救えない日本 こんな日本に生まれて情けない その6 ワクチンデータ改ざん

数日前から、厚労省がワクチンの効果を偽っていたということが指摘されているのだが、それを大手マスコミは全部がスルー(無視)している。こんな大問題をスルーするのは信じられない。いったい、マスコミとは何なのか。権力にすり寄り、既得権益を守る勢力とはマスコミの事ではないのか。

経緯を書くと、新型コロナに関し、外国では、オミクロン株が出て来てからワクチンの効果が下がっているのだが、なぜか日本の厚労省が発表するデータは、予防効果がこれまでとかわらないデータが並んでいる。 これに気づいた名古屋大学の小島先生が指摘し、それを国会議員が国会で質問し、厚労省が再確認し、計上方法を変更したらしい。 変更と云えば問題がないように聞こえるかもしれないが、これまでワクチンの効果を水増ししていたのをやめた、というのが正しいだろう。

つまり、ワクチン未接種者、2回接種者、3回接種者と区別されて調査されていたのだが、その調査は、PCR検査をした際に医師が被験者から聞いた内容をもとに記入しているが、実情に合っていない。つまり、コロナワクチンを注射したのに調査票が未記入・記入不備の場合があり、それを未接種のカテゴリーに乗せていたという。

つまり、日本だけ未接種者の陽性率が実際より高くなっていた。

国民は、ワクチンの予防効果が高いからワクチンを打つように勧奨されてきたが、この根拠が実のところはなかったか、証明になっていないということだ。コロナの対策にこれまで異議を唱えられてきた医師の森田さんは非常に怒っている。ぜひ見てください。

https://nico.ms/sm40508473 ← ニコニコ動画の医師・森田洋之さんの動画が開きます。

下は、CBCのニュース番組で、名古屋大学の小島先生が疑問を呈し、参議院で大臣が答弁している様子が流れている。なお、CBC(中部日本放送)は、他のマスコミ各社が誰に忖度しているのか知らないが、報道をスルーしているところでも、積極的に取り上げているほぼ無二の放送局である。

下は、厚労省が作った、今年の4月最終週の10万人当たりの新規陽性者数を表す表だ。このデータのとり方を正しくしたら、赤線を引いた年代で、ワクチン未接種者よりワクチン2回接種者の方の陽性率が高くなった。(ワクチンを打っても陽性率を下げる効果がない、ということだ)また、欄外に分類方法を、未接種から不明に変更したと注記されている。

また、下の様式が医師がデータを厚労省へ提出するものだ。今回の問題は、ワクチンを打っていても、赤枠の部分に正しく記入されていないと、未接種にカウントされ、陽性率が水増しされてきた。 

このコロナの問題だが、他にも大きな問題がある。つまり、森田洋之さんがアップしていたのは、最初YOUTUBEだった。ところが、YOUTUBEのポリシーで、WHOの言うことと反するような動画はすぐに消されてしまう。それで、この動画はYOUTUBEに1時間ほど見れたのだが、すぐに消され、改めてニコニコ動画にアップされたものだ。

同じようなことはコロナの場合、有名なところでは、ゴーマニズム宣言の小林よしのりさんの動画なども、YOUTUBEでは受け付けられない。すぐに消される。

コロナでなくとも、医療関係で「ヒデキとモリヨのお悩み相談」(和田秀樹さんと木村もりよさん)なども、批判的なことを言うと削除されている。

ちなみに、イーロンマスクがTWITTERを買収し、トランプ前大統領のアカウントを復活させると言っているが、根っこはこれと同じ、金持ち同士(ネオコン=共和党と、ネオリベ=民主党と言っていいのかしら?)の戦いである。

もちろんトランプの方がマシなのだが、民主党の後ろには、圧倒的金持ち=エスタブリッシュメントの連中が隠れている。こいつらの言うことを真に受けると、格差は広がるばかりだし、自由に発言すると「差別主義者」「民主主義を破壊する」というレッテルを貼られる。

