SACDプレイヤー YAMAHA CD-S3000 vs 老人性難聴!

 

CD-S3000左の写真のSACD(Super Audio CD)プレイヤー、YAMAHA CD-S3000を主が買ったのは、半年ほど前だ。カナダ人ピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)のSACDが10組ほど発売されており、それのみを聴くのが目的で、実際にそうしていたが、9月にソニーからグールドの生前の正規録音81枚がDSD方式(=Direct Stream Digital:後述)でリマスターされたCDセットが発売された。これをパソコンにリッピングせずに、そのままこのプレイヤーで再生すると、意外や意外、パソコンで再生するのと変わらず良い音で再生される。このSACDプレイヤーは約50万円する。やはり、このクラスになると原音に忠実ということなのだろう。こうした意外性は、安物のCDプレイヤーではあり得ないと思う。CDをリッピングしてパソコンへ取り込み、DAC(Digital to Analog Converter)経由で音を出すというPCオーディオの方が、安価で良い音が手に入ると思う。

 

P1090282

こちらが、部屋の装置の写真である。ラックの上段が、YAMAHA CD-S3000である。下段が、プリメインアンプのLUXMAN L-550AX。この二つは日本製だ。上面に乗っているのがDACのZODIAC GOLDと電源部のVOLTIKUSである。ホームページをみたらブルガリア製だった。右の黒い箱ははタワー型のファンレス自作パソコンである。上に載っているのは、SSDが刺さったストレージのアダプターだ。さらに右の背の高いのが、スピーカーB&WのCM8。こちらはイギリス製だ。

ここまでは、そこそこオーディオに凝っているという話である。

他方、人間の可聴帯域は20Hz~20000Hzとされているが、主は10年ほど前から常に、高音の耳鳴りがする。常にピーとかキーンとかいう高音が鳴っている。あまりにずっと鳴っているので、慣れてしまい、特に日常生活に不自由があるわけではない。

こうしたところ、2015年3月にNHKの「ためしてガッテン」で高齢者の耳鳴りについて放送があった。高齢者は加齢による難聴により、脳へと高音の情報が入ってこなくなり、それを補おうと脳が高音に対する感度(ボリューム)を上げ過ぎる、それがピーとかいう高音の耳鳴りの正体だそうだ。結論は、高音を強調する補聴器をつけることにより、脳がボリュームを上げることがなくなり、耳鳴りも消えるので、耳鼻科に行きましょうというものだった。

http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20150304.html

この番組を見て、耳鳴りの相談に耳鼻咽喉科へ行ってきた。医院で主の可聴範囲を調べたところ、高音部で8000HZあたりからグラフが下がってしまう。聞こえが悪くなっているのだ。自宅でも、YOUTUBEの可聴範囲を調べるサイトで試したところ、確かに8000Hzを超えると徐々に苦しくなり、12000Hzでとぎれとぎれになり、13000Hzから完全に何も聞こえなくなった。

こうなると、ハイレゾ(High-Resolution Audio=CDより高解像度なオーディオ)もへったくれもない、主の言うことには説得力がないと言われねばならない。

CDは、16bit 44.1KHzで、高音は22,000Hzまで出る規格だ。CDに対し、ハイレゾにはCDの方式を高規格化したPCM方式と、SACDに使われている録音方法であるDSD方式の2種類がある。PCMのハイレゾとしてよくある規格に24bit 192KHzというものがあり、CDと比べると1000倍(8bit(=24bit-16bit)×192/44.1≒256×4)のデータ量になる。データ量が多い分、良い音がするはずだ。

下が二つの方式の概念図である。上はPCM方式、下がDSD方式である。白い波型が音型で、これを再現するためにPCM方式は、均等なピッチで、緑のグラフの高さにより表現する。PCM方式のハイレゾの場合は、サンプリングの割合(頻度)が細かく(高く)なる。下の方のDSD方式は、波形をあらわすのに粗密で表現しているのがわかるだろうか。DSD方式の方が、人間の耳には自然に聞こえると言われている。

PCM-vs-DSD

出典: http://shobrighton.blog.jp/archives/35655302.html

年齢とともに高音の聴力は落ちるのは間違いがない。しかし、一番良い音は生演奏であり、順に、DSDのハイレゾ、PCMのハイレゾ、現在のCDの規格であると結論付けることはできる。音質は、高音だけで構成されるものではないからだ。

ただ、グレン・グールドの最初の録音は1955年で、今から60年も前であり、当時はモノラル録音だった。1958年頃からステレオ録音になるのだが、主がもっぱら考えているのは、これらを良い音で聴きたいということだ。最近の録音であれば、主は、YOUTUBEで聴く音楽でも十分に美しいと思っている。問題は、何といっても演奏の質だ。これに尽きる。

 

クラシックに狂気を聴け

主は、なぜクラシック音楽を聴くか? ほとんどカナダ人ピアニスト、グレン・グールドしか聴いていないが、クラシック音楽を聴いているという意識はない。貴族趣味でクラシックを聴いている意識はもちろんなく、単に音楽を聴いているという意識のみだ。なぜ、グールドのみを聴くかというのは、彼の音楽が、あらゆる音楽の中で最も刺激が強い考えているからだ。

ところで、ブログのタイトル「クラシックに狂気を聴け」は、森本恭正さんの「西洋音楽論」(光文社新書)の副題からとっているのだが、この本はさまざまな観点で示唆に富んでいる。森本さんは、1953年生まれの作曲家・指揮者でヨーロッパで活動されている。

