9/16 パプアニューギニア 独立記念日

39年前(1975年)の今日、9月16日にパプアニューギニアはオーストラリアの委任統治から独立した。今日は独立記念日で祝日であり、各地で催しが行われた。

主は、ポートモレスビーにいる同僚など男ばかり6人で、自宅のあるマンションの目の前のエラ・ビーチに出かけることにした。ここは、市内でイベントが数か所あるうちのひとつだ。

ビーチの前の道路を1年以上、毎日車で通勤しているのだが、実は初めて歩く。まずは車をメンバーの合流地点であるビーチの上のホテルの駐車場に入れる。最小の現金と会社が貸与している携帯電話(スマートホンではない)だけを持って、5分ほど歩いてビーチに到着した。下は、会場の人混みの様子である。残念ながら携帯電話のカメラで撮っているのであまり写りは良くないが、込み具合がわかるだろう。

人ごみの外側では、ロープを張ってパプアニューギニアの国旗をあしらった服を吊るして売ったり、地面の敷物の上で、貝で造った民芸品などのアクセサリーなどを売っている人なども大勢いた。下の写真には、子供の服、右のパラソルにもパプアニューギニアの国旗があしらわれている。

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下の2枚が、みんなのお目当てのシンシンの様子である。残念ながら、あまりに人が多すぎて間近まで行くことは出来なかった。草などで作った腰みのをまとって、女性たちが踊っている様子がわかるかも知れない。

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こちらは、会場を見下ろすマンションに住む同僚の家(7F)のベランダから撮影したものだ。マンションは山の上にあるので、会場全体が見渡せる。この方からおいしいコーヒーをご馳走になった。

Photo0014最後は、我々日本人が毎日のように食事をしているレストラン「大黒」のメリーたち。(『メリー』はこちらでは女の子という意味だ。時に奥さんをメリーということもある)普段は、彼女たちがウエイトレスをしてくれる。左の小柄な女の子は、頭がいいのか常にレジを担当している。右の女の子が手に持っているのは、多分、請求書だ。写真を他の男たちもとったのだが、彼女たちははじける笑顔で、実に嬉しそうだった。

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錦織圭 / USオープンベスト4 悲しいNHK海外放送!

錦織圭が2014年全米オープンでベスト4!

衛星のおかげでNHKをパプアニューギニアでも見ることができる。グランドスラムでの錦織の勝利は、やはり他のATPのツアーと比べてずっと大きく報道される。ATPのツアーでは優勝してもニュースのトップに来るということはなかった。

現在続いている、USオープンでは錦織が勝ち進むにつれNHKプレミアムの扱いが徐々に大きくなっていく。とうとう準々決勝で世界ランク第3位のワウリンカに勝利した夜、NHKニュースセンターナイン(NC9)は、トップニュースとしてかなりの時間をあてて錦織勝利を報道した。翌日の準決勝の前のニュースでは、練習風景が放送されていた。

だが、NHKプレミアムは海外のスポーツ報道の大半を見ることができないのだ。海外でのスポーツの動画が始まった途端、静止画に切り替わってしまい、音声だけが流れることになる。NHKは海外から放送権を日本国内向けに買っており、海外に向けては電波を送信できないのだ。日本国内のコンテンツであっても、著作権がNHKがないものも海外で放送できない。

NC9の番組のトップで放送された錦織の勝利は、小学生時代を過ごした故郷松江のテニスコーチや小学生時代の先生へのインタビューがはさまれており、4回にわたってUSオープンの動画が静止画に切り替わっていた。要するに現地USオープンの動画は全く見ることができないのだ。女子ダブルスで勝ち進んでいた伊達公子も同じだ。

実際のプレーをNHKで見たいよう!涙!(^^);; 静止画しか見れないが、日本でも期待が大きく高まっているのは伝わってくる。

幸いなことにパプアニューギニアでもケーブルテレビがありCNNなど多くのチャンネルを見ることができる。EUROSPORTSがUSオープンの放送をしている。今日は土曜日で明日は休みということもあり、深夜2時、ランキング1位ジョコビッチとの試合開始を待っているところだ。祈る、勝利!

