バッハ「平均律クラヴィーア曲集第1巻」小佐野圭 ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第2番」アルゲリッチ

2016年3月5日(土)小佐野圭さんのバッハ「平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲」のコンサートへ行ってきた。小佐野さんは1958年生まれの58歳、玉川大学教授でもある。会場は銀座のヤマハホール。収容人員が333人のホールで、自由席だったので、良い席に座ることができ、演奏者がよく見えた。同時に、ピアノという楽器が大音量を出すことにいまさらながらに驚いた。アコースティックな響きがとても心地よい。

小佐野さんの演奏は、全ての曲を楽譜をガン見しながら弾くもので、演奏しながら楽譜のページをめくる様子にちょっとハラハラさせられる。グールドは基本的にどの曲を弾くにも暗譜で弾いていたのだが、小佐野さんは音楽大学の教授なのだが、それでも楽譜なしでは弾かないようだ。もちろん楽譜を見ながら弾くのが劣るというつもりはない。だが、グールドはモンサンジョンとの映画の中では、一つの曲を、解説しながらいろいろな弾き方をして見せ、こうした芸当をもし楽譜を見ながらするのであれば、かなり制約を受けるだろうと思う。暗譜で弾いた方が極端な弾き方がいろいろとできる気がする。

およそ60年前の話であるが、グールドの演奏を生で聴けた人は幸運だとつくづく思う。もっとも、彼がコンサートで弾いた時期は、1955年のアメリカデビューのあと、1964年には公演から引退してしまったのでわずか9年間しかない。おまけに、彼が弾く曲は、バッハ、ベートーヴェン、ギボンズ、スウェーリンク、ヴェーベルン、ベルクなどといったある種風変わりなプログラムに限定されていた。しかし、ニューヨークデビューの翌日契約を申し出たコロンビアレコードの重役オッペンハイムの言葉を借りれば「グレンの演奏は宗教的な雰囲気を醸し出していて、思わず聴き入ってしまいました。….私は驚喜しましたよ」ということだ。

肝心の演奏の方は、かっちりとした正統的なバッハを聴くことができた。なんといっても、バッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の原曲の魅力は絶大だ。曲自身の構造がしっかりしているので、誰が演奏しても崩れることがない。ジャズでも演奏されるくらいだから。来年は第2巻の演奏が予定されている。また、是非行きたいと思う。

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次に、2016年5月17日(火)アルゲリッチのコンサートへ行ってきた。       アルゲリッチは1941年生まれのアルゼンチン人ピアニストで、今では75歳になってしまったが、クラシックファンなら誰でも知っている有名人だ。デビュー当時には賞を総なめにしており、プゾーニ国際ピアノコンクール、ジュネーブ国際音楽コンクール、ショパン国際ピアノコンクールで優勝している。

1960年代、主が中学生の頃、親父がアルゲリッチのLPレコードを持っていた。レコードジャケットには20代のアルゲリッチが写っており「えらい美人やな!!」と主は動揺したことを覚えている。白人で若くて美人、これは日本人が圧倒される要素だと思う。 そんなこんなで、その後の彼女の私生活を調べてみると、3人の音楽家と結婚と離婚を繰り返し、それぞれに夫が違う娘を3人産んでいる。細部は知らないが、波乱万丈な人生のようだ。下は若いころのレコードジャケットである。

アルゲリッチ

この日のオーケストラは、高関健指揮の紀尾井シンフォニエッタ東京。初台にあるオペラシティのホールは1632人収容の大きなホールだ。

第一部はモーツアルトのディヴェルティメントニ長調K136と交響曲40番。第二部で武満徹の映画音楽から「ワルツ」、最後にアルゲリッチとの協演によるベートーヴェン「ピアノ協奏曲第二番」である。第二部の冒頭から美智子妃が会場に来られ、大喝采で迎えられた。

演奏された曲はどれも馴染みのある曲ばかりだった。アルゲリッチのピアノは、最初リズムの取り方がグールドのように正確ではなく「違和感があるなあ?!」と思っていたが、曲が進むにつれて耳が馴染んでくるのか、それなりに楽しむことができた。

アンコールにスカルラッティのソナタニ短調K141という曲が演奏された。スカルラッティは、イタリアナポリで1685年に生まれたJ.S.バッハと同時代の作曲家だ。この日のアルゲリッチのスカルラッティの演奏は、バッハと同時代の音楽の感じがせず、ロマン派の曲かと思ったほど崩れた感じがした。下のYOUTUBEのリンクはアルゲリッチの同じ曲の2009年の演奏だが、むしろこちらの方がうまいと感じる。

https://www.youtube.com/watch?v=Gh9WX7TKfkI ←こちらアルゲリッチ2009年

以下は、たまたま開いたチェンバロのJean Rondeauの演奏。こちらの方がバロックらしく感じられ、主の好みだ。(YOUTUBEのリンク)

 

 

 

「最貧困女子」鈴木大介

「最貧困女子」(鈴木大介・幻冬舎新書)を読んだ。

主は、バブルがはじけて20年、長く続くデフレで普通の所得層が貧困層へと低下を余儀なくされ、普通の子たちがセックスワーク(売春や性風俗)をし始めているのかなと思いながらこの本を読み始めた。だが、全く違うのだ。事態はそのような気楽なものではない。どこから手を付ければよいかわからないほど、大きく深刻な問題がある。しかも、なかなか可視化されない。

いやあ、凄い! 日本の現状はこうまで酷いのだと知る。格差の拡大が世界中で問題になっているが、日本は格差の広がりが小さく、比較的まだ平等が保たれていると思っていた。だが、そんな生易しい認識はまったく間違っていると思い知らされた。どうしようもなく、救いがたい「最貧困女子」がいるのだ。

まずは、この本の裏表紙コピーは次のように書かれている。

「働く単身女性の3分の1が年収114万円未満。中でも10~20代女性を特に『貧困女子』と呼んでいる。しかし、さらに目も当てられないような地獄でもがき苦しむ女性たちがいる。それが、家族・地域・制度(社会保障制度)という三つの縁をなくし、セックスワークで日銭を稼ぐしかない『最貧困女子』だ。可視化されにくい彼女らの抱えた苦しみや痛みを最底辺フィールドワーカーが活写、問題をえぐり出す!」

高度成長を経てバブルが終わるころ(20年前)を境に、日本の社会の構造が大きく変容した。爺さん、婆さん、父ちゃん、母ちゃんが居て子供がいるというスタイルから、家族は核家族化した。グローバル競争の掛け声の下、広汎に規制緩和が行なわれ、過当競争が起こり、終身雇用制度は崩れ、非正規雇用を余儀なくされる。従来の父ちゃんが働いて家族を養うスタイルは、父ちゃんの所得の低下で不可能となり、共稼ぎが当たり前となる。当然、子供の出生率も低下する。デフレスパイラルのはじまりだ。