ヨーロッパ音楽であるクラシックは、破壊と創造の超克の長い歴史があるが、今クラシックと呼ばれる音楽も、初演された当時は時代の先端を行くものだったはずだ。中世の音楽に始まり、ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、現代曲へと音楽史は進み、様式は進化していくのだが、その時々において最新曲だった。だが、古い様式が破壊され、新しい様式が創造されるにつれ、古い様式は「クラシック」になっていく。ロマン派には、シューベルトやシューマン、ブラームスなどがいるが、彼らはひとつ前の古典派のモーツアルトやベートーヴェンの音楽の様式を壊し、新しい様式を創造してきた。だが、このロマン派の作曲家は、シェーンベルグなど現代曲の作曲家に乗り越えられる。現代曲は、新しく12音音楽や無調の音楽となって久しい。

この過程を、進歩というのは間違いではない。だが、現代の作曲家にとって、すべて新しいことはやりつくされており、何をやっても新しいものがない、知っているという状況まで辿り着いてしまった。進歩の功罪は半ばし、現代の「クラシック」は停滞してしまい、黄昏ている。コンサート会場では、過去の遺物を繰り返すのみだ。

この本の中で作者の友人の著名ヴァイオリニストが、ブラームスのヴァイオリンコンチェルトを題材に、現代のクラシック音楽の置かれている現状を語るくだりがある。「・・・胸がどきどきして、息苦しく、思わず大きく深呼吸したくなる様な、あの、震える様な興奮を、私達はブラームスの音楽に忘れてきてしまったのではないでしょうか。否、ブラームスだけではありません。現代まで生き残ったクラシックの作品には恐らく、すべてあるのです。信じがたいようなあの興奮が。それらがすっかり忘れ去られて、クラシックといえば、敬老会の為の音楽のようになってしまった。・・・」

そうなのだ。今のクラシックは、本来のみずみずしさを失い、骨とう品を有難がっている敬老会のようなものだ。

森本さんは書いている。音楽史において、フランス革命以前、音楽は、一部貴族のものだった。だが、フランス革命後に女性を含む一般市民の手にも渡った。この端境期を生きた作曲家がベートーヴェンであり、「革命の中から生まれ、旧体制社会の決まり事の殻を叫びながら破いているのが、彼の音楽の本質」だという。ベートーヴェンに続くロマン派の作曲家たちの本質は、「狂気」だという。「今までの規範、世間の常識では計り知れないもの、人智の遠く及ばないもの、想像を超えるほどの狂気」である。ところが、現代の演奏家はこれを表現せず、敬老会の出し物へと骨抜きされている。

話が変わるが、すべての西洋音楽はアフタービート(一拍目に弱拍、二拍目に強拍がくる。ワンツーワンツーで、ツーが強い)だと言っている。一般にジャズやロックがアフタービートといわれるが、クラシックも弱強弱強のアフタービートだというのだ。「スウィングしないクラシックなんてありえない」。日本の音楽教育では、こういう風に教わらないのだが、クラシックもジャズやロック同様、アフタービートであり、これが曲進行の推進力になっているという。

同じようなことだが、ヴァイオリンの弓を例にあげて、すべてのヨーロッパ音楽は、音が出る一瞬前に弓が撓む(たわむ)瞬間があるという。弓を下げながら音を出す一瞬前に、弓を上にあげる動作があり、それを「撓む」というのだ。この一瞬の準備は、日本にはないという。日本では、動と静、或いは静から動への突然の移行がある。しかし、ヨーロッパ音楽では、このような突然の移行はないという。

2010年のショパンコンクールで、審査員が「アジア系の参加者の演奏は音楽を何も感じず、ただ上手に弾いているだけ。頭で考えるのでなく心で感じてほしい」と語った。このコンクールでは81人中17人が日本人で、アジア系といわれたのが誰のことか明白だ。こうしたことは、何十年も前からヨーロッパの音楽大学のレッスン室、演奏コンクールの審査員室で囁かれてきたのであるが、公式の場でとうとう言われてしまったということだ。

たしかに現代の演奏において、技術的なレベルや楽器の性能は高くなっているのだろう。オーケストラもピアニッシモではより繊細な音を出し、フォルテッシモでは爆発的に大きな音を出す。だが、何かがつまらない。オーケストラの団員の多くはあまりの大音響にさらされるため、耳栓をしながら演奏をしているという。きっと何かが、本末転倒している。

ところで、この本を読んで正しいクラシックの聴き方を教えられた。この本には、ロマン派の音楽を聴くなら、それ以降の音楽の存在を忘れることだと書かれている。バッハを聴くなら、モーツアルトやベートーベン以降の存在を忘れること、そうすることで「狂気」が見えてくる。「新発見」がある。

ちょうど今月、グレン・グールドのコロンビア時代(今はソニーレーベル)に出された81枚の正規録音がリマスターされ、発売された。グールドの没後33年にあたるが、人気ぶりがわかる。このリマスターはDSDでサンプリングされており、非常に高音質だ。これを良いステレオ装置を使い、良い音でじっと集中して聴くことだ。音楽に耳を澄ます、それ以外の作業は、勿論何をしてもだめだ。

ただし、グールドなら話は別かも知れない。グールドは「日常生活でも聖徳太子のようなアネクドート(逸話)が伝わっている。人と会話をしながらベートーヴェンの楽譜を勉強し、電話をしながら雑誌を熟読し、シェーンベルグの≪組曲作品23≫を譜読みしながらAMラジオでニュースを、FMラジオで音楽を聞くことができる、等々。」(グレン・グールド 青柳いづみこ)と書かれているくらいの対位法的(マルチタスク)人間なのだから。だが凡人には、主には、とうてい無理だ。

 

 

 