 

ヒトのセックス (愛の耐用年数)について考える

人は異性(同性愛者なら同性でもいいわけだが)の人間性を認めて好意をもち、好きになり、うまく両者が同じペースで高まっていけば、愛しあうようになり、セックスへと続いていく。これが基本形。必ずしもこうしたプロセスを踏まず、短絡的だったり、見せかけ上だけで、内実は騙し、騙され、むしろ打算的、愛がないまま進むパターンも当然あるだろう。どちらのケースであっても、セックスをするようになるとそれまでとは様相が変わり、セックスが目的となり、大抵の場合、本末転倒する。好きだった人間性や、うわべを取り繕っていた(騙していた)ことなどが、脇へ置かれて、なかったも同然のこととなり、どこかへ忘れられてしまう。よく「手段と目的を間違える」という言い方をするが、セックスは、愛=コミュニケーションの手段で、出発点だったはずが、いつの間にやらそれ自体が目的となってしまう。結果として、目的となったセックスに、手段である愛=コミュニケーションがオマケのように小さくなる。

ここで果たして人間性を認めてセックスをするなら、何年たっても飽きないのだろうかという疑問がわく。人間性を認めて初めてセックスするとき、その時が最高点と言っていいだろう。だが、果たしてその最高点はずっと維持されるのだろうか。

「永遠の愛」などと言う表現があるが、何の努力もせずに愛が永遠に続くと考えるのは、甘ちゃんだと言われても仕方ないだろう。ネットで検索していると、恋愛感情はホルモンの分泌(フェニルエアチミン)と関係があり、恋愛の最初2,3年間は分泌され、その後減少してしまうとあった。

愛も、根本のところではGive and Takeだ。人間の欲望は果てしなく、手に入れたものは当たり前となり価値は減少する。このため、新たな価値を次々補給しないと、同じ愛情の大きさを長い間保ち続けられないだろう。

プラトニックな関係が続くのであれば、人間性を認めた付き合いが長い時間続きそうに思う。もちろん、時間の経過に伴い徐々に相手の評価は逓減するだろうが、急激には下がらないだろう。例えば同性同士の友情を考えると、分かり易い。)ところが、セックスを始めてしまうと、減価償却のスイッチが入る。延命措置を施さないと耐用年数が来たところで残存価値が1割しか残らない。(会計学に詳しい人は、この言い方に納得してくれるかもしれない。)

おそらく、パートナーが変わらない場合、人間性に魅了されて毎回高まってセックスするという状態が続くことは稀だろう。だが現実には、多数の夫婦関係が生涯にわたって続く。理由の多くは、子供の存在が原因だったりする。パートナーへの愛情が減少しても、子供のために離婚しない「子は鎹(かすがい)」現象もあるだろう。また、離婚したくとも経済的な事情で選択しない、世間体を気にするケースも多々あるだろう。勿論、パートナーがベストだと思い続ける場合もあるだろう。「私はパートナーに隠れて不倫し、その罪悪感がパートナーへの愛情を高めている。」という人がもしいれば、それは矛盾ですぞ。

ここから先は、生物学的分析だ。もともと、人間の「好きになる」という状態から「セックスする」という流れは、文明や教育からインプットされたもので、動物として生まれつきのものではない。セックスを始めると、その動機を忘れてしまうというのも、生物学的にプログラムされたものではないからだ。当たり前だが、人間性を認めることとセックスの間には絶対的な関係はない。もう少し緩い関係だ。むしろ、主が住んでいるこの国、豚何頭かを提供すれば奥さんを貰えるというパプアニューギニアの村を考えると、人間性を認めてセックスするというより、セックスするようになって別の人間関係が開始されるように思う。

ラバウル マスクフェスティバル

2014年7月16日(水)~7月20日(日)、ココポで行われたマスクフェスティバルを紹介しよう。主は17日18日の1泊2日で出かけた。ココポはもとのラバウルが1994年の火山爆発で大打撃を受けたため、東へ20KMほど離れた場所に新しく作られた。このフェスティバル、初日の朝、夜明けとともにトーライ族が舟で現れるところが有名で、水木しげる「ゲゲゲの鬼太郎」のモデルにもなっている。この地域には海で暮らすトーライ族と高地で暮らすバイニン族がいる。かつて、トーライ族がバイニン族を山に追いやったのだそうだ。ガイドをしてくれたトーライ族の青年によると、トーライ族は一つの言葉を、バイニン族は村ごとに違う言葉を使っているとのことだった。また、村の平均的な規模は人口800人ほどだそうだ。

