「グレン・グールドは、クラシックの音楽家ではない」宮澤淳一 

青山学院大学教授で日本のグールド研究の第一人者の宮澤淳一氏は、「グレン・グールドはクラシックの音楽家ではない」と言う。http://www.walkingtune.com/gg_07_kangaeruhito.html 氏は、「グールド本人が意識していたかどうかはともかく、彼の演奏はクラシック音楽での解釈の約束事を無視した営為であって、これは作曲家よりも演奏家の創意が重視されるジャンル(ジャズやロック等のポピュラー音楽)でこそ輝く個性である。だから、異端視するよりも、『グールドはクラシック音楽ではない』と考えた方がすっきりする。」と結論づける。 この発言は、もちろんデフォルメした言い方でグールドはクラシックの音楽家なのだが、グールドだけが他の演奏家と比べるとまったく違った考え方をしているという意味で、とても分かりやすい。

昨年12月カナダ大使館で行われたGlennGouldGatheringでの宮澤氏の解説風景

クラシック音楽の世界では、作曲家が王様であり、演奏者は作曲家の家来という構図であり、演奏家は如何に作曲家の意図を忠実に再現することができるかが、この業界の指標となっていた。楽譜に忠実に演奏することに加えて、作曲年代と楽器の制限(例えば、現代のピアノの性能はロマン派の作曲家の時代と性能が異なっている)を考慮する古楽器ブームもある。バッハの時代にピアノはなかったし、モーツアルト、ヴェートーベンの時代のピアノも今のピアノに比べるとちゃちで、当時の楽器で忠実に再現したらという考えは今でもある。音楽を楽しむことより、方法論を優先する、言ってみれば原理主義が幅を利かしている。

時代とともに楽器そのものが変わり、作曲家たちも新しい語法で作曲し、オーケストラの規模は大きくなり続け、行き着いた極限がマーラーだと言われる。

主は、最近読売交響楽団(井上道義指揮)が演奏するそのマーラーの「千人の交響曲」のコンサートへ行ってきた。この「千人の交響曲」はオーケストラ自身の各楽器の構成数が大きいのもあるが、パイプオルガンが使われ、ハープが何台も並び、チェレスタ、トライアングル、マンドリン、ソロ歌手8人に加え、大人の合唱団200人以上、子供の合唱団50人以上が加わる。第1部と第2部を合わせて90分ほどある大曲なのだが、手を変え品を変えさまざまな旋律を楽しむことができ、あっという間の90分で大いに感動した。しかし、感動の仕方が、ピアニッシモとフォルテッシモの落差のスケールに圧倒されるという面が確実にあり、「こりゃあ、一種のスポーツだな。何の哲学も感じられないな」とも思ったし、「やっぱ、ヴェートーベンの方が深いな。シェーンベルクの方がカッコ良いな」とも感じた。当り前だが、音楽は時代を下れば良いものになるとは限らない。

グールドの音楽の演奏態度は、音程以外、どのクラシックの音楽家誰もが金科玉条とする作曲家の指示を守らない。楽譜の強弱記号、速度記号、反復記号を守らない。常に守らないわけではないが、自分の判断を優先する。音符の装飾方法も業界の概念を覆して独自な面があるらしい。和音を和音として同時に打鍵することはほとんどなく、10本しかない指で3声、4声を際立たせる。モーツアルトは「クリシェ」(紋切り型でありきたり、新しいものがない)だと批判して、世間に対して挑戦的になり、「こうしたら面白くなるぞ」と上声のメロディーだけだったところに内声の音符を加えポリフォニックに改変した。グールドには作曲家への指向が常にあり、どの曲もその持つ曲の本来の良さ、作曲家さえ知らなかった良さを、従来の演奏方法・観念に囚われず示そうとした。

音楽家は普通、師匠に師事し師匠の言う事を絶対として受け取り、業界の固定観念の中で生きるのが常だ。有名な音楽家への道は、コンクールで優勝することだ。そうして名を知られ、コンサートツアーへ年に何百日も巡る。コンクールで優勝するためには、多くの審査員からまんべんなく票を得る必要があり、優れた感受性や斬新さよりも、そつなくこなす技術が求められる。当然、曲の解釈も個性的なものより平均的で新味がないものになる。こうしてどんな名曲に対しても、ありきたりで、平均的な演奏をする演奏者が再生産されるシステムが出来上がる。

ところがグールドの両親は、コンクールで優勝するための競争は息子を消耗させると考え、コンクールに息子を極力出さないようにし、グールドは自由に自分の頭で音楽を考えるように育った。グールドは母親に10才までピアノを教わったが、やがて母親が教えることができないレベルになる。案じた母親は、10才から19才までチリ人のピアニスト、アルベルト・ゲレーロが教えるように手配した。ゲレーロは生徒に子供を取らない主義だったが、グールドのレベルの高さにすぐ気づき生徒に取ることを引き受けた。ゲレーロに言わせるとグールドは “Unteachable” な生徒だったという。教えようとすると猛烈に反発するために、答えを自分で発見させるように仕向け、単に教えられるよりも自分で発見させるほうがグールドにとってより活性化できると考えたという。プロデビューを果たした後、ゲレーロから大きく影響を受けたのは明らかだったにも拘わらず、グールドは「ピアノは独学でした」と言い張りゲレーロは落胆したが、「それでいいんだ」と落胆したそぶりを見せなかった。

ピアノは打鍵した後、鍵盤を押さえている間、打鍵された音が減衰しながら続く楽器だ。ピアニスティックとかピアニズムという言い方があり、いかにもピアノらしく響かせるという意味なのだが、メロディーをレガートに音価(音の長さ)一杯に引っ張り、メロディーと伴奏をゴージャスに、流麗に弾くのがピアニスティックな演奏である。ところが、2回目のゴールドベルグ変奏曲の録音に関する1982年のティム・ペイジ(TP)との対談では、グールド(GG)は自分の奏法に関して次のように言っている

(GG)「・・僕が大バッハを扱う時の音のコンセプトは、また例の言葉をあえて使うなら、デタシェ(=音と音がつながらない、隙間がある)なんだ。つまり、ふたつの連続した音の間のノン・レガートの状態そのものや、ノン・レガートの関係、ないしは点描画法的な関係が基本なのであって、これが例外的な奏法ではない。むしろ例外的なのはレガートでつなげることなんだ」

(TP)「もちろん、君の主張がピアノ奏法の大前提を覆すことになる点は承知しているよね!?」

(GG)「うん、結局そうしようとしているんだ」(翻訳:宮澤淳一)


このデタシェという言葉はフランス語なのだが、英語は “Detach”(=de-touch 切り離す、分離させる)、名詞形は “Detachment” である。

この”Detachment” が、夏目漱石の小説「草枕」に出てくる。グールドは、「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る」という名文で始まる「草枕」をこよなく愛した。冒頭から芸術と世俗、非人情と人情の対比をして、漱石の「芸術とは何か?」が語られる。「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有(有難)い世界をまのあたりに写すのが詩である。画である。あるは音楽と彫刻である」と言う。人情を「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世にはつきものだ。余も30年の間それを仕通して、飽き飽きした」と言い、これに対して、超然としているさまを漱石は「非人情」と言い、「非人情」の訳語に翻訳者のアラン・ターニーは “Detachment” を使った。「・・・淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、少しの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ。 勿論、人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ」と言う。グールドは「草枕」を二十世紀小説の最高傑作のひとつだと愛してやまず、従妹のジェシーに電話で全文を読み聞かせたり、晩年にはラジオで「草枕」を朗読する番組を作ったほどで、死後グールドの部屋には多くの書き込みがされた何種類もの「草枕」の翻訳本があり、脚本を書こうとしていたという。

