アマゾン凄すぎ!! ジェフ・ベゾス凄すぎ!!

主は、数年前からAMAZONが、便利で値段も安く、使い勝手も良いので、日本の小売業が、巨人を前にした小人のように駆逐されないかと心配している。AMAZONは、ありとあらゆる商品を扱いながら、その価格が安いだけではなく、ビデオプログラムや音楽の配信、電子書籍のKINDLEなども手掛けている。AMAZONは、アメリカの小売業に壊滅的な悪影響を与えているとトランプ大統領が噛みついているが、主はトランプ大統領を評価しているわけではないものの、この指摘は正しい。もっとも、AMAZONのCEOのジェフ・ベゾスは、トランプ大統領に批判的な記事を掲載するワシントン・ポスト紙も持っていて、このためにトランプが噛みついているとも言われている。

ところで、主はパソコンの組み立てが趣味で、さまざまなパソコンパーツをあちこちから買っている。昔は、秋葉原まで足を運んだものだが、今はネット通販で買うことがほとんどだ。この値段なのだが、ほとんどの商品で、AMAZONが最安なことが多い。こうしたパーツは、秋葉原に店を構える専門店のパソコンショップが得意なはずなのだが、値段では両者が拮抗しており、AMAZONがプライスリーダーで、パーツショップは追随しているように見える。実際のところ、その販売力にものを言わせ、AMAZONは、価格と品揃えでAMAZONが不利にならない「最恵国待遇(MFN)条項」を付けた契約を納入業者に求めてきたし、公正取引委員会が是正を求めたこともあるのだが、ずっと後手にまわっており、長い時間放置されてきた。

ドスパラ

主のパソコンの組み立てなのだが、昨年1月、秋葉原にリアルな店舗を構える”ドスパラ”というショップから、通販でマザーボードを買った。このマザーボードを使って新しいパソコンを組み立て、動き出したのだが、ネットに繋いだら、新しいBIOS(バイオス)というプログラムが出ていることを知り、こちらにバージョンアップした。そうしたところ、うんともすんとも、電源も入らなくなってしまった。そこで、ドスパラへ電話し、オペレータに事情を話したら、あっさりマザーボードを交換してもらえることになった。このとき、宅配業者が買い手である主のところまで動かなくなったマザーボードを取りに来てくれ、その時の対応に感心した。

アマゾン

似たようなことが、AMAZONでもあった。購入したのは、ソフトのWINDOWS10である。主は、値段が安い代わりにサポートを受けられないDSP版をいつも買うことにしている。ところが、この商品が届いた時に、間違えて注文したと思って、一度返品手続きをしたのだが、しばらく考えて間違っていなかったことに気づき、返品手続きの取り消しを行った。この一連の、届いた商品の返品と、返品の取り消しをネット上で行ったのだが、この画面上の操作が、実に行き届いており、この面倒でややこしい取引にもかかわらず、メールを書いたり、オペレーターと話しをすることもなく、スイスイできるのだ。

今回再び、同じような感覚を持ったことが起こった。

KINDLE

主は、グレングールドの女性関係にを書いた”the secret life of Glenn Gould”という本を読むのに、PC版 KINDLEを使っている、KINDLEは知らない英単語にカーソルを合わせると、日本語訳(プログレッシブ英和辞典)が表示されて、ユーザーは辞書を引く手間が省ける。ところが、最近のバージョンアップで、バグ(プログラムのミス)があり、日本語訳が表示されなくなってしまった。

主が、この現象をAMAZONのカスタマーサービスに問い合わせたところ、1回目は「バージョンアップでバグがあり、次回のバージョンアップまで待ってください」と返事があった。次回のバージョンアップは何時なのかと再度メールを送って照会したところ、「古いバージョンを送るので、次のバージョンアップまでこちらを使ってください。次回のバージョンアップは、1~2か月かかる見込みです」と返事があった。この間のメールのやり取りは、非常にレスポンスが良いのだ。メールを書いた翌日には、返事が返ってくる。その内容も、ユーザーの立場に立ったもので、木で鼻を括ったお役所仕事的なものではない。AMAZON恐るべし!

本の購入でもAMAZONには、凄いところがある。検索すると絶版になっている中古の本を買うことができる。主はグレングールド・オタクなのだが、没後36年も経っているので人気があるとはいえ、絶版になった書籍も多い。この中古本は、人気がある本を別にすると、大抵の本は人気がないので、送料だけで買えることが多い。設定されている送料と実際の送料には差があり、それが中古書店の儲けになるらしい。これをググって、通販のAMAZONでタダ同然で買えるということは、こんなに有難いことはない。

このように消費者志向を徹底的に極めているAMAZONだが、既存の小売店にとっては、脅威以外の何物でもないだろう。マーケットで高いシェアを誇るAMAZON抜きで、商売はできないだろう。だが、その取引を行うためには、最安の価格で、最高の品揃えで納入しなければならない。値引きをして売り上げを計ろうとすると「協力金」をAMAZONから求められるという報道もある。消費者には、便利でありがたい存在なのだが、競合する小売業者にとっては、販売利益を確保できないようにする、自分で自分の首を締めさせるような巨人だ。

おしまい

 

「夫のちんぽが入らない」こだま / 扶桑社

何で見つけたか忘れてしまったが、「夫のちんぽが入らない」という本があり、話題になっているということでネットで購入して読んでみた。もともと近所の書店で探したのだが見当たらず、パートと思しき女性店員にさすがこの書名を口に出して訊ねるのは、主といえど出来なかった。

表紙は次のようなもので、活字が薄く、「大きな声で言うのは世間様に申し訳ない」という感じを多少、出しているのかもしれない。だが、帯には映画と漫画にもなるとあった。

次が扶桑社のホームページからのコピーである。このコピーには「私小説である」と書かれているが、読んでみてけっこう普遍性があり、私小説を読んでいる矮小な感じはなかった。

“夫のちんぽが入らない”衝撃の私小説――彼女の生きてきたその道が物語になる。2014年5月に開催された「文学フリマ」では、同人誌『なし水』を求める人々が異例の大行列を成し、同書は即完売。その中に収録され、大反響を呼んだのが主婦こだまの自伝『夫のちんぽが入らない』だ。同じ大学に通う自由奔放な青年と交際を始めた18歳の「私」(こだま)。初めて体を重ねようとしたある夜、事件は起きた。彼の性器が全く入らなかったのだ。その後も二人は「入らない」一方で精神的な結びつきを強くしていき、結婚。しかし「いつか入る」という願いは叶わぬまま、「私」はさらなる悲劇の渦に飲み込まれていく……。交際してから約20年、「入らない」女性がこれまでの自分と向き合い、ドライかつユーモア溢れる筆致で綴った“愛と堕落”の半生。“衝撃の実話”が大幅加筆修正のうえ、完全版としてついに書籍化!

主は、この本を読みながら「そんな悩みがあるなら、医者に行って相談すればいいのに。じれったい!」と思っていた。しかし、著者のこだまさんは、「人間には他人から見ると不合理な悩みで、解決策を探そうとしないのは本人の怠慢に思えるかもしれないが、必ずしも合理的に行動できない不条理があることを描きたい」という趣旨のことを言われていた。

そう考えると、この本に書かれていることは、すべてが筋道立てて繋がっている。結構小さいことでも、本人には大きく、その小さな障害を乗り越えるのが困難な場合がある。若いと経験が少ないし、考え方も世間に毒されているかも知れない。年を取っていれば躓かないようなことに、若い人は色んなことに必要以上に躓いてしまいがちだ。それを自己責任と評論家のように言うのは、野次馬とかわらない。人間はそういう意味で壊れやすい。

なお、こだまさんは次作、「ここは、お終いの地」も出されている。こちらも、独特で面白い。ブログに感想を書かせていただいた。

おしまい

グレン・グールド・ギャザリング その4 宮澤淳一さんのトークショー

12月15日(金)に行われたグレン・グールド・ギャザリング(Glenn Gould Gathering = GGG)の一環で行われた宮澤淳一さんのトークショーのことを書いてみたい。宮澤さんは、ライブに先立ち、13日~14日にカナダ大使館で上映されたグールドに関連する映画5本すべての解説をされた。ご自身でも、吉田秀和賞を受賞した「グレン・グールド論」(2004年 春秋社)を書かれている。また、今年でグレン・グールドに関する書物は、85冊が刊行されているとのことだが、日本語に翻訳されたものの半分は、宮澤さんが翻訳されていると思う。また映画など映像の字幕の翻訳は、ほぼすべて宮澤さんが監修されているのではないか。日本のグールド研究の第一人者であるだけではなく、世界の第一人者だ。