デフレは物価が下がるものの、購買力が上がるため望ましいとするバカな学者もいるが、間違いだ。既得権益を持つ者、金持ちはデフレで購買力が増すことで確かにメリットがあるが、持たざる者にとってさらなる所得の低下は、限界的な生活を強いられることを意味する。社会全体で見ても、社会の持つ潜在成長率を達成できず、資源の遊休が生じる。

こうした不況のなかで、格差は、均等に生じるわけではない。子供を抱えて離婚する女性などが、絶望的な貧困に陥りやすい。社会が変わり、家族の縁が切れ、地域の助けもなく、無知や教育の欠如などが原因で、生活保護などの社会保障を受けることもない。こうした環境で育つ子供は、貧困の連鎖に陥り、学校へ行かない、満足に教育を受けていないため簡単な知識や概念すら理解できない。家を借りたり、就職したり、銀行口座を開いたり、生活保護の申請をしたりと言った事務手続きをすることを思い浮かべることすらできない

人間が十全に成長するためには、衣食住が足りたうえで、なおかつ、親から十分な愛情をもって育てられる子供時代を過ごすことが必要だ。満足な子供時代を過ごすことができないということは、三つの障害(精神障害・発達障害・知的障害)を抱えることにもなりかねない。そうした障害は、職業に就く際やその後の人生で不利に働く。仮にパートナーと共同生活を始めるようになった場合でも、例えば、愛着障害がある場合には普通の関係を築けないことにもなる。対人関係はぎこちないものとなるだろう。

こうした「最貧困女子」は、三つの縁(家族・地域・制度(社会保障制度))がない状態に加えて、三つの障害(精神障害・発達障害・知的障害)を抱え社会の底辺で生きることになりがちなのだが、養護施設、民生委員、ケースワーカーや生活保護など社会保障制度へのアクセスを忌避しがちなためにその存在が社会からなかなか見えない。貧困を抱えながら、たった一人で生きることを選択してしまい、それにより周囲から見えなくなってしまう。

同時に、田舎を捨てて生活費に困ったり、ノーマルな給与だけでは足りない普通の女子たちがセックスワークに参入することにより、障害を持つ「最貧困女子」はパージされ、居場所が狭められる。結果、三大NGの現場(ハードSM、アナル、スカトロ)しか残っていないことになる。歌舞伎町のスカウトに「犬とやったら30万円だって!」といわれた発達障害があるA子の話が哀しい。

これは、「自己責任」なんかじゃない。教育が保障されていない子供が存在するということだと思う。子供の6人に1人は貧困家庭ということだが、社会のポテンシャルを確保する意味からも、機会均等を確保し、社会でその子の面倒を見る仕組みを十分に機能させることが必要だと思う。子供の時に落ちこぼれてしまうと、ハンディキャップを一生背負うことになる、これは本人にとっても社会にとっても不幸だし損失だ。

なお、この本は非常にインパクトがあり、問題の大きさに圧倒される。そのせいだろう、アマゾンのこの本のカスタマーレビューには、他に例を見ないほど多勢の書き込みがある。どれも興味深い力作ぞろいであり、読んでみることをお勧めする。

 

 

 

 

 

「2020年世界経済の勝者と敗者」クルーグマン / 浜田宏一

written on 5th /April /2016

2020年世界経済の勝者と敗者」(ポール・クルーグマン 浜田宏一)

この本は2016年1月に発売されたものだ。浜田宏一氏は、2013年1月に「アメリカは日本経済の復活を知っている」を出しており、似たようなことが書かれているのかなと思ったため、読むのを後回しにしていた。だが実際に読んでみると、本当に今のアメリカ、アベノミクス、EU、中国について起こっていることを生々しく解説しており、非常に面白かった。(当たり前ながら、主が気にする今年2月に発動された黒田日銀のマイナス金利のことは、触れられていない)

2020年世界経済の勝者と敗者

 

クルーグマンは、2008年にノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者だが、この本では二人が同じテーマについて交互に語るという形式で進む。

ところで、クルーグマンのノーベル経済学賞の受賞理由だが、これは「収穫逓増」を明らかにしたところにある。

国際貿易を考える際に従来の古典派の学説は「収穫逓減」が言われていた。この「収穫逓減の法則」というのは、企業が生産高を上げるために、生産コスト(投入)の増加をおこなっても、産出額の増加を上回り、効果は逓減するというものだ。例えば、一定の耕作地で作物を育てることを考えてみるとわかりやすい。作物の面積当たりの収穫高を上げるために、蒔く種の量を増やしても、収穫高は正比例せず、制約により増加高は逓減する。これが古典派の「収穫逓減の法則」である。

ところが、クルーグマンは、企業が産出高を増やす際に、「収穫逓増」が起こることを証明した。すなわち、小さな投資で大きく産出高が増加することを証明した。

これは、素人考えでは当然だろう。従来の古典派の収穫逓減の方が、違和感がありおかしい。大企業はどんどん生産を拡大することで、単位当たりの生産費用を縮小することができるゆえに(言い換えると、規模の利益により)大きな利益を上げることができるのだ。

この本の話にもどろう。消費税の増税が大きなトピックになっている。この本から「消費税10%は絶対不可ークルーグマン」という章を引用しよう。 — 「消費税を上げることは、日本経済にとって自己破壊的な政策といわざるをえません。増税以降、日本経済は勢いを失い始めたように見えます。安倍首相が間違った人々の声に耳を傾けてしまった、ということなのでしょう。安倍首相の周りには、こんなことを吹き込む人たちがいたはずです。『日本経済を離陸させるのに、時速300マイルは非常に危険です。200マイルで行きましょう』しかし、実際には、日本経済を離陸させるには時速300マイルが必要なのです。中途半端な速度で離陸しようとするほうが、むしろ危険・・・飛行機ならクラッシュしてしまいます。これは、日本の経済政策に関する歴史的な傾向ともいえるものです。すなわち、経済が少しうまく行くようになると、すぐに逆戻りするような愚策に転向してしまう。」

もちろん離陸スピードの300マイルとか200マイルというのは、消費税の税率を例えたものだ。日本の経済の回復のためには、消費税をまったく上げずに不況から軽いインフレへと高速で離陸することが必要だ。消費税は経済が過熱した時に、経済を冷やす働きをさせるために上げることが合理的だ。ところが現在の不況下にもかかわらず、財政再建論者は多く、消費税を上げないと世界の信認を失うなどと言ったり、経済回復の兆しが少し見えただけで金融引き締めを主張し始める勢力も多数存在し、こういう人たちが景気回復の妨げになっている。

