小説グレン・グールド「はじめに」をリライトしました

はじめに

クラシック音楽の世界に、グレン・グールドという多くの音楽評論家が《異端》で《エキセントリック(変人)》というピアニストがいた。ときに作曲家が書いた楽譜に手をくわえ、しばしば書かれた音楽記号を無視した演奏をして、身なりも振る舞いも非常に変わっていた。

彼は、カナダ、トロントに生まれたピアニストで1932年に生まれ、1982年に没した。生まれて92年、亡くなってから42年が過ぎた。

1932年といえば、第二次大戦へ向かう世界恐慌のさなかで、職を失い食事にもありつけない人々が世界中に溢れた時期だった。だがカナダは戦争の影響はすくなく、彼の家は裕福だったので影響はほとんどうけなかった。第二次大戦が終わった1945年から、彼が死んだ1982年までといえば、世界中が民主主義を謳い、自由と平等へと全速力で走り、人類が一番幸せな時期だった。もちろん資本主義と共産主義のふたつの陣営が対立し、人種差別もはげしかった。いっぽうでプレスリーやビートルズがでてきてそれまでのかたくるしい既成概念を破壊し、人々の生活はまえより格段に向上し、人々は希望をいだいていた。若者が社会をリードした”Love and Peace”の時代だった。

グールドには、べつに進行するものごとを同時並行的に把握するという、一般の人にはない特殊な才能があった。グールド研究家のケヴィン・バザーナは、「グレン・グールド神秘の探訪」[1]で、こう書いている。

「グールドの脳は日常生活においても対位法的[2]な調子で動いていた。レストランやその他の場所で、グールドは他の客たちのそれぞれの会話を同時に盗み聞きするのが好きだった。また、原稿を書き、そして音楽を聞きながら、電話で話をすることがあったが、その3つの行為を同時に完璧にこなすことができるのだった。」

彼の不倫相手だった画家のコーネリアは、映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」[3]のなかで、グールドがテレビドラマを見ながら楽譜を覚えていたエピソードを語っている。

「テレビドラマも子どもたちと楽しんだ。テレビを見ているときも、グレンは、楽譜を広げていた。観ながら覚えてしまうの。一緒にドラマを観たあと腑に落ちない点をグレンに尋ねたものよ。ドラマの展開のことをね。グレンは、テレビの内容もすっかり頭に入っていて答えてくれた。そのあいだに楽譜もすっかり覚えていた。とても驚いたわ。」

グールド自身も、一番楽譜をよく勉強できるのは、テレビをつけ、ラジオでニュースを流しているときだと言い、3つを同時に理解していた。

グールドは、ピアノを弾くとき、弦楽四重奏を奏でる4人を頭の中にイメージしていた。ソプラノである第1ヴァイオリン、アルトの第2ヴァイオリン、テノールのヴィオラ、バスのチェロ奏者が、頭の中で演奏していると思いながら指を動かしていた。

このような彼の演奏には、いくつかの特徴があった。

多くのピアニストは、バッハがポリフォニー[4]で書いた曲を演奏しても、高音のメロディーとバスの音だけがずっと鳴っていることがある。というのは、現代の音楽は、基本的にメロディーと伴奏の和声のからなるホモフォニー[5]といわれる。このホモフォニーで書かれた音楽をまず身につけようとピアノを学習し、過去の音楽様式ともいえるポリフォニーは学習機会がすくない。

いっぽうバッハの音楽は、ポリフォニーからホモフォニーへの過渡期にあった。ポリフォニーとは、複数の旋律がどうじに進行する。グールドは、高音と低音の中間にある《内声》にもスポットライトをあて、その旋律も浮かび上がらせた。まるでふたりで連弾しているかのように弾き、高音、内声、低音どれも交代させながら主役の座につけた。たとえば、ソプラノのメロディーからアルトのメロディーへと、テノールからソプラノへと、また、他のピアニストとくらべると、足でバスのメロディーを弾くオルガンを習っていた経験をしていたので、バスの旋律をピアノでも強調し、旋律が喧嘩しないよう調和をとりながら、自分の考える強調したい声部が応答するように弾いた。

また、彼の演奏の基本は、音を短く区切るノンレガート(スタッカート)にあった。ピアノ学習者は、ピアノはレガートに弾く楽器だと教わる。「音はポツポツ切って鳴らしてはダメです、音符のつながりを意識して、なめらかに音をつなぎなさい」と教わる。しかし、レガートだけの演奏では、表現のバリエーションがかぎられる。変化をだすためには、小さい音で弾くか大きい音で弾くか、速く弾くか遅く弾くかしかない。もし聴くものを圧倒して感動させたかったら、大音量で弾くか、高速度で弾くという方法しかない。

彼はレガートを《緊張》であり、ノンレガートを《弛緩》であり《透明感》だと考えた。楽譜どおりに鳴らされるノンレガートの音は、音が実際に繋がっていなくとも、繋がっているように聴こえる。レガートは、ここぞという美しく緊張感のある場面に取っておいた。[6]

彼が、聴くものを圧倒するには音量も速度も必要なかった。静かに遅く弾いても圧倒できた。それは、圧倒的に正確で、どんなに、速く弾いてもおそく弾いても崩れない自由自在のリズム感があるからだった。

こうして彼は、10本しかない指でソプラノ、アルト、テノール、バスのメロディーを同時に弾き分けながら、しかもレガートとノンレガートを使い分け、引き立たせたいメロディーを変えていた。

この彼のテクニックが良くあらわれている演奏に、もっとも高い評価をしたJ.S.バッハが18世紀半ばに作曲した「フーガの技法」という曲がある。グールドは、18世紀に作曲された曲の中で、ふつう、最高の曲はその世紀にいちばん流行ったスタイルで書かれた曲のなかにあるが、この曲は当時の流行に背をむけていたと評していた。バッハが、流行が、メロディーと伴奏の和声を重視するホモフォニーへと移りつつあるなか、流行に背を向けて人気が廃れたポリフォニーの終着点であるフーガにこだわっていたといっていた。

しかし、彼はピアノで正規録音をだすことは、最晩年までひどく怖がっていた。なぜなら、この曲を録音するのが恐ろしかったから[7]である。

まだグールドがまだツアーをしていた1962年、オルガンで「フーガの技法」の前半部分だけを愉悦にあふれ軽快で、やはりノンレガートで弾いた正規録音を残した。やはり、新しい解釈の素晴らしい演奏だったが、批評家はこの演奏をオルガンらしくないといって酷評した。ところが、グールドは、コンサート・ツアーではピアノを使い、オルガンとは180度ちがった演奏をしてみせ、シュヴァイツァーがいう「『静寂で厳粛な世界、荒涼とした色も光も動きもない世界』を描いていた[8]

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この曲の弾き方にグールドの技術がよく現れている。テーマである第1曲の4声のフーガは、アルトで始まり、5小節目からソプラノ、9小節目からバスが入ってくる。どんなピアニストでも、曲の冒頭部分では、自分の技量をじゅうぶんわかってもらい、観客のこころを掴みたい。そのために最善をつくして弾きたいと思うので、ほとんどのピアニストがアルトの4小節を左手で弾きはじめ、ソプラノの4小節を右手で弾きはじめる。ところが、グールドは、8小節のアルトとソプラノの両方を右手で弾き、空いた左手は右手の指揮をし、9小節目になってやっと両手で弾きはじめた。

「フーガの技法」の第1曲(対位法1番)グールドは、8小節まで右手だけで弾いた。

また、多くのピアニストは音を長く延ばすためには、指で鍵盤を抑え続けるより、すぐにペダルを踏む。それが簡単だからだ。グールドはペダルをほとんど使わず指を持ち替えながら弾く。このため音が混じらず、クリアで非常に美しい。

そうした違いに加え、最大の違いは、楽譜に手を加えることをためらわないことだ。彼の演奏は楽譜に書かれた音高と音長は変えないとしても、それ以外は楽譜に囚われない。どうしたらその曲の最善を引きだせるかを、自分の頭で考える。クラシック音楽界の伝統は、作曲家の意図をできる限り忠実に再現することを最重要視する。ところが、ベストな演奏にするために再作曲をする。そんな彼の演奏は、例えばベートーヴェンの『月光ソナタ』や、美しいアルペジオで始まるバッハの『平均律クラヴィーア集第1巻第1番前奏曲』といった誰もが知っているような有名な曲であるほど、誰もやらない奇抜な演奏をした。これはあまりに挑発的で、評論家や音楽界の重鎮だけでなく、リスナーの度肝も抜いた。これをもっとも徹底的にやったのが、「死ぬのが早すぎたのではなく、遅すぎた」と彼がいうモーツァルトのピアノ・ソナタの演奏だった。彼は、モーツァルトが書いた美しいピアノ・ソナタ全曲に、新しい旋律の声部を書き足し、「曲が良くなったかはともかく、ビタミン剤を注入した」と言ってはばからなかった。そうした彼の強い主張は、もちろん音楽界の重鎮や音楽評論家たちとのあいだに衝突をひき起こしたが、一切の妥協をしようとしなかった。


彼は、椅子の脚を15センチほど切り、ピアノの3本の脚を3センチほどの高さの木製のブロックの上に乗せて演奏した。手首を平らにして指で鍵盤を引っ張るように弾くので、力が抜けた自然で美しくはっきりとした音を出した。爆発するような大音量は出せず、何千人もはいるようなコンサートホールの隅々まで届かないかもしれないが、粒が揃った美しい音色を出した。コンピューターのような明晰なリズムはビート感があり、情感たっぷりで落ち着いた現代的な旋律が、聴く者を魅了した。

鍵盤をうえから体重をかけて叩くのではなく、低い位置でピアノを弾き、すべての音をコントロールしようとしたのには、かるく反応のよい鍵盤のピアノに執着したことも大いに関係がある。グールドの最大の理解者で友人のP.L.ロバーツは、「グレン・グールド発言集」で、グールドから「息を吹きかけてもキーが下がらないピアノは弾きたくないね」[9]というのを聞いている。グールドは、それほど反応の速い、軽いタッチのピアノを求めていた。

もうひとつの演奏の特徴に、《エクスタシー》があった。彼が演奏をはじめると、すぐさま、彼は現世の浮世から離れて、恍惚とした音楽の世界へ行ってしまうように見えた。これをやはり、コーネリアが映画の特典映像「コーネリア・フォスが語るグールドの哲学」で語っている[10]

「自分に酔うことと、自我を超越することは矛盾しない。それどころか相乗効果がある。自分に陶酔すればするほど、自我を超越したいと思うものよ。当然のことね。演奏中のグールドは、超越していた。個人としての欲求や恐れなど世俗的な感情を忘れ去ってしまうの。自分自身を森羅万象と融合させることができた。自分を取り巻く宇宙と一体化して人間としての存在を深めていくことができるの。ヴァイオリニストやチェリストでも同じ。偉大な演奏家ならではの神秘的な境地ね。演奏技術の問題でなく大きな何かが働くの。」

この話には、ふたりのユーモアを示すオチがある。

「ある日、グレンが帰ってくるなり息せき切って話し始めた。『大変だよ。』『なんなの?』と尋ねたわ。『グレン・グールドの精神』という講座がトロント大学で開かれていると言うの。彼は身をよじって笑っていた。おかしくてたまらなかったのね。『聴講しなきゃならないよ。うまく変装して行こう。最後列に座ればいい。勉強になるぞ。』言うまでもなく、2人とも行かなかったわ。だから『グレンの精神』はわからない。」

母親の不安症が原因で、彼は子供のころから薬物に依存していた。向精神薬を飲みすぎて精神に不調を来すまでになったのは自分を守るためだった。その依存症は、年月を経るほどに激しくなり、やがて、幻影や被害妄想に()りつかれるまでになった。音楽に追い詰められ、音楽だけが彼を救うことができる唯一だったのは皮肉だった。

彼は芸術家としての責任をいつも感じていた。見せたい自分を生涯にわたって演じ続け、音楽にすべてをささげていた。音楽で結婚しなかったし、薬物依存になったのもこの強迫観念が原因だった。

彼がデビューしたとき、すばらしくハンサムなジェームズ・ディーン[11]の再来だと音楽誌だけでなく一般誌まで騒いだ。一方で彼は、映画王、航空王で潔癖症だった世界一の大富豪ハワード・ヒューズのように生きたいと公言して、ずっと世間の目を隠してきた。それが原因で、ゲイとかホモとか、ノンセクシャルと言われるのを知っていたが否定しなかった。だが、近年、ゲイどころかプライベートな生活では、実に多くのロマンスがあったことが女性たちへのインタビューでようやく分かった。数々のロマンスが世間に知られなかったのは、グールドが、女性たちをそれぞれ孤立させ口止めをしていたことと、私生活を詮索するような人物がいると、交友をすぐに断ったから周囲の人たちはグールドの私生活を詮索しなかったからだった。そして彼女たちは、グールドに忠誠を誓い、守ろうとしたからだった。

この多くの女性関係を明らかにしたのは、映画「グレン・グールド《天才ピアニストの愛と孤独》[12]」の原作本である「グレン・グールド・シークレットライフ《恋の天才》[13]」を書いたマイケル・クラークソンだった。彼の女性関係は、この原作に基づいている。

グールドは全般に率直な人だったが、本質的な性格は分かりにくい。私生活を隠していたからということもあるが、非常に感受性が強く、才能は一般の人とは比べものにならないほど大きかった。話すことも書くことも核心をついていながら、言い回しは遠回しだった。しかも彼自身ずっと様々なことに格闘していた。親の世代から譲り渡された宗教観や道徳観との葛藤もあったし、自分を真の芸術家だと考えて、芸術家はこうあるべきだという思いも強かった。

グールドに関する伝記や評論は非常に多数ありながら、人物像の核心部分を知るのは難しい。しかし、これまでに書かれた多くの著作を辿ることで、彼の本性に極力近づきたいと思っている。

なぜなら、ひとりでも多くグールドの演奏を聴いて欲しいからである。

おしまい


[1] 「グレン・グールド神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ サダコ・グエン訳 白水社) 第5章「アーティストのポートレート」 P423

[2] 対位法 複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ、互いによく調和させて重ね合わせる技法

[3] 映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」特典映像にでてくる

[4] ポリフォニー・ ポリフォニーは複数の独立した声部(パート)からなる音楽のこと。ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味する。

[5] ホモフォニー バッハ後盛んになったホモフォニーには、最大の特徴は主旋律と伴奏という概念がある。

[6] グールドは、レガートとノンレガートの奏法について「グールド発言集」、「異才ピアニストの挑発的な洞察」P279で、「私がレガートの旋律よりもスタッカートの旋律が好きなのは、・・・孤立したレガートの瞬間を非常に強烈な体験にしたいからです。実は私は潔癖なものにあこがれる人間でして、デタシェを基本としたタッチを支配的に用いるときに得られるテクスチュアの透明感が大好きなのです。ところが、さらに、デタシェの響き方を支配的に用いるとき、ほぼすべての音が、次の音からの分離をかなえる独自の空間を備えるようになったところでレガートの要素を導入します。するとたいへん感動的なものが生まれます。それはある種の情緒的な流れですが、もし、ピアノはレガートの楽器であり、音はなめらかなほどよいのだ、という通常の仮定をしていたら、音楽に現れようのないものなのです。」と書かれている。

[7] 怖がっていた 「グレン・グールド神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ)で「最後の清教徒」P475に次のように書かれている。《ブリュノ・モンサンジョンが作った「グレン・グールド・プレイズ・バッハ」で、この番組は未完に終わった最後のコントラプンクトゥス(対位法)を弾いて幕を閉じるのだが、グールドはこの作品を「人間がこれまで構想したなかで最も素晴らしい曲」と呼んだ。実はグールドはそれまでこの曲を演奏したことがなく、怖気づいていた。「これまで取り組んだなかで、一番難しいことだ」と述べている。グールドはこの曲についてまったく異なる4通りの解釈を検討したあと、結局は哀調を帯びた、非常に内省的な演奏を選んだ。・・・》

[8] ピアノによる「フーガの技法」の演奏は、モンサンジョンと作った「GGプレイズバッハ」の中でこう語っていた。《「あの未完のフーガは確かに情にも訴える。何しろバッハの絶筆だし[・・・]しかし本当の魅力は平穏さと敬虔さ。本人も圧倒されたはず。このフーガに限らず曲集全体に言えるのは、バッハが当時の音楽の流行全てに背を向けていたことだ。彼の晩年、フーガは流行らなくなっていた。[・・・]フーガでなくメヌエットの時代なのにバッハはきわめて意識的に自分の和声のスタイル変え[・・・]別の地平に達していた。バッハは100年以上さかのぼり、対位法や調性の処理法を借用した。バロック初期の北ドイツやフランドルの作曲家のもので、調性を使いながら鮮やかな色彩を避け、代わりに薄い色合いが無限に続く。私は灰色が好きだ。シュヴァイツァーがいいことを言っている。『静寂で厳粛な世界、荒涼とした色も光も動きもない世界』と」未完のフーガの最後の音を弾いた瞬間、グールドは感電したように左手をさっと持ち上げる。映像は静止し、腕は宙で凍りつく - 「あらゆる音楽の中でこれほど美しい音楽はない。」この未完のフーガを弾くグールドの姿を見た者は、この瞬間の映像を決して忘れることができない。(訳:宮澤淳一)》

[9]「グレン・グールド発言集」(P.L.ロバーツ 宮澤淳一訳 みすず書房)中、「はじめに」で、P5に「息を吹きかけてもキーが下がらないピアノは弾きたくないね」と書かれている。

[10] 映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」特典映像「コーネリア・フォスが語るグールドの哲学」

[11] ジェームズ・ディーン:(James Dean、1931年- 1955年)は、アメリカの俳優。孤独と苦悩に満ちた生い立ちを、迫真の演技で表現し名声を得たが、デビュー半年後に自動車事故によって24歳の若さでこの世を去った伝説的俳優である。

[12] 映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」監督:ミシェル・オゼ、ピーター・レイモント 角川書店、2012年発売

[13] 《The Secret Life of Glenn Gould: A Genius in Love》 Michael Clarkson ECW press

第17章 グールドが小澤征爾とトロントで会う

小澤征爾(Wikipedia1963年)
武満徹(Wikipedia)

グールドは、クラシック音楽界の伝統にはずれた奇抜なことを言い、重鎮たちが認めたがらない演奏をした。しかし、生み出された音楽の本質的な部分は、伝統にのっとったひじょうにオーソドックスなものであり、誰もが納得し共感できる種類の音楽だった。

同様に小澤征爾も、語り口は穏やかでノーマルな紳士だが、彼がやることは、音楽においても私生活においても、フロンティアをつき進む破天荒な冒険者である。

小澤征爾の生い立ち

1935年、小澤征爾は歯科医の父のもと、中国、満州の奉天(現、瀋陽)で男4人兄弟の3男として生まれた。グールドより3歳若い。父は歯科医だったが、政治にのめり込み、事業に失敗し貧しかった一方で、政治家や経済界にも知己が多かった。彼が音楽に初めて接したのは、小学校4年のときにピアノに触れたのが最初で、ピアニストを目指していた。ところが、野球とラグビーをずっと続けていた彼は、中学3年のときにラグビーで両手の人差し指を骨折した。これが原因で、ピアニストはあきらめ、指揮者をめざすようになった[1]

クラシック音楽をやるには外国へ行くしかないと考えた小澤は、外国へ行くその前になんどか苦杯を舐めていた。桐朋音楽短大の同窓生が音楽留学につぎつぎと渡欧するなか、彼は羽田空港で仲間を見送るばかりで、その中には、のちに結婚する江戸京子もいた。そして、迎えた卒業式では、単位不足を知らずにいて、卒業ができず留年をしてしまった。そのあとフランス政府給費留学性に応募するが、友人は合格し、彼は不合格になった。その友人は、パリ国立高等音楽院、コンセルバトワール[2]へ入学した。

23歳の小澤は、とにかくクラシック音楽の本場であるヨーロッパへ行くしかないと考えた。だが、小澤家には3男の彼を渡航させる余裕がなかった。

落ち込んでいる彼を見て、声をかけてきた女子学生に悩みを打ち明けたところ、彼女は父に相談してみたらと言った。彼女の父は、日本フィルハーモニー交響楽団の設立に尽力し、クラシック音楽に理解のあるサンケイ新聞社長の水野茂夫だった。この水野が50万円の資金援助をしてくれた。50万円は、当時の平均的な日本人の給料の額の約2年分の額だった。

また、小澤は、三井不動産社長で江戸京子の父の江戸英雄に前から世話になっていた。江戸英雄は、妻がピアニスでありト、長女の江戸京子もピアニストを目指していた。彼は、旧三井財閥の実力者であり、世話好きで誰であれ分け隔てなく接し、独自の人脈をつくっていた。そうした彼は、桐朋音楽学校の設立に尽力していたので、遠方から通学する小澤を自宅に住まわせて面倒を見ていた。小澤はのちに、京子と結婚するが、江戸は、「京子は、強い性格で個性が強烈だから」とこの結婚にずっと反対していた。

江戸の手配で、小澤は渡欧するのにフランスのマルセイユへ向う貨物船に乗せてもらえることになった。彼は、フランスへ着いたあとの移動のために、日本製品の宣伝になると言ってスクーターの提供を自動車会社に片っ端から電話をかけて依頼をした。かいあって、富士重工業製の125CCのスクーターを手に入れた。

1959年3月、約2ヶ月の航海ののち、マルセイユ港に着くと、約束どおりヘルメットに日の丸をえがき調達したスクーターに乗り、音楽家とわかるようにギターを担ぎパリへ向かった。そして、さきに留学していた江戸京子と合流した。江戸英雄は、小澤を指揮者としてデビューできるまで援助していた。

京子からブザンソン国際指揮者コンクールが開かれると聞き出場した小澤は、みごとに優勝した。コンクールの会場に来ていた彼女に通訳を頼み、小澤は、打ち上げのパーティーに来ていた世界屈指の大指揮者のシャルル・ミンシュ[3]に「弟子にしてください。」と申し出た。

小澤は、コンクールで審査員をしていたミンシュが指揮するベルリオーズの『幻想交響曲』を聴き、「こんな指揮者がいるなんて信じられない。長い指揮棒でもって、魔法をかけられたようだ。どうしたらあんなみずみずしい音楽がうまれるのだろう。」と感動で、居てもたっても居られなくなったからだった。

ミンシュに、「弟子は取らない。そんな時間はない。」と言われたが、ミンシュは「来年の夏にタングルウッドに来るなら教えてもいい。」と付け加えてくれた。

1960年7月、タングルウッド音楽祭[4]でもミンシュの指導を受けられるのは3名だけの狭き門だった。しかし、小澤はオーディションを見事に1位で通過したうえ、最優秀賞の「クーセヴィッキー大賞」を受賞した。この賞は、過去にレナード・バーンスタインやクラウディオ・アバドも受賞していた。この音楽会には、アメリカの批評家ハロルド・ショーンバーグがいて、小澤をニューヨーク・タイムズで激賞する記事を書いた。

ハロルド・ショーンバーグは、グールドのバーンスタインとブラームスのピアノ協奏曲第1番の遅い速度の演奏を酷評したニューヨーク・タイムズの音楽批評家[5]である。こうした批評家たちの非難がグールドのコンサートのドロップ・アウトを後押ししたのは間違いない。

「クーセヴィッキー大賞」大賞の受賞を勧めたのは、シャルル・ミンシュ、クーセヴィッキー夫人とアーロン・コープランド[6]らで、小澤は、クーセヴィッキー夫人、ハロルド・ショーンバーグにその後の進路として、ニューヨーク・フィルハーモニーのバーンスタインの副指揮者になるのが良いだろうと勧められた。

小澤征爾は、すぐに、9月に、カラヤンが主宰する弟子をとるためのコンクールへ出るため、パリを経由してベルリンへ向かった。カラヤンは、半年間に、1ケ月に1週間ほどのペースで弟子を指導していた。彼はこれにも合格し、3週間パリで働き、1週間ベルリンでカラヤンの指導を受けるという生活をはじめた。

ちょうどそのベルリンに、バーンスタインが指揮するニューヨーク・フィルハーモニーが演奏会のために来ていた。小澤は、レセプションに出席した。バーンスタインは小澤征爾をすでに評価し副指揮者に雇おうとしていた。10人ほどの審査委員の面々から面接のようなものを、ストリップショーをやっている「リフィフィ」という妖しげなバーで受けた。英語ができない小澤だったが、採用を知らせる手紙が届いた。ニューヨーク・フィルハーモニーの副指揮者の初認給は、週100ドル[7](月400ドルは、日本人の平均的給与の8.5か月分)だった。

小澤は、長年海外生活を送ってきたが、語学を上達しようとはしなかった。肝心なことは音楽と指揮であり、結果を残すことだと考えていた。そんな彼は、指揮者でありながら演奏会後のパーティーにほとんど出席せず、朝早く起きて、ひとりでレコードを聴いたりスコアを読む生活をつづけた。こうして無名だった日本人青年は、1960年の7月から9月までのわずか3か月の間に、ミンシュ、カラヤン、バーンスタインと3人の大指揮者のセレクションに合格し、弟子となった。

1961年3月、小澤征爾は、ニューヨーク・フィルハーモニーの副指揮者になるためにアメリカへ向かい、さっそく翌4月に、ニューヨーク・フィルハーモニーの初来日にあわせて凱旋帰国した。飛行機が羽田空港に着きハッチが開いたときに、彼は真っ先に降りるようにタラップへ押し出され、バーンスタインは、小澤と肩を組み、親密ぶりを印象づけた。

日経新聞から

小澤は、バーンスタインの副指揮者を1年間だけで辞めた。副指揮者は英語では、アシスタント・コンダクターだが、アシスタント・コンダクターは4人いた。バーンスタインがミトロプーロス[8]の下で長く副指揮者をしなかったように、彼も、いつまでも副指揮者でいるつもりはなかった。1962年6月から、NHK交響楽団の指揮者になることがすでに決まっていた。

1962年1月、小澤征爾と江戸京子のふたりは作家の井上靖が媒酌人をつとめ、首相である池田勇人も出席する盛大な結婚式をあげた。このとき、小澤は日本へ戻るつもりをしていた。結婚で、週給が150ドルに上がった。

「N響事件」

27歳の小澤征爾は、バーンスタインの副指揮者をやめ、1962年6月にNHK交響楽団の指揮者になった。このとき「N響事件」がおこった。

ミンシュに始まり、バーンスタインとカラヤンに認められ、指揮者としての出世街道を驀進してきた小澤はまず世界で認められた。NHK交響楽団の団員たちの多くは、国立の東京芸術大学の出身者が多く、彼の出身校の私学の桐朋学園は設立されたばかりで、彼を見下す風潮があった。若い彼を見る日本の演奏家のうちには、(ねた)みや嫉妬がかくれていた。

NHK交響楽団の常任指揮者でないとはいえ、このとき常任指揮者の席は空席だった。彼は、東京で指揮するだけでなく、夏は北海道、香港、シンガポール、クアラルンプール、マニラ、沖縄でも公演した。この間に、メシアン[9]の全部で10楽章もあり長く難しく、ジャンルを超えた現代曲の大曲である「トゥーランガリラ交響曲」[10]を日本初演するなど意欲的に取り組んだ。練習には、メシアン自身も立ち合いみっちり練習し、初演は成功した。ところが、この海外公演のあたりから、団員たちとの関係がぎくしゃくしてきた。

小澤は、「N饗で僕が、メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』を初演指揮した。それ以来、おかげで、おれは苦労している。(笑)」[11]」とのちに語った。

小澤は、自著に「おわらない音楽」に、団員がボイコットした経緯を書いている。フィリピンでベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を演奏したときに、ピアニストがカデンツァ[12]を弾いている途中でうっかり指揮棒をあげてしまうミスをした。終演後に、年配の団員から「おまえやめてくれよ。みっともないから。」とクソミソに言われた。小澤は、「申し訳ありません。」と平謝りするしかなかった。さらに「ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。」と書いた。

ニューヨーク・フィルハーモニーの上層部が来日したとき、音楽会の前日に赤坂のナイトクラブに呼ばれた。小澤は誘いを断れずにそこへ行き、朝の6時半まで飲んで、翌日の練習に遅刻した。

こうした小澤への嫉妬に加え、遅刻したとかのささいなミスが重なり、さらに11月の定期公演が失敗したときに、団員たちが「今後一切小澤の指揮する演奏には協力しない」とボイコットを表明した。彼らは、小澤がいかに無礼か、音楽の伝統を知らないかとマスコミに吹聴した。マスコミは、「海外で賞を取り、チヤホヤされて増長した困った若者」という論調で小澤を揶揄した。

NHK交響楽団側が「協力しない」という内容証明を送ったことに対し、小澤は契約不履行と名誉棄損の訴訟を起こした。事態は泥沼化の様相を呈しはじめた。

日本では若いという理由で、海外で評価された若者を正当に評価しない風潮に対し、危機感をいだいた同世代の演出家、浅利慶太と作家、石原慎太郎がたちあがった。

小澤は、楽団員がすわる椅子と譜面台が並んだだれもいないステージの指揮台で、楽団員を待っていた。その姿を、浅利と石原から連絡を受けた報道陣が写真を撮り、「天才は一人ぼっち」、「指揮台にポツン」などの見出しで報じた。これが功を奏して、世論は 《若き天才》 VS 《権威主義で意地のわるい狭量な楽団員》 の構図へいっきにかわった。

