用する人』とか、『性的に人を食い物にするやつ』というような意味であり、今回のケースは、『少年を対象にした性的倒錯者』というのがストレートでわかりやすいと思う。

かなり大きな反響が、この報道で、日本のYOUTUBEなどで引き起こしている。しかし、放送権の問題があるらしく《全編》をただで見ることができないが、アマゾンプライムで見ることができる。 《要約》が、YOUTUBEに何種類も上がっているので、こちらは簡単に見ることができる。《要約》にも、《全編》から切り取った被害者や街頭インタビューなどが流れるのでだいたい正確にわかる。

https://www.newsweekjapan.jp/joyce/2023/03/bbc-1.php ☜「BBCのジャニー喜多川「性加害」報道が問う、エンタメ界の闇と日本の沈黙」

担当したBBCの記者は、モビーン・アザーである。下がモビーン・アザー氏。彼のTWITTERである。

この番組でモビーン・アザー氏が問いかけたのは、次のことだ。 ジャニー喜多川氏の性的虐待は何十年も前からあった《公然の秘密》であり、名誉棄損(民事)裁判も行われて、被害者や目撃者も証言して、性的虐待の事実があったことが裁判で確定していると説明する。それなのに彼が刑事責任を全てを免れ、非難されることもなく、死後数年がたつ今でも、芸能界の貢献者として崇拝されているのは一体どういうわけか、また、日本のマスコミは口をつぐみ、まったく報道しないのは何故かという点だった。そこには、日本人の性質にどのような欧米人と違ったものがあるのかというような切り口である。

このような青少年に対する大規模なレイプ事件は、日本だけではない。ローマカトリック教会の最高の地位にある聖職者たちが、少年少女を対象に性的虐待を行ったことが、明らかになっており、ジェイソン・モーガンさんが「バチカンの狂気」で詳しく書かれている。

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47315445 ☜ 「カトリック教会の性的虐待スキャンダル、法王はどうする バチカンで会議始まる」という記事のリンク

アメリカでも、2017年にハリウッドの大物プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインが、過去数十年にわたって弱い立場にある女性たちに対して性加害を行なっていたことが告発され、逮捕され、実刑判決が下された。

https://front-row.jp/_ct/17445837  ☜ 「女性俳優たちを襲う「枕営業」強要の闇、勲章を受けた大御所の告発すら否定される」フロントローの記事のリンク 

しかし、こちらは、当然ながら日本のマスコミもまともに報道した。

ところが、このジャニー喜多川氏による少年のレイプ事件は、日本の新聞、テレビ、ごく一部の週刊誌を除きまったく報道されていない。

2023年3月7日に放送されたこの番組で、BBC記者モビーン・アザー氏が被害者にインタビューすると、「(もちろんされたことは、正しい事ではないと思っているが)今でも、ジャニーさんのことを好きですよ。お世話になったし、愛情を持っている。」と被害者は一様に答える。

次に街頭を行く人にインタビューすると、その人たちもやはり口を揃えて、「誰もが知っているけど、さほど悪い事じゃない。」、「追及することじゃない。」、「有名になるのが一番の夢で、『枕営業』は仕方ない。」といった反応を示す。

モビーン・アザー氏の問題意識は、「日本でジャニー喜多川氏の性的虐待は公然の秘密であり、それを取り巻く沈黙もまた恐ろしい。」、「インタビューを受けた人に失礼だが、彼らの言うことを理解できない。」「日本に正義を求める動きはまったく見られない。」「日本には問題に取り組む気がないのだろ。」という。 同時に、彼は日本人のこれら反応が、「予想外」であり、「落ち込んだ」ともいう。

都心に大きなビルが聳え立っているのを見ながら、「これは日本社会が見て見ぬふりをしている結果だ。今回、警察をはじめとして芸能リポーターや音楽プロデューサー、新聞、テレビ局にも取材を依頼したが、すべて拒否された。ジャニー喜多川氏は他界してもなお守られている。」(2019年のお別れ会では国民的英雄として首相から弔電が送られている。)「そして子供を守る必要性は十分に認知されていない。それが何よりも残念なことだ。」