また、同じ章で、日本経済を上向かせるために最も良い方法は「増税した消費税を一時的に減税すること」だと述べており、5%の消費税を8%へとアップしたが、これを一時的に(景気が回復するまで)減税することだと述べている。

安倍首相ならこれをやれるのではないか!と、淡い期待であるが、これしか方法はないと思っている主は期待している

面白いトピックは他にもいろいろあるのだが、「ヨーロッパの解体」の章も面白い。誰でも知っているとおり、ヨーロッパの多くの国は政治を統合することなく、通貨統合をしてしまったのであるが、これがそもそもの間違いで、「ヨーロッパ経済は停滞とデフレに向かっているようだ」と分析されている。(これまでの日本の姿になるのではと危惧されている)そうした中、欧州連合(EU)にありながら、独自通貨を使っているデンマークの経済運営はうまく行っていると書かれている。一方で、独自通貨を失ったギリシャは最悪の状態にある。(似たような状況のカナダが、緊縮財政と金融緩和を同時に行うことで経済危機を脱出したことに比して、ギリシャは独自通貨がないために金融緩和をできない制約がある)

中国のことも面白く書かれている。統計がいい加減で、信用できないのであるが、すでにバブルがはじけて始めており、マイナス成長になっているのではと書かれている。こうなると、日本への影響が心配になるが、日本は内需が60%あり、中国以外への逃げ道も選択肢としてあること、中国自身にもある程度の社会的な蓄積があるのは事実で、破滅するという極端な心配をするのは行き過ぎという風に読めた。

 

 

 

「こけたアベノミクス!」と喜ぶ声は 本当か

written on 02.03.2016

今年の正月が明けてから、好調だった日本の経済、とりわけ株価が変調をきたしている。昨年の暮れに日経平均株価は2万円を超えていたが、今では1万6千円を割る水準にまで下がっている。ただ、今日(3月2日)は、為替が久しぶりに114円の水準にまで円安になり、終値が1万6千500円まで戻している。

アベノミクス

この株価の低調な理由は、次のように言われている。                        ① 1バレル100ドルを超えていた原油が、30ドル程度までに安くなり、さらにイランの経済封鎖が解かれたため、さらに供給が増えると予想されるが、当面は産油国の減産合意は無理だろうと考えられている。                            ② アメリカは、リーマンショック後の景気後退局面からいち早く景気回復宣言し、利上げを昨年末に実施した。だが、実はアメリカの景気回復は非常に弱いもので、今後の引き続く利上げは実現性が薄いと考えられている。                        ③ 中国景気の先行き不安が、昨年から明らかになり、中国政府の統計への不信感も相まって、マーケットが疑心暗鬼となっている。

このように、世界の懸念は日本にはない。日本は財政赤字があるものの、世界中の国に比べると不安要素は少ない。これが安全通貨と言われる円が、買われる理由になる。

この状況で生じた日本だけでなく世界同時不況を想起させる年初の円高・株安によりマーケットが日銀に追加緩和を催促し、日銀はマイナス金利という新手を打ち出した。これが従来の量的緩和の手法ではなかったために、日銀は、もう金融緩和に量的緩和カードは使えないとマーケットに判断された。本来であれば、マイナス金利はアメリカの利上げとあいまって、金利差が拡大するので円安へと作用するはずなのだが、為替相場は安全資産の円を買う動きとなり、125円ほどの円安水準から112円ほどの円高水準へと大幅な円高になった。

ところで、日本の株は、残高、日々の売買高とも、半分は外人が握っている。当然ながら、円高になるとドルベースで見た株価は上がる(ポートフォリオが上がる)ので外人は確定売りをし、円表示の株価は下がることになる。

主が、面白いなと思うのは、アナリストの中には2016年の為替は円高を予想していた人がいたことだ。アメリカの量的緩和の終了と金利上げについてはずいぶん前から、イエレンFRB議長が言ってきたことだ。実際には利上げをしていないにも拘わらず、このことが言われただけで、新興国からアメリカへと資金の還流が始まり、新興国では通貨が下落し、景気が低迷した。一番わかりやすいのはブラジル、ロシアだろう。また、この実際の利上げが行われるまでの間に、円の通貨安は十分に織り込まれ、125円に近づくほどの円安になっていた。だが、実際の利上げが起きると、さらに円安が進むのではなく、織り込み済みの円安を離れて、逆の円高になったというのだ。この説明が、長いスパンで見た時に合致しているかどうかは、別問題だと思うものの、さしあたって、現在の状況はうまく説明できているように見える。

目を転じると、アメリカでは大統領選挙の予備選挙が始まっている。さすがにスティグリッツなどがこれまでずっと言い続けてきた99%の貧困(格差問題)が、広く意識されているようだ。民主社会主義者を標榜するサンダースは、明確にこのことを言っているし、ヒラリー、トランプの両候補もTPP反対を唱えたり、外国製品への関税アップ、各国の景気刺激策を為替安競争だと批判したり、内向きな政策を競うようになってきたのが気にかかる。

日本は諸外国と比較すると相対的に競争力はある。もちろん、原油安によりオイルマネーが日本の投資市場から引き上げられ、中国景気がハードランディングし、中東情勢が混迷を続け、EUの景気が上向かないという最悪のシナリオをたどれば、日本だけが好景気というわけにはいかないのはそうだろう。

ここへきて、消費税も来年の増税を延期しようという新聞の紹介記事も見られるようになってきた。いっそのこと、何人かのエコノミストが言うように、消費税率を5%へ戻せばよいのだ。もともと、民主党政権の時期に、野田総理が財務省に丸め込まれて決めた消費増税だ。ご破算にすれば、分かりやすい。

ここで脱線を一つ。大前研一氏は、日本が、個人資産を1600兆円も持ちながら、お金を使わないような社会に変わり、これを「低要望社会」と命名しているようだ。しかし、正しくないように思う。なぜなら、日本の個人資産の多くは、高齢者が所有しており、若年層や勤労者層が多くの資産を持っているわけではない。この貯蓄を多く持たない層は、別に低欲望なのではない。貯蓄が多くなく、買うことができないため、有効需要になりえないだけだ。経済学で言う需要とは、お金に裏打ちされた需要を言いう。お金がない人が家を欲しいと思うのは、これは需要とは言わない。もし、若者にも十分なお金の裏付けを与えれば、低欲望ではなく欲しいものはいっぱいある、というところを見ていないと思える。要するに、年寄りから若者へ無理やり資産を移動させるわけにいかない以上、景気を本来の姿に戻し、賃金水準を上げる地道な時間のかかる道しか方法はない。(下は、大前氏の週刊ポストの記事)

http://www.news-postseven.com/archives/20141225_294042.html

最初に戻って、アベノミクスが失敗したのかどうか、成功するのかどうか。答えがでるのは、これからだ。必要なことは、個人消費が、消費増税の前の水準を超え、給与所得が増え、さらに消費が拡大し、企業が投資を拡大する。さらには第3の矢で日本の構造改革を進め、潜在成長率を上向かせる、こうした流れになるかどうかにかかっている。ただ、外人投資家が今、株価をとおして表明しているのは、第3の矢を信用していないということだ。効果が出ない、時間がかかりすぎだと言っている。そんなことは気にせず、まずは、デフレマインドの払しょくができるかどうかがポイントだろう。

