安達誠司「円高」になる本当の理由–「日本円=安全資産」神話はウソだった

written on 2016/7/9

今年の1月下旬に1ドル120円程度の為替レートだったものが、急に変調をきたし、円高と株安へと転換が始まった。この時日銀は、マーケットに催促される形で金融緩和の一環として「マイナス金利」を導入する。「マイナス金利」は、最初の一日だけ効果を発揮し、円安と株高が起こるのだが、翌日からはもっと逆に動き円高、株安となる。このとき、日銀は「マイナス金利」は効果を上げており、これがなかったらもっと円高になっていたはずだと説明した。

その後も一向に円高、株安に歯止めはかからず、現在は1ドル100円を割るかどうかという水準で、株価は日経平均が15,000円ほどに低下している。この間には、アメリカ景気の回復遅れによる利上げの延期やイギリスのEU脱退の国民投票などがあり、日本の円高は、世界でリスクが意識(リスク・オフ)された際に安全資産を買おうとする需要がたかまり、安全資産とされる日本円が買われることによって円高が生じたと、マスコミが説明することが一般的だった。

安達誠司

しかし、上記の説明に真っ向から異論を唱えたのが、安達誠司さんだ。2016年7月7日付の現代ビジネスで「「日本円=安全神話」はウソだった!リスク回避局面で「円高」になる本当の理由—-投資家に見透かされた日銀の無能」を書いている。以下がそのリンクである。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49114

安達誠司さんは、主が信用しているエコノミストの一人である。いい加減なことばかり言うエコノミストが多い中で的確な発言をされており、もっと重用され、今後さらにメジャーになってほしい。

この論文の中で、消費税アップの議論の際に「日本は財政的危機の真っ最中にあり、増税をしないならば財政破たんするしかない」としばしば語られてきたことに対し、円が安全資産であるということと全く矛盾するということを指摘している。つまり、このロジックでは、消費増税をしなければ財政破たんの状況になる=円の信認が失われ、円が暴落することになるはずだ。ところが、今度は円高の進行が進むにつれ、その理由は「世界的リスクの際にも、円は最も信用があるから円高になる」と説明しているわけで、完全に矛盾している。

この年初からの円高への推移の原因を、安達さんは日銀の無策のせいだと結論付けている。過去のVIX指数(恐怖指数)が高まった時期の収益率をしらべ、スイスフランや金などに比べても円のみが高い収益率を上げている。この時期の日米の金融緩和の度合いを調べると、アメリカの緩和の割合の方が大きく、日本の割合は少ない。つまり、恐怖指数の高い時期においても日銀は金融緩和をせず、円高へと誘導されている。円を買うことは、さらなる円高により、儲けが見込めるのだ。

つまり、今起こっている円高は、海外の投資家が、今後さらに円高になると考えて円を買っているのであり、円が安全資産だと考えているわけではないことになる。日銀が2月に実施したマイナス金利は、発表されたその日に限っては円安をもたらしたが、その翌日にはそれまで以上の円高をもたらした。これはマーケットが一時的に動揺したものの、海外の投資家に日銀はこれ以上のQQE(量的緩和)の手段を持っていないと見透かされ、「日銀は何もしない。これからは円高だ。いま円を買えば儲かる」と思われたのだ。この説明は非常に説得力があるし、真実に最も近いだろう。

マイナス金利だが、もちろん金利を下げることで投資や消費を喚起したいという意図はわかる。だが、金利がゼロでも今の日本ではなかなか借り手がいないというのが実情だ。その状況で、唯一上昇しているのが不動産価格だ。不動産価格の上昇は、不動産を庶民の手の届かないところへと押し上げるので、住宅投資の減退を招き、望ましくない。金利が下がっても、物件の価格が上がったのでは売れ行きは増えない。むしろ、金融緩和の手段としての「マイナス金利」は、金融機関の儲けを減少させ、保険商品の運用にも悪影響を与えたりして、デメリットの方が大きい。

今すべきは「マイナス金利」ではなく、さらなる量的緩和なのだ。安倍首相のブレーン(内閣官房参与)である浜田宏一さんは、短期、長期の国債の買い上げとともに民間企業の社債を買う、さらに外貨を買うという選択肢を挙げている。外貨の購入は財務省の管轄のようだが、財務省が国債を発行し日銀が引き受け、それを原資に財務省がドルを買えば同じ効果があると述べている。

浜田宏一さんが「マイナス金利」をどのように評価しているのか、残念ながらググってもわからなかった。だが、「2020年世界経済の勝者と敗者」の著書では、「・・・話をヨーロッパに戻すと、スイスは銀行支払い準備金に対してマイナス金利を払っています。スイスフランの10年国債はまだ少しマイナス。5年国債はさらにマイナスです。そのことを見ても、ヨーロッパの経済がいかに弱い状態であり続けているかが分かります」と記述されており、マイナス金利は日本への金融政策の手段として評価していないように思える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

老親の医療について (その1 母の場合)

母は、5年前に83歳で亡くなった。歩くことが不自由ということのほかに、間質性肺炎という持病があったのだが、風呂場で倒れているのを父が見つけて救急車で大学病院の救急救命センターへ搬送された。自律呼吸が十分にできずすぐに人工呼吸器がつけられることになった。両親は大阪で住んでいるのだが、主は千葉なので、大阪の郊外に住んでいる妹から連絡を受けて病院へ駆けつけた。父が少し認知症の傾向があり、主が長男ということで医師との治療方針などを決める役回りだった。

5年前のことなので細部は正確ではないかもしれない。だが、救命センターに主が着いた時には母は意識はなかったものの、口にあてるタイプの人工呼吸器をつけていたように思う。ところが、医師は喉を切開して人工呼吸器を装着したいと言った。当然のことながら「病状が回復すれば人工呼吸器を外すことができるのか?もとの状態に戻るのか?」と医師に聞くのだが、「いったん呼吸器を装着すると外せる可能性はほぼない。また、呼吸器をつけているのは苦しいため、麻酔を続けることになる。このため、意識が戻ることもない」という返事だったように思う。子の立場からすると、麻酔をかけられた状態で、人口呼吸器をつけられているのはあまりに痛々しい姿に思え、延命をするのではなく器具を外すことはできないのかと医師に訊ねてみた。しかし、救急センターの担当医は、ここに来た以上治療を続けないわけにはいかない、切開手術をして呼吸器をつけさせて欲しいというのだった。なお、現段階で人工呼吸をやめることは刑事責任を問われかねないのでできないとも言ったように思う。そうして、書類にサインさせられ、回復の見込みがない治療が開始した。