マスク1上は、マスクフェスティバルのひとこま。シンシンのグーループが次々と登場する。

マスク2

上も同じ。

マスク3

上が、観客スタンドとカメラマン。我々外人は1日あたり80キナ(4000円弱)を支払っているので、特等席で見ることができる。

夜に入って、マイクロバスで40分ほど離れたカイナグナン村へファイヤーダンスを見に行った。このバイニンマンのファイヤーダンスも有名だ。FIRE2

写真では、音が伝わらないのが残念だ。実際は太鼓などに合わせて、色んな装束をした妖怪(?)が現れ、踊る。ファイヤーダンスと言うのは、火の回りを踊るだけではなく、素足でその火の上を歩いたり、蹴っ飛ばしたり、勇気のあるところを示す成人の儀式の様だ。結構盛り上がる。マスク7色んな装束があり、おそらく様々な意味があるんだろうと思う。その辺がわかれば、きっと違った面白味を発見することができるだろう。

マスク8

だが、一か所に腰かけ、同じ姿勢で同じダンスを2時間近く見ているとやはり、飽きてくる。音楽もダンスも繰り返しなのだ。だが、こうしたシンシン(singsing)を世界中のどこの場所でも見ることは出来ない。現地の彼らは、こうしたお祭りに誇りを持っているに違いない。この伝統をずっと持ち続けて欲しい。

主がパプアニューギニアに赴任したのは2012年だったが、女性はすでにオッパイをシンシンのときにたいてい隠すようになっていた。しかし、その5年ほど前あたりまで女性も男性と同じように上半身裸で踊っていた。さすがのパプアニューギニアも世界のカルチャーが押し寄せ、遅ればせながら文化も変化している。

ちょうどこの頃、安倍総理がこの国を訪問され、パプアニューギニア政府の歓迎式典でシンシンが披露されたとき、同僚によると女性たちはオッパイを隠していなかったということだった。単に友好国の元首に対するもてなしとして、インパクトのある方を選んだだけなのかもしれないが、オッパイを出して踊るのが、伝統としては正式なのかもしれない。

おしまい

 

ラバウル 日本軍戦跡

2014年7月17日(木)-18日(金)の日程でココポのマスクフェスティバルに行ってきた。ココポというのは町の名前で、昔日本軍の基地があったことで知られるラバウルのが、度重なる火山の爆発で灰に埋もれてしまったので、ラバウルの隣に新しく作られた街だ。ラバウルは、ポートモレスビーがある本島の北側、東ニューブリテン島にある。マスクフェスティバルというのは、毎年7月に行われるシンシンショーのことだ。この機会にラバウルへ行き、日本軍の戦跡も回ってきた。

ちなみに旅行手段であるが、主が住むポートモレスビーにPNGジャパンという旅行会社があり、その代表者は日本人で現地人と結婚され、ハーフの子供もいる。そこへホテルの予約と空港の送迎、現地ガイド付きツアーをあらかじめ申し込んだ。パプアニューギニアには、多くの日本人が住んでいる訳ではなく、進出している企業の数も少ない。そうした中で、日本語でいろいろ相談できる旅行会社があるということは我々にとって非常にありがたい。

ラバウル2

上は、ラバウルの街を見下ろしたところ。右正面の山が噴火しているのがわかるかも知れない。山のふもとがかすんでいるのは噴火した灰だ。ラバウルの街は、美しい海に面しており、コンパクトで魅力的だ。こんな日本から遠いところに、日本軍の主力基地があったとはなかなか実感できない。

ラバウル7上は、山の上からふもとへ降りた際に撮った、市場の写真。新鮮な野菜を安い値段で売っている。この写真は親子だ。顔が似ている。

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売られていたピーマン。色つやが良い。1キナと書かれており、一山5個で日本円で40円になる。ポートモレスビーではもっと高い値段で売られているだろう。

ラバウル1

上は、大発洞窟(Barge Tunnel)という名前だが、日本軍が洞窟に大型発動機艇を隠していたところとのことだ。地面にはレールが敷設されおり、海から引き上げ、山中に隠していたようだ。奥行きが400メートルとか説明され、奥に向かって数台の船が連なっているという説明だったが、中へ進むと真っ暗で、最初の1艘を見ただけで引き返して来た。このため、本当に400メートルあるのか真偽のほどは分からなかった。このトンネルは、海からは100メートルくらい離れた山をくりぬいており、船を出し入れするのも大変だったろうと思う。

