お客も楽団員も演奏の最後で《発散》できれば良いと思っている?? ー コンサート3つへ行って思うこと。 

  • 読響交響楽団  5/31 名曲シリーズ 6/14 定期演奏会
  • 7/3 弦楽3重奏による『ゴルトベルク変奏曲』

最近のことだが、親爺は安いチケットがあるとあちこちのコンサートへ出かけている。最近行った三つのコンサートのうちの二つは、読売交響楽団のサントリーホールの演奏会で、有名な交響曲「新世界」交響詩「フィンランディア」と鳥羽咲音さんのエルガーのチェロ協奏曲、現代曲のウェーベルンとシェーンベルク、ダン・タイ・ソンのモーツアルトピアノ協奏曲である。三つ目は、市ヶ谷ルーテル教会であった弦楽3重奏の「ゴルトベルク変奏曲」である。(後に曲目を貼り付けました)

コンサートホールへ出かけていつも思うのは、生で聴く楽器の音は素晴らしいということである。ピアニッシモからフォルテッシモへと、音がひずむことなく移行する。鳥羽咲音さんのエルガーのチェロ協奏曲を聴きながら、「独奏チェロは、こんな素晴らしい音色で、オーケストラに負けずに演奏するのか!」と思うほど朗々と響いていた。

失敗したのは、ピアノのダン・タイ・ソンである。親爺は、サントリーホールの値段の安い舞台の後ろの席に座っていた。ところが、ピアノは舞台の最前方に置かれ、正面の観客によく聞こえるように屋根を観客席の方に向けてあげていた。このため真後ろの席では、音が小さいのだった。

こうした生演奏を聴いて、いつも思うのは、曲の最初と最後だけは聴衆の心をしっかり掴み、フィナーレで爆音・轟音が鳴り響くトゥッティ(全奏)になり、圧倒された観客が拍手大喝さい、ブラボーの叫びを送るのがお定まりの約束だと思う。言い換えれば、似たような奏法で変化のない長い演奏が続く。曲の中間で多くの観客は退屈している。そして、いよいよクライマックの号砲をさりげなく挟んで、フィナーレが始まる。「終わりよければ全て良し」のポリシーでコンサートは演出されている。 こんなことじゃ、クラシックのコンサートは流行らないよな!

同時に、曲の表現が、音量の変化、耳をそばだてないと聞こえないようなピアニッシモと鼓膜が破れそうになるフォルテッシモの対比を乱用しすぎだ。たしかにフォルテッシモは、観客の度肝を抜くが、何回も繰り返されるので慣れてしまう。もっと、メロディーを引き立たせ、変化をつけないと駄目な気がする。これはメロディーを担当する楽器が頑張るというより、オブリガード(助奏)に回る楽器が、存在のレベルをぐんと下げることだ。両者をバランスよく、楽器が交代しながら響かせる。目立たせたい・強調したい旋律を観客に分かりやすく聴かせる。そして主従をすばやく交代すべきだ。どの楽器も自分の役目を精一杯果たそうと頑張りすぎ、目立とうとし過ぎだ。楽譜通り再現すればいいというものじゃない。演劇を見なさい、映画を見なさい。古典を忠実に再現するより、時代に合わせてリメークし、お客に再発見させることだ。

クラシック音楽のつまらなさの最大の原因は、音楽界の間違った思想にあると親爺は思っている。クラシック音楽界の重鎮たちは、口をそろえて、作曲家の書いた楽譜を忠実に再現しなくてはならぬという。作曲家の時代背景を研究し、当時の楽器を使い、楽器の調音(チューニング)も、平均律でなく純正律でやろうとさえする。こうなると、リスナーを楽しませる観点を失った狂信的な原理主義である。

カラヤン大先生の発言は分かり易い。『演奏者だけが盛り上がって聴衆は冷めているのは三流、 聴衆も同じく興奮して二流、 演奏者は冷静で聴衆が興奮して一流。』ヘ ルベルト・フォン・カラヤン

その点、グールドは音楽の演奏にあたって、楽譜の改変することを含めて、何通りもの演奏を試して、どうしたら最良の演奏になるかを考えていた。つまり、作曲家の思いを忠実に再現しようとすることは、たった一つの最善の演奏を探ることだが、グールドは曲のアプローチは何通りもあると考えていた。また、音楽を学ぶ学生たちに「余計な固定観念を植え付けられてしまうから、曲の練習をする前に、他の演奏者の演奏を聴いてはダメだ。」という意味のことを言っている。

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以下は、実際のコンサートの感想である。

5/31のシベリウスの交響詩「フィンランディア」は、10分足らずの曲で、知っているかなと思っていたが、あっさり終わってしまう。ドボルザークの「新世界から」は耳慣れているというものの、聞き覚えがあるのは、1楽章と最終楽章で、途中は退屈である。エルガーのチェロ協奏曲は、チェロの響きが素晴らしかった。どの曲も、始まりと終楽章だけが耳に残り、クライマックスで盛り上がって観客の拍手大喝さいとなる。

6/14のウェーベルン「夏風の中で」、シェーンベルク「交響詩ペレアスとメリザンド」は、今となっては印象がなにも残っていない。ダン・タイ・ソンがピアノを弾いたモーツアルト「ピアノ協奏曲12番」で観客は大喝さいしていたが、親爺には、ダン・タイ・ソンってこんなものなの?という感じで、拍子抜けである。

7/3の弦楽3重奏による「ゴルトベルク変奏曲」は、80分かけて楽譜どおりの繰り返し(反復)をしているのだろう、グールドは反復を大胆に省略し、旧録、新録とも40分程度で弾いており、旧録は疾走しながら、新録は瞑想、祈るように弾くのだが、ダラダラ繰り返すことなく、凝集されている。

おしまい

『アイスランドのグレン・グールド』 ヴィキングル・オラフソン「ゴルトベルク変奏曲」リサイタル

(2023/12/6 一部修正しました。)

2023年12月3日、サントリーホールでヴィキングル・オラフソンのゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ってきました。ネットで調べると、オラフソンは、1984年アイスランド生まれで、2008年にジュリアード音楽院を卒業しているそうです。

なかなか良いリサイタルでしたが、親爺は、グールドおたく、グールド推しなので、グールドファンでない人には申し訳ない内容になるとおもいます。天才と比べてどうするんだ、という批判はあるでしょうが感じたことを忖度なしに書いてみたいと思います。

やはり一番は、何と言っても演奏時間がとても長い、長すぎる点です。グールドはゴルトベルグ変奏曲をデビュー時と、亡くなる直前の2回録音をしています。ビートを効かし、みずみずしい演奏をした1回目が38分で、観念的で沈思するように弾いた2回目が51分でした。これに対して、オラフソンは(CDによると)反復を楽譜どおりにして74分かかって弾いていました。1 演奏会場のロビーには、「演奏時間約80分。途中休憩なし。」と掲示されていました。これだけ差があるのは、グールドは、1回目の録音では全曲で反復をしていませんし、2回目の録音では30曲ある変奏曲中の13曲の前半だけを反復しているにすぎないからです。このため、グールドの演奏を聴き慣れた耳には、「何度もリピートしないで!次へ行って。」と思います。