 

 

 

グールドが否定したコンサートへ行く 福田進一 禁じられた遊び

2016年2月17日(水)13時30分開演、「楽器の秘密 第3回ギター~禁じられた遊び~」というタイトルのコンサートへ行ってきた。まず驚いたのは、聴衆のほとんどが高齢者であるということだ。平均年齢は70歳くらいだろうか。平日の昼間、普通の勤め人は来ることができないのだと納得する。

ギターの福田進一さんは、今年1月、還暦記念リサイタルでJ.S.バッハのリュート組曲全曲演奏をした日本のクラシックギター界の第一人者だ。主は、バッハ・無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番の有名なシャコンヌが入ったCDを1枚持っている。

ところでこのシャコンヌ、調弦を「落ち着いた音色を求めるために通常のA=442Hzより低めのA=439Hzに下げて演奏」されているのだが、やはり、意外と違和感がある。

この日のコンサートは副題のようなものがついており「楽器の秘密 第3回ギター」となっているように、ステージの福田さんが、演奏の間にギターにまつわる話をするという趣向で、もちろん演奏が良かったのだが、専門家による話は刺激的でなかなか楽しかった。福田進一

では、グールドにちなんだトピックへ行こう。

第1ばんめ。グールドはコンサートへ来る観衆が、自分を安全な場所に身を置き、まるでコロッセオで行われる猛獣と戦う剣闘士を見るように、演奏者を見ていると考えていた。「集団としての観衆は悪だ」と言い、そして「コンサートは死んだ」とも言っては、コンサートを否定していた。彼が31歳の1964年以降は、コンサート会場で実際に弾くことはなかった。グールドがコンサートを否定する理由の一つには、彼の完璧主義があるだろう。彼はコンサートでの演奏の後、観衆の大喝采を受けている最中に「今の演奏には気に入らないところがあった。もう一度演奏をやり直したい」と思っていたという。他にグールドがコンサートに出たくない理由として、コンサートツアーで飛行機に乗ったり、列車で長距離を移動したり、快適とは言えないホテルに宿泊したり、行く先々で慣れないピアノを弾かされるといったことが嫌で仕方なかったという現実は当然ある。

心気症でもあったグールドは、コンサートの会場へ親しい知人が来ることにも強い拒否反応を起こした。グールドが26歳から29歳のころ、恋人であるヴァーナ・サンダーコック(グールドのマネージャーであるウォルター・ホンバーガーの秘書)は、コンサートへ行かないという内容の誓約書を書かされている。グールドにとって聴衆は、邪魔な存在だった。多くの音楽家にとって、神がかり的で素晴らしい演奏をするためには聴衆が必要なことを考えると、グールドは珍しいタイプと言えるだろう。

グールドは、20世紀中にはコンサートは録音メディアにとって代わられ、なくなるだろうと予言していた。この予言は当たらなかったと言わざるを得ないだろう。クラシック音楽のコンサートは、今も毎日のようにどこがで開かれている。しかし、クラシックのコンサートの地位は、紛れなく低下している

また、グールドは、クラシック音楽の演奏の一部がキットとして流通し、リスナーが好きな演奏を組み合わせて、自分の好きな演奏を組み立てるようになるだろうとも予言していた。「いくつかの異なる演奏のレコードを売って、聴き手にどれが一番好きか選ばせたい。そして好きなように組み合わせて、聴き手が自分の演奏を作るのです。聴き手に異なるテンポと異なる強弱で演奏されたあらゆる部分とあらゆるスプライス(切り貼り)を与え、自分が本当に楽しめるような組み合わせをさせればよい。ー この程度まで演奏に参加させるのです」と言っている。もちろん、音楽の断片が、このようにキットとして販売されるということは聞いたことがないが、今やパソコン上で同じことをしているマニアはたくさんいる。

クラシック音楽を考えると、世界中でそうだと思うが、ゴールデンタイムにテレビでクラシック番組を放送するというようなことは、1900年代と比べると明らかに減っている。クラシック音楽を聴く人の数そのものが減っていると思う。CDショップでは、往年の巨匠たちの演奏の焼き直しばかりが相変わらず売られているし、家庭へのアコースティックピアノの普及率も下がっているのではないか。昔と比べると、クラシック音楽で身を立てるというのも難しいはずだ。それはとりもなおさず、現在のクラシック音楽自身は徐々に世間から顧みられなくなりつつある。

クラシック音楽の業界の中だけで、クラシック音楽を有難がっているようではだめだ。

第2ばんめ福田進一さんの話に戻るが、第1曲をフェルナンド・ソルの「モーツァルト『魔笛』の主題による変奏曲」で始めたのだが、1曲目ということかかなりミスタッチが目立っていた。ギターは左手でフレットを押さえ右手で弦をはじくのだが、右手で弦をはじく前に左手の準備ができていないとかすれた音が出る。この曲は、最初にテーマがあり、変奏曲が続くのだが、変奏が進むにつれ同じ拍の中の音の数が増え、曲の進行につれかなりの速度になる。ここでうまく音が出ず、荒っぽい演奏となる。この日のミスタッチは、曲目をこなすにつれてなくなっていったように思う。 ここで、グールドのテープのスプライス(切り貼り)を思い出した。当然、福田さんがスタジオ録音を行う際には、気に入らない部分をスプライスするのだろう。録音されたCDにそのようなミスタッチは当然ない。

ただ、1932年に生まれたグールドは、ミスタッチの少ない演奏家だったにも拘わらず、この切り貼りの先駆者であったのは間違いない。当時、15年以上レコーディングプロデューサーを務めたアンドルー・カズディンの書いた「アットワーク」を読んでいると、グールドは、ミスタッチを消すためにスプライスをしたのではないことがわかる。彼は音楽の細部と全体の両方を深く理解しており、全体を完全なものに仕上げるために、細部についても妥協しなかった。細部にフォーカスを当てていながら、同時に、全体を見通す(見失わない)というのは常人にはかなり困難なことだと思うが、グールドはこれができた。