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一方、救急車で運ばれた最新設備の整った救急救命センターは、当然ながら次々と新しい患者が運ばれてくるため、医師に紹介状を書いてもらい1週間ほどで転院させられる。新しく転院した病院は、前の救急医療センターとは大きく異なり、入院病棟の施設は古びていて、如何にも亡くなる直前の患者を多数入院させているため雰囲気も暗いといった病院だった。ここでも最初に治療方針を担当医と確認するのだが、人工呼吸器をつけながらでも(もちろん回復するわけではないが)成分の輸血をするなどの手段を講じることで、延命はいくらでも可能だいう主旨の話になる。松竹梅のコースがあるので選んでくれという感じだった。母に対しては、晩年に十分に楽しい時間をもっと過ごせなかったかとの悔いがあった。しかし、植物人間になってしまっては、それはかなわない。医師には、人工呼吸器を外し元の生活に戻れないのであれば、呼吸器を外すことはできないことは理解するものの、延命のみを目的とする治療は希望しないと伝えた。最終的に、母は転院して約1月後に亡くなった。

ここで主が大きな問題だなあと感じた点を述べよう。それは医療費のことだ。母の場合、救急車で運ばれた救急医療センターの入院・治療費は、総額が130万円ほどだったが、患者の自己負担額はわずかに5万円ほどだった。差額の125万円は、公的なお金が使われるわけだ。健康保険に加えて高額医療に対する補助制度があるからだろうが、こんなことをしていては、国民全体の医療費が赤字になるのが当然な話だ。転院した先の病院の医療費は月額30万円程度だったが、やはり自己負担額は、1割負担のため10分の1だ。10分の9は公的な負担だ。日本中で考えると、このように助かる見込みのない患者の治療に莫大なコストが、かかっているに違いない。おまけに、患者の側が望まない医者の利益のために行われている治療費が、かなりの割合で含まれている。

ところで、麻生太郎副総理兼財務相が2016年6月17日、北海道小樽市で開かれた自民党の集会で、「90になって老後が心配とか、わけのわからないことを言っている人がテレビに出ていたけど、いつまで生きているつもりだよと思いながら見ていた」と発言し、これを複数のメディアが報じたことがあった。

発言の主旨は、老人が個人資産を潤沢に持っていながら、使わないのが問題であるというものだが、主は政治家には珍しいストレートな発言で面白いなと感じた。だが、この麻生大臣の発言に対して、「この物言いは人権侵害だ」と言う人がきっといるのだ。このような分かったような「人権発言」をすることが、日本全体の老人医療の方向性を誤らせ、医療費増大の原因を作っていると主は思っている。

おしまい

 

反面教師としての「舛添要一騒動」 

6月15日、公私混同を厳しく指摘された東京都知事の舛添要一が、ようやく辞任を表明した。masuzoe_blog2

週刊文春の記事が発端で、さまざまな公私混同が発覚したのだが、ご本人は政治資金規正法に照らして、違法ではないとことをよく知っていた。また、高額な出張旅費や公用車の私的使用なども指摘されたが、違法性がないことをよく知っていた。このため、「行った行為に違法なことは含まれていないが、指摘の趣旨に鑑み今後は改める」とは言うものの、「申し訳なかった」とは言わなかった。これにより批判がますますエスカレートし、最終的に支持母体の自民党にも見放され、辞職せざるを得なくなった。このとき、今後の対応として「しっかりやる」とか「きっちりやる」とか「全身全霊でやる」とか言っていたが、具体的なことが何一つ言えず、ますます聞く側の反感が増幅された。

ただ、政治資金規正法がお金の使途を制限せず、政治に使ったと言えばそれで適法とされるのであれば、こうした行為は他の政治家も当たり前のように行っていると思わざるを得ない。説明に窮するような支出がいろんな政治家にあるのではないか。

それはともかく、この舛添要一という政治家を見ていると、何と自己中心的で権力欲が強いのかと呆れる。他の政治家と比べると、この男はとびぬけて世間の空気を読めないのだと思ったが、中身は他の政治家も大同小異なのではないかと思う。

6月14日の産経新聞の記事に中山泰秀議員のことが出ている。ちょっと引用すると、「自民党大阪府連会長で元外務副大臣の中山泰秀衆院議員=大阪4区=が、12日に開かれた大阪市との国家予算要望説明会で『前の市長(橋下徹氏)の時に、秘書が覚醒剤で逮捕されたというのは本当ですか』との趣旨の発言をしたことに関し、橋下氏は14日、自身のツイッター上で「完全な事実無根」として中山氏を激烈に批判。『法的措置を執ります』と明言した。」というのがある。

この後記事は、橋下徹が中山泰秀を「無能政治家」「アホボン」と評したと続くのだが、この中山泰秀もたしかにとんでもない政治家の一人だ。父は中山正暉といい、政治家のキャリアの終盤に建設大臣にしてもらうのだが、大臣になると舞い上がってしまい、きわめて地元に配慮のない発言をし、ヒンシュクをおおいに買ってすぐに辞任に追い込まれたような記憶がある。父親の引退により地盤を引き継いだ息子の泰秀は、無類のスポーツカーマニアで車庫に外車が何台もあると聞いたことがある。真偽のほどはわからないが、イスラム過激派ISILに後藤健二さん、湯川遥菜さんの二人の日本人が拘束され殺害された事件では、外務副大臣として現地の責任者としてヨルダンへ派遣されるのだが、「白米を現地大使館まで送れ」と電話で言ったとバッシングされたことがある。

他に目立ちたがりで思い込みの激しい政治家として浮かぶのは河野太郎だろう。まさに政治家一家に育ったサラブレッドかも知れないが、存在を目立たせたいがために自民党の総裁選挙に当選の見込みもないままに立候補したりする。行政改革にご執心なのは良いが、書類を投げたり罵声を浴びせたりして官僚を痛めつけるという話をよく聞く。成果を上げたいという危機感はわからないでもないが、ボンボン育ちの坊ちゃんのため、何が問題なのか本質のところがわからないまま、功名心だけで突っ走っているように見える。