楢山節考 青酸カリを薬局で売る

もうそろそろ死にたい、と思っている年寄りは山のようにいる。ただ、死ぬのに痛い目をするとか、恐ろしい目にあいたくないという場合が多いのではないか。それでは、主は薬局で青酸カリを自殺用に売ればよいと考えていた。

ただし、これには自殺に見せかけて殺人をする輩がきっと出てくるだろう。そんなことが起こるようでは、青酸カリを薬局で売るわけにはいかない。ちょっと、乱暴すぎるか。

そのうちネットでググっていると、医師による安楽死を行っている国がいくつかあるようだ。スイスは、自殺ほう助が合法化されてから約40年という長い歴史を持ち、必ずしも医師でなくても自殺ほう助が可能だ。オランダ・ベルギー・ルクセンブルクは、医師による自殺ほう助と毒薬の投与が認められている。これを積極的安楽死というらしい。

一方、患者の苦痛を軽減する意味で延命措置を施さないというのが消極的安楽死というらしい。日本はといえば、現在は、医師が人工呼吸器を外すと刑事責任を問われたりする。これを見直そうという機運はあるようだが、弁護士会が反対しているとある。

時代劇、NHKの大河ドラマなどを見ていると、登場人物があっけなく死んでいく。侍は戦闘で討ち死にをするし、そうでなくても50歳くらいになると病死する。当時、「責任を取る」ということはハラを切るか斬首されるかを意味していた。今との対比でいうと、実に潔い。

主は1954年に発表された深沢七郎の「楢山節考」を、ふと思いだした。「楢山節考」は、2回映画化され、2回目の映画化である1983年のカンヌ国際映画祭にてパルム・ドール(最高賞)を受賞している。ある種普遍的なテーマなのだろう。

楢山節考

この小説では、口減らしのため70才になる寒村の老人が山へ捨てられる、という厳しい掟(棄老)が描かれている。他にも哀しい現実が全編に残酷なまでに描かれているのだが、登場人物は、掟に抗うことなく淡々と定めを受け入れているところが印象深い。今と当時は時代が違い経済状況が劇的に良くなったとはいえ、歴史の上でたかだか半世紀ほどしか経っておらず、日本人のDNAには貧困の記憶がまだ残っている気がする。

アマゾンのこの本の紹介文には次のように書かれている。ーーお姥捨てるか裏山へ、裏じゃ蟹でも這って来る。雪の楢山へ欣然と死に赴く老母おりんを、孝行息子辰平は胸のはりさける思いで背板に乗せて捨てにゆく。残酷であってもそれは貧しい部落の掟なのだ―因習に閉ざされた棄老伝説を、近代的な小説にまで昇華させた『楢山節考』。。

 今は、違う。食糧事情も医療事情も昔とは比較にならないくらい改善した。だが、一部では、貧困の果ての老老介護殺人や子の親殺しなど悲惨な現実もありながら、姥捨てすることは許されず、つらさがさらに厳しいものになっている。

もちろん、誰しも生きたいだけ生きればよいと思う。しかし、憲法で謳われている健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を政府が保障しているとは思えないし、それは別にしても、死ぬ自由も与えるべきだと思う。

 

 

 

「世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠」スティグリッツ 平等とは何か

「世界に分断対立を撒き散らす経済」                   (ジョゼフ・E・スティグリッツ 原題は”The Great Divide”)

”The Great Divide”という簡潔な書名が日本語に訳されるとき、どうして「世界に分断対立を撒き散らす経済」と意訳されるのだろう。主は、うまい翻訳に思えず、少し疑問を感じる。主なら「世界に分断と対立を撒き散らす犯人はコイツだ」とするだろう。(文字を一部赤くしたのは、この本のタイトルが一部赤字で印刷されているからだ。写真はアマゾンから)

スティグリッツ(世界に分断と対立)

スティグリッツは、アメリカの経済学者で、「情報の非対称性」の理論でノーベル経済学賞を2001年に受賞した。クリントン政権で大統領経済諮問委員会委員長をつとめ、世界銀行のチーフエコノミストだったこともある。要するに、各地で発言する影響力のある経済学者だ。

スティグリッツの「情報の非対称性」を少し説明すると、経済主体のうち特に買い手のほうに情報が少ない「情報の非対称性」があるために、合理的な行動が出来ず、結果として最適な資源配分が実現できないということを数学的に証明した。この現象はどんな商品にも当てはまることが、容易に理解できるだろう。我々が保険を掛けるとき、保険会社は保険のことをよく知っているが、我々はすべてを知って保険をかけるわけではない。商品を買うとき「情報の非対称性」は広く存在する。ちょうど今、フォルクスワーゲンのディーゼル車が、実は非常に空気を汚していたということが発覚した。これなどは、事実が消費者に知らされていれば(「情報の非対称性」が、もしなければ)、誰もこの会社の車を買わなかっただろう。

さて、内容を要約するためにこの本の帯のコピーを引用すると 「格差は冷徹な資本主義の結果ではない。1%の最上層が、自分たちの都合のいいように市場のルールを歪め、莫大な利益を手にし、その経済力で政治と政策に介入した結果なのだ。だが格差の拡大は、経済や社会の不安定と混乱をもたらし、やがてはすべての人々を危機へと導くーーー」とある。

40年前、主が大学生の時に学んだ新古典派の経済学では、経済主体が合理的に行動するという前提条件を満たせば、最適な資源配分が実現される(有名な「神の見えざる手」が働き、需給は均衡し失業は起こらない)としていた。非常にシンプルで楽観的だが、もしそうなら、政府が介入することなく、市場が最適解を与えてくれるということになる。こうした考えが、「小さな政府」、規制緩和やグローバリズムのトレンドの根本にある。

第二次世界大戦のあと、市民社会が広く実現し格差が縮小した時代が続いたように見えた。だが、1980年代のレーガン大統領の登場あたりの時期を境に、規制を撤廃し、民間会社の競争が社会資源を効率的に配分するとさかんに言われるようになり、アメリカ国内だけではなく、地球規模でグローバリズムが言われるようになり、格差が拡大し始める。

今のアメリカでは、1%の超富裕層とそれ以外に別れてしまい、99%のほうはこの30年間!所得がほとんど伸びていないのに対し、1%の超富裕層が富の4分の1を持つまでになっている。リーマンショック後の経済成長のうち、なんと97%は上位1%が手にしたとある!