グールドがブリュノ・モンサンジョンと作ったバッハシリーズのビデオは、そのあたりがよく出ている。グールドがバッハを曲の構造をディープに解説しながら同時に弾いてみせるのだが、喋る方と弾く方どちらも破綻することなく実に見事なものだ。

 

グレン・グールド 彼の性格

風変わりな性向には事欠かないカナダ人天才ピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)の性格を考えてみたい。 最初に彼の性格を示すエピソードをいくつか書いてみよう。

子供時代は、学校で過ごすことが最悪だった。授業時間よりも、休み時間の方が耐えられなかったという。友達もなく、同級生たちと一緒に遊ぶということはなかった。ボールを投げられると手を守るために背中を向けたという。だが、徐々に、学校でもそのピアノの実力により一目置かれるようになる。いじめられるということもなくなってくる。

母親のフローラが潔癖症で心配性だった。ばい菌の感染を心配し、グレンを屋外で遊ばせたり、人ごみへ出そうとはしなかった。このため、グレン自身も早くから心気症で風邪薬や抗生物質を持ち歩くようになる。睡眠薬や向精神薬なども持ち歩き、あまりに大量の薬を携行しているためにカナダとアメリカの国境で没収されたこともある。

生涯、対面して話すことより、電話をかけることを好んだ。対面して話す場合は、相手の目を見ずに喋ったという。電話は、相手の迷惑を考えず深夜でもかけ、長電話だった。話の内容は、交互に話をするというよりも、グールドが思いついたことを一方的に話し続けていた。

グールドは、デビュー作のバッハ「ゴールドベルグ変奏曲」が発売される前の20才の頃、すでにピアノの恩師ゲレーロの元を出、両親と話し合って大学へ進学しないと決め、トロントから車で1時間ほど離れたシムコー湖の湖畔にある別荘で「弦楽四重奏曲作品1」を一人作曲していた。このリヒャルト・シュトラウスを思い起こさせ、現代的だがロマン派の香りが強く漂う、独特の大曲を2年かけて完成させた。彼は4つの音(C,D♭,G,A)が果てしなく展開するこの曲を書くのに非常に苦労し、一晩にわずか数小節しか出来ないこともあった。

このとき、グールドは7年上の恋人であるフラニー・バッチェンに毎夜、深夜に電話で作品の進み具合を嬉々として聞かせていた。グールドは、このころすでに昼夜逆転した生活を送っていたが、相手の都合を考えるという発想はなく、深夜の3時に長電話することも平気だった。フラニーもプロのピアニストを目指していたが、生活のために翌朝にはアルバイトへ出かけなければならなかった。このため、彼女にとって深夜の電話は負担となる。

映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」の中で、フラニーは2007年にインタヴューを受けている。この時、彼女は82歳なのだが、美人の面影がはっきりとある。(実際若い時代の写真を見るととても魅力的だ)彼女は、「グールドと結婚を考えましたか?」と問われ「もちろん」と即答している。だが、「グールドは、ある意味ロマンチストでしたが、社会性がなく一緒に暮らすのは困難でした」と語っている。(下の写真は、映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」のHPから)

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最も有名なエピソードが、「コンサートドロップアウト」だろう。1964年、彼が31歳の時に公開演奏からドロップアウトする。つまり、コンサートに出演しなくなる。コンサートピアニストとして名声が高まり絶頂にあったのだが、何年も前から引退を口にし、ツアーではキャンセル魔で有名だった。聴衆を、闘牛を見に来る観客に例え、『集団としての聴衆は悪だ』と言ったり、聴衆に拍手することを禁じる演奏会を開いたりしたこともあった。ドロップアウト後は、もっぱら、スタジオのみで録音・演奏するようになる。

彼は、父親が作った特製の低い椅子を使い続けた。その椅子がボロボロになり、座面がなくなって木組みだけになり、椅子の軋む音がレコードに入るようになっても生涯使い続けた。

彼は、両親にとって待望の子であり、一人っ子で、甘やかされ放題で育っていく。母フローラは、グレンが音楽で身を立て、彼の音楽を聴く人たちに良い影響が与えられるように常に願っていたが、時間が経つにつれ、これが実現するのを目の当たりにする。一方の父バートは毛皮商を手堅く営んでいたが、グレンが小学校に行く頃には動物愛護の精神から父親の仕事に反発していた。こうした影の薄い父バートに対し、父親代わりの存在となったのが、10歳から9年間ピアノを教えたチリ人ピアニストのゲレーロである。グールド家とゲレーロ家とは家族ぐるみでつきあった。

おそらく、グレンはフローラから正しい愛情を受けられなかった。大きな愛情が注がれたのは確実だが、同じ年齢の子供たちと遊ぶことや協調するということはなかったため、社会性が身に着かなかった。フローラ自身が10歳まではピアノを教えるのだが、それを過ぎると彼女の手に余ってしまい、ゲレーロを師として迎えた。これは、音楽の能力の成長には、必要なことであり大いに貢献したが、人間性の成長という意味では、ダメなものはダメと言われる経験がなく、いびつな人間が生まれたといっていいだろう。

ゲレーロは、グレンが全く他人の助言を受け付けず、君の弾き方は違う」と言われると憤慨してしまうので、グレンにピアノを教える時、自分でなんでも見つけさせるようにしむけていた。おかげでグレンは、フローラとゲレーロにピアノを教わったことを忘れて、生涯、「私は独学でピアノを覚えた」と言うようになる。

愛着(愛情)は、子供の成長に必須のもので、十分に正しく与えられれば安定したパーソナリティーが出来上がるのだが、その後は、甘えさせることだけではなく、甘やかしてはいけない時期が来る。この時期に、両親は甘やかしてしまったのだろう。このため、グールドは統制型の愛着障害パーソナリティを持ってしまった。この統制型の愛着障害というのは、何でも自分の思いどおりにならないと気が済まないというもので、親との愛着の不安定な子供が、4~6歳の頃から親をコントロールすることで自身の安定を得ようとする結果と考えられている。自信過剰で自己愛が強いナルシストとも、自分以外が見えず、対人関係を上手く築けない自閉症の一種であるアスペルガー症候群だったと云うこともできるだろう。

だが、彼は凡人とは違う。確かに社会性のなさや、人間関係を普通に築けなかったということはあるだろう。しかし、音楽の世界において凡人を超越していた。その性格がもとで、グレンの音楽性が常人とは違う、類を見ない領域へ達していたのは間違いない。何より、音楽の解釈において、既成概念にとらわれることなく自分自身の考えを透徹したところに、他のピアニストにはない独創性がある。