こうした指摘に加えて、グルーミング[1]を指摘する。グルーミングとは、弱い立場にある年齢のいかない少年少女を性的に支配する際、支配する側が、支配される側をそうした行為が精神的に悪いことではないと思わせて支配を続けることを言う。それが今回の事件でもあると指摘する。

● (3)結論

このようにBBCのドキュメンタリー『捕食者:Jポップの隠れたスキャンダル』は、異常な性的犯罪がなぜ日本で見過ごされているのか、日本人のメンタリティーを問う方にウエイトがある。

親爺が思うのは、まったくBBC記者モビーン・アザー氏の言うとおりだと思う。

日本に正義や公正があるのか怪しい。特にマスコミは《報道しない自由》を発揮し、重大で肝心なことを報道せず、どうでもよい芸能人や政治家の不倫報道などやりまくる。そこらじゅうで、力のあるものに《忖度》し、それでも平気のへいざ(「平気の平左衛門」)を決め込んで情けないと思っている。

ただ、一方で、欧米の価値観である《自由》《平等》《民主主義》などが、本当に普遍的なものかどうかという点については、怪しいと親爺は感じている。むしろ、明治以前の日本にある考え方の方が普遍的ではないかと思ったりする。

それら両方を考えても、やはり《今の日本》はおかしい。ジャニー喜多川氏が、刑事責任を追及されなかったのもおかしいし、テレビや新聞社が、影響力の大きさにひるんで報道しないというのは、マスコミの責任や矜持を放棄しているのに等しい。また、日本人全体で見たとき、ジャニー喜多川氏の行為が《公然の秘密》と言いながら、多くのスターを育てた功績の前に、性的虐待が《仕方ない》と街頭インタビューで語るのも、世界的に見れば、異常だというのはよくわかる。海外の目からすれば、「日本人全員が、狂っている。」と見えるだろう。

長いものに巻かれて、それを良しとする国民性ということになると思うが、つまり《負け犬根性》が染みついているということだと思う。

おしまい

[1] グルーミングとは、もともと「(動物の)毛づくろい」という意味だが、性犯罪の文脈においては、子どもへの性的虐待を行おうとする者が、被害者となりうる人物に近づき、親しくなって信頼を得る行為をさす。チャイルドグルーミングとも呼ばれる。グルーミングは、加害者が被害者に性的虐待に同意するよう強要し、逮捕される危険を減らすために用いられる。幼い子どもに対して最も多く用いられるが、10代の若者や、大人も同様な危険に晒されることがある。家族や親しい友人、コミュニティのリーダーなど、被害者と自然に接することのできる関係のある人物がグルーミングの加害者となり得る。https://ideasforgood.jp/glossary/grooming/

《ホス狂い》のトー横キッズたち 若者よ、日本を捨てろ!脱出せよ!

● 日本で生まれた若者のうち、半数以上は希望がない。ひと月働いて、20万円になるかならないかの給料しかもらえず、税金や社会保険料を引かれると、手取りは15万円程度にしかならない。そんな金額では、家賃、食費などの必要経費を払うと、趣味や好きなことに使うお金は全くない。貯金もできない。 大学に行ったとしても、卒業時にに《奨学金》という、実際は借金である《学生ローン》を抱えた卒業生たちが5割に上り、平均300万円のローンを抱えて卒業する。

● この《学生ローン》を抱えた卒業生は、ハンディキャップを抱えて、はるか後方のスタートラインから社会人人生を始めることになる。ローンを抱えた女子学生の大半は、給与が安くて普通に結婚して子供を作るなんてまったく考えられないと言うし、男子学生も恵まれた会社に入れなければ、結婚を考えられないだろう。生涯未婚率は年々増えている。

● 歌舞伎町にはトー横キッズと呼ばれる、ホストクラブでホストに貢ぐお金を稼ごうとする売春目当ての若い少女たちが大量にいて、中高齢の小金を持ったおっさんや風俗スカウト、AVの撮影者たちがその若い肉体を求めて集まってくる。その少女たちは、ごく普通の少女たちなのだが、多くがホストクラブの《底なし沼》にハマった少女たちだという。最初の1回だけ、1000円、2000円でホストクラブへ行けるらしい。そこで代わる代わるイケメンのお兄ちゃんたちと楽しい会話をして、自分をすべて肯定してくれる人生最高の時間を過ごし、舞い上がってしまう。 