過去30年間で、アメリカで順調なのはこの1%の層だけで、残りは停滞しており、中間層から下層への移行が起こっている。この不平等に対し、スティグリッツはさまざまな角度から、吠えまくる。大声で警鐘を鳴らす。アップルやグーグルなどの巨大企業が生まれた一方で、デトロイトなど過去の製造業の中心地は、いまでは廃墟のようになっている。一方、富裕層は、下位の層を「怠け者」と考え、自分の税金が低所得者層に使われることを激しく嫌っている。スティグリッツは、このような社会の分断は、全体として資源が効率的に使われていない状態だという。貧しい層の能力が、十分の発揮されていない。また、この激しい社会格差は、経済成長を減速させ、社会を不安定にすると繰り返し述べている。

金持ちは、自分たちが高い報酬を手にし、多額の財産を持っていることに対して、それは努力や能力の結果で、当然だと考えている。しかし、この本で繰り返し述べられているように富者と貧者の経済格差は、正常な経済活動の結果ではなく、各種の社会政策、税制、教育の機会不均等などの人為的な介入により生み出されたものだ。

アメリカに比べるとマシだが、こうしたことは日本でも起こっている。言わずもがなだが、離婚した片親(特に女性)家庭の貧困、その子供への貧困の連鎖、20年続いたデフレによる非正規就労者の貧困、結婚できない層の増加、出生率の低下など、「一億総中流」と言われた高度成長期には見られなかったような惨状が、そこかしこに広がっている。一刻も早く、経済を立て直し、広がった格差の是正が必要だ。

ところが、政府は格差解消に真剣に取り組む気配がない。財務省やマスコミは、財政赤字にフォーカスし、国の財政を家計のように考え、財政赤字の解消には、増税と歳出削減しか他に方法がないという誤った観念に囚われ、財政危機を煽るばかりだ。公共事業は、効果のない非効率の代名詞のように言われる。しかし、公共事業は、社会資本の整備を行うもので必要なものだ。デフレが20年も続いたため、デフレにかき消され効果が出なかったのだ。一部で非効率的な公共事業があったので、すべてが悪いとの印象を社会に与えている。高齢化に伴い増加する社会福祉費用。これも財務省は増加率を削減しようと躍起だが、必要な福祉は国が負担すべきだ。

巨額の財政赤字が日本国の信用を失わせ、やがて国債の暴落とハイパーインフレが始まると言われることがあるが、これはデマだ。アベノミクスが始まって2年、大量の国債を日銀が買っているが、国債価格は安定し、金利も史上最低の水準で安定している。

今年6月、年金の支給額が少ないと訴え、老人が新幹線の車内でガソリンを被って焼身自殺するという象徴的な事件があった。誰でも、生活保護程度の金額を手にできるよう国が面倒を見るべきだ。

主は定年退職したばかりだが、老後を安心して過ごすためには、現在の平均的な年金の水準では、退職時に最低限持ち家と3000万円の現金が必要だと言われている。

このような条件を満たす高齢者がどれだけいるというのか。週刊誌の見出しではないが、夥しい下層老人が社会を漂流するだろう。また、何十年もあくせく働いた後、やっとて建てたマイホームとやっと貯めた貯金を取り崩しつつ、不安な老後を細々と過ごすのが、国民の理想の姿だとは思えない。老後は国が最低限の生活を保障することにより、若い勤労者層も安心して結婚し、子供を作り、活力ある社会となるだろう。機会均等の観点から、教育費も無料を基本にすべきだ。

アメリカの考える「小さな政府」は反面教師だ。答えははっきりしている。「小さな政府」を是とするのをやめ、北欧型の高福祉、高負担へ明確に転換するべきだ。

 

 

 

 

 

安達誠司 VS 池上彰

安達誠司さんの「ユーロの正体」(2012年11月幻冬舎新書)と「円高の正体」(2012年1月光文社新書)、池上彰さんの「池上彰のやさしい経済学2ニュースがわかる」(2013年11月日経ビジネス人文庫)の3冊を読んだ。池上彰さんの本は、読了したわけではなくざっと目を通したというところだ。

安達誠司さんの「ユーロの正体」はちょうどリーマンショック後のユーロ危機(PIGSと言われるポルトガル、アイルランド、ギリシャ、スペインの通貨危機)のあと出版された。それは、アメリカ発のサブプライムローンに端を発したリーマンショックにより、好調だったユーロが変調し、ギリシャは粉飾決算していたことがばれ、スペインなどでは住宅バブルがはじけ、経済が急速に悪化した。

EUは政治状況、経済状況や雇用環境などさまざまに違う国々が、そうした諸条件が揃わない状況にもかかわらず、理念を性急に追求し、各国の通貨を捨てユーロに通貨統合してしまった。このことにより、金融政策は欧州中央銀行(ECB)のみが行い、各国ごとの政策が採れなくなった。こうなることは、国ごとの不況や景気過熱に対する対処方法が致命的になくなったことを意味する。すなわち、共通通貨ユーロを使うということは、域内の各国にとって為替レートを固定するということと同義になる。ドイツは生産性の向上の儲けがマルク高になることで相殺されていたが、ユーロに代わるとどんどん競争力を増した。一方で、農業と観光を除けば取り柄のないギリシャのような国が、レートを固定してドイツなどの優等生と同じ土俵で共存するのは無理がある。