このデタシェの点描画法は「非人情の天地に逍遥」することであり、緊張の弛緩、軽妙なユーモアだ。逆に、レガートは緊張を高める。グールドは、複数の旋律があるポリフォニックな曲では、旋律にデタシェとレガートを弾き分けており、時に交代させ飽きさせない。一般的なピアニストの場合はレガートが基本で、美しく緊張を保つものの一本調子となり飽きてくる。

グールドは、ポリフォニックな対位法で書かれた曲を好んだ。また、子供時代にオルガンを学び足でも旋律を弾くことで、和音であっても自然と和音を分解し、別のメロディーとして捉える。ピアノで各声部を弾くとき、あたかも弦楽四重奏を演奏するように別の楽器が鳴っているように演奏していた。

普段の生活でも、コンピュータ用語を使えばマルチタスク人間だった。レストランでは、近くの席の複数のテーブルで交わされる3つか4つの会話を同時に理解できた。テレビでドラマを、ラジオでニュースを流しながら、スコアを頭に入れ、どれも理解できていたという。彼は対位法的ラジオと言われるドキュメンタリーのラジオドラマ、極北で暮らす人々の孤独をテーマにした「北の理念」などの「孤独三部作」を作ったのだが、5人の登場人物が全く違う内容を語る話声をフーガのように合成したもので、誰も話の内容を理解できないとの批判もあったが、グールドは「私たちの大半は、自覚しているよりもはるかに多くの情報を取り入れる耳を持っている」とライナーノーツに書く。後にはこのラジオドラマのTVバージョンも作られる。

グールドは、誰でも知っている有名な曲は、特に確信犯的にこれまでになかった演奏をした。バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第1曲のプレリュードは有名で、ググってみたら大和ハウスと資生堂がCMに使っていた。この有名な曲は、どのピアニストも流れるように優しく美しく弾くのが普通だが、グールドはやはりスタッカートで弾き、度肝を抜いた。変っているが、この曲がもつ良さは伝わってくる。 ベートーベンのピアノソナタ「月光」、これも第1楽章は特に有名だろう。(大和ハウスはクラシックが好きなようで、この曲の第3楽章をCMに使っている)こちらは感情を思い切りこめスローテンポでドラマチックに弾くのが普通なところ、グールドはアップテンポで抑揚をつけず淡々と同じリズムで弾きとおす。それが新鮮で、逆に清潔、潔癖、秘めた激情を感じさせる。 モーツアルトで有名な曲と言えば、「トルコ行進曲」だろう。この「トルコ行進曲」はピアノソナタ第11番の最終楽章なのだが、やはりグールドは破天荒な演奏をしている。下の写真は、「グレン・グールド・オン・テレヴィジョン」に収録されている1966年に行われたハンフリーバートンとの対話だ。この番組でグールドは、自分の音楽観を披露しながらピアノを弾く。これが実に刺激的だ。ごく一部だが、YOUTUBEにその様子アップされていたので、再生していただけたら嬉しい。また、「トルコ行進曲」聴き比べというのもあり、ギーゼキング、グールド、グルダ、バックハウス、ホロヴィッツが並んでいるのだが、グールド以外は軽快な元気さだけが伝わってくるくるのみだ。グールドはこの「トルコ行進曲」を断然ゆっくりと、初めは控えめに弾き始め、徐々に抑揚をつけメロディーの音色を変え、変化を楽しませてくれる。伴奏の和音をことさら崩して弾き、やはり抑揚をつけクライマックスを最後に持ってきているのが良く分かる。主は大いに感動してしまった。

1966年BBC向けハンフリーバートンとの対談

ちょっと長くなってしまったが、この番組の中で、他にもグールドは面白いことをいくつか発言している。自分は偏屈だったので、誰でも練習するこのピアノソナタを弾いたことがなく、どのように弾くか1週間前までアイデアが決まらず、スタジオに入ってもまだ確信がなかった。また、すでに立派な演奏が残されているので、それと同じ演奏をするのではなく、違った演奏をするのが演奏家の務めで、それが出来なければ職業を変えるべきだとまで言っており、次回にでも紹介したい。

おしまい

グレン・グールド 二つのフーガの技法

グレン・グールド(1932-1982)は、J.S.バッハ(1685-1750)のフーガの技法をオルガンとピアノの両方で録音している。この曲は、4段のオープンスコアで書かれており、楽器の指定がないために当時あったハープシコードだけではなく、弦楽四重奏をはじめ、オーケストラや金管楽器でさえも演奏されている。アンサンブルではどの演奏者も目の前の楽譜の音を出す義務を果たそうとし、自己主張を捨て去ることがないので、結果として平板な演奏になりがちだなと主は思っている。

グレン・グールドがこの曲を録音した時期は、オルガンが1962年(コントラプンクトゥス(=フーガ)第1番-第9番)、ピアノが1967年(第9、11、13番)と1981年(同第1、2、4、14番)である。あいにく、どちらも全曲を録音しているのではないが、どちらも十分に聴きごたえがある。というか、グールドが愛したバッハの中で最も評価していた曲であり、両方とも他の演奏者の追随を許さず、傑出している。その二つの楽器によるグールドの演奏だが、オルガンとピアノではイメージが180度違う。

まず、オルガンの方は、速いテンポで弾きとおし非常に聴きやすい。また、オルガンは鍵盤を抑えている間は同じ強さの音が継続する楽器であり、音価(音符の長さ)一杯にレガートで演奏するのが一般的なのだが、グールドはデタシェ(ノンレガート、スタッカート)を基調で始め、終盤の山場に差し掛かるにつれてレガートな奏法も使うことで迫力を出している。オルガン曲といえば、バッハの「トッカータとフーガニ短調」を思い浮かべる人が多いだろう。高音部のメロディーで始まり、轟々と鳴り響く低音のペダルの音で圧倒する。そうした演奏とはあまりにかけ離れているので、グールドの1967年のレコードが発売された時は非難轟々だったらしいが、オルガン演奏のスタイルを覆し、曲全体の良さに感動する。グールドは、どの部分部分を聴いても常に良いのだが、全体を聴いた時に違った発見があるように、楽しめる演奏をする。グールドのこのオルガンの演奏は、第1曲から第9曲まで(終曲は第14番で未完である)なのだが、第9曲にここまでの総決算のような趣があり、クライマックスを迎え全曲を聴きとおしたかのような満足感が得られる。

ピアノの方は逆に、非常に遅い。それも他のアンサンブルやアーティストより圧倒的に遅い。グールドより遅い演奏はおそらくないだろう。遅く演奏することは、テンポを保つことが困難になるため早く演奏するより難しい。グールドはそれができる。それだけ遅く演奏すること、また複数の旋律のうち強調するものを入れ替え、レガートとデタシェの両方で歌わせることで、悠久感というか宇宙の広がりのようなものを感じる。特に未完で終わる終曲の第14番は、3つのパートからなるのだが、パートごとに雰囲気が変わり、天上のメロディーともいえる美しいメロディーが出て来たり、倦むことがない。スコアの上で和音になっていても、同時に鳴らすことはまずない。目立たせたい音をわずかに早く弾き、他の音をずらして弾き、なおかつ、レガートで弾くメロディーとデタシェで弾くメロディーを区別しながら線が繋がっていく。

グールドが1963年にディヴィッド・ジョンソンとの対談で次のように語っている。「・・・ピアノでは、ある特定の声部のうちでは絶対的であるにもかかわらず、しかもなお同じ型のデュナーミク(音量の強弱表現)に一致しないといった、そういう関連性によって思考することができるからです。いい換えれば、ソプラノにある一連の動機をしかじかの強さで演奏し、アルトにある別の動機を、ある小節ではソプラノより3分の1だけ少ない強さにして、ソプラノを支えるためにその下に滑り込ませ、次の小節ではその逆をやる、といったことができるわけです。・・・」