では、メインイベントの宮澤さんから伺ったお話の主なところを紹介しよう。下が、トークショーが行われた会場の様子だが、開始時には満席になっていた。

まず最初に、おっしゃっていたのは、クラシック音楽の特殊性あるいは伝統のことだ。つまり、クラシック音楽は、ずっと作曲者が一番偉くて、演奏者は下。聴衆はさらに下という歴史があった。(この言い方は、ちょっとデフォルメがあると思うが、喩えとしては分かりやすい)。作曲者が王で、演奏者は家来、聴衆は臣民という位置づけで、仮に作曲者がなくなっても、演奏者は作曲家のことを尊重するのは自明のことだ。(そういう教育が音楽大学でずっと行われてきたはずだ)。それが、曲の言い表し方に端的に表れている。クラシックでは、誰が演奏しようと作曲者と曲名が表記される。例えば、「ベートーヴェンの交響曲第5番」と言われる。付随的に、バーンスタイン指揮、ニューヨークフィルというのが説明的に出てくるが、曲名はあくまで「ベートーヴェンの交響曲第5番」だ。これが、ポピュラーやジャズ、歌謡曲であれば、「マイルス・デイヴィスのカインド・オブ・ブルー」がタイトルになり、そのものズバリである。

ところが、グレン・グールドは正統的なクラシックの演奏家とはまったく違った。ケヴィン・バザーナが「グレン・グールド演奏術」で明らかにしているように、グールドは音程と長さは守っているものの、それ以外のテンポ、強弱、アーティキュレーション(フレーズの作り方)、装飾音、反復記号など、作曲家の指示があっても自分の考えを優先し、囚われていない。さらには、モーツァルトのピアノソナタなどで低音部に音符を足して、低音部に別のメロディーラインを作っている。これが、「再」作曲家と言われる所以だ。

映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」で、不倫関係にあったコーネリア・フォスが、グールドのバッハ演奏を次のようにいう。 : 「グレンの演奏は、いわば楽曲を組みなおした感じね。分解した時計を元どおりでなく別の形にしたのよ。時計は動くけど全く異質のものになった。音楽に対する前例のない画期的なアプローチだったわ。私はあまり好きじゃない。バッハの良さが台無しだと思った。でも音楽家は衝撃を受けたでしょうね。演奏技術はすばらしかったわ。見事だった」

同じ映画でチェリストのフレッド・シェリーはいう。 : 「作品と作曲家の内面に侵入し、その反対側に突き出た。作曲者に対する共感を通り越し、作品を完全に乗っ取っていたと思う。自分の個性に塗り替えたんだ」

グールドが、このような演奏態度をとった理由をいくつか宮澤さんは上げられていた。そのうちの大きなものとして、グールドは作曲家でもあったことを指摘されている。すなわち、グールドがニューヨークでデビューし、コロンビアレコードと専属契約した1955年は当時22歳で、「ゴールドベルグ変奏曲」を録音した時期でもあるが、「作品1番 弦楽四重奏曲」を完成した時期でもあった。こうした彼は、他の作曲家が書いた楽譜を作曲家である自分の目で見ていた。こうした態度をとるクラシックの演奏家は、他にまったくいないわけではないが、ここまで徹底した態度をとり、それが説得力を持ったのはグレン・グールドだけだろう。

そうしたグールドは、レコードが爆発的に売れ、一夜にして世界一流のピアニストになった。そのため、世界中を演奏旅行する期間が1964年(32歳)まであった。その後は、よく知られているようにスタジオから自分の「再」作曲家としての試みで挑戦を続け、彼本来の作曲活動は、結果的に十分にできなかった。

こう言われると、彼の特異な演奏については「やっぱり、そうだったんだ!!具体的な証拠があるのね!」という風に感じる。

ところで、カナダ大使館は巨大だった。上の3枚の写真は、カナダ大使館の外側から撮ったもの、4階のロビーへ向かうエスカレータ、地下2階にある、GGGの映画が上映されたオスカー・ピーターソンホールの入り口受付の写真だ。カナダ大使館は実にでかい!欧米の大使館は、ずいぶん立派だと思う。日本の海外の大使館と、比べ物にならない。いろいろ税金を使っている関係で、あれこれ言われるのだろうが、この大使館をみていると日本ももう少し頑張ってもいいような気がする。

おしまい

グレン・グールド・ギャザリング その1 ローン・トークとエドクィスト

12月13日(水)、建国150周年を記念したカナダ大使館で、5日間の日程でグレン・グールド・ギャザリングという催しが始まった。グールドはそれほどカナダにとって、偉大な有名人なのだ。この催しは、青山通りに面したカナダ大使館と公園をはさんで隣接する草月会館の2か所で行われている。このグレン・グールド・ギャザリング(Glenn Gould Gathering = GGG)の主催は、朝日新聞社なのだが、カナダ大使館が特別協力し、大使館で無料映画の上映やミニライブなども行われる。メインは、12月15日(金)~12月17日(日)の3日間、草月会館で行われるライブと関連の深い人たちによるトークショーだ。なお、キュレーター(展覧会を企画する人)は、坂本龍一氏である。

下の写真は、12月13日(水)に草月会館で撮ったものだ。主は、カナダ大使館の地下ホールで上映されたグールド研究の第一人者の宮澤淳一さんの解説による、無料映画を2本見てきた。この2本の映画の上映の合間に時間があり、草月会館の2階(下の写真)で流されていた「グレン・グールドについて」(2017年11月トロントにて)という映像(インタビュー映画)を見ることができた。

このインタビュー映画は、グールドの仕事を支えてきた二人の裏方である録音エンジニアのローン・トークと調律師のヴァ―ン・エドクィストのインタビューからなっている。グールドは、1982年に50歳の生涯を閉じ、今年は没後35年にあたる。そのため、現在存命する周囲の友人や関係者たちは、かなりの高齢であり、このインタビューは今年の11月に撮られたもののようだが、登場する二人は、ともにお爺さんだ。だが、生きて証言してくれるだけでファンにはありがたい。配られていたリーフレットには、このインタビュー映画の説明が次のように書かれている。

「CBC(カナダ放送協会)の録音エンジニアで、グールドの仕事も多数手がけた友人でもあったLorne Tulk(ローン・トーク)とトロント・オーディトリアムでの録音セッションでトークとともに仕事を担当した調律師のVerne Edquist(ヴァ―ン・エドクィスト)。グールドの活動を影で支えた2名の最新インタビュー。」(2本で50分)

まず、エドクィスト(86才):下がの写真が調律師のエドクィストだ。彼は「グレン・グールドのピアノ」(筑摩書房 ケイティ・ハフナー 訳:鈴木圭介)という本に、主な登場人物として出てくる。視力が極端に弱かったので、盲学校で調律を学んだのち、調律師になる。若くして実力を認められる。映像の中で、エドクィストは調律に慣れてくると一日に10件(軒)はこなせるようになり、それは完璧なチューニングではなく、おおざっぱに基本的な部分を押さえただけだけのチューニングだという。グールドの場合は、毎回、二時間かけて完璧にやっていたという。

グールドはずっと専属契約を結んだスタンウェイのピアノを使っていたのだが、彼はピアノの選択には非常にこだわっていた。タッチの浅い、アクションの敏感なピアノを好んだ。グールドはCD318というスタンウェイのピアノを好んで使っていて、アメリカ公演の際にはそのピアノをわざわざ運搬していた。また、望むタッチを実現するために、アクションにさまざまな改良を繰り返した。こうした時にエドクィストは、大いに働いたはずだ。だが、このCD318は最終的に、輸送中の事故で壊れてしまう。その後は、既存のピアノのを探し求め、改造を試みるのだが、なかなか気に入ったものにならない。そうしたときにも、エドクィストは腕を振るったはずだ。

ところで、最晩年の「ゴールドベルグ変奏曲」の再録音には、YAMAHA のコンサートグランドを使ったのだが、YAMAHA という文字が見えないようにするためだと思うのだが、鍵盤の先にある饗板を外していた。しかし、こうすると弦がむき出しになっているのが見え、かなり異形ともいえる姿だ。ただ、主は日本製のピアノが使われたと知って嬉しいということはある。

エドクィストは次のように言う。

グールドは、444HzのAの音が好きだったのは知っていたので、そのように調律していた。彼は完璧主義者だったが、レコードになっているものの中には完璧に調律されていないものがあり、よく聞くと唸りが聞こえるものがある。

録音作業を終えて、イートン・オーディトリウムを出る際にグールドが、鍵が見つからないと言い出したことがあり、結局、最終的に見つかるのだが、グールドは本当のところ、鍵のありかを知っていてそういうことを言っていたかも知れない。

私が、出身の田舎を話題にする定番のジョークを言ったら、グールドはすぐに察して笑ってくれた。職場はジョークを言い合って、楽しい雰囲気だった。ただ、グールドが言うことに対して私は反論はせず、グールドが言いたいことは言わせておいた。

次に、ローン・トーク(78才)。なお、写真のセリフは、グールドを語る際によく話題になるテープの切り貼りを話している場面だ。

グールドは、人間より動物の方が好きだった。

仕事を通じて親友になった私に、義理の弟になって欲しいというグールドが言い出した。この発言は2~3年間続いた。私はずっとあいまいな返事をし続けていた。最後にいよいよグールドが本気になって、弁護士に相談したり、役所へ行こうというので、私は兄弟の了解をとらないとならないと返事し、彼はようやく諦め、その後その件は何も言わなくなった。