このオラフソンは、29変奏と30変奏『クオドリベット2』のところで盛大なクライマックスを持ってきて、フォルテッシモでガンガン弾き、32番めの(最後の)アリアをソフトペダルで音量をぐっと抑え、静謐で穏やかな印象でこの曲を閉じました。このために、観客に極めて大きな感動を与えることに成功したと思います。

親爺が思うに、このゴルトベルク変奏曲は、終曲のアリアの一つ前の『クオドリベット』が、それまでの格式ばった印象を解き放ち、俗謡「キャベツとかぶ」のメロディーによって気安く楽しい雰囲気へと一気に変わります。そして、最後のアリアで再び、天国のような美しい歌声で終わりました。オルフソン、なかなか良かったです。「終わりよければ全てよし」と満員の観客から感動の大喝采を浴びていました。

ここで、他の演奏家の演奏時間もざっと調べてみましょう。ファジル・サイは79分、ラン・ランは90分、バレンボイムも90分、アンジェラ・ヒューイットの1999年録音は、79分、2015年の録音は82分、親爺が好きなシュ・シャオ-メイは85分、辰巳美納子(チェンバロ)は80分、グスタフ・レオンハルト(チェンバロ)は、79分、カール・リヒター(チェンバロ)は、79分です。親爺が知るなかで唯一、高橋悠治(1938年 -)は、1976年に37分で演奏しています。つまり、高橋悠治を除くピアニストは、楽譜どおりにせっせと反復をしていると思います。高橋悠治の演奏もいいですね。

こうしてみると、グールドはあらゆる演奏において、パイオニアであり、かつ変人だったのは間違いがないとして、繰り返しをしていないピアニスト(兼作曲家)に高橋悠治がいるわけですが、この人はグールドと6歳違いのほぼ同世代で、小澤征爾、武満徹、トロント交響楽団と一緒に活動していた時期があり、おそらく、グールドとも会っていただろうと思います。

グールドは、「コンサートは死んだ」といい、演奏会の価値を否定しましたが、実際に会場で聴く生の音の心地よさを、自宅で再現することはなかなかできないと思います。アコースティックな電気をとおさない響きは、何にも代えがたいと思います。

コンサートの開場の前の、群衆としての観客の多さを見て、グランドピアノというのは、1台でこの2000人以上の観客に音を届けられるんだと感心するだけでなく、ピアニストが、この人たち全員に音が届くように弾くのは、ある種、目の前で弾くのとは違った技術を要求されるだろうと感じました。

開場を待つ観客が集まったところ。こんなにたくさんの人にピアノの音が届くんですね。

オラフソンは、すべてを暗譜で弾いていました。そのため変奏の切れ目で、一音をずっーと伸ばしたまま響かせ、次の変奏へ自然にうつる工夫をしていました。おかげで、楽譜のページをくるインターバルの違和感がなくなったと思います。

どのピアニストもグールドのように弾けないんだなと思うのは、グールドは、どれだけ弱く小さい旋律を弾いていても、一つ一つの音が、はっきり主張しています。早く弾いてもそうです。一音一音が粒のように分離しています。ところが、他のピアニストはスケール(音階)などを速く弾くと、ダラダラっと塊になってしまって、聞き分けられません。

グールドは、デタシェ、ノンレガート、スタッカートとレガートを弾き分けます。デタシェは、ノンレガートと同じで、音を切ることをいいます。スタッカートはもっと速く切ります。

グールドの演奏の基本はノンレガートにあります。ノンレガートには、緊張を和らげる効果やユーモラスな効果があります。レガートは美しく感動を呼びますが、それだけでは、どうしても平板になりがちですし、聞き手の緊張はいつまでも続かないので飽きてきます。グールドは、このノンレガートとレガートをバランスよく弾け分けます。しかも、ソプラノ、アルト、バリトン、バスの声部をレガートとノンレガートを交代させながら弾きます。 しかし、ノンレガートを使って、ずっと弾けるピアニストは、音の粒を揃えるのが難しいために、なかなかいないようです。

オラフソンは、ダンパーペダルを使いまくっています。最初から最後まで、あらゆる場面で細かく、激しくこのペダルを使っています。ピアノ(弱音)の小さい音を表現したい時には、ソフトペダルもずっと踏んでいました。ダンパーペダルを押し下げると、鍵盤から指をはなしても音を伸ばすことが出来ます。

グールドの演奏の特徴は、ペダルをほとんど使わないところにあります。つまり、音を延ばしたいときには指を持ちかえながら、鍵盤を押さえつづけるというピアノ演奏の基本にあります。そうすることで、音が濁らず明晰に聴こえる効果があると思います。

オラフソンは、超速でパッセージを弾くことができ、見事にリズムを保っていました。ただ、前に書きましたが、音がつながって聴こえ明晰ではありません。メロディーも高音ばかりが目立って、ときどき低音や内声のメロディーも聴こえますが、ポリフォニーという感じがせず、声部が交代している感じがしません。グールドは、いつでもつねに声部の対比を楽しませてくれます。

終演後、観客が熱狂的に拍手と歓声を送りました。ですが、オラフソンはアンコールの演奏をしませんでした。何度かステージにでてきた最後に、「日本へきてこのように盛大な拍手をもらえるのはうれしいですが、このような素晴らしい曲を弾いた後に、他の曲を弾くのはできません。」といった意味を言っていました。会場もすぐに明るくなり、観客は帰り支度をしなければなリませんでしたが、アンコール曲の演奏を聴きたかったという人は多いと思います。

サイトから、第1番の変奏だけを聴くことが出来ます。

おまけ

実は、翌日(12月3日)に葛飾シンフォニーホールの公演では、オラフソンのゴルトベルク変奏曲だけでなく、清水靖晃とサキソフォネッツ(5サキソフォンと4コントラバス)によるこの曲の演奏会があったのです。これを親爺は、チケットを買う際にうっかり間違えてしまったのです。もったいないことをしました。(涙、涙)

おまけ2

ファジル・サイのゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ったときの記事です

おまけ3

辰巳美納子のゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ったときの記事です

おしまい

  1. グールドは、「1955年には、32曲全曲反復なしのA-B-(なお、1959年のライブ演奏の録音では、A-B-が30曲、AAB-が2曲でした。)でしたが、AAB-は1981年には13曲となり、その分だけでも全体の演奏時間は長くなっています。ちなみに、どちらのグールドの演奏にも、後半の反復をするA-BBあるいはAABBの形式は採用されていません。」(http://wisteriafield.jp/goldberg/#part13ch1325 から引用させてもらいました。) ↩︎
  2. クオドリベット(Quod libet) ラテン語で「好きなものをなんでも」という意味で、大勢で短いメロディの歌を思いつきで歌い合うことです。 ↩︎