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上が、南東方面軍前線指揮所跡(Admiral Yamamoto Bunker)。写真の左が地下の司令室の入口。右奥には高射砲が見える。ミッドウェイ海戦とガダルカナル島の戦いで敗れ、戦況が一気に悪化した日本軍。山本五十六連合艦隊司令長官は、前線航空機基地の将兵をねぎらうため、ここラバウルからブーゲンビルに向かうのだが、既に暗号は米軍に解読されており敵機に撃墜された。 写真に二人の男が写っているが、彼らはどうやらこの土地の所有者らしく、我々は見学料金を支払わなければならなかった。

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中の様子。写真に写っているのがトーライ族のガイドをしてくれた青年だ。手に持った懐中電灯で照らしながら中を進む。

ラバウル3

上は、ココポ市内にある戦争博物館の兵器。詳しくないので分からなかったが、これはゼロ戦なのだろうか。「永遠のゼロ」を思い出す。兵器は、連合軍のものもあったがほとんどが日本軍のものだった。

ラバウル10上は、日本軍の戦車。地上戦もあったのだと思い知る。それほど大きくなく、おもちゃの如くにも見える。

さて、マスクフェスティバルの様子は次をクリックしてください。「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な水木しげるがパプアニューギニアで従軍した時に、数々の着想を得たシンシンショーを見ることができます。

ラバウル マスクフェスティバル

おしまい

 

 

 

 

 

 

メラネシアン・フェスティバル

2014年7月6日(日)、4年に1度開かれるというメラネシアン・フェスティバルに行ってきた。日曜日の今日、意外なことに、何の行事もやっていなかった。平日に下見をした同僚によれば、その日はずっと賑わっていたとのこと。日曜日の朝はみな教会に行くので、閑散としているのだとか。とほほ。(^^);;;;

P1060825上は、会場の看板。この国の国会の裏側に位置し、日本なら霞が関という場所なのだが、広大で利用されていない土地が広がっており、その一部が会場になっていた。4年に1度開催され、第5回という事は20年前からやっているという事になる。メラネシアなので、フィジーやバヌアツ、サモア、ソロモンなどのブースがあった。

P1060826上が、会場の様子。やはり、閑散としている。

P1060830子供のワニを持っている男がいた。口を縛っているので、可愛く見える。売ってくれと言えば、きっと売ってくれるはず。

P1060847会場でコーヒーを売っていたおじさん。隣では女性が生豆からローストされた豆まで焙煎のプロセスがわかるように豆をお皿に並べていた。残念ながらコーヒーを飲まなかったが、きっと、本格的なコーヒーが飲めるだろう。

P1060853会場からの帰り道で、道路脇の野菜の直売所に立ち寄った。新鮮な食料品が手に入ると考え、皆で買い物をすることに。

P1060851何を売っていたのか忘れてしまったが、直売をしていたおじさん。声をかけて写真をとらせてもらったら、「イエーィ!」サイン。どこの人々も同じだ。 (日本のおじさんなら、こんな風に簡単に乗ってくれないかもしれない。)

カリタス職業訓練校文化祭 ポートモレスビーのシンシンショー

2014年7月5日(土)ポートモレスビーのボロコという地区にあるカリタス職業訓練学校で行われた文化祭を見る機会があった。職業訓練学校なのだが、在籍する生徒の年齢は、日本で言えば高校生ぐらいの年齢だろう。だが、その様子は日本の高校の文化祭のイメージとは全く違う。ここで行われている文化祭は、パプアニューギニア各地のシンシンの紹介が主なものだ。”Unity in diverse culture”とある「多様な文化の統合」が、意味するのはパプアニューギニアが多様な文化から成り立っており、それらを統合したいという意味合いだと思う。また、この学校では、フィリピン人の先生が多いようで、その先生たちのシンシンも披露されていた。同じく、韓国人の先生の指導による空手のような武術の披露もあり、道着を着たパプアニューギニアの生徒による、板を割ったりする演目もあった。

P1060800上の写真は、横断幕と下に設けられた来賓席。来賓席の前で、登場するチームの司会者が紹介を行っていた。真ん中の女性は、ハイランド(高地地方)のシンシンチームの紹介をしていたように思う。顔のペインティングといい、頭の飾りは迫力がある。この女性の前のグラウンドでシンシンチームが次々に登場する。

P1060779上は学生たちの演技。男女がパフォーマンスを披露する。みな弓を手にして勇ましい。ごく最近まで女学生は乳房をポロンと出していたらしいが、さすがに押し寄せて来た文化のせいだろう、女学生は胸を隠している。 