録音作業は、第1楽章を録音したあと、何か月かのちに第2楽章を録音するといったことをしょっちゅうしていた。このため、マイクの位置を決めるのにグールドとずいぶん試行錯誤したが、いったん場所を決めるとその位置を動かすといことは一切しなかった。おかげで、録音されたものについてはマイクの位置の問題は起こらなかった。

前述のCD318でバッハの「インベンションとシンフォニア」という曲集を録音するのだが、CD318のメカニズムをそれ以前にさんざんチューニングしていた。グールドはレスポンスが改善され、改良が気に入るのだが、これを録音する際「しゃっくり音」が良く起こった。しゃっくりのような余分な音が入ってしまうのだ。しかし、グールドは、その「しゃっくり音」がどこの場面で起こったか、正確に完璧に覚えていた。このため、その前後の小節だけを再び演奏して、私がテープを差し替える作業をした。

グールドの記憶力に関して、私が「ある本のどこどこに、こう書いてあった」とかいうと、グールドは「ああ、何ページの上の方に書いてあったね」という風に答えを返した。実際にそれが正しいかあとで確認すると、そのとおりの場所に書かれており、もっと驚かされた。

グールドは、絶対にピアノに楽譜を置かなかった。モニタールームで楽譜を見ていることはあったが、モニタールームを出るときに楽譜はそこに残し、ピアノは必ず暗譜で弾いていた。恍惚となって弾いているように見えるが、頭の中では、極端に演奏に集中しているというより、漠然と虚空を見ていたんだと思う。

おしまい

 

 

 

LG 4K 32インチディスプレイ購入 32UD59-B

 

これまで韓国LGのIPSパネル 24インチディスプレイ(1920×1080)を使ってきたのだが、やはりLGの32インチ4Kディスプレイを購入した。型番は、32UD59-Bというモデルだ。

主は、もちろん日本製品のファンだ。しかし、昔と違ってパソコン関連製品のうちディスプレイは、完全にLGやサムスンといった韓国製、LENOVOをはじめとする中国製と、フィリップス、デルなどの欧米製品に席巻され、昔のMitsubishi、NEC、富士通といった日本の会社は影が非常に薄い。パーツ類でも、マザーボード、メモリー、CPUなどアメリカ、台湾、韓国ばかりで日本製品は圧倒的にシェアが少ない。日本製品のメーカーとして名前が良く出てくるのはバッファロー、IOデータなどで、残念ながらカテゴリーとして無線LANのアダプター、増設用のハードディスクくらいしか思い浮かばない。そのため、主は液晶ディスプレイになって以降、ずっとLG製品を使っているような気がする。

4Kディスプレイ(3840×2160)は表示領域が、従来のディスプレイ(1920×1080)と比べて4倍広くなるのはもちろんだが、今ではずいぶん値段も安くなっている。それで、買いたいと思うと欲求を押さえられないのがいつもの主である。

調べてみると、従来と同じくらいの24インチ程度のサイズの4Kディスプレイは当然ながら、文字が小さすぎて見づらいようだし、机の上で接近して画面をみるには40インチ~50インチのものは大きすぎるように思えた。それで中間的な32インチのサイズを選択した。ざっくりだが、横幅が32インチで75センチほど、43インチだと1メートルくらいになる。

最終的に主が選択したディスプレイは、LGの32UD59-B(約5万6千円)という商品だ。このの機種には、ほぼ同時期に32UD99-W(約10万1千円)と43UD79-B(43インチ・約6万3千円程度)の3種類発売されている。

32UD99-Wは、HDR10というパソコンのモニターでは新しい技術を使っており、画面の濃淡が従来より大きく、鮮明に見えるのが売りだ。また、パネルを斜めから見ても綺麗に見えるIPSモニターという種類だ。主が買った32UD59-Bは、HDR10の機能がなく、IPSでもない、VAという種類のモニターだ。VAは斜めから見るとイマイチだが、正面から見るとIPSモニターより綺麗ともいわれる。43UD79-Bは、HDR10の機能はないが、IPSモニターでサイズが43インチとテレビ並みの大きさがある。

主がモニターを4Kにしようとした動機は、ここ最近、PC版のキンドル、ワード、Google翻訳のネット画面の3つを同時に開いて英文の翻訳作業をしている。この作業にアプリを3つ同時に開くと、従来のディスプレイでは画面が小さく、けっこうストレスなのだ。それとは別に、グレン・グールドというカナダ人ピアニストの映画や、カナダ放送局のテレビ放送番組の何枚ものDVDやBD(ブルーレイディスク)を持っており、ディスプレイが2台あれば、スピーカーの間にモニターをおいて映画のように見たいと考えたのだ。

製品のホームページを見ていると、最大で画面を4分割まででき、主はケーブルが4本いるのかなと思っていたが、実際はOnScreen Controlというソフトを使うことで、その分割された領域ごとにアプリケーションを表示(整列)できるというものだった。バージョンアップをたびたびしているようで、ホームページで説明用に使われているのは、バージョン2.0なのだが、主がインストールした時にはバージョン2.81、つい先日、2.82にバージョンアップされた。使い勝手は、そこそこ良い感じがする。画面を好きなレイアウトで0(分割なし)~4分割まで選ぶことができ、アプリケーションを立ち上げると選択したサイズ一杯に表示される。逆に、「そこそこ」と書いたのは、サイズをマウスでちょっと小さくしたい場合などがあるのだが、マウスを外すと元のサイズに戻ってしまい、結局分割しないことで使うのが、良いことがあるためだ。だが、このアプリケーションは、その他に画面表示の種類を、「シネマ」「フォト」「ブルーライト低減」「FPSなんちゃら」などプリセットされているモード10種類を選んだり、アプリごとにもこのモード設定をすることができたりする。

画面が4Kなので、表示サイズを100%にすると確かに4画面分の表示が可能だ。しかし、32インチでは、文字であれば小さすぎて読めない。このためこの機種では、150%が推奨サイズになっている。これを従来の画面を1とすると4Kは4になるが、150%では、4÷1.5÷1.5=1.78 という表示面積の拡大にとどまる。これは、ある意味150%の設定で使うと、表示領域が4倍にならないで、2倍弱の1.78倍にしかならないということだ。

ところが、43インチのディスプレイであれば、おそらく推奨サイズは125%であり、4÷1.25÷1.25=2.56 が拡大割合となるだろう。そういう意味では、机の上に置くにはかなり場所をとるものの、40インチや50インチでも、大きければ大きい方がいいという口コミが結構あるのは、このせいだろう。ちなみにこのサイズ変更は、主が買った機種では25%刻みで、任意の数字は入力できない。また、ディスプレイのサイズは画面の対角線の長さをいうので、24インチのディスプレイ4枚分を同じ文字の大きさで表示できるのは、48インチということになる。この場合は、100%が推奨になっているはずだ。

実際に商品が届いてから、2枚のディスプレイの設置場所を交換したり、あれこれ試行錯誤した。パソコンと机の上のディスプレイとは5メートルのケーブルでつないでいるのだが、DisplayPortケーブルでつなぐと、同梱されているケーブルを使うよう警告が表示され、アプリケーションによっては非常に小さい画面になったりする(おそらく100%表示と150%表示が混在している)ので、実際に同梱のケーブルを使うのが良い感じがする。なお、HDMIケーブルでは正常に表示された。

主は年初に、新発売のKabyLakeというCPUをを買い、マザーボードも4K 60HZ対応のものを選んだ。ちょっと古い機種では、4K対応であっても60HZは使えないとか、ケーブルも規格があるので、60HZでは写らない場合とかがあるので注意が必要だ。

使い方(接続ケーブルを変えたりとか、No1とNo2のディスプレイを入れ替えたりとか)によって、細かいところ(使うケーブルによって、電源を入れた時に表示されるロゴの大きさが違っていたりする)が変化する現象がおこり、理由はわからないということはある。画面が瞬間的に真っ暗になる現象を繰り返した時もあった。

だが、使用感はなかなかいい。この値段でこの性能であれば、申し分ない。複数のアプリを行ったり来たりしながら使う際には、昔の小さなディスプレイには戻れない。おかげで、会社で使うディスプレイが小さく、ちゃちに感じられる。これは、VAパネルなのだが、十分にきれいだ。動画を再生するとこれまでにない迫力がある。値段は時間とともに下がり、やがて2万円程度で40インチが買える日が来るだろう。その時には、2台のディスプレイともに大きなサイズにしたいと思う。

おしまい

「身体を売ったらサヨウナラ」 著者の鈴木涼美さんご本人からコメントを

「おじさんメモリアル」(鈴木涼美)につづき、「身体を売ったらサヨウナラ」の感想文を1週間前にアップした。驚いたことに、ご本人がツイッターで取り上げてくださりコメントをいただいた。それも率直で非常に長いコメントだった。ツイッターは140文字の制約があるため、実に11回!に分けてご本人が振り返りつつ分析されていた。お陰で、ビュワーの数が普段の10倍くらいになり大いに驚いた。