イギリスはユーロに入っていない。これは、ユーロの前身であるEMS(European Monetary System)時代に、為替安を見越したジョージ・ソロスが率いるファンドにポンドを売り浴びせられ、ポンドは暴落、変動相場へ移行せざるを得なくなったものだ。

今年、再びギリシャ危機は起こった。なんとか、EUはギリシャに借金を貸し続けることを決め、ギリシャはEUに残っている。しかし、主のブログで紹介したとおり、ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツが、EUを出るべきはドイツだと言うほど矛盾は大きい。金融政策をとる余地のないギリシャにとって、EUから強制される緊縮策は出口がないとわかってくる。

一方「円高の正体」は、「円安」の今何を言うのかと感じるかもしれないが、現在でもこれまでの円高とアベノミクス以降の円安を理解するうえで、格好の書籍である。

この本では、話を単純化するために、為替レートを流通する貨幣量の比率だと説明している。普通、為替レートの説明では、購買力平価説を紹介し、二国間のマクドナルドのハンバーガーの値段の比率や、金利差などを根拠にあげることが多いのだが、単純化することで非常にわかりやすくなっている。また、バブル崩壊後ずっと、いかに人為的に円高誘導され、不況を克服するために行った財政出動が効果を上げずに、日本の借金を増やしたということが理解できる。不況下で行う消費増税が如何に逆効果か、ということもわかる。

この安達誠司さんの2冊は、経済をわかりやすく理解させ、同時に時代を超える普遍性があるので、今でも読む値打ちがある。

ところで主は、最近日経新聞を取り始めた。このおまけとして、3冊の書籍のうちから1冊を選ぶことが出来た。それで池上彰さんの「池上彰のやさしい経済学2ニュースがわかる」を選択した。池上彰さんは、テレビにしばしば登場し、書店には大量のベストセラーが並んでいる。非常にわかりやすく物事を掘り下げて説明してくれるので主もファンである。

しかし、この本は経済の主だったトピックをわかりやすく説明しているのだが、現在行われている「量的緩和」には触れていない。「流動性の罠」(金利はゼロ以下にできないため、その状態では金融政策が効かなくなること)というやや専門的なことについて触れているのだから、浜田宏一、安達誠司さんなどリフレ派の「量的緩和」により市中の貨幣流通量を増やし、その貨幣が国債や株式などの投資市場に流れることで資産効果を上げ、インフレ期待をを生み出そうという主張を紹介しないというのは、残念で公平でないような気がする。

 

若者よ! マスコミを信じるな (3)

前回からの続き

⑦「日本もグローバリズムに後れてはならない」ーーー               グローバリズムという言葉は古く、1990年ころが最初のようだ。「地球主義」と訳されることもあるようだが、そんな空想的で理想的なことはまったくない。グローバリズムといわれると、島国日本のやり方が遅れているように聞こえるが、そうではない。 ミルトン・フリードマンが「選択の自由」を書き、1980年代以降、市場万能主義が礼賛される。この主張を理論的な柱にして、規制を撤廃し、政府の関与を最小にすることが効率的で望ましいとされた。この考え方の延長線上にグローバリズムはあり、関税を撤廃し、地球規模での競争が資源の最適配分を実現するという考え方だが、そんなことはない。資源の最適配分を実現するには、多くの前提条件が必要なのだが、これが素人が考えても満たされるはずがないとすぐにわかる。 その具体的な前提を、藪下史郎「スティグリッツの経済学『見えざる手』など存在しない」から引用してみよう。①私的利益を追求する合理的な個人と企業 ②多くの売り手と買い手がいる完全競争市場。売り手も買い手も価格支配力を持たない ③完全情報。売り手と買い手も取引される商品の価格と質に関する情報を持っており、情報量に差はない ④取引費用はない。情報のための費用を含め、取引に必要とされる費用は存在しない ⑤同種の財・サービス。一つの市場で取引される商品はすべて同質であり、たとえば労働サービスについては能力・技術などの差は存在しない ⑥完備市場。すべての財・サービスを取引する市場が存在している。 ⑦スムーズな市場調整。需給が均衡するように素早い価格調整がなされる。・・・①から⑦まで満たしてはじめて仮説は有効に働く。このようなことは到底ありえないので、市場の失敗、机上の空論、先進国側の帝国主義だと考えるべきだろう。 話は変わるが、ISOという国際規格があるが、日本企業はグローバルスタンダードの掛け声の下、このISO取得に躍起になる。おかげで、それまであった日本のQC運動が下火になってしまう。ISOとQC運動は全く性質が違う。ISOはトップダウン、QC運動はボトムアップ。QC運動のほうが、断然すぐれているのだが、日本のローカルな運動と思われ、不景気も相まって消滅してしまう。ISOを世界標準などと思い、その気になっていたがために、競争力の一部を失ってしまった。