P1060793上の写真は登場するチームの様子。毎年同じ文化祭があり、前の写真でも書いたが、昨年は乳房を露わにした女子がいたのだが、今年は居ないようだった。乳房をお祭りにの時に出すということも、ここ数年で完全になくなったのだと思う。もし、女性が乳房を露わにしていれば我々にもっとインパクトを与えるのは間違いない。

P1060729上の写真の二人は、シンシンに登場する直前にリハーサルを後ろの方でやっており、その際に撮らせてもらったもの。こちらの人はみんなフェイスペインティングが大好きだ。

P1060770逞しい男。 頭を飾っているのは鳥の羽だろう。首から下がっているのは貝殻で造った首飾り。貝は昔、通貨だった。男が手にしているのは弓だ。

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こうして見ると、この国は平和な南洋の国なんだと知らせてくれる。なかなかの美人がいることに気付く。

P1060797ハイランドのシンシンチーム。ハイランドは、このような濃いフェイスペインティングが多いように思う。

こうして見るとインパクトもあり、刺激があるように見えるかもしれない。だが実際は、1時間くらい見ていると飽きて疲れてしまう。踊りは単調で、大体、バックで奏でられる音楽も打楽器だけでワンパターンなのだ。おそらく、自分が踊って、周りの人たちに見て貰う方が楽しいだろう

でも、写真で見るととても綺麗!一杯写真を、撮ったからなあ。(^^)!!だが、こういった写真をアップすることは個人情報保護法の観点からまずいのだろうか?

ポートモレスビーの生活 ブッシュナイフもったラスカルに車を強奪される!

ポートモレスビーはかなりあぶない。危ないというのは、ラスカルという強盗に襲われることがあるのだ。ラスカルは、若者数人(少年が多いらしい。)がブッシュナイフ(かなり刃渡りの長い刃物)や拳銃で武装し、我々を襲ってくる。無抵抗に徹すれば殺される事はないようだが、あまりにじっとしているとイラッと来た犯人に鈍器で殴られ怪我をさせられたり、こういう目には会いたくない。パプアニューギニアは、近年資源ラッシュで好景気なのだが、どこの国でもそうであるように、経済成長が国民に均等にいきわたるわけではない。したがって、一部の金持ちはいるものの、大半は好景気の恩恵を受けている訳ではない。

この国にはワントクといシステムがあり、ワントク(one talk)は同じ言葉を話す仲間のことだ。このワントクどうしは助け合うのが暗黙の了解だ。極端な話、犯人が同じ部落の出身の場合、警察は罪を許してしまったりすると言われている。同じ発想で、首都ポートモレスビーで成功したワントクを頼って、地方から人がやってくる。だが、生活の地が貨幣経済が未発達、狩猟採集生活や農耕生活を中心とした自給自足の状態なら、ワントクシステムによる助け合いが成り立つのだろうが、大都会は完全な貨幣経済であり、自分の生活に加えてワントクたちの面倒を見る額の貨幣収入を得ることは難しい。恵まれた金持ちのパプアニューギニア人も多勢いるが、全く所得のない人で、あてにしていたワントクに面倒を見てもらえない人多いはずだ。所得のない彼らが、ラスカルに変身する素地はあり、我々外国人は、どのワントクにも属さず格好の獲物になる。

A tribesman with a traditional sharpened bush knife in Madang Province

ラスカルは、セトルメント(スラム)の近くで、車がスピードを緩めたところで車を襲い、車と所持品を奪うと言われていた。だが、セトルメントの近くに限らず、高級マンションが建つ地域で、強盗が行われることも多い。また、ラスカルが車を止めて強盗するだけではなく、我々がスーパーマーケットへ行った帰り道、強盗団の一味が車で我々の車の後をつけ、自宅へ帰ったところを狙い、車庫でガードマンを殴り倒し、車や金品を強奪するという手口もある。周囲こうした被害を受ける割合が、結構高いのだ。三分の一くらい人が、被害にあっているように思える。ショッピングセンターの中などを別にして、街中でも襲われる可能性があるので、基本的に歩けない。そのため、移動は必ず車を使うことになる。これは歩く例だが、主が道路の向かいの100メートルほど離れた航空会社のオフィスへチケットを買いに行くときでさえ、一人で歩くのは危ないので、現地人ドライバーをボディガードとして連れていく。