ゴルトベルク変奏曲 終わりよければすべて良し ファジル・サイ リサイタル

2022年1月29日、ファジル・サイの J.Sバッハ、ゴルトベルク変奏曲のリサイタルに墨田トリフォニーホールへ行ってきた。

ファジル・サイは、トルコ、アンカラで1974年生まれなので、49歳ということになる。トルコ人と言うことで、ドイツ正統派とみなされないハンディキャップがおそらくあると思うのだが、彼の演奏は明晰で明るく、構成が明確で非常に好ましい。

親爺は、バッハのオリジナルがヴァイオリン独奏で演奏される《シャコンヌ》という有名な曲をピアノ用に編曲したCDを聴き、なかなか良いと思っていた。

また、彼は作曲もやり、ブルーノート東京でジャズもするようだ。

スタンウェイ。休憩時は調律していました。

コンサートの印象なのだが、ゴルトベルク変奏曲は、「やはりグールドの演奏はうまいなあ」というのが基本にある。以下は、音楽家でもない親爺の気づいた感想なので、間違いもあるかもしれない。

ファジル・サイは、この曲を1時間かけて演奏したのだが、グールドは40分~50分くらいで演奏する。グールドは反復記号をかなり無視している。楽譜通りに反復すると、くどいなあと感じることもある。グールドは、遅い曲はより遅く、速い曲はより早く弾く。

ファジル・サイは、グールド以上に、バッハをバッハらしく、理知的で数学的に弾くのではなく、まるでロマン派の曲のように感情をこめて弾くのだが、そこは共通するなあと思った。

開演前の様子。1800席は満席でした。

一番違うのは、他のピアニストもそうなのだが、内声がグールドほど明確に聞こえないことだ。つまり、一番高い旋律と低音の伴奏だけになり、内声は低音部と一緒になっているように聴こえる。グールドは、ソプラノ、アルト、テノール、バスがそれぞれ別個に主張する。(よくわからないが、グールドは声部が違う場合、優先順位をつけ同時に打鍵していないのだろうと思う。)

また、多くの場合、グールドのようにデタシェ(スタッカート)とレガートを使い分けない。グールドは、デタシェが基本で、これは《弛緩》であり、レガートは《緊張》だと考えているので、レガートはここぞというところに使うために取っておく。しかも、そのデタシェとレガートを異なる声部で同時に使い分けながら弾くことが出来る。普通のピアニストは、基本レガート一本なので、曲想を変えるのは音量と速度の変化だけなので、飽きてくる。

ペダルの使い方も大分違うのではないか。グールドは、ペダルをあまり使わないのだが、普通のピアニストは曲が盛り上がってくると、ダンパーペダルをじゃんじゃん踏み音を延ばす。当然音は濁ってくるのだが、簡単に迫力を出せる。 グールドは逆に、密やかさを出すために、逆に3本の弦が2本しか鳴らないようにするソフトペダルを多用する。

グールドは装飾音符を装飾音符と感じさせずに弾いていることが多い様に思う。第1曲のアリアからして、グールドは楽譜通りのメロディーに弾いていないのだが、こちらの方が非常に自然な解釈だ。ファジル・サイは、基本、楽譜通りに弾き、トリルなどはトリルらしく、華やかに見事に演奏するのだが、グールドはトリルでも装飾音符と感じさせずに自然に弾くことが多いと思う。

曲全体の解釈も大分違っている。最後の数曲はもうすぐ終わりという感じで、変化球が投げられ、徐々に盛り上がっていく。ファジル・サイは、最後の1曲前であるクオドリベットで最高潮に達するのだが、最後のアリアもその最高潮を維持する。グールドの場合は、この《ゴルトベルク変奏曲》は、《円環の曲》というだけあって、最初のアリアに戻るように弾くので、密やかに静かに閉じるのだが、ファジル・サイは、最後のアリアをクライマックスのように弾く。

このクオドリベットは、ドイツの俗謡が2曲入っていて、この曲だけがこれまでのような格調の高い雰囲気から砕けた気安さに満ち、曲想が違う。ある意味、この曲でゴルトベルク変奏曲は、一気に弛緩し、最後のアリアで最初の地点に戻るのだが、これをグールドは、平穏で、静謐なアリアへ戻ろうとし、ファジル・サイは、最初とは違うクライマックスを持って来たわけだ。

ファジル・サイは、ずっと楽譜を見ながら弾いていた。このため、変奏の変わり目に楽譜をめくることがあるのだが、CDで聴くときのようにインターバルが揃わず、わずかに興が削がれる時がある。もちろん、生の演奏がCDの録音のように完成度が高くならないのは、当然なのだが、すべてが暗譜であれば、インターバルもより演奏者の意図したものになり違うかもしれない。

この日、このホールは1800席あるのだが、いくらコンサート・グランドと言われるピアノがデカい音を出せるとしても、300人くらいの小ホールがふさわしい気がしなくもない。

この日の観客の反応はとてもよく、近くに座っていた女性が「まるで教会で聴いているようで、目をつむりながら感動していた。」という声が聞こえて来て、そのとおりだなと思った。

第2部では、シューベルトのピアノソナタが演奏された。全体として、とても良いコンサートで、観客は演奏が終了した後も盛大な拍手がなり続け、スタンディングオベーションする外人や日本人も多かった。

錦糸町のイルミネーション

そのアンコールを期待していた親爺なのだが、ドビュッシーの月の光とショパンのノクターン遺作の2曲を演奏してくれた。これまでの曲とガラッと雰囲気が変わり、どちらも凄く素敵で、こうした感じが生のコンサートの良さなんだと実感する。

2曲終わったところで、早く帰れと催促するように、ホールの照明が明るくなってしまった。もっと聴きたかったのに。

おしまい

加藤訓子プロデュース スティーブ・ライヒ・プロジェクト行ってきた

親父は最近まで、マリンバなどは鍵盤楽器だと思っていた。しかし、それは間違いで、正しくは打楽器なのだそうだ。この打楽器だが、非常に良い音がする。それもパイプオルガンかというほどすごい低音まで出るし、高音は、非常に優しい音がする。和音も出せるし、その響きがとても良い。荒々しく叩くと打楽器なんだと納得する。楽器を叩くスティック(マレット)も何通りかあるようで、それで音色も変えられるらしい。

目黒パーシモンホール
当日の様子 舞台にマリンバが並んでいる。ほぼほぼ1200人収容のホールは満員だった。

最初に、加藤訓子さんを知ったのは、2017年リリースの「J・Sバッハ マリンバのための無伴奏作品集」というアルバムが、Linn Recordsの年間ベスト・アルバムに輝き、日本の第10回CDショップ大賞クラシック部門を受賞したというニュースだった。

所謂、オリジナルの楽器ではなく、違う楽器で演奏するキワモノ演奏が親爺は好きだ。オリジナル楽器より、演奏者の楽曲の解釈がむしろ、ストレートに反映されるように思うからだ。