このようなお作法は良いのかどうか正直心もとないのだが、鈴木涼美さんの実際のツイートと主の返信、リツイートをコピーして、後半にアップさせていただいた。

おかげで、深く考えるきっかけを与えられたと思う。おそらく、女性の側からの体験をベースにしたこのような類書は極めて少ないと思う。AVやデリヘル、援助交際などを語った本は多数あるが、ほとんどすべてが男性の視点で書かれたバイアスがかかったものだ。その点、鈴木涼美が書くものは、さらに隠していることがあるのかどうかはわからないが、率直で正直に語っているように感じられ、新鮮だったのは間違いない。もっと、女性の視点が分からない男性の為にも、これから「夜の世界」へ行こうとしている女性への忠告としても、さらに掘り下げていってもらいたいと思う。

ただ、主が感じたことは幾つかあるので、以下に書いてみたいと思う。

順不同だが、最初に思うのは、鈴木涼美の経験の物語は、何と言っても恵まれている。「・・・さらに言えば、人間はポイント制なのであって・・」という彼女にしてみれば、学歴と顔面偏差値とFカップというポイントの高い私は、高い報酬をもらって当然と考えているのかと皮肉りたくなるし、現在、風俗関係の世界に乗り出そうという女性の環境は全く違うのではないか。

彼女は今33才で、15才のブルセラ売りに始まり、キャバ嬢、AV嬢となったわけだが、その間18年経っているわけで、景気はずっと長期低迷してきた。ようやく、デフレから脱出できるかどうかの萌芽が出てきたかというのがここ2、3年のことである。このデフレ脱出の芽の恩恵も、一部大企業の正社員に限ってあるかどうかという段階で、貧困層の低落傾向は少しも変わっていない。

AV出演料はずっと下がっていると思う。キャバ嬢の収入も当時と比べると、今ではずっと下がっているのではないか。それに大きな差は、鈴木涼美の場合、AV作品はモザイクの入った合法品だろう。インターネットによる海外経由、モザイクなしの裏ビデオの出演料は、1本5万円と言われる。この搾取100%の裏ビデオの深刻さは、鈴木涼美の苦悩とは異質なもので、個人の親バレ、会社バレにより社会的制裁を受けた生きにくさの問題というだけでなく、はるかに社会問題ではないか。社会からリベンジされても、文句をいうことができない。恋人によるリベンジポルノは、文句を言う相手がいるが、5万円で出演を承諾した裏ビデオは、自分で自分を切り刻んでいるようなものだ。せめて、大金が得られるのであれば逃げ道があるが、その道もないのではないか。

かたやで、食事デートだけで月50万円 NHKが若い女性の「パパ活」に迫ったという記事もあり、そうした現実もあるのだろう。しかし、多くの女性の売春(援助交際)のリアルな相場は、1万5千円~2万円あたりであり、鈴木涼美が本で書く値段(1時間5万円とかオショックス〔お食事とセックス〕6万円)とは雲泥の差だ。女性を買う男性の年収が2000万円で、1月に20日間働くとすれば、日給は8万3千円となり、彼にとって売春の相場は大した負担ではない。会社の経営者や役員であれば、もっと収入は多いだろうし、その場合、もっと負担感は少ないだろう。

そして、売春する側の女性の収入は1日に2人客をとったとして、3万円という計算になるものの、毎日コンスタントに客を見つけるのは難しいだろう。この場合はデリヘルなどの風俗の従業員として働くのだろうが、手取りは、客が支払う額の半分ほどにしかならない。このため、倍の人数を相手にしなければ収入にならない。確かに、パパ活や高級交際クラブなど、高額で昔と相変わらず囲われている女性もいるだろうが、格差が広がった今、地方から都市へ出てきた女子学生、正社員であっても賃金が低い女性、シングルマザーやフリーターなど、それぞれに事情を抱えた女性が、生活のために売春したり風俗で働く時代だ。こちらは、心理分析している場合ではなく、未曽有の不平等社会の被害者ではないか。

それに価値観や相場観のまったくない未成年がもっと安い対価で、身体を売っているということも聞く。SNSを使って出会い系へと繰り出す少女もいるはずで、ハードルは限りなく下がっている。

主は、「人間は弱い存在であり、頭(理性)を保ちながら、AV嬢になったり、ホスト狂いしたりはできないということだ。特に20歳未満ではそうではないか。セックスの手練手管がうまいのは、AV男優、ホスト、ヤクザが浮かぶ。AV出演に支払われる対価は、基本的に、魂を男優に奪われたふりをすることか、実際に奪われた姿を撮影されるところにある。キャバ嬢・風俗嬢として男たちから得た収入や、多額のAV出演料は、よくある話のように、ブランド品の購入と、シャンパンタワーの泡となってホストに貢いで消える。ホストは、『夜の世界』に生きる嬢にとって不特定多数の男に体を開いた空虚感や屈辱を、はたまた、お金で埋めてくれる存在ではないのか。」と書いた。

だが、鈴木涼美がツイッターでいうように、「魂を男優に奪われる」という表現はたしかに曖昧で、食い違っていたようだ。

主が、「魂を男優に奪われる」と書いた意味は、画面を見る多くの男が感じている(錯覚している)もので、単純だった。すなわち、見ず知らずの男との性交にエクスタシーを感じる、あるいは、感じたように見せる、篭絡される、篭絡されたように振舞うのは、人間の尊厳を奪われ、自分を失うことであり、魂を奪われることではないか、そういう風に捉えていた。ホストについても、お金で雇った恋人モドキだと思っていたのだが、違うのだろう。

つまり、女性の鈴木涼美の側からの思いは全く違うようで、ツイートは、AVの現場で働く人やホストは悪い人ではなく、むしろ魂を削って仕事をしているのは彼らだと言う。「魂を奪ったり汚したりするのはホストや男優なんていうものよりずっと大きいものだと思う。まず、男優さんってAV職人さん(制作スタッフさん)の一部という印象が強く、彼ら自身がある意味で魂を削って現場にいる当事者でもあり、とても私は彼らに魂を売り渡していたとは思えないんですよね。では売り渡した先は誰だったのでしょうね。AV業界?視聴者?もっと広い世間?どれもある意味では正解ですが、それほどピンとくる答えではありません。」

むしろ、彼女はツイッターに「奪われた魂は今どこにあるのかはよくわかりませんが、わたし自身は、それを嘆き悲しむというよりは、あの狂騒は一体何だったのか、どうしてあんなに苦しいほど惹かれたのか、1ミリでいいからわかりたい、という気持ちの方が少し強い。ので、色々なアプローチでその作業をしていきたいと思ってます。」と書く。魂を奪われたという感覚はなく、「狂騒」に駆り立てられたのは「一体何だったのか」と訝しがり、「苦しいほど惹かれた」理由が1ミリも分からないという感覚らしい。この理由は、本人のアプローチで見つけて発信してもらうしかないが、男が見ているものとは違うということだろう。

彼女は「おじさんメモリアル」で「100円玉で買えるぬくもりは100円ないと買えない」と面白い表現をしているのだが、結局、売り手の女(と仲間たち)と買い手の男が売買しているのは、同じようでも、双方で違って解釈されるものであり、値段分の「錯覚」や「幻想」のような気がする。

飛躍するが、生物学的に考えると、ヒトは隠れてセックスする動物であり、公然とセックスする動物であればAVという商売は成立しない。ゴリラやチンパンジーのペニスは3センチしかない。ヒトは、生殖だけの機能だけでない、不必要な長さのペニスやヴァギナを持つように進化してきた。子孫を残すという観点から考えると、発情期以外にセックスするという、無駄にエネルギーを消費する生物はヒトだけだ。遺伝子を残すというプログラムは生き物全般にインプリントされているのは間違いないが、そこに「快楽」という余剰を伴っているのはヒトだけだ。

この余剰は余剰ではなくなってきて、生殖よりも快楽の方が本来の目的のようになったのが現代だと思う。ヒトの歴史がアフリカではじまり700万年、文明がメソポタミアで始まってわずか7000年ほどだが、飢餓状態から脱したのは何百年か前、文化的な生活ができるようになったのは、ここ数十年前からのことだろう。

このセックス(結婚)の形態だが、一夫一婦制というのは明らかに歴史が短く、人類史から見るとごく最近のことである。何百万年の間、人間の性は試行錯誤を繰り返し、乱婚や一夫多妻などの時代を経ている。そうした中で、女性と男性にとっても、遺伝子を残したいという本能は同じでも、女性が一生のうちに産める子供の数は多くて10人だが、男性が産める数は、千人の子供を作った王がいるほど多い。この違いは次の矛盾を常にはらむ。男は遺伝子を残すため、広く乱婚し精子をあちこちへとばら撒きたい。女は、優秀な男の遺伝子を選んで残したい。ところが、ヒトの子供の養育には10年以上、庇護を必要とする期間を要するという問題、前提がある。