⑧「給与は成果に応じて支払われなくてはならない。年功序列はもう古い」ーーー    アメリカ人の1%の高額所得者は、その報酬の受け取りについて、高い生産性と能力に見合ったもので何十億円もらっていても当然だという。所得の低い人は、努力が足りないのだという。この発想は、成果主義の延長にある。だが、その貧者と富者の差はもちろん、正当なものではない。恣意的に社会制度や政策により生み出されたものだ。現代社会は勝者が儲けを総取りする傾向があり、1%の富裕層と99%の貧困層に以前にもまして分断されている。 社会の成員全員が持てる能力をすべて発揮し、資源が最有効に使われる状態(経済が成長し、完全雇用が実現されたプラスサムの状態)がもっとも望ましいのだが、現状は、貧者が高い失業率により持てる力を発揮できない一方で、無力につけこむ学生ローンや、無茶で高額の手数料を取られる住宅ローンなど、貧者のパイを減らし富者へ集めているマイナスサムの状態である。アメリカは機会均等が失われて久しい。機会均等がない状態で、成果主義云々はあり得ない。

成果主義と年功序列のどちらがいいかというのは、決して良し悪しの問題ではなくて、どのような社会を望むかという問題だ。安定し、長期にわたる成果を求めるなら、終身雇用、年功序列が優れている。長期の目標や外部経済(公害など)を斟酌せず、短期の成果で勝者と敗者を明確に分けるなら「成果主義」だろう。だが、北欧のように教育、医療に費用をかけ社会保障のセーフティネットを充実させて経済成長を果たしている国もある。ただし、北欧の成功は、意図的に黙殺されることが多い。

まとめーーー                                  主は、昔、愛読書は大江健三郎で朝日新聞のファンだった。支持政党はどちらかいうと左寄りで自民党は嫌いだった。常に政治的、倫理的にニュートラルであることをモットーにしていた。しかし、そのニュートラルはマスコミや世間の幻想に色濃く染まっており、大いにバイアスがかかっていた。このことに気付いたのは、今から10年前、50歳の頃だった。藤原正彦さんのベストセラー「国家の品格」(2005年)を読んで、衝撃を受け、目からうろこが落ち、価値観が変わった。いまや、一番ひどいと思うのは朝日新聞である。朝日新聞に限らず、日経新聞もそう。雑誌はさらにひどい。読者の興味を煽れればよしとしており、すべてのマスコミは本当のことは書かない。嘘ばかり並べていると考えるべきだ。    おしまい

 

 

 

若者よ! マスコミを信じるな (2)

前回からの続き

④「ドイツの財政収支が均衡しているのは素晴らしい」ーーー             日本とは大違いだが、ドイツは、財政がほぼ均衡するところまできている。これを手放しで称賛するのは間違っている。 ドイツの経常収支が改善し始めたのは、旧東独の再建が一段落し、ユーロの流通が開始された2002年頃以降だ。通貨統合以前は、周辺国に対するドイツの相対的生産性上昇はマルク高で相殺されていたものが、統合後はドイツの輸出競争力上昇に直結したことが根底にある。要はEUの中で、ドイツが通貨統合のメリットを一番受けているのだ。この強すぎるドイツの輸出競争力に対して周辺国から批判が出ているが、ドイツ人は「ドイツに責任は無い」「ドイツの黒字は相手国にプラスの面もある」と、批判をはねのけている。 大英帝国がカリブ海やアフリカ、アジアを「低開発化」したように、ヨーロッパ統合が生み出した「ドイツ帝国」は、南欧の「低開発化」を促進しているようなものだ。このEUのシステムの内部にある限り、ギリシャがドイツや北欧のような「先進地域」になれる可能性は非常に低い。ドイツ一人の収支の均衡は、他の国の犠牲の上に成り立っており、EUの存続を不安定にするものだ。

⑤「知的財産の保護は重要だ。先進国が途上国に知的財産の保護を貿易交渉で求めるの当然だ」ーーー                                  知的財産の保護は重要と一般に考えられている。中国はあらゆるコピー商品を売っており、このようなケースでは権利が確かに保護されないとならない。 だが、アメリカが知的財産権の保護を貿易交渉で主張するとき、それはあらゆる成員にとっての本当に保護すべき価値なのか確認することが必要だ。すなわち、アメリカの言う知財の保護が、将来に向けて新しい知識の獲得のインセンティブになるのではなく、特定企業の既得権益の保護のためであり、今後の新たな研究開発の妨げる場合がある。特に製薬に関する特許は、単なる発見が特許を得ている場合があり、アメリカの製薬会社の既得権を守るだけで、その後の他者の研究開発を邪魔する働きをもつことがある。先進国のいう知的財産の保護は、本当に守るべき権利なのか、それともその権利を認めることにより、自国民が不当に高い輸入品しか買えなくなってしまうのか見極める必要がある。

⑥「アメリカは機会均等の国、アメリカンドリームの国だ」ーーー           アメリカが実際にアメリカンドリームの国だったのは、1980年以前の話だ。今は、世界で屈指の不平等国で、アメリカンドリームは蜃気楼のようなものだ。貧しい親を持つ子が貧しい階層から抜け出す確率は非常に低く、機会均等は失われている。1980年といえば、レーガン大統領が登場した時代で、小さな政府を標榜し、市場の力を信じ、あらゆる分野で規制緩和が進められた。レーガンの後は、父ブッシュ、クリントン、息子ブッシュ、オバマへと続くのだが、この間ずっと規制緩和は押し進められ、貧富の差が非常に拡大する。特に息子ブッシュの時代に二つの戦争(アフガン侵攻、イラク戦争)を行い巨額の財政赤字を抱えるにもかかわらず、富裕層に対する二度の減税により、アメリカの不平等は決定的に悪化する。いわゆる1%の大金持ちと99%の貧困層の分断だ。「トリクルダウン」という言葉があるが、上層部に減税をすることにより、その恩恵がしずくのように下層に浸透することを言う。だが、これは富裕層が増加させる消費額は、中流・下層の消費額を明白に下回るために、効果はほとんどなく不平等を拡大させるだけだ。市場が万能だという迷信は、ある特定の条件、すなわち、情報が完全に共有され、完全雇用の状態で、寡占がなく競争が保障され、外部経済がないなどの条件が満たされている場合のみだ。こんな試験管的な状態は、現実にはあり得ない。このため、市場自体が欠点を持つというより市場を機能させるためには、規制が必要なのだ。 基本的にアメリカは今では一部の金持ちが世論を操作するきわめて特殊な国だ。アメリカのいうことを金科玉条にしてありがたがる時代は、はるか昔に過ぎた。アメリカのいうことは「眉唾」と考えないと判断を誤る。 最近「ピケティ」が高い評価を受けているが、ピケティの資本主義に対する批判も同様の指摘だ。