この事件は、他の若い文化人にとっても他人事ではなかった。いつまでも居座わりつづけ、力をにぎる権力者たちとの世代間闘争になった。三島由紀夫、谷川俊太郎、大江健三郎、團伊玖磨、黛敏郎、武満徹など、日本を代表する錚々たる作家や詩人、作曲家がくわわった。最終的に、吉田秀和、黛敏郎らの仲介で、小澤はNHK交響楽団と和解したが、その内容は訴訟を取り下げるだけのもので、NHK交響楽団に復帰するものではなかった。

小澤征爾は頭を下げるつもりも、もう日本へ戻るつもりもなかった。この事件を契機に日本で指揮をする気が失せてしまった。

小澤征爾は、1984年に武満徹と対談した「音楽」で、楽団員と対比しながら指揮のことを語っている。[13]

小澤  「シャルル・ミンシュは天才だね。オーケストラを雰囲気で弾かしちゃうんだよ。酔っぱらっているような足どりで出ていってね、サーっと振る。その瞬間にもう完全に彼がオーケストラの主役なわけ。これは実は大変なことだよ。楽員の海千山千が百人ですからね。海千山千と言っちゃ悪いけど、ほんとうにそうなんだから。オーケストラの人は、生涯それでめしを食っているんだから。・・・・僕などは、ああやってもだめ、こうやってもだめ、いくら細かく振っても音や志が伝わらない時がある。(笑)ミンシュの技は、神技か天才だね。・・・・だけど斎藤先生[14]は、どちらかというと天才型じゃない、努力型なんですよ。僕は斎藤先生の伝統を完全に受け継いでいるから、きょうだって、半日声からして、弟子を教えているわけだね。・・・・僕の教え方は、結局斎藤先生から教わったとおりなのね。斎藤先生の方法は、底辺の、オーケストラで、だめなオーケストラを指揮する時のメソードなわけだよ。」

・・・・

武満  「指揮者というよりもトレーナーだね。」

小澤  「そうするとね、この方法はいいオーケストラでは、時には、むしろむだなのよ。だけど僕はおかげさまで、いろんなオーケストラを経験しているから、その区別だけはつくようになってきた。」

武満  「いつごろから。」

小澤 「5,6年前かな。そうするとね、― いいオーケストラ今度日本に来る前にベルリンに行ってたんだけれども― ベルリン・フィルの最初の練習では、斎藤方式をちょっと使うんだけれど、あとは音楽だけで指揮をする。音が合わないと、向こうが悪いという顔をしている。すると、音が自然と合ってくる。これは少しミンシュ的なわけだけど。斎藤方式考え方は、合わなかったら自分の指揮が悪いわけだ。この違いが5,6年前からようやく分かるようになってきたんだけど、その差はとても危険だけど大きいよ。オーケストラの呼吸を見抜き、その瀬戸際を歩く。」

武満 「名人の域に達したわけだ。すなわち、名人は(あや)うきにあそぶ。」

小澤 「いや、名人の域じゃない。瀬戸際に達しただけだ。ただこの違いは年期がたたないとわからない。20年前だったらその瀬戸際から落ちてそのまま死んでしまうわけだ。N饗みたいにボイコットされて、はい「さようなら」というわけだ。自分のオーケストラの場合は、おっこちてもまた戻れるけど、人のオーケストラの場合は、おっこちない方がよいから、落ちないようにしている。・・・・ベルリン・フィルでかれこれ17,8年になるから、・・・それだけ長くつき合っていると、もうおっこちたっていいわけよ。・・・・かえってうまく鳴るんだ。日本では新日フィル。アメリカじゃ、もちろんボストン・シンフォニーね。1年に何回もおっこちている。でもみんな、『あ、セイジ、またおっこった。』と見てるけど、なんとかはい上がって出来るわけ。やはり指揮という商売は傍目にみたほど楽じゃないよ。海千山千を相手に、他流試合みたいな、生きるか死ぬかを年中やっているんだから。」

・・・・

武満 「ただ、あなたが昔から変わらないのは、ほんとうに音楽に没入することだね。

・・・・

小澤 「あなたは没入というけれども、音楽は集中しかないということを(僕が丁稚をしていた斎藤先生は)しょっちゅう言っていたものね。それは音楽だけじゃないんだって。パーフォーマンサーというのは芝居とかバレエとかスポーツとかは全部ですって。ある決定的瞬間に集中できない奴はだめだというんです。・・・・カラヤン先生は内的で、『セイジ! 振りすぎる。棒なんかどうでもいい、流れがあればいい。精神が終わりまで持続すればいい。じーいっと立っていればいい』、そういう禅問答みたいなことを半年間ぐらいやられたいんだよ。・・・・そして演奏を盛り上がらせるには、演奏家の立場よりも聴衆の心理状態になれ、理性的に少しずつ盛り上げてゆき、最後の土壇場に来たら、全精神と肉体をぶっつけろ!そうすれば客もオーケストラも自分自身も満足する、ということを教えられた。・・・・ミンシュ先生からは、練習では何も注意されなかったけど、『スーブル、スーブル、力を抜け、頭の力も体の力も手の力も全部抜け!』と言われたのを覚えている。シャルル・ミンシュの指揮はファンタスティックな天才的な神技で、カラヤンの指揮棒は観客をあっという間に引きつける魔法の杖だった。だから僕は本当に幸運だった。」

—————-

彼は、NHK交響楽団と分かれた後、まえとおなじように、世界を飛びまわりつづけた。のちに、交響楽だけではなくオペラの分野にまで成功を広げた。もしこのとき楽団に頭を下げていたら、彼の成功はなかっただろう。しかし、このトラブルの後アメリカに戻った小澤は、時間が過ぎるばかりで仕事がなかった。

1963年6月、代役で出たラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団とのはじめての共演が大成功し、小澤は、翌年のラヴィニア音楽祭の音楽監督の地位を獲得した。この時に、小澤は武満徹の「弦楽のためのレクイエム」を演奏した。この曲は、ストラヴィンスキーが激賞した曲だった。

小澤は、武満徹の曲を積極的に取り上げ、レパートリーの柱にした。武満は、琵琶と尺八をオーケストラのソリストにした代表作「ノヴェンバー・ステップス」などの名作を発表し、相乗効果があった。

小澤征爾、武満徹、バーンスタイン 日経新聞から

10月に、東京・日比谷に日生劇場が開場し、(こけら)落としにベルリン・ドイツ・オペラ[15]の引っ越し公演でカール・ベーム[16]とロリン・マゼール[17]が指揮をしてオペラを上演した。小澤も呼ばれて、武満の「弦楽のためのレクイエム」、ビゼーの交響曲、ブラームスの交響曲第2番を指揮した。

このあとも小澤は、日本へNHK交響楽団以外の仕事で日本に帰ってくるが、拠点を北米大陸においた。

1964年1月、29歳の小澤征爾はトロント交響楽団と、やはり武満徹の「弦楽のためのレクイエム」をいれたプログラムでカナダ・デビューをした。その演奏はカーテンコールが15分間もつづき、伝説の大成功[18]になった。グールドは、この武満の初期の代表作をストラヴィンスキーが激賞した[19][20]ことを知っていたから、映画「砂の女」を見たときに、武満が音楽を担当しているとすぐにわかった。

このときの成功は、華々しいものだった。モントリオール交響楽団に24歳のインド人、ズービン・メータがなり、積極的な展開で楽団が活性化していたことが背景にあり、チェコ人のワルター・ジュスキント[21]が9年間務めていたトロント交響楽団の常任指揮者は、1965年9月のシーズンから、小澤征爾が後任になることがきまった。

その交代を実現させたのは、グールドのマネージャー、ウォルター・ホンバーガーだった。1962年に、ホンバーガーはトロント交響楽団の専務理事になっていた。観客動員数を増やそうとしていた彼は、ラヴィニア音楽祭で指揮する小澤征爾を聴き、実力をよく知っていたから、小澤征爾のマネージャーのウィルフォード[22]にトロント交響楽団への就任を打診していた。

Toronto Star 5/8/1987

小澤征爾が、師匠のバーンスタインにトロント交響楽団の常任指揮者に就任すると最初に説明したとき、当時はこの楽団はさほど有名でなかった。このため、バーンスタインは、「セイジはニューヨークにいて、良いオーケストラだけを指揮するべきだ。」と難色をしめした。しかし、小澤は「いや、今の僕にはレパートリーを作ることが必要なんだ。」と必死になって説得した。

小澤征爾はが、トロントについてしばらくたったとき、父母をトロントへ招待した。すると父親が、「ベトナム戦争をやめさせねばならん。二度と東洋人同士を戦わせてはいかん。アメリカにも行って、一番話がつうじそうなロバート・ケネディに俺の意見を伝えたい。」と言い出した。ロバート・ケネディは、元アメリカ大統領、故ジョン・F・ケネディの弟で上院議員だった。

(ロバート・ケネディ Wikipediaから)

結局、小澤征爾の友人で演出家の浅利慶太が、自民党の衆議院議員、中曽根康弘[23]を紹介してくれた。中曽根康弘がロバート・ケネディへ渡す紹介状を書き、ワシントンでの面会が実現した。小澤の父の主張は、「日中戦争の経緯に照らしても、民衆を敵にしてしまったこの戦争は勝てない。アメリカは武力で勝とうとするのではなくて、発電や土木の技術とか、文明の面で優れているところを共産主義国に見せるべきだ」というものだった。ロバート・ケネディは、予定時間をオーバーしても面会を切り上げようとせず、手応えに父親は喜んだ。

江戸京子との離婚 「おわらない音楽」と「週刊新潮」

小澤征爾は、トロントで精力的に武満徹の曲を取り上げ、その演奏は高い評価を得た一方で、カナダでの江戸京子との私生活は、すぐにうまく行かなくなった。

小澤征爾は自著「おわらない音楽 私の履歴書[24]」で次のように書いている。

「トロントでの仕事はまずまずだったが、私生活は立ちゆかなくなっていた。結婚した江戸京子ちゃんはピアニスト。どちらかが音楽の勉強をしている時、もう一方は、勉強に集中できない。『音楽家同士の結婚は難しい』と誰かに言われたことがあった。確かにそのとおりだった。海外にいるときはいつも別居。結婚当初からうまくいかなかった。」

「最後にうちのおやじと京子ちゃんのおやじの江戸英雄さん、仲人の井上靖さんの話し合いになった。そこに僕が呼び出されて、最終的に離婚が決まる。・・・・後に僕が再婚し、娘の(せい)()が生まれた時は、・・・・京子ちゃんも「赤ちゃんに会いたい」と言う。会わせると、同じように祝福してくれた。それから僕たちは友人に戻り、今も良い関係が続いている。」

週刊新潮(1979/4/26)
「小澤征爾」に懲りた江戸京子さんが14年目に再婚の相手」

小澤征爾の自著「おわらない音楽 私の履歴書」にたいし、江戸京子が小澤と離婚した経緯を、1979年に雑誌週刊新潮が「小澤征爾に懲りた江戸京さんが14年目に再婚の相手」というタイトルで報じている。

「コンセルバトワールを出て、小澤氏と結婚したとき、小澤氏は頭角を現しつつある若い指揮者であり、江戸さんはソリストとして世に出たいと思っていた。が・・・『ピアニストとして練習するにしても、自分が弾きたい時に弾けませんしね。主人が練習に疲れて家に帰ってきて、もう音は聞きたくないという。その気持ちもわかりますしね。それで議論になると、結局は、“オレが稼いでいるんだから、オレの意見を尊重しろ”ということで押し切られてしまう。・・・自分が生活力を持てば納得のいく生活ができるんじゃないかと。』」と江戸京子はインタビューに語った。

記事は、「父親の予想どおりだった離婚」という見出しで続く。

「父親の江戸英雄氏は、娘と小澤氏との結婚の行く末を初めから危ぶんでいた。結婚式の当日、“花嫁の父”は、『二人の結婚に反対だったし、今も懸念している』という意味の異例の挨拶をしたほどである。」

「間もなく、桐朋短大を出た小澤氏がパリへやってくる。『パリで二人きりで会ったら結婚に発展するんではないかと心配して、父は征爾に、私に会うなといったんです。父は音楽家が嫌いでした。芸術家というのは自由に自分の生きたいように生きるから、すぐに他の人が好きになったりするんじゃないかと考えたんです。』」

小澤征爾が、パリへ出航するさい、同級生の父親である、サンケイ新聞社長の水野茂夫氏が出した50万円のうち20万円が江戸英雄が出したのではないかと記事は書き、パリで娘の京子に会わないようにさせるのが趣旨だったと書いた。

それでも二人は結婚するのだが、「案じられたとおり、銀座のバーのマダムやら、ファッションモデルの入江美樹(小澤氏は江戸さんと離婚後、彼女と再婚)との仲がウワサされるようになり、結局、二人は離婚に至った。」

4年間の結婚生活の末、二人は1966年に離婚した。小澤征爾は、1968年までトロント交響楽団の常任指揮者だったから、グールドは小澤のプライベートの経緯をよく知っていた。グールドは、自分の女性関係を徹底的に秘匿し、彼は、プライベートを守ることは芸術家にとって許容されるべきだと考えていた。しかし、彼は他人のゴシップを知り、あれこれ詮索するのは好きだった。

小澤征爾のグールドの回想とグールドの“小澤征爾の身びいき記録”

小澤征爾は、1967年のグールドを「終わらない音楽」にこう書いている。

「ハンバーガー[25]がマネージャーを務めていたピアニスト、グレン・グールドとも親しくなり、共演の話が持ち上がった。放送局で演奏し、録音もする計画だ。何度も打ち合わせして、当時としては画期的なプログラムができあがった。現代曲や、バッハのチェンバロ曲をピアノで弾くのとか。なのに直前になってグレンが「嫌だ」と言って立ち消えに。そのくせ、平気な顔で僕と酒を飲んでいる。変わっていたが、面白い男だった。共演が実現していればどうなっていただろう。残念な話だ。」

—————-

一方、グールドは、小澤征爾がトロント交響楽団の常任指揮者に就任してからしてから二度、江戸京子をピアノのソリストとして迎えたことを、《身びいきということでは文句なしの地元記録を作ったようだ》と、グールドは、1965年8月、「時と時を刻むものたち」[26]と題する評論をミュージカル・アメリカ[27]に書いている。

「西欧音楽のどちらかといえば遅れた慣習の一つは、指揮者に「常任」「終身」「客演」指揮者の3通りがあることだ。「終身」指揮者は、ベルリン・フィルなどに例があるが常駐しているわけではなく、終身指揮者をおくと、独裁体制をもたらし役員会、婦人会、記者たちは、数シーズンしか従いきれない。常任指揮者が広範なレパートリーを持っていれば、高額出演料をとる客演指揮者を招かなくともすみ、常任指揮者のサラリーがでる。家族の落ち着き先を決めたり、中二階付きの新築の家に室内プールを足したりしなくてはならない彼としては、ロシア語しか話さない80過ぎの、ビザに問題のある客演指揮者以外は、うかうかとしていられない。そこで常任指揮者はほかのどんな演奏家も要求されないほど大きなレパートリーの重荷を背負いこむ。オイストラフ[28]にシェーンベルクの作品36に取り組むように求めないし、シュナーベル[29]に気分を害してまでバッハを弾いてほしいと思わないのと同じだ。しかし、常任指揮者となるとこれが要求される。」

「うそではない。ほとんどの常任指揮は、たいていの2回目のシーズンまで、定期会員にまじって臨時の聴衆が新米の指揮者の試練を見学に来る。しかし、3シーズン目ごろになると、常任指揮者は自分がもはや切符売場で責任を果たしていないことをかならず思い知らされ、客演指揮の巨匠たちとの契約をただちに増やすよう助言せざるをえなくなる。そうした巨匠たちの途方もない指揮料は、当の常任指揮者の体制に最初の財政危機をもたらす一因となる。」

このあとグールドは、モントリオール交響楽団へあたらしく就任した24歳のズービン・メータを迎え、活発な仕事をしたと書き、そのメータが提供した音楽は、

「流れるような、ヴァインガルトナー風[30]の緩徐楽章がひじょうに好調な、ベートーヴェンの「第九」があり、適度にエゴイスティックな《英雄の生涯[31]》(全体にひじょうに高貴な性格をだしている)があった。他方、国産あるいは輸入の前衛音楽に冒険をすることもあった。このような積極的展開、前進が注目されない訳はない。・・・というわけで、トロント交響楽団の進取に気に満ちた幹部会は、ジョンソン大統領[32]が好んで「迅速かつ適切な対応」と呼んだとおりのすばやい反応をしめし、9年間務めた指揮者ワルター・ジュスキントの辞表を受理した。ジュスキントの9年間は、感受性に富むと同時に学究的な音楽的外貌、百科全書風の広いレパートリー、地元紙の吠えたてる若手記者たちにとことん試されたににもかかわらず、底をつくことのなかった機嫌のよい人柄によって知られていた。」

このあとに、非難ともとれる小澤征爾の評をグールドは、――

「1週間たたぬうちに、その後任にレナード・バーンスタインの副指揮者で『極東問題専門家』の小澤征爾があたることが発表された。 小澤氏について判断を下すのは、たぶんいささか時期尚早であろう。ただ、あちこちで客演指揮をしている実績からすると、指揮戦略を確実に手中にし、プログラム編成にも相当にアカデミックな頭脳を働かせているように見える。そして、身びいきということでは文句なしの記録をつくったようだ。(かれは第1回、第3回のピアノ・ソリストとして、自分の妻と契約するようはからった。エミール・ギレリスに次ぐ、ホッケー流に言えば、第2のスターというわけだ。)

括弧書きの部分にある《エミール・ギレリスに次ぐ、ホッケー流に言えば、第2のスター》とは、何をいっているのかとは、――

《エミール・ギレリス[33]に次ぐ》という部分の意味はこうだろう。

グールドは、西側のピアニストとして初めて共産圏で演奏し、“雪解け”を両陣営に実感させたのは、1957年だった。ところが、1958年の第1回チャイコフスキー国際音楽コンクールで優勝したのは、グールドの友人のヴァン・クライバーン[34]で、演奏終了後、鳴りやまない大喝采、スタンディングオベーションが長い時間続いた。その審査員長を務めていたのがギレリスだった。このコンクールの開催には、スプートニク1号の打ち上げに成功したソ連がその国力を世界へ知らせる意図があった。まったく冷戦の共産圏で開催されたピアノ・コンクールで、西側のクライバーンが優勝し”雪解け“を実現したとアメリカ国民は大喝采をし、帰国したときにはニューヨークで紙吹雪が舞う凱旋パレードが起こった。ヴァン・クライバーンの優勝には、ギレリスの政治的意図があることが明白だった。ギレリスだけでなく、ピアニストで審査員のスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点をつけた。グールドは、クライバーンの受賞は政治決着であり、コンクールの無意味さを苦々しく思っていた。

また、《ホッケー流に言えば、第2のスター》という部分は、グールドは、北米アメリカにおいてさかんなホッケー・リーグ(NHL=National Hockey Leagueを念頭に例をあげ、ホッケーの試合では、選手の活躍に応じ、ファースト・スター、セカンド・スター、サード・スター、週間スター、月間スターなどと選手を称えることを引き合いにだした。

グールドの文章はわかりにくい。しかし、あらためて要約すると、―― 小澤自身の評価を下すには時期尚早だが、ギレリスがヴァン・クライバーンをチャイコフスキー・コンクールで優勝させたように、小澤征爾が指揮者の立場を利用して、江戸京子をソリストに迎え、セカンド・スターの地位を与える身びいきの文句なしの記録を作った―― と書いていた。

このグールドの評論は、しばらく続き、グールドは過激で意味不明なことを言っていた。というのは、残る部分では、実在の人物としてジョージ・セルの名前だけがでてくるが、どこまで本気なのか、実在しない架空の指揮者やオーケストラを、あたかも存在するようにでっちあげながら書いている。その結論部分では、曲づくりが《民主的にプログラムされた》有線式電子機器によって指揮と演奏が分離されるだろうと、大いなる皮肉とも予言とも判断しがたい文章で締めくくっている。最後の一文は、「わたし自身で@%C書いた$$$以外は$!!!」と書き、ユーモアのつもりだろうが、意味不明でだった。

小澤征爾のヴェラとの再婚、映画「他人の顔」

小澤征爾は、1965年にトロント交響楽団の常任指揮者となり、トロントに拠点を得てからも、年に1度は日本へ帰って日本フィルハーモニーや読売交響楽団を指揮していた。1966年、小澤は江戸京子と離婚し、1968年、「バツイチ」の小澤は9歳年下のモデル、入江美樹(小澤・ヴェラ・イリーン)と「美女と野獣婚」[35]といわれる再婚をした。

入江美樹は、白系ロシア人貴族のクォーターで、人気テレビ番組の「シャボン玉ホリデー」のマスコットガールやNHKの紅白歌合戦の審査員役などをして人気があった。1966年には、阿部公房の「他人の顔」が、勅使河原宏監督による映画が「砂の女」に次いで製作され、顔にケロイドがある女の役で出演した。入江美樹は、「世界で一番美しいモデル」が、顔にケロイドがある役で映画出演すると大きな話題になった。

映画、「他人の顔」に出演した入江美樹(イリン・ヴェラ)

小澤と入江美樹がはじめて会ったのは、入江の実家のクリスマス・パーティーだった。そこには、彼女のモデル仲間や人気俳優の岡田真澄、映画監督の勅使河原宏ら錚々たる面々の美男美女が集まっていた。気おくれしたという小澤が、二階で酒を飲んでいると、美樹の父がやって来て、二人は意気投合したという。小澤は、いつも同性で目上の力のあるものに好かれる才能を発揮した。

小澤は、美樹に日本フィルのコンサートのチケットを渡し、彼女が実際にコンサートへやってきて、ときどき会うようになった。結婚するきっかけは、パリへ行った美樹が結核で突然喀血し、知らせを知人から聞いた小沢がトロントからすぐに駆け付けた。そこで、彼は一晩だけ看病をしてトロントへ引き返したというエピソードを披露していた。

映画「他人の顔」は1967年にニューヨークでも公開された。映画音楽に使われた音楽は、やはり武満徹が作曲し、知的で印象深い前衛の現代音楽が全編にながれた。阿部公房は、ノーベル文学賞の候補に毎年あがるほどの人気があり、グールドは映画をみただけではなく、すぐに英訳された原作もすぐに読んだ。

「他人の顔」(1966)の一場面https://eiga.com/news/20190831/5/から

小澤征爾は、1969年、トロント交響楽団の常任指揮者を辞任、その後は、ボストン交響楽団、サイトウ・キネン・オーケストラ、ウィーン国立歌劇場の音楽監督などで活躍をつづけたが、彼のゴシップはその後もつづいた[36]

おしまい


[1] 「終わらない音楽 私の履歴書」日経新聞社から

[2] コンセルバトワール 音楽・演劇などの専門学校。特に、フランスのパリ国立高等音楽院をさす。

[3] シャルル・ミンシュ (1891 – 1968)ドイツ帝国領であったアルザス地方ストラスブールに生まれ、のちフランスに帰化した指揮者。

[4] タングルウッド音楽祭 バークシャー音楽祭の名前がタングルウッド音楽祭に名前が変わった。教育音楽祭である。

[5] ハロルド・ショーンバーグがグールドを酷評 《神秘の探訪P.226》ショーンバーグは、ブラームスピアノ協奏曲第1番の演奏を<タイムズ>紙に「グレン・グールドの心」と題してピアニストAからピアニストBへの手紙という形で、早く弾けない、重すぎ、内にこもりすぎ、壮麗さや力や活力に欠けると非難した。バザーナは、聴衆は受け入れているのにも拘わらず、批評家の反応が、コンサート引退の直接的な原因と考えている。

[6] アーロン・コープランド 

[7] 100ドル 100ドル✕4週✕360円/17,000円=8.5

[8] ミトロプーロス (1896 – 1960)主にアメリカ合衆国で活躍したギリシャ人の指揮者・ピアニスト・作曲家。ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団に1949年に常任指揮者。1951年から同管弦楽団の首席指揮者に就任し、1957年にレナード・バーンスタインに後を譲った。この間、1954年からはメトロポリタン歌劇場の常任指揮者としても活動した。

[9] メシアン シャルル・メシアンOlivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen, 1908-1992フランス、アヴィニョン生。現代音楽の作曲家、オルガン奏者、ピアニスト

[10] トゥーランガリラ交響曲 https://www.youtube.com/watch?v=AGbAYS1Jwgg(第5楽章)

[11] 「音楽 武満徹、小澤征爾」新潮社

[12] カデンツァ 独奏者がオーケストラを背景に独奏を披露する聴かせどころ。

[13] 「音楽」(小澤征爾、武満徹 新潮文庫)

[14] 斎藤先生 小澤征爾の恩師。

[15] ベルリン・ドイツ・オペラ ベルリン・ドイツ・オペラはベルリンにある歌劇場。1961年に再びベルリン・ドイツ・オペラとなる。歴代の音楽総監督のひとりにロリン・マゼールがいる。1963年にカール・ベームとマゼールを指揮者として初来日。日本への欧米歌劇場引っ越し公演としては初めてであり、ベーム指揮の「フィガロの結婚」「フィデリオ」のライブ録音が残っている。

[16] カール・ベーム

[17] ロリン・マゼール

[18] 伝説の大成功 

[19] ストラヴィンスキー 「音楽 小澤征爾・武満徹」年表から。「弦楽のためのレクイエム」は、1957年、武満が27歳のときに作曲された。

[20] ストラヴィンスキー 《神秘の探訪 ケヴィン・バザーナ》ストラヴィンスキーは、グールドの大ファンで、1960年テレビで共演した際、音楽的才能に驚愕したことを公言して憚らなかった。翌年、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品110第31番をロサンゼルスで聴き「その晩、初めてベートーヴェンの後期ソナタが理解できた」との手紙を送った。ストラヴィンスキーは、1962-1967年のあいだに何度もトロントを訪れ、自作のピアノとオーケストラのためのカプリッチョをグールドと共演したがっていた。ジョン・ロバーツは、二人を昼食の席で会わせた。しかし、ストラヴィンスキーの音楽を好まぬグールド(たとえ作曲家本人の前でも態度は変わらず)〈カプリッチョ〉の話が出ると巧みに話題を変え、デザートが出る前に辞去してしまった。のちに、グールドは楽譜を見ることさえ拒否した。一方のストラヴィンスキーは、奇妙なことにグールドのことを自分が出会ったなかで最もハンサムな人のひとりだったとロバーツに語っている。

[21] ワルター・ジュスキント (1913 – 1980)は、チェコの指揮者。1956年から1965年まではトロント交響楽団の首席指揮者。1968年からはセントルイス交響楽団の音楽監督に就任し、1975年まで務めた。

[22]ウィルフォード Ronald A. Wilford「クラシック音楽の最大のパワーブローカー」と評されているアメリカの音楽マネージャー。 」。彼はコロムビアアーティストマネジメントで50年間過ごし、クライアントには指揮者ジェームズレヴァイン、小澤征爾、リッカルドムーティが含まれていた。Wikipedia

[23] 中曾根康弘 1960年まで科学技術庁長官をしていたが、この時は無任所で、1982年の総理大臣になる。

[24] 「終わらない音楽 私の履歴書」小澤征爾 日本経済新聞出版社

[25] ハンバーガー グールドのマネージャーのWalter Hombergerのこと。小澤征爾は、ホンバーガーと表記せずに、ハンバーガーと書いている。

[26] 「時と時を刻むものたち」 「グレン・グールド パフォーマンスとメディア 著作集2」(ティム・ペイジ編 野水瑞穂訳 みすず書房)P243

[27] ミュージカル・アメリカ クラシック音楽に関するアメリカ最古の雑誌で、1898 年に初めて印刷版が発行された。Wikipedia(英語)

[28] オイストラフ David Fiodorovich Oistrakh/Eustrach、1908 – 1974ロシア帝国のオデッサ(現:ウクライナ)出身のユダヤ系ヴァイオリニスト、指揮者。チャイコフスキーやブラームスといった情感豊かな楽曲を得意とする

[29] シュナーベル アルトゥル・シュナーベルArtur Schnabel, 1882 – 1951スイス・アクセンシュタイン Axenstein)生まれ。オーストリア→アメリカのユダヤ系ピアノ奏者、作曲家。シュナーベルのレパートリーは狭く、ベートーヴェン以外ではモーツァルトやシューベルト、ブラームスなどをレパートリーとしていた。

[30] ヴァインガルトナー 1863〜1942オーストリアの指揮者・作曲家。リストに師事。ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の指揮者などを歴任。

[31] 『英雄の生涯』(えいゆうのしょうがい、Ein Heldenleben)作品40は、リヒャルト・シュトラウスが作曲した交響詩。『ドン・ファン』から始まるリヒャルト・シュトラウスの交響詩の最後の作品である。