そのバッハのアルバムはなかなか良かった。ライナーノーツを読むと、「エストニア、タルトゥ、ヤンニ教会にいる。相変わらずしつこい私は納得のいくまでレコーディングができることを幸せに思う。勿論苦しいのだが・・・」とあり、録音日を見ると、2015.9.1-11と2016.3.14-24とかなり長い日数をかけて録音しているのが分かり、「ああ、このひとはグールドと同じタイプなのかもしれない」と思ってしまった。というのも、グールドは、気が済むまでテイクをとり、つなぎ合わせて作品を完成させていたからだ。

この作業は才能がないと難しいだろうと思う。似たような録音の微妙な差を意識して、一つの目標を目指さないとならないと思うが、人間、細部にこだわると全体を見失いがちになる。 それに加えて、この人はSACDというハイレゾ録音を多く出しており、よい音で聴いてほしいと思っているに違いない。

渦中のコロナ禍で、NHKなどマスコミは、実際のコンサートではなく、「オンラインの演奏会を聴きましょう。」と無責任なことを言うが、馬鹿を言っちゃいけません!!コンサートホールで演奏される生の音を、通信回線から出てくる音が代替できるなんてまったくの絵空事である。

そんなで、ライヒの音楽が生で聴けるとあって、今回のコンサートへ行ってきた。スティーブ・ライヒ(1936~)を補足すると、ウィキペディアには次のように書かれている。

「ドイツ系ユダヤ人移民の父親と東欧系ユダヤ人の母親の子として生まれる。最小限に抑えた音型を反復させるミニマル・ミュージックの先駆者として、「現代における最も独創的な音楽思想家」(ニューヨーカー誌)と評される。同じ言葉を吹き込んだ二つのテープを同時に再生し、次第に生じてくるフェーズ(位相)のずれにヒントを得て、『イッツ・ゴナ・レイン』(1965)、『カム・アウト』(1966年)などの初期の作品を発表。」

要するに、ライヒは現代音楽であり、ジャズにも近いんですね。そういえば、親爺はパットメセニーというジャズ・ギターのミュージシャンの演奏するCDを1枚持っている。

長い前置きはこれくらいにして、コンサートの様子を書きたい。

下は、開演前にホワイエという観客席と入り口の間にある場所で手拍子によるボディパーカッション演奏の一部である。彼らは、この後、舞台で演奏してくれる。この日は、ほぼ満員の観客だったし、とても楽しめた。

コンサート本番では、前半3曲、後半3曲の同じ音型を繰り返すミニマルミュージックが演奏されるのだが、曲ごとに演奏者の人数が変わり、使われる楽器も変わり観客を飽きさせない。

何といっても、音がいいのだ。前にも書いたが、パイプオルガンやコントラバスが出すような低音と、非常に心地よい高音、たくさんのマリンバやビブラフォンのばちで音をだす楽器(マレット楽器と言うそうです。)が、最大、総勢20人ほどで演奏される。そうした曲が最後に終わる一瞬、残響がホールに、唸りながら、歪ながら、反響するのだが、何とも言えない心地よい独特の雰囲気がある。そして、その後、盛大な拍手が来る。

コンサートが終わった後も、盛大な拍手がずっと鳴り止まず、席を立って帰ろうとする観客がいないほどだった。親爺が行ったコンサートでは、最近にないヒットである。

本格的なオーケストラによる交響曲などのコンサートや、独奏楽器のコンサートなども良いが、この日の演奏は、肩がこらない。ミニマル音楽ということで同じフレーズを繰り返すのだが、もちろん飽きないように徐々に変化する。いろんな仕掛けもある。そんなこんなで、その変化を観客も楽しめるのだろう。

おそらく、加藤訓子自身がアルバムを作る際には、一人で多重録音をして完璧なものにするのだろう。しかし、ステージでそれを再現するのは難しい。このようなミニマルミュージックは、大勢が上がったステージが、迫力や変化を出すことに向いているような気がする。

また、この成功は、プロデューサーである加藤訓子の才能に、人にはない尖ったものがあるということだろう。

(2022/12/11 一部修正しました。)

おしまい

グールドのプロコフィエフ「戦争ソナタ」を聴いて書き加えました。《読響 小林愛実さん ショパンピアノ協奏曲1番を聴いてきた》

読響のHPから

第613回定期演奏会 2021 12.14〈火〉 19:00  サントリーホール

12月14日、2021年のショパンコンクールで4位入賞された小林愛実さんのコンサートへ行ってきた。これがとても良かった。

このコンサートは、サントリーホールで行われた読売交響楽団の定期演奏会で、指揮者が2回、ピアノ独奏者が1回、コロナの影響で外人から日本人へと変わった。写真は、指揮者の高関健と、小林愛実さんである。

小林愛実さんは、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏したのだが、見事なリズム感、説得力のあるアーティキュレーションとその強弱、オーケストラのトッティの中での超絶的なスケールの上行と下降のみごとさなど、どれをとっても完璧な演奏だった。

涙腺の弱くなってきた主は、長いオーケストラの前奏のあとに入ってくるピアノに、思わず涙が出てきて困った。第3楽章の本当の最後のフィナーレの部分のピアノにも泣きそうになってしまった。年齢のせいで、涙腺が緩み、しょっちゅう涙を流しているとはいうものの、コンサートホールで、こうした経験はさすがに初めてだった。

ショパンのこの曲は、スラブの民族音楽の雰囲気が色濃くあり、それが心情的に訴えてくるのかも知れない。理知的なバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったドイツ主流派と、そこが違うところだろう。

彼女は、前半のプログラムの2曲目、休憩の前に登場した。彼女の演奏が終わった後、観客の拍手がいつまでも鳴り止まずに、アンコールで小品を1曲(ショパン前奏曲 Op.28 第17番変イ長調)を弾いてくれた。最近のコンサートでは、アンコール演奏がないことが多いように感じていたので、これも珍しい。

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余談だが、主は、NHKが1985年に放送したショパンコンクールでブーニンが優勝した時の番組を見たのがきっかけで、クラシック音楽を聴き始めた。ちょうど、レコードがら、CDへ切り替わる時期だった。

主がハマっているグレン・グールドは、「やがてコンサートはなくなるだろう」と言った。彼は、コンサートホールの聴衆を、闘牛を見に来た観客に例え、演奏者が失敗するのを期待していると考えていた。同時に、完璧主義者のグールドは、見事な演奏に聴衆から熱狂的な拍手喝采を受けている際に、「今の演奏には、マズいところがあった。もう1度やり直したい。」と思っていたらしい。

あがり症と完璧主義者的性格によって、彼はコンサートから32歳の時にドロップアウトし、スタジオに籠ってレコード制作をするようになる。そこでは、何度でも気に入るまでテイクを取り直せる。

そうしたグールドは、技術の進歩により、リスナーが音楽の一部分、例えば、だれだれの演奏(キット)と、だれだれの演奏(キット)をつないで、自分だけの好みの演奏を作って楽しむだろうといったことも言っていた。こうした実験的な試みは、パソコンを使ってデスクトップミュージックという分野で、確かにそうしたことができる時代になったが、一般のリスナーはそこまではしないし、コンサートはなくならなかった。