こうした長い歴史の中では、夫が他の男に殺されるということはしばしばあった。自分の遺伝子を残すという観点から、新しい男にとって、妻が産んだ前夫の子供を新しい夫が殺し、後に妻に自分の子供を産ませるのは正しい戦略となる。だが、この男の戦略は、子供を産める数に制限がある妻にとっては、許容できない。このため、生物進化学者のジャレド・ダイヤモンドは、ヒトの女性は排卵を隠すことで、子供が誰の子供かを男にわからなくし、男の性行為を普段から受け入れることで、男にとって子供が自分の子供だと思わせることで、子殺しを防ぎ、養育に協力させるという進化の過程をたどったと考えている。

この余剰を、不倫をしている男女やAV俳優だけが多く享受していると思われているならば、一夫一婦制で満足している、満足しているふりをしている大衆には、認めがたいし、許しがたいだろう。なにしろ、一夫一婦制は歴史がごく浅く、我々の本能に染みついているというより、教育で刷り込まれた(共同幻想の)効果に頼っているだけであり、人間の長い歴史の生物としての本能が、時として顔を出す。そうした抑圧された気分が隠されている限り、AV嬢に対するバッシングは続くだろう。そしてそのバッシングは、出演料の中に対価として含まれているのだろう。だが前に書いたように、希少性が薄れたことで、対価が見合っていないほど安くなった今、出演者の女性は後悔先に立たずで哀れな気がしてならない。それを利用する側も心無いが。

いや、この結論は男の論理であり、女性にとってはいくら対価が安くても、AV出演自体は、後悔などするという性質のものではないのかもしれない。後悔するのは、社会からリベンジされた場合だけということなのかもしれない。

思いっきり歯切れの悪い結論になってしまったが、 おしまい

 

→魂を奪ったり汚したりするのはホストや男優なんていうものよりずっと大きいものだと思う。まず、男優さんってAV職人さん(制作スタッフさん)の一部という印象が強く、彼ら自身がある意味で魂を削って現場にいる当事者でもあり、とても私は彼らに魂を売り渡していたとは思えないんですよね。

→では売り渡した先は誰だったのでしょうね。AV業界?視聴者?もっと広い世間?どれもある意味では正解ですが、それほどピンとくる答えではありません。ブルセラでパンツを買ったのはマジックミラーの向こう側のおじさんたちですが、わたしの魂を奪ったものがあるとしたら、彼らだったのでしょうか?

→それは主さんの言葉を借りれば私がからめとられた夜の世界の吸引力とも関係する問題でしょう。確かに私は一般的な意味での善悪の区別や、越えるべきでない一線が見えなくなるくらいには、そちらの世界の価値観に侵食されていたと思うし、それは魅力と言うこともできるけど、罠や怖さでもあります。

→奪われた魂は今どこにあるのかはよくわかりませんが、わたし自身は、それを嘆き悲しむというよりは、あの狂騒は一体何だったのか、どうしてあんなに苦しいほど惹かれたのか、1ミリでいいからわかりたい、という気持ちの方が少し強い。ので、色々なアプローチでその作業をしていきたいと思ってます。

「AV女優の社会学」のようなストレートな論文アプローチが届く箇所もあれば、ひたすら空気感を再現しようとした「身体を売ったら〜」が届くこともあると幾ばくかは信じます。「愛と子宮〜」「おじさんメモリアル」のように親や客なの女の子の内面以外の周縁から攻めるのも私としては面白い作業です。

もちろん、ヤクザ的なものに騙されただけ、と言ってしまえる部分もありますが、それだけで自分がピンとくるほど説明できないところがまだある、というのが一つの執筆動機であるわけです。最初の撮影の次の月に、事務所の二階で手渡された90万円の封筒の重みは何の重みだったのか。

その答えは毎秒変わります。可愛いから100万円もらえると思った時期も、勇気があるから100万円もらえると思った時期も、一生「元AV女優」としてしか生きるのを許されないことに払われたとも、親を傷つける代償と思った時も、彼氏に殴られることへの100万円だったと思ったこともあります。

少なくとも、私は私があの日に事務所の二階で桃の天然水のペットボトルを灰皿にしながら片手で100万円受け取ったことで、今、自分を愛してくれたり自分が傷つけたくないと思ったりする相手に、嫌な思いをさせたり恥ずかしい思いをさせたり悩ませたりするかもしれないという事実と共に生きています。

その事実は忘れた瞬間に思い出されるし、常に思っているようでしょっちゅう忘れてますが、そういったことへの責任として気づいたことは書き留め、書くことでまた考えることはやめないでいようと思ってます。私が今いる場所は、当初の能天気な私が想像していたよりも厳しいけれど、意外と幸せだし、

自分の記憶を起点にして何か言葉を探していく人生は、それほど辛いことではありません。 今の所、AV出たいんです、と相談してくる後輩たちに対して、それを引き止める言葉を私は持っていません。10年後の彼氏に、ごめんねって言いながら出なね、くらいは言えるけど。

 

 

「身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論」鈴木涼美 

「おじさんメモリアル」(鈴木涼美)が結構面白かったので、続いて、幻冬舎文庫「身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論」を読んでみた。下に予告編のリンクを貼ったが、こちらは、2017年7月に映画化もされている。主は、ずいぶん、宣伝に貢献しているなと思う・・・(*注:正直に告白すると、この本は途中で嫌になったので半分程度しか読んでいない。しっかり読むと意味が違ってくるかもしれません!)

こちら、本の方

例によってアマゾンの要約を紹介しよう。

【内容紹介】
もしもかつて自分が体を売っていたことが彼氏にばれたら、そのとき彼氏はどうなる? 「お乳は生きるための筋肉」と語る夜のおねえさんの超恋愛論
Fカップ。両親とも大学教員、実家は鎌倉、絵に描いたようなお嬢様。慶応SFCから東京大学大学院を卒業後、日本を代表する新聞社で働いてもみた。その他もろもろの経験も豊富すぎるほど豊富、収入もまあまあある。でもでもでも、全然幸せじゃない! なぜ? 恋で得たものと、恋で失ったものをひとつずつあげていけば、確実に後者が前者を凌駕する。まわりの夜のおねえさん方(水商売をやる女性)や昼のおねえさん方(OLとか)を見渡せば、不思議とそんな方々ばかり。みんな恋愛でほんとうに幸せになれるのか。本当の幸せって何? オカネで買えない幸せなんかあるのか? 気鋭の社会学者が、考えつくありとあらゆることをやりまくって、女の幸せを考えた尽くした超恋愛論! !

【内容(「BOOK」データベースより)】
おカネで買えない愛はほしい。でもそんな退屈なものだけじゃ、満たされない。話題の書『「AV女優」の社会学』著者が赤裸々かつ健気に語る、ワタシたちの幸せの話。

【ここから主のコメント】

 アマゾンのコピーを読んでいると、社会学者の元AV嬢が超恋愛論を語っているように書かれているが、主の受け取り方は違った。

 「おじさんメモリアル」は、お金を出して女の娘を買う男の悲哀、おかしさが読んでいて面白かったのだが、学歴(一般常識や世間知)とAV(セックス、ホスト、性的刺激)の対立軸で考えた時に、AVの方が強く、彼女はそちらにからめとられただけではないかと感じる。

 たしかに、女性が普通に生きて一人の男と生活を共にして、つつがなく人生を終わることに、物足りなさがあることはわかる。15歳の高校生の時に、刺激的なブルセラ売りで、パンツを見知らぬ男に何度も売ったことを手始めに、キャバ嬢、AV嬢、風俗嬢として高収入を稼ぎながら、ホスト通いの生活にハマっていく。一方で、日経新聞の記者をやり、社会学者を名乗り、やがて2014年10月「週刊文春」に日本経済新聞記者の鈴木涼美(当時30才)が芸名・佐藤るりのAV嬢だとすっぱ抜かれる。彼女は、世間の厳しい目にさらされ、「十分に罰を受けた」と感じながら、年齢的なものもあるのだろう、文筆業へと転換し成功する。

 だが、主が感じるのは、人間は弱い存在であり、頭(理性)を保ちながら、AV嬢になったり、ホスト狂いしたりはできないということだ。特に20歳未満ではそうではないか。セックスの手練手管がうまいのは、AV男優、ホスト、ヤクザが浮かぶ。AV出演に支払われる対価は、基本的に、魂を男優に奪われたふりをすることか、実際に奪われた姿を撮影されるところにある。キャバ嬢・風俗嬢として男たちから得た収入や、多額のAV出演料は、よくある話のように、ブランド品の購入と、シャンパンタワーの泡となってホストに貢いで消える。ホストは、「夜の世界」に生きる嬢にとって不特定多数の男に体を開いた空虚感や屈辱を、はたまた、お金で埋めてくれる存在ではないのか。無目的に贅沢な生活をしていると言えばずいぶん聞こえがいいが、実際はヤクザに性的にからめとられたのと同様に、AVビデオへに何度も出演するように都合よくマインドコントロールされたオンナに過ぎないのではないか。