人間の指は10本しかない。しかしながら、その10本の指でグールドは4つの旋律を弾き分ける。強さ、長さを区別して4種類の旋律を弾き分ける。

下のYOUTUBEのフーガの技法第1曲(楽譜は最後にある)を見ていて発見したのだが、アルトから始まり5小節目にソプラノが入ってくる。これをグールドは右手一本で弾き、左手はバスが入ってくる9小節目から弾き始める。右手だけで弾いている8小節の間は、いつものように左手は指揮をしている。

これに対して、次のリンクである福間洸太朗の演奏ではアルトで始まる最初の部分を左手で弾き始め、ソプラノが入ってくる5小節目に早くも右手を使い始める。

もちろん、福間洸太朗の演奏も非常にうまいのだが、この曲に限らず進行するにつれて複雑になる。その時、グールドのように片手で二つの旋律を同時に引き分けることができるというのは並大抵なことではない。というか、こんな演奏家は他にいない。

最後にグールドのモットーというかキャッチフレーズ、彼の芸術観を書きたい。「・・・・芸術の目的は、神経を興奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しづつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことです」- この「わくわくする驚きと落ち着いた静けさ」は英語の “wonder and serenity” から来ているのだが、一生の目標が単に “serenity” だけでなく”wonder”を伴っているところが、実にグールドらしい。

おしまい

Glenn Gould-J.S. Bach-The Art of Fugue (HD) 広告の音量に注意!

バッハ/フーガの技法 コントラプンクトゥス1・2/演奏:福間 洸太朗

フーガの技法 第1曲

エブリバディ・ノウズ【日本病】その6 韓国に負ける日本 - 最低賃金

日本は病気だと、主は確信している。 昨日(2018/7/27)、政府は、今年度の最低賃金を平均26円、3%を上げることを決定し、10月頃から実施するという。この3%のアップは3年連続で、マスコミは、来年度には首都圏の最低賃金が1,000円を超え、中小企業の経営が心配と書いているが、1日7時間、1か月20日働くとして、3,640円の増加。年にすると43,680円の増加にしかならず、上げ幅は小さく思い切りが悪すぎる。過去に円高不況に対する日本政府の財政支出が、海外から”Too small, too late”と批判を浴びたが、同じ愚を繰り返している。

朝日新聞記事:最低賃金 首都圏は1千円目前? 中小企業は悲鳴

日経新聞:最低賃金、なぜ上げ幅最高? 3つのポイント 経済

新聞紙面を読むと、上げ幅が過去にない大きさで例がなく、経営者目線で経営に対する悪影響を危惧する論調になっている。だが、この3%、26円というのは、あまりにもみみっちい。

さまざまな視点から日本経済に警鐘を鳴らすデービット・アトキンソン(小西美術藝術工芸社・社長)は、日本は世界に例を見ないほど最低賃金の低い国であり、現在の不況の原因の一つに、最低賃金の低さを指摘し、本来の水準は1,313円だと言っている。現状は、約5割低いということになる。中小企業経営者にとって最低賃金を上げることは、支払い給与が増え、経営を圧迫し、大企業に比べて死活問題になりがちだ。しかし、アトキンソンは、日本の企業数は多すぎ、過当競争に陥っているという。経営効率の悪い弱小企業が日本全体の生産性の足を引っ張っているのは間違いなく、生産性の低い企業は、速やかに退場した方が日本社会にとって望ましい。

東洋経済:「低すぎる最低賃金」が日本の諸悪の根源だ 2020年の適切な最低賃金は1313円

デービットアトキンソン

このアトキンソンは、長引くデフレ状況下における日本人のマインドについて、「良いものを安く提供することがよいことだとしても」、「例えば、500円以下で弁当を提供したり、50円で味噌汁を提供することは、デフレ状況にある日本経済にとって自殺行為だ」という意味のことを言っている。

だが現実は、コンビニやスーパーで売られている弁当類は、500円以下で売られている場合がとても多い。 主は、前々から思っているのだが、「サイゼリヤ」、牛丼の「吉野家」、「松屋」などのような極端に安い単価で食事を提供するビジネスモデルが、同業のレストランの経営を駆逐している面があると思っている。同様に、メーカーが文房具店などで高い値段で売っている商品を、100円均一ショップ向けに製品の分量を減らして100円で販売している。このようなことをすると、目先の売り上げを確保することはできても、競争激化と販売価格の低下を引き起こし、大きく儲けることはできないだろう。書籍では、「ブックオフ」という中古本の販売店があるが、消費者の選択肢は増やすものの、出版不況の一因になっていることは間違いないだろう。また、社会のトレンドも変わり、「メルカリ」で中古品を個人で売買したりするようになった。自動車も個人が所有する比率は昔と比べると、はるかに下がっているだろう。 こうしてみると、昭和の高度成長のように、日本国民全員が牧歌的な中流意識を持っていた時代環境は、今後もう来ないのかもしれない。

そうは言っても、アトキンソンが言うように、日本は生産性を向上させる以外に生き延びる術はない。日本の少子高齢化が加速するだけだとしたら、収入と支出の両方の単価を上げるしかない。給与所得のアップと、付加価値をつけて高い単価で販売することをしないと、日本経済はさらにシュリンクするだろう。さもなくば、税収も低下し、福祉への負担で破綻するしかないだろう。人口減少の割合以上に単価アップしないと、デフレからの脱却は出来ない。アベノミクスで2%の物価上昇という一定のコミットはしたものの、結果は出ていないわけで、さらに強いメッセージが必要だと思う。(アトキンソンは、生産性の向上に技術革新せよと言っているわけではない。高い値段で売れ、儲けを得よと言っているだけだ)

経済学の世界で「実質実効為替レート」という概念がある。

現在の日本の為替レートは、1ドル=110円あたりだ。だが、1985年のプラザ合意以前に240円程度だった円は、120円へと急激に円高となった。その後、政府は円高不況に対する財政出動をたびたび行いバブルが起こり、その処理に、大蔵省の土地融資の総量規制、日銀による急激な利上げを行い、バブルははじけ長い不況が続くことになった。だが、この長い不況の間、為替レートは、一部の例外的な時期を別にすると、1ドル=110円程度を保っている。この25年間は、デフレのため日本の物価は上がっていないが、世界を見渡すとデフレの国は日本しかなく、海外諸国の物価はインフレにより上がっている。これを考慮すると、日本の為替レートは、不当に円安になっていると言われかねないのだ。競争力を維持しようと血のにじむような節約の努力がデフレを引き起こし、その日本人の我慢してしまう性格が元で、為替レートが不当に安いと言われる結果を引き起こしている。次のリンクによると、1ドル=75円位が妥当ということになる。 今、日本では、インバウンドと言われる外人観光客の波が押し寄せて来ている。これはリーマンショック後の円高から、円安に変化したことに加え、日本国内の物価が上がっていないために、外人観光客にとって日本は物価の安い国になった(実質実効為替レートが安い)ことが原因だ。 先進国の中で、マクドナルドのハンバーガーを日本のように500円~600円で食べられる国は少ないはずだ。

やはり、デフレは金持ちに対する優遇策であり、貧しい大半の国民にとってはマイルドなインフレと円安の方が、経済成長による所得の向上が期待できるので、望ましい。

「実質実効為替レートで見れば円安が進んでいる」とは?