G4s という車によるエスコートサービス。車で出かけるときに、伴走してもらう。

危険な目に合う確率は、現地の言葉をどれほど喋れるかという事ともちろん高い相関がある。こちらでは、英語以外ではピジン語が広く使われるが、これとて西欧文化がもたらした混成語で、例えばポートモレスビーでは地元の言葉としてモツ語がローカルな言葉として別にある。主は、英語もままならず、残りの二つは全くダメなので、行動に制約があるのは仕方のないところだ。

また、パプアニューギニアは資源ブームでここ数年外国人が大勢押し寄せたために、住宅需要が急増し家賃やホテル代が高騰した。そのため、我々外国人が住める安全な物件は、非常に高額だ。おがげで、囲われた敷地の中で、快適な生活を送れるという副産物もある。この南洋熱帯の地のオーシャンビューの部屋の中で、カナダ人ピアニストのグレン・グールドが弾くクラシック音楽を聴き、気に入った本を存分に読むことができる。通勤は車で5分。遠くに出かけても車で15分あれば、ほとんどの目的地に着く。

だが、夜の街に気楽に出かけるのは危険があり、困難だ。このため、結構自炊をすることになる。ただし、他の会社の駐在員たちは、危険を承知で夜の街でも活発に活動しているようだ。

パプアニューギニアの気候はもちろん熱帯だが、ポートモレスビーだけサバンナ気候と言われている。海抜が低い割には、暑さがそれほどではない。今は6月下旬だが、日中は熱いが、夜は涼しい。こちらに来て1年経過したが、主はかなりの寒がり屋なので、この時期タオルケットの上に布団を1枚重ねている。8月はさらに寒い夜があり、昨年はさらに布団を2枚にした。

主は日本の高度成長期にアメリカ文化を刷り込まれて育ったせいだと思うが、パプアニューギニア人はあまり美男美女には見えない。彼らはアジア人の顔ではないし、アフリカ人とも違っている。女の顔もいかつく、偏った食生活のせいで年齢を経ると年齢が不詳になる。多くの人は、食事の摂りすぎでいかにも太りすぎの体型をしている。太った体型が、金銭的に豊かで飽食できるというシグナルになっていると感じる。

しかし、人の審美眼はそれぞれ。こちらで妻を娶った日本人も一定数ある。子供にも恵まれ、彼らは完全にこの国に定着している。人間(じんかん)到る処青山あり。住めば都だ。

おしまい

「セックスはなぜ楽しいか」(ジャレド・ダイヤモンド)と林真理子

(2022.8.24追記しました)

進化生物学者のジャレド・ダイヤモンドは、パプアニューギニアでフィールドワークを行い、現代の西洋中心の世界観の成り立ちを明解に分析した。彼の著作「銃、病原菌、鉄」や「文明崩壊」は、これまで霧がかかっていた主の人類史観、文化史観から霧を晴らすような影響を与えた。同時に彼は「セックスはなぜ楽しいか」というちょっと興味をそそるタイトルの本も書いている。

動物と比べて全く奇妙な人間の性が考察されているのだが、セックスそのものの味半分で、この本を読むと失望する。つまり、なぜ人間だけが、のべつまくなく無用なセックスする方向へと進化したのかを考察するのが、この本のテーマである。

WHY IS SEX FUN ?

人間以外の生物は、ごく簡単に要約してしまうと、種の保存のために交尾し、交尾が終わるとオスもメスも死んでしまう。また、その交尾の時期は、排卵期(=子孫を残すことが可能な時期・発情期)に限られており、人間のように妊娠中のメスとオスがセックスすることや、オスと閉経を迎えたメスがセックスするという無駄なエネルギーの消費はしない。

こうした人間と他の動物と差は、人間が成長に長い時間を要するという点にあるとジャレド・ダイアモンドは考える。すなわち人間も他の動物と同様、自分の遺伝子を将来に残すことが最終目的である点は同じだが、人間の子供は大人になるまでに10年以上かかる。子供は10年以上の間、大人の庇護が必要だ。また、メスが生涯に産める子どもの数が最大に見積もっても10人、オスは生殖能力は逆に、一夫多妻の形態をとった社会で1,000人の子供持った王がいるほど多い。同時に人間のオスは、生殖能力が長く続くが、メスは50才前後に閉経を迎え子供を産むことが不可能になる。つまり、生殖に関係のない生存期間が人間にはある。