[32] ジョンソン大統領 アメリカ合衆国第36代大統領。民主党。1963年、ケネディ暗殺に伴い副大統領から昇格し、翌年北爆を開始してベトナム戦争を本格化させた。内政では「偉大な社会」を提唱し、公民権法を実現した。

[33] エミール・ギレリス ウクライナ・オデッサ出身、ユダヤ系。1958年にチャイコフスキー国際音楽コンクールピアノ部門の審査員長も務めていた。他の審査員の中にはリヒテルの名も。この時の優勝者がヴァン・クライバーンである。クライバーンはアメリカ人にも関わらず、思いっきりソ連ホームの国際コンクールで優勝したことにより、米国では英雄視された。審査員達も「アメリカ人に優勝させて良いのか?」とかのフルシチョフにわざわざ確認をとったのだとか。そして、フルシチョフは「彼が一番なら良いじゃないか。」と答えたとのこと。そんな訳でアメリカでは一躍時の人となった。ギレリスはロシア音楽界の重鎮として、チャイコフスキー・コンクールの審査員長を長きに渡って務めた。

[34] ヴァン・クライバーン 1934 – 2013アメリカのピアニスト。1958年、23歳で第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。このコンクールは1957年10月のスプートニク1号打ち上げによる科学技術での勝利に続く芸術面でのソビエトの優越性を誇るために企画された。クライバーンのチャイコフスキー協奏曲第1番とラフマニノフ協奏曲第3番の演奏後はスタンディングオベーションが8分間も続いた。審査員一同は審査終了後、ニキータ・フルシチョフに向かって、アメリカ人に優勝させてもよいか、慎重に聞いた。フルシチョフは「彼が一番なのか?」と確認、「それならば賞を与えよ」と答えた。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍アメリカの国民的英雄となる。このコンクールに審査員として参加していたスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点をつけた。(付け加えると、クライバーンは、受賞後ツアーで消耗し、ピアノを満足に弾けなくなる。)

[35] https://audio.kaitori8.com/topics/seijiozawa-story/

[36] ゴシップ 2022年7月、雑誌女性セブンに、記事「小澤征爾30億円資産巡る長女と長男引き裂かれたファミリーツリー」に、「約20年前近く前、小澤の浮気をめぐり夫婦喧嘩になり財産の大部分をヴェラに渡すと約束して許しを得た」と書かれている。

第16章 グールドが安部公房「砂の女」に傾倒する

1963年9月、ルーカス・フォスが、バッファロー交響楽団の常任指揮者になった。バッファローは、アメリカとカナダの国境にあり、車でトロントからわずか90分しか離れていない。

グールドは、現代音楽の作曲家、指揮者としてルーカス・フォスを尊敬していたので、バッファローに来るまえから親交があり、妻のコーネリアとも親しかった。グールドとコーネリアは、フォス一家がバッファローへ移ってきたことを契機に、より親密になった。グールドがルーカスに電話をし、ルーカスが不在のときには、コーネリアがかわりに話をするようになった。いつしか、グールドはコーネリアに電話をするようになり、二人はもっと親密な間柄になった。

Lukas Foss(Wikipediaから)

グールドとコーネリアの不倫関係はゆっくりとすすんだ。「不幸にしてわたしは結婚したことがない。そしてありがたいことに、いまだに独身である。[1]」というブラームスの意味深長な言葉がある。果たして結婚することが幸福なのか、独身でいることが幸福なのか。その答えはさまざまだろう。

だた、私生活と仕事の両立は、だれにも困難をともなう。とくに芸術家にとっては、究極的な問題になることが多いだろう。誰しも、家庭を基盤とする安定や心のささえが必要だが、それを芸術と両立させるには困難がある。なによりグールドは、孤独なしに独創性は生まれない、孤独がない創作活動はありえないと考えていたからだ。だが、一方で、一人では生きていけないとも感じていた。

グールドは、コンサートの会場で演奏することから1964年に完全にドロップ・アウトした。4月10日にロサンゼルスでバッハ、ベートーヴェンといつもコンサートで弾いている彼が最も好きなヒンデミットのピアノソナタ第3番を[2]を演奏したのが最後だった。

コンサートから引退するといい続けてきたグールドだったが、実際にこの日が最後の演奏会だという表明はしなかった。グールドは黙ってコンサートから姿を消した。

コンサートから引退する直前の彼の1回の出演料は、3,500ドル(2023年価値で、79,285ドル≒1千1百万円)以上、年収は、10万ドル (2023年価値で、2,265,311ドル≒3億17百万円)以上だったといわれる。彼は、人気絶頂のときにコンサート出演をやめた。

グールドがコンサートをやめると何年もまえに言ったとき、マネージャーのホンバーガーだけではなく誰もが、観客の前で演奏しない音楽家は過去にいない、そんなことをすればすぐに観客に忘れられるぞと忠告するのだった。しかし、彼の決心は強かった。マネージャーのホンバーガーもみとめるしかなく、秘書のヴァーナ・サンダーコックは、新しい演奏会のスケジュールをずっとまえから入れていなかった。

ツアーを巡っているあいだ彼は忙しく、自分の時間をもてず疲れ果てていた。各地を回るツアーでは、自分にあわないピアノで弾かされ、慣れないベッドや不満足な空調の部屋で眠らされた。コンサートは、同じ曲を毎回くりかえすだけで何の発見も進歩もなかった。音楽で自分のやりたい、あたらしいことが何ひとつできないと思っていた。しかし、彼を求める周囲の動きはあまりにつよかった。

そんなとき、1964年9月、安部公房原作、勅使川原宏監督の映画「砂の女」が、英語字幕付きでニューヨーク映画祭で公開された。

グールドは、20代後半から官能的で男女のきわどい性描写がでてくる映画をこのんで、少年のような驚きの目でみていたから、この映画につよく魅了された。彼は、この映画の中に、人生の意義に対するヒントのようなものが隠されていることを直感した。彼は長い時間をかけ、なんと100回以上繰り返して見、原作の「砂の女」を読み、作者が問いかけているすべての意味を理解しようとした。

映画「砂の女」

日常生活にたいした希望や夢ももっていない教師[3]が、砂地に生息する新種の昆虫を発見し、その虫に自分の名前を付けてもらえるかもしれないという唯一でかすかな望みをいだいている。彼は、3日間の休暇をとって昆虫採集をするために砂丘へやってくる。砂丘で夕方になるまで昆虫採集に夢中になり、国道へ戻ってその日の宿を探そうとする。そこへ村人がやってきて、部落の宿を紹介するという。その宿は、砂丘を20メートルほど掘った砂の中にあり、縄梯子で降りなければならなかった。

村人から「お(ばあ)」、「おかあちゃん」と呼びかけられているその宿の女主人は、30歳前後の女だった。その宿は砂の底にある木造の隙間だらけの建物だが、砂に浸食されたらしく古びて今にも崩れ落ちそうな建物だった。その建物へ、穴の周りの砂が絶えず崩れ落ちてくる。また風に飛ばされた砂が、雨のようにふりながら落ちてくる。食事をするときには、降ってくる砂を避けるために、頭上に番傘をさしてその下で食べなければならない。風呂もない。女主人は、その建物が壊れないようにするため、毎晩重労働の「サルでもできる砂()き」をしていた。その砂掻きは、穴の底にある家の周りの砂を空の石油缶に集め、その砂を入った石油缶を穴の上で待つ村人たちがモッコで引き上げるという一晩中をかけて行われる重労働だった。

モッコ

翌朝、男が起きると、女は素っ裸で顔だけを隠してまるで銀色の彫像のように寝ていた。男が、その宿を出て帰ろうとすると縄梯子が取り外されてなくなっている。村人と女のたくらみによって、男は穴の底に囚われてしまった。

男は最初のうち、砂の穴から脱出しようと、あらゆる努力をする。まず、女を縛って自由を奪い、村人に女を助けたかったら自分をモッコで引き上げるように要求する。村人たちは、まるで男の要求を受け入れたかのようにモッコを数メートルまで引き上げるのだが、村人たちは途中で手を離してしまう。男は空中から地面にたたき落とされる。

男はつぎに、脱出のため村人たちを困らせるために持久戦にもちこもうとする。そうすると、穴の底へ配給されていた水が供給されなくなる。村人は、二人が労働をしないと、罰として水を与えない。穴の上から放り込まれた週に1度配給される煙草と焼酎を飲みながら、苛立った男は、家の木の壁を壊して梯子の材料にしようとする。制止する女と男がもみ合いになったことをきっかけに、やがて動きを止めた二人は、がつがつした情欲で交わる。

男は、村人が水を止めたことに屈服し、女と砂掻きをはじめると水の供給が再開される。

やはり男は、女に「サルでもできる砂掻き」をなじる。

この場面で原作にはない映画だけにある、わかりやすい女の台詞がでてくる。

(決然として女は言う。)「だって砂がなかったら、誰もわたしのことなんかかまっちゃくれないんだから。そうでしょ、お客さん。」

それでも穴からの脱出をしようと、男はひそかに縄をこしらえていた。女が眠っている隙に脱出するために、男は風邪をひいたと偽り、女だけに砂掻きを一晩させて疲れさせた翌日、行水用の水で体を女に洗わせる。それを契機に男は倒錯したはげしい情熱で女と交わる。そして男は、嫌がる女に無理やりアスピリン3錠と湯呑いっぱいの焼酎を飲ませる。女はたちまち前後不覚に熟睡する。

男は、家の屋根に上がり、用意していた縄を何度か投げると、縄はモッコを引き上げるための支柱に絡む。村人たちがモッコの砂を引き上げにくる時間の少し前に、男は囚われてから46日目の脱出に成功する。しかし、方向感覚をなくしていた男は、そこら中を走り回り、犬や子供に見つかりながら、村人も犬も近づかない「塩あんこ」と呼ばれる沼地のように人が飲み込まれる場所で下半身が埋まって身動きがとれなくなる。男は再び囚われ、モッコにぶら下げられて穴の底へ戻される。

男は穴の生活に順応し始め、夜には女と砂掻きを行うようになる。その一方で、《希望》という名のカラスを捕まえるワナを作り、捕まえたカラスの足に救助を要請する手紙をむすんで放そうとする。

とじこめられていた男は、むしょうに外の世界を見たくなる。村人に、逃げないから1日に30分でいいから、外の世界を見せてくれとたのむ。思案した村人の老人は、「みんな見物してる前でだな、・・・あれをやって見せてくれりゃ、・・・あれだよ、雄と雌が、つがいになって・・・」と条件をだした。男は戸惑うもののたいしたことではないと思い、女を襲おうとする。穴の上で群がって二人を好奇の目で見、口笛を吹き、手を打ち合わせる音と卑猥な呻き声をだす村人たち。村人が照らす懐中電灯が揺れながら、二人に焦点をあわせるように追いかける。村人たちは、覆面をかぶったり、ゴーグルをしているので誰が誰だかわからない。和太鼓が激しくならされる映画の音楽は、最高潮に達する。男は必死に女をおさえつけようとするが、女は「あんた、気が変になっちゃったんじゃないの?・・・色気違いじゃあるまいし!」と逃げ回る。男は女に「真似事でいいんだから」と哀願するのだが、女は、肩の先で男の下腹を突き上げ、拳を顔に交互にめり込ませ、男は鼻から血を流しうちのめされる。穴の上にいた村人たちの興奮も急速にしぼみ、唐突にはじまった興奮は唐突に終わった。

代わりばえのしない何週間が過ぎた後、男はカラスを捕まえるワナ《希望》の底に水が溜まっているのを発見する。そのワナは、おとりの餌の下の砂の中に埋められた樽をおき、底に毛細管現象で水が溜まっていた。男はこの発見に興奮しながら、水の心配がなくなったと大喜びをする。男はたまる水の量、気温や天候の関係を記録し始める。

男と女は、せっせと砂掻きに精をだし、男は女の内職にも協力する。女が望んでいたラジオが、男にとっても天気予報の概況を知りたい二人の共通目標になる。

やがて、冬が過ぎ3月の春が来た頃、女は突然、腹痛を訴える。村人のなかに、獣医のもとで蹄鉄を打っていた男が子宮外妊娠だろうといい、女は布団ごと穴から連れだされる。

女が連れ出された後には、縄梯子が残されていた。待ちに待った縄梯子である。男は、縄梯子を登って、半年ぶりに外界へ出る。しかし、男は逃げ出さなかった。べつに慌てて逃げ出したりする必要はないのだと思う。べつに自分は、自由を奪われているわけでもないと思うようになっていた。逃げる手立ては、またその翌日にでも考えればよいと思っていた。

映画の最後に、失踪宣告が7年後に裁判所から下されたことが映し出される。

グールドは、この不条理な話の中に、人間の本質が描かれていると思った。

《自由》には、好きに動き回る自由と精神の中で感じられる自由の2種類がある。この主人公の男は、都会での生活を奪われ、妻や同僚とも会えなくなり、最初のうちは、「サルでもできる砂掻き」を拒否し、この生活から脱出しようとする。しかし、やがてその生活に順応する。順応するだけでなく、不満をおぼえず満足しはじめる。

いったい《自由》とは、何なのだ。だれもが思うままに生きたいと願い、そのように動き回れることが一番たいせつなことだと思っている。しかし、都会での生活のすべてをとりあげられた《男》が穴の中に囚われたとき、やがて《男》は、《自由》は失っていない、ここを出ていきたくなったら明日にも出ていける、それは自分の決心しだいだと思い、《砂の女》と今後の生活で生まれてくるかもしれない《子供》と、ずっと《サルでもできる砂掻き》をしていく()切り(ぎり)をつけたと(ほの)めかされている。

つまり、《自由》は、人間の心の中にあるものであり、見栄や虚勢、自己欺瞞のためにする争いや戦争してまで守るほど重要なものではない。人間の本質は、実はそんなところにはないのだろうとグールドは思った。

グールドは同時に、この映画のバックにながれる音楽にもつよい関心をもった。音楽を担当しているのは、日本の現代音楽を代表する武満徹だった。全編を流れる調性のない12音技法を使った不協和な弦楽器の音を細く、ときにふとく、上行させたり下降させたりしながら、緊迫した場面でときに強音を鳴らし、全編をとおして不安感を効果的に煽り、衝撃をあたえていた。ハイライトとでもいうべき、顔を隠した村人たちが、穴のうえに集まり好奇の目の衆人環境のなか、男が女を襲うシーンでは、和太鼓が神楽のようにはげしく打ち鳴らされる。

「砂の女」は、安部公房が書いた不条理文学ともシュールレアリスムともいわれる。これを勅使河原宏監督が、映画にするときに、安部公房自身が脚本を書いた。主演をしたのは、日本で一番人気のあった岡田英次と、三島由紀夫の戯曲で活躍をはじめた岸田今日子だった。岡田英次は日本でもっとも人気のある俳優であり、フランス映画「24時間の情事」にも出演し国際的にも名が知られていた。

この映画は、アカデミー賞外国語映画部門にノミネートされただけではなく、カンヌ映画祭審査員特別賞、サンフランシスコ映画祭外国映画部門銀賞を受賞した。

グールドは同時に、この映画をみながら、この映画には《自由》がもつ意味だけでなく、人間の《性》への作者のメッセージも隠れていると確信した。彼は、すぐにこの原作を読みたいと思った。

原作「砂の女」

1962年6月に刊行された阿部公房の「砂の女」は、翌年、読売文学賞を受賞した。映画は1964年4月に日本公開され、9月に英字字幕付きでニューヨークで公開された。英訳された《砂の女》[4]もほぼ同時に発刊された。

この小説は、《罰がなければ、逃げる楽しみもない》という裏表紙に書かれた《箴言》のような一文で始まる。

 ―― 罰がなければ、逃げる楽しみもない ―― 

人は罰せられなければ、自由を奪われ奴隷状態に置かれても逃げださないと作者は冒頭で暗示する。

この不条理で理屈のとおらない物語には、妙に現実感のある村人たち、男と女が発する会話のリアルさと、砂の穴に閉じ込められるという荒唐無稽な状況の奇妙さが同居し、映画では時間の制約により描いかれていないような細いプロットが多く書かれている。

まず、この小説の冒頭で、ある《男》が行方不明になったのだが、捜索願も新聞広告も無駄になった。何もわからぬまま7年が経ち、法律にもとづき、失踪宣告がなされ死亡が認定され帰ってこなかったと種明かしされている。

主人公の《男》は既婚者で中学校の教師[5]である。『情熱を理想化しすぎたあげくに凍りつかせてしまった』という結婚をして2年4ヶ月が経つ妻の《あいつ》とは別居中[6]である。もう一人、《男》が一応の信頼をよせる同僚の《メビウスの輪》[7]が登場する。

穴にとじ込められた《男》が、はじめて《砂の女》と交わるとき、別居中の妻《あいつ》が対比されるように出てくる。このとき、《男》の葛藤が長く語られる。

穴からの脱出に失敗した《男》が焼酎をあおり、逃亡するための梯子の材料にしようと家の壁をスコップで壊しはじめる。それをとりあげようと《砂の女》が《男》にむしゃぶりついて二人は絡み合い、突然、叫んだ《砂の女》は力をぬいた。《男》が《砂の女》を押さえつけると、むきだしになった乳房に手がすべった。スコップの取り合いあいが男女のカラミになっていた。突然、《砂の女》は言う。

「でも、都会の女の人は、みんなきれいなんでしょう?」

《男》は、勃起しはじめていたが、「都会の女?」という言葉に白け、腫れあがったペニスの熱がさめていった。

「どうやら、ほとんどの女が、股一つひらくにしても、メロドラマの額縁の中でなければ、自分の値段を相手に認めさせられないと、思い込んでいるらしい。しかし、そのいじらしいほど無邪気な錯覚こそ、実は女たちを、一方的な精神的強姦の被害者にしたてる原因になっている。」

《男》は過去に淋病にかかったことがあり、いつまでも全快したという確信がない。医者はノイローゼだというが、《あいつ》とのときは、かならずコンドームを使うようにしている。

コンドームを使うことを《あいつ》は、「私たちの関係は、お気に召さなかったらいつでも返品できる商品見本を交換しているような」もので、「たまには、押し売りしてやろうくらいの気持ちになってはいいんじゃない。」となじる。《男》が、「いやだね。押し売りなんて・・・」「そういうなら、合意の上で、素手にしようじゃないか」と返すと、《あいつ》は、「じゃあ、あなたは一生、帽子を脱がないつもり?あなたは、精神の性病患者なんだな・・・」と口論になる。

《男》は、性病がメロドラマとは対極にある真実だという。メロドラマはこの世に存在しないことの絶望的な証拠の品である、「おまえは、鏡の向こうの、自分を主役にした、おまえだけの物語に閉じこもる。・・・おれだけが、鏡のこちらで、精神の性病を患い、おれの指は、帽子なしでは萎えて役に立たない・・・おまえの鏡が、おれを不能にしてしまうのだ・・・女の無邪気さが、男を女の敵に変えるのだ。」と思う。

「都会の女の人は、みんなきれいなんでしょう?」と《砂の女》に言われた《男》はいまいましく感じたものの、奇妙な情感、コンドームなしでも彼の指は立派に脈うち、いきみかえった名残の火照りが残っていた。だが、《男》は、精神的強姦は生こんにゃくを塩をつけずに食うようなもの味気ないものであり、相手を傷つけるより前に、自分を侮辱するものだと気乗りがしない。

《メビウスの輪》は女を口説くときに、性欲には2種類あるという味覚と栄養の話をする。飢えきった者にとっては、食物一般があるだけで、神戸牛とか、広島の牡蠣の味だとかいうものはまだ存在していない。満腹が保証されてから、個々の味覚も意味を持ってくる。性欲も同様だ。時と場合に応じて、ビタミン剤が必要になったり、うなぎ丼が必要になる。《メビウスの輪》の理論に従って、口説かれた女はいないが、精神的強姦が嫌なばかりに、《メビウスの輪》は、せっせと空き家の呼び鈴を押している。《男》も、純粋な性関係を夢想するほどロマンチストではない。そんなものは、おそらく、「死に向かって牙をむきだす時にしか必要ない。涸れはじめた笹はあわてて実を結ぶ。飢えた鼠は、移動しながら血みどろの性交をくりかえす。結核患者は一人残らず色情狂に、王や支配者はハレムの建設に情熱をかたむけ、敵の攻撃を待つ兵士たちは、一刻もおしんで、オナニーにふけりだす・・・・」

だが、現実の世界は、死の危険ばかりにさらされているわけではない。冬さえ、恐れる必要のなくなった人間は、季節的な発情からも自由になれることが出来た。

しかし、戦いが終われば、武器はかえって手足まといになる。秩序というやつがやって来て、自然のかわりに、牙や爪や性の管理権を手に入れた。そこで、性関係も、通勤列車の回数券のように、使用のたびに、かならずパンチを入れてもらわなければならない。その確認のためにあらゆる証文がある。しかし、証文はこれで足りているのだろうか、男も女も、相手がわざと手を抜いているのかと、暗い猜疑のとりこになる。《あいつ》は、《男》を理屈っぽすぎると非難する。性に贈答用の熨斗(のし)をつけたりするような悪趣味まで、我慢しなければならないほどの義理はない。もし、秩序の側で見合った生命の保証をしてくれるなら譲歩の余地もあるが、現実は、空から死の(とげ)が降り、地上でもありとあらゆる種類の死で、足の踏み場もない。どうやら、つかまされたのは空手形だったらしい。

こうして不服な性を相手にした、回数券の偽造がはじまる。精神的強姦が必要悪として黙認される。こいつなしには、ほとんどの結婚がなりたたない。互いに強姦しあうことを、もっともらしく合理化しているだけのことじゃないか。あわれな指には、もう帽子をぬいでくつろぐ場所さえない。

《砂の女》は、服を脱ぎ始める。こういう女が本当の女なのだ。女の体が、とりひきに使われる段階は、とうに過ぎてしまった・・・いまは暴力が状況を決している・・・かけひきを度外視した、合意のうえの関係だと考える証拠はじゅうぶんにある。

・・・・それにしても、女の太股に、なぜこれほど激しく誘いよせられるのやら、わけがわからない・・・・《あいつ》との時には、おおよそ経験したことのない一途さだ。・・・いまのおれに必要なのは、このがつがつした情欲なのだ。

けいれん・・・・同じことの繰り返し・・・・・別のことを夢みながら、身を投げ入れる相も変わらぬ反復・・・・食うこと、歩くこと、寝ること、しゃっくりすること、わめくこと、交わること・・・

けいれん…絶叫し、狂喜して進む、この生殖の推進機構の行く手をはばむことは出来なかった。・・・やがて、身もだえながら振りしぼる、白子の打ち上げ花火・・・無限の闇をつらぬいて、ほとばしる流星群・・・

そのきらめきも、ふいに尾をひいて消えてしまい・・・男の尻を叩いて、はげましてくれる女の手も、もう役には立たない。

結局、なにも始まらなかったし、なにも終わりはしなかった。欲望を満たしたものは、《男》ではなくて、まるで《男》の肉体を借りた別のもののようでさえある。・・・・役目を終えた個体は、さっさとまた元の席へと戻って行かなければならないのだ。幸せなものだけが、充足へ…悲しんでいるものは、絶望へ・・・死にかけているものなら、死の床へ、と・・・こんなペテンを、野生の恋などと、よくもぬけぬけ思いこんだり出来たものである・・・回数券用の性とくらべて、はたしてどこかに取り柄らしいものでもあっただろうか?・・・・こんなことなら、いっそ、ガラス製の禁欲主義者にでもなっていたほうがましだった。

――――――――――――――――――

グールドは映画を観たあとに読んだ原作に、やはり、とても驚いた。彼がふだん感じている自由と性への疑問や懐疑といった、もっとも関心がある問いに作者が答えているように感じたからだ。

グールドはこう考えた。―  ほとんどの女にとっては、精神的強姦の被害者を生むいちばんの原因は、股一つひらくにしても、メロドラマのなかでしか相手に価値を認めさせられないという思いこみがあるからだろう。それは、結婚生活のなかにも隠れている。ヒロインになって相手に幻想をいだかせなければならないというあせりがあるからだろう。もちろん、メロドラマは幻想にちがいない。そうかといって精神的強姦は、相手を傷つけるより前に自分を侮辱するものだ。

戦闘行為がすめば、兵器はじゃまになる。戦闘後の秩序のなかで、何度も繰り返す性関係は、通勤列車のような回数券で管理される。この管理をするために、たくさん証文が発行されるのだが、時間がたつと証文は効力を失ってしまう。現実にはあらゆるものが変質し、死屍累々となってしまう。やがては、不服な性の相手に回数券の偽造をはじめ、生こんにゃく[8]を塩もつけずに食うような味気のない精神的強姦が必要悪として許される。互いに強姦しあうことが合理化される。これがほとんどの結婚の本質だ。

グールドは、心に描く女性、作曲家ルーカス・フォスの妻であり画家のコーネリア・フォスを思い浮かべた。

「彼女はとてもまれな存在であり、メロドラマのヒロインになって、自分を実際より値打ちがあるように見せようとするような女性ではない。ぼくは、女性をメロドラマのヒロインのように崇め、ナイトのように男らしく振る舞おうとしてきた。しかし、女はヒロインである必要はなく、男はナイトになる必要もないのかもしれない。彼女は、明るくて利発で、ぼくを理解している。なにより、ぼくたちは対等な芸術家であり、芸術をうみだす苦悩をともにしている。《砂の女》と《男》とはちがう。ぼくがもし砂の穴に囚われたら、脱出してピアノを弾き続けることを選ぶだろう。ぼくは、この《男》のように砂の中で囚われて、砂を掻きながら《砂の女》と暮らすことを選択しない。ぼくは芸術家であり、選ばれた使命をもってうまれてきた人間だからだ。」

「ぼくには、音楽以外なにもない。人付きあいもできないし、世渡りができる特別な知識も技能もなにもない。ぼくにあるのは、ただ音楽だけだ。」

「なにも出来ないぼく、すべての身を音楽に捧げるぼくが生きていくには、だれか世話をやいてくれる母親のような存在が必要だ。それは、結婚相手だろうか?」

「真の恋愛と結婚は精神的強姦をしない前提にした、おたがいが尊重しあい認めあうことが必要で、一方的に世話をやいてもらいずっと受けとり続けるわけにはいかない。だが、時の経過がすべてをかえてしまい、変わらないと思ことは、あり得ない空手形をつかまされることなのだろうか?」

「たしかに恋愛も、はじめはかけひきを伴う戦争かもしれない。しかし、やがて戦争は終わる。戦闘に使った武器は不要になり、くりかえす日常と秩序があらわれる。結婚はあらゆる証文にまもられた秩序だ。だが、秩序は、猜疑心と欺瞞ですりへり変質していく。こうして回数券の偽造がはじまる。」

グールドは、13歳の子供の頃から「僕は独身をつらぬく」[9]といっていた。芸術にすべてをささげるためには、結婚は余分だと考えていた。母フローラは、息子が「特別な子供」[10]となり、音楽をとおして世界に多大な貢献をすることをつねに願っていた。そしてそのためには、音楽以外の優先順位はひくく、寄り道は許されなかった。若い間は恋愛を後回しにして、立派な音楽家、ピアニストになってから、息子が結婚すればよいと考えていた。

息子はその思いを最初はそのとおりに受けとっていた。しかし、ゲレーロとのレッスンでの議論をなんどもくりかえすうちに芸術に結婚はじゃまだ、芸術は《これまでにないものを追及すべきだ》、《反社会的でなければ、芸術家は新しいものは生みだせない》と考えるようになっていった。彼は、母フローラを乗り越えるだけでなく、さらにその向こうへ行こうとしていた。彼の目指す音楽は、過去の名演奏を再現することでも、作曲家の意思を忠実に再現することでもなかった。作曲家が作曲した曲の内側から光を当て、これまで誰も知らなかった発見や表現を見つけだすことであり、それには、生活態度や思考が保守的ではあってはできないと考えていた。こうした考えが、ピアノの恩師、ゲレーロとさいごに対立してしまうのだった。

しかし、性的にずっとナイーブだった彼も、恋愛と性体験をするにつれ、異性を好きになり、自分のものにしたいという願いが、芸術を生み出そうと生み出すまいと、抜き去ることはできなかった。ぼくのエクスタシーは音楽だと思うものの、性のエクスタシーを否定することはできなかった。

性交にたいする欲求は否定しがたい。落ち着いた人生を送りたい。だが、結婚は証文にまもられた秩序だ。その証文の効力もいつまであるのか怪しい。激しい情欲、絶叫し狂喜して進む、この生殖の推進機構の行く手のけいれんは、なにも始めないし、何も終わらせないことはわかった。偽造された回数券で性交をするより、ガラス製の禁欲主義者になったほうがましなのか?