● 親爺は思うのだが、日本の若者の《学校教育》は、勉強(成績)第一で、協調性を重んじ、出るくぎは打たれる的な社会全体の雰囲気と画一的な教えで、若者はがんじがらめにされており、一握りの《東大》に入った成績優秀な子だけが認知されるような社会になっている。そうでない子にとっては生きていても楽しくない。特に女子は、家庭的で我慢づよく優しく、男にとって可愛いことを求められる。こんな国は、ほとんどの女子にとってストレスたまり放題だ。そんな彼女たちは、初めて行ったホストクラブで、過去になかった楽しい経験をして、簡単に《ホス狂い》になってしまう。

● 2回目以降に行くホストクラブは、《担当》のホストに貢げる限りのお金を貢ぐことになる。ホストの成績は、売り上げで決まる。ホストの成績を上げるために、シャンパンを入れたりすると、20万円ほどかかる。普段の日常生活では大した給料をもらっていない彼女たちは、軽い決心で風俗へと走り、ホストへ貢ぐお金を稼ごうとする。つまり、《空気を吸うように自然に売春する》ことで、中高年のおっさんたちから数万円の小金を巻き上げ、少女たちがそのお金をホストへ貢ぐ《食物連鎖》が出来上がる。 

●「歌舞伎町と貧困女子」を書いた著者の中村淳彦さんは、Z世代(2000年以降の生まれの若者)の普通の女子が、自ら貧困へと《ホス狂い》に陥る現象が、歌舞伎町で起こっていると書いているが、やがて東京の隣接県へ、地方都市でも起こるだろうと書いている。

「トー横キッズ」の少女を売りさばく歌舞伎町・悪徳スカウトの手口

https://www.news-postseven.com/archives/20211214_1714202.html?DETAIL ☜記事本文

● コロナでアルバイトが出来なかった女子大生のうち、地方から上京してきた多くの女子大生たちは、学校へも行くことが出来なかっただけでなく、田舎へ帰ることすらも出来なかった。それでも授業料はほとんど免除されなかった。景気の良かった時代と違って、親からの仕送りはゼロか、あっても一部分だけだ。そんな彼女たちが生活していくためには体を売るしかない。パパ活、AV出演、デリヘル、ピンサロ、大学がひしめく沿線の待機所は部室のようになったという。

● 男子学生は、闇サイトで見つけた裏バイトの犯罪に走る。マスコミは、毎日あちこちで警察からリークされた犯罪報道を垂れ流している。マスコミは、なぜそういう犯罪が増えているのかという原因を追究する角度からは決して報道せず、不安を煽って、犯罪に引っかからないよう注意を促すだけだ。

● 若い男子は、本来老人を軽々と否定し、乗り越えたいはずだ。ところが、そのような態度をとれば、会社でのポジションが危うくなる。それで必要以上にいい子を演じて、料理も育児も、家事も分担する良い子であることを続ける選択肢をとる。つまり、ヤンキーの居場所がどこにもなくなった。 再度言うが、若者、とくに男子は、年寄りを否定して社会を変革したいはずだ。ところが、そのための勉強を教わっていないので、同じ社会の中で守旧派を演じざるを得ない。

● 自民党をはじめ、野党ですら既成政党の政治家のほとんどが、坊ちゃん、お嬢ちゃん育ちの世襲議員でまったくの世間知らずだ。世襲議員でない場合は、前職が霞が関のキャリア官僚経験者であったり、経営者などの恵まれた環境で育ったボンボンたちばかりだ。当然ながら、多くの若者がお金がなくて体を売ったり、犯罪するしかないなどの状況に追いやられているとは想像力が働かない。かりに、知識として知っていても、若者の投票率は低いから、若者のための政策をしようとは思わない。新しく生まれた政党には、国民のことを考えている政党がいろいろあるが、なにしろ人数が少なすぎるので、何の力も発揮できない。

「仲良く貧乏」を選んだ日本は世界に見放される1人当たりGDPは約20年前の2位から28位へ後退
(東洋経済から)