進化の過程で、人間がゴリラやオランウータンなどから枝分かれをしたのが700万年前、その後人間は一夫一婦制で暮らしてきたわけではなく、一夫多妻の時代や、乱婚の時代の方が長い。そうした場合に新しく夫の座に就いたオスは、メスがすでに生んだ昔の夫の子供を殺すことがしばしばおこった。これは生める子どもの数に限りのあるメスの取って避けたい結果だ。つまり、オスとメスの生殖能力が非常に異なっている中で、子供を一人前の大人になるまでに育てるためには多くの投資が必要で、メスにとって食料を運び脅威から守ってくれるオスの存在が不可欠だ。(このオスは必ずしも子供の生物学的な父親でなくても構わない。)このため、人間の進化の戦略は、メスが排卵を隠し、常にセックスに応じることでオスを自分の元にとどめるという戦略を選択した。

つまり、遺伝子を確実に残す方法として、オス、メス双方に、生まれた子供がそのオスの子どもだと思わせることは、有効な手段だ。オスは自分の子どもを殺そうとする確率は低い。そうすると、一夫一妻性や、それに近い形態が有力なな選択肢となる。すなわち、メスは常にオスを受け入れるようにし、子供が自分の子どもだと思わせつつ、身近なオスに子供の養育の大きな部分を担わせる。また、生まれた子供が自分の子供かどうか確信を持てないオスにとり、常にメスの近くにいることで自分の子供である可能性の高まりを信じることができる。

他方、ジャレドダイアモンドは人間の老化について、進化の過程で、人間の体の機能の一部を修繕するか断念するかということを考察している。すなわち、人間の寿命はながく、メスの閉経という現象がなぜ起こるのか考えると、閉経を起こさず出産しつづける能力を維持する進化の選択もあり得たにもかかわらず、実際の進化の過程ではメスは閉経する道を選択した。これは老化により健康でない子供が生まれる確率の増加に対し、閉経という進化の方向を選び、閉経後のメスが孫の養育に協力することが、自分の遺伝子を確実に残すための有利な戦略だったと分析する。

人間の性の進化が動物と比べて極めて違っている象徴的な事象として、オスのペニスのサイズを指摘している。人間より体の大きなゴリラやオランウータンでさえ、ペニスは3センチしかない。人間は進化により13センチもの、生殖に不必要な大きさのペニスを持っている。人間はゴリラやオランウータンから枝分かれして700万年、農耕生活(文明)を始めてわずか1万3000年しか経っていない。

こうしてみると、「セックスがなぜ楽しいのか?」という問いに対する答えは、人間が種を維持するために、男にも女にも「快楽」という動機をセックスに与え、しかも排卵を隠すことで、男に「俺の子どもだろうね。」と思わせることが、子殺しをしなくなる方策だとジャレドダイヤモンドは考えている。

一方で、(かなり強引だが)主は最近林真理子の小説にハマっている。結構、あけすけに性を語る部分があり、人間の見栄や欲望について語られる。しかし、小説の根幹には、遺伝子をばらまきたい浮気性の男と、優秀な遺伝子を得て優秀な子を残したい女の葛藤がある。この葛藤は、有史以来試行錯誤を繰り返してきたのヒトの性そのものだ。

テレビでも芸能人の不倫が良く取り上げられる。この手の不倫騒動はかなりの率で男性が起こすもので、女性が不倫をしたというのは目立たない。女性もの不倫は多いようだが、女性は夫に不倫を上手に隠すので、なかなかバレない。不倫が世間にバレるのは、男の芸能人が多く、厳しく責任追及され、芸能人生命を失うこともある。

基本的に、男は一夫一婦制にガマンできない播種本能があって、機会が許せば浮気を繰り返す。女の方は、男を何人も求めるより、基本的に生まれた子供(自分の遺伝子)と家庭が最も大事だ。何かの拍子で、女が不倫するなら上手に男に隠すはずだ。

林真理子の小説に「不機嫌な果実」という楽しい小説がある。いろんな男や、刺激が好きな大好き麻也子という主人公が、やがて男との浮気にも飽き、自分に欠けているものは何か考え、「子供だ」と結論を出す。前の不倫相手が今の夫と同じ血液型であることを知っていた麻也子は、排卵誘発剤を飲みながらこの男と避妊せず不倫するという話だ。 

これ小説は、男と女の性に対する違いが端的に書かれている。男の方は、世界中に自分の遺伝子をバラマキたいのに対し、女の方は出来るだけ優秀な自分の遺伝子の成長をちゃんと見届けたい。そこで、男も女も演技やら嘘やらさまざまに努力して、折り合いをつけつつ、騙し合いながら自己を実現しようと葛藤する。