ところで、韓国は日本より大胆で、過激な政策を実行している。

朝日新聞:韓国の最低賃金835円に 10年で2倍、日本に迫る

韓国は、なんと最低賃金を2017年に16.4%上げ、2018年には10.9%上げるということだ!!もちろん、韓国経済がうまくいっているとは、主は思っていない。日本以上に問題があるのかもしれない。だが、一人当たりの多くの経済指標で、日本は先進国中で最低となっており、韓国文在寅(ムンジェイン)政権の方が、安倍政権より心意気を強く示しているのは間違いがない。政権もマスコミも同様だが、最低賃金をわずか3%上げて「高率のアップ」と言うようでは、あまりにも経営者に都合の良い判断で、情けない。日本の指導者は「八方美人で腰砕け」の「自己チュー」だとしか思えない。野党はさらにだめだ。

参考までに補足すると、日本の最低賃金は、この10年間でわずか2割ちょっとしか上昇していない。

おしまい

 

ロックの話と弦楽四重奏団モルゴーア・クァルテット

2018年7月14日(土)モルゴーア・クァルテットのコンサートへ行ってきた。このモルゴーア・クァルテットは、日本のベテラン演奏者が集まるクラシックの弦楽四重奏団なのだが、主が高校生、大学生の頃に熱中していたロックのうち、イギリス系のプログレッシブ・ロックを編曲演奏してCDをリリースしている。今日のコンサートも前半は、ショスタコーヴィッチなどのクラシック曲で、後半がプログレッシブ・ロックだった。

50年近く前に遡るのだが、このプログレッシブ・ロックのバンドには、ピンクフロイド、キングクリムゾン、エマーソン・レイク・アンド・パーマー(ELP)などがいて、当時はメッチャ新しい音楽で、キラキラ輝いていた。というのは、シンセサイザーが発明され、オーケストラのような音を出したし、どの曲も、ポップスと違って曲が長く、構成もドラマチックだった。また、コンサートではステージで歌を歌うだけでなく、さまざまな照明や煙(スモーク)などの演出も斬新だった。

当時のロックには他にもジャンルがあり、レッドツェッペリンやディープパープルなどのハード・ロック、オールマン・ブラザーズ・バンド、ボブディランが居たザ・バンドなどのアメリカ系のブルースっぽいロックもあった。主がロックにハマっていたのは、高校生の頃だが、各自それぞれに好みの方向性があった。

当時のLPレコードのジャケット(キングクリムゾン)

そういえば、主は思いだした。中学生の時に、フォーク・クルセダースの「帰ってきたヨッパライ」という曲が、日本中を席巻するくらい大ヒットした。当時の音楽はテープに録音され、その再生スピードを上げると、歌った声が高くなり早口になった。それを利用して、フォーク・クルセダースはコミカルな歌を作っていた。13歳の主にとって、この曲を、これまで聞いてきた歌謡曲の革命のように感じて、夢中になって聞いていた。

そのような時代、友人の中学生3人で「幼な妻」という映画を見に行った。その映画は、関根恵子と新克利という俳優が主演していたのだが、女子高生の関根恵子が結婚し「幼な妻」になるという、タイトルも怪しいし、ヌードシーンが出てくるという友人の説得に期待をふくらませて行った。そのヌードシーンは、今考えると子供だましのようなたわいのないものなのだったが、けっこう感動したような気がする。 

その映画の中(だったと思う)のだが、関根恵子の兄だか、弟だか若い男が出て来て、LPレコードをかけるシーンがあった。そのLPレコードから出てくる音楽が、主の知らないもので、衝撃を受けた。それまでに聞いたことのないサイケデリックな種類の音楽で、スクリーンには、見たことのないサイケデリックな映像も流れたと思う。まったく、キラキラ眩いばかりで、まったく理解できなかった。それがロックとの出会いだったと思う。

当然、こうした音楽は最初がビートルズなのだが、日本のビートルズ世代は、団塊の世代にあたる。そのために、主の年代より上の世代が熱狂していた。日本の沢田研二がいたザ・タイガース、萩原健一のいたザ・テンプターズなどのグループサウンズもそうだ。主の時代に流行ったのは、吉田拓郎、井上陽水の時代になっていたが、主の仲間内では、拓郎、陽水を商業主義と軽蔑し、高田渡や加川良などアングラ路線に心酔していた。

こうしてみると、刻一刻と、新しいカルチャーとカウンターカルチャーの両方がドンドン出てきた幸せな時代だったと思う。

ところで、この日のモルゴーアカルテットの演奏だが、300人程度が入れるホールで行われ、バイオリン2台、ビオラ、チェロの4人で行われた。生の音ながら、十分な迫力があり、なかなか良かった。グールドは、コンサートは廃れるだろうと予言したが、自宅で聞くオーディオ装置での再生音が、生演奏の音の魅力には敵わない以上、生演奏(コンサート)は残るだろう。主は、最近音の良いヘッドホンで、マーラーなどの交響曲を聴くのにハマっているのだが、マーラーの良さは、弱音と強音の両方にあり、自宅のステレオで再生する時に強音に合わせてボリュームを合わせると、弱音が聞こえなくなる。こうしたことがあるので、自宅で交響曲をステレオ装置で聞くのは難しい。やはり、生演奏には敵わない。今のオーケストラ団員には、難聴になる人が居たり、耳栓をしながら演奏する人がいると聞く。それくらい、強音と弱音の差が激しいからだ。

おしまい

 

 

エブリバディ・ノウズ【日本病】その5 外国人の発言のほうが面白い!

テレビ番組には様々な日本人の評論家連中がしたり顔で出てくるが、いずれもうさん臭く、お笑いタレントに敵わない。主は、最近いろいろな発言を比べるとき、外国人の方がストレートでずっと新鮮で面白いと感じている。テレビによく出てくる外人タレントは、厚切りジェイソン、パックン(パトリックハーラン)、ロバート・キャンベル、デーブ・スペクターあたりだが、なまじな日本人より気が利いたことを言える。

書店に並んでいる本の中でもそう感じるところがあり、日本人学者の書いている経済学書などは読みたいと思わない。読んで真っ当で、そうだな首肯するのはほとんど外人である。2018年の春の番組改編でなくなってしまったNHK BSテレビの経済ニュース「経済フロントライン」では新鮮な話題を取り上げて毎週見ていたのだが、金融コンサルタントのジョゼフ・クラフトさんが好印象だった。また、この番組には、森永卓郎さんがよく出ていた。オタクに見られている節があるが、リフレ派でけっこうまともなことを言っていた。ただ森永氏は、今年1月の放送で「今が、今年の株価のピーク」とか、「安倍首相は、総裁選で消費税を5%へ引き下げ表明する」と言いたい放題言っていたのが、番組がなくなった原因かもしれない。

経済フロントライン

話がそれてしまったが、主が新書をあっという間に6冊買い、読み易い、聞き書きの手法の新書5冊を読破したエマニュエル・トッドの炯眼ぶりには、驚いた。彼は、クリントンが敗れ、トランプ(民主党の予備選で負けてしまったが、サンダース)の勝利を予想していた。グローバリズムの終焉と国民国家への回帰傾向を予想していた。2018年7月時点の現在、トランプは、あいかわらず日米のマスコミからバッシングされまくっている。米中は、貿易戦争の様相を呈してきたにも拘わらず、マーケットの反応は、意外と冷静だ。中間選挙で勝てば、どのようなことが起こるのだろう。主は、トランプが勝ってら面白いと思っている。

さらに書店やネットでよく目にするのが、デービット・アトキンソン(小西美術藝術工芸社・社長)だ。彼はオックスフォード大学で日本学を専攻している日本通で、キャリアもすごい。アクセンチュアの前身のアンダーセン・コンサルティング、ソロモン・ブラザーズ、ゴールドマン・サックスなどを経て渡日した。生憎、主は読んではいないのだが、「新・所得倍増論新」「新・観光立国論」が書店で平積みのベストセラーになっている。立ち読みしたり、書評を見ただけだが、どちらも現代の日本の病弊をズバリと指摘している。その視点が外人ならではで、本質をズバリつき力強い。このように分析する日本人学者がいないのは、情けない。日本人は「日本人は勤勉だ」、「安くていいものを提供することが大事だ」、「日本は民主的で平等な社会」、「日本の製品、サービスは高品質」などという刷り込みに囚われすぎだ。

2020.9.25追記—–デービット・アトキンソンは、菅新首相のブレーンであるが、竹中平蔵と並び日本の不良債権処理を急がせた人物であり、日本の国債残高に対する立場を明らかにしていない。竹中平蔵と同様に見るべき点はあるが、根本的なところは弱肉強食の新自由主義者だ。グローバリズムや自由貿易に対する懐疑どころか、否定的総括がされる今の現状からすると、彼の提案は、短期にも長期にも、格差を広げるだけだ。