けっきょく、この物語の《男》は、猿でもできる毎日の砂掻きと、《砂の女》との回数券の性を選んだ、

ぼくは、芸術を生みだすために絶対に必要なものは、孤独だと思っている。孤独なしに芸術は生まれない、と思っている。もし、他の人間と1時間いると、それをX倍した時間だけ一人になる必要がある。孤独は人間の幸福に欠かせない要素だ。

この小説の他の場所には、こうも書いてあった。

「欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦(れんが)を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実は、うっかり手もふれられない、あぶなっかしいガラス細工になってしまう。・・・・・だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえるのである。」

グールドは繰り返しこの映画を見、原作を読んで、芸術と結婚について考え、おかしいのは社会通念の方だと思った。

おしまい


[1] ブラームスの言葉 「神秘の探訪」 「アーティストのポートレイト」P373

[2] プログラム 「グレン・グールド大研究」宮澤淳一年表から バッハの「フーガの技法」から4曲、パルティータ第4番、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番、ヒンデミットのピアノ・ソナタ第3番

[3] 「砂の女」(新潮社版)88ページに「教頭が捜索願の書式を問い合わせに警察を訪れる段取りになる」と書かれている。

[4] 英訳は、”The woman in the dunes”というタイトルで、E. Dale Saundersにより1964年に刊行された。この「砂の女」は世界40か国語以上に翻訳され、ノーベル文学賞候補になる。(NHKブックス・ヤマザキマリから)

[5] 教頭が捜索願を出すだろと書かれている。

[6] 「砂の女」の14章に、「主人を失った彼の下宿を一目見ただけで・・・読みさしの本・・・すべてが中断をこばみ、生き続けようとしている・・・」とあり、その下宿に彼は置手紙をしてきたことが書かれている。

[7] メビウスの輪 一度ひねった紙テープの両端を貼り合わせたもので、裏も表もなくなる。

[8] 生こんにゃく 英語版では、生こんにゃくを“unsweetened tapioca”と訳されている。

[9] 「独身をつらぬく」 「愛と孤独」にロバート・フルフォードの発言として“He is a confirmed bachelor at thirteen,” Fulford wrote in the Malvern newsletter on April 3, 1946.と書かれている。

[10] 「特別な子供」 「グールド伝」第4章35ページ 注釈にジェシー・グレイグが1985年のCBCテレビのインタビューで答えている。

第11章 一風変わった曲目のアメリカ・デビューと巨大レコード会社との専属契約

22歳のグールドはアメリカでのデビュー演奏を、1955年1月2日、ワシントン、フィリップス・ギャラリーと1月11日、ニューヨーク、タウン・ホールで行った。

タウンホール外観
タウンホール内部

初日のワシントンのリサイタルを聴いた《ワシントン・ポスト》紙の批評家、ポール・ヒュームは絶賛した。

「1月2日の段階でいうのは早すぎるかも知れないが、ことし昨日の午後フィリップス・ギャラリーでのピアノ・リサイタル以上に素晴らしいリサイタルが催される可能性は少ない。これと同じくらい美しく、かつ示唆に富んだリサイタルがあるとすれば、わたしたちは幸運である。・・・グレン・グールドは類まれな才能をもったピアニストである。すぐにでもその演奏を聞き、しかるべき敬意と歓迎の意をしめさなくてはならない。どの世代を見てもグールドに匹敵するピアニストは皆無である」

アメリカで二度目の公演であるニューヨークのリサイタルの観客は、せいぜい200人と少なかったが、ヒュームの記事のおかげで、有名ピアニスト、ニューヨーク在住の評論家やカナダからきた記者や評論家が集まっていた。

観客席には、両親とマネージャーが座っていた。

マネージャーのホンバーガーは、グールドは必ず成功すると確信していた。ホンバーガーは、グールドが演奏する曲の選曲のことや、舞台の上でも舞台を降りた後でも、彼の振舞などには一切口を出さず意見も言わなかったが、グールドが成功することは初めて見たときからずっと確信していた。ホンバーガーは、音楽のことはもちろん好きだが詳しくはないと思っていたし、やれ姿勢が悪い、みょうな声を出しながら演奏すると批判されるグールドの演奏スタイルを悪く言われると、「音楽だけを聴けばいいでしょう。」とグールドの弁護を続けてきた。

両親は、カナダですでに大成功した息子がいよいよ世界デビューすることが誇らしく、間違いなく成功するだろうと思っていた。しかし同時に、もし息子が成功して自分たちの手の届かないところへ行ってしまったらどうしようという不安も抱いていた。

グールドは、一番自分をアピールできると考え、ワシントンとニューヨークの両日とも同じもっとも自信のあるプログラムを演奏した。その選曲は、これからピアニストとしてデビューしようとする演奏家の選曲とははっきりとかけ離れて挑戦的だった。

彼のプログラムは、中世の古楽を2曲、バッハのシンフォニア5曲とパルティータ第5番の2種類で始まり、休憩をはさんだ後に、無調の12音音楽、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番、最後に再び現代音楽というものだった。

バッハのシンフォニアは、ピアノ習ううえでの教則的な練習曲と考えられていたし、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番はベートーヴェンが失明した後の観念的、抽象的な曲の1曲であり、デビューして何年も経った熟練したピアニストが好んで弾く曲だ。

この彼の選曲は、古楽を演奏できると同時に現代音楽にも通じている、バッハとベートーヴェンを弾くが、メジャーなロマン派の作曲家の曲は弾かないと宣言したのも同然で、かなり大胆なものだった。

ふつうデビュー・リサイタルをおこなう新人ピアニストは、ロマン派のショパンやリストの曲をかならず弾く。これらを避けることは、今後にむけて変わった嗜好をもっていることをしめす意図と同時に、ロマン派の曲が今後の演奏曲の中心にならないと宣言するものだ。

Glenn Gould Remastered – The Complete Columbia Album Collection – USB Editionから(おお、ハンサム!!)

こうして、きわめて風変わりなラインナップをグールドは選択した。

具体的な曲目は、前半が、[1]オーランド・ギボンズの《ソールズベリー卿の[5]パヴァーヌとガイヤルド》、[2]スウェーリンクの幻想曲ニ短調、バッハの《インヴェンションとシンフォニア》の3声のシンフォニアから5曲とパルティータ第5番ト長調、後半が、[3]ヴェーベルンの変奏曲作品27、ベートーヴェンのソナタ第30番ホ長調作品109のソナタ、そして最後に[4]ベルクのソナタ作品1だった。

グールドが使ったタウン・ホールは、比較的な小さなホールだが、リヒャルト・シュトラウスとアイザック・スターンが初公演し、ジャズのディジー・ガレスピーとチャーリー・パーカーがデビューした歴史のあるホールで、約1500人を収容できた。

グールドは、習慣的な燕尾服に白いネクタイではなく、暗めのダーク・スーツで現れた。少し照れたような表情をうかべ、はにかみながら舞台に登場した。まだ幼さが残るその青年が舞台に現れた姿は、どこか心もとなく頼りなさそうに見えた。

だが、グールドが鍵盤に向かうとためらうような雰囲気はすっと消え、すばらしい集中力がとって代わった。

グールドは、ギボンズとスウェーリンクの2曲ではじめた。わざと、ピアノの大屋根を短い方の支え棒で持ち上げた状態ではじめた。大きな響きは、この2曲にふさわしくないと判断したのだった。

この2曲は、バッハよりさらに1世紀古く、古楽と呼ばれるルネサンス期の音楽家たちのオルガン曲であり、普通は、リサイタルのプログラムに入れない。

最初のギボンズの《ソールズベリー爵のパヴァーヌとガイヤルド》は、そうとうゆっくりとしずかな対位法でグールドははじめたが、ゆっくり弾くほど技量がはっきり出るのでこのように弾くには勇気がいる。声部の違いをはっきりさせたうえで余韻を残しながらロマンチックに弾きはじめるのだが、細部まで緻密に考え抜かれた計算と技術がなければできない。静かで落ち着いてロマンチックでありながら、後半は一転してドラマチックな烈しさに変わる、胸が締め付けられて拍動を感じる、そんな演奏だった。

2曲目のスウェーリンクの[6]幻想曲ニ短調はもとはといえばオルガン曲だ。この曲を、ピアノの明瞭で、強弱と音色の変化のある演奏をした。

はかないくらいの頼りのない、せつない20音からなる音列で曲がはじまり、やがて他声部が加わり、速度と音量を上げ、徐々に宗教的な大合唱のように変化していく。グールドは、高い声部よりむしろ低音部や内声部をつよく弾く。聴衆は、不思議な感覚に囚われ、「こんな風な曲を聴いた経験はない。宗教曲なのか。もっと不思議で違う世界が見える。」と思わずにはいられない。やがて曲は展開し、同じリズムをたもちながら下声は短い音符の連続へ曲想を変わったあと、フォルテで快速で、烈しい性格へと変わる。また再び最初の曲想に一瞬もどるのだが、最後は激しくドラマチックでカッコいいフィナーレで終わる。リズムは[7]イン・テンポで揺れず、ピアニストの正確な技量に圧倒される。つねに平等に扱われる多声のメロディーの交錯が、500年前の不思議な和音の響きの世界へ聴衆をつれて行く。

3曲目にいよいよ、J.S.バッハにとりかかる。まずは、《インヴェンションとシンフォニア》から3声のシンフォニア5曲を、グールドは、かれの特徴でもある[8]ノンレガートを主体にした、生命力あふれる見事な聴きごたえのある演奏をしてみせた。《インヴェンションとシンフォニア》は、教育用の作品とずっと考えられてきた。グールドの演奏で、《インヴェンションとシンフォニア》は、バイエルやハノン[9]から芸術作品になった。彼は、高音部の主旋律と低音部の伴奏の外声部だけでなく、内声部を十分に明らかにしながらゆったり響かせ、3声の存在を対等に表現し、レガートで弾く旋律とスタッカート気味に弾くノンレガートの旋律を交代させ、主役を交代させることで変化の違いを聴衆に楽しませた。このシンフォニアは短い曲だが、グールドは関係調になるように5曲を並べ違和感をなくした。

次に弾いた、バッハのパルティータ第5番ト長調は、従来のバッハ観を変える圧倒的に新しいものだった。バッハは、前から高い評価をされていたが、それは宗教と結びつき、難しく取りつきにくい埃をかぶった18世紀の遺物に分類されるような種類の音楽と考えられていた。当時、本当のバッハの良さは、まだ墓の中にはいったままだった。

グールドは、その200年を飛び越え、ときにスウィングし、ビート感あふれる楽しく疾走する現代のポップ音楽として蘇らせた。バッハの時代にはピアノはなく、チェンバロしかなかった。チェンバロは驚くほど美しい音色をだせる楽器だが、構造的に音量の調節が出来ず、表現力は限られていた。グールドは、表現力豊かな現代のピアノで弾くことで新しい世界を見せた。生き生きとして楽しく、小曲の組み合わせで全体が構成された最後に大きなフィナーレがある新しいバッハだった。

グールドは、2種類のバッハの後に休憩に入り、後半の開始に現代曲のヴェーベルンをもってきた。作品番号をもった唯一の独奏ピアノの変奏曲作品27である。グールドらしい作品に感応した不思議で何かを触発するような、なによりカッコいい12音技法による現代曲が聴かせる。リズム感の優れたグールドにかかると左手の低音部が印象的で聴かせる。グールドは、この曲の演奏でも大きな声(鼻歌、ハミングあるいは呻き声にも聞こえる。)を出しながら演奏している。しかも、グールドはこの曲をベートーヴェンのソナタと同じ構造をもっているからと舞台で説明し、聴衆の理解をたすけるために[10]2度繰り返して弾いた。

次のベートーヴェン晩年のピアノ・ソナタ第30番は、安定して美しいというより、従来の伝統からはみ出した烈しい、緊張感の強い演奏をした。まず、他の曲でもそうだが、低音部を強調して弾いた。一般的な演奏では、右手の高音部の主旋律が浮き上がるように弾き、左手の低音部は一段音量をおさえて、目立たせたいときにだけ音量を上げるのが普通で、このときにも高音部のメロディーが存在感を失うことはない。しかし、グールドは、常に左手の低音部をずっと、右手の高音部と同じか、強いくらいに演奏した。そのため、一般の奏法では、音符の重なる曲の激しい部分であっても、目立つ音符は高音部だけなのですっきりしている。しかし、グールドの演奏は、高音だけでなく低音の伴奏部と内声部の全てが主張し、[11]サーカスの綱渡りのようなハラハラさせるような部分やあまりに烈しい部分があり、これまでにない捉え方をした演奏だった。

この第3楽章は、穏やかでゆっくりとしたアンダンテで始まり、変奏をへるたびに速く激しくなっていくのだが、第4変奏では「主題よりやや遅めに」と指示があり、激しさが小休止するはずのところを、倍の速度で弾きとおした。こうしたリズムの変化だけではなく、強弱のつけ方もしばしば[12]スコアに反していた。

そして、最後に現代曲であるベルクのソナタ作品1を演奏した。この曲は、ヴェーベルン同様、作品番号をつけた唯一の独奏ピアノ曲であるが、ロ短調を主調とした12音技法で作られており、調性が安定しないことが混沌、矛盾や不安感をかきたてる。しかし、主調をもっていることで美しさや安定感があり、ヴェーベルンの変奏曲作品27よりずっと聴きやすい。

グールドはのちに、「あのリサイタルは、本当に演奏を楽しむことのできた稀な機会だった。」、「ニューヨークのタウン・ホールのデビューほどリラックスしたことはなかった。」[13]とのちに振り返っている。

リサイタルは大成功だった。休憩時間には人々は拍手を止めずアンコールを求めたし、演奏終了後のアンコールも熱烈だった。楽屋に100人以上の聴衆が新しいスターにお祝いの言葉をかけようと押し寄せた。

トロントの新聞《トロント・スター》、《トロント・テレグラム》は大々的に熱気をもってアメリカ・デビューの成功を伝えた。

ニューヨークの新聞《タイムズ》の批評家は、「わたしの聴いたなかでもっとも幸先の良いデビューのひとつ」と言い、《ヘラルド・トリビューン》紙も「この若いピアニストがひたむきで繊細な鍵盤の詩人であることは明らかである」と好意的な記事を掲載した。

レセプションが開かれたが、グールドは人が多すぎて居心地がよくなかった。結局、仮病を使って30分いただけで会場を後にしたため、レセプションを準備した人たちの顰蹙をかった。

このリサイタルに要した費用は、地元の興行会社への宣伝費として約1000ドル(2023年現在価値で31,076ドル≒435万円)、ホール使用料450ドル(同13,984ドル≒196万円)で、それに加えて、ニューヨークまでの旅費や宿泊費も必要だった。一方、収入は、一番高い席の料金が2ドル88セント(同89.5ドル≒1万2千円)だった。デビュー・リサイタルが、一般にそうであるように、このリサイタルも赤字だった。

新聞各紙は好評価を与えたが、その影響力は、毎日の紙面で活字になる寸評に過ぎず、グールドの生活を変える力はなかった。その晩も、他の場所で行われたコンサートにもっと大きな注目がはらわれていた。というのは、ニューヨークでは連日有名な音楽家のコンサートが各地で開かれていて、じっさいに、タウン・ホールのデビュー当日には、他の有名なヴァイオリニストのコンサートが違うホールで行われていた。

しかし、このリサイタルで、グールドのかけがえのない才能に気づいた人物がいた。それはレコード販売の音楽業界で《超》がつく大物だった。

演奏会は、一般の観客は少なく空席だらけだったが、音楽業界関係者、ピアニスト、他の楽器奏者、批評家などが大勢つめかけていた。というのは、プロの音楽家の世界は、一般に思われているよりも意外と狭いからだ。カナダでグールドをよく知る音楽関係者が、アメリカ公演を聴くように勧め、それを聞いた別の友人がパーティーを開いて宣伝するというふうに、狭い音楽界でニュースは広まっていたからだ。

この音楽関係者のなかに、[14]デイヴィッド・オッペンハイムが二回目のニューヨーク・タウン・ホールでのリサイタルを聴いていた。オッペンハイムは、33歳という若さながら、巨大音楽レーベル、コロンビア・レコードのクラシック中枢部門であるマスター・ワークス部の責任者であり、プロとして活躍するクラリネット奏者だった。妻は有名な女優のジュディ・ホリデイである。この会社のポピュラー音楽部門は、フランク・シナトラ、ベニー・グッドマンやビリー・ホリデイをはじめとする、ほとんどすべてのアメリカ人ビッグ・アーティストを擁していた。クラシック部門に大きな儲けは期待できなかった。しかし、クラシック音楽の裾野を広げ、熱心なファンになってもらい、彼らを取り込むことにより、ブランドイメージをあげることができ会社全体で見ると十分な貢献を果たしていた。

オッペンハイムは、グールドのデビュー演奏の最初の数小節を聴いただけでその価値を悟った。

David Oppenheim Wikipediaから

オッペンハイムは、ライターたちへのインタビューにこの日の演奏を次のように答えている。

「リサイタルは、非常にゆっくりとした音楽で始まりました。確か、[15]スウェーリンクだったと思います。いや、十七世紀のスウェーリンクと同時代の誰か別の作曲家だったかも知れません。・・もとはと言えばオルガン曲で、ほかのピアニストが弾いたらどうしようもなく退屈になってしまう曲しょう。かれはこれを演奏するにあたって、そう、宗教的な雰囲気を醸し出して、ひたすら聴く者を催眠術にかけるよう魅了したのです。それもその雰囲気を作り上げるのに音を五つか六つ鳴らせば十分でした。それは的確なリズムと[16]内声部のコントロールという魔術のおかげだったのです。・・・私は、・・ぞくぞくしましたね。それからほかのレコード会社の連中が来ていないかどうかを確かめると、・・ええ、見当たりませんでした。翌日出来るだけ早く彼のマネージャーに連絡をつけ、わたしは専属契約を申し出たのです。」

当時、オッペンハイムは、若い有望な看板ピアニストを探していた。ルーマニア生まれのディヌ・リパッティという天才ピアニストがいたのだが、5年前に33歳という若さで早逝していた。リパッティは、澄んだ音色でピアノを最大限に歌わせ、ほとんどペダルを踏まずに演奏した。ピアノは、ハンマーが弦を叩いた瞬間の音が徐々に減衰しながら、鍵盤を押さえているかぎり響きつづける楽器であり、「ペダルを踏まずにピアノを弾く」というのは、音を伸ばすところはしっかり伸ばし、切るところはしっかり切るピアノの基本技術がダイレクトに出でることを意味する。もし長生きしたら今世紀最大のピアニストの一人であっただろうと言われた逸材だった。

オッペンハイムは、年長の友人である、ヴァイオリン奏者のアレクサンダー・シュナイダーの家へ行き、リパッティのレコードをふたりで聴いていた。シュナイダーは、47歳だった。オッペンハイムは、音楽家として先輩のシュナイダーに言った。

「このリパッティのような、素晴らしいピアニストはいないですかね?リパッティに代わる才能のあるピアニストを、これからの時代に、うちの会社の柱になる人物を見つけたいんです。」

「それなら一人いるよ。カナダの変人だが、きみがリパッティを好きなら、きっと気に入るよ。専属契約を結べばいい。」

「ぼくは今年の夏、カナダのストラトフォード音楽祭で、その変人と共演したよ。とにかくすごいんだ、彼は。ベートーヴェンのピアノ三重奏曲「幽霊」なんかを演奏したんだが、私とチェリストの[17]ザラ・ネルソヴァは譜面台に楽譜をおいて演奏したのに、彼はピアノを暗譜で弾いてね。彼には、譜面を持って舞台へ来いと言ったんだが、譜面をお尻に敷いて演奏をはじめる始末だ。おまけに、彼はピアノだけでなく、ヴァイオリンとチェロのパート譜も覚えていて、ああだこうだと言い出す始末さ。だけど、演奏はすごいよ。彼が背面に回るときも、音を抑えているくせにとても存在感があって、ぼくたち弦楽奏者が崩して弾くのを許さないんだ。観客は、熱狂したね。あの変人は、まちがいなく大物になるよ。」

実際に、オッペンハイムは翌日、グールド、マネージャーのホンバーガーと専属契約の交渉に入り、契約を締結した。それは、3年契約だが、[18]2年間に3枚のレコードを録音する他には、曲目や時期などを演奏者に白紙委任する恵まれたものだった。グールドは、生涯にわたる27年間、コロンビアとの契約を続けた。

新人デビューをした音楽家が、巨大レーベルと好きな時期に好きなレコードを出せる契約を結ぶことは、これまでにない夢物語と言ってもよい異例のことだった。

つぎへ(まだ飛びません)


[1] ギボンズ ギボンズ(1583-1625)は、J.S.バッハに100年先立つ英国の作曲家、オルガニスト。大量の鍵盤楽器作品、ヴィオールのための幻想曲、マドリガル、ヴァース・アンセム(独唱や楽器の伴奏がつく宗教合唱曲)を作った。コラールは、すぐれた対位法が特徴。

[2] スウェーリンク 脚注8と同じ

[3] ヴェーベルン(1883-1945)は、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。シェーンベルクやベルクと並び、新ウィーン楽派の中核メンバー。20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開したが、生前は顧みられる機会がほとんどなかった。戦後の前衛音楽勃興の中で再評価された。

[4] ベルク アルバン・ベルク(1885-1935)はアルノルト・シェーンベルクに師事し、ヴェーベルンと共に、無調音楽を経て十二音技法による作品を残したオーストリアの作曲家。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。

[5] パヴァーヌとがガイヤルド ルネサンス時代の宮廷の2拍子系の緩やかなパヴァーヌと3拍子系の軽快なガイヤルドで、ともに舞曲。

[6] スウェーリンク(Jan Sweelinck 1562-1621)の幻想曲ニ短調 : CBCテレビ(カナダ放送協会Canadian Broadcasting Corporation)で、このデビュー・リサイタルから9年後の1964年にこの曲を次のように解説している。「かつて誰かが初めて音楽らしきものを作りました。触発された別の人がすぐに自らの音楽を作ったはずです。両曲の共通点はきっと多く、2曲目は1曲目と深く関わります。模倣と拡張がおそらくそこにあるでしょう。だが、作品にはそれぞれの作り手の自我もにじむのです。それが音楽の歴史であって、ある曲が成り立つのは他の曲がすでに存在するからです。つまり、どんな音楽も別の音楽の変奏です。今や現代人にとっては過去の音楽全体が変奏の連続に見えます。・・・・16世紀オランダのスウェーリンクの作品を弾きます。彼のオルガンのための幻想曲は1個の長い動機に基づきます。動機は20以上の音から成ります。・・・・7~8分続く音楽の中でこの動機が部分的に現れ反復されて全体の進行を支えており、分割された楽想の連続は結果的に変奏になっています。固有の題名を持たないが、変奏曲になっているのがこの作品です」

[7] イン・テンポ:テンポが変化することなく一定の速度で演奏すること

[8] ノンレガート ピアノは普通、レガートに音符の音価一杯に弾くのが良いとされているが、グールドは、レガートは「緊張」であり、「緊張の緩和」としてノンレガートを奏法の基本に考えていた。フランス語では「デタシェ」とも言い、英語では「デタッチメント”Detachment”」であり、「切り離す」ことを意味する。後年、グールドは夏目漱石に傾倒するが、「草枕」のキーワード《非人情》を訳者は、”Detachment”と訳した。

[9] バイエルとハノン バイエルは初心者向け、ハノンは中級者向けのピアノ教材

[10] 2度弾いた 神秘の探訪160頁

[11] サーカスの綱渡り・・・ :1950年代当時は、録音技術の黎明期であり、モノラル録音で、クリアではなかった。このため、もし演奏会場で聴く音とレコードの録音を聴く音の場合とでは、印象が違っていたかもしれないが、一般的なベートーヴェンの落ちついて思索的な印象はない。(筆者)

[12] スコアに反した グールド演奏術 267頁

[13] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 第3章P162

[14] オッペンハイム:David Oppenheim、1922 – 2007。クラリネット奏者。コロンビア、マスター・ワークス部門の責任者。3度結婚し、最初に結婚したジュディ・ホリデイは、アカデミー主演女優賞を受賞。

[15] スウェーリンク:(1562-1621)J.S.バッハに100年先立つオランダの作曲家・オルガニスト。ルネサンス音楽の末期からバロック音楽の最初期において、北ドイツ・オルガン楽派の育成に寄与した。イタリアのフレスコバルディに匹敵する存在である。(Wikipedia)

[16] 「内声部」 複数の声部が同時に演奏するとき、最も高い音を担当する声部と、最も低い音を担当する声部とを合わせて外声(がいせい)といい、外声以外の声部を内声(ないせい)という。たとえば混声四部合唱では、ソプラノとバスが外声で、アルトとテノールが内声に当たる

[17] ザラ・ネルソヴァ:Zara Nelsova, 1918年- 2002年、カナダ、ウィニペグ生まれ。チェリスト。フルート奏者だった父の影響でチェロを習い始めた。彼女が生まれた1918年は、歌手を別にすると、女性が演奏する楽器は、ピアノやオルガンなどの鍵盤楽器、ハープやリュートなどに限定され、チェロを女性が演奏するのはまだ珍しい時代だった。

[18] 2年間に3枚:「グレングールドの生涯」(オットー・フリードリック)P119

第10章 ストラトフォード音楽祭でベートヴェン「幽霊」を演奏する

グールドは、すでに10代の初めからカナダ国内で注目されはじめ、10代の後半から22歳のアメリカ・デビューをする前には、国内の一流オーケストラすべてと共演するまでになっていた。1950年代は、まだラジオの全盛期だったが、ラジオ番組にたびたび登場する最も人気のあるスターになっていた。しかし、その人気はあくまでカナダ国内に限られていた。

1953年、カナダは文学、演劇、音楽の総合的な祭典であるストラトフォード・フェスティヴァルを始めた。

グールドは、開始当初からこのフェスティヴァルに参加し、世界的なピアニストとなってからも、10年以上ずっと参加しつづけた。

1953年、アンサンブルへ1回、リサイタルへ2回出演したグールドは、「隙間だらけの楽屋、ぼくでさえも上着なしで弾いたほどの蒸し暑さ、ひどい楽器、無計画、準備のわるさ」と10年後に回想している。しかし、出演料が127ドル(2023年現在価値で4,165ドル≒58万円)だけだったことには触れていない。

なぜなら、グールドは、この音楽祭を通常のコンサートでは実現できないレパートリー、着想、演奏へのアプローチの探求や実験ができる場だと考え、シェーンベルクなどの現代曲を重点的に取り上げたり、持論である「拍手禁止計画」[1]の実行をした。そうした新しい試みをしたいという思いは、多くの他の出演者たちにも共通だった。

グールドは、22歳の時、CBCテレビ(カナダ国営放送)「サマー・フェスティヴァル」というシリーズの一環で、テレビの録画とラジオでの生放送をする[2]ために、すでに名のとおったヴァイオリン奏者のアレクサンダー・シュナイダーと女性チェロ奏者ザラ・ネルソヴァとの3人で、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲ニ長調作品70第1「幽霊」とバッハ、ブラームスの室内楽の作品の演奏をした。

シュナイダーは1908年、リトアニア(旧ロシア帝国)にユダヤ系として生まれ、ハンブルグのオーケストラのコンサート・マスターを務めていた。しかし、ナチスの台頭により解雇され、ブダペスト弦楽四重奏団に加入する。たまたま行った1939年のアメリカ公演の際に、移住許可を得ることができアメリカへ移住していた。

3人が共演したこの年は、46歳でプラド音楽祭、マールボロ音楽祭をすでに成功させて、ヴァイオリン奏者としてだけではなく、指揮にも精通して、評価はすでに高かった。

36歳のチェリスト、ザラ・ネルソヴァはウィニペグ生まれで、フルート奏者だった父の影響でチェロを習い始めた。彼女が生まれた1918年は、歌手を別にすると、女性が演奏する楽器は、ピアノやオルガンなどの鍵盤楽器、ハープやリュートなどに限定され、チェロを女性が演奏するのはまだ珍しい時代だった。このため、ネルソヴァは男性の音楽家から「ああ、あの女のくせにチェロを弾く」[3]などと形容されながら、キャリアを切り拓いてきた。この時、彼女はアメリカ・デビューを果たし、前年にアメリカ市民権を得たばかりだった。

リハーサルを行ったのは7月の午前中だったが、カナダといっても、気温がすでに30℃ある暑い日だった。グールドは、分厚いオーバーコートを着て、マフラー、手袋、帽子といういつもの冬のいでたちで現れた。どこへでも持ち運んでいる折りたたみ椅子[4]、薬が入っているブリーフケースなども運んできた。

椅子は、父親が作ったもので、折りたたむことができ、4本の足を約4インチ(約10センチ)切り、その脚先を真鍮の金具でかこみ、ねじで固定し、そこに引き締めねじ(ターンバックル)の受け側を溶接した。その先にねじを取り付け、ねじを回すことで、足の長さを別個に微調整でき、傾きも変えることができた。椅子を開いた時の座面の高さは、床上35.6センチしかなかった。グールドの身長は180センチで、かれはいつもこの椅子にずり落ちそうな角度をつけて座ると、鍵盤と顔をくっつきそうになるほど近づけ、指先より手首が下にきて、ピアノにぶら下がっているように見え、姿勢の悪さで《オランウータン》だと言われることすらあった。