生演奏の、生の楽器の素晴らしい音は、自宅で簡単には再現できない。コロナ禍で、マスコミはテレワークと同様、オンラインで音楽を楽しめるとしきりに流していたが、自宅のスピーカーでコンサートホールの音が再現できるなど、ちゃんちゃらおかしい。 まして、遠隔で、合奏(アンサンブル)できるみたいなことも言っていたが、それをコンサートホールと同様の音質でわれわれが聴けるとはとうてい思えない。

完成度の高さでは、録音物の方が高いのは間違いないだろうが、やはり、生の音は良い。弦楽器が実際に音を出す前には、一瞬前に弦と弓がこすれるかすかな音がするし、クラシック音楽で使われるどの楽器でも、アコースティックな響きは非常に心地よく、録音物では表現できない良さがある。 そのため、コンサートの意義はなくなっていないのではないか。

サントリーホール

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プログラムの後半には、高関健指揮で、プロコフィエフ(1891-1953)の交響曲第5番が演奏された。主は、このプロコフィエフという作曲家の交響曲を初めて聴いた。パンフレットの解説によると、革命を嫌気して西側へのがれたプロコフィエフだが、結局、革命後のソ連に戻ってくる。このソ連時代に書かれた曲で、旋律がニュース映画に出てきそうで、いかにもソ連的だ。

ソ連の国旗のデザイン

演奏するオーケストラの団員数は、ショパンの協奏曲と比べるとずいぶん多い。特に、後列の打楽器奏者は、5人ほどいたはずだ。彼らが銅鑼やらシンバル、大太鼓などを鳴らすので、フォルテッシモでは、超絶、大迫力である。

こうした曲をCDやストリーミングで自宅で聴くのは、大掛かりな再生装置が必要になるので、難しい気がする。こうした大曲は、生でコンサートホールで聴くに限る、そんな気がする。大音量で、こうした交響曲をホールで聴くのは、ストレス発散にいいかも知れない。

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そう思ったところで、確かグールドはプロコフィエフを弾いていたはずだと思い調べてみたら、コロンビア(現在ソニー)の正規録音で、ピアノソナタ第7番「戦争ソナタ」を1968年にニューヨークのスタジオで残していた。

レコードのジャケット

このピアノソナタは、6,7,8番をひっくるめ、第二次大戦中に作曲されたために「戦争ソナタ」と西側陣営がつけたらしい。だが、ソ連ではたんに「3部作」と呼ばれていたようだ。交響曲第5番も、同時期に作曲されていて、雰囲気が似ている。

このグールドの演奏だが、「おお、交響曲第5番も、こんな感じやったぞ!」と思った。グールドの演奏はピアノソナタなので、ピアノ1台なのだが、そもそも、オーケストラの交響曲の雰囲気を出すのがうまい。とにかく彼の演奏は切れが良い。音量を変えながら、気持ちの良いリズムを刻んでいく。また、和音の響きが、古典派などの予定調和な響きとは全く違って、現代的で、これはこれで、なんとも気持ちよい。彼は手を変え品を変え、曲の魅力をリスナーに見せる。

多くのピアニストは、右手の高音部と左手の低音部だけしか聞こえてこないのだが、グールドは内声部も強調する。そのように弾くには、楽譜の音を単に鳴らせばよいというものではなくなり、別のメロディとして弾く必要があるので、彼はしばしば指を持ち替える。(=最初に鳴らした音を鳴らし続けるために、別の指で押さえ続ける。)

3声や4声を弾き分けることで、複数の声部があらわれて鳴っているので、聴いていると発見がある。現代曲にあるような気難しさより、多彩なきらめきが勝っている。

また、彼は和音を同時に打鍵することがほとんどない。もちろん、同時に鳴らした方が良いときは同時に打鍵するが、和音は、複数の旋律の音が合わさっている場合が多いので、バラしながら打鍵することがほとんどだ。はやいアルペジオ風で、目立たせたい音を最初にもってくる。

彼は、ピアノを弾くときに、弦楽四重奏の奏者のように、ソプラノ、アルト、テノール、バスの4人の奏者がいるようなイメージをしているという。ピアノを習うときには、楽譜の同じ拍のところにある音符は同時に鳴らしなさいと習うはずなので、拍を崩さずに和音をばらして弾き、なおかつ、自然に聴こえるように弾くのは、難しい。

最終楽章である第3楽章は、早い烈しいリズムで、ジャズ風に聴くとことができる。狂気を感じることもできる。 ここには、ソ連的という地域に根差した音楽ではなく、もっと普遍的な音楽の楽しさがある。ちょうど、第3楽章のYOUTUBEがあったので、聴いてください。

激しくアップテンポで連続する和音の中に、二つの高音の違ったリズムのメロディが出入りしていて、「こりゃあ、超絶技巧だな。」と思わせる。やがて、もりあがった最終盤にちょっと速度を緩めることで、「もう終わりよ。」と示して、突然終止する。

ジャズか現代音楽か、どちら属するのかよく知らないが、スティーヴ・ライヒという人がいて、「ディファレント・トレインズ」という曲があるのだが、ちょっと似ている。

なお、少し上等のイヤホンを使って、近年リマスターされた正規版のCDを聴くと、グールドの唸り声と生涯使い続けた椅子がきしむ音が聞こえてきます。

おしまい

読響 小林愛実さん ショパンピアノ協奏曲1番を聴いてきた

読響のHPから

第613回定期演奏会 2021 12.14〈火〉 19:00  サントリーホール

12月14日、2021年のショパンコンクールで4位入賞された小林愛実さんのコンサートへ行ってきた。これがとても良かった。

このコンサートは、サントリーホールで行われた読売交響楽団の定期演奏会で、指揮者が2回、ピアノ独奏者が1回、コロナの影響で外人から日本人へと変わった。写真は、指揮者の高関健と、小林愛実さんである。

小林愛実さんは、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏したのだが、見事なリズム感、説得力のあるアーティキュレーションとその強弱、オーケストラのトッティの中での超絶的なスケールの上行と下降のみごとさなど、どれをとっても完璧な演奏だった。

涙腺の弱くなってきた主は、長いオーケストラの前奏のあとに入ってくるピアノに、思わず涙が出てきて困った。第3楽章の本当の最後のフィナーレの部分のピアノにも泣きそうになってしまった。年齢のせいで、涙腺が緩み、しょっちゅう涙を流しているとはいうものの、コンサートホールで、こうした経験はさすがに初めてだった。

ショパンのこの曲は、スラブの民族音楽の雰囲気が色濃くあり、それが心情的に訴えてくるのかも知れない。理知的なバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったドイツ主流派と、そこが違うところだろう。

彼女は、前半のプログラムの2曲目、休憩の前に登場した。彼女の演奏が終わった後、観客の拍手がいつまでも鳴り止まずに、アンコールで小品を1曲(ショパン前奏曲 Op.28 第17番変イ長調)を弾いてくれた。最近のコンサートでは、アンコール演奏がないことが多いように感じていたので、これも珍しい。