おしまい 

800言語ある! パプアニューギニア人の算数力

パプアニューギニアは、世界中から文化人類学者が集まる場所だ。アマゾンの奥地と並んで現代の今でも石器時代の暮らしが残っているためだ。

パプアニューギニアの公用語は英語だが、共通語としてピジン語が使われる。ピジン語はもともとからある現地語と思われがちだが、ソロモンやバヌアツなど太平洋州で広く話されており、現地の言葉と欧米の言語が接触した際に生まれた混成語だ。

パプアニューギニアは、もともと800とも1,000ともいわれる部族があり部族ごとに違う言葉を使っていた。大航海時代、1526年にポルトガル人がパプアニューギニアへ到来し、その後、オランダ、ドイツ、英国の植民地を経てオーストラリアに承継される。その間も多部族が乱立した石器時代の状態だった。1930年代にオーストラリア人が金鉱床を求めてハイランド高地)にやってくるのだがのが、当時ハイランドに人は住んでいないと思われていた。ところが実際は百万人が住んでいた。これがハイランダーにとっての「ファーストコンタクト」だ。だが、そこは統一された国家ではなく、部族はさまざまに乱立しており、違う言語を話していた。

下の写真は、映画「ファーストコンタクト」から。映画は1982年に作られたものだが、過去を回想しながら進むので1930年代の様子が実写されている。最初の写真は、「蓄音機」。2枚目と3枚目は、初めて金属を目にし「これは宝物だ!」と直感したパプアニューギニア人が自分の飾りにしたものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=2Y5rC7kDx3o   ← YOU TUBE

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この地ででフィールドワークを行い「銃、病原菌、鉄」など多くの優れた著作を書いた進化生物学者のジャレド・ダイアモンドは、文明の発展段階を、移動生活をする「小規模血縁集団」、定住生活をする「部族社会」、「首長社会」、「(中央集権)国家」の4段階に分類した。パプアニューギニアでは農耕は行われていたものの、「部族社会」の発展段階で現代社会に遭遇したことになる。鉄器も銅器もなく、身に付けている物は森林や海から取った自然のもので、人工的な繊維もない。部族が統一されていず、言葉も違った

欧米人がパプアニューギニア人を労役に使おうとすると、部族が違う場合、彼ら戦いを始めてしまう。こうした状態を引き起こさないようにピジン語を共通語にしたのだ

大航海時代の西暦1500年以降、欧米人に多くの文明が滅ぼされる中、なぜパプアニューギニア人が現代まで生き延びtたのかということは大きな疑問だが、この回答を知りたい人はジャレド・ダイアモンド「文明崩壊」を読んでくださいね。(^^)

こうして現代文明に遭遇したパプアニューギニアだが、文化人類学者が大勢やってくるだけあって、興味深いことがさまざまある。最近、シニアボランティアをされている方からお話を伺うことができた。このシニアボランティアは、現地の大学生を対象に教員養成をされている。日本の高校で数学を教えられていたので時間があるときには、数学の問題を持って行き、その問題を考えていればいくらでも時間をすごせるそうだ。このシニアによると、学生たちの出身の村では必ずしも10進法が使われているとは限らず、5進法、2進法の部族もあるとのことだった。また、ココポと言うラバウルに近い町のトーライ族は、もとは5進法で、(正確には5か6か分からないが)5で桁上がりをするということを聞いたことがある。

余談だが、コンピュータは「ゼロ」「1」で表される2進法だが、2進法だと桁が非常に多くなるため「0000」から「1111(10進法で16)」までの4ビット単位の16進法で「0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,a,b,c,d,e,f」を使って表現する。

村で必ずしも10進法が使われていなかった生徒もいる。「出来はどうですか?」と質問すると、やはり日本の学生とは比べようもないようだ。割り算は相当の生徒が正確にできない。割り算が出来るためには引き算が正確にできる必要があり、引き算が怪しいのだ。違う場所で高校生の理数科教師として活動している青年ボランティアの話も聞くことができ、4ケタの引き算を次のようにするものがかなりいるという。

 7234                                    -5368                                                                                                        _______                                                                                                             2134

要するに上の数字と下の数字を比べて大きい方から引いているだけだ。ところが、彼らはこの国のトップレベルの教育を受けているエリートたちだ。ゴールへの道は近くない。