デービットアトキンソン

他には、ケント・ギルバート(読んだことはないのだが、右翼チック?な著述業)がいる。

逆にいい加減なことばかり言っているオオカミ少年の経済系の学者や評論家は、日本人だ。たいていは、財政破綻とハイパーインフレの懸念をセットにして、大声で恐怖を煽る。参議院議員で評論家の藤巻健史、超整理法で有名になった野口悠紀雄あたりか。ピントが外れているのは、デフレ下の日本を「低欲望社会」とみる大前研一。これに似たことをいう人は、結構他にもいて、人口減少と高齢化は社会の成熟であり、デフレはむしろ望ましく、低成長下で心豊かな社会を実現しよういという論調だ。しかし、これは実現不可能な一種のユートピア思想といってよいだろう。1ドル=50円を唱える浜矩子。この人も現政権のアベノミクスに批判的なため、朝日や毎日といったマスコミに相変わらず重用されている。伊藤元重、伊藤隆敏は有名だが、御用学者と言われる。「御用」というのは、財務省べったり(財政再建と消費増税)ということだろう。こういうメジャーな経済学者は、たいてい若い時分に、アメリカの今となってはちょっと古い経済学(小さな政府、合理的に行動できる個人)を学んだ信奉者である。

参考までにリフレ派・非主流派の経済学者、評論家には、浜田宏一、高橋洋一、若田部昌澄、安達誠司、田村秀男などがいる。宮崎哲弥もリフレ派のようだが、機敏に転向した口だろう。

ただ主は、現在の日銀による量的緩和策で大量の国債、株式、リートの引き受けが、財政ファイナンスと批判的に言われたり、通貨発行益(シニョレッジ)という言葉が使われることもある。学者の立ち位置により解釈が違ってくるようだが、ここが肝だと思うので、なんとか調べて書いてみたい。

おしまい

 

「グレン・グールドシークレットライフ」を自分で翻訳してみた!

上の写真の「グレン・グールドシークレットライフ」(マイケル・クラークスン 道出版 岩田佳代子訳 税抜3200円)は、2011年9月に出版されたのだが、段落単位!!でかなりの部分の原文が翻訳されていないのだ。

それなのに、大っぴらに販売しているのだから呆れてしまう。翻訳していない段落は、どの章にも複数存在する。この本は、基本的にグールドの女性関係を中心にする私生活に焦点を当て、インタビューによる綿密な取材をもとにして書かれている。そうした取材には、当時の恋人本人だけではなく、男性の友人やアシスタント、音楽家、プロデューサーなども含まれるのだが、こうした部分はバッサリ翻訳していない。

この本は、「道出版」というところから出版されているのだが、大きなところではなさそうだ。なぜ、出版するにあたって、かなりな割合(15%ほど)を活字にせずに販売したのだろうか。理由は分からないが、原書の全体を翻訳しないで発売することは、音楽ファンに対する背信行為だと思わなかったのだろうか。グールド(1932-1982)は没後36年になるが、人気は今なお健在で、2015年にはコロンビアレコードの正規録音81枚(うち3枚はインタビュー)をテープからリマスターしたCD全集が発売された。昨年はグールドのデビュー録音(1955年)である、バッハのゴールドベルグ変奏曲の製作セッションのテイクすべてを、8枚のCDとLPレコードにして発売された。ここでは、伝説的なアルバムが生み出されていく過程を追体験できる。作品を世に出す過程で作られたテイク集が、売り出される演奏家はグールドしかいないだろう。今なお新発売されるCDも多く、これまでの録音の組み合わせを変え、姿を変えて発売されるだけではなく、テレビ、ラジオやコンサートのライブ録音などが発掘され、手を変え品を変え新発売されている。

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グールドに関する書籍は、グールド自身の著作集、書簡集、発言集、研究者や伝記作家がグールドを分析したもの、写真集、グールドをモチーフにしたオマージュ作品など、これまでに100点近くが刊行されており、ほとんどが、日本語訳が発売されている。死後年数が経っているが絶版とならずに、再販される書籍もあり、2017年はみすず書房の「グレン・グールド発言集」が新装版となり再発売された。

この「グレン・グールドシークレットライフ」は、これまでのゲイではないかとも言われてきた中性的、無性的なグールド像を、根底から覆すインパクトのあるものだ。この本をクラークスンが書いたのが2010年(グールド没後28年)である。グールドは、1982年に50歳でなくなっているので、女性たちがグールドと同年齢であれば、今では86歳という計算にる。このため、実際のインタビューをもとにしたこうした本を出版することは、もう不可能だろう。

グールドは自分のことを「最後の清教徒」と言い、周囲にそのように思わせてきたし、現実にそれは成功をおさめてきた。しかし、実際の彼は、彼が世間に与えようとした「清教徒」のイメージのようなものではなく、非常にドロドロしていたことが、この本を読むと分かる。彼自身には親友が多くいなかったし、まして女性関係はずっと秘密にしてきたため、ほとんど私生活は知られてこなかった。グールドは自分が好まない発言をされると、直ちに関係を断ってきた。このため、関係を断絶されることを望まない友人や関係者は、率直に何でも語るということをしなかった。特に女性関係は、彼がもっとも秘密にしたい最有力で、誰もが見て見ぬふりをした。クラークスンは、没後30年近く経ったということを説得材料にしたのだろう。そして、女性たちの固い口を開かせることに成功した。映画の「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」の元にもなっており、これまでのグールドのイメージを完全に一新した。強調したいことは、この本のように、グールドのないと思われてきた女性関係に焦点をあてた類書は他にないことだ。グールドファン、クラシックファンは外せない。

これほど今なお人気を誇るグールド、この彼の貴重な「シークレット・ライフ」を全部翻訳せずに知らん顔を決め込んで、発売しているのだ!出版社は責任を取ってもらいたい。すぐに版権を放棄して、違う出版社が改めて出版できるようにすべきだ。

おしまい

 

 

ヘッドホン AKG K812 《オーディオ熱》

主は、AKG K812(アマゾンで14万円くらい)というオープンエア型のヘッドホンを約2年ほど前から使っている。AKGは、オーストリアのメーカーで、放送局用の高性能機材で知られている。今ではN90QというDAC内蔵の特殊な製品や、K872という密閉型のさらに値段が高いヘッドホンも発売されているが、このAKG K812がこのメーカーのフラッグシップのヘッドホンといっていいだろう。

AKG K812

以前は、同じAKG社のK701という製品を使っていた。現在2万円弱で売っているが、5年ほど前に買った当時は、もっと高かったはずだ。これをパプアニューギニアまで持って行き、PCに入れた音楽ファイルをDAC経由でよく聴いていた。こちらもけっこう気に入っていたのだが、秋葉原のヨドバシカメラで試しにK812を聴いてみて、その違いに驚かされた。一言で言うなら、本当に自然なのだ。音楽だけを聴くことができ、他の全てを忘れることができる、そんな感じの音だ。

AKG K701

そもそも主は、36年前に没したカナダ人クラシック・ピアニストのグレン・グールドにずっとはまっており、何とか彼の演奏を良い音で聴けないかと悪戦苦闘してきた。彼が生きたのは、1932年から1982年と大昔で、デビュー作のバッハ「ゴールドベルグ変奏曲」の録音は今から63年前の1955年である。当時発売されたLPレコードはモノラル録音で録音状態がよくない。1958年頃からステレオ録音となるが、やはり録音は良くない。また、ラジオやテレビの録音も残っているのだが、レコードより悪い。

ただこの悪い録音であっても、良いオーディオ装置を使って、録音されたデータを余すことなく再生できるとけっこう聴ける。このため少しでもよい音で聴きたいと願って、オーディオ熱、ハイレゾ熱の世界に足を踏み込んできた。