似たような本質がわからず空回りしている政治家の例として、谷垣禎一がわかりやすいだろう。やはり、先祖からの政治家だ。自民党が民主党に政権を取られ下野していた時期に自民党総裁をつとめ、その後も粉骨砕身努力しているのは伝わってくる。だが、この残念ながら方向性がない。理念がない。

こうした、舛添要一、中山泰秀、河野太郎、谷垣禎一のような政治家は、出世欲や権力への欲求は感じられるが、具体的な理念が感じられない。それでは努力をするにもしようがない。自民党の代議士などの名前を挙げたが、民進党や共産党の議員も同様、いやもっとひどい。

石原慎太郎が「天才」を書き、田中角栄を再評価して見せたが、学歴を誇るのではなく、地に足がつき、人生経験が豊富で、真に日本のあるべき姿を描ける政治家の登場が何より必要だ。

 

 

 

 

バッハ「平均律クラヴィーア曲集第1巻」小佐野圭 ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第2番」アルゲリッチ

2016年3月5日(土)小佐野圭さんのバッハ「平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲」のコンサートへ行ってきた。小佐野さんは1958年生まれの58歳、玉川大学教授でもある。会場は銀座のヤマハホール。収容人員が333人のホールで、自由席だったので、良い席に座ることができ、演奏者がよく見えた。同時に、ピアノという楽器が大音量を出すことにいまさらながらに驚いた。アコースティックな響きがとても心地よい。

小佐野さんの演奏は、全ての曲を楽譜をガン見しながら弾くもので、演奏しながら楽譜のページをめくる様子にちょっとハラハラさせられる。グールドは基本的にどの曲を弾くにも暗譜で弾いていたのだが、小佐野さんは音楽大学の教授なのだが、それでも楽譜なしでは弾かないようだ。もちろん楽譜を見ながら弾くのが劣るというつもりはない。だが、グールドはモンサンジョンとの映画の中では、一つの曲を、解説しながらいろいろな弾き方をして見せ、こうした芸当をもし楽譜を見ながらするのであれば、かなり制約を受けるだろうと思う。暗譜で弾いた方が極端な弾き方がいろいろとできる気がする。

およそ60年前の話であるが、グールドの演奏を生で聴けた人は幸運だとつくづく思う。もっとも、彼がコンサートで弾いた時期は、1955年のアメリカデビューのあと、1964年には公演から引退してしまったのでわずか9年間しかない。おまけに、彼が弾く曲は、バッハ、ベートーヴェン、ギボンズ、スウェーリンク、ヴェーベルン、ベルクなどといったある種風変わりなプログラムに限定されていた。しかし、ニューヨークデビューの翌日契約を申し出たコロンビアレコードの重役オッペンハイムの言葉を借りれば「グレンの演奏は宗教的な雰囲気を醸し出していて、思わず聴き入ってしまいました。….私は驚喜しましたよ」ということだ。

肝心の演奏の方は、かっちりとした正統的なバッハを聴くことができた。なんといっても、バッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の原曲の魅力は絶大だ。曲自身の構造がしっかりしているので、誰が演奏しても崩れることがない。ジャズでも演奏されるくらいだから。来年は第2巻の演奏が予定されている。また、是非行きたいと思う。

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次に、2016年5月17日(火)アルゲリッチのコンサートへ行ってきた。       アルゲリッチは1941年生まれのアルゼンチン人ピアニストで、今では75歳になってしまったが、クラシックファンなら誰でも知っている有名人だ。デビュー当時には賞を総なめにしており、プゾーニ国際ピアノコンクール、ジュネーブ国際音楽コンクール、ショパン国際ピアノコンクールで優勝している。

1960年代、主が中学生の頃、親父がアルゲリッチのLPレコードを持っていた。レコードジャケットには20代のアルゲリッチが写っており「えらい美人やな!!」と主は動揺したことを覚えている。白人で若くて美人、これは日本人が圧倒される要素だと思う。 そんなこんなで、その後の彼女の私生活を調べてみると、3人の音楽家と結婚と離婚を繰り返し、それぞれに夫が違う娘を3人産んでいる。細部は知らないが、波乱万丈な人生のようだ。下は若いころのレコードジャケットである。

アルゲリッチ

この日のオーケストラは、高関健指揮の紀尾井シンフォニエッタ東京。初台にあるオペラシティのホールは1632人収容の大きなホールだ。

第一部はモーツアルトのディヴェルティメントニ長調K136と交響曲40番。第二部で武満徹の映画音楽から「ワルツ」、最後にアルゲリッチとの協演によるベートーヴェン「ピアノ協奏曲第二番」である。第二部の冒頭から美智子妃が会場に来られ、大喝采で迎えられた。

演奏された曲はどれも馴染みのある曲ばかりだった。アルゲリッチのピアノは、最初リズムの取り方がグールドのように正確ではなく「違和感があるなあ?!」と思っていたが、曲が進むにつれて耳が馴染んでくるのか、それなりに楽しむことができた。

アンコールにスカルラッティのソナタニ短調K141という曲が演奏された。スカルラッティは、イタリアナポリで1685年に生まれたJ.S.バッハと同時代の作曲家だ。この日のアルゲリッチのスカルラッティの演奏は、バッハと同時代の音楽の感じがせず、ロマン派の曲かと思ったほど崩れた感じがした。下のYOUTUBEのリンクはアルゲリッチの同じ曲の2009年の演奏だが、むしろこちらの方がうまいと感じる。

https://www.youtube.com/watch?v=Gh9WX7TKfkI ←こちらアルゲリッチ2009年

以下は、たまたま開いたチェンバロのJean Rondeauの演奏。こちらの方がバロックらしく感じられ、主の好みだ。(YOUTUBEのリンク)

 

 

 