とにかく世界は妙なことになっている。ヨーロッパでは、アフリカ移民反対を唱えることがタブーだし、アメリカでは国民の不満をそらす目的のため共産主義が表に出てきた。ヨーロッパでは、自国の女性がイスラム教徒にレイプされてもマスコミは取り上げない。アメリカでは、一部の黒人のエスタブリッシュメントが表舞台に出てくるようになり、Black Lives Matter運動もそうだ。南部開拓者の白人の像が引き倒され、ブロードウェイで有色人種が「白雪姫」を主演したりしている。ウクライナの戦争も、ロシア悪者という報道ばかりされるが、欧米と日本はそうだが、世界中を見ると、そうでない国も結構ある。 つまり、なにもかも、特定の勢力の、強力なバイアスが働いているとしか思えない。

おしまい

カテゴリー: 雑感 / 思うところ, 救いがたい日本 | タグ: , , , , , , , | コメントをどうぞ

救いがたい日本 こんな日本に生まれて情けない その5 財務省に勝てるわけがない財政拡大派 財務省のアリバイの財政法と財務省設置法

財務省が緊縮財政をつづけるのには、法律の裏付けがあるからだ。つまり、財務省設置法には、「健全な財政の確保を図る」と書かれているし、財政法には、「公共事業を国債で賄う建設国債は良いが、一般財源を補填する赤字国債はダメだ。」「国債は日銀が引き受けてはならない。」と書かれている。

バブルがはじけた1990年代以降、日本は30年にわたって不況がつづき、いよいよ崖っぷちまで来た。

この原因には、プラザ合意による円高で輸出競争力を失ったこと、その後のデフレで企業が投資をせずにGDPが成長しなくなった。この30年間で、GDPが成長していない国は日本だけなのだが、その原因は何より、政府が財政再建を優先させ、「国民の借金は一人当たり1000万円になった。」と不安をあおり続け、あらゆる予算を削り(増やさないことを)続けたことにある。

そのせいで、企業や自治体は、正社員を減らして、コストの安い非正規職員に置きかえ、科学技術に予算をつけないので、技術革新をすることができず、大学院を出た研究者が生活できない。道路の白線は消えたままだし、公立学校の校舎は、建設以来何十年も経ってボロボロである。親からの仕送りの少ない地方から上京する女子大生は、風俗やパパ活せざるを得ない。男子学生は犯罪に走る。結婚した主婦も風俗で夫との家計を支え、未婚女性も風俗で生計を立てる。風俗で稼げない、犯罪もできない男が、結婚できずホームレスになっていると言われる。

コロナの前は、インバウントという名で、外国人が日本へ何千万人も押し寄せてきたが、彼らのうちの何割かは、日本女性を買いに来ていた。日本の高度成長期に、日本男性がタイや韓国で女性を買っていた逆の現象が今、日本で起こっている。ビックマック指数というのがあるのだが、ドル換算したビックマックが世界中の先進国の中で一番日本が安い。途上国を入れても、日本はかなり下の方だ。

一方で、日本の医療費や介護保険など高齢者に対する必要経費は増え続けるので、若者や働き盛りの人たちへの予算はまったく増えることがない。

なぜ、こうした政策を財務省は続けるのかというのは、最初に書いたとおりだ。彼らは、忠実に法律を守ろうとしている。

最初の二つの法律があるかぎり、財務省は緊縮財政を変えない。長引く不況の原因が、政府の緊縮財政にあると主張する財政拡大派が、いくら財政拡大を叫んでも、財務省にとっては、「蛙の面に小便!」である。いくら非難されても、法律を守っていましたと云えば済むからだ。

では、この二つの法律がどうして出来たのか。

これは、日本が太平洋戦争に敗戦した時にやってきたGHQが、日本が太平洋戦争の時に戦時公債を大量に発行して戦費調達したことが再度起こらないか懸念し、再び戦争をしないように足枷をはめたと一般的にいわれる。これは、憲法も同様である。