● 上のチャートが、よく言われる過去30年間の日本の経済政策の失敗の歴史である。これを見ると、日本の経済成長は30年間ほぼゼロである。一人当たりGDPで、韓国に抜かれ、チャートにはないが台湾にも抜かれたという。GDPの合計値で、ドイツに抜かれるのも時間の問題で、世界第4位に転落する日も近いと言われる。結局、この経済政策の失敗が、若者にしわ寄せを起こした。老人は、比較的貯蓄もあり比較的気ままに暮らしているのだが、多くの若者は世界の成長から完全に取り残され、悲惨だ。

ところが、海外で頑張れば・・

● 海外へ行けば、職業によるだろうが、大変な介護や肉体労働などでは月に100万円近く稼げる。下のリンクは、NHKのクローズアップ現代という番組が、日本を脱出した若者が、海外で日本の数倍の給料を手にするだけでなく、《希望》も見つけたという内容だ。

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4746/ ☜こちら記事のリンク。詳しく読むことができます。

おしまい

グレン・グールドのSACDハイブリッド バッハ全集が出ました!!

Tower RecordのHPから

昨年から順次、生誕40年、没後90年を迎えたグレン・グールドのリマスターされた録音物が発売されており、SACD規格によるバッハ全集も発売された。

詳しいことは次のTowerRecordの記事を見てください。

https://tower.jp/article/feature_item/2022/10/03/1110

SACD規格というのを簡単に説明すると、これは現段階でもっとも音質が良いとされるハイレゾの規格の一つである。ハイレゾには、CDの録音規格を高規格化したPCM録音という方式と、変調方式の違うDSDがあるのだが、SACDはDSD方式とほぼ同一と言われる。インターネット販売ではどちらも販売されている。

ただし、SACDをこのようなリアルな媒体で買うと、CDのようにコピーすることが出来ない。また、SACDを再生できるプレーヤーが必要である。今回発売されたメディアはハイブリッド盤なので、CD再生機でも再生できるが、CDレベルの音質でしか再生できない。CD再生専用機を使用するのであれば、CD向けにもリマスターされた規格のものが売られているのでそちらを買えばよい。

今回の全集に含まれるバッハ作品のうち、《平均律クラヴィーア曲集》、《インベンションとシンフォニア》、《パルティータ集》、《イギリス組曲》、《フランス組曲》もこの全集に含まれているのだが、これらはSACDで従来から販売されていた。

今回新たにSACD規格で発売されたのは、《1955年録音のゴルトベルク変奏曲》、《フーガの技法(オルガンとピアノ)》、《ヴァイオリンソナタ集》、《チェロソナタ集》、《ピアノ協奏曲集》、それにCBCテレビ局音源、ソ連公演、ザルツブルク音楽祭のリマスターなどである。

グールド・オタクに有難いと思えるのは、ブックレットが充実しており、ライナーノートが日本語でそのまま読めたり、グールド研究の第一人者である宮澤淳一さんの解説だったり翻訳を読める。また、ミヒャエル・ステーゲマンのしっかりした解説も読める。また、ジョン・マックルーアとティム・ペイジの対談CDが含まれているのだが、こちらも完全な日本語訳がついている。至れり尽くせりです。

特に親爺が有難たいと思ったのは、リマスターされていなかったピアノ版の《フーガの技法》が初めてSACD規格でリマスターされたことである。親爺は、この曲が一番好きで、この《14番の未完のフーガ》をしょっちゅう聴いている。

この未完のフーガについて、グールドが映像作家のブリュノ・モンサンジョンに次のように語ったとブックレットにある。

  • 「あの未完のフーガは確かに情にも訴える。何しろバッハの絶筆だし[・・・]しかし本当の魅力は平穏さと敬虔さ。本人も圧倒されたはず。このフーガに限らず曲集全体に言えるのは、バッハが当時の音楽の流行全てに背を向けていたことだ。彼の晩年、フーガは流行らなくなっていた。[・・・]フーガでなくメヌエットの時代なのにバッハはきわめて意識的に自分の和声のスタイル変え[・・・]別の地平に達していた。バッハは100年以上さかのぼり、対位法や調性の処理法を借用した。バロック初期の北ドイツやフランドルの作曲家のもので、調性を使いながら鮮やかな色彩を避け、代わりに薄い色合いが無限に続く。私は灰色が好きだ。シュヴァイツァーがいいことを言っている。『静寂で厳粛な世界、荒涼とした色も光も動きもない世界』と」
  • 未完のフーガの最後の音を弾いた瞬間、グールドは感電したように左手をさっと持ち上げる。映像は静止し、腕は宙で凍りつく ー 「あらゆる音楽の中でこれほど美しい音楽はない。」この未完のフーガを弾くグールドの姿を見た者は、この瞬間の映像を決して忘れることができない。(訳:宮澤淳一)