 書いている内容が、ストレートで刺激的だが、社会学的なところはほとんどない。これは売らんかなのエッセーであり、論文は違うのかもしれないが・・。この本の帯に書いてあるのだが、言っていることを要すれば、ブランド品で身を包みたい、退屈はイヤ、「お金をもらって愛され、お金を払って愛する夜の世界へ出ていかずにいられない」、AV出演が親バレ、会社バレ、学校バレして、身が引き裂かれてしまったというところでしかないのではないか。

 AV出演がバッシングされるのは、昨今の不倫騒動と同じ根っこだろう。不倫はそこら中に存在するが、公認すると社会のレーゾンデートルが崩れる。もし、AV出演がすべての女性に推奨される事態となれば、社会規範は転覆し、やはりこれを許すわけにはいかないだろう。どちらの背景にも「快楽」が横たわっており、外野席の人たちの妬み、嫉み、嫉妬は異常に大きい。バッシングが、激しくなるのは当然だろう。

 要は、東大院卒とか日経新聞記者だった過去はあるものの、AV男優、ホストの性的な魅力に屈し、その快楽が平凡な日常より楽しいという話の域を出ていない。たまたま、高学歴だったのでその話が売れただけではないか。当然と言われそうだが、日常生活と性的な快楽を比べた善悪の問題ではなさそうだ。(どんな華々しい恋愛でスタートしても、確かに平凡な日常生活が3年すれば色褪せる宿命は不可避だが・・)鈴木涼美は、才色兼備で金銭的に恵まれている。しかし現実は、彼女のように恵まれないで夜の世界に生きる嬢たちの方が多いし、こちらの方が問題なのではないかと思う。

おしまい

 

東大大学院卒AV嬢 鈴木涼美「おじさんメモリアル」 

日経新聞に鈴木涼美と高橋源一郎氏との対談記事がネットに出ており、面白そうだと思い、鈴木涼美の「おじさんメモリアル」という本を読んでみた。

アマゾンから

例によってアマゾンの要約を紹介しよう。

【著者が出会った哀しき男たちの欲望とニッポンの20年】
元AV女優にして、慶應大学卒業後、東京大学修士課程で社会学を専攻し、その後日経新聞の記者として5年半勤めたという異色の経歴を持つ文筆家・鈴木涼美。
時にはパンツを売る女子高生とそれを買う客として、時には恋人同士として、時には社内不倫の相手として、時には高級愛人クラブの客として……作者がこの20年の間にさまざまなかたちで出会ったおじさんとの思い出を通して「おカネを払うことでしか女を抱けないおじさん」の哀しみを浮き彫りにし、さらには性と消費という視点からこの20年の日本を振り返る。冷徹な批評眼が冴えわたる刺激的エッセイ! 

【アマゾンの読者の書評の一部から】
・・・・会社でいくらデカイ顔をしていても、博士号取得しようが、肩書きが増えようが年収が増えようが、パンツ一枚下ろしたら、男は女にとって、やっかいな赤ちゃんでしかない。本当に面白い。

アマゾンの書評の「パンツ一枚下ろしたら、男は女にとって、やっかいな赤ちゃんでしかない」という表現がストンと落ち、これが購入の一番の動機なのだが、このような表現はこの本には出てこなかった(と思う)。

それはともかく、主のような年配者が今更感心してもどうなるものではないと思うのだが、女性の論理はこうなのかと初めて知ることが、盛りだくさんに書かれており、なかなか面白かった。

AV嬢 佐藤るり

あれこれ言うより、実際の面白かった部分を引用しよう。

「オジサマ方に言いたいのは、水商売や風俗の世界で、客とつきあったり結婚する子がいないわけではないが、それは『そういうときもある』という類のものではなく、『そういうことがある子』と『客は客としてしか見られない子』の二種類がいるのであって、後者にいくら貢ごうが、イケメン客が迫ろうがそのオカネは泡となって消える。ちなみにホスト通いする娘は後者が多いので比喩的な意味ではなく具体的な意味でシャンパンの泡となっている可能性も大いにある。普段は客を客としてしか見られないような娘がごくごく稀に客と友人や恋人になる場合があるとしても、その相手の客というのは同業かヤカラ系の客のどちらかなので、フツウのおじさんにはチャンスは皆無である。」

ふーん。水商売や風俗の世界の女性に対しても多くのフツウの男は、「うまく振舞えば女性の気を惹けるのではないか」と錯覚をしており、それはまったくの無駄ということだ。逆に、客を客としか見られないような娘の方が、ホスト通いでオカネをシャンパンの泡にしているとも読める。鈴木涼美はホスト通いもしており、客から巻き上げたオカネをホストにつぎ込むのはもっともだと考えているように思えて面白い。

次は、キャバ嬢時代の恋人・光ちゃんのことをいろいろ書いている下り。付き合いが長くなってきた光ちゃんが、「俺は俺のことをちゃんと好きになるオンナと付き合いたいわけ。カネを持った途端に寄ってきたオンナとか糞だと思ってるから。お前はそうじゃないと思っていたけど、結局あいつらと同じなのかな」と言い始める。

これに対して鈴木涼美はこう書いている。「正直、けっこう私はカチンカチンときていた。まず、そういった邪心一切なしのオンナと付き合いたいのであればキャバクラを狩場とするなと言いたい。さらに言えば、人間というのはポイント制なのであって、財力、美しさ、学力、性格、筋力、コミュ力など、どれかのポイントが上がればモテ度が上昇するのも、気に留める女が増えるのも当然である。財力は運動神経もコミュ力もない不細工が後から急上昇させやすいポイントであるのだが、私の中では別に、運動神経や顔面偏差値と同等なものであってそれだけを取り出してああだこうだ言う光ちゃんはひたすらうざかった。」

キャバクラで知り合って付き合い始めた光ちゃんが、人間そのものを見てくれみたいなこと言い始める。それに対して、それならキャバクラではないところで彼女を見つけろという。これはおそらく、財力を目当てに近寄ってきたオンナには財力がなくなると見限られるという恐怖が、男にあるのだろう。オンナは男をポイント制で評価しているが、男は、バカなので好きか嫌いかの二元論になってしまうのではないか。

加えてこう書いている。「結局、小学生・中学生をきちんと段階を踏んでモテておく、というのは大切なのであるそんなにイケメンでも運動神経抜群でもなかった光ちゃんは、要するにモテること慣れていなかった。モテることに慣れていないままにオカネを持って急にチヤホヤされだし、それで彼女なんてできても、オカネがなかったころの自分だったら見向きもしなかったクセに・・・という思考回路から抜け出せない。」

同じ含意なのだが、風俗通いする男は、不遇な子供の時の仕返しを風俗嬢(奥さん?)にしているという趣旨のことを読んだことがある。

次は、交際クラブなどに所属する女性(嬢)の話。引用していると長くなるので適当に要約すると、おじさんとつきあう際のお小遣い額がオショックス(2時間の食事デートと2時間のホテル)で6万円なのだが、なかにはちゃちゃっとセックスして1時間で別れる効率的なおじさんがいて、その場合は5万でも可だ。ところが、多くのおじさんが誤解する。セックスなしのデートに何時間も拘束し、おじさんは恋人気分になって、1万円で済まそうとする。セックスせずとも、4時間拘束したら6万円払えというのだ。「だって彼女にとってはおじさんとのデートはおじさんとのセックスと同じくらい不快だから。べつにアレがアソコに入ろうと入るまいと、恋人気分の代償はしっかり払って欲しいのだ。だって彼女にとっておじさんは、友達でも恋人でもなくお客さんであるのだ。」誤解する恋人気分のおじさんの気持ちはわかる。

また、「非・夜のオネエサン」な女子たちの考え方についても面白い。男性誌の企画で「いくらもらったら好きじゃない人とセックスしますか?」と街頭アンケート結果がそうだ。街頭インタビューをしたおミズ系ライターのオネエサンは次のように言う。「びっくりするよ。売春系の経験がない女子たちの自らの値段設定は。一番多いのが100万円。グラビアモデルがバック5万円でデリヘルで働く時代に。もっさい子でも1憶って言ってくる子もいるからね。大手デリヘルに勤めたら、せいぜい2万円クラスの子でも、平気でそういうこと言う。かわいい子で5万とか3万とか答えるのは、明らかに風俗嬢ね」ところが、こうした素人系女子はこういうことも言う。「でもね、じゃあ知らないおじさんとお寿司食べに行くのに抵抗がありますかって聞くと、高いお寿司なら奢って欲しい~とか言ってくるわけ」 要するに、「素人系女子は自らのセックスの値段には自信過剰だが、恋人気分のデートの価格に無頓着である」「玄人嬢は、自らのセックスの値段には現実的だが、恋人気分のデートの価格にシビアである。おじさんたちは、この2つの考え方を都合よく混同し、玄人嬢をデートに誘っては嫌われ、素人女性を5万くらいで抱けると思ってやはり嫌われる