つづく

 

 

 

若者よ! マスコミを信じるな (1)

主、60才を過ぎやっとわかることがある。

われわれは間違った価値観や先入観をさまざまな角度から刷り込まれている。世間に流れている情報を、そのまま鵜呑みにしてはならない。自分の頭で本当かどうかしっかり考えなくてはだめだ。以下、経済ネタが多く恐縮だが、誤った都市伝説をざっと見ていこう。

①「日本の財政赤字は危機的だ。子孫に赤字のツケを回してはならない」ーー      これは、財務省の宣伝である。日本で宣伝されているほど、世界の誰も日本の財政赤字を心配していない。赤字は経済が成長すれば自然に解消に向かう。まず優先すべきは、経済成長だ。財務官僚は法学部出身者が多く、経済をわかっていない。国の赤字を我が家の赤字と同じように思って心配している。ところで、赤字がこれほど巨額になったのは、デフレ不況が続く中で、財政出動(公共投資)を積み重ねたのが原因だ。結果的にこれまでの財政出動が、効果がなかったことを見て、財政政策は効果がないという論も出てくる。(民主党の「コンクリートから人へ」というスローガンがそうだ)赤字がこのように大きくなったのは、デフレが20年も続いたからだ。まずはデフレを脱却することが重要だ。デフレを脱する局面になれば、財政政策は景気を素早く上向かせる効果がある。

②「円高になることは、円の値打ちが上がることなので悪いことではない」ーー      日経新聞は、円高になることを「円が伸びた」、円安になることを「落ちた」と表現する。「落ちる」より「伸びる」のほうがよさそうに聞こえる。だが、日本全体を見た時に、輸入より輸出のほうが経済に対する好影響が大きく、そのためには為替レートが安いほうが有利だ。マスコミの論調には、円高は円の国際評価が上がることなので望ましいといったことが言われるが、為替の決定要因には需給や金利などさまざまあり、円の値打ちが上がったと単純に喜ぶのは間違いだ。むしろ、世界の主要な通貨は、供給量を増やし通貨安競争の状態である。ここでこの競争に加わらないと、円高になり競争力が失われる事態を引き起こす。

 ③みんなが株を買うから株価は上がっていく」ーーー               日経新聞などでは、個人投資家へのセミナーなどを開き、個人が株を買えば株価が上がっていくようなことを言っている。しかし、日本の株は残高で4割、日々の売買量の6割が外人投資家が握っている。外人投資家といっても個人というより、ファンドだ。このため、彼らの売買が株価の上下に直結する。外人は、さまざまな世界中の投資の中で日本の株を一定の割合(これをポートフォリオという)保有しようとするのが基本的なスタンスだ。日本の株価に値動きがなくとも、為替が円高になればその分儲かるので、株を売ることになる。逆に為替が円安になると外貨で見たポートフォリオが下がるので、彼らは日本株を買い、株価は上昇するのだ。しかも、彼らは投機目的なので、ちょっとしたことで直ちに株を売買し、株価は乱高下することになる。こうしたことがわかってくると、日本の為替レートの変化の重要性に気付く。円は相対的に安全資産と考えられており、海外で経済不安が生じると安全とされる円が買われる。(株安の原因だ)ドルとの金利差も影響を与える。イエレンFRB議長は年内にアメリカの金利を上げると言っているが、これにより円安が進むことになる。(株高の原因だ)話を戻すと、日本人の個人投資家が株を買ったくらいでは、日経平均株価を上げるほどの力はないだろう。問題は外人の動きだ。

つづく

 

 

 

ギリシャ危機 ドイツがEUを出るべき スティグリッツとクルーグマン

written on 2015年7月12日

ギリシャ危機は、ギリシャがEU側にかなりの譲歩をして、その裏で債務の削減(帳消し)を要求するだろうといわれている。それに対し、EU側がギリシャの案を受け入れ、ギリシャがEUに残留するかどうかの瀬戸際にある、というのが大方の報道である。

だが、主が高く評価するスティグリッツは、過激にも「EUから出ていくべきは、ドイツだ」といっている。2008年の金融危機(リーマンショック)以後、ギリシャはEU、ECB、IMFの3者から緊縮策を受け入れさせられ、症状は悪化しているというのだ。

スティグリッツは、「ギリシャは間違いを犯したが、ユーログループはギリシャに有毒な薬を処方したことがより重大だ」と言っている。有毒な薬の処方とは、「具体的には公務員の解雇と自宅待機、年金支給額40%削減、公務員給与15%削減、医療保健費、教育費などの削減だ。その結果、失業率は25.8%、特に25才未満は64.2%となっている。GDPもマイナス8.9%(2011年)、マイナス6.6%(2012年)。貧困層と中流層のダメージが特に大きく、彼らがシリザを政権に就かせた原動力となった。」(シリザは急進派連合のこと)また、2015年1月28日付のスペイン紙は「ドイツは子どもの頭をもった巨人だ。何度も壁に頭をぶっつけても認識しないでいる」

http://newsphere.jp/world-report/20150206-1/

同じように主が高く評価するクルーグマンも同じ趣旨の発言をしており、政治体制が別々のまま通貨統合が行われたことにより、ギリシャのような弱い国にとっては、経済政策の余地がない。強い国の言いなりになって、背負った借金を返すだけの奴隷みたいなものだ。

http://newsphere.jp/world-report/20150629-2/

 