先にも書いたが、このK812は、さすがリファレンス機だけあって最高の音を出す。主は、スピーカーにB&W 805D3を使っているのだが、1組90万円近い値段がするのもあって、こちらも最高の音質だと思っている。この音質だが、何と比べて高音質かというと、つまるところ、コンサートホールの生演奏と比べてということだ。

この805D3だが、器楽曲や小編成のアンサンブル、例えば弦楽四重奏や、ダイナミックレンジの低い古楽器合奏などでは何の文句もないのだが、さすがにオーケストラになると苦しい。オーケストラのフォルテッシモのトゥッティ(全奏)では、モコモコ感が否めない。

B&W 805D3

ところが、ヘッドホンK812は、この上を行く。どの楽器の音も明晰で、オーケストラの配置に奥行きが感じられる。マーラーは、交響曲の中でも大編成で知られるが、その交響曲でティンパニが轟音というべき強音を鳴らした時でも、他の楽器の音がちゃんと聴きとれる。もちろん、弱音であっても、クリアに美しく再現する。その繊細な音に胸がドキドキする。オーケストラが奏でる、何とも言えずに美しい和音の響きのハーモニーに感動する。さまざまな楽器が入れ替わり立ち代わり旋律を奏で、作曲者の曲の構成の妙に驚かされる。この素晴らしい環境が自宅で手に入るというのは、実に素晴らしい。他に代えがたい。たゆたうマーラーのハーモニーの美しさと、耳を澄まさないと聞こえないピアニッシモから、爆発するような轟音とどろくフォルテッシモへの変化に圧倒される。この体感なしに、マーラーは語れないだろう。

スピーカーのB&W 805D3では、オーケストラが弱音のピアニッシモの時には、せっかくの美しいハーモニーが聴きとりにくくなり、轟音が鳴るフォルテッシモの時には、どの楽器が同時に鳴っているのかわからなくなる。中程度の音量の時にのみ、バランスが取れて良い感じだ。

主は、ジャズも結構好きで、一時はキースジャレットをよく聴いた。マイルス・デイヴィスもよく聴く。このヘッドホンでジャズを聴くと、臨場感が半端なく、このCDには「えっ、こんな音も録音されていたの!!」と驚くことがたびたびある。

こうしてみると、クラシック音楽を自宅のオーディオで忠実に再生しようとすると、それなりにお金がかかるのだろう。B&Wの一番高いスピーカーは、1組425万円するが、世の中にはこれよりも高いスピーカーも当然ある。音響を問題にすると、部屋も当然問題になるだろう。結局のところ、そうした問題を避け、良い音を聴く安上がりな方法は、ヘッドホンを使うということだろう。

おしまい

 

エブリバディ・ノウズ【日本病】その4 日本の医療のすりこみ

日本は病気だと、主は確信している。「日本の医療水準は世界のトップクラスだ。健康保険制度はどこの国より優れている」というのはどうやらそうでもなく、我々は間違った情報を与えられているようだ。

主は、近藤誠さんの「医者に殺されない47の心得」「クスリに殺されない47の心得」の2冊の本を読んだ。近藤誠さんは医師で、元慶応大学医学部の講師、現在は近藤誠がん研究所長である。肩書が定年まで勤めて、慶応大学の講師というのにも医学界における立ち位置が表れている。次がYOUTUBEのご本人の講演で、冒頭を見るだけでどのように過激なのかわかる。

とにかくこの本の内容はすごい。この2作の全編を貫いているのは、日本の医療は、患者不在で、ビジネスを動機にして行われている。様々な医療界で使われるデータは、効能が不明であるにも拘らず、明白で大きな副作用がある。主は、この2点に要約できると思う。結局のところ、我々が抱いている日本の医療のイメージの全否定である。ビデオを見るのが面倒だと言う人のために、この本の「章」タイトルを6個紹介しよう。こういう内容が、2冊の本で94個ある。

  • ① 「とりあえず病院へ」は、医者の”おいしい”お客様
  • ② 医者によく行く人ほど、早死にする
  • ③ 「血圧130で病気」なんてありえない
  • ④ がんほど誤診の多い病気はない
  • ⑤ 「乳がん検診の結果は、すべて忘れないさい」
  • ⑥ ポックリ逝く技術を身につける

もちろん、こんなことを言う近藤医師は、前記のとおり、既存の医学界から総スカンされているのは間違いないわけで、もちろん反論もさまざまある。参考に、2つだけリンクを貼っておく。

ただ、主が両者の主張を比べると、反論は弱く、近藤医師の主張の方に分があるように感じられる。どの反論でも、近藤医師の主張を真っ向から否定していない。否定できているのは部分的であり、かなりの割合で無駄な治療が現実に行われていることが、いずれの論からでも窺える。

話が転換するが、主は母親の死の際に、医療の奇妙さを実感した。死に際になっても、出来る限りの医療措置をするのが、日本社会の社会常識(共同幻想)で、医師はとことん延命させることが役割と思っているようだった。だが、主は腑に落ちなかった。

高齢の母は、ちょっと認知症が始まった父と二人で暮らしをしていたのだが、風呂場で倒れ、呼吸不全を起こし、意識不明になり救急車で救急病院へ運ばれた。主が、千葉から関西の救急病院へ駆けつけたとき、意識がない状態で酸素呼吸のマスク(気管挿管)をされていた。このとき医師は、このあと気管切開して人工呼吸器をつけたいと言った。当然ながら、医師に「前のような生活に戻れるのか?」と聞くと、「そのような可能性はほぼない」という答えがかえってくる。やるせなさはもちろんあるが、母親が元に戻らないというのは素人目にも見てわかる。それならばと積極的な治療に難色を示すと、救急医は「救急車で救急病院へ患者が運ばれてきた以上、我々としては何もしないわけにはいかない。人工呼吸器をつけさせてほしい」と選択の余地がないと説明する。その説明に違和感は感じるものの、母が危篤なのは現実であり、少しでも生かしてやりたいと思う気持ちは当然ある。同意書にサインし、母には気管切開をして人工呼吸器がつけられた。その高度な医療が可能な救急病院は、患者が次つぎと運ばれ、ベッドを回転させる必要があり、1週間ほどで違う病院へ転院させられる。転院した先の病院では、意識が戻らないままでの延命措置はいくらでも可能だと説明を受けた。結局、母は1か月ほどで亡くなったのだが、傍らで見ていて、意識がないといっても、苦しい思いをしているのはわかる。栄養は点滴で注入され、麻酔も含まれているらしいが、意識が全くないわけではなく、無理に生かされている状態で苦しんでいるのが横にいてわかる。

一方で、医者たちは高額の治療報酬を手にし、公的なお金はさらにもっと多く使われたはずだ。こんなことを日本中でしていたら、医療制度が破たんするのは当然だ。それに加えて、それより先に、我々は安らかに死にたいではないか。

つづく

エブリバディ・ノウズ【日本病】その3 「『半分、青い。』でわかる日本経済の無策」でわかる平均的経済評論家像


ーーーーーーー Rewrite 2021/7/8 ーーーーーーー

以前は下のように考えていたのだが、MMT(現代貨幣論)を知り、考えが間違っていたと気づいた。

つまり、主は、黒田日銀の金融政策である量的緩和によるアベノミクスを支持していたのだが、これではうまくいかないと思うようになった。 つまり、この量的緩和政策の具体的なことを言えば、政府が大量の国債を発行し、市中銀行が引き受け、これを日銀が買い入れることで国内の通貨供給量を増やし、低金利への誘導と相まって、銀行の貸し出しが増えることで、投資が増え景気が良くなるという考えである。

しかし、MMTを勉強すると、このように通貨の供給量を増やしたところで、投資環境が改善しないと、民間企業は借金して投資しない。通貨が、銀行の残高として「ブタ積み」の状態になって留まるにすぎない。デフレの状態では、手元の現金の価値が自然に上がっていくので、企業は投資しようとしない。投資するより、しない方が得だからだ。