次は、東大デビュー男の話。これは東大卒にも何種類かのルートがあり、麻布や筑駒卒の男に比べ、東大卒男の一類型だが、高校時代にかなり抑圧された環境にあった男の、東大卒が弊害になった忌むべき存在となるというものだ。すなわち、暗黒の高校生時代を過ごした後、めでたく東大に合格し、彼の生活は一転薔薇色に代わるのだが、「東大デビューして無敵になった彼のコンプレックスは、当然、ダサさの中心で愛を叫んでいた高校時代である。その失われた青春時代をどう取り戻すか。」この結果、女性に対して歪んだ性向を示すことになる。この失敗と挫折を知らない、自分の思いどおりに人生を生きてきた東大卒の恋人は、嫌気をさした鈴木涼美から別れ話を切り出され、翻意されない復讐に、鈴木涼美が佐藤るりの名前で出ていたアダルト動画を両親に送り付ける。

最後に男の勘違いを同じだがもう一つ。「なんか男って、他人がホステスにいいように利用されていると『お前なんか金としてしか見られてないぜバカが』とか『お前が相手にされるわけがないだろがバカが』とかとっても冷静な批評を加えられるのに、こと自分が『会いたい』とか言われると何故か店以外の場所でオカネも払わずに会おうという常軌を逸した翻訳をするのでほんとにドン引きである。『おいしいものを食べさせる』ことが会ってくれたお礼になるという素敵な勘違いをしている人もいまだにそのへんに転がっているが、『いい女とご飯を食べる』向こうの快楽と「無料でご飯を食べる』こちらの快楽では、向こうの方が当然大分上回っているので、やはり差額はきっちり払っていただきたいところである」

「おわりに」では、「オカネのために、あるいは生活の安定のため、あるいはプレゼントをもらうため、あるいは妻という座に座るために、抱かれるということがないおじさんにとっては、」ー「必要のないところで股を開き、何に使うか分からない大金を稼ぎ、見知らぬ男に裸を見せる」ー「そうした行為は耐え難く苦しそうに見えるのだろうと思う。彼らはその姿を見てあらゆる想像力を駆使してストーリーを見出し、それを消費してきた」と分析する。

逆に女性の側から見た「おカネをもらってするセックス」で、「おカネを放出し、精子まで放出していくおじさんの姿に浮き上がる文字は、可笑しさとせつなさ以外に何であろうか。彼らがお金を払って手にしているつかの間の自由と幸福は、お金を払わずして手に入ることは絶対にない。100円玉で買えるぬくもりは100円ないと買えない」と結んでいる。

全体に振り返ってみると、女性の方が男性より明らかに現実主義者だ。著者の鈴木涼美は、「人間はポイント制だ」と言い切り、自分はポイント上位にある女性という意識が強いのだろう。家庭環境もとても恵まれている。そうしたことから彼女の場合は、貨幣に換算して、1時間5万もらって当然という思考なんだと思う。一方、男はバカで、少しも実現していない潜在価値まで足し算している夢想家のように思う。

おしまい

 

 

ブラジル 人生観が変わるプライア(海岸)の話

ブラジルの話は帰国して10年以上がたち、ライブな話題を提供できないこともあって、ほとんど書かなかった。だが、トピックが全然ないわけではないので、なるべく軽くて、面白い話をしたい。

ブラジルに住んでいたのは、2002年から2006年までの4年間だ。主が住んでいたのは、首都ブラジリアだった。ブラジルと言えば、サンパウロ、リオデジャネイロ(リオ)が有名だが、ブラジリアは人工的に建設された首都で、当時建都45年くらいだった。そのため、人工的に設計された都市も、かなり老朽化が目立ち、近代的なのか、廃れているのか両方がミックスされた雰囲気があった。人口は、サンパウロ2,000万人、リオ500万人に対し、ブラジリアは周囲の衛星都市を合わせて当時200万人くらいだったように思う。他の都市には、立派な教会のある広場を中心としたセントロがあるが、ブラジリアにはこれといったセントロがなく、商業地域しかない。

ブラジリアの写真(WIKIPEDIAから)
ブラジリア(WIKIPEDIAから)

赴任当初の2002年5月に日韓共催でサッカーのワールドカップが開かれ、ブラジルが5度目の優勝した。ブラジル国内は大騒ぎとなり、セレソン(ナショナルチーム)が凱旋パレードをした記憶が少し残っている。このセレソンは、ブラジリアを含むブラジル国内の主要都市を何か所か飛行機で巡ったのだが、パレードの予定時間が大幅に遅れ、最後のリオだかサンパウロでは、明け方、夜が白々と明けるころ行進し、「(時間にルーズな)ブラジルらしいなあ!?」と思ったのが懐かしい。

下の写真の1枚目は、リオのコルコバードの丘の有名なキリスト像。2枚目は、イパネマ海岸かコパカバーナ海岸といった有名な海岸をビキニ姿で歩く女性たちだ。このビキニは、タンガ(ブラジルビキニ)というのだが、上半身、下半身とも最小限の三角形で体を隠している。女性は年齢を問わず、このタイプの水着を着ている。

このような美しい海岸は、リオだけかと思うかもしれないが、ブラジルのこのような真っ白い砂、真っ青な空の美しい海岸は、赤道のあたりから温帯に入るアルゼンチンの手前までの数千キロにわたっている。

女性の服の話をすると、体の線を隠すのはダサく、体の線をはっきり出すのが恰好いいとみんな思っている。したがって、日本で一般的に着られる、体のラインを隠すゆったりした服は好まれない。スカートは、よっぽどでないかぎり普段は履かない。フォーマルなドレスの時には思い切り着飾り、スカートを着てハリウッド女優みたいな姿になるが、普段はGパンが一般的だ。

親爺らしく日本の説教臭い話題へ。外国から日本へ帰国する時にいつも思うのだが、女子高生が短いスカートを履き、化粧をしていると売春婦に見える。アニメの影響らしいが、どうかと思う。外国では、特にブラジルでは、前述したように女性は老いも若きも、体の線がはっきり出る服を好むが、TシャツにGパンという地味な格好が普段の姿だ。日本女性は、衣服と化粧品に対する嗜好やこだわりが非常に強いと思う。しかし、広告が成功しており、ある種の洗脳状態、強迫観念にかられているのだと思う。日本女性の支出の大きな部分はこの二つだろうが、ブラジルでは全体で見れば所得の高くない人が多いので、服装や化粧にかける金額はわずかだろう。

photo by AllPosters.co.jp

photo by YOSHIOKA Noriaki _ 旅いつまでも・・

話を元に戻そう。ポルトガル語では海岸のことをプライアというのだが、このプライア抜きにブラジルを語れない。ブラジリアは内陸の首都のため、プライアがないことに住民は嘆く。だが、人造湖(ラゴ)があり、この水辺がプライアの雰囲気を少しだけ醸し出している。大西洋に面した本当の海岸線は、実に美しい。日本で有名な海岸は江之島だろうが、あんなに砂が黒くない。真っ白なのだ。空も、雲一つない真っ青な快晴のことがほとんどだ。気温もちょうどいい。日本人は赤道の近くは猛暑だと思っている節があるが、アマゾンの河口の州都ベレンであっても、ずっと日本より快適だ。ちょっと緯度が下がったバイア州の州都サルバドール(日本語にすると『救世主』になる)などでは、ブラジル全土でいえることだが、昔ながらのヨーロッパの風情のある建物が立ち並び、プライアで過ごす時間は何物にも代えがたい。

salvador
APPLEWORLDからサルバドールの街

ブラジル人は、日本人のように海で泳ぐというケチなことはしない。プライアではビーチバレーをしたり、家族や仲間とお喋りをしながら、浜に寝そべって体を焼くのだ。パラソルの影の下のリクライニングチェアで、ビールやココナツジュースを飲むこともできる。このリクライニングチェアとビーチパラソルはレンタルなのだが、当時、1回100円くらいの金額で借りることだ出来た。お兄ちゃんが、スコップで砂を掘り、パラソルを立て、リクライニングチェアを設置してくれる。ブラジルは格差の大きな国なので、リクライニングチェアで寝そべっていると、さまざまな商品を売りに来るお兄ちゃんたちが、目の前を左右に行きかう。売られているのは、サングラス、サンオイル、つまみ類、雑貨など何でもありだ。

そのリクライニングチェアに寝そべり、サングラスの奥から、タンガ(ビキニ)姿の女性を何をするともなく、ビールなどを飲みながら半日くらい眺めていると、日本の満員電車で培われた人生観が変わっていくのが実感できる。脳みその構造が、プライアへ行って半日くらいすると組替わる。ケセラセラ、なるようになる、あくせくしても始まらない! と人生観が変わる。

ちなみに、ブラジル人に限らず一般に外国人が海で泳がないのは、一般の公立学校にはプールがないことが多く、水泳を習っていないからだ。ちゃん、ちゃん。

おしまい

グローバリズム(新自由主義)についての報道は正しいのか?正しくないのか?