例えば、モーツアルトのピアノソナタでは、高音部の旋律だけでなく、低音部に音符を自ら加えて対旋律を強調しながら弾いている。また、過去に演奏されたスタイルと同じ録音をするなら意味がないと考えていたので、すべての曲が従来のスタイルとは全く異なった挑発的な演奏である。トルコ行進曲が付いているK331では、出だしをスタッカートでまるで近所の幼児がピアノを弾いているようなスタイルで始め、変奏の度に速度を上げ、アダージョの指定がある変奏をアレグレットで弾く。既成概念に挑戦した演奏と言っていいだろう。既存のクラシック界の常識に従うのではなく、グールドは、「作品と作曲家の内面に侵入し、その反対側に突き出た」「作曲者に対する共感を通り越し、作品を完全に乗っ取っていた」と映画「グレン・グールド/天才ピアニストの愛と孤独」でチェリストのフレッド・シェリーが語っているが、核心を衝いていると思う。

 

これだけ予測が外れても 浜矩子

written on 12.12.2015

経済学者たちの世界ほど、混沌としている分野は少ないだろう。人文科学は科学ではないのだろうか。

エコノミストと言われる人の中に浜矩子がいる。ウィキペディアによると一橋大学を卒業後、三菱総研に入社、今では同志社大学大学院教授である。次が、毎年の経済予測をした著作の題名である。(ウィキペディアには、「世界恐慌の予言を毎年行っている」と書かれている!)

  • 2011年 日本経済 ―ソブリン恐慌の年になる!
    • 2012年 資本主義経済大清算の年になる!
    • 2013年 世界経済総崩れの年になる!
    • 2014年 戦後最大級の経済危機がやって来る!
    • 2015年 日本経済 景気大失速の年になる!
    • 2016年 日本経済複合危機襲来の年になる!
浜矩子3年

以下は、2015年11月21日(土)浜矩子がゲスト出演した『田勢康弘の週刊ニュース新書』(テレビ東京)から。安倍晋三総理の経済政策「アベノミクス」を「アホノミクス」と批判し続ける“ブレない経済学者”である。

1万円

2016年の株価予想では、「1万円割れ」とボードを出しているが、去年も同じことを書いていた! 参考までに、今週末の株価は19,000円あたりである。この状況で、来年の株価を1万円割れとテレビで予想するのは、その根性に感服する。世界大戦が起こると考えているのかもしれない。

50yen

持論の「1ドル=50円」! この1ドル50円は、民主党政権の時に1ドル80円を切る円高が起こっており、大センセイは円高はさらに進行し50円になると予想していた。実際のマーケットは、2012年11月の衆議院解散後に安倍政権が登場し、金融緩和が行われ円安が進んだ。現在の水準は、1ドル122円ほどである。一時は、125円ほどの円安になっていたのだが、中国経済の懸念などで、リスクヘッジのために少し円が買われている。

アホノミクス(本)

この大センセイ、マスコミで結構もてはやされている。アホノミクスは、毎日新聞の連載記事だし、朝日系列、東洋経済などにも記事が載っている。

こういうことって、ありなのか?と正直思う。書いている本を実際に読んだわけではないのだが、おそらく経済を数学的に説明せずに、主観的な議論を展開しているだけだろう。マスコミが、こういう主張を喜んで取り上げるのは見識を疑う。

マスコミは、売れて読まれ(見られ)なければ始まらないということかも知れないが、何でも出せばいいというものではないだろう。受け手の側の多くが、その気になるのだから。

スマホ 格安SIM(MVNO)契約

EXPERIA左は、ソニーのEXPERIA Z3。パプアニューギニアから日本へ帰国した後、ちょうど良い機会と考え、ガラケーから格安スマホに切り替えた。

きっかけは、大手キャリアのスマホは通信料だけで毎月5000円以上かかり、スマホ本体の支払いを入れると7000円以上になると知り、なんとかならないかとあれこれ考えた。

ネットで調べると、SIMフリーの開始が報道されていたが、結局、MVNOと白ロムのスマホ本体の組み合わせに行き着いた。(AEONなどのショッピングセンターやYAMADA電器などの大手電気店でも、格安SIMを使ったスマホを販売している。これとまったく同じなのだが、個人で好きなスマホを買った場合に、どうするかという観点で読んでもらえるとありがたい。)

http://kakuyasu-sim.jp/merit-and-demerit

詳しいことは、上のリンクを見てもらえるだろうか。似たような解説サイトや宣伝サイトはたくさんあるが、分かりやすい。

リンクの内容を引用しながらMVNOを解説すると、「読み方はエムブイエヌオー、英語だとMobile Virtual Network Operator、日本語だと仮想移動体通信事業者。何のことを言っているのかというと、格安SIMを提供している会社のことをMVNOといいます。例えばDMM mobileやIIJmioなどをMVNOといいます。MVNOは基本的にドコモの回線と設備を使って携帯電話サービスを提供しています。(auの回線を使っているMVNOも2つだけあります)」とある。

http://kakuyasu-sim.jp/shirorom

白ロムについての解説は、やはり同じサイトの上のページに詳しく書かれているが、簡単に言えば、大手キャリアが販売するもので、SIMフリースマホより安い。海外でSIMカードを購入して使う場合は、SIMフリースマホでないとならない。

要するに、従来の大手キャリア(こちらはMNOと略される。すなわちMobile Network Operator で Virtual がないであるドコモ、AU、ソフトバンクのスマホの契約内容は、制限のないフルスペックなものとなっている。言い換えると、通信量の少ない契約者が、通信量の多い契約者を支える料金体系になっている。また、キャリアを変える乗り換え割の財源を、キャリアを変えない契約者が負担しているということもある。

そんなこんなで、従量制の格安SIMに乗り換えることにした。参考までに、主の契約プランは、音声付き、3GB/月、1600円/月だ。以下は、具体的な手順である。

① 使いたいスマホの機種を決める。 スマホを選ぶ際には、格安SIMの会社(大手量販店の格安スマホもこのカテゴリーに入る)が販売しているスマホを選ぶか、好きな白ロムの本体をネットで買うかの2種類がある。格安SIMの会社が販売しているスマホは、全般に安い機種が多い。白ロムを通販で買う場合は、新しい機種や人気機種を選ぶことが可能だ。しかし、本当の最新機種、iPhone6s や Experia Z5 などの白ロムは、ある程度時間が経たないと購入できないようだ。また、白ロムを選択するときは、格安SIMの会社でそのスマホが対応しているか確認することが必要だ。のちのち、電話サポートなどを依頼するときなどに動作確認リストに入っていないと厄介だと思われる。