「最貧困女子」鈴木大介

「最貧困女子」(鈴木大介・幻冬舎新書)を読んだ。

主は、バブルがはじけて20年、長く続くデフレで普通の所得層が貧困層へと低下を余儀なくされ、普通の子たちがセックスワーク(売春や性風俗)をし始めているのかなと思いながらこの本を読み始めた。だが、全く違うのだ。事態はそのような気楽なものではない。どこから手を付ければよいかわからないほど、大きく深刻な問題がある。しかも、なかなか可視化されない。

いやあ、凄い! 日本の現状はこうまで酷いのだと知る。格差の拡大が世界中で問題になっているが、日本は格差の広がりが小さく、比較的まだ平等が保たれていると思っていた。だが、そんな生易しい認識はまったく間違っていると思い知らされた。どうしようもなく、救いがたい「最貧困女子」がいるのだ。

まずは、この本の裏表紙コピーは次のように書かれている。

「働く単身女性の3分の1が年収114万円未満。中でも10~20代女性を特に『貧困女子』と呼んでいる。しかし、さらに目も当てられないような地獄でもがき苦しむ女性たちがいる。それが、家族・地域・制度(社会保障制度)という三つの縁をなくし、セックスワークで日銭を稼ぐしかない『最貧困女子』だ。可視化されにくい彼女らの抱えた苦しみや痛みを最底辺フィールドワーカーが活写、問題をえぐり出す!」

高度成長を経てバブルが終わるころ(20年前)を境に、日本の社会の構造が大きく変容した。爺さん、婆さん、父ちゃん、母ちゃんが居て子供がいるというスタイルから、家族は核家族化した。グローバル競争の掛け声の下、広汎に規制緩和が行なわれ、過当競争が起こり、終身雇用制度は崩れ、非正規雇用を余儀なくされる。従来の父ちゃんが働いて家族を養うスタイルは、父ちゃんの所得の低下で不可能となり、共稼ぎが当たり前となる。当然、子供の出生率も低下する。デフレスパイラルのはじまりだ。

デフレは物価が下がるものの、購買力が上がるため望ましいとするバカな学者もいるが、間違いだ。既得権益を持つ者、金持ちはデフレで購買力が増すことで確かにメリットがあるが、持たざる者にとってさらなる所得の低下は、限界的な生活を強いられることを意味する。社会全体で見ても、社会の持つ潜在成長率を達成できず、資源の遊休が生じる。

こうした不況のなかで、格差は、均等に生じるわけではない。子供を抱えて離婚する女性などが、絶望的な貧困に陥りやすい。社会が変わり、家族の縁が切れ、地域の助けもなく、無知や教育の欠如などが原因で、生活保護などの社会保障を受けることもない。こうした環境で育つ子供は、貧困の連鎖に陥り、学校へ行かない、満足に教育を受けていないため簡単な知識や概念すら理解できない。家を借りたり、就職したり、銀行口座を開いたり、生活保護の申請をしたりと言った事務手続きをすることを思い浮かべることすらできない

人間が十全に成長するためには、衣食住が足りたうえで、なおかつ、親から十分な愛情をもって育てられる子供時代を過ごすことが必要だ。満足な子供時代を過ごすことができないということは、三つの障害(精神障害・発達障害・知的障害)を抱えることにもなりかねない。そうした障害は、職業に就く際やその後の人生で不利に働く。仮にパートナーと共同生活を始めるようになった場合でも、例えば、愛着障害がある場合には普通の関係を築けないことにもなる。対人関係はぎこちないものとなるだろう。

こうした「最貧困女子」は、三つの縁(家族・地域・制度(社会保障制度))がない状態に加えて、三つの障害(精神障害・発達障害・知的障害)を抱え社会の底辺で生きることになりがちなのだが、養護施設、民生委員、ケースワーカーや生活保護など社会保障制度へのアクセスを忌避しがちなためにその存在が社会からなかなか見えない。貧困を抱えながら、たった一人で生きることを選択してしまい、それにより周囲から見えなくなってしまう。

同時に、田舎を捨てて生活費に困ったり、ノーマルな給与だけでは足りない普通の女子たちがセックスワークに参入することにより、障害を持つ「最貧困女子」はパージされ、居場所が狭められる。結果、三大NGの現場(ハードSM、アナル、スカトロ)しか残っていないことになる。歌舞伎町のスカウトに「犬とやったら30万円だって!」といわれた発達障害があるA子の話が哀しい。

これは、「自己責任」なんかじゃない。教育が保障されていない子供が存在するということだと思う。子供の6人に1人は貧困家庭ということだが、社会のポテンシャルを確保する意味からも、機会均等を確保し、社会でその子の面倒を見る仕組みを十分に機能させることが必要だと思う。子供の時に落ちこぼれてしまうと、ハンディキャップを一生背負うことになる、これは本人にとっても社会にとっても不幸だし損失だ。

なお、この本は非常にインパクトがあり、問題の大きさに圧倒される。そのせいだろう、アマゾンのこの本のカスタマーレビューには、他に例を見ないほど多勢の書き込みがある。どれも興味深い力作ぞろいであり、読んでみることをお勧めする。

 

 

 

 

 

「思い通りの死に方」中村仁一 / 久坂部羊

もうそろそろ死にたい、と思っている年寄りは山のようにいる。ただ、死ぬのに痛い目をするとか、恐ろしい目にあいたくないという場合が多いのではないか。それでは、主は薬局で青酸カリを自殺用に売ればよいと考えていた。ただし、これには自殺に見せかけて殺人をする輩がきっと出てくるだろう。そんなことが起こるようでは、青酸カリを薬局で売るわけにはいかない。ちょっと、乱暴すぎ、現実味がないか。

こういう風に思っていたところ、眼からウロコの本を見つけた。いずれも幻冬舎新書であるが、                                     ①「思い通りの死に方」中村仁一 / 久坂部羊                   ②「日本人の死に時」久坂部羊                          ③「大学病院のウラは墓場 医学部が患者を殺す」久坂部羊             ④「大往生したけりゃ医療とかかわるな 自然死のすすめ」中村仁一         の4冊である。まず、この4冊の著者を簡単に紹介すると、中村仁一さんは、1940年生まれ京都大学医学部卒業、病院の院長を経て老人ホームの診療所長をされている。久坂部羊さんは、1955年生まれ大阪大学医学部卒業、読んでいるとパプアニューギニア大使館で医務官の経験があり、主はこの国の赴任中に、もちろん別の医務官だが、診察を受けたことがあり、世間は狭いなあと思う。この10年ほどは老人医療に携わる傍ら、ベストセラー「破裂」などの小説も書かれている。