「戦争しないように足枷を嵌めた」と聞いて、「そりゃあいい!」と思った人は、お目出たい。経済に足枷を嵌めると、平時でも経済は委縮する。それが30年間の日本で起こったことである。

つまり、どこの国でも緊急時には、国債を大量に発行している。収支均衡など考えないということだ。(これを賢く実践したと言われるのが、中国である。中国は政府がじゃぶじゃぶ資金を供給し、毎年二桁の経済成長してきた。)

日本は主権国家なのだから、法律を改正すれば良いのだが、アメリは民主主義を持ってきたありがたい存在だと主張する自民党の守旧派、リベラルと言われれながら昔の考えを脱却出来ない左派勢力(立憲民主がよい例だ)、マスコミ、経済界の陣営も、国債発行は借金で悪だと考えている勢力がも強く、いつまでも改正しようとしない。

念のために、誤解のない様に書くと、国債発行は国民の借金ではない。国の「負債」であることは間違いないが、「資本金」のような性質のものであり、政府が支出することで、国民の側に「資産」を増やす。国債の償還は、今までも借換債を発行してきたし、これからもそうするだけだ。どこの国でもやっている。

このGHQの制定した法律は、時限爆弾だという人もいる。日本が経済復興し、アメリカ経済を脅かしたとしても、ある時、この法律の縛りが発動し、日本経済を徐々にシュリンクさせ、そのとおりになったという。

20世紀、世界は大きな飛躍を遂げたのだが、その契機は戦争だった。第1次世界大戦、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、どの戦争でも、戦費調達のために、均衡財政の看板の看板を下ろし、金本位制を止め、国債を刷りまくって戦費を調達した。これは、景気拡大の良い処方箋だった。

結論としては、今はコロナという戦争だった。早急に、二つの法律を書き換えることだ。

以下は、実際ある、財政法と財務省設置法の条文である。

財政法 第四条 国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行又は借入金をなすことができる 前項但書の規定により公債を発行し又は借入金をなす場合においては、その償還の計画を国会に提出しなければならない。 第一項に規定する公共事業費の範囲については、毎会計年度、国会の議決を経なければならない。

第五条 すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。但し、特別の事由がある場合において、国会の議決を経た金額の範囲内では、この限りでない。

財務省設置法(任務)

第三条 財務省は、健全な財政の確保、適正かつ公平な課税の実現、税関業務の適正な運営、国庫の適正な管理、通貨に対する信頼の維持及び外国為替の安定の確保を図ることを任務とする。 前項に定めるもののほか、財務省は、同項の任務に関連する特定の内閣の重要政策に関する内閣の事務を助けることを任務とする。  財務省は、前項の任務を遂行するに当たり、内閣官房を助けるものとする。

おしまい

カテゴリー: 雑感 / 思うところ, 救いがたい日本 | タグ: , , , , , , , | コメントをどうぞ

「草枕」(Three-Cornerd World) その3 グールドが読んだ夏目漱石

グールドが読んだ夏目漱石

夏目漱石の弱点、男尊女卑と大衆蔑視

グレン・グールドは、1965年に発刊された《Three-Cornered World》(三角の世界:「草枕」)を1967年に手に入れた。35歳の時である。

夏目漱石が「草枕」を書いたのは、さらに遡ること60年も前の、1906年(明治39年)である。「草枕」は漱石にとって、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」に次ぐ3作目だった。グールドが読んだ1967年は、自由を謳歌し民主主義が高まった時代だった。それに対し、後にも触れるが、漱石が書いた1906年は、日本では日露戦争が終わった直後だが、西欧列強の《持てる国》と《持たざる国》が対立を深め、二度の世界大戦へと向かう時代だった。