 

 

 

「世界が日本経済をうらやむ日」浜田宏一

written on 2015年6月21日

結構時間がたってしまったが、2015年1月にタイトルの本「世界が日本経済をうらやむ日」が浜田宏一・安達誠司さんの共著で出された。この本を読んで数か月たってしまったが、感想などを書いておきたい。

2012年11月の衆議院解散から一気に、円安・株高が起こった。その選挙で安倍首相がアベノミクスを声高に表明、マーケットは経済政策の転換を予想、すぐさま反応したのだ。

それから2年半が経過し、日経平均株価は2万円を超え、失業率は3.5%を下回り、企業収益の改善から2年続きの賃上げが春闘で行われ、実質賃金が物価上昇率をわずかだが上回るほど改善するようになった。氷河期と言われていた若者の就職事情は劇的に改善し、数十年ぶりの売り手市場に変貌した。為替レートが円安をキープしていることで、生産拠点を海外に移していた企業が国内回帰する現象もはっきりしてきた。

これほど明確に浜田さんたちリフレ派が進めた金融政策は成功しているのだが、他の既存の経済学者たちが宗旨替えするということは全くない。町の書店で経済関係の本の見出しを眺めてみると、あいかわらずほとんどが現在の金融政策に警鐘を鳴らすものばかりなのだ。

「超」整理法で有名で時々マスコミにも登場する野口悠紀雄は、日銀の異次元緩和を批判(「金融政策の死」)し、現在の金融緩和を続けることはやがて国債価格が暴落、ハイパーインフレに陥ると主張する。日刊ゲンダイで1ドル=1万円という円安になるとまで言っている。

民主党政権時代で円高であった2011年1月に『1ドル50円時代を生き抜く日本経済』を出版した浜矩子は、アベノミクスを「アホノミクス」と批判してはばからない。民主党政権の時代の円高を見て、1ドル50円時代をまじめに予想しただけでも信頼性が疑われ、その後も相変わらず物事が見えないようだが、マスコミから干されるということはない。

昔から書店で多くの書籍を目にする藤巻健史(維新の党所属の参議院議員でもある)は、現在の金融政策を批判、ハイパーインフレが起こり1ドル=10万円になりかねない、財政悪化が太平洋戦争前と同じ状態だとまで言っている。書店には、読者の不安をあおるキャッチーなタイトルの本が多く並べられている。

アベノミクスが万能だというつもりはないが、こうした考えとは全く違う経済学者が幅を利かせて存在するという事実はやはりよくない。第一に「経済学」というからには、科学であってほしいと思うし、訳知り顔の素人の強弁と変わらない状況は、余分な不安を社会にまき散らす。第二にアベノミクスが成功するかどうかは、これが最後のチャンスだろう。日本は15年とも20年ともいわれる長い不況に手をこまねいてきた。その長いデフレの間に、賃金は下がり、共稼ぎをせざるを得なくなり、出生率が下がり、地方は存続の危機にある。こうした最悪の状況から、再び日本が復活できるかどうかという瀬戸際だ。財務省は財政赤字を強調し、マスコミも同調する。いま大事なのは財政赤字の解消ではない。まずは、経済成長が先だ。経済が成長するのにともなって財政赤字は自然に軽減される。消費増税で経済の腰を折っては何もならない。第三に短期の問題と長期の問題が混同されている。短期の問題は、金融の量的緩和とインフレ期待により実質成長力と潜在成長力のギャップを埋めることだ。これまでの日本はヒト・モノ・カネが十分に働いていなかった。その遊休を解消することが先決だ。第三の矢である成長戦略はこのギャップが埋まった時に、さらに成長力の限界そのものを高めるための方策であり、長期の問題だ。

アベノミクスを批判する側は、これまで国債の暴落、金利の急上昇が起こらず、経済の好循環が生まれつつある事実を客観的に見なければならないだろう。円安で輸入価格が上がり、価格転嫁をできない中小企業が困っているとか、格差が拡大したと言われることがあるが、民主党政権時代と比べてみるがよい。長く続いた自民党時代のデフレはもちろん悪いが、3年間の民主党政権時代はどうだったか。デフレスパイラルの深みにどっぷりはまり、極端な円高で日本の製造業は競争力を失い空洞化、雇用も長期の悪化(リストラの嵐)、非正規雇用の切り捨てなどが起こる。リーマンショックはアメリカ発なのに、いち早くアメリカは経済を立て直し、一番被害が少なかったはずの日本がいつまでも不況から脱することが出来なかった。(リーマンショックが起きた際アメリカは、日本が何も対策を取らず長い期間デフレに陥ったことを反面教師にし、すぐさま金融の量的緩和を行ったといわれている)

アベノミクスが始まってから事態は、これまでと比べずっと改善しているのだ。焦ってはいけないし、楽観はできないが、少なくとも間違ったデマで国民をミスリードする愚は犯してもらいたくない。

思わず主の強い主観の表明となった。しかし、この本を読めばいかに経済学の世界が、とりわけ日本の主流派といわれる人たちの経済学の世界が、間違ったバイアスから抜け出せていないと理解することができる。

ちなみに、最後の章で世界の経済を見る目を養って株で儲けを出せるかどうかということがトピックになっているところもあり、それだけを読んでみても値打ちがあるだろう。