ところが、このMMTでは、実際に国債を使って政府が支出をする。実際に国民の手にお金を渡すことが、肝である。同時に、政府は民間とは違い、インフレにならない限りにおいて、いくら国民にお金を渡しても問題が起こらない。そこが根本的に違うところだ。(細部は、他のMMTの項目を見てください。)

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日本は病気だと、主は確信している。経済評論家が語る経済の内容があまりにも貧弱だ。素人同様の評論家が多すぎる。

MSNニュースに小宮一慶(以下、敬称略)が書いた「「半分、青い。」でわかる日本経済の無策」というプレジデントの記事が転載されている。朝ドラの話でもあり、興味を持ってさっと楽しく読める。

半分青い

このドラマは、高度成長期の終わり1971年に生まれたヒロインのすずめが、少女漫画家を目指す。日本経済は、彼女が高校生の時にバブル期に突入、これは5年ほどで終わり、その後25年間続くデフレの現在へといたる、挫折や波乱を経験しながら成長する物語だ。

小宮一慶は、NHKから経済面の時代考証である『経済考証』を依頼され、内容をチェックしているということで、経験に裏付けられたバブル時のエピソードなどが面白い。また、時代の変遷が要領よくまとめられている。

だが肝心の、結びの部分が駄目だ。多くの経済評論家同様、彼はこう書いている。

  • 現在は、バブル期など比べ物にならないほどの超金融緩和政策アベノミクスでなんとか景気を維持していますが、しょせんはカンフル剤でしかありません。
  • 人口減少や高齢化がますます進み、対名目GDP比での財政赤字が先進国中で最悪という状況下で、「本物の成長戦略」が望まれますが、なかなかこれといった処方がでてきません。
  • またドラマの経済考証担当として、今後、日本が得意とする製造業やおもてなし上手のサービス業などがその技に磨きをかけ、さらには規制緩和により農業などを「強い」産業にしていく、といった施策が必要だ、とつくづく感じています。

アベノミクスの金融政策の処方箋が「カンフル剤」と表現されることは、よくあるものだが、カンフル剤とは、要は一時しのぎなので、早く正常な軌道に戻せということになる。カンフル剤とは、何時までも使えないという認識を示している。異次元の量的緩和は、過去20年間の日銀の無策と比べると異次元ということであって、経済の成長に市中の通貨の流通量が不足すると、経済成長の足を引っ張る。実際に日銀は、金融政策ではずっと無策で、プラザ合意の円高不況後のコントロールに失敗し、バブル崩壊とともに日本経済はハードランディングしてしまい、為替が原因の不況がずっと続いている。その間、政府は”Too small, Too late”と言われる景気対策を何度も打ち出すのだが、効果は上がらず、現在の財政赤字が積みあがった原因である。

2008年のアメリカ発のリーマンショックによる世界的な不況は、世界中を覆ったが、不良債権が一番少なかった日本が、一番遅くまで景気回復できなかった。これはアメリカとヨーロッパがいち早く、市場へ通貨供給量を増やしたのに対し、日本は、安倍政権と黒田日銀が登場する2012年まで、通貨供給量を増やさなかったためだ。金融緩和政策は、アメリカもヨーロッパも日本以上に緩和をしてきたのであって、実際に経済が上向くまで続けなければならない。

下は、日経新聞に載った世界の通貨供給量のグラフだが、日本はこの通貨供給供給競争に乗り遅れたことが読み取れる。このグラフを見ると、世界中の通貨供給<緑線>がGDP<青い部分>を越えてしまいカネ余りが起こりっているのが分かる。リーマンショックの2008年を見ると、GDPが下がったのに対し、世界は通貨供給量を増やしたことが読み取れ、何もしなかった日本が取り残された。

ちなみに2014年の低下は、原油価格の下落によるロシア、ドイツなどの低下が要因だ。

世界の通貨供給量
2017/11/14日経新聞「世界のカネ1京円、10年で7割増 実体経済と乖離鮮明」

量的緩和は「カンフル剤」だからといって、もし量的緩和を急にやめれば、日本は確実に死亡するだろう。日銀は買えるだけの日本国債だけでなく、日本株や不動産投資信託と言われるリートなども大量に引き受けている。この量的緩和により、一定程度の円安が実現できている。日本の景気が十分回復し加熱しはじめる前の段階で、量的緩和を止めると表明したら終わりだ。この政策は、ノーマルだと考えるべきだ。

人口減少や高齢化は間違いなく大問題だ。だが、財政赤字の問題は別次元の問題だ。一つには家計や企業と、政府の借金を同一レベルで考える愚が、世間に蔓延している。しかし、「日本に財政問題はない」と正面からいう学者に高橋洋一もいる。

高橋洋一

高橋洋一はこの本の帯に次のように書いている。

  •  □国債は日本の借金。だから、少なければ少ない方がいい。
  •  □国債は、発行されればされるほど、国民の負担が増える。
  •  □国は出来るだけ「節約」して予算を減らすべき。
  •  この中に、1つでも「そのとおりだ」と思うものがあっただろうか。もし、あったならば、あなたは「一国の経済」というものを間違って理解している。

巨額の財政赤字の原因だが、過去の財政政策(公共事業や減税)は、いずれも小出しで、かつタイミングが遅れ、適切な金融政策(量的緩和)を取らなかったた。このために、一向に経済が上向かずに失敗し、ずるずる借金だけが積みあがった。アベノミクスの開始で、ようやく金融政策の舵取りを変更し、1年目に為替安と株高が起こり大成功した。しかし、生みの親の浜田宏一があれほど反対したにもかかわらず、2年目に消費税を5%から8%に上げた。その結果、低成長が続きデフレ脱却もはっきりしなくなった。いずれの施策も、ドカンと徹底的にやらないとだめだ。

同じ意味あいだが、来年10月に消費税を10%に上げると法律で決まっているが、実際にそうなれば、マイナスの影響は大きく致命的だろう。リフレ派(安倍首相や浜田宏一、高橋洋一などのマイルドインフレ肯定派)に対し、反対派(=財政再建派、多くの政治家、マスコミ)の方が多く、反対派は、アベノミクスを止める出口戦略を語りたがる。アベノミクスは社会のインフレ「期待」へと変化させるところに目的があるのに、出口戦略を語ること自体がベクトルが逆だ。

小宮一慶の話に戻ろう。日本の今後の施策として「日本が得意とする製造業」「おもてなし上手のサービス業」というのは、従来の固定観念に縛られていて陳腐だ。

小宮一慶は、バブル崩壊の端緒としてプラザ合意に触れている。その後の日本の製造業の不振に、エルピーダメモリの倒産、シャープ、東芝、サンヨーなどの白物家電の身売りなどがぱっと頭に浮かぶが、これらはずっと続いている円高の影響が大きい。日本の製造業にとって、国際競争力という観点から為替レートが一番影響が大きい。「日本が得意とする製造業」は、もちろん新しいアイデアや技術革新も重要だが、基本的に円安であることが前提だ。

「おもてなし上手のサービス業」は、日本のどこにあるのかと主は思う。日本には「おもてなし」などない。オリンピックの招致で、滝川クリステルが「オ、モ、テ、ナ、シ。オモテナシ」と言うシーンが何度も流れたが、あれは日本人の自己満足だ。日本にあるのは、せいぜい安全、清潔といったところだ。

コンビニで客が代金を支払った瞬間、店員が客に小銭を渡そうとし、「たいへんお待たせしました!」と心をこめずにイヤイヤ頭を下げる。客は、財布に釣銭を戻すのに大慌てになり、四苦八苦する。この店員のどこが、おもてなし精神なのかと思う。主はブラジルで生活していたが、レジでは、お金のやりとりに急ぐところがなく、女性の店員が、心の底からにっこりと微笑んでくれて気持ちが良かった。これが本当のおもてなしだ。