夏目漱石の作品を今読めば、男尊女卑や、教育のない者に対する蔑視が潜んでいるという指摘があるのは当然だろう。しかし、それは大戦前という時代、女性に選挙権もなかった時代背景と、高等教育を受けた者が大衆に対する責務を果たさないとならないというノブレス・オブリージュの義務感があったからだろう。それらを考えれば、漱石の天才は少しも損なわれるものではない。制度的なジェンダー平等はもちろん必要だが、批判覚悟でいえば、性差が生まれる原因はすべて社会環境にあり、生まれながらではないという考えは説得力を欠くものだろう。また、教育を受けたものの義務感であるノブレス・オブリージュの方は、逆に、現在まったく霧消してしまい漱石の時代のほうがずっとマシだったとしか思えない。

つまり、漱石の世界観が当時のスタンダードなもので違和感がないと考えれば、夏目漱石は普遍性をもつ世界的な作家であることは間違いない。

夏目漱石をシェイクスピア以上と評価するダミアン・フラナガン


ダミアン・フラナガンというイギリス人日本文学研究者がいる。イギリスで夏目漱石に魅せられ日本とイギリスを往来しながら、日本語を学び博士号をとり、日本語で2冊の本を出版している。その苦労たるや相当なものだろう。逆に、その熱意の大きさが推量できるというものだ。

その[1]ダミアン・フラナガンは、漱石が、日本では単に森鴎外と並ぶ国文学の先駆者に過ぎないと考えられていること、加えて、有名な評論家の江藤淳や吉本隆明らさえ、漱石の作品を個人的な経験をもとにした私小説の延長といった捉え方をしていると批判する。漱石は、日本では「則天去私」が、理想のキーワードとして語られるが、「則私去天」も場面によって、おなじく理想のキーワードだという。

彼は、実際のところ、夏目漱石がシェイクスピアをも超える世界的なスーパースター作家であり、小説は自身の苦悩を表現する手段ではなく、哲学的な問題について深く掘り下げ、人生そのものの普遍性を探求する手段であり、背後にはニーチェ思想があるという。漱石の思想には、ニーチェの「冒険」というコンセプトに惹きつけられているというのだが、皮肉なことに、そのことを日本人は理解できていないという。

例えば漱石の『門』について、[2]「崖の下に住む冒険に向かない男と、満州の冒険者、ニーチェ的な謎を喜ぶ冒険と、禅と儒教と。」と指摘し、「『門』は、宗教に対する挫折感を話題にする、気の滅入るような小説と見るより、むしろある種の意思のない人間を風刺する、精密に考案された小説と見るべきであろう」という。

 また、上記に続いて『それから』については、「『それから』のように堕落を超越しようとする冒険を書くより、冒険が堕落だと恐れているために、宗教へ逃避する過程を書くことによって、このいくつかの観念を融合させるのは何よりも当然だったであろう。しかし、皮肉なことに、この冒険からの逃亡のために、主人公は禅という大冒険をするはめになる。・・・数多くの批評のように、(『門』の)宗助が宗教的な冒険に失敗するのが、宗教に対する漱石自身の悲観を表している推定するのは決して適切ではない。」という。

なお、ダミアン・フラナガンの分析は、従来の日本人評論家と比べて、非常に説得力がある。また、これについて項を改めて書きたい。

カナダ人ピアニストのグレン・グールドは、芸術論と日常の苦悩との関係が、奔放にユーモアを含んで展開される英訳の「草枕」を愛読して止まなかったが、同時に彼は、他の手に入る英訳された漱石作品も読んでいたはずだ。その時「草枕」を含め、漱石の個人的な感想や感情を読み取っていたのではなく、ダミアン・フラナガン同様、もっと深い人間の普遍的な真実をそれらの作品に見ていただろう。

おしまい


[1] ダミアン・フラナガン 1969年イギリス、マンチェスター生まれ。ケンブリッジ大学モードリン・カレッジ在籍。93~99年に神戸大学で、修士、博士課程を経て2000年に博士号取得。著書に「日本人が知らない夏目漱石」「世界文学のスーパースター夏目漱石」がある。

[2] ダミアン・フラナガン「日本人が知らない夏目漱石」第二章『門』までの道 『門』の新しい冒険から引用

カテゴリー: 音楽(グレン・グールド), 読書 | タグ: , , , | コメントをどうぞ