CD集アウトテイクから・・・・最初は椅子にもちろん座面があった。しかし、グールドはこの椅子を生涯どこでも使い続けこのように座面が無くなってしまった。

その日のグールドは、黄色っぽい顔をして、いかにも具合が悪そうに見えた。とくに午前中のはじめのうち、練習ができる状態でないのは明らかだった。

おまけに、季節に合わないちぐはぐな服装だけでなく、髪の毛も乱れ、どこか汚く見える服装で現れたのだった。

しかし、長身で細身のグールドの髪はゆるくウエーブした濃いブロンドで、ほとんど髭のないつるんとした中性的な肌、綺麗な眉、すっとした鼻梁、きりっとした口元は、ハンサムで美男子であることがすぐにわかる。どこか遠くを見るような目は、青年に達したばかりの若々しさと繊細さの陰に、どこかに確固とした意志を秘めていた。

ネルソヴァがグールドに訊ねた。

「あなた、大丈夫なの?」

「ぼくなら大丈夫ですよ。昨日の晩、徹夜でトルストイを読んでいたんです。古典の小説は、手あたり次第、何でも読みたいと思ってるんですよ。大丈夫です。具合はすぐに回復しますから。」

ちょっと時間を取った後、リハーサルを始めることになった。だがグールドは、演奏するときにピアノ譜を見ようとしなかった。

シュナイダーが驚いていった。

「きみは楽譜を見ないのかね」

「ええ、いつもそうです。ぼくは慣れていますから。楽譜はぜんぶ頭に入っていますよ。ヴァイオリンとチェロの楽譜もわかってます。みなさんは、お好きにしてください」

室内楽の演奏では、楽譜を譜面台において演奏するのが一般的だ。弦楽四重奏や、今回の三重奏などもそうだ。ただし、オーケストラと共演する協奏曲は、大曲ということ、ソリストが名人芸を披露する晴れの場と考えられているので、団員が楽譜を見ながら演奏しても、ソリストは暗譜で演奏するのが通例だ。過去には、名人芸を誇る器楽奏者が、すべて暗譜で演奏する時代もあったが、記憶が飛ぶ不安を頭の片隅に抱えて演奏するより、楽譜を前にして演奏した方が安心して、のびのびとした演奏ができると考えられている。

ただ、3人の奏者の足並みがそろわず、グールドが暗譜でピアノを演奏するのに、シュナイダーとネルソヴァがもし楽譜を前にして演奏すれば、弦楽器奏者のふたりが曲を十分に理解していないように観客に映るだろうという懸念はあった。だが、グールドにそういわれると、それ以上楽譜を譜面台におけとは言いにくいのだった。

「きみの意見はわかったよ。まあ、やってみようじゃないか」

実際に、3人で演奏を始めると、すぐにふたりは、グールドの演奏に驚嘆する。正確なリズムと明確なアーティキュレーション[5]、強弱のつけ方、音色や表情の変化のつけ方、どれをとってもすべてが出色のできで、すべてがコントロールされていた。

もちろん室内楽は、アンサンブルである。ひとりでやるのではない。3人でどのような演奏にするのか、同じ認識をもつことが何よりも大切だ。そのためには、それぞれの楽器が、自制心、駆け引き、慎み、一体感といったものを共有しなければならない。

グールドは、楽譜を読んで自分が演奏したい「幽霊」像を持っていた。それは、シュナイダーが描く像と正反対だった。

ベートーヴェンの「幽霊」に対するシュナイダーの考えは、緩急の幅や、重さと軽さの表現上の違いをしっかりと描き出し、チェロ、ヴァイオリン、ピアノの存在感をおのおのの楽器が十分に出し、小気味い良いユーモア感覚から悲痛な表現までを対比させることで、曲の推進力を生むというものだった。

とくにアレグロの第1楽章とプレストの第3楽章では、旋律の強弱を激しく交代させ、対立させることがこの曲をドラマチックにさせ、ラルゴの第2楽章は、「幽霊」らしく不気味な雰囲気を醸し出すべきだと考えていた。楽器の扱いは、アンサンブルとしての調和よりも、むしろ各楽器が激しく、それぞれが主張すべきだと考えていた。

しかし、グールドの解釈は全体的に見ると「幽霊」という標題にこだわらず、3つの楽器が一つになって穏やかで美しい曲にすべきだ、と主張し譲らなかった。

「ここのパッセージは、ダン、ディー、ディー、ダーという感じでやってみよう。」とシュナイダーは、ふたりに伝える。

「でも、あなたのアクセントは間違った場所におかれていますよ。」とグールドは抗議する。

「ぼくは、心で弾くんだ。頭じゃない!」とイラっとなり噛みつく。

「ぼくは、ベートーヴェンが書いたように演奏します。」

「ああ、わすれていたよ。偉大なグールドさんは、ベートーヴェンとすっかり昵懇だってことをね。」

グールドは、楽譜の分析をするためにリハーサルを止めている。シュナイダーは、その必要はないと言う。

「ぼくは、カザルス[6]と共演しているんだぞ!」と、当時のカリスマともいえる指揮者、作曲家でもあるチェリストの名前をだして、グールドを黙らせようとする。

「ぼくは、あなたが誰と共演していようと気にしません。ぼくは、ぼくのやりかたでやりたいんです。」

そのリハーサルでは、グールドはピアノのパートを弾くだけでなく、ヴァイオリン、チェロのパートをピアノで弾き、自分が望む演奏すべきスタイルをふたりに説明しはじめた。シュナイダーは、自分の演奏するヴァイオリンの旋律に、ピアノ奏者に注文をつけられたのは初めての経験だった。経験の浅い、まして他の器楽奏者から演奏を指図されるのは、最善の演奏は何かをもとめる自然な議論のはずだとしても、自尊心を傷つけられるようで不愉快が先んじた。ところが、グールドの説明は、明確で説得力のあるものだった。

残るネルソヴァは、年齢的にもキャリアの点でも、3人の中間的な立場にあり、従来の伝統的な解釈にこだわるシュナイダーに同調せざるを得なかった。しかし、カナダで一番成功している若者がもつ、まったくあたらしい解釈に驚くとともに、彼の音楽への姿勢にもおおきな魅力を感じていた。

「そんな風に極端にヴァイオリン、チェロ、ピアノがそれぞれ目立とうとするのは反対です。楽器を対立させるような演奏にすると、この楽章の構造自体がわからなくなりますよ。3つの楽器を調和させ、このように進行させるべきです。」

さらに、グールドは続けた。

「ここは、この楽章のハイライトに向けて徐々に盛り上がりが分かるように演奏すべきです。また、楽章の終わりは、音の大小に関係なくつねにクライマックスであり、同時に、次の楽章へ向かうことを暗示すべきです。そして、最終楽章のフィナーレへと演奏全体が向かうのです。」

「私は何度もこの曲を演奏しているんだ。この曲は、各楽器が存在感を発揮することで、その競争関係がダイナミズムを生むのだ。いったい、きみは、この曲を何回演奏したことがあるんだ?」

「3度です。」

「私は、この曲を25年間、何百回も演奏しているよ。」

「回数は問題じゃない。量より質です。ぼくは十分に楽譜を読んで考えてきましたから。」

最後は、シュナイダーがネルソヴァに意見を求めた。陰で「女のくせにチェロを弾く」と言われながら、ようやくこの世界で認められるようになってきたネルソヴァは、シュナイダーについた。

このため、グールドはシュナイダーの考えるこれまでどおりの演奏を余儀なくされる。弦楽器奏者と意見が合わなかったグールドだったが、実際に演奏するとグールドの演奏は見事だった。特に正確なリズムが光り、弦楽器をサポートするところでは、抑え目ながらしっかり存在感をだしてサポートし、自分が前に出るところでは、明確な表現でピアノを十分に歌わせた。常に、3人のバランスは非常に揃っていて、崩れることはなかった。

その夜、グールドはネルソヴァを脇へ呼び出し、声をかけた。

「ザーラ、あなたは去年、アメリカの市民権をとられたんですよね。ウィニペグ生まれのあなたでも、アメリカで成功することが大事だと思われたんでしょうね。まえから、カナダを卒業してアメリカへ行こうと思われていたんでしょう。ぼくが演奏活動をどうやっていくのがいいか、教えてもらえませんか。アメリカで成功するには、どうしたらいいでしょう?」

ネルソヴァは、カナダの若くてハンサムな人気ピアニストから真剣な相談をもちかけられ、少しうれしくなってこたえた。

「そうね。カナダ人は、アメリカン・ドリームを信じていないくせに、アメリカ人を羨んでしまうところがあるわよね。だからよく、『カナダでは自国の才能のある人を認めず、もし認めるとしても、時期を逸してからしぶしぶ認めるか、アメリカで成功してからやっと認める』っていうわよね。もちろん、カナダはとても良いところよ。だけど、いつまでもカナダにとどまって、アメリカを見ているだけでは駄目だわ。アメリカでデビューしないことにははじまらないわ。まずは、アラスカへ演奏旅行をしたら、どうかしら。わたしの親しい友人のピアニストで、そういう演奏旅行の企画が組めるのがいるわ。かれに連絡を取ってみるのはどう?」

グールドはこたえた。

「ありがとうございます。そうして教えてもらえると、とてもありがたいです。」

しかし、グールドには、その時すでに契約したマネージャーがいた。アメリカでのデビュー演奏旅行の計画は、グールド、両親たちと、マネージャーにとって、最大の懸案で、実のところ、かれがネルソヴァにそのようなことを相談する必要はまったくなかった。

フェスティヴァル本番の演奏では、シュナイダーは、舞台に上がる前にグールドに暗譜ではなく、楽譜をピアノの前に置いて演奏するように釘をさしていた。

しかし、グールドは楽譜を持って舞台へ登場したものの、楽譜を椅子の上に置き、その上にお尻をおいて演奏した。

そのかれの演奏スタイルは、目をつぶり、自身の恍惚としたエクスタシーの世界に没入しているとしかいいようがなかった。悪い姿勢で、鍵盤をまともに見ることは一度もなく、音楽に合わせて上体をくるくる旋回させながら、のけぞったかと思うと、鍵盤に鼻がつくかというほど近づけ、もし、片方の手だけで弾く時は、もう一方の手で指揮するように腕をふりまわし、唸り声ともハミングともつかない歌をうたいながら演奏するのだった。

観客の側からは、明かに音楽の深奥のなかに吸い込まれたグールドと、姿勢を正し、楽譜をまえに悪戦苦闘する弦楽奏者が対比しているとしか見えなかった。恍惚となっているグールドにカメラがクローズアップする時、シュナイダーは侮辱されていると感じる。しかし、その3人で行った演奏は、聴衆から大喝采を浴びた。

演奏の後、シュナイダーはネルソヴァに言った。

「実に立派な、グールドの演奏だったね。あの変人は将来、まちがいなく大物になるよ。あいつの才能は本物だね。」

つづく


[1] 「拍手禁止計画」 もっとも古い音楽雑誌《ミュージカル・アメリカ》に、1962年2月、グールドは、「拍手喝采おことわり!」という論考を掲載している。グールドは、もともとコンサート嫌いで、聴衆を「自分は安全なところにいながら、闘牛場の闘牛士を見るように、演奏家が失敗するのを待っている」敵だといい、身近な人が観客席にいることさえ苦痛を感じるタイプだった。この論考は、さまざまな角度から拍手喝采について検討しているのだが、同時にユーモアと韜晦に充ちていて、音楽監督を務めたストラトフォード音楽祭を「こじんまりした雰囲気が喝采ぬき演奏会にうってつけ」と書き、同年7月の音楽祭で「拍手禁止計画」を実行した。

[2] CBCテレビ(カナダ国営放送)「サマー・フェスティヴァル」《神秘の探訪 注:519頁》と《”The Genius who doesn’t want to play, Gladys Shenner,1956.4.28 Maclean’s Magazine”と《グレン・グールドの生涯 巻末放送番組一覧 35頁》

[3]女のくせにチェロを弾く 《チャイコフスキー・コンクール 中村紘子》171頁

[4]折りたたみ椅子 《グールドの生涯》91頁、《グールド変奏曲》の訳者あとがきのバートのインタビュー

[5] アーティキュレーション(articulation) 音楽の演奏技法において、音の形を整え、音と音のつながりに様々な強弱や表情をつけることで旋律などを区分すること。

フレーズより短い単位で使われることが多い。強弱法、スラー、スタッカート、レガートなどの記号やそれによる表現のことを指すこともある。アーティキュレーションの付けかたによって音のつながりに異なる意味を与え、異なる表現をすることができる。(Wikipedia)

[6] カザルス パブロ・カザルス(1976-1973) スペイン生まれのチェロ奏者、指揮者、作曲家。チェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において20世紀最大のチェリストとされる。有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていたヨハン・ゼバスティアン・バッハ作『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、広く紹介したことが挙げられる。(Wikipedia)

第9章 グールド 学校もレッスンもやめてコテージにこもる

(コテージのあるオンタリオ湖畔)

● 自分に足りないもの

グールドは、18歳の頃には教会へ行かなくなり、両親を失望させた。次いで、マルヴァーン高校も中退した。両親は、高校だけは卒業するよう強く言ったが、学校に意義を見出せず無頓着になっていたグールドは、卒業せず進学もしなかった。

「グレン、あなたどうして高校を卒業しないの。卒業しないと大学へ行けないのよ。みっともないことをしないでちょうだい。よくお考えなさい。」

「あんな学校の授業なんて何の意味もないよ。本を読んだ方がよっぽど、よく勉強ができる。あんなの時間の無駄だよ。」

「いい加減にしろ。お前に、どれだけ金をかけてきたのかわかっているのか。プロのピアノ演奏家より商売の方が儲かるんだぞ。立派に大学へ行って、私の事業もやって、ピアノも続けたらどうなんだ。」

「馬鹿なことを言わないで。あんな意味のない場所へは行かないよ。それに動物を殺して儲ける毛皮商なんかになるわけないじゃないか。ぼくには音楽家になる、作曲家になる目標があるんだ。」

1952年、グールドは、19歳でゲレーロのレッスンも止めた。ゲレーロから学ぶことは何もないと感じたからだ。これまでゲレーロのところで《レッスンそこのけで、音楽の議論ばかりをしていた》というのは、グールドの脚色が入った明らかな誇張だったが、ゲレーロを「感情の人」、自分を「理性の人」と決めつけたかったグールドとゲレーロの間に大きな溝が広がっていた。

ただゲレーロ自身が「[1]グールドには、もう教えることは何もない。」と認めていたのは確かだった。

ピアノを弾く姿勢も、フィンガータッピングも、曲の解釈や学問としての音楽の研究成果や音楽史についても、グールドが教わったのはすべてゲレーロからであり、あきらかに大きな影響を受けていた。しかし、グールドは都合よくこれらのことはすべて自分で見つけたと思っていた。そうしたことで、この頃にはグールドは、ゲレーロと無意識のうちに意見を対立させるまでになった。別にゲレーロは、グールドがいうような「感情の人」ではなかった。しかし、グールドは恩師を踏み越えていく必要性を無意識のうちに感じていて、師の恩をどこかへ置き去ることにした。

グールドが9年間続けてきたゲレーロのレッスンを止めると言ったときにも、両親は猛反対した。従姉のジェシー・グレイグが横で見ていた。

「もう、ぼくはゲレーロのレッスンは止めるよ。もう習うことなんか前からないんだ。レッスンでは議論ばかりしていて、ぼくと意見がまったく合わないんだ。」

「何をおっしゃるの、グレン。ゲレーロ先生の意見を聞きなさい。あなたはまだまだ未熟でしょ。」

「学校の次に今度は、ゲレーロ先生か。そんなことでピアニストとして一人立ちできるとでも思ってるのか。」

3人の議論は、ずっと堂々巡りをした。グールドは、最後に本音をこう言った。

「僕に足りないものを考えてみたんだ。もう僕は、音楽のことなら何でもできる。唯一足りないのは、強い自我だけだ。芸術家がもつべき大切な素質だよ。僕にないのは自分自身なんだよ。[2]

「馬鹿なことを言うのは、いい加減になさい。」

「いい加減にしろ。自分自身をつくるのと、レッスンをやめるのは関係ないだろう。」

なかなか両親も譲らなかった。めったに泣くということのなかったグールドだが、目に一杯涙をためながら訴える様子を従姉のジェシーが横で見ていた。両親の不満は消えなかったが、学校もゲレーロのレッスンも止めた。

グールドは、恩師ゲレーロを認めず「ピアノは独学だ。」とまで言っていた。しかし、グールドの演奏の本質的な部分は、完全にゲレーロから受け継いだものばかりだった。

例えば、極端に低い位置でピアノを弾く姿勢、フィンガー・タッピングという平たく伸ばした指で鍵盤を押すのではなく引っ張るような弾き方、演奏技術の困難さにより演奏表現を妥協するのではない、楽譜をすべて暗譜した上で、作りたい曲の構想を表現することなどはゲレーロの考えだった。

「グールドは、ゲレーロの息子がわりだった。[3]」と言った生徒がいたが、この生徒はゲレーロからやはり「一日中ピアノばかり弾いていてはだめだ[4]」と言われていた。

実際にゲレーロは、ピアノの演奏だけをする演奏家ではなかった。美術に詳しく、絵画通であり自分で絵筆をとった。文学や哲学に造詣が深く、レッスンでコント[5]、フッサール[6]、サルトル[7]といった時代の最先端を行くむずかしい哲学をとりあげて、生徒と人生についてどう取り組むべきかということまで話題にとりあげた。彼は、エスペラント語を含めて数か国語を話すことができた。同時に、美食家でワインが大好きだった。驚くほど教養の高い、礼儀正しい紳士であり、グールドがなりたいと思う万能人間(ルネサンスマン)そのもだった。

ゲレーロは、ピアノの演奏にも、トータルなその人の人間性や人間力があらわれると思っていた。

そしてなにより離婚が許されないキリスト教徒でありながら、20歳年下の教え子と堂々と不倫し同棲していた。音楽界だけではなく、芸術の分野全般で不倫や同性愛は珍しくなかったが、ゲレーロとマートルが結婚したのは1948年で、知り合ってから17年という長い年月が必要だった。[8]

マートル・ローズ

ほかにもゲレーロの人物をあらわす逸話はたくさんある。

彼が好んで演奏する場所は、こじんまりとした美術館、小ホールや個人宅で、《通》の人たちを相手に演奏することを好んだ。そうした彼は、ツアーで世界各地を巡業しながら回るピアニストの生活について、「あんなのは人生じゃないよ。[9]」と言っていた。

「『最上の習得方法は楽譜の読み込みに基づく自己の判断と熟考だ』とグールドは言い、さらにまた『最上の教師とは、生徒のじゃまをしない人であり、教えるといっても生徒にせいぜい質問するくらいの人だ』とも言っていた。・・・ゲレーロは控えめな性分で、教師としての功績を認められるかどうかは気にもとめていなかった。・・・ゲレーロは音楽家としての功績が称賛されるのを望まなかったし、記録に残ることさえ好まなかった。[10]

このような考えのゲレーロは、グールドを教え、カナダのスターに上り詰めたことについて、教え子でのちに作曲家になった生徒[11]に「わたしには語るべきことは何もない。[12]」と言っている。

ゲレーロは、バッチェンとルームシェアをしていた、歌唱指導者になったスチュワート・ハミルトンに「グレンはだれに教えられようと、自分のやりかたを見つけただろう。[13]」と言っている。

グールドのゲレーロに対する恩を忘れた態度に、ゲレーロが傷ついたという噂も流れたことがある。しかし、かつてマートルに言ったように、ゲレーロは「もしグレンが教師としてのわたしから何も学ばなかったと考えているのなら、これ以上の賛辞はない。」というのだった。[14]

つまるところ、グールドはあらゆるゲレーロの考えを自分のものにしたのだが、それを都合よく忘れ、ゲレーロはそれを許す心のひろい人物だった。

しかし、ゲレーロの恩を都合よく忘れたグールドだったが、二人の意見がどこまでも違う点もあった。

「ゲレーロは、グールドが演奏するときの独特の癖や姿勢を注意し、スコアに書かれた作曲家の指示を守るように言う。しかし、グールドは師の主張に反発し、独特の癖や姿勢を直そうとしなかったし、スコアを守るという一線すら超え、独自の道を歩もうとした。[15]こうしたことから、二人の間の音楽的衝突は避けられないものになっていった。ゲレーロはときにグールドの考えに狼狽し、ますます変人じみていく振舞を不愉快に思うのだった。」[16]

こうしてグールドはゲレーロのもとを去るが、自宅を出て独立することはせずシムコー湖のコテージを本拠地にして、両親がコテージを使うときには実家へ帰るという生活をはじめた。

コテージで、グールドは思う存分ピアノの練習に没頭し、本を読み漁り、念願の作曲を本格的にはじめた。両親や人の目を気にする必要はなく、恋人とガールフレンドたちとも一緒に時間を過ごすようになった。

グールドは両親と衝突したものの両親は折れ、自我を作り世に出るための2年間の準備期間に入った。

[1] ゲレーロは、生徒の一人シルヴィア・ハンターにこう言っていた。

別の場面で、彼女は、グールドが1953年12月に同年夏に亡くなったシェーンベルクに弔意を表し、ピアノ協奏曲の緻密で長い講演をした際、「聴衆は何を言っているのか一言も分からなかったと思う。」と言っていた。「神秘の探訪 ケヴィン・バザーナ」 注釈

[2] 「グレン・グールド書簡集」(ジョン・PL・ロバーツ ギレーヌ・ゲルタン 宮澤淳一訳 みすず書房)P33 「6」 私が19歳のときからずっと独学でいることに関してですが、これはほかの人がまねてよい青写真だとは非常に言いにくいものです。・・・私はアルベルト・ゲレーロのもとで学びました。彼をとても敬愛していましたが、ある時点で私はすべてを身につけました。ただし、しっかりとした自我だけは別です。自我こそは、結局、芸術家の素養の最も大切な部分なのです。思うに、たとえ何かのときに間違いをしても、その間違いをしたことは、ある意味で絶対的に正しいのです。これこそ私が独学中に経験し、非常にプラスになったことです。」

[3] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ P84 生徒の一人のマーガレット・プリヴィテッロ

[4] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ P70 生徒の一人のマーガレット・プリヴィテッロ

[5] コント (1798-1857)フランスの哲学者。実証主義を完成させ、晩年は個人は人類から抽象されたものであり、人類こそ最高の実在であるとし、人類への愛と尊敬を説く人類教をとなえた。

[6] フッサール (1859-1938)ユダヤ系オーストリア生まれ。現象学を提唱し、いかなる前提や先入観、形而上学的独断にも囚われずに、現象そのものを把握して記述する方法を求めた

[7] サルトル (1905-1980)フランスの哲学者。実存主義を唱え、「実存は本質に先立つ」「人間は自由という刑に処せられている」などと論じた。

[8] Beckwith, John (2006). In Search of Alberto Guerrero.

[9] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ P69 生徒のレイ・ダットリーに言った。

[10] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP83

[11] 生徒 音楽院でゲレーロに習い、作曲家になったジョン・ベックウィズである。

[12] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP84

[13] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP85

[14] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP84

[15] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 第1章P83

[16] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 第2章P143

● 自分にありすぎるもの

グールドは、母フローラの極度の心配性の影響をまともに受けて育った。音楽の嗜好については、母が熱烈に愛するオペラ歌手のカルーソーを馬鹿にして、軽蔑した違う意見をいうグールドだったが、健康に関しては母の意見を否定することなく、まともにそのままを引き継いだ。フローラは、病原体やばい菌が人間を病気へと陥れると恐れていた。それは、グールドが生まれる間に流行ったスペイン風邪や子供たちの運動能力を奪ったポリオの影響があった。しかし、フローラの心配は強すぎて尋常の域を超えていた。人がたくさん集まる催しや展覧会に行ってはいけないと、グールドを何度もきつく戒めた。病気を心配するあまり、グールドが夏でも厚着をするようになったのは、フローラの恐怖が原因だ。グールドは、フローラの恐怖をそのまま自分の恐怖にした。人込みを避けたし、電話口で話し相手がくしゃみをするだけで怯えて電話を切るようになった。

そのようなグールドだったが、10歳の頃に、グールドがコテージのボートから転落し激しく背中を打つという事件があった。

グールド一家は、夏の間、シムコー湖の湖畔のコテージで過ごしていた。父バートは、グールドがそこにあるボートを引き上げやすいように、波打ち際とコテージの間にレールをひいていた。グールドは、友人と乗ったボートをレールの上に滑らせながら湖水へと出そうとしていた。ところが、彼は船尾で足を踏み外し、60センチほどの高さから岩場へと垂直に落ち背中を強打した。

グールドは大変痛がった。そこで、バートは考えられるあらゆる専門家に見せることを2,3年という長い期間ずっとした。グールドは、普通の医者にはじまり、整骨医、カイロプラクター、マッサージ師とX線医へと通うようになった。カイロプラクターによる施術が効果があると感じたグールドは、近所のアーサー・ベネット療法士、さらにはこの療法士が引退した後は、1957年から1977年まで20年間、ハーバート・ヴェア療法士の治療をずっと受けていた。また、オランダ人マッサージ師、コーネリアス・ディースが、長年グールドのマッサージに当たって、コンサート・ツアーに同行させることもあった。

カイロプラクターのヴェア療法士は、「慢性的な姿勢の悪さが原因で、ゲレーロのもとで身につけた屈みこむような演奏姿勢が、悪化させている。」という診断をしていた。しかし、グールドの首、方、腕と手の痛みは生涯続き、とくに左の腕と手の症状は消えなかった。

しかし、バートは「息子がほんとうの意味で病気だった日は、生涯1日としてありませんでした。」という。

少年時代のグールドは、父母と舞台に立ちピアノやオルガンの演奏をして聴衆から絶賛を浴びると、すなおに喜んでいた。しかし、13歳ころからカナダ国内では最も評価の高いトロント交響楽団とも協演し始め、リサイタルも始めるようになった。グールドはこの年齢になると、少年時代の「無責任で気楽な」気分でピアノを弾けなくなっていく。それは、聴衆の期待に応える責任感を自覚するようになったからだ。一方で、人前で恥をかく恐怖を克服するための、自分との戦いをする必要もあった。それは、すべての演奏家が直面する「あがり症」の問題だった。

だが、グールドは楽々とあらゆることをこなし自信満々であることをモットーにしていたから、「あがり症」の存在を認めようとしなかった。自信満々なだけではなく完璧性でもあった彼は、ステージでのわずかなミスや思いどおりの表現が出来ないことが許せなかった。グールドの演奏後、観客がスタンディングオベーションをして大喝采をおくっているときでも、「ちいさなミスをした。もう一度、弾き直したい。」と、忸怩たる思いで立ち尽くしていた。

そのような彼は、「あがり症」の存在を認めるのではなく、「コンサートは死んだ。」、「群衆としての観客は敵だ。」とコンサートの価値を否定するような発言をする。これはあきらかに問題のすり替えだったが、彼にしてみれば当然だった。彼は、「コンサートは死んだ。」という自説を時間とともに肉付けをして強化する。

そのような発言をしながらも、グールドは、コンサートが音楽家として名前を売り地位を確立するまでは必要だと考えていた。実際に彼が、周囲の反対を押し切って、コンサートに出なくなるまでには、10年以上の年月が必要だった。

自分が信じる音楽の演奏と、現実のさまざまなギャップ、例えば、初めて弾くピアノが自分にあわずもっと軽いアクションのピアノで弾きたい、コンサートホールの空調が自分に合っていない、評論家たちが思うように高い評価をくれない、観客たちがまるで闘牛でも見るようにピアニストが失敗をするのを待っている、ささいなミスをするとかして、自分のコントロールできないことをすべてをなくせない。そうしたコントロールできないことがあると、グールドは大きなストレスを感じ不安がおこるのだった。

不安はコンサートだけでなく、日常生活にもあらわれた。もともと、フローラから「あれを食べなさい、これを食べなさい」とガミガミいわれてきたグールドは、摂食障害を起こしていた。まともな食事を日に1度しか食べないグールドだったが、ガールフレンドたちと食事に行っても、スパゲッティしか食べられず、食べても吐くということを繰り返していた。ピアノを弾くときには、アロールート・ビスケット[1]とポーランド・ウォーター[2]だけを取り、何も食べない方が頭が冴えて都合が良かった。

睡眠障害も起こっていた。グールドがシムコー湖のコテージで暮らすようになると、生活のリズムは狂い昼夜が逆転した。長い時間熟睡することが出来ず、グールドは睡眠薬を飲み始めた。グールドが飲んだのは、バルビツレート[3]系のネンブタール[4]やルミナル[5]だけでなく、プラシディル[6]とダルメーン[7]も飲んでいた。こうした薬は耐性があり、効きが悪くなるので分量が増えがちになる。現在では作用が強力で依存性が強いため、使用に規制が行われているものばかりだ。