思い通りの死に方

われわれ普通の市民の側からすると、医療は昔と比べてどんどん進歩し、様々な病気を克服できるようになって科学技術の進歩は有難いと単純に考えているが、これらの本を読んでみると現実は大いに違っており、老人医療を考えた場合、延命技術は進歩したものの、「老いの克服」には程遠い。加齢から生じる老化現象には、現在の医療は無力であり、近い将来に克服できるものでもない。

日本人の寿命は世界一というところまで来ているが、この寿命を迎える年寄りが完全な元気ということはまったくない。老人医療は、病気を治すための医療ではなく、老化による麻痺や機能低下、認知症(老人性痴呆)、腰痛や耳鳴り、さらには末期がんなどであり、今までの医療からは見捨てられてきたものであるということだ。治らない状態の人を医学的に支えるというのが、老人医療であり、重視するのは治癒ではなく、本人のQOL(生活の質)ということだ。

だが、現実の医療の場面では「中途半端に助かってしまう人」が大量生産されており、今の介護危機を生んでいるのは容易に想像がつく。

現状の法律が非常にまずいと思ったことだが、老人の意識がないままに、腹部に穴をあけ栄養をチューブで送る胃ろうをしたり、人工呼吸器をつけて延命をする場合がある。いったんこの胃ろうや人工呼吸器をつける措置が始まると、途中で外すことは死へ直結するために、今の法律では誰も手を下すことができない。医師がこれらの器具を外せば、殺人罪に問われる。この結果、医療費をどんどん使いながら、意識のない患者が延命措置を施され続ける。こうした事態は、過去には起こり得なかったことだ。

マスコミの報道ぶりについて、主もまったく同感なのだが、皆の耳に心地よいことばかりが報道されており、過酷な現実はほとんど報道されない。老人医療についていえば、近い将来、老化が克服され、アンチエイジング技術の進歩で若返りできるような気分になっているが、まったくそうではないことがわかる。

ところで、主は61才。今のところテニスに明け暮れているとはいうものの、さすがにこの年齢になると、体調を常に意識しており、この後の人生をどう過ごして、いかに死ぬかを意識するようになってきた。

4冊の本のうち、「大学病院のウラは墓場 医学部が患者を殺す」だけは、他の本とは趣を異にしており、大学病院の実情や現在の医療制度の問題点など、かなり暴露話的な内容も含まれている。われわれ市民の側からすると、大学病院は高レベルの医療を受けられるところだろうと思ってしまうのだが、現実は単純ではないようだ。

重要な問題点が他にもさまざまに書かれているのだが、診療を受ける側にとってもっとも気になる点があり、一つだけ紹介したい。

患者は、優秀な技術を持った医師の治療を受けたい。だが、医師の側からすると、若い医師は未熟で技量も伴っていない。このため、若い医師が技術をレベルアップするためには、患者を練習台にする期間が必要だ。この両者の二律背反を解決する手立てはない。要は、患者は実験台にならざるを得ない。しかし、不慣れな研修医にはベテランのサポートがあり、最善の体制は取られている。もしもの事故に備えては、医師の技術を云々することなく、医療保険を充実させることだという。

そうした状況を踏まえると、繁殖期(繁殖が可能な時期、女性で50歳、男性で60歳まで)を過ぎると、病院に掛からず治療を施さずに、寿命を迎えるのがQOLが最も高く最善だ。

仮に大学病院で手術してもらうというのであれば、実験台にされる覚悟で行き、術後の厳しい闘病生活に耐える覚悟があるのならば良いのではないか。

 

 

 

「2020年世界経済の勝者と敗者」クルーグマン / 浜田宏一

written on 5th /April /2016

2020年世界経済の勝者と敗者」(ポール・クルーグマン 浜田宏一)

この本は2016年1月に発売されたものだ。浜田宏一氏は、2013年1月に「アメリカは日本経済の復活を知っている」を出しており、似たようなことが書かれているのかなと思ったため、読むのを後回しにしていた。だが実際に読んでみると、本当に今のアメリカ、アベノミクス、EU、中国について起こっていることを生々しく解説しており、非常に面白かった。(当たり前ながら、主が気にする今年2月に発動された黒田日銀のマイナス金利のことは、触れられていない)

2020年世界経済の勝者と敗者

 

クルーグマンは、2008年にノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者だが、この本では二人が同じテーマについて交互に語るという形式で進む。

ところで、クルーグマンのノーベル経済学賞の受賞理由だが、これは「収穫逓増」を明らかにしたところにある。

国際貿易を考える際に従来の古典派の学説は「収穫逓減」が言われていた。この「収穫逓減の法則」というのは、企業が生産高を上げるために、生産コスト(投入)の増加をおこなっても、産出額の増加を上回り、効果は逓減するというものだ。例えば、一定の耕作地で作物を育てることを考えてみるとわかりやすい。作物の面積当たりの収穫高を上げるために、蒔く種の量を増やしても、収穫高は正比例せず、制約により増加高は逓減する。これが古典派の「収穫逓減の法則」である。

ところが、クルーグマンは、企業が産出高を増やす際に、「収穫逓増」が起こることを証明した。すなわち、小さな投資で大きく産出高が増加することを証明した。

これは、素人考えでは当然だろう。従来の古典派の収穫逓減の方が、違和感がありおかしい。大企業はどんどん生産を拡大することで、単位当たりの生産費用を縮小することができるゆえに(言い換えると、規模の利益により)大きな利益を上げることができるのだ。