27/August/2017

前にグローバリズムのことを否定的に書いたのだが、グローバリズムと言っても、そこには一定のルールがあり、全く規制がないということはないだろう、制約や制限があるのではないかという趣旨の質問をもらった。

たしかに全くないということはないだろう。輸出国、輸入国の双方に法律や慣習、社会の共同幻想といったものが当然あり、それらの制約を受ける。だが、基本的に途上国は、先進国からの投資を呼び込むことと、比較優位にある農産物などの輸出をすることを切望している。輸入国は、相手国の法律、商慣習に従う制約などがあるが、自国と比べて安い労働力を手に入れることを目的としている。この時、双方の国に存在する不平等を是正するような働きや仕組みはない。

国際機関も存在する。GATT(関税及び貿易に関する一般協定)があり、WTO(世界貿易機関)が目を光らせている。UN(国連)もある。COP21・パリ協定(温暖化防止条約)もある。IMF(国際通貨基金)、World Bank(世界銀行)、IDB(開発銀行)も監視している。犯罪関係の監視機関もあるだろう。確かに不正や腐敗を監視し、それらに立ち向かう体裁や仕組みはあるといっていいし、間違いではない。

だがこれらは、いずれも自由貿易にとって不都合なことが行われていないかを監視しており、現状の格差の是正についてはまったく関心がない。いずれも既存勢力の利益(先進国と途上国の支配階層いっていいだろう)を守ることに専念し、理論武装し、「世界の99%を貧困にする経済」*政策をとっていることを気にしていない。

*「世界の99%を貧困にする経済」というのは、アメリカ人ノーベル賞経済学者のスティグリッツが2012年に著した著書のタイトルだ。

主は、特に経済的な側面をつかさどるIMFやWorld Bankは、もっと平等や分配に関心を持ってしかるべきだと思うが、実際は、債権者の利益や損失ばかりを気にかけており、これまでの通貨危機などで債権の保全を重視し、債務国(例えば、ギリシャ、韓国、アルゼンチン)の景気回復に対して逆効果なことばかりを強いてきたと考えている。

なぜ、このようなことが起こったのか。近代経済学は、アダム・スミスを祖としており、その先にケインズ経済学がある。その後に「新古典派」経済学が出てくる。この新古典派は、人間が合理的に行動しさえすればというわずかな前提条件下で、アダムスミスの国富論に書かれている『自由市場では「まるで見えざる手に導かれるように(中略)[各人が]自分の利益を追求すること』が一般にとってよいことを促進するという命題を数学的に証明して見せた。と同時に、新古典派が登場する1950年代の10年間は、経済成長が世界的に大きく起こり、成長の取り分が金持ちより貧乏人の方が多いという奇跡、黄金の時代だった。このことが、貧乏人に対し対策をとらずとも格差は縮小していくので、経済学者は、分配問題を切り離し、経済成長だけを考えるようになってしまった。

だが、この1950年代の10年間は一世紀以上の期間の例外であり、この10年間を除くと、格差は縮まず、拡大を続けた。実際に、自由貿易やグローバリズム、新自由主義が実践され始めたのは、198年代のサッチャー政権、レーガン政権以降だが、経済学者ミルトン・フリードマンの「選択の自由」という有名な本が理論的な背景になっている。その後の30年間で、格差は異常なまでに高まり、前にも書いたが、世界のトップ8の金持ちの資産の合計額が、下位半分の人口(36億人)の総資産の合計額と同じという程度まで広がった。

そこで、登場してきたのが2017年アメリカ大統領選挙のサンダースであり、トランプだった。フランスでは国民戦線のルペンだ。彼らは、これまでの自由貿易やグローバリズムを続けていると1%のエスタブリッシュメントだけが得をするといったのだ。

だが、世はトラップバッシングの大合唱だ。主は、トランプを擁護するつもりはないが、エマニュエル・トッド同様、このバッシングの大合唱は、1%のエスタブリッシュメントの勢力の息がかかった連中がバックにいると考えている。

報道をネットで見ると、極度の貧困層(一日の生活費が1.9ドル以下)が減少したという記事やニュースを見つけることが出来る。へー、めでたいと思う。

だが、これはおためごかしだ。絶対に格差は拡大している! 地球全体で見たジニ係数は拡大しているはずだと主は考えた。だが、ことはそう簡単ではなかった。

まず、一つ目は日経新聞で2017年の経産省が発行する通商白書の要約を載せている。この記事で、『「自由貿易は人々が懸念するような格差の要因ではない」と反論。所得格差を示すジニ係数を分析した国際通貨基金(IMF)の調査を引用し、「自由貿易は教育政策や労働政策と同様に格差縮小に寄与している」とした。』と書き、ジニ係数は縮小している(格差が縮小している)と書かれている。

日経新聞 通商白書の記事(自由貿易、格差縮小に貢献)

通商白書のデータ「貿易による所得格差への影響」

二つ目は、夕刊フジに掲載された経済学者高橋洋一氏の記事。ジニ係数のことが書かれており、ジニ係数には、課税前・社会保障給付前の「当初所得」、課税後・社会保障給付後の「再分配所得」の2種類があること、当初所得で見ると時の経過とともに悪化しているが、再分配所得で見るとほぼ横ばいで、「国際的に見て日本の所得の再分配機能は必ずしも弱いわけではなく、平均的であり、傾向としては再分配機能が強化されているというのが事実である。」と書かれている。

高橋洋一「夕刊フジ 日本の所得格差拡大は本当なのか 再分配機能は強化の方向にある」

上の二つは、どちらも間違っているわけではない。正しいのだが、地球規模でジニ係数が改善したのは、中国とインドの改善の影響が大きい。この後述べるが、先進国ではジニ係数が悪化、格差が拡大している。

こちらは、環境省が 2010年に発表した「環境白書」である。下のリンクは、白書の「序章 地球の行方 -世界はどこに向かっているのか、日本はどういう状況か-」なのだが、この一番下の部分にOECD加盟国(先進国)のジニ係数の推移が書かれている。下の方までスクロールしなければ出てこないので、図表を貼り付け、主の意見を下に書いてみた。

序章 地球の行方 -世界はどこに向かっているのか、日本はどういう状況か-

OECD加盟国ジニ係数

この表は、OECD加盟国(先進国)の1980年代半ばから2000年代半ばまでのジニ係数の変化をグラフにまとめたものだ。この表の見方だが、中心より右に棒があるときに格差が拡大していることを示し、棒が長いほど拡大の程度が激しいことを示している。見るとわかるように、先進国のうち、トルコ、ギリシャ、アイルランド、スペイン、フランスで格差が縮小している。それ以外の国では、格差が拡大している。日本は、OECD加盟国平均よりは低いものの、やはり格差は拡大している。

これを見て気付いた人もいると思うが、この表は2010年に作られており、格差を縮小した国(トルコ、ギリシャ、アイルランド、スペイン、フランス)は、2008年に起こったサブプライムローンが引き起こしたリーマンショックで大きな被害が出た国だ。これらの国で、金持ちたちが大きな被害を被ったのが良く分かる。おかげで、格差が縮小した。他国では、20年間の間に格差は広がったことを示している。リーマンショックがもしなければ、すべての先進国で格差が広がっていただろう。

【結論】自由貿易により格差が縮小したと言われているが、非常に貧しい国の人々の生活がわずかに改善したことが原因だ。縮小の原因が、自由貿易にあると結論付けるのは無理だ。「縮小の原因が貿易にある」というのであれば、いいかもしれない。1ドルで暮らしていた貧しい人が2ドルで暮らせば、倍だ。人数が何億人ともなれば、統計的な影響は非常に大きい。何故ならジニ係数は、1人1票としてカウントされるからだ。

だが、先進国ではジニ係数(格差)が拡大していることが見える。生産や輸出入の金額のウエイトを、両国の企業と貧しい人々の生産高で比べると、両国の企業のウエイトの方が圧倒的に高いだろう。それを考える時、その企業は自由貿易でさらに儲けを大きくし、先進国内での企業家と労働者の格差を拡大しながら、途上国の国民を広く極めて浅く、豊かにしたということだろう。前にも書いたが、これは地球全体で見て、幸せ度が増えたということは言えない。先進国で格差が広がることが、本来のもっと高い潜在成長率の実現を妨げ、途上国ではもっと大きな賃上げが実現されて然るべきだ。この差が儲けとなってエスタブリッシュメントに行っている、というのが主の考えだ。

また、日本のデータを見るとき、高橋洋一氏の指摘にあるように、課税後・社会保障給付後の「再分配所得」のジニ係数はほぼ横ばいだが、課税前・社会保障給付前の「当初所得」のジニ係数は拡大していることを指摘されている。これは何を意味しているか?

これの意味するところは、統計に捕捉されている人(年金生活の老人、生活保護受給者など)は、格差の拡大に対し社会のセーフティーネットがカバーし、その額が大きくなっていることを意味する。だが、統計に表れない子供、学生や特定産業従事者(風俗関係、暴力団員など)、社会保障にアクセスできない人、社会から取り残された人などにとっては、相対的貧困度(格差)が年々、増しているはずだ。

おしまい