余談だが、主は、NHKが1985年に放送したショパンコンクールでブーニンが優勝した時の番組を見たのがきっかけで、クラシック音楽を聴き始めた。ちょうど、レコードがら、CDへ切り替わる時期だった。

主がハマっているグレン・グールドは、「やがてコンサートはなくなるだろう」と言った。彼は、コンサートホールの聴衆を、闘牛を見に来た観客に例え、演奏者が失敗するのを期待していると考えていた。同時に、完璧主義者のグールドは、見事な演奏に聴衆から熱狂的な拍手喝采を受けている際に、「今の演奏には、マズいところがあった。もう1度やり直したい。」と思っていたらしい。

あがり症と完璧主義者的性格によって、彼はコンサートから32歳の時にドロップアウトし、スタジオに籠ってレコード制作をするようになる。そこでは、何度でも気に入るまでテイクを取り直せる。

そうしたグールドは、技術の進歩により、リスナーが音楽の一部分、例えば、だれだれの演奏(キット)と、だれだれの演奏(キット)をつないで、自分だけの好みの演奏を作って楽しむだろうといったことも言っていた。こうした実験的な試みは、パソコンを使ってデスクトップミュージックという分野で、確かにそうしたことができる時代になったが、一般のリスナーはそこまではしないし、コンサートはなくならなかった。

生演奏の、生の楽器の素晴らしい音は、自宅で簡単には再現できない。コロナ禍で、マスコミはテレワークと同様、オンラインで音楽を楽しめるとしきりに流していたが、自宅のスピーカーでコンサートホールの音が再現できるなど、ちゃんちゃらおかしい。 まして、遠隔で、合奏(アンサンブル)できるみたいなことも言っていたが、それをコンサートホールと同様の音質でわれわれが聴けるとはとうてい思えない。

完成度の高さでは、録音物の方が高いのは間違いないだろうが、やはり、生の音は良い。弦楽器が実際に音を出す前には、一瞬前に弦と弓がこすれるかすかな音がするし、クラシック音楽で使われるどの楽器でも、アコースティックな響きは非常に心地よく、録音物では表現できない良さがある。 そのため、コンサートの意義はなくなっていないのではないか。

サントリーホール

プログラムの後半には、高関健指揮で、プロコフィエフ(1891-1953)の交響曲第5番が演奏された。主は、このプロコフィエフという作曲家の交響曲を初めて聴いた。パンフレットの解説によると、革命を嫌気して西側へのがれたプロコフィエフだが、結局、革命後のソ連に戻ってくる。このソ連時代に書かれた曲で、旋律がニュース映画に出てきそうで、いかにもソ連的だ。

ソ連の国旗のデザイン

演奏するオーケストラの団員数は、ショパンの協奏曲と比べるとずいぶん多い。特に、後列の打楽器奏者は、5人ほどいたはずだ。彼らが銅鑼やらシンバル、大太鼓などを鳴らすので、フォルテッシモでは、超絶、大迫力である。

こうした曲をCDやストリーミングで自宅で聴くのは、大掛かりな再生装置が必要になるので、難しい気がする。こうした大曲は、生でコンサートホールで聴くに限る、そんな気がする。大音量で、こうした交響曲をホールで聴くのは、ストレス発散にいいかも知れない。

おしまい

N響ソロイスツによる 本邦初演、編曲のマーラー10番を聴いてきた

マーラー(1860-1911)は、後期ロマン派、しかもその最後の音楽家に当たり、オーケストラの編成を極限まで巨大化したことで知られる。

マーラーの交響曲を演奏する際の演奏者の数は、モーツァルトやベートーヴェンの時代よりはるかに多い。

マーラーの交響曲第8番は、「千人の交響曲」と言う別称があり、壇上に150人を超えるオーケストラ、後ろの合唱団、バルコニーの少年合唱団が800人いる。楽器編成も凄くて、ハープが2台、マンドリン、ピアノなどが複数舞台にのっているし、パイプオルガンも登場する。打楽器は何種類もあり、大太鼓やシンバル、タムタム(銅鑼みたいなもの)もある。管楽器なども、大きな音量をだすということだけでなく、息継ぎをわからないようにするという理由で、一つのパートを大勢で分担したりする。

そのマーラーの音楽は、次の世代が、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ヒンデミットなどの現代音楽へと連なる。このため、マーラーの音楽もけっこう形容しがたい音楽だと主は思っている。はっきり言うと、「ようわからん」のだが、不思議な魅力があり、気になり、心のどこかに引っかかっており、時間がたつとマーラーが聴きたくなる、そんな音楽である。

マーラー Wikipediaから

そんな風に感じているマーラーなのだが、この大規模な曲を編曲して、小編成でやってみるという催しを見つけて行ってきた。下が、そのチラシである。

本邦初演!室内楽のマーラー

主は、違った角度からスポットライトを当てることで、分かりやすくなる、編曲のもののクラシックが結構好きだ。主のひいきのグレン・グールドは、ベートーヴェンの交響曲やワーグナーの前奏曲を、ピアノ編曲で弾いており、原曲とは違った魅力がたっぷりとある。

開演前の白寿ホール 満席になった

演奏があった白寿ホール(代々木・300席)は上の写真のようなところで、音響が素晴らしかった。開場直後にとった写真なので、観客がまばらにしか写っていないが、実際は満席になった。この時間には、打楽器奏者が、ティンパニのチューニングに時間をかけていた。

さて、感じたことなのだが、どの楽器も「音がでかい」。大勢のオーケストラの中で響くハープなどは、ほとんど聞き取れないような音量なのだが、こうした小編成の中のハープは、たいした存在感である。

弦楽器、管楽器もさることながら、打楽器奏者は大活躍をしていた。彼は、360度を楽器で囲まれ、ティンパニを大音量で鳴らすだけでなく、銅鑼やシンバルもならすし、トライアングルを鳴らすための金属棒を口にくわえながら、マリンバ(木琴)とグロッケンシュピール(鉄琴)なども演奏していた。

グロッケンシュピール Wikipediaから

トライアングルも、頻繁に登場するのだが、良く聞こえる。このトライアングルは、打楽器奏者と鍵盤奏者が分担しており、打楽器奏者が他の楽器を演奏して手を離せないときに、右側の鍵盤奏者が担当していた。

不思議だったのが、鍵盤奏者である。鍵盤奏者は、前にピアノと後ろにアルモニア(リードオルガン)とその中間にトライアングルの支柱を立てて、3つの楽器を担当しているのだが、ピアノとアルモニアの音は、他の楽器に埋もれてよく聞こえなかった。なぜなんでしょう。

この交響曲第10番は、マーラーの最後の交響曲で、めちゃ長くて、第5楽章まであり、およそ1時間半かかる。そのため、途中の休憩がないというアナウンスがある。それもあって、この日のプログラムは、この1曲のみである。 たしかにこの曲の後に、どんな曲を演奏すればこの曲の余韻を壊さないのか、アンコールがないのも仕方がない。