この本の話にもどろう。消費税の増税が大きなトピックになっている。この本から「消費税10%は絶対不可ークルーグマン」という章を引用しよう。 — 「消費税を上げることは、日本経済にとって自己破壊的な政策といわざるをえません。増税以降、日本経済は勢いを失い始めたように見えます。安倍首相が間違った人々の声に耳を傾けてしまった、ということなのでしょう。安倍首相の周りには、こんなことを吹き込む人たちがいたはずです。『日本経済を離陸させるのに、時速300マイルは非常に危険です。200マイルで行きましょう』しかし、実際には、日本経済を離陸させるには時速300マイルが必要なのです。中途半端な速度で離陸しようとするほうが、むしろ危険・・・飛行機ならクラッシュしてしまいます。これは、日本の経済政策に関する歴史的な傾向ともいえるものです。すなわち、経済が少しうまく行くようになると、すぐに逆戻りするような愚策に転向してしまう。」

もちろん離陸スピードの300マイルとか200マイルというのは、消費税の税率を例えたものだ。日本の経済の回復のためには、消費税をまったく上げずに不況から軽いインフレへと高速で離陸することが必要だ。消費税は経済が過熱した時に、経済を冷やす働きをさせるために上げることが合理的だ。ところが現在の不況下にもかかわらず、財政再建論者は多く、消費税を上げないと世界の信認を失うなどと言ったり、経済回復の兆しが少し見えただけで金融引き締めを主張し始める勢力も多数存在し、こういう人たちが景気回復の妨げになっている。

また、同じ章で、日本経済を上向かせるために最も良い方法は「増税した消費税を一時的に減税すること」だと述べており、5%の消費税を8%へとアップしたが、これを一時的に(景気が回復するまで)減税することだと述べている。

安倍首相ならこれをやれるのではないか!と、淡い期待であるが、これしか方法はないと思っている主は期待している

面白いトピックは他にもいろいろあるのだが、「ヨーロッパの解体」の章も面白い。誰でも知っているとおり、ヨーロッパの多くの国は政治を統合することなく、通貨統合をしてしまったのであるが、これがそもそもの間違いで、「ヨーロッパ経済は停滞とデフレに向かっているようだ」と分析されている。(これまでの日本の姿になるのではと危惧されている)そうした中、欧州連合(EU)にありながら、独自通貨を使っているデンマークの経済運営はうまく行っていると書かれている。一方で、独自通貨を失ったギリシャは最悪の状態にある。(似たような状況のカナダが、緊縮財政と金融緩和を同時に行うことで経済危機を脱出したことに比して、ギリシャは独自通貨がないために金融緩和をできない制約がある)

中国のことも面白く書かれている。統計がいい加減で、信用できないのであるが、すでにバブルがはじけて始めており、マイナス成長になっているのではと書かれている。こうなると、日本への影響が心配になるが、日本は内需が60%あり、中国以外への逃げ道も選択肢としてあること、中国自身にもある程度の社会的な蓄積があるのは事実で、破滅するという極端な心配をするのは行き過ぎという風に読めた。

 

 

 

「こけたアベノミクス!」と喜ぶ声は 本当か

written on 02.03.2016

今年の正月が明けてから、好調だった日本の経済、とりわけ株価が変調をきたしている。昨年の暮れに日経平均株価は2万円を超えていたが、今では1万6千円を割る水準にまで下がっている。ただ、今日(3月2日)は、為替が久しぶりに114円の水準にまで円安になり、終値が1万6千500円まで戻している。

アベノミクス

この株価の低調な理由は、次のように言われている。                        ① 1バレル100ドルを超えていた原油が、30ドル程度までに安くなり、さらにイランの経済封鎖が解かれたため、さらに供給が増えると予想されるが、当面は産油国の減産合意は無理だろうと考えられている。                            ② アメリカは、リーマンショック後の景気後退局面からいち早く景気回復宣言し、利上げを昨年末に実施した。だが、実はアメリカの景気回復は非常に弱いもので、今後の引き続く利上げは実現性が薄いと考えられている。                        ③ 中国景気の先行き不安が、昨年から明らかになり、中国政府の統計への不信感も相まって、マーケットが疑心暗鬼となっている。

このように、世界の懸念は日本にはない。日本は財政赤字があるものの、世界中の国に比べると不安要素は少ない。これが安全通貨と言われる円が、買われる理由になる。

この状況で生じた日本だけでなく世界同時不況を想起させる年初の円高・株安によりマーケットが日銀に追加緩和を催促し、日銀はマイナス金利という新手を打ち出した。これが従来の量的緩和の手法ではなかったために、日銀は、もう金融緩和に量的緩和カードは使えないとマーケットに判断された。本来であれば、マイナス金利はアメリカの利上げとあいまって、金利差が拡大するので円安へと作用するはずなのだが、為替相場は安全資産の円を買う動きとなり、125円ほどの円安水準から112円ほどの円高水準へと大幅な円高になった。

ところで、日本の株は、残高、日々の売買高とも、半分は外人が握っている。当然ながら、円高になるとドルベースで見た株価は上がる(ポートフォリオが上がる)ので外人は確定売りをし、円表示の株価は下がることになる。

主が、面白いなと思うのは、アナリストの中には2016年の為替は円高を予想していた人がいたことだ。アメリカの量的緩和の終了と金利上げについてはずいぶん前から、イエレンFRB議長が言ってきたことだ。実際には利上げをしていないにも拘わらず、このことが言われただけで、新興国からアメリカへと資金の還流が始まり、新興国では通貨が下落し、景気が低迷した。一番わかりやすいのはブラジル、ロシアだろう。また、この実際の利上げが行われるまでの間に、円の通貨安は十分に織り込まれ、125円に近づくほどの円安になっていた。だが、実際の利上げが起きると、さらに円安が進むのではなく、織り込み済みの円安を離れて、逆の円高になったというのだ。この説明が、長いスパンで見た時に合致しているかどうかは、別問題だと思うものの、さしあたって、現在の状況はうまく説明できているように見える。

目を転じると、アメリカでは大統領選挙の予備選挙が始まっている。さすがにスティグリッツなどがこれまでずっと言い続けてきた99%の貧困(格差問題)が、広く意識されているようだ。民主社会主義者を標榜するサンダースは、明確にこのことを言っているし、ヒラリー、トランプの両候補もTPP反対を唱えたり、外国製品への関税アップ、各国の景気刺激策を為替安競争だと批判したり、内向きな政策を競うようになってきたのが気にかかる。