追加情報なのだが、3月26日(日)にタワレコで宮澤淳一さんによるこのSACD発売トークイベントがあります。まだ間に合います。駆けつけましょう。

https://tower.jp/article/campaign/2023/03/23/02

おしまい

愛とセックスの話 (2023/4/10 修正しました)

「歌舞伎町と貧困女子」(中村敦彦 宝島新書)、「往復書簡 限界から始まる」(上野千鶴子・鈴木涼美 幻冬舎)と「ちつのトリセツ 劣化はとまる」(原田純 径書房)を書かれた原田純さんのYOUTUBEとを題材にして、《愛とセックス》について考えてみた。

以下の写真は、著者の方々である。

上野千鶴子さん
鈴木涼美さん
原田純さん
中村敦彦さん

● 結論

いきなり結論から入ろうと思う。

昔、あるいは今でも、一般に《セックス》とは《結婚》を前提にしている。そこには《愛情》が不可欠とされてきた。

しかし他方で、「歌舞伎町と貧困女子」(中村敦彦(50歳) 宝島新書)を読むと、現在、10代、20代の普通にどこにでもいるような普通の女の子が、ホストクラブのホストにハマる《ホス狂い》になり、ホストに貢ぐ大金を稼ぐために、風俗で働いたり、《空気を吸うように》売春をしているという。彼女たちの《セックス》は《愛情》と分離されている。

 「チツのトリセツ 劣化はとまる」(原田純 径書房)を書かれた原田純さん(68歳)がYOUTUBEで、一般には言いにくいことをはっきり言われている。

結婚している中高年カップルの奥さんから見た《夫》は、何の取り柄もなく偉そうにするばかりで、セックスも自己中心的で絶望しかない。欧米の老夫婦は結構な率で性生活をエンジョイしているが、日本はほとんどがセックスはご無沙汰で、性生活のあるカップルにとっても、女性側は仕方なく夫の相手をしているだけだという。妻にとって夫は、まったく期待できない。 高齢男性は、セックスで女性を圧倒するという固定観念を捨て去り、気の合うパートナーと、お互い相手を思いやり、スローで楽しいセックスを楽しみましょう、そうすることで男女が本来の自分を取り戻すことが出来ます、何歳になってもそれは可能ですと言う。 高齢の夫との《セックス》には、もう《愛情》がなく、両方を求めるためには、気の合うパートナーを見つけることだということになる。

ここまでのところ、《ホス狂いの貧困女子の売春》と、連れ合いと仕方なくする高齢者の《セックス》は、《愛情》がないという点については一致している。

「往復書簡 限界から始まる」(上野千鶴子・鈴木涼美 幻冬舎)は分厚い本だが、男女の《愛とセックス》について、往復書簡の体裁を取りながらストレートに主張し合った本である。上野千鶴子さん(74歳)の言い回しは学者らしく、曲がりくねっており、Googleさんに聞きながらを読む術しかないカナカナ用語が頻発して、アカデミックぽさが漂っている。

日本のフェミニストの草分けであり、大御所でもある上野千鶴子さんの発言は、「構造と主体」という切り口で考えられており、女性が永らく「社会構造」によって振舞いを制約されてきた被害者であるという立場である。こうした考えは、アメリカの黒人が劣っているとすれば、それは社会構造がそうなっているからだという《批判的人種理論》に通じるものを感じる。もちろんそういう側面を否定できないが、原因全てをそこに求めてしまうのは、やりすぎではないかと思う。