自信満々で傲慢なほどの態度のグールドには、対人恐怖症もあった。大勢の中にいると、場をコントロールできないため居心地が悪くなる。人と接するには、コントロールが効きやすい二人が良かった。さらにもっと都合が良いのは、電話だった。相手の目を見ないで話をするグールドにとって、電話はもっとも好きな手段だった。

そうした不安を起こしやすい複数の人間が集った場面を乗り切るために、グールドはこのころから精神安定剤や抗不安薬を飲むようになっていた。グールドは、長年ジアゼパム[8]系の精神安定剤ヴァリウム[9]を飲んでいたが、ステラジン[10]、リブラックス[11]も飲んでいる。この時期の向精神薬は、第1世代と言われ、中毒性などの副作用が強いのは睡眠薬と同じだった。

彼には内科的な不調として、睡眠とストレスおよび不安解消にこのような向精神薬を処方されていたが、本来の病気と言えるものは尿酸値がたかいことと、高血圧だけだった。したがって、筋骨の痛み、不眠症、尿酸値の数値、高血圧症については、医師の治療を受けていた。

しかし、もっと大きな問題は、精神的にさらに問題があったことだ。グールドの《病気への恐怖》が和らぐことはなかった。彼は《心気症》であり、《心気症》は年とともに悪化の一途をたどった。

彼は、平行して複数の医師から診断を受け、一人のかかりつけ医だけの診断で処方箋を書いてもらうのではなかった。彼は、他の医師の診察を受けていることを隠し、大量の処方薬を手に入れた。処方薬の一日あたりの許容量を無視し、ストレスがかかるたびにポンポンと精神安定剤や抗不安薬といった向精神薬を口に放り込んでいた。

多くの身近な人たちが、そうした処方薬の飲みすぎは体に良くない、副作用があるぞと忠告したが、グールドは「非科学的だ。」とこうした忠告をはねつけた。《グールドは、長年不健康な生活をし、ほとんど運動をせず、新鮮な空気を吸わず、太陽を避け、薬を飲みすぎ、自宅でも仕事場でも肉体的、心理的なストレスを始終感じていた》のに、《自分の不調の原因が不養生にあるとは考えず、自分は『自然児』[12]だ》と言って、症状にのみ目を向け薬物に頼って症状を緩和しようとした。

このようなグールドの処方薬への依存は、あきらかに《異常》なレベルだった。

記者に「トランク一杯の薬を持ち歩いているそうですね。」と聞かれると「トランク一杯は大げさだよ。アタッシュケース一杯だよ。」とユーモアを交えながら答えたりしていたが、あまりに大量の薬を所持しているために、カナダとアメリカ国境の税関で拘束されたこともある。

また、新しい薬が発売されるとその効き目に異常な興味を持ちその効果を知りたがった。近くに体調の悪いガールフレンドがいれば、アタッシュケースの薬箱を開いて見せ、「どの薬を飲む?」と聞くグールドだった。

こうした普通ではないグールドの振舞を見た精神科医の友人は、グールドの不安は、躁うつ病や分裂病などではないかと疑い、診断をつけるための精神分析によるカウンセリングを勧めた。しかし、グールドは慎重で、この戦後間もないこの時期に精神科医にかかっていることは、現在とは違い《気違い》扱いされる可能性があった。慎重なグールドが、女性関係を明らかにしなかったのと同様、精神病としてどのような診断が下されるのか、彼は注意を払って診断を受けようとしなかった。

そうした背景には、グールドの読書があった。グールドは興味をもったあらゆる分野の本を驚くべきスピードで驚くほど大量に読み、知識を生兵法とはいえ、専門家並みに蓄積するのだった。

とりわけグールドがシムコー湖のコテージで一番熱心に読んだのは、医学書であり、薬に関する本だった。中でも、当時急速に進歩した精神に作用する向精神薬、抗不安薬、安定剤などについて最先端の研究書を読み漁るのだった。

医学、薬学の知識に加え、彼がこの時期に熱中したのは、[13]現代文学、神学に加え、カナダの政治と愛国心、女性のオーガズムの原理、株式市場(とくにカナダ鉱山関係)、映画、音楽産業、超感覚的知覚(超常現象)など膨大な本を読むようになった。日本文学では、後に熱中する夏目漱石を別にすると、[14]三島由紀夫や安倍公房だった。当時に流行していた本ももちろん読んでいた。


[1] アロール・ビスケット カナダで売られている赤ちゃん用のビスケット

[2] ポーランド・ウォーター ペットボトル入りミネラルウォーター

[3] バルビツレート 鎮静薬、静脈麻酔薬、抗てんかん薬などとして中枢神経系抑制作用を持つ向精神薬の一群。乱用薬物としての危険性を持つとされる。

[4] ネンブタール《薬学》〔バルビツール系の催眠薬。多用により薬剤への耐性が生じ、次第に効かなくなる。ために服用量を増やして行きがちになる。服用を中止すると超興奮状態になり、時には死に到る。(英辞郎から)

[5] ルミナル 代表的な催眠薬。強力で持続力があり、鎮痙剤(ちんけいざい)として多用される。(コトバンクから)

[6] プラシデイル 弱い鎮静と催眠効果のある薬(WEBLIOから)

[7] ダルメーン 日本では、フルラゼパムと呼ばれるベンゾジアゼピン系の長時間作用型の睡眠導入剤の一種。(Wikipediaから)

[8]ジアゼパム(英語: Diazepam)は、主に抗不安薬、抗痙攣薬、催眠鎮静薬として用いられる、ベンゾジアゼピン系の化合物である。(Wikipediaから)

[9] ヴァリウム ジアゼパムと同じ。商品名。

[10] ステラジン 統合失調症などの不安神経症や精神病性障害の治療に使用されるフェノチアジンと呼ばれる一群の抗精神病薬。

[11] リブラックス 神経系を遅くする薬です。(Libraxカプセル)は抗コリン作用薬です。

[12] 自然児 すみません、「調査中」です。

[13] 「グレングールド変奏曲:(木村博江訳)東京創元社」 《エレクトロニック時代のバッハ》リチャード・コステラネッツ

[14] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 人間国宝147頁


● きしみ始めるバッチェンとの交際

グールドは、シムコー湖のコテージに籠もる生活を始めた。そして、バッチェンをしょっちゅうそこへ連れて行った。

グールドは二人になると孤独な一面を捨て、暇があればピアノの下でセックスをした。読書家のグールドは、女性のエクスタシーへのプロセスは本を読んで知っていたし、彼女は彼より7歳年上だったので、彼は《グッド・ラヴァー(Good lover)》[1]になった。

セックスが終わると、バッチェンとピアノの演奏だけでなく、ロシアやドイツの文学について語りあった。グールドは女性に対して生涯、非常に献身的だった。

グールドのレコードを40枚以上、約15年間にわたって一緒に作ったコロンビア・レコードのプロデュサーのアンドルー・カズディン[2]は「グレン・グールド・アットワーク[3]」という本の中で、グールドの女性に対する態度をこう書いている。

プロデューサーのアンドルー・カズディン

「グールドには、正常な発達がどこかで阻害されたのではあるまいかと思われるようなところが幾つかあった。それはいろいろな形で表に出てくるのだが、特に感情的な振舞いとか情緒的な面でその傾向が顕著だった。世間一般の常識からすると、確かにグールドの女性に対する態度は変わっていた。それはわたしにもはっきり感じられた。彼は女性を、あたかも思春期前の少年のような眼差しで見ていたのである。・・・・」

彼は一家のモーター・ボートのアルバン・B号とアーノルド・S号で、シムコー湖へ出るのが好きだった。夏には、釣りという行為に反対する彼は、そのボートでS字カーブを切り大きな波をたてて釣り人を追い払ったり、架空の指揮に夢中になって両手を離したまま船を走らせた。冬には車にバッチェンを乗せ大胆に、凍った湖面を走らせた。

一方で、大きな自尊心と釣り合う自虐的なユーモアを示そうと、大きな耳を揺らして見せたり、父親のアライグマのコートを着て、派手なものまね芸を見せたりした。グールドの大きな耳は、アメリカデビューをしたときには、セクシーだと評判になった。

しかしながら、バッチェンは彼を「人となかなか気楽にコミュニケーションを取ろうとしなかった。」と言う。

バッチェンは、グールドとのプライベートな付き合いを今も具体的に語りたがらない。それはグールドが、ガールフレンドに対し二人の付き合いを秘密にしたがっていたから、彼が死んだ今でもそれを守っているからだ。このことは、他のガールフレンドにも言えた。他のガールフレンドたちも、グールドが望まなかったことは、彼が死んでも守りつづけたいと考えていた。

グールドは、バッチェンを自分のガールフレンドとして実家に連れて行き、両親に紹介した。バッチェンは、これは答えても差し支えないと判断したのだろう。実家へ行ったときの様子をインタビューで次のように答えている。

「私は彼の両親ととても親しくなりました。いい人たちでした、社会的な意識が高く、正しいことをしようと意識が向いていました。グレンは、母親を慕っていましたが、少し恐れていたような気がします。グールド夫人は、私が使ったことのないスチームアイロンを買ってくれたり、お父さんが毛皮のコートをくれたのですが、グレンは動物好きで、動物愛護者でもあったので、その事実を嫌っていました。私を暖かくしてくれたそのコートが大好きでした。両親はとても私に親切にしてくれました。私たちが結婚すると思っていたのです。[4]

バッチェンは、グールドにピアノの演奏について指導をしてもらっていたし、バッハの解釈などは二人で考えてきた。もちろん、バッチェンは最大限の努力もしてきた。だが、彼女の技量はなかなか水準を超えなかった。

27歳のバッチェンは、1953年2月のキワニス音楽祭のシニアコンペティションの「現代部門」に参加した。ゆっくりとメランコリックで時に暗い、彼女自身が「素晴らしく陰鬱な世紀末の作品」と評したベルクのピアノ・ソナタ第1番を弾いた。この曲は、グールドのもっとも好きな曲の一つと言ってもよい曲だった。20歳のグールド先生は、バッチェンにこの曲の自分の解釈を伝え、彼女はずっと練習してきた。

本番のコンペティションの演奏で、バッチェンはうまく弾けなかったと感じながら舞台を降りた。そして、彼女はこう言った。

「私は壇上から降りて彼に言ったの。『ええ、これで美しい友情もお終いね。』ところが彼は、『いや、そんなことはない。きみは上手だった。』」[5]

実際に、審判員はグールドに賛同するかのように彼女に1等賞を与えた。

この時もそうだったが、バッチェンは、自分が試されているという感覚が抜けず、あがり症に悩まされていた。人前で弾くときに思いどおりに弾けないかった。

グールドもおなじだった。「あがり症」を克服する術につねに悩んでいたが、その悩みを誰にも打ち明けることなく、彼は、「コンサートは死んだ。」「コンサートは過去の遺物だ。」と言い、やがてコンサートから逃避する道を選んだ。

この頃、バッチェンは、生計を立てるために仕事をかけ持っていた。昼は、広告を製作する映像会社で、フィルムをファイリングする司書の仕事をし、夜は彼女のアパートのスタジオで、子供たちにピアノ講師として教えていた。

しかし、グールドは、唯一の大作、弦楽四重奏曲ヘ短調作品1の作曲に取り掛かっていて、深夜遅い時間にお構いなく、バッチェンに電話で作曲した数小節を説明するのだった。

グールドは、昼夜逆転した生活を送っていたから昼間に眠れば済んだ。しかし、バッチェンが深夜2時や3時までの電話に付き合うのは、翌日の仕事があるので、負担で窒息しそうだった。

バッチェンは、グールドがニューヨーク・デビューをするしばらく前、アスキス46番地からグレンロードという場所へ引っ越しをした。アスキスのアパートは、ハミルトンと共同で借りていたが、二人で月に200ドル(2023年現在価値PER Capita GDP換算6,652ドル、日本円で約93万円)かかって大金だった。それでバッチェンは昼には映像会社のフィルムライブラリアン(司書)の仕事と、夜にはピアノ講師をかけもちする生活をしていた。

そこにはグランド・ピアノを置ける広さの部屋があったので、チッカリングのグランド・ピアノを知人からレンタルで置いていた。チッカリングというのは、アメリカのピアノメーカーの名前で、そのピアノはハープシコードのような軽い音色がして、なによりタッチが軽く即応性が良かった。ピアノを打鍵してすぐに音がでる反応の早いピアノが好きだったグールドは、これに夢中になった。

やがて、バッチェンはさらに生活費に困るようになる。とうとう、このレンタル契約を解約せざるを得なくなるのだが、バッチェンはその費用をグールドが肩代わりしてくれることを願っていた。

ところが、グールドはそうはせず、1957年にそのピアノを555ドル(2023年現在価値換算16,038ドル、日本円で約225万円)で自分で買い取って、シムコー湖のコテージへ運び、自分のものにしてしまった。[6]このことをバッチェンはインタビューをされた今でもずっと恨んでいる。

ある晩、グールドとバッチェンが話をしていた時、海に浮かぶ氷の上に二人が取り残されたらどうするかと言う話になった。

「いいかい、バッチェン。二人が流氷の上で取り残されるんだ。氷は小さくて、二人がずっとは乗ってられないんだ。そんな時にどうする?」

バッチェンは少し困って、

「二人でじっとしてるわ。」と言った。

「ええっ、そうなの。ぼくが生き残れるように海へ飛び込まないの?!」[7]とグールドは言った。

グールドは、バッチェンが身を挺して自分を助けてくれると当然のように期待していて、そうでないことが不思議で理解できなかった。

この会話で、グールドの気持ちにはさすがについていけないとバッチェンは思い始めた。

グールドは、ニューヨーク・デビューのあと、バッチェンにプロポーズしたと、前に書いた。

彼は、プロポーズの言葉に”We should get married.”(結婚しようよ。)と言ったが、普通はこんな命令口調や上から目線で言わないだろう。「幸せにするから結婚してください。」とか、「ずっと一緒に暮らしていこう。」とかいうのが一般的だろう。

バッチェンは、世界一有名な若いピアニスト夫人になるか、ずいぶん長い間考えた。しかし、彼にはあまりに社会性がない、結婚して一緒に暮らすのはあまりに割が合わないと結論を出した。

結局、バッチェンは仕事で忙しく、グールドの最大のイベントとでもいうべきアメリカ・デビューを聴きに行けなかった。


[1] セックスが上手 英語で”Good lover”という。

[2] アンドルー・カズディン 本の英語タイトルは、「Glenn Gould at Work-Creative Lying」で、カズディンも書いているが、”Creative Lying”は『独創的な嘘』という意味にとれる。

[3] 「グレン・グールド・アットワーク 創造の内幕」アンドルー・カズディン 石井晋訳 音楽之友社 118P

[4] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter3, page39

[5] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter3, page38

[6] チッカリングのピアノ ”The secret life of Glenn Gould” Chaptet5 P60

[7] 流氷の話 ”The secret life of Glenn Gould” Chaptet4 P52

● 他のガールフレンドたち

グールドはバッチェンと交際し、シムコー湖のコテージで長い時間を過ごしていたが、同じ時期に両親に紹介したり、シムコー湖のコテージへ連れて行く仲の良い二人のガールフレンドがいた。

一人はカナダの公共放送局CBCでプロデューサーとして働いていたエリザベス・フォックスであり、もう一人はグールドが14歳の時から、3歳年上でピアニストを目指していたアンジェラ・アディソンだった。

陽気なブロンドのエリザベス・フォックスは、1952年から1953年(グールド20歳から21歳)にかけて、グールドと一緒に音楽を聴いたり、当時の流行りだったTSエリオット[1]、クリストファーフライ[2]などについて話していた。フォックスが働いていたCBCは、日本のNHKにあたり、放送の分野で圧倒的な存在である。ラジオの時代は1920年代から始まり、流れる音楽にはクラシック音楽が多く含まれていた。グールドも熱心にラジオから流れるクラシック音楽を聴いていた。CBCは音楽家たちが刺激を受ける大きな拠りどころであり、生活の糧を得る場でもあった。グールドは、6歳の時に地元のラジオ局に出たし、1945年3月キワニス音楽祭の入賞者たちと早くからラジオに出演し10ドルの出演料をもらった。1950年から1955年までグールドは、CBCラジオに30回出演したが、その最初にCBCへ出演した18歳の時に、「マイクとの情事がはじまった。」[3]と語っている。

国内では早くからスターだったグールドは、CBCに何度も出演する中でフォックスと知り合った。

その時のグールドは、髭をそる必要のないほどつるんとした肌をしており、彼女は、その言葉を知らなかったが、アンドロジナス(両性具有)だと思っていた。

フォックスは、彼の家へも行き、両親は思いやりがあり親切だとおもうものの、グールド一家を全米で260万部売れ、映画にもなった「スチュアートの大ぼうけん」という童話を引き合いに出し、次のように見ていた。

スチュアートの大ぼうけん

「彼の家を訪ねたら、そこはまさしく実に心暖まる、快適な場所だと分かるでしょう。わたしはよく食べましたし、歓待されたのを覚えています。室内には明かりがたくさんついていました。両親はどちらもいい人でした。あの人たちが他の人にどのように接していたのかは知りませんが、わたしが遊びに行くと、とても親切にしてくれました。しかしいつも - やはり息子に対して敬意を払っているようなところがありました。あとになって、E・B・ホワイトの『スチュアートの大ぼうけん』[4]ことを考えました。鼠を子供のように飼う夫婦の話です。鼠は人間のように立派に服を着こんでいますがすることといえば、下水管を上がったり下がったり、それだけ。そう、誰でもグールドの家にいたら、あの夫婦は自分たちには属さない何かを生み出したのだと思ったでしょう。一応は人間に似せて服を着せられていて、ピアノを弾くけれど、うーん、なんと言ったらよいのかしら - 両親は常に畏怖の念をもって接していました。[5]

もう一人のアンジェラ・アディソンは、グールドより3歳年上で同じくゲレーロの生徒だった。グールドとアディソンは、ゲレーロのレッスンが終わった後、交代でピアノを弾きながら一緒に時間を過ごした。

グールドはさまざまな曲を演奏し、その解釈をアディソンに納得させようとし、彼女の演奏を批評した。

グールドが18~19歳になると車を運転するようになり、彼女を乗せてドライブし、後には人前で食事をすると緊張して胃痛や下痢などを起こす摂食障害を起こすようになっていたが、この時期はしょっちゅう二人でスパゲッティを食べた後、シムコー湖のコテージへ行っていた。

コテージは、カエデの木、アライグマや海岸に打ち寄せる波に安らぎを感じ、頭の中の思考パターンとメロディーを乱す唯一のものは、松林の突然の風の音や遠くのジープだけで、何々しろという人がいなかった。

少なくとも母親がトロントに戻っているときは、ファンから離れられるし誰にも触る必要がない。

彼は、「ピアノ・クォータリー」1977冬・1978夏号にこう書いている。

「わたしが思うに芸術家は、外界から入る知識でいつでも編集でき、環境をコントロールできる孤独な時に、一番良い仕事ができる。グレン・グールドは言う、『ぼくは、空き時間にピアノを弾くカナダ人の著述家で、ブロードキャスターだ』が、芸術家の理想とその実際が形づくる不可分な組み合わせ[6]を妨害することは許されない。」

アディソンはグールドをこう見ていた。

「人がいないところでは、グレンは複雑で多面的で、そして可能な限り奔放な自分自身でいることができたのです。」

彼は一人になると珍しく運動をしたし、ボートにも乗り、森で子供たちと犬と一緒にワルツを踊った。

アディソンは、グールドのコンサートへも何度か足を運んだが、彼はコンサートがいかに嫌かを、彼女に理解させようとした。普通、有名な演奏家は、観客の中に完璧な聴衆を求めるが、グールドは聴衆に興味はなかった。観客のことなど本当はどうでもよかった。それは、自分のコントロールが効かなくなることを極度に恐れていたからだ。彼には周囲を常にコントロールしている状態が必要だった。

グールドの死後、アディソンは彼への賛辞の中でこう書いている。

「天才との友情は決して簡単なものではありません。それはおそらく、最も人間関係の中で最も脆いものです。私はグレン・グールドというとらえどころがなく、謎めいていて、私的で孤独な友人でした。私はまた、忠実で、寛大で、礼儀正しく、楽しく、そしてもちろん第一級の輝きを持つ友人を持っていたのです。」

アディソンは、グールドとベッドインしたかという問いに、次のように答えている。

「私たちの間には性的な雰囲気はありませんでした。彼は私を友人、うるさく言わない友人として見ていました。私は、グレンにどんなわずかでも脅かすようなことは言わなかった。彼は、女性との関係が濃厚になると、感情的な要求やコミットメントを期待され、全く気がホッとできなかった。彼はそれをとても恐れていました。間違いなくある女性たちとの間に、コントロールの問題があったのです。」

「グールドは親密な関係には口が堅く、同じことを彼女らに期待していました。もしあなたが、彼の真の友人であれば、互いを完全に信頼しなければならない。その信頼を打ち砕くことはできないのです。」[7]

つづく


[1] Thomas Stearns Eliot、1888 – 1965アメリカ生まれ、イギリスの詩人・文芸批評家。ノーベル文学賞受賞。ミュージカル「キャッツ」は、彼の児童向け作品が原作。

[2] Christopher Fry 1907-2005 イギリスの劇作家 T.S.エリオットとともに戦後イギリス演劇の主流の座を守り続けた。

[3] マイクとの情事 1974年「音楽とテクノロジー」という記事で、この初めてのCBCラジオでもスタジオ生放送で、モーツアルトのソナタK281とヒンデミットのソナタ3番を弾いた印象を「・・・・そのときわたしは、自分の人生の進むべき方向をぼんやりとではあるが感じ、テクノロジーは芸術を妥協させ、芸術に侵入して人間性を失わせるものだという同僚や先輩たちの言葉はナンセンスであると悟った。そしてマイクとの情事が始まったのである。」《神秘の探訪》P134

[4] 『スチュアートの大ぼうけん』AMAZONのコピー: リトル家の次男は身長5センチ、ハツカネズミそっくりだった…。公開映画「スチュアート・リトル」原作本!全米260万部突破の大冒険物語。

リトル家の次男は身長5センチ、ハツカネズミそっくりだった……小さな体に大きな勇気のスチュアートがくりひろげる楽しい大冒険。《アマゾンのコピーから》

[5] 「グレン・グールドの生涯」オットー・フリードリック 宮澤 第2章P50

[6] 組み合わせ グールドは「ユニット」という言葉を使っている。

[7] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter3 P29

第8章 恋人バッチェンと仲間たち

バッチェンとの出会い

サイレント映画《素晴らしいフランチェスカ》主演女優を演じたバッチェン

バッチェンとグールドが初めて出会ったのは、トロント王立音楽院の玄関ホールでグールドが17歳、バッチェンは24歳だった。彼女は、才気溢れる瞳が印象的で、黒に近い茶髪のブルネットを長く広がるように伸ばした小柄な美人だ。

二人が出会う3年前から、声変わりすらしていないグールドは、毎年行われるカナダのキワニス音楽祭のコンクールへ出場したあらゆる部門で、年長者たちを押さえ優勝をさらっていた。また、カナダ最高のトロント交響楽団とベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を協演し、ピアノソナタ《テンペスト》でプロになった学内のひときわ有名人だったから、バッチェンは彼をよく知っていた。

グールドの両親は、コンクールへ出ることで息子を消耗させることはしまいと決めていたのだが、キワニス音楽祭は本格的な音楽家への登竜門というより国を挙げた音楽の祭典という性格があり、グールド一家は収入もあり父バートはキワニス音楽祭の役員を務めていたので、グールドの出場はプロを目指すための登竜門としての音楽コンクールとは違い、当然の成り行きだった。

後に「諸悪の根源は、一般にお金でなくて競争にある[1]」「演奏は競技ではない。恋愛である。[2]」とグールドはいうのだが、まだティーンエージャーの初期だった彼は、そうした意識はまだなかった。そのために、音楽祭での優勝は、自分が偉くなったように感じて気楽に満足していた。

グールドはこの17歳のころになると、子供の域を脱し青年へとなりつつあったが、態度は自信にあふれ、威張るわけではないものの、傲慢さにはますます磨きがかかっていた。

バッチェンは、グールドとの出会いを、ほぼ一目ぼれだったと後に回想している。

「女性が男性に惹かれる理由はなんでしょうか?彼はハンサムで知的で、セクシーで、自分をコントロールできる大きな才能がありました。単純に彼は、とても興味をそそりました[3]

周囲の友人たちは、彼が孤独で世界一の音楽家を目指すとんでもない夢想家だ、彼にかかわるのは身の破滅になるとバッチェンに警告した。しかし、グールドと同様にバッハや現代曲で2つ以上の多声が同時に聞こえる対位法的な音楽が大好きで、前向きな性格の彼女は恐れることがなかった。

バッチェンは、1925年、サスカチュワン州のルーローという町で生まれた。この町は、約1400キロ離れた中部のウィニペグと西部のカルガリーの中間にあるわずか人口1,000人ほどの小さな町でもともと貧しい町であり、農作物も満足に収穫できない土地だったが、バッチェンは「建物の氷柱を拾ってなめて」遊び、楽しい時代だったと振り返っている。

彼女の両親は6歳のときまでに亡くなり、2人の兄とバッチェンが残された。3人は、父の故郷の英国、スコットランドで別々の叔母たちに育てられることになった。

二人の兄はともに英国空軍に入隊したのだが、不幸にも相次いで訓練中の事故で亡くなりバッチェンは天涯孤独の身となる。

バッチェンは、15歳のときにベッドでタバコを吸うようになる。最初は、ハバナのタバコを吸いかなり強かった。のちにバッチェンはラッキーストライクを生涯吸い続けた。

ラッキーストライク

バッチェンがピアノと出会ったのは、13歳の頃で、近所の人がシューマンか何かの曲を叔母の家にあったアップライトピアノで弾き、それに衝撃を受けたのがきっかけだった。不安感と余裕のない気持ちをいつも抱いていたバッチェンが、音楽が気持ちを和らげてくれると気づき、音楽が彼女の目標になった。

彼女は、1940年代の遅くにカナダ、モントリオールへ戻った。そこで1年間働いたあとトロントへ移り、奨学金を得て、王立音楽院でベーラ・ボシェメニ・ナギー[4]とグールドの師でもあるアルベルト・ゲレーロからピアノを学ぶようになり、プロのピアニストを目指していた。

この時17歳のグールドのピアノの演奏技術は、すでにカナダで人気を集めはじめ賞賛されるようになっていた。しかし、グールドの友人たちがガールフレンドを誘ってパーティーへ行き始めても、彼はあいかわらず童貞のままだと思われていた。彼はガールフレンドどころか、ステーキ1枚も焼けず、パーティーは開けず、夜に女性を連れ出す姿は想像すらできなかった。実際、パーティーへ行くのにいつまでたっても自宅から母親に車で送ってもらい、友人から笑われていた 。[5]

「いかにモーツァルトはダメな作曲家になったか」

グールドの性はナイーブなままだったが、トロント王立音楽院では、いつも注目をあび、カフェテリアでも有名人だった。背も十分に成長していない子供のグールドが、絶賛こそすれ誰も否定しない大作曲家、モーツァルトを徹底的にこき下ろすのだが、彼の主張は音楽を学ぶ学生たちの関心を大いに引いた。

カフェテリアで、グールドは年上の大多数のモーツァルト信者に向かって興奮しながらまくし立てていた。

「モーツァルトは、死ぬのが早すぎたんじゃなくて、遅すぎたんだよ。彼は、おんなじパターンを繰り返してひょいひょいと作曲していただけだよ。次はこうだと簡単に予想できるね。作曲家としてはダメだった。演奏者としては素晴らしかったけどね。」

グールドは、コンサートを引退した後の1968年、36歳の時に、「いかにモーツァルトはダメな作曲家になったか[6]」という全米向けのテレビ番組を作っている。35歳で早逝したモーツアルトを、「死ぬのが遅すぎた」と言い、《クリシェ》というフランス語のキーワードを使ってモーツァルトを徹底的に断罪するのだった。

《クリシェ》というのは紋切り型とか、乱用の結果目新しさが失われた、常套句、決まり文句などという意味のフランス語である。モーツアルトが生んだこの世のものとは思えない美しい旋律の移ろいを《クリシェ》だと断定し、さらにモーツァルトの書いた展開部[7]については、「モーツアルトが展開部について学んだことは決してなかった。だって、当たり前だけど、展開するものがなければ、展開部を書かないで済むからね。[8]」というのだった。

ところがその番組の最後で、ピアノソナタ第13番K333を全曲をとおして弾くのだが、どの楽章にもメリハリと小さなサビがあり、最後に大きなクライマックスがある感動的な演奏を聴かせる。彼は、実のところ、楽譜に新たな音符を加え、内声部[9]を創作し「曲が良くなったかは別として、ビタミン剤を注入した。1と言い、他の演奏家が弾く当たり前のモーツァルトとはまったくかけ離れた、溌溂とした見事な演奏を披露した。