② 格安SIMの会社を選ぶ。 格安SIMの会社はたくさんある。同時に、調達するスマホ本体に合わせて、SIMのサイズを選ぶ。

③ 音声付きか、データのみのプランにするかを選ぶ。 音声なしを選ぶと電話番号をもらえず、インターネット電話(LINEやSKYPE)で済ませるというのであれば、その分安いプランを選べる。月あたりの通信量が問題となるが、動画をあまり見ずに、ネット、メールと電話くらいといった使用方法であれば、2GB/月でも十分だと思う。不自由を感じればプランを変更できるはずだ。

④ MNP(Mobile Number Portability)の手続きをする。 電話番号を変えない場合は、転出元のキャリアでMNPの手続きをして、番号を発行してもらう。この番号が③の申し込みの際に必要になる。量販店などでは、即日MNPできるようだ。

⑤ 電話帳や写真を移行する。 今は、ガラケーをスマホに機種変更する場合に、ショップは「データ移行は、個人情報保護法の制限があるので、自分でして下さい」と言うようだ。主は、ドコモショップに置いてある機械で、AUガラケーからスマホへ移行しようとしたところ文字化けしてしまい、しばらく使い勝手が悪かった。後で判明したのだが、AUのホームページにはデータ移行について書かれたページがあり、ソフトをPCへダウンロードして無事移行することが出来た。

⑥ その他必要条件など。 格安SIMの申し込みに、本人名義のクレジットカード、身分証が必要だ。白ロムを買う場合、スマホ以外にパソコンなどインターネット環境があると、トラブルなどの調べ物ができるので何かと便利だ。また、自宅にWIFI環境があれば、格安SIM会社との契約で安いプランを選べる。白ロムの場合、キャリアが販売元になるので、街角のドコモショップやAUショップで、初期不良や相談に乗ってくれる。

こうして考えると、すでにスマホをキャリアで契約している場合でも、格安SIMに切り替えれば、月々の使用料が安くなる。

安倍首相が9月11日の経済財政諮問会議において、携帯電話料金の引き下げを検討するよう指示したのだが、炯眼と言わねばならない。現在のキャリアの料金は、実に大きな矛盾をはらんでいるからだ。

 

 

 

 

 

SACDプレイヤー YAMAHA CD-S3000 vs 老人性難聴!

 

CD-S3000左の写真のSACD(Super Audio CD)プレイヤー、YAMAHA CD-S3000を主が買ったのは、半年ほど前だ。カナダ人ピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)のSACDが10組ほど発売されており、それのみを聴くのが目的で、実際にそうしていたが、9月にソニーからグールドの生前の正規録音81枚がDSD方式(=Direct Stream Digital:後述)でリマスターされたCDセットが発売された。これをパソコンにリッピングせずに、そのままこのプレイヤーで再生すると、意外や意外、パソコンで再生するのと変わらず良い音で再生される。このSACDプレイヤーは約50万円する。やはり、このクラスになると原音に忠実ということなのだろう。こうした意外性は、安物のCDプレイヤーではあり得ないと思う。CDをリッピングしてパソコンへ取り込み、DAC(Digital to Analog Converter)経由で音を出すというPCオーディオの方が、安価で良い音が手に入ると思う。

 

P1090282

こちらが、部屋の装置の写真である。ラックの上段が、YAMAHA CD-S3000である。下段が、プリメインアンプのLUXMAN L-550AX。この二つは日本製だ。上面に乗っているのがDACのZODIAC GOLDと電源部のVOLTIKUSである。ホームページをみたらブルガリア製だった。右の黒い箱ははタワー型のファンレス自作パソコンである。上に載っているのは、SSDが刺さったストレージのアダプターだ。さらに右の背の高いのが、スピーカーB&WのCM8。こちらはイギリス製だ。

ここまでは、そこそこオーディオに凝っているという話である。

他方、人間の可聴帯域は20Hz~20000Hzとされているが、主は10年ほど前から常に、高音の耳鳴りがする。常にピーとかキーンとかいう高音が鳴っている。あまりにずっと鳴っているので、慣れてしまい、特に日常生活に不自由があるわけではない。

こうしたところ、2015年3月にNHKの「ためしてガッテン」で高齢者の耳鳴りについて放送があった。高齢者は加齢による難聴により、脳へと高音の情報が入ってこなくなり、それを補おうと脳が高音に対する感度(ボリューム)を上げ過ぎる、それがピーとかいう高音の耳鳴りの正体だそうだ。結論は、高音を強調する補聴器をつけることにより、脳がボリュームを上げることがなくなり、耳鳴りも消えるので、耳鼻科に行きましょうというものだった。

http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20150304.html

この番組を見て、耳鳴りの相談に耳鼻咽喉科へ行ってきた。医院で主の可聴範囲を調べたところ、高音部で8000HZあたりからグラフが下がってしまう。聞こえが悪くなっているのだ。自宅でも、YOUTUBEの可聴範囲を調べるサイトで試したところ、確かに8000Hzを超えると徐々に苦しくなり、12000Hzでとぎれとぎれになり、13000Hzから完全に何も聞こえなくなった。

こうなると、ハイレゾ(High-Resolution Audio=CDより高解像度なオーディオ)もへったくれもない、主の言うことには説得力がないと言われねばならない。

CDは、16bit 44.1KHzで、高音は22,000Hzまで出る規格だ。CDに対し、ハイレゾにはCDの方式を高規格化したPCM方式と、SACDに使われている録音方法であるDSD方式の2種類がある。PCMのハイレゾとしてよくある規格に24bit 192KHzというものがあり、CDと比べると1000倍(8bit(=24bit-16bit)×192/44.1≒256×4)のデータ量になる。データ量が多い分、良い音がするはずだ。

下が二つの方式の概念図である。上はPCM方式、下がDSD方式である。白い波型が音型で、これを再現するためにPCM方式は、均等なピッチで、緑のグラフの高さにより表現する。PCM方式のハイレゾの場合は、サンプリングの割合(頻度)が細かく(高く)なる。下の方のDSD方式は、波形をあらわすのに粗密で表現しているのがわかるだろうか。DSD方式の方が、人間の耳には自然に聞こえると言われている。

PCM-vs-DSD

出典: http://shobrighton.blog.jp/archives/35655302.html

年齢とともに高音の聴力は落ちるのは間違いがない。しかし、一番良い音は生演奏であり、順に、DSDのハイレゾ、PCMのハイレゾ、現在のCDの規格であると結論付けることはできる。音質は、高音だけで構成されるものではないからだ。