この大規模なオーケストラ曲を、編曲して室内楽の団員数で演奏することで、意外な効果があるもんだと感じた。

つまり、一つは、オーケストラの主要なパートである、ヴァイオリン、チェロ、コントラバスなどの弦楽器群の数、フルート、クラリネット、ホルン、トランペットなどの管楽器の数が通常より少ないことで、ハープやトライアングルなど、他の楽器群の大音量に負けていた楽器の音量が相対的に増し、さすがに、マーラーさん、うまい具合にハープを使っているもんだとか実感する。トライアングルも効果的に鳴らされる。打楽器もそうで、ティンパニ、太鼓だけでなく、木琴、鉄琴も好く鳴っているのが分かる。こうした楽器の音は、本来の大編成では埋もれがちだと思う。

二つ目は、大編成のオーケストラでは、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンが、それぞれ10名程度はいるような気がする。しかし、今回の編成では2名ずつだったように思う。 これがスリルを生む気がした。つまり、曲の冒頭など、第1ヴァイオリンが、静かに小さな音で長い主題を演奏するのだが、10名ほどの合奏と、2人だけの合奏では、観客への聴こえ方がまったく違う。10名ほどでやると、安心感というか安定した旋律になるが、二人というのは、完全に音が一致して重なり合うわけではないので、鮮明に楽器ごとの音が聞こえ、長い音符の区切りや節回しをどのように演奏するかとか、不一致が起こってないかとか、緊張感をはらんでくる。

協奏曲の場合のソリストは、主役なので好きなように弾けるが、二人で同じ旋律を鳴らすのは、これとも違う。

これと同じような他の楽器が鳴っていない、旋律が一つだけのときに、他の弦楽器でもそうだし、管楽器でも起こる。

最終的に、マーラーをよく理解できたか?楽しめたか?ということについてだが、残念ながら、相変わらず「ようわからん曲だ」「まあまあ、楽しめた」ということになるのだが、大音量の全奏では驚くし、ヴァイオリンが囁くように密やかになる部分では、耳をそばだてて聴き入った。

最初に書いたが、このマーラーの次の時代の音楽は、シェーンベルクなどの現代曲に連なる。マーラーの曲は、無調ではないにしろ、調性もあいまいで、12音音楽までもちろんいかないのだが、前期ロマン派の美しく、自己陶酔的で感傷的な音楽とはまったくちがう。個人的な感傷に浸ることを許さない、もっとスケールの大きな世界観や哲学を感じさせる音楽に感じられたのだが、どうだろうか。

この日の観客の反応は非常に良かった。いつまでもカーテンコールの拍手が鳴りやまなかった。

きっと、マーラーの巨大さをはぎ取って、残ったコアの部分をわかりやすく、明晰に客に示すというこの編曲の試みは成功したということなんだろうと思う。

おしまい

チェンバロリサイタルは最前列で。 辰巳美納子リサイタル・東京文化会館小ホール

1月29日(金)、東京文化会館小ホールで行われた辰巳美納子のリサイタルへ行ってきた。曲目は、バッハのフランス組曲第5番とゴルトベルク変奏曲の2曲である。

この小ホールは649席ある
開演前、休憩中ともずっと調律している

上の写真が開演前の様子である。コロナの真っ最中で、公演中止を心配していたのだが、無事開かれ、観客席は3分の1くらいが埋まっていた。

チェンバロは、おそらく鍵盤楽器では最古参だろう。金属製の弦を張り、爪が弦を引っ掻いて、音が出る仕組みになっている。鍵盤を強く叩いたからといって大きな音が出るわけではなく、優しく弾いても音量が小さくなるわけでもない。音量も小さい。そのため、楽団と合奏すると埋もれがちだ。 しかし、繊細で美しい音色が最大の魅力の楽器だ。

主は、熱烈なコンサートファンではないので、お好みのプログラムの時に、チケットの値段がほどほどのコンサートに出かけている。オーケストラの場合、S席などより、むしろホールの後ろの方とか二階席の方でも、音響設計が良くされているので問題はないし安いので、こういう席を選んでいる。今回も、足が延ばせるという理由で、中央右側の端っこの席を選んだ。鍵盤楽器の場合、演奏者が舞台に向かって左側に座るので、左側の方が手の動きが見えてよいのだが、左側は人気があり、選択できなかった。

チューニングを聞きながら、「この楽器、これはすぐ近くで聴くに限る。」と思った。大音響が出る楽器は、反響音により後ろの席のほうがよく聞こえるのだが、チェンバロは音自体が繊細で小さく、間近で聴くのが良い。

また、常にチューニングが必要なようで、20分間の休憩の間も、調律師がずっとチューニングをしていた。

そもそもこの楽器は、ヨーロッパの貴族が室内で楽しんだ楽器だ。大きなホールで民主化さとれた大衆どもが聴く楽器ではない。 というわけで、主は、コロナのせいで観客席が空いていたこともあり、休憩を挟んでほぼ最前列に移動して聴いていた。 同じように考えた観客もいるらしく、周囲には何人かステージ近くに移ってきた人がいたようだった。

この日のプログラムは、前半がバッハのフランス組曲第5番、後半がバッハのゴルトベルク変奏曲だった。

バッハは、鍵盤楽器のために有名なところでは、パルティータ集、フランス組曲、イギリス組曲、トッカータをそれぞれ6曲ほど作曲している。トッカータは、1楽章形式で、アドリブ的で奇想的な曲である。パルティータ集、フランス組曲、イギリス組曲が、当時のダンスミュージックである舞曲を何曲も組み合わせて作られた大曲である。

フランス組曲も素晴らしいのだが、やはりパルティータが全体としてのまとまりをよく考えて作られており、さらに大曲という趣がある。

辰巳美奈子のゴルトベルク変奏曲の感想を書いてみる。

何といっても、

① 演奏時間がめちゃ長い。

おそらく、80分間以上演奏していたが、グールドの倍程度になるはずだ。原因は簡単で、おそらく反復を全部しているからだ。グールドは、溌剌とした1955年のデビュー録音が38分、瞑想的な1981年の再録音が51分である。反復は、「1955年にはグールドは一切のくり返しをしなかったが、1981年には、カノン9曲と厳格な対位法の変奏曲4曲で、前半のみを繰り返した。」(「グレン・グールド神秘の探訪」 ケヴィン・バザーナ:サダコ・グエン訳 478頁)と書かれており、この日の演奏はちょっと冗長だ。グールドの2回の録音は、長短あるが、いずれの場合にも、極端に遅い演奏と極端に早い演奏が組み合わさっており、きわめて刺激的だ。

辰巳美納子の演奏も、現代的で明るく楽しい演奏を繰り広げているのだが、古楽器を使って楽譜に忠実に、当時のままに演奏しようとしているのかと思えるフシもあり、強いて言えば、指向性がはっきりしない。おそらく、彼女は、古楽を忠実に演奏するより、現代的で楽しくこの曲を演奏しようと考えているのだろうと思うのだが、さらにメリハリがほしい。冒頭のアリア、最後のアリアなどは極端にゆっくり弾いて欲しいし、疾走するところは疾走して欲しい。