ニックネーム

グールドは子供時代、無邪気に、セキセイインコにモーツァルト、金魚にショパン、ハイドン、バッハ、ベートーヴェンなどと作曲家の名前をつけていた。また、シムコー湖にある2艘のモーターボートには、現代曲の作曲家、アーノルド・シェーンベルクにちなんだ《アーノルドS号》、アルバン・ベルグにちなんだ《アルバンB号》と呼んでいた。

グールドとバッチェンは、二人が知り合ったこの頃も子供時代と同じように、バッチェンを《ファウン[10]》、グールドを《スパニエル》とニックネームで呼びあっていた。《ファウン》とは、ローマ神話に出てくる上半身が人間、下半身が山羊の姿をした森の神である。《スパニエル》は犬の種類で、今では家庭犬だが、鳥の猟に使われた利口で運動量の多い中小型犬だ。

一方、父は、すぐに死んだふりをして臆病者という意味のフクロネズミの《ポッサム》、母は平凡にネズミの《マウス》だった。

こうしてあだ名を並べてみると、バッチェンは崇拝の対象である女神なのに、両親はぱっとしない臆病な小動物である。グールドの《スパニエル》は、彼の頭をバッチェンの膝の上に乗せ犬のように撫でていたからだった。

二人が親密になるにつれ、グールドはバッチェンを崇めるようになり、両親への敬慕の念は薄れはじめていく。

年上の従姉ジェシー・グレイグ

一人っ子である13歳のグールドところに、18歳の従姉ジェシー・グレイグが下宿をしにやってきた。両親は、彼女をグールドの姉代わりにしようと案じたからだ。思春期を迎えたかなり孤独な息子に姉をもたせるのは、名案に違いないと考えたからである。ジェシーはトロントの北東約70キロにあるアクスブリッジに住み、トロント教育大学で教師を目指していた。最終的に、ジェシーは、グールド一家と同じ州のオンタリオ州のオシャワ[11]で小学校の教師になる。

ジェシーは言う[12]。「わたしたちは本当に親しかったのですが、親しくなれたのも、わたしがあの家に下宿したおかげなのです。」「グレンは、ちょっと気まぐれでしたが、とても社交的な子でした。社交的というのは、どんな会話にも加わることができたという意味で、そして実際会話に入ってきました。彼は何にでも興味をもっていました。それに何事にも自信満々でした。知識欲の旺盛さと言ったらもう、まったく尽きることがありませんでした。」

実際、グールドの両親の狙いどおり、ジェシーはグレンに物事を教え、面倒を見てくれた。そして彼と言い争いもしたし、彼に愛情を注ぎもしたのである。

「ある晩のことですが」とジェシーはエピソードを一つ語った。

「台所の床を磨き、ワックスをかけ、野菜を煮始めました。おじとおばは夕食後に外出するつもりでしたので、わたしは言いました。『お皿はわたしが洗うわ。』と。すると、『グレンが手伝ってくれるよ。』と言うおじたちの返事。二人が出かけたあと、グレンは水を出して、ワックスを塗ったばかりの床に水をはねかけた。わたしを怒らせるためにです。それでわたしは彼を追いかけました。流しの下のワックスのついたボロ布をつかんだわたしは、グレンを階段でつかまえ、顔にワックスを塗ってやりました。よく子供どうしがやるように。彼は大騒ぎでした。黴菌(ばいきん)にやられて死んじゃうよ、って言うのです。」
「絞め殺してやる、と言われました。グレンの好きな決まり文句でした。 ― わたしは二階へ駆け上がり、バスルームに逃げ込むと、ドアに鍵をかけました。彼はわたしの部屋へ入り、学校のノートを手に入れるとページを1枚ずつ引き裂いては1時間毎にバスルームの下から差し入れるのです。わたしは言い続けました。『グレン、わたし落第しちゃうわ。』『かもうもんか。ジェシーくらい勉強したら、ぼくなんか今頃はもう大学を卒業しちゃってるよ。』そしてさらにページを1枚引き裂き、ドアの下から入れました。するとそのとき、自動車の戻ってきた音が聞こえました。わたしたちは二人ともそれぞれの部屋に駆け込んだのですが、彼はそのまま服も着がえずに眠ってしまいました。翌朝、母親が尋ねました、『夕べはどうだった?』と。グレンは答えました、『べつに、いつものとおりさ』」

夏目漱石の「草枕」を読んで感動したグールドが、2晩に分けて電話口でまるまる本を1冊読んだのも、このジェシー・グレイグだった。

グールドは晩年には、よくオシャワにジェシーを訪ねた。この従姉の回想によれば、グールドは、「靴を脱いで長椅子の上で丸くなり、ポット何杯ものお茶を飲みながら、いくつもの逸話を教えてくれ、当てっこ遊びをし、家族の近況を話し合った。また生きいきとした描写で、わたしの理解をはるかに超えるような精神世界へと引き入れてくれた。そういうときのグレンはわたしを自分とまったく同等に扱い、こちらの気分を傷つけたり、偉そうにすることは決してなかった。」[13]という。

グールドと母のフローラの関係について、グールドは、大人になってからは表向きフローラを冗談でからかい否定するようになるが、その実、彼の内なる自己の共有を許していたとジェシーはいう。楽しい夢や悪夢、成功や失敗、演奏会とその批評、自分が立案したラジオ、テレビ番組、出版したあらゆる野心と挫折、― 1975年に死別するまでグレンはそうした事柄についてフローラに話していた。[14]

ジェシー・グレイグは、グールドを描いた短編映画集の「グレン・グールドをめぐる32章」に出演している。32章というのは、もちろんバッハの《ゴルトベルク変奏曲》の30の変奏曲と2曲のアリアを加えた数からきている。彼女は、グールドをこう語っている。

映画「グレン・グールドをめぐる32章」から

ジェシー・グレイグ『従姉』(Jessie Greig Cousin)

「死ぬ1週間前のことでよく覚えています。こんなによく覚えているのは妙ですね。いつも私たちは軽口をたたき合って冗談ばかり言っていましたから。でもその週に限ってすべてが深刻でした。誕生日が来るのは止められないし、どんどん力が抜けていくと言いました。『人がお葬式に来てくれるか』なんてことばかり気にしていました。そんな話をするのは初めてでした。こんなことも言いました。『ハックルベリー・フィン[15]のように自分の葬式に出たい』『誰も来てくれないだろうから』って。人に好かれてるとは思っていなかったんです。レコードの売れ行きや、特に日本でよく売れたのは知っていました。ヨーロッパや東洋では好調でしたが、自分をそんなに重要人物とは思っていませんでした。自分の名声を自覚しているようには見えませんでした。少なくとも私には実に謙虚な人でした。教会に押し寄せた人を見て、私は思わずにいられませんでした。『グレン あなたは初めて間違えたわね』彼は常に自分が正しいと思っていましたから。」

グールドの死後、ジェシーはまた1992年の秋にCBC(カナダ公共放送)で、『グレン・グールド:ラジオの祭典』(Glenn Gould: A Radio Celebration)というテレビ番組に出演していた。グールドが生きた時代は、ラジオの全盛期を経ていた。

この番組では、グールドの13歳と50歳の誕生日について、ジェシーは「すべての家族が誕生日を祝うような方法で祝ったが、その時でさえ、グレンは参加したくなかった。彼は恥ずかしがっていて、確かに誕生日という単純なことに対する騒ぎが好きではなかった」と述べている。

ジェシーのコメントを聞いたバッハ研究家・ピアニストのペニー・ジョンソンのグールドへの思い

ペニー・ジョンソン

このジェシー・グレイグの発言を引用するかたちで、カナダ人の女性ピアニストのペニー・ジョンソンが、グールドについて感じていることをブログに書いている[16]。ジョンソンは、ドイツで開催された第8回バッハ・ピアノ・コンクールの準決勝進出者であり、ソリストとして活動している。また、バッハの音楽に特化したYOUTUBEチャンネルを運営し、グレン・グールド財団の寄稿者でもあった人だ。

ジェシー・グレイグは、その番組の中でグールドが50歳の誕生日についての思い出として、カナダの画家、デイヴィッド・ミルン[17]の絵に非常に惹かれていたとも語っている。

「ミルンは1940年代初頭に(グールドの父バートが生まれた地であり、ジェシーが住んでいた)アクスブリッジに住んでいましたが、グレンはその絵のいくつかを手に入れたがっていました。1982年の秋に、カナダ政府はミルンの絵をモチーフにした切手を発行し、(ジェシーの)姉のベティ・マディルが10枚の切手を購入し、これがグレンの誕生日にあげられるすべてだと断ったうえで、本物の絵ではないけれど、代わりのこれで我慢してと、誕生日カードを添えて送りました。それでグレンはそれについて笑いながら、彼女に電話をかけると言っていたのですが、私は、彼がそうできるほど長く生きられなかったと思います。」と語っていた。

ジェシーが電話をかけられなかったと言ったのは、グールドが同年10月4日脳卒中で突然、亡くなったからである。

このデイヴィッド・ミルンの『赤いレンガの家、1931』は、1982年6月30日にカナダ建国記念日のためにカナダ政府が発行した切手だった。

ピアニストのペニー・ジョンソンは、グールドの誕生日に対する嫌悪が、彼の全体的な性格、つまりライブパフォーマンスの放棄、限られた人だけに接触を望む性格や、そして《ソロー風》の孤独と自然への愛と同じものに由来すると考えている。

この《ソロー風》のというは、グールドのお気に入りの1冊であるヘンリー・デイヴィッド・ソローが書いた「ウォールデン、または森の生活」[18]に、この核心があると言う。ソローは、19世紀にアメリカ、マサチューセッツ州コンコード郊外のウォールデンという沼のほとりに掘建て小屋を作り、自給自足的な独り暮らしをし、実験的自然生活をした人物だ。

画家のデイヴィッド・ミルンも、著作家のソロ―同様、生涯を通じてシンプルで簡素な生活を求め、「何もかもが必要最小限を超えると我慢がならなかった」と述べている。また、「彼は所有物を避け、自然に近い生活をした」ともある。彼は当然のように『ウォールデン』に影響を受け、「このカナダのソロー」は「論理的で、知的で、客観的な」アプローチを追求した。

その特徴は「スタイルの経済性」である。つまり、すべてを必要最小限へとシンプルなまでに圧縮し、それを燃やすのではなく爆発させることである。

ミルンとグールドは年齢が50歳も離れていたが、前者が後者よりも、言い換えれば頑健であった(端的にいうと、グレンは屋外での過酷な生活には向いていなかった)、これらの2人の深く霊的なアーティスト ― 1人は画家で、もう1人は音楽家 ― は共に孤独の中で成功した。デイヴィッド・ミルンは「自己発見の手段」として孤独を利用し、グレン・グールドは「恍惚な体験の前提条件」として孤独を利用したと言う。

ペニー・ジョンソンは、オンタリオ美術館が作成したミルンの短編ビデオを見て、グールドの信念と類似していると感じた発言を抜き出している。

  • 「私は、多くの人を死にいたらしめる孤独や無視で成長する」
  • 「私は独りであり、これは芸術上の問題に取り組むのに最適な荒野だ」
  • 「私の仲間、いくつかのシマリスや鳥やフクロウやヤマアラシがいなくて寂しい…」
  • 「暗い夜に荒涼とした場所で、強風の中で独りぼっちでいる感じはまだ残っている。寂しいと感じるわけではない、それに興奮して満足している」
  • 「荒野で一人で暮らすと、慎重になる必要がある。それは必須だ」
  • 「私はまた、僅かでシンプルなものに対する嗜好により、必要最小限を超える所有物に対するほとんど異常な嫌悪感や、我慢できないという感じにまで広がっている。私は、自分のアートにおけるシンプルさの傾向が、遺伝的な質素さ、またはけちんぼさを、より魅力的な媒体へと変換したものだと考えるのが好きだ」
  • 「絵を作るものは、ダイナマイトを作るものと同じで、それは圧縮だ。それは草の中の火ではなく、爆発だ」

彼女は、言う。

この最後の引用は特に深く考察されており、それはグレンの作品にも同様に適用できると思います。つまり、圧縮は効率性を示唆し、スペースを作ること、特定の構造を締め付けるかコンパクトにすることです。ミルンの作品が「スタイルの経済性」でこれを展示する一方で、その「制限されたパレット」と「線と形に焦点を当てる」(再びマーシャル・ウェブから引用[19]して)特性は、グレンの作品においても、彼のピアノ演奏におけるバッハや他の作曲家の対位法作品に対する明瞭な発音とペダルの乾燥感に関連する線と形に同様の焦点を当てると言えるかもしれません。さらに、圧縮はグレンが晩年において遅くて計画的なテンポを好んだこと(例えば、J.S.バッハのゴルトベルク変奏曲の1981年と1955年の録音)を説明するのにも使えるかもしれません。
ミルンの「制限されたパレット」の用法はまた、グレンが灰色を愛することを思い起こさせます。1980年に撮影された映画「グレン・グールド、J.S.バッハのフーガの技巧」で、グレンは「これらの楽曲には無限の灰色の緊張が含まれている。それは賞賛の意味で言っている、なぜなら私は灰色が大好きだからだ。アルベルト・シュヴァイツァーも実際、素晴らしいことを言っていた。彼はそれが『静かで真剣な世界で、人気(ひとけ)がなくて厳格で、色も光も動きもない』と言っていた…それは私が言わなければならない最後の一つについて感じていることをかなりよく要約している。」
さて、グレンが最も手に入れたかったデイヴィッド・ミルンの絵画はどれだったのかという問題が残ります。彼が好むような色を提供するものはいくつかあります。アルバムのカバーに1つ使いたかったのかもしれません。そう考えると、グレンがアルバムのカバーを決定する際にどのような役割(もしあれば)を果たしたのか疑問です。というわけで、彼の1981年の「ゴルトベルク変奏曲」のカバーが「優しい降雪(Gentle Snowfall)」というような絵画によって取って代わられていた可能性も考えられるという思いで締めくくりたいと思います。ええ、それはわたしが好きなものです。
David Milne’s Gentle Snowfall
(National Gallery of Canada)

その他のデイヴィッド・ミルンの作品(Wikipediaから)

唯一の友人ロバート・フルフォードとグールド一家

普通学級にはほぼ友人のいないグールドだったが、ウィリアムソン・ロード小学校に通う9歳の時に、唯一の友人といっても良いロバート・フルフォード[20]が隣戸に引っ越してきた。フルフォードも、非凡な才能に恵まれた子供で、文学的で知的な関心がつよく、音楽通でもありグールドとよく波長が合った。フルフォードは、成人してからグローブ・アンド・メイル新聞社をへて、やがて人気のジャーナリストとなり、雑誌サタデー・ナイトの編集者となった。グローブ・アンド・メイル新聞はカナダ最大の日刊紙であり、雑誌サタデー・ナイトは、カナダのもっとも古い一般誌である。

フルフォードは、グールドとの出会いを自身の著作、「一家の特等席 – 幸運な男の回想」で次のように書いている。

ある日、ウィリアムソン・ロード・パブリックスクールのクラスで、私の前列の小さな男の子が振り向き、僕はグレン・グールドって言うんだ、と名乗った。お互いもうすぐ近所同士になることを知った。私の一家はサウスウッド・ドライブ34番地を借りたばかりで、そこは彼の家の隣だったのだ。ほどなく私たちは互いに訪ね合うようになる。そしてグレンがただの9歳の少年でないことはすぐにわかった。

グールドとフルフォードとの付き合いは10年間で終わる。関係が断絶した原因はわからない。グールドは、友人づきあいをしていても、ある日突然にそれを断ち切ってしまったからである。つまり、何か嫌なことや我慢できないようなことがあったり、女性関係を詮索されたりすると、すぐさま関係を断った。友人の側からすると、グールドとの関係が切れてしまうのに、心当たりがないのだった。

グールドが、突然友人との人間関係を断ち切ってしまうことを、フルフォードは、同じ著作で次のように語っている。彼自身も、その心当たりのないまま関係を切られた犠牲者の一人だった。

グレンは、自分が孤高の存在であり、人間的な交流や親密さは一切不要だったというイメージ作りに励み続けたが、現実には触れ合いを渇望していた。もちろんそれは常に彼なりのやり方ではあったが、しばしば他人を自分の圏内に引き込むことに成功したのである(のちに私を引き込んだように)。グレンはたいへん魅力的で、おもしろく、知的だったために、人々は惹かれた。自分が主導権を握り続け、すべてが自分の思いのままになる限りにおいて、人々が寄せる関心を享受したのである。そうした調子で、彼は友人に無理な要求もした。そして、これは避けられないことだったが、グレンが耐えられないような批判や見方が示されたとき、彼はすぐにその関係を断ったのである。[21]

フルフォードは、グールドと少年時代からのつきあいで、家へもしょっちゅう遊びに行っていたので、一家の様子をよく観察していた。「グレン・グールド伝」を書いたオストウォルドが1994年のインタビューで聞いている。

「わたしは、グレンが好きでした。絶対にしてはいけないのは、彼を『いくじなし』とののしることでした。子供はそうしたきつい言葉を使いますが、そういう言葉を浴びせられるほどたくさんの子供と親密になったことが彼にあったかどうか、私は知りません。近しい友だちはあまり多くはなく、わたしは少年時代の彼のいちばんの親友でした。放課後、ほかの子どもたちとたむろして冗談を言い合ったり、それこそ他人の悪口を言ったりするようなことはグレンには1度もありませんでした。本当にそういう経験がなかったのです。グレンが街角などで同じ年頃の子供たち3人や5人に混じって突っ立っているところを見た記憶はありません。わたしにとってはそういう交わりこそ子供の頃いちばん楽しかった思い出ですけれどもね。」

グールドは終生、精神的な不安を抱えていた。

「ヒポコンデリーが人から引き継がれるものだとすれば、誰が元凶かは明らかです。母親がいつも彼の顔色を気にしていたのです。グレンは顔が白すぎた。母親はそのことを心配していました。そしてこう言ったのです。『食べなさい、これこれをもっと食べなさい、これをやりなさい、あれをやりなさい、外へ出て日に当たりなさい、どうしてフルフォードと外で遊ばないの?』と。」

グールドの他の友人2は同じ1994年のインタビューでこう言っている。

「子供ころから彼は病原体を恐れていました。誰かが少しでも具合が悪くなれば、そばに寄せつけませんでした。病気にかかることをひどく恐れていたのです。母親も彼を人混みに近づかせませんでした。カナダ全国博覧会など、人が大勢集まる場所に行かないように言い聞かせたのです。」

フルフォードは、一家3人の関係をやはり「一家の特等席 – 幸運な男の回想」で次のように書いている。

「数日一緒に過ごしているうちに、この家族の絆がいかに強いかがわかり始めた。わたしの家族の場合、愛情やその反対の感情は7人のあいだで拡散してしまうが、グールド家は3人しかおらず、愛情や緊張の線はぴんと張りつめている。グレンは昔ながらの一人っ子で、徹底的に監視されていると同時に過保護で甘やかされていた。彼がわたしに説明してくれたところによれば、シムコー湖畔の別荘では、彼が一晩母親と眠ると、次の晩は父親が母親と眠ることになっていたそうで、この取り決めは数年前から続いているという。
一家は、キリスト教の家庭で、どんなののしり言葉も恥ずべきものとして強く戒められた。… 同世代の男性の仲間の中で、彼だけが決して猥褻な冗談を言わなかったし、女の子の性について話すことも、『ファック』という言葉を口にすることもなかった。」

オストウォルドは、フルフォードに1994年のインタビューでグールドの父母について聞いていた。

「母親があらゆるエロティックなものに嫌悪を示したことに起因します。彼女はおそろしく魅力のない女性でした。やせこけていて - 顔はキュービズムの絵のようで、きつく、斧みたいでした。エロティックなものと隣り合うようなものからはすべて距離をおかなくてはならなかったのです。ときどき兄とわたしが卑猥な言葉を使うと、グレンはひどく腹をたて、わたしたちに説教をし、やめるように言いました。脅すことだってありました。 - 従わないと、『もう家に来ないでね』と言われたのです。母親の真似です。彼の母親はいつも言っていました。『そんな言葉を使ってはいけません』と。彼はそれを受け入れ、どうも信じて疑わなかったらしいのです。地球上の10代の少年では考えられないことですが、グレンは女の子の肉体に関心を示す言葉を一切口にしませんでした。」
「グレンはいつも母親に強い親近感を抱いていました。母子の関係と圧倒的な母性が完全に支配していことを意味します。バートは、望んでいたほどに息子とは親密になれなかったと思います。バートがグレンの親密さを思いどおりに味わえたことは1度もなかったはずです。この父親が息子に注いだ愛情は本当の意味で報われることはありませんでした。」
「父親は、ぶっきらぼうで、話しべたで、淡々とした人でした。かれはそのぶっきらぼうさに似合う小さな口髭を生やしていました。怒ることもありましたよ。『それはだめ』とか『そんなことをしてはいけない』と - きかんぼうの子を扱う父親のやり方です。でも男らしい肉感的な魅力は何も覚えていません。同居する強烈な人物2名に圧倒され気味だった、という印象を誰もが受けました。彼はグレンが殺すことを嫌悪していたからという理由で釣りをやめなくてはなりませんでしたよね。思い出すたびに悲しい気持ちになりますが、彼はそうやってグレンに命令されることに甘んじていたのです。同時に彼は息子がたいへんな自慢で、その教育のためなら何でもしました。」

フルフォードは、子供時代と青年期の二つの時期を過ごした数少ない友人であり、グールドが国際的なピアニストになる直前、トロントでコンサートを企画しチケットを販売し、グールドがピアノを演奏するという事業を一緒にはじめた。

1952年の春、二人が19歳のときに会社「ニュー・ミュージック・アソシエーツ」を設立し、音楽院のコンサートホールを使って合計3度のコンサートを開いた。フルフォードが、ホールの借用、切符の販売、宣伝、会場の案内係のリクルートと会計係を担当し、グールドが音楽全般を担当した。

その時すでに高校を中退していたフルフォードは、その時すでに、グローブ・アンド・メイル新聞のスポーツ記者になっていた。グールドも高校を体育の必修単位を満たさず卒業しなかったが、親友フルフォードの影響を受けていたことはじゅうぶんに考えられる。

コンサートの目的は、20世紀音楽の企画であり、初回はアルノルト・シェーンベルクの追悼、2回目はさらに野心的で新ウィーン学派全体を演奏した。この2回目の曲目はほとんどがカナダでは初演だった。シェーンベルクでは、歌曲や弦楽四重奏曲、《ナポレオンへの頌歌3》の語り手までもが登壇した。

どちらのコンサートでも、空席が目立った。グールドが選んだ曲目は、地元の聴衆にはむずかしすぎた。地元の新聞テレグラムは見出しに「赤ちゃんのリズムの練習の方がこれよりまともに聞こえる。」と酷評した。

プログラムのリーフレットに、グールドは1回目には、シェーンベルクの音楽の展開ついてのエッセイを書き、2回目には「アントン・ウェーベルンの真価」と題した難解で冗長なエッセイを書いた。演目の解説を普段自分で壇上からするグールドだったが、1回目のときには、CBCのアナウンサーのフランク・ハーバートが代読し、観客は何を言っているのか分からなかっただけでなく、話者も理解していないことも観客に伝わった。実際、ハーバートは、代読した原稿はほとんど一語も分からなかったと認めた。[22]

3回目は現代曲から一転して、バッハ・オールプログラムを組んだ。この日、ハリケーン・ヘイゼルが来襲し、観客はわずか15人しかいなかった。しかし、このときグールドは、バッハの〈ゴルトベルク変奏曲〉に熱心に取り組んでおり、この曲を披露した。この不運な演奏会には、カナダの才能のある若手コントラルト4、モーリーン・フォレスターも出演した。彼女のトロントのデビューだった。フルフォードは、「わたしがエージェントに払った出演料は、当社としては最高額だったと思う。50ドル(2023年現在価値PER Capita GDP換算で1,709ドル≒24万円である。」と回想録に書いている。ほとんどがらがらの空きの建物に拍手が響いた。拍手をしたひとりは、トロント王立音楽院の院長であり、《ラルゴ卿》の異名をもつトロント交響楽団の指揮者サー・アーネスト・マクミランだった。

このバッハの演奏会で財政的に大きな痛手を被ったわけではまったくなかったものの、とにかくニュー・ミュージック・アソシエイツはこれで終わった。

フルフォードは、グールドと出会った1940年代の一家の経済状況をやはりオストウォルドへのインタビューで次のように語っている。

「グールド一家は、両親とも音楽を愛好し、キリスト教への篤い信仰を持っていた。父バートは堅実な経営で毛皮商を営み、おかげで十分な経済的成功をおさめていたが、価値観は旧弊に囚われたままだった。母フローラは、礼節を重んじ衝突と常軌を逸したものすべて嫌悪していた。一方、フルフォード一家は、父親が新聞記者で酒好き、各地を転々としニューヨークで暮らしたこともある。母親はオタワの書籍業者の娘だった。グールド一家は地元密着型であり、フルフォード一家は、当時としてはどちらかというとまだ珍しいコスモポリタン的で進歩的といってよかった。」

ただしグールド一家の経済力とは格段の差があった。グールド家は裕福だった。

「グールド家は私たちの住む街の水準からすると、非常に裕福だったと言えます。当時、グールド氏が私の父に、うちでは息子の音楽教育に年間3,000ドル[24](2023年と1945年対比PER Capita GDP換算で147,313ドル≒2,623万円)使っている、と話しました。何とそれは父の年収と同額でした。つまり、住宅費、食費、衣料費のほかに教育に3,000ドル使えた。グールド家に比べたら我が家は実に貧乏だったわけです」

グールド以前にグールドだったマルコム・トゥループ

他にもグールドの思考に大きな影響を与えたと思える人物にマルコム・トゥループがいる。

13歳の秋からグールドは、午前中、マルヴァーン高校[25]に通うようになるのだが、グールドは、トロント王立音楽院にも在籍し、午後にはゲレーロの指導を受けていた。

グールドと同じようにゲレーロの生徒でもあり、この二つの教育機関に通う2歳半年長のマルコム・トゥループ[26]がいた。マルコム・トゥループもプロのピアニストになるのだが、その風貌や振舞が過激で変わっていた。彼はトロントの英国人の両親のもとに生まれ、9歳で作曲を始めた。17歳のときに、CBCトロントオーケストラとルービンシュタイン協奏曲第4番ニ短調でコンサートデビューし、華麗で大げさなふるまいをして才能もあった。

このトゥループは、よく穴の開いた靴下やかなり汚い服を着て学校にやって来た。みんなに服装で注目してもらいたがった。また、彼はかなりの変人で、何事につけ過激だった。論争好きで、難解なテーマについて熱のこもった長い文章を書き、クラス全員に向けて読んでいた。グールドは、じっと聞いているだけだったが、彼にショックを受け尊敬もするようになった。

トゥループは、ときには思い切り派手な服装でピアノを芝居がかって弾いていたが、常に自分独自のスタイルを守って演奏した。フランツ・リストの曲を鍵盤に身を乗り出すような姿勢で、愛撫するように弾いていた。

周りの人たちにショックを与え、驚かせるのが好きだったトゥループは、1950年代にCBCテレビの生放送の番組で発言の機会を得た。このとき彼は自分の意見を説明するために、大胆にも「マスターベーション」という言葉を使った。
それは、「世間は本物のかわりに、《マスターベーション用》のオモチャに関心を持ちすぎだ。」というような内容だったが、生放送でこれを聞いたまわりの人たちはさすがにギョッとなった。

一時は、グールドとトゥループは親しくなり、二人でシムコー湖の別荘でピアノを一緒に弾いていた。トゥループに対するグールドの称賛は長く続き、グールドがすでに成功していた1973年に、トゥループをマニトバ大学の音楽部長に推薦する手紙を書いている。

「ピアノの巨匠としてのトゥループはまた、グールドがグールに似る以前のグールドにそっくりだった。」5

恋人は映画《素晴らしいバッチェン》の主演女優

ピアノの演奏ではグールドが先行していたが、バッチェンは美人で明るく、魅力に溢れ、若い芸術家グループのなかで、気配りができ思いやりあふれるまるで女神のような存在だった。

彼女は、ダウンタウンの北側のアスキス46番地にある質素なレンガ造りのアパート[27]に住んでいた。そこには貧しいが、将来有望な芸術家の卵たちが住むたまり場で、彼らは色とりどりの服装や奇抜な服装をして時代の先端を行き、ボヘミアンのようにルールに縛られない自由なライフスタイルで暮らしていた。

スチュアート・ハミルトン

バッチェンは、そのアパートでスチュアート・ハミルトンという、男の友人と部屋をシェアしていた。スチュアート・ハミルトンは、最終的にオペラ歌手の歌唱指導やピアノ伴奏者になるのだが、当時はグールドと同じように、彼もゲレーロにピアノを教わっていた。他にも、芸術家を目指している2人の若者が住んでいて、彼らは音楽家と映像作家やアニメ作家として、アーティストとミュージシャンを目指し実験的な試みに取り組んでいた。やがて彼らは、新しい時代の芸術家としてカナダを背負っていく。

https://www.ludwig-van.com/toronto/2017/01/01/in-memoriam-stuart-hamilton/ から(スチュアート・ハミルトンのHP)