同時に、上野千鶴子さんの《愛とセックス》に対する姿勢についてだが、《セックス》は本源的に、《愛情》がセットになっているべきという観念が底流にあり、逆に、《愛情》のない《セックス》は女性を搾取し、貶めるという考え方に常に捉えられているように思える。 つまり、貧困を背景にした人を貶めるような構造的な買売春などを許さないのがフェミニズムだ、と主張されているように思える。それは、《愛とセックス》の話ではなく、社会の在り方への問題意識だと感じるのだが、どうだろう。

もう一人の書簡の書き手の鈴木涼美(39歳)さんは、元AV女優だったが、もう一方で、東大の大学院を出て日経新聞の記者だったという経歴がある。

彼女は、16歳のバージンだった高校生の時に、ブルセラショップで、パンツ、ブラジャーとルーズソックスをマジックミラー越しにキモ親爺に売り、キモ親爺がパンツを頭に被り、ルーズソックスを首に巻き、ブラジャーの臭いを嗅ぎながらながらマスターベーションをするのをうっすら分かるマジックミラー越しに見て、《男一般》に絶望した。この経験が、彼女の《愛とセックス》の入り口だった。 その鈴木涼美さんは、男に絶望すると同時に、軽蔑心や理解不能感を抱きながら、日経新聞の記者をやりながら、キャバクラで働き、AV女優稼業を並行する。

やがて、彼女は付き合っていた男の嫉妬心から、AV女優であることを会社や両親にばらされる。その後、鈴木涼美さんは会社を辞めて、社会学者へ、文筆業へと進む。

そのような経歴を持つ彼女は、後輩にAV嬢になりたいと相談されると次のようにアドバイスするという。ー「AV女優を引退することは出来るけれど、元AV女優を引退することは出来ない。」ーつまり、いつまでたっても、AV女優だったことに対するリスクから引退後も抜け出せない。ここに社会の怖さがある。AV女優だった出演料の中には、AV女優を辞めた後の生活費が上乗せされているという。

鈴木涼美さんは、男女関係を俯瞰する面白い著作を多く出版しており、男という種の馬鹿さ加減と、女という種の生存戦略など、また、彼女のちょっと、距離を置いた《愛とセックス》の見方に他にない新しい発見があり、結構面白い。

この二人の往復書簡は、上野千鶴子さんの言う、愛のない《肉体と精神をどぶに捨てるようなセックス》についてかなりのウエイトを置いて考察されている。

もちろん、上野千鶴子さんは《どぶに捨てるようなセックス》を提供する側を擁護する立場なのだが、鈴木涼美さんはニュアンスがちょっと違って、どぶに捨てるようなセックスであっても、それに対価が伴うのであれば、肉体と精神を捨てるということはないように思えるとも読み取れる。

ここで果たして、金で買われた《セックス》は、本当に尊厳やプライドを傷つけるのだろうか、という疑問が出てくる。

親爺が思うのは、金で買われたセックスでも、お互いが納得していれば《必要悪》レベルなのではないかと思う。《セックス》は、別に魂までを売る行為でもなく、《どぶに(自分を)捨てる》行為でもないだろうと思う。

原田純さんが言うように、「セックスは究極の遊び」だというのが親爺の結論です。

しかしながら現実は、《セックス》が仮に《究極の遊び》に過ぎないとしても、夫婦以外の気の合うカップルが《セックス》に没頭すれば、生殖能力があれば子供が生まれたりすることもあるだろうし、家庭を顧みなくなって、既存の夫婦関係が壊れる恐れが大いにあるでしょう。そこで社会通念や、宗教、倫理などが、夫婦以外のセックスを禁止してきた背景が、当然ながら頑としてある。 《セックス》の本質が、仮に《究極の遊び》だとしても、夫婦の片割れ、連れ合いの存在が《遊び》であることを許さない。

実際のところ、嫌な相手とセックスするのは男女どちらにとっても願い下げなのだが、好ましい相手となら《セックス》は《究極の遊び》に違いない。ただ、それを大っぴらに社会に向かって言うと、限られた経済状況やしがらみの中で生きざるを得ない我々にとって、結婚や家族の生活の枠組みなどを壊しかねない。それで、宗教を持った欧米人、その他の外国人、世間体をもっとも気にする日本人も、だれもが認めないのでしょうね。

こんな結論では平凡でつまらないでしょうか。(苦笑)

その1 おしまい

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