デービット・アトキンソンが、日本人の多くが、温泉旅館の接遇をおもてなしだと誤解していると書いている。日本旅館で女将が正座して頭を下げ、女中が運んだ懐石料理を食べて日本人は満足しているかもしれないが、欧米人は違う。彼らは、1か所に何泊もしたい。また、家族全員が一部屋に泊まる風習はない。何日も同じ懐石料理を食べたくない。また日本の温泉地は、夜に出かける魅力的な場所がない。料理を食べて温泉に入ったら、寝るしかない。これをおもてなしと思えと言うのでは、外国人理解が足りていない。

新観光立国論

最後だが、「規制緩和により農業などを『強い』産業に」と書かれているが、これ自体には異論がない。しかし、『強い』産業というからには、国際競争力があることが前提であり、一定の円安基調が必須だ。日本はプラザ合意後の円高を、涙ぐましい努力で乗り越えようとしてきたが、その努力には限度がある。むしろ、その努力(節約志向)はデフレマインドを招く。このためにも金融政策が必須である。

結局のところ、小宮一慶は法学部出身であることもあり、その後も金融機関を経て経営学や会計学の畑を歩んできている。このため、従来の一般常識や固定観念の域を出ていないと思う。もちろん悪いことではないが、マクロ経済を語るのであれば、その後にしっかり勉強すべきだ。

ちなみに、もし主が日本の処方箋を書けと言われたら、こう書くだろう。

 

  • ① 40代、50代の経営層の一掃(不況をいつまでも脱せないのは、この層が投資をしないからだ。儲けを新規投資ではなく、楽なM&Aにつぎ込み失敗する例が多い) 
  • ② 財務省の財政赤字キャンペーンの公式訂正(これは国民全体で真剣に議論すべきだ。あらゆるところで足枷になっている) 
  • ③ 消費税の5%への減税。同時に、高所得者、企業への累進税率のアップ 
  • ④ ベーシックインカムの国民的議論 
  • ⑤ 医療の見直し(あまりにも日本の医療が島国化し、めちゃくちゃ無駄遣いされている。介護費の増加にもつながっている) 

そんなところかな。

つづく

「もやもや病」と診断された!

主には、ここ1年以上顔面けいれんの症状があり、頬がぴくぴくするようになった。それほど不便ではないのだが、人と話をしているとぴくぴくとひきつる感があり、何とかならないかと思っていた。症状も進んでいる気がしたので、脳神経・内科、耳鼻咽喉科、神経内科と1年ほどの間に3か所の医者をわたり歩いてきた。

ようやく最後の神経内科で顔面けいれんが診療内容に入っていて、脳のMRIと脳の血管を調べるMRAという2種類の画像診断を受けた。結局、顔面けいれんの原因は分からなかったのだが、この神経内科で「もやもや病」が疑われるので、専門病院で診てもらった方がいいのでは言われた。この時、主はあまりよく考えず、神経内科の医師の説明が丁寧で好印象を持ったこともあり、勧められるままに、MRAの画像(CD-R)と紹介状を持って、地元にある大学病院へ行ってしまった。

最後に行ったのは、大学病院の脳神経外科である。脳神経外科という専門が細分化され、主が初めて行った診療科の40歳くらいのバリバリ壮年の科長(准教授)から『あなたは「もやもや病」だ』と告げられた。この診断や治療方針の説明には20分以上を要し、3分診療に慣らされている身としては、それだけで何か得をしたような気分になる。これまでに1000例以上の手術経験があり、95%は成功する手術だと言う。痛いとかありますかと聞く主に、医師は「子供でも受けているので、安心しなさい。まずはさらに細かいことが分かる検査をしましょう」と精密検査のための検査入院を勧められる。

その検査の目的なのだが、人間の脳の血流というのはさまざまな事態に対応できるよう、かなりの余裕をもっているらしいのだが、正常な人と比べて、その余裕がどの程度失われているのかを調べることによって、手術が必要か経過観察で済むのか判断がつくという。フムフム。

一応、検査入院には同意して自宅へ帰ってきたのだが、「もやもや病」とはどんな病気なのか、ということをネットでざっと調べてみた。脳へ繋がる血管は、下の図の左側のような状態が正常なのだが、もやもや病の患者の場合は、右側のように太い血管が梗塞(詰まり)して機能が弱くなり、その機能を代替する細い血管が、他のルートから「もやもや」と現れて来るらしい。また、頭蓋骨の外側からも血液が供給される代替ルートができたりもするらしいのだが、いずれも本来のルートに比べると血液の供給量が少なかったり、無理しているので出血する可能性、詰まってしまう(虚血)の可能性が高いらしい。このもやもや病は、東アジアに多く、他の地域では少ない。また、子供から幅広い年代に見られ、男性よりも女性が多い。Wikipediaによると、年間発症率が10万人に0.3人から0.5人である。また、難病指定されている。

名古屋第二赤十字病院のHPから

ここをクリックすると、もやもや病のいろいろな写真が出ます

 

主は、検査入院3泊と聞いて、夜には隣接する公共施設のジムでトレーニングするかとか、新しい経験ができて気分転換になるだろうとか軽く考えていた。しかし、そう甘くはないようだった。病院に3泊するのだが、ネットの体験記などを読むと検査といいながら大変そうだった。

初日は、血液検査、レントゲン撮影、心電図、呼吸器検査(肺活量の測定)、心臓エコー、再度のMRI、認知症のテストなどを行う。二日目は、「核医学」という聞きなれない名前なのだが、脳血流シンチグラフィー検査というらしく、放射性医薬品を2回注射し、2回目には負荷薬剤を加えて注射し、SPECTという機械で撮影するということだ。血流量を見ることができる。この時、頭部を1時間固定しなければならない。三日目は、股の付け根の大腿動脈からカテーテルを刺して、ヨード造影剤を頭の下あたりから放出して、脳内の血管をX線撮影する。麻酔医がつき、検査後4時間固定。二日目、三日目の検査は合併症(トラブル)があるので、同意書に3枚署名する必要がある。

ところで、主は、前に「大往生をしたけりゃ医療とかかわるな」(中村仁一・幻冬舎新書)を読んで「死ぬなら、だんぜん自然死だよね」と思っていた。健康診断は、60歳を過ぎてからは受けていない。どうもこのポリシーに反する気がしてきた。同時に、主は、「医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法」(近藤誠・アスコム)を読みはじめた。この本は、中村仁一さんの本よりも、さらに過激だ。この本を読んでいると、感染症以外の病気に、医学は無力ではないのかと思えてくる。これまで、日本の医療は世界の最先端を行き、健康保険制度は極めて優れていると思っていたのだが、間違った刷り込みをされてきたようだ。ただ、出版社の名前が怪しい。「アスコム」、初めて聞く名前だ。医学界から総スカンを喰っているに違いない。

この本の中には、検査の造影撮影1回で、福島原発の事故で避難を余儀なくされている地域の放射線被ばく量の1年分くらいを浴びることになり、これが癌の原因になってもおかしくないとあった。そうだよなあ。それに主は、腰痛(脊柱管狭窄・すべり症)があり、四苦八苦している。こんな体を固定しなければならない検査を何度もしたら、ダメージでQOL(生活の質)が下がるに違いない。

そして、2回目の診察時に入院検査を断ったのだが、医師からはせめて1年後にMRIだけでも受けて、その後の変化を見てはどうかと勧められる。だが、こちらは「知らぬが仏ということもありますし」と言った。医師からは、ありがたいことに「じゃあ、具合が悪くなったら、気持ちが変ったら来てください」と言われた。実際のところどうなるか分からないが、主に脳梗塞や脳出血が起こったら、自分で判断して、救急車に乗らないようにしたいと考えている。

頭部血管造影:岡山大学脳神経外科のHPから
頭部血管造影:岡山大学脳神経外科のHPから

おしまい