日本は諸外国と比較すると相対的に競争力はある。もちろん、原油安によりオイルマネーが日本の投資市場から引き上げられ、中国景気がハードランディングし、中東情勢が混迷を続け、EUの景気が上向かないという最悪のシナリオをたどれば、日本だけが好景気というわけにはいかないのはそうだろう。

ここへきて、消費税も来年の増税を延期しようという新聞の紹介記事も見られるようになってきた。いっそのこと、何人かのエコノミストが言うように、消費税率を5%へ戻せばよいのだ。もともと、民主党政権の時期に、野田総理が財務省に丸め込まれて決めた消費増税だ。ご破算にすれば、分かりやすい。

ここで脱線を一つ。大前研一氏は、日本が、個人資産を1600兆円も持ちながら、お金を使わないような社会に変わり、これを「低要望社会」と命名しているようだ。しかし、正しくないように思う。なぜなら、日本の個人資産の多くは、高齢者が所有しており、若年層や勤労者層が多くの資産を持っているわけではない。この貯蓄を多く持たない層は、別に低欲望なのではない。貯蓄が多くなく、買うことができないため、有効需要になりえないだけだ。経済学で言う需要とは、お金に裏打ちされた需要を言いう。お金がない人が家を欲しいと思うのは、これは需要とは言わない。もし、若者にも十分なお金の裏付けを与えれば、低欲望ではなく欲しいものはいっぱいある、というところを見ていないと思える。要するに、年寄りから若者へ無理やり資産を移動させるわけにいかない以上、景気を本来の姿に戻し、賃金水準を上げる地道な時間のかかる道しか方法はない。(下は、大前氏の週刊ポストの記事)

http://www.news-postseven.com/archives/20141225_294042.html

最初に戻って、アベノミクスが失敗したのかどうか、成功するのかどうか。答えがでるのは、これからだ。必要なことは、個人消費が、消費増税の前の水準を超え、給与所得が増え、さらに消費が拡大し、企業が投資を拡大する。さらには第3の矢で日本の構造改革を進め、潜在成長率を上向かせる、こうした流れになるかどうかにかかっている。ただ、外人投資家が今、株価をとおして表明しているのは、第3の矢を信用していないということだ。効果が出ない、時間がかかりすぎだと言っている。そんなことは気にせず、まずは、デフレマインドの払しょくができるかどうかがポイントだろう。

 

 

 

グールドが否定したコンサートへ行く 福田進一 禁じられた遊び

2016年2月17日(水)13時30分開演、「楽器の秘密 第3回ギター~禁じられた遊び~」というタイトルのコンサートへ行ってきた。まず驚いたのは、聴衆のほとんどが高齢者であるということだ。平均年齢は70歳くらいだろうか。平日の昼間、普通の勤め人は来ることができないのだと納得する。

ギターの福田進一さんは、今年1月、還暦記念リサイタルでJ.S.バッハのリュート組曲全曲演奏をした日本のクラシックギター界の第一人者だ。主は、バッハ・無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番の有名なシャコンヌが入ったCDを1枚持っている。

ところでこのシャコンヌ、調弦を「落ち着いた音色を求めるために通常のA=442Hzより低めのA=439Hzに下げて演奏」されているのだが、やはり、意外と違和感がある。

この日のコンサートは副題のようなものがついており「楽器の秘密 第3回ギター」となっているように、ステージの福田さんが、演奏の間にギターにまつわる話をするという趣向で、もちろん演奏が良かったのだが、専門家による話は刺激的でなかなか楽しかった。福田進一

では、グールドにちなんだトピックへ行こう。

第1ばんめ。グールドはコンサートへ来る観衆が、自分を安全な場所に身を置き、まるでコロッセオで行われる猛獣と戦う剣闘士を見るように、演奏者を見ていると考えていた。「集団としての観衆は悪だ」と言い、そして「コンサートは死んだ」とも言っては、コンサートを否定していた。彼が31歳の1964年以降は、コンサート会場で実際に弾くことはなかった。グールドがコンサートを否定する理由の一つには、彼の完璧主義があるだろう。彼はコンサートでの演奏の後、観衆の大喝采を受けている最中に「今の演奏には気に入らないところがあった。もう一度演奏をやり直したい」と思っていたという。他にグールドがコンサートに出たくない理由として、コンサートツアーで飛行機に乗ったり、列車で長距離を移動したり、快適とは言えないホテルに宿泊したり、行く先々で慣れないピアノを弾かされるといったことが嫌で仕方なかったという現実は当然ある。

心気症でもあったグールドは、コンサートの会場へ親しい知人が来ることにも強い拒否反応を起こした。グールドが26歳から29歳のころ、恋人であるヴァーナ・サンダーコック(グールドのマネージャーであるウォルター・ホンバーガーの秘書)は、コンサートへ行かないという内容の誓約書を書かされている。グールドにとって聴衆は、邪魔な存在だった。多くの音楽家にとって、神がかり的で素晴らしい演奏をするためには聴衆が必要なことを考えると、グールドは珍しいタイプと言えるだろう。

グールドは、20世紀中にはコンサートは録音メディアにとって代わられ、なくなるだろうと予言していた。この予言は当たらなかったと言わざるを得ないだろう。クラシック音楽のコンサートは、今も毎日のようにどこがで開かれている。しかし、クラシックのコンサートの地位は、紛れなく低下している

また、グールドは、クラシック音楽の演奏の一部がキットとして流通し、リスナーが好きな演奏を組み合わせて、自分の好きな演奏を組み立てるようになるだろうとも予言していた。「いくつかの異なる演奏のレコードを売って、聴き手にどれが一番好きか選ばせたい。そして好きなように組み合わせて、聴き手が自分の演奏を作るのです。聴き手に異なるテンポと異なる強弱で演奏されたあらゆる部分とあらゆるスプライス(切り貼り)を与え、自分が本当に楽しめるような組み合わせをさせればよい。ー この程度まで演奏に参加させるのです」と言っている。もちろん、音楽の断片が、このようにキットとして販売されるということは聞いたことがないが、今やパソコン上で同じことをしているマニアはたくさんいる。