逆に、グールド以前の大御所であるワンダ・ランドフスカ(1879年 – 1959年)の演奏のように、博物館にあるような年代物の演奏を、現代の今やったら、それはそれで面白く値打ちがあるだろうと思う。

要は、その人なりの「狂気」がないと面白くない。グールドは、音高と音価(=楽譜上の音の長さ)は変えていないが、拍子や速度記号を無視し、場合によっては音符も加えている。

② この日のパンフレットに「鋭い感性と自在な表現で全体を支える通奏低音に定評がある」と書かれていた。伴奏ともいえる通奏低音をホメるというのは、パンフレットとして、どうなのかなと思った。しかし、通奏低音のリズム感は安定していて、こういうことなんだと納得する。聞いていて安定していて、とても気持ちが良い。もちろん、他の声部もなかなか良かった。 

③ このゴルトベル変奏曲は、最初と最後のアリアの間に、30曲の変奏曲が挟まるのだが、最後の方に近づくにつれ、クライマックスに近づくのが感じられ、最後の変奏曲、クオドリベット(=宴会などで行う、複数人がそれぞれちがう歌を同時に歌う遊び:Wikipedia)で爆発する、その感じがよく出ていた。

このクオドリベットは、当時の俗謡が2曲入っていて、楽しくてとても聞きやすい。それまでのバッハの小難しさが消えて、すっかり楽天的になる瞬間である。ある意味、この曲はクオドリベットが出てくるまでが辛抱であり、この曲の到来で辛抱から解放され、最終的に、再び静かで美しいアリアの円環に戻る。

そう考えると、アリアに戻るところは、もっとゆっくり、極端にゆっくり、じっくり聴かせたらどうなんだろう。 しかし、終わりよければすべて良し。とても、感動的で、楽しめる演奏だった。観客も大きな拍手を盛大におくっていた。 主は、アンコールになにか、最低もう1曲を弾いて欲しかった。

おしまい

バッハ「平均律クラヴィーア曲集第1巻」小佐野圭 ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第2番」アルゲリッチ

2016年3月5日(土)小佐野圭さんのバッハ「平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲」のコンサートへ行ってきた。小佐野さんは1958年生まれの58歳、玉川大学教授でもある。会場は銀座のヤマハホール。収容人員が333人のホールで、自由席だったので、良い席に座ることができ、演奏者がよく見えた。同時に、ピアノという楽器が大音量を出すことにいまさらながらに驚いた。アコースティックな響きがとても心地よい。

小佐野さんの演奏は、全ての曲を楽譜をガン見しながら弾くもので、演奏しながら楽譜のページをめくる様子にちょっとハラハラさせられる。グールドは基本的にどの曲を弾くにも暗譜で弾いていたのだが、小佐野さんは音楽大学の教授なのだが、それでも楽譜なしでは弾かないようだ。もちろん楽譜を見ながら弾くのが劣るというつもりはない。だが、グールドはモンサンジョンとの映画の中では、一つの曲を、解説しながらいろいろな弾き方をして見せ、こうした芸当をもし楽譜を見ながらするのであれば、かなり制約を受けるだろうと思う。暗譜で弾いた方が極端な弾き方がいろいろとできる気がする。

およそ60年前の話であるが、グールドの演奏を生で聴けた人は幸運だとつくづく思う。もっとも、彼がコンサートで弾いた時期は、1955年のアメリカデビューのあと、1964年には公演から引退してしまったのでわずか9年間しかない。おまけに、彼が弾く曲は、バッハ、ベートーヴェン、ギボンズ、スウェーリンク、ヴェーベルン、ベルクなどといったある種風変わりなプログラムに限定されていた。しかし、ニューヨークデビューの翌日契約を申し出たコロンビアレコードの重役オッペンハイムの言葉を借りれば「グレンの演奏は宗教的な雰囲気を醸し出していて、思わず聴き入ってしまいました。….私は驚喜しましたよ」ということだ。

肝心の演奏の方は、かっちりとした正統的なバッハを聴くことができた。なんといっても、バッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の原曲の魅力は絶大だ。曲自身の構造がしっかりしているので、誰が演奏しても崩れることがない。ジャズでも演奏されるくらいだから。来年は第2巻の演奏が予定されている。また、是非行きたいと思う。

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次に、2016年5月17日(火)アルゲリッチのコンサートへ行ってきた。       アルゲリッチは1941年生まれのアルゼンチン人ピアニストで、今では75歳になってしまったが、クラシックファンなら誰でも知っている有名人だ。デビュー当時には賞を総なめにしており、プゾーニ国際ピアノコンクール、ジュネーブ国際音楽コンクール、ショパン国際ピアノコンクールで優勝している。

1960年代、主が中学生の頃、親父がアルゲリッチのLPレコードを持っていた。レコードジャケットには20代のアルゲリッチが写っており「えらい美人やな!!」と主は動揺したことを覚えている。白人で若くて美人、これは日本人が圧倒される要素だと思う。 そんなこんなで、その後の彼女の私生活を調べてみると、3人の音楽家と結婚と離婚を繰り返し、それぞれに夫が違う娘を3人産んでいる。細部は知らないが、波乱万丈な人生のようだ。下は若いころのレコードジャケットである。

アルゲリッチ

この日のオーケストラは、高関健指揮の紀尾井シンフォニエッタ東京。初台にあるオペラシティのホールは1632人収容の大きなホールだ。

第一部はモーツアルトのディヴェルティメントニ長調K136と交響曲40番。第二部で武満徹の映画音楽から「ワルツ」、最後にアルゲリッチとの協演によるベートーヴェン「ピアノ協奏曲第二番」である。第二部の冒頭から美智子妃が会場に来られ、大喝采で迎えられた。

演奏された曲はどれも馴染みのある曲ばかりだった。アルゲリッチのピアノは、最初リズムの取り方がグールドのように正確ではなく「違和感があるなあ?!」と思っていたが、曲が進むにつれて耳が馴染んでくるのか、それなりに楽しむことができた。

アンコールにスカルラッティのソナタニ短調K141という曲が演奏された。スカルラッティは、イタリアナポリで1685年に生まれたJ.S.バッハと同時代の作曲家だ。この日のアルゲリッチのスカルラッティの演奏は、バッハと同時代の音楽の感じがせず、ロマン派の曲かと思ったほど崩れた感じがした。下のYOUTUBEのリンクはアルゲリッチの同じ曲の2009年の演奏だが、むしろこちらの方がうまいと感じる。

https://www.youtube.com/watch?v=Gh9WX7TKfkI ←こちらアルゲリッチ2009年

以下は、たまたま開いたチェンバロのJean Rondeauの演奏。こちらの方がバロックらしく感じられ、主の好みだ。(YOUTUBEのリンク)