ただ、グレン・グールドの最初の録音は1955年で、今から60年も前であり、当時はモノラル録音だった。1958年頃からステレオ録音になるのだが、主がもっぱら考えているのは、これらを良い音で聴きたいということだ。最近の録音であれば、主は、YOUTUBEで聴く音楽でも十分に美しいと思っている。問題は、何といっても演奏の質だ。これに尽きる。

 

クラシックに狂気を聴け

主は、なぜクラシック音楽を聴くか? ほとんどカナダ人ピアニスト、グレン・グールドしか聴いていないが、クラシック音楽を聴いているという意識はない。貴族趣味でクラシックを聴いている意識はもちろんなく、単に音楽を聴いているという意識のみだ。なぜ、グールドのみを聴くかというのは、彼の音楽が、あらゆる音楽の中で最も刺激が強い考えているからだ。

ところで、ブログのタイトル「クラシックに狂気を聴け」は、森本恭正さんの「西洋音楽論」(光文社新書)の副題からとっているのだが、この本はさまざまな観点で示唆に富んでいる。森本さんは、1953年生まれの作曲家・指揮者でヨーロッパで活動されている。

ヨーロッパ音楽であるクラシックは、破壊と創造の超克の長い歴史があるが、今クラシックと呼ばれる音楽も、初演された当時は時代の先端を行くものだったはずだ。中世の音楽に始まり、ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、現代曲へと音楽史は進み、様式は進化していくのだが、その時々において最新曲だった。だが、古い様式が破壊され、新しい様式が創造されるにつれ、古い様式は「クラシック」になっていく。ロマン派には、シューベルトやシューマン、ブラームスなどがいるが、彼らはひとつ前の古典派のモーツアルトやベートーヴェンの音楽の様式を壊し、新しい様式を創造してきた。だが、このロマン派の作曲家は、シェーンベルグなど現代曲の作曲家に乗り越えられる。現代曲は、新しく12音音楽や無調の音楽となって久しい。

この過程を、進歩というのは間違いではない。だが、現代の作曲家にとって、すべて新しいことはやりつくされており、何をやっても新しいものがない、知っているという状況まで辿り着いてしまった。進歩の功罪は半ばし、現代の「クラシック」は停滞してしまい、黄昏ている。コンサート会場では、過去の遺物を繰り返すのみだ。

この本の中で作者の友人の著名ヴァイオリニストが、ブラームスのヴァイオリンコンチェルトを題材に、現代のクラシック音楽の置かれている現状を語るくだりがある。「・・・胸がどきどきして、息苦しく、思わず大きく深呼吸したくなる様な、あの、震える様な興奮を、私達はブラームスの音楽に忘れてきてしまったのではないでしょうか。否、ブラームスだけではありません。現代まで生き残ったクラシックの作品には恐らく、すべてあるのです。信じがたいようなあの興奮が。それらがすっかり忘れ去られて、クラシックといえば、敬老会の為の音楽のようになってしまった。・・・」

そうなのだ。今のクラシックは、本来のみずみずしさを失い、骨とう品を有難がっている敬老会のようなものだ。

森本さんは書いている。音楽史において、フランス革命以前、音楽は、一部貴族のものだった。だが、フランス革命後に女性を含む一般市民の手にも渡った。この端境期を生きた作曲家がベートーヴェンであり、「革命の中から生まれ、旧体制社会の決まり事の殻を叫びながら破いているのが、彼の音楽の本質」だという。ベートーヴェンに続くロマン派の作曲家たちの本質は、「狂気」だという。「今までの規範、世間の常識では計り知れないもの、人智の遠く及ばないもの、想像を超えるほどの狂気」である。ところが、現代の演奏家はこれを表現せず、敬老会の出し物へと骨抜きされている。

話が変わるが、すべての西洋音楽はアフタービート(一拍目に弱拍、二拍目に強拍がくる。ワンツーワンツーで、ツーが強い)だと言っている。一般にジャズやロックがアフタービートといわれるが、クラシックも弱強弱強のアフタービートだというのだ。「スウィングしないクラシックなんてありえない」。日本の音楽教育では、こういう風に教わらないのだが、クラシックもジャズやロック同様、アフタービートであり、これが曲進行の推進力になっているという。

同じようなことだが、ヴァイオリンの弓を例にあげて、すべてのヨーロッパ音楽は、音が出る一瞬前に弓が撓む(たわむ)瞬間があるという。弓を下げながら音を出す一瞬前に、弓を上にあげる動作があり、それを「撓む」というのだ。この一瞬の準備は、日本にはないという。日本では、動と静、或いは静から動への突然の移行がある。しかし、ヨーロッパ音楽では、このような突然の移行はないという。

2010年のショパンコンクールで、審査員が「アジア系の参加者の演奏は音楽を何も感じず、ただ上手に弾いているだけ。頭で考えるのでなく心で感じてほしい」と語った。このコンクールでは81人中17人が日本人で、アジア系といわれたのが誰のことか明白だ。こうしたことは、何十年も前からヨーロッパの音楽大学のレッスン室、演奏コンクールの審査員室で囁かれてきたのであるが、公式の場でとうとう言われてしまったということだ。

たしかに現代の演奏において、技術的なレベルや楽器の性能は高くなっているのだろう。オーケストラもピアニッシモではより繊細な音を出し、フォルテッシモでは爆発的に大きな音を出す。だが、何かがつまらない。オーケストラの団員の多くはあまりの大音響にさらされるため、耳栓をしながら演奏をしているという。きっと何かが、本末転倒している。

ところで、この本を読んで正しいクラシックの聴き方を教えられた。この本には、ロマン派の音楽を聴くなら、それ以降の音楽の存在を忘れることだと書かれている。バッハを聴くなら、モーツアルトやベートーベン以降の存在を忘れること、そうすることで「狂気」が見えてくる。「新発見」がある。

ちょうど今月、グレン・グールドのコロンビア時代(今はソニーレーベル)に出された81枚の正規録音がリマスターされ、発売された。グールドの没後33年にあたるが、人気ぶりがわかる。このリマスターはDSDでサンプリングされており、非常に高音質だ。これを良いステレオ装置を使い、良い音でじっと集中して聴くことだ。音楽に耳を澄ます、それ以外の作業は、勿論何をしてもだめだ。

ただし、グールドなら話は別かも知れない。グールドは「日常生活でも聖徳太子のようなアネクドート(逸話)が伝わっている。人と会話をしながらベートーヴェンの楽譜を勉強し、電話をしながら雑誌を熟読し、シェーンベルグの≪組曲作品23≫を譜読みしながらAMラジオでニュースを、FMラジオで音楽を聞くことができる、等々。」(グレン・グールド 青柳いづみこ)と書かれているくらいの対位法的(マルチタスク)人間なのだから。だが凡人には、主には、とうてい無理だ。