クラシック音楽を考えると、世界中でそうだと思うが、ゴールデンタイムにテレビでクラシック番組を放送するというようなことは、1900年代と比べると明らかに減っている。クラシック音楽を聴く人の数そのものが減っていると思う。CDショップでは、往年の巨匠たちの演奏の焼き直しばかりが相変わらず売られているし、家庭へのアコースティックピアノの普及率も下がっているのではないか。昔と比べると、クラシック音楽で身を立てるというのも難しいはずだ。それはとりもなおさず、現在のクラシック音楽自身は徐々に世間から顧みられなくなりつつある。

クラシック音楽の業界の中だけで、クラシック音楽を有難がっているようではだめだ。

第2ばんめ福田進一さんの話に戻るが、第1曲をフェルナンド・ソルの「モーツァルト『魔笛』の主題による変奏曲」で始めたのだが、1曲目ということかかなりミスタッチが目立っていた。ギターは左手でフレットを押さえ右手で弦をはじくのだが、右手で弦をはじく前に左手の準備ができていないとかすれた音が出る。この曲は、最初にテーマがあり、変奏曲が続くのだが、変奏が進むにつれ同じ拍の中の音の数が増え、曲の進行につれかなりの速度になる。ここでうまく音が出ず、荒っぽい演奏となる。この日のミスタッチは、曲目をこなすにつれてなくなっていったように思う。 ここで、グールドのテープのスプライス(切り貼り)を思い出した。当然、福田さんがスタジオ録音を行う際には、気に入らない部分をスプライスするのだろう。録音されたCDにそのようなミスタッチは当然ない。

ただ、1932年に生まれたグールドは、ミスタッチの少ない演奏家だったにも拘わらず、この切り貼りの先駆者であったのは間違いない。当時、15年以上レコーディングプロデューサーを務めたアンドルー・カズディンの書いた「アットワーク」を読んでいると、グールドは、ミスタッチを消すためにスプライスをしたのではないことがわかる。彼は音楽の細部と全体の両方を深く理解しており、全体を完全なものに仕上げるために、細部についても妥協しなかった。細部にフォーカスを当てていながら、同時に、全体を見通す(見失わない)というのは常人にはかなり困難なことだと思うが、グールドはこれができた。

グールドがブリュノ・モンサンジョンと作ったバッハシリーズのビデオは、そのあたりがよく出ている。グールドがバッハを曲の構造をディープに解説しながら同時に弾いてみせるのだが、喋る方と弾く方どちらも破綻することなく実に見事なものだ。

 

本当の姿がわかる「グレン・グールド アットワーク」アンドルー・カズディン

「グレン・グールド アットワーク/創造の内幕」(アンドルー・カズディン/石井晋訳 音楽の友社)

アットワーク_

写真はアマゾンから

本書は、1989年にアメリカとカナダで同時に出版されたものを、1993年に日本語訳で出版したものだ。すでに新刊は絶版となっているので、中古を買うしかない。日本語の副題は「創造の内幕」となっているが、英語では”Creative Lying”であり、直訳すれば「創造的な嘘つき」ということになり、書かれている内容が端的にわかると思う。翻訳は品質が高く、非常に読みやすかった。訳者のレベルにより、原書の内容が正確に読者に伝わるかどうかが左右されるが、この訳者のように訳していればとつい嘆きたくなる本もなかにはある。

それはともかく、グールドが亡くなったのは、1982年10月4日で、死後たくさんの書物がさまざまな角度から出版された。しかし、グールドと実際に長く身近に接した人物が描いたものは極めて少ない。ほとんどの本は、直接取材して聞き取ったものと言うより、グールドの演奏や、発言、著作を元にまとめられている。しかし、この本は、1965年から1979年までレコード・プロデューサーを務めたアンドルー・カズディンが書いているため、他の本にはない説得力のある、臨場感のあるものだ。

グールドは親しくなった友人であっても、異性関係を尋ねられるといった些細なことや、演奏に批判めいたことを言われるだけで、直ちに関係を断ってしまうのが常だった。このため、生涯孤独と言っていいほど親友がいなかった。そうしたグールドの性癖により、プロデューサーが何人も交代している中、アンドルー・カズディンは15年もの長い間40枚を優に超えるレコードをプロデュースしていた。だが、やはり、1979年にあっさり、それまでの関係を切られてしまう。15年も一緒に仕事をしてきた仲間は、「ありがとう」の一言もなしに関係を終わらせてしまう。

この本を読んでいると、「グールド伝説」や「グールド神話」は、グールド自身の演出だったと気付かされる。グールドは、自分のイメージが望む内容になるように、世間に流す情報をコントロールし、きわめて選択的に発信していた。彼はサンタヤーナの小説「最後の清教徒」の主人公に自分を重ね、「最後の清教徒」だとよくいっていたが、実際の彼は自己愛の強いのナルシストと言うべきで、「清教徒」のように自分を見てもらいたかったと考えるのがよさそうだ。

靴下の話も興味深い。カズディンはこの本の中で、グールドが必ず片方は濃紺で、もう一方は灰色か黒の靴下を履いていたことを指摘している。色が同じかどうかをよく見もしないでそのまま履いてしまうというより、確率を考えると二回に一回は揃いの色になって然るべきだと述べ、わざと違う色の靴下を履いていたのではないかとの疑問を呈する。

ただ、一方でこの本は、グールドの天才(異才)ぶりも具体的に記述している。ここでは一つだけだが、絶対音感にまつわる話を紹介しよう。 グールドが自分の車を運転しながらラジオを聴こうとしてスイッチを入れると音楽をやっていたという。少し聴いただけでその音楽はよく耳にする馴染みの曲だと気付いたのだが、誰の何という曲だったかはどうしても思い出せない。そうして悪戦苦闘しているうちに演奏が終わってしまった。そしてラジオのアナウンサーが曲名と作曲者を言ったとき、理由がはっきりする。その日ラジオで流されていた演奏はその曲をアレンジしたもので、しかも調性が原曲とは違っていたのだ。カズディンは次のように書いている。「こうしたことは『普通の』音楽家なら、仮にグールドと同じ経験をしたとしても、第一に曲名だってちゃんと分かっただろうし、ただ楽しんでいただけだろうから、別の調性で演奏されていることにはたぶん気づかなかったと思う。つまりは、問題など起こるはずもなく、ショックを受けることもなかっただろう。そう考えると、この話はなかなか興味深い」