彼らは毎週金曜日の夜に集まり、フラニー・バッチェンに敬意を表し、その集まりを「フランチェスカ(バッチェン)・サロン」と呼んでいた。そこでピアノを弾き、音楽を聴き、かなり重い文学作品を読んだりしていた。バッチェンは、そこで皆の雰囲気に心を配りながら、ホステス役をしていた。

また、バッチェンを主役にした16mmのパントマイムのサイレント映画が作られた。題名は、《素晴らしいフランチェスカ(バッチェン)》[28]だった。この映画は、曖昧な筋の物語と大げさな出来事の連続で構成されたマルセル・マルソー[29]を真似したパントマイム映画だ。

<素晴らしいフランチェスカ>のバッチェン

映画《愛と孤独》でインタビューを受けるバッチェン

彼女は生涯喫煙していた。写真は、ウォーレン・コリンズ6がサイレント映画《素晴らしいフランチェスカ》(The Fabulous Francesca)を撮ったときにバッチェンが上流階級の女性を演じたものだ。

このインタビュー7の時、1925年生まれの彼女は、84歳だった

――――――――――――

グールドは、まったく性的なことを口にせず、女性に関心がない様に振舞っていたから、誰もがゲイとか、男女の区別がない中性だと思っていた。

一方、ハミルトンはゲイだった。皆の噂どおりグールドをゲイだと思っていたハミルトンが、グールドの実家のソファでバッハを聴いているとき、彼に腕を回したことがあった。

「ぼくが腕を彼に回したら、彼は驚きで飛び上がるかと思った。『何してるんだ?どいてくれ!』と彼は言った。彼はひどくショックを受け、その瞬間、グレン・グールドはゲイではないとがわかったんだ。彼はゲイとはまったく縁遠い人物だと分かった。彼はとても口が堅いが、彼は非常にはっきりとした異性愛者だった。」

――――――――――――

ある日、グールドが、友人でヴァイオリニストのモリー・カーナマン[30]とCBCテレビ放送局でリハーサルをしているとき、カーナマンのシャツの背中に血がついているのに気づいた。グールドは、叫び声を上げて演奏を中断した。

カーナマンはすべてをストレートに説明した。

「この血かい。この血は昨日の晩、女の子とヤッタときのものだよ。彼女が凄くてね、爪をぼくの背に思いっきり立てるものだから、痛くて大変だったよ。あんなに感じる子はいないよ。[31]

グールドは驚きと好奇心で、別世界の人間を見るような目で見ていた。グールドは性について口に出すことは決してなかったので、カーナマンは、彼が性的には未経験だろうと思っていた。

しかし一方で、このころから彼には可愛いガールフレンドがいて、見せびらかしたがっていると気が付くようになっていた。

――――――――――――

1952年、お洒落な服装のスチュアート・ハミルトンが、バッチェンとシェアしていたアパートへ戻ってきた。そこは、ふたりの共同のスタジオ、洗面所、キッチンとプライベートな部屋に分かれていた。

ハミルトンが、ぶらぶらとスタジオをとおり抜け鍵のかかっていないドアからバッチェンの区画へ足を踏み入れると、スーツ姿のグールドと彼の下にひざまずくバッチェンがいた。なんと、彼女は彼にフェラチオをしていた。

「なんてこった!二人とも他人に触られるのが恐ろしい。」とか言っていたんじゃなかったかと、ハミルトンは動揺した。

彼は、オペラの生徒でもあるバッチェンの誇りを保てるように、コホンと小さな咳ばらいをして、手近な洗面所に飛び込むべきだったかもしれなかった。しかし実際は「ごめん」とだけ言って、その場を離れることしかできなかった。ハミルトンは彼女が部屋の鍵をかけるべきだった、こっちの方が恥ずかしいじゃないかと思っていた。

グールドはおどおどと部屋を出て来て、ハミルトンにスタジオで話をしたいと言った。どちらも先ほどの行為のことは口に出さず、グールドは、長ったらしく難解な音楽談義を始めるのだった。

ハミルトンは感想を述べている。

「彼は、この件について厳格な長老派8的なものを少し感じていたようだ。私は彼を批判しなかった。その前から私は、彼とバッチェンが男女関係にあることは知っていた。彼女はそのことを話さなかったが、それは完全に明らかだった。[32]

事件後もバッチェンとグールドは、あいかわらず秘密主義を貫き、人前ではカップルらしく振舞わなかった。

「グールドは本当に慎重で秘密主義でした。それで誰もがゲイと思ったんです。」とバッチェンは言った。

グールドは、音楽だけではなく、有名な世界の文学や哲学も広く読んでいた。その嗜好はバッチェンと完全に一致していたから、二人はすぐに親密になった。二人ともニーチェが好きで、ニーチェの言葉を暗唱し、「私の真実がある、さあ、あなたの真実を教えてくれ」「高く登ろうと思うなら、自分の脚を使うことだ。高い所へは、他人によって運ばれてはならない。人の背中や頭に乗ってはならない。」と言い合ったりしていた。とくにグールドはニーチェに強い影響を受け、ニーチェを読むとドイツ語訛りが抜けなくなるほどなった

バッチェンはグールドの7歳年上だったが、彼の周囲には年上の女性が多かったので、むしろ年上の女性の方が打ち解けられた。また、彼女は彼のエゴを刺激しないよう気を付けていた。周りに誰もいないときは、彼をなだめ、膝の上で彼の厚みのある髪をなでやるのだった。

つぎへ

[1] 「グレングールド著作集Ⅰ」モーツァルトとその周辺 モンサンジョンと語るP69。この発言は、他の機会にも多く語っている。

[2] 「グレングールド発言集」バーナード・アズベルによるインタビューP198

[3] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter2, page11

[4] Béla Böszörmenyi-Nagy 1912-1990 アメリカ、マサチューセッツ州ボストン生まれ。1945年から5年間、王立王立音楽院で教えた。後期ベートーヴェンとリストの専門家と言われる。実際のレパートリーは広かったようで、YOUTUBEで演奏を聴ける

[5] グールドと一緒にゲレーロにピアノを教わっていたレイ・ダッドリーの言葉。(神秘の探訪 バザーナ 第2章 142頁)

[6] Glenn Gould – “How Mozart Became a Bad Composer” (下のURLでYOUTUBEで見られる。2022.6.16現在)

また、グールドは、ピアノソナタ第13番K333をコロンビアの正規版として、第1楽章を65年8月、第2楽章を66年5月、第3楽章を70年1月と8月に録音し、1972年に発売している。

[7] 展開部とは、楽曲において提示された主題や素材をさまざまに発展させる部分を言い、ソナタ形式で顕著である。

[8] 「グレングールドの生涯 オットーフリードリック 宮澤淳一訳」 第7章古典派のレコードP243

[9] 内声部:一般に和声法では、高音部の主旋律と低音の伴奏で成り立ち、この高音と低音を外声と言う。これに対し、外声の間の声部を内声と言う。

[10] Faun(英語)Faunus(ラテン語)半人・半山羊の林野牧畜の神。ファウナ(Fauna)が女性形。

[11] オシャワ トロントの西方60キロにあり、オンタリオ湖に面している。人口16万人。都市圏人口は約38万人。(2016年)

[12] 「グレン・グールドの生涯 オッットー・フリードリック 宮澤淳一訳 青土社」P50

[13] 「グレン・グールド 神秘の探訪 ケヴィン・バザーナ サダコ・グエン訳 白水社」

[14] 「グレン・グールド伝 ピーター・オストウォルド 宮澤淳一訳 筑摩書房」P149

[15] ハックルベリー・フィン 「ハックルベリー・フィンの冒険」は、マーク・トウェインの南北戦争以前のアメリカを舞台にした小説で、人種差別を痛烈に批判している。主人公のハックは、自らの死を偽装して逃亡する場面が出てくる。

[16] https://furthernorth.blog/2020/08/18/what-glenn-wanted/

[17] デイヴィッド・ミルン David Miline(1882-1953)カナダの画家、版画家。1930年代の終わり頃、二番目の女性とオンタリオ州アックスブリッジ(Uxbridge)で暮らし始め1941年に息子が生まれた。1938年にトロントを拠点とする画商が、ミルンの作品の販売を仲介するようになり、評価が高くなり、画家として成功した。(Wikipedia)

[18] デイヴィッド・ソロー アメリカの小説家、詩人、哲学者、自然学者。1817マサチューセッツ州コンコードで生まれ。ハーバード大学卒業後、コンコードの公立学校で教師を務めるが教育制度に失望し、2週間で辞職。1845年に最も有名な作品『ウォルデン、または、森林での生活』を出版した。これはウォルデン湖畔に自分で築いた小屋に暮らした経験を記録したものである。反奴隷制運動に関与し、不正な法律に抗議するための手段として市民不服従を強く主張した。

[19] 再びマーシャル・ウェブから引用 1982年3月22日版のマクリーンズ誌にマーシャル・ウェブによる「One hundred years of solitude」というタイトルの記事が掲載され、ソロ―の『ウォルデン、または、森林での生活』とシンプルさを求めるミルンの共通性を書いていた。

[20] ロバート・フルフォード Robert Fulford 1932年2月オタワ生まれ。グローブ・アンド・メイル紙で1953年までレポーター。マクリーンズ誌を経て、1958年に入社したトロント・スター紙で影響力のある批評家の地位を得て、1968年から87年まで雑誌サタデーナイトで編集者となり、エッセイスト、批評家として活躍した。

[21] ロバート・フルフォードの発言 「グレン・グールド伝」(ピーター・F・オストウォルド 宮澤淳一訳 筑摩書房)P56

[22] 「グレングールド神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ)P124

[24] https://www.measuringworth.com/dollarvaluetoday/relativevalue.php?year_source=1954&amount=500&year_result=2020

PER Capita GDPを使用している。

[25] マルヴァーン・カレッジ・インスティチュート。公立の中高一貫校

[26] Malcolm Troup (1930-2021) ピアニスト。トロント生まれ。のちギーゼキングに師事。第1回ショパンコンクールで審査員を務めた。

[27] アスキス通46番地のアパートにはバッチェン、歌唱指導、ピアノ伴奏者のスチュアート・ハミルトン、CBCセットデザイナーのスタン・セレン、CBCの女優、歌手のドナ・ミラーの4人が住んでいた。

[28] 伝説のフランチェスカ(The Fabulous Francesca)

[29] マルセル・マルソー(Marcel Marceau)1923 – 2007 フランスのパントマイム・アーティスト。この芸術形式における第一人者で「パントマイムの神様」と呼ばれる。

[30] モリー・カーナマン  グールドの友人であり、ヴァイオリン伴奏者。理由がわからないが、グールドとの交友はある日断たれた。写真は、CDの販売サイトから。

[31] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter2, page17

[32] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter3, page33

  1. 英国のクラシック音楽テレビの司会者であるハンフリー・バートンとの対談で、グールドは、「モーツァルトのピアノソナタの内声部に、曲が良くなるかどうかは別にして、対位旋律をポリフォニックに加え、《ビタミン剤を注入》することをためらわない。」という意味のことを語っている。 ↩︎
  2. 友人 ジョン・P・L・ロバーツ 「グレン・グールド伝」(ピーター・F・オストウォルド 宮澤淳一訳 筑摩書房)P58 ↩︎
  3. ナポレオンへの頌歌 ユダヤ人のシェーンベルクの「ナポレオンへの頌歌」op.41は、1944年初演。ナチスから逃れてアメリカへ渡った時の作品。バイロンの詩「ナポレオンへの頌歌」に室内楽伴奏をつけ、ナポレオンを讃えるものではなくヒトラーを重ね合わせたものと言われる。頌歌は、歌と語りの中間に位置する歌唱技法である。 ↩︎
  4. コントラルト アルトは、女声の声域(声種)のひとつで、コントラルト(contralto)とも言う。 テノールよりも高い音域を指す。 現在では女性の低い声を言い、また合唱における女性の低い声部を指す。 ↩︎
  5. “The Secret Life of GLENN GOULD A GENIUS IN LOVE” Michael Clarkson, Chapter One Flora, page 8 ↩︎
  6. ウォーレン・コリンズ Warren Collins トロント生まれの映画監督。実験的な映像なども紹介した。 ↩︎
  7. インタビュー “The Secret Life of GLENN GOULD A GENIUS IN LOVE” を書いたマイケル・クラークソンである。Michael Clarkson, ↩︎
  8. 長老派 《Presbyterians》キリスト教プロテスタントの一派。カルバンの系統をひき、信仰告白を重視すること、民主的な長老制度をとることが特徴。オランダ・スコットランド・米国で有力。長老派教会 ↩︎

第7章 マネージャー、ホンバーガー

14歳のグールドが初めて、トロント交響楽団と共演した1947年1月のベートーヴェンの『ピアノ協奏曲』第4番を、22歳のウォルター・ホンバーガー(1924-2019)が聴き、「これは凄い少年が現れた。」とグールドの才能を確信する。そして、「興行主としての音楽マネージャーになりたい」とすぐに両親に申し出た。

ドイツ生まれのホンバーガーは、恰幅がよく、上品で落ち着いた紳士だった。一方、いつまでたってもドイツ訛りのアクセントがぬけず、のちにグールドがよくするものまね、ドイツ語訛りでしゃべる奇人の発音のモデルにしていた。

かれは、ドイツ、カールスルーエで私立銀行を営む家庭で生まれた。音楽経験はなかったが、周囲を優れた音楽家[1]に囲まれ、興行主を志していた。第二次世界大戦のまえにナチスから逃れ、イギリスへわたり、1940年カナダへ亡命、1942年に市民権を与えられていた。しかし、敵国からの亡命者にとっては苦しい時代で、大戦が終わる1945年まで隔離され厳しい監視下にあり、移動するにも仕事の認可を得るにも厳しい規制を受けなければならなかった。

かれは優れた実業家であり、グールドがコンサートから身を引く1964年まで、興行主としてマネージャーを務め良好な関係を続けた。つねにグールドを尊重しかばったからである。グールドは演奏の姿勢などで常に批判を浴びていたが、ホンバーガーはこういうのだった。

[2]ステージ・マナーについてグレンが批判されたときの私の答えは決まっていました。『あなたは音楽を聴くために演奏会へ行くのでしょう?でしたら目を閉じて聴いてください。彼を見たくなかったら、目の前から追い出せばいいんですよ』と。」

グールドは後に成功してから、ユーモアでホンバーガーをこう評している。

[3]ギャラ、ピアノの選択、衣装、プログラム、スケジュール、そして僕のプレスへの態度以外ならば僕とマネージャーの意見が食い違うことはまったくない。」

ゲレーロと別れたグールドにとって、ホンバーガーは新しい父親だった。

なおかれは、1962年から25年間、トロント交響楽団の興行主をつとめている。

日本の小澤征爾は、1964年から4年間トロント交響楽団の常任指揮者を務めていたので、グールド、ホンバーガーとも交友があった。

グールドの両親は、ホンバーガーのマネージャーの申し出を最終的に「神童として酷使しないこと」を条件に承諾する。

ホンバーガーとグールドの両親は、居間のソファに座り話し合っていた。

「おとうさん、おかあさん。息子さんの演奏を聴いて、ぼくは跳びあがりました。すごいです、あの年齢で、あんなに表現力があって感動的な演奏をするなんて、信じられません。小さい音で演奏する時には胸を締めつけられる気がしましたし、クライマックスでは興奮して、心臓がバクバクしました。まったく自由自在じゃないですか!まだ、14歳ですよね。ぜひ、ぼくをマネージャーにしてください。興行的に成功させてみせます。ちゃんと、かれを育てますから」

「先日は、トロント交響楽団との協演でしたが、昨年は同じ曲を、ピアノのゲレーロ先生がオーケストラのパートを連弾で伴奏してくださいました。この先生についてから、グレンは、どんどん成長しはじめて、わたしたちがどうしたらよいのか、わからないくらいになりました。遠いところに行ってしまうようで、怖いくらいです。わたしたちは、ふたりとも音楽好きで、母親が10歳までピアノを教えてきました。わたしはヴァイオリンを弾いていましたし、夫婦で讃美歌をうたい、グレンが伴奏をして聴衆の人たちから喝采をもらったこともありました」

「わたしは、声楽の教師をずっとしていたので、グレンにピアノを弾きながら歌うように言ってきかせました。そのせいで、かれのステージで歌う癖は、抜けなくなりました。グレンの上達ぶりは、ふたりとももちろんうれしいのですが、とまどいもあるのが正直なところです。かれは、まるで、わたしたちの平凡な家庭の裏庭に突然山脈が隆起して現れた[4]ようなものです。わたしたちの手に負えなくなってきたのです。わたしたちも、そういっていただくのは嬉しいのですが、どうしたらよいのかわかないところがあります。」

「神童とか天才とかいわれながら、大人になってだめになってしまう演奏家は大勢いますし、かれはまだ声変わりもしてしない子供にすぎません。我が家では「神童」とか「天才」という言葉に加えて、「モーツァルト」と軽々しくいうのも禁句なのです。かれは金魚に「モーツァルト」と名前をつけていますけどね。わたしたちは、幼いころから大勢の大人を喜ばせる、見世物にしたくないと思っていました。彼を、まずは親として、ちゃんとした人間に成長するのを見届ける義務があると思っています」

「わかりました。わたしは、音楽家ではありませんし、楽譜も読めません。しかし、ビジネスには自信があります。弱みもあるのでしょうが、強みもあるはずです。おっしゃるように、かれの意思に反して酷使するようなまねはしません。もちろん、親御さんの心配は分かります。ですが、かれには他にない才能があり、それを埋もれさせずに、開花させてあげる役目もあるのではないでしょうか。どうか息子さんを、わたしにあずけてもらえませんか」

その話し合いをしている居間のピアノの横にはフラシ天(ビロードに似た高級布地)の長椅子が置かれ、グレン少年は、ほぼ水平といえるほどのだらけた格好で寝転んでいた。母親が言った。

「グレン、背を伸ばして。いい加減にきちんと座ってちょうだい、お願いだから。この話、あなたはどうなの。ホンバーガーさんに、マネージャーをお願いするということは、ピアニストになってそれで身を立てることになるのよ」

グールドは、だらけた姿勢をほとんどかえずに答えた。

「ピアニストだけじゃないよ。ぼくは作曲家になるんだ。作曲家になる前に、まずコンサート・ピアニストになるんだけどね」

最終的に、両親はホンバーガーが興行主となって取り仕切ることを了承し、翌1947年10月20日にデビュー・コンサートを1回のみのおこなう旨の「紙切れ1枚」の契約を1947年3月13日に交わし[5]た。興業主になるにはアメリカだ、カナダで興行主として成功するはずはないと周囲からいわれたホンバーガーだったが、かれには自信があった。

この年の契約の後、グールドは、トロント王立音楽院で初の単独リサイタル、教会ではオルガンによるリサイタルを開いた。この二つのリサイタルがホンバーガーの手によらなかったのは、グールドの父バートが、マネージャーの役をなかなか手放さなかったということがある。バートはずっと、グールドの公演の話があると、相手先との交渉や手配、旅行の支度や空港までの送迎などを献身的にずっとしていた。

10月20日、ついにホンバーガーの手腕が発揮された商業リサイタルが初開催された。グールドは、15歳でプロデビューした。

グールドの写真が写されたポスターやプログラムで宣伝された。曲目は、スカルラッティ[6]のソナタ5曲、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番ニ短調作品31第2「テンペスト」、クープラン[7]のパッサカリア、ショパンのワルツ第5番変イ長調作品42、即興曲第2番嬰へ長調作品36、リストの《泉のほとりで》、メンデルスゾーンのアンダンテとロンド・カプリチオーソだった。

トロントの主要3紙がそろって批評記事を載せた。いずれの新聞もグールドの演奏を高く評価し、《グローブ・アンド・メイル》紙は「この演奏家は楽章や作品全体をひとつのまとまりとして捉えた。しかも細部は全体の構造を示すべく計算されていた」と書いた。グールド、両親、ホンバーガーの全員が、この成功に満足した。

なお、グールドは初期ロマン派といわれるショパン、リスト、メンデルスゾーンを嫌悪し、やがてこれらの曲を弾かなくなるのだが、15歳のこのときはそうではなかった。

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[1] 優れた音楽家 ヴァイオリニストのカール・フレッシュを師とするヘンリク・シェリング、ゲアハルト・カンダー、イダ・ヘンデルがホンバーガーの友人だった。いずれも有名なヴァイオリニストである。

[2] 「神秘の探訪:バザーナ」第9章孤立 P117

[3] 「ギャラ、ピアノ・・」映画《HereAfter/来世》ブリュノ・モンサンジョン2007年 この映画にトロントのグールド像に語り掛けるご夫人との架空の対話で出てくる。

[4] 山脈が隆起 1983年、グールドへの追悼文集を集めた《Glenn Gould Variations, John McGreevy》《1986年日本語版 グレン・グールド変奏曲 訳:木村博江 東京創元社》が発刊され、この中で、子供時代から20歳前半までのグールドの唯一といっていい友人として過ごした《Saturday Night》誌編集者のロバート・フルフォードが、「育ち盛りのグールド」というタイトルで寄稿している。

[5] 《神秘の探訪:バザーナ 117頁》

[6]  スカルラッティ(1685-1757) イタリア出身の作曲家。同年にJ.S.バッハ、ヘンデルのバロック時代の代表的作曲家が生まれている。

[7]  クープラン (1668-1733)は、バロック時代のフランスの作曲家。

第6章 恩師殺し-門下生になるのだが、独学と言い張る

音楽院でゲレーロに学ぶ

グールドの公教育は、1年間小学校へ行かずに家庭教師を依頼したため、1年遅れの1939年、7歳の秋にウィリアムソンロード小学校へ入学、成績が良かったので飛び級もして卒業した。1945年、12歳の秋に公立中高一貫校のマルヴァーン高校に入学する。この高校に入る年には、普通教育より音楽教育の方を重要視するようになり、バートは学校と掛け合い、グールドを午前は高校へ、午後はトロント王立音楽院へ行かせ、夜は、家庭教師をつけ学校の授業を補習させた。最終的に高校に1951年(19歳)まで在籍した。両親は進学を望んだが、グールドは反発し、最終的に必修科目である体育を履修せず高校は卒業しなかった。

音楽教育については、グールドは、1940年、7歳のときにトロント王立音楽院で音楽理論を[1]レオ・スミスから学び始める。転調や、和音の進行、声部の進行法、和声法の基礎をすぐに習得する。特に対位法に才能を発揮し、複数の主題を絡ませたり重ねたりできるようになる。

42年からは、[2]フレデリック・シルヴェスターからオルガンを教わる。シルヴェスターは、グールド一家と家族ぐるみの付き合いをした。グールドは、オルガンを弾くことで、「足を使って考えながら」弾けるようになり、低音部を強調することが、やがて対位法の音楽を好むきっかけになった。また、鍵盤を叩くのではなく「指先で弾く」技法を身につけたため、強弱で表現するのではなく、微妙なテンポの変化でニュアンスを表現するようになり、グールドのピアノ演奏は、清潔で、「まっすぐ(アップライト)()[3]アーティキュレーションのしっかりしたものなった。

フローラは、「この子は上達し過ぎた。私にはもう教えられない。」と思うようになり、自分にかわるピアノ教師を探し始め、王立音楽院の学長のサー・[4]アーネスト・マクミランと相談し、1943年、10歳のときに[5]アルベルト・ゲレーロに依頼することになる。

20歳年下の教え子と同棲するゲレーロ

この時、ゲレーロは、妻[6]リリーと娘メリザンドがいた。チリ人であるゲレーロは、母国から特別名誉領事を任命されていた。ところが教育や公演、出張などで忙しく、当局から名誉領事職をはく奪される。彼は管理者の気質ではなく、ましてや「ボス」の気質でもなかった。そのとき、リリーはゲレーロの代わりに自分を名誉領事に任命するように依頼するのだが、女性は適切でないとして拒否された。結局、ゲレーロは解任され、他の者が任命されるのだが、最終的にはゲレーロは、真剣に仕事に取り組むことを表明して、名誉領事に再登用される。

そのようないきさつで、夫婦はうまくいかなくなり、また、二人は人に好かれる魅力的な性格でどちらにも不倫の噂があった。そして、10年以上前から別居していた。

ちょうど夫婦が不仲になったそのころ、ゲレーロは、20歳年下の教え子[7]マートルと恋に落ちる。一方リリーは、離婚することはゲレーロを自由にし、マートルと結婚することを認めることになるので、離婚をしようとしなかった。

それでグールドを教えるようになったこの時、ゲレーロは57歳で37歳のマートルと公然と同棲していた。

二人が結婚するまでには長い時間がかかった。やっと、1948年に正式に結婚する。これは当時のカナダの法律では、離婚が「不当な扱いを受けた配偶者」からしか申し出ることができなかったからだ。チリのカトリック教徒にとって離婚は禁止されていたし、プロテスタントのカナダでも非常に珍しいことだった。そのため、ゲレーロは長い間苦労した。

トロント王立音楽院は、音楽家を目指す大人たちの大学であり、養成機関である。グールドの周りは大人ばかりだった。10歳以上違う年長者も大勢いた。クラス写真には、グールドだけが思春期にも達していない子供に写っている。この年長者たちに交じって、グールドはいっぱしの主張を堂々と言うのだった。

1944年、第2次世界大戦の連合国軍は、フランス、ノルマンディーに上陸し、戦況が悪化した日本軍は、とうとうレイテ島で《神風特別攻撃隊》を初出撃させた。だが、ここカナダは幸い戦場ではなかった。

ゲレーロは、チリ人の多才なピアニストで、サンチャゴで最初の交響楽団を結成して指揮した経歴をはじめ、南米で広く活動した後、アメリカを経て1922年からトロント王立音楽院の教授だった。ゲレーロは子供を教える気はなかったが、グールドは別だった。すぐにグールドの天才に気づき、グールドはゲレーロの寵児になる。影の薄いバートに代わって、ゲレーロは、グールドの新たな父親がわりの存在になる。

ゲレーロとグールド(11歳)

この写真のグールドは、普通の姿勢で弾いている。グールドのピアノを弾く姿勢は、オランウータンみたいに悪いと言われるほどだが、これにはゲレーロの影響がある。ゲレーロも、非常に低い位置で猫背で座り、なるべく指先だけで鍵盤を弾いた。この写真のグールドは11歳で、母フローラの教えによって、指は平らだが、まだ悪い姿勢で弾いていなかったのだろう。「子供のときグールドは、ゲレーロとまったく同じ座り方をするので、みな笑っていました」と[8]生徒の一人がいう。

この姿勢の悪い座り方については、一番心外だったのはフローラだろう。彼女は、つねに「グレン、背筋を伸ばしなさい!」と息子に言い聞かせてきた。ところが、息子にとってもっとも有害だと信じる姿勢で、ピアノを演奏するようになってしまい、公のコンサートの場でもそうだった。世間のピアノ経験者や新聞評でも姿勢の悪さはいつも指摘されるのだが、グールドは改める様子が少しもなかった。彼女は面目を失い、落胆していた。

だが、実際的な父バートは、それならそれで仕方がないと考えていた。バートは、椅子の足を約10センチほど切り、切った部分を真鍮の金具で囲み、その先に高さ調節用の回転ネジをつけた折り畳み椅子を作った。椅子は、わずか35センチの高さである。

生涯にわたって使い続けた椅子

グールドは、この父が作った椅子をどこへでも持って行き、終生、使い続けた。当然ながら年月が経つに連れて、椅子は草臥れていった。やがて座面の詰め物が飛び出し、晩年には、木枠だけになってしまうのだが、それでもこの椅子に固執し使い続けた。もちろんグールド自身も周囲の人たちは、同じような椅子を新たに作ろうとするのだが、やはり最初の椅子の使い心地の方が上回るのだった。

グールドは、それでもあきらめず、椅子をもっと低くしようとする。しかし、椅子をあまりに低くすると、今度は足が不自由になる。そのために、後にはピアノを数センチの高さの木製の台に乗せ、ピアノを持ち上げるか、特製の金属の大きな枠を作りピアノをそれに乗せて弾くようになる。

クロッケー(Wikipedia)

ゲレーロは、バートの手配でシムコー湖に別荘を買った。グールドとフローラ、ゲレーロとマートルは二組に分かれ、クロッケーを楽しんだ。運動など競争の価値を否定するグールドだったが、芝生上のビリヤードといわれる[9]クロッケーでは、負けず嫌いのグールドは、どんな汚い手を使ってでも勝とうとするのが常だった。だが、まれに負けると地団太を踏んで悔しがった。

グールドは性的なことはまだ何も知らなかった。しかし、50代半ばのキュービズムのような顔をした母と比べて、マートルに若い女性の性的な魅力を感じていた。

ゲレーロは、「ピアニストではなく、音楽家になりなさい。」とレッスンで言い、それが彼の思想だった。ピアニストはピアノが弾ければよいというのではない。人間的にも魅力のある人物になりなさいと教え子たちに常に求めていた。

実際、彼は音楽だけではなく、文学や絵画、ほかの芸術にも造詣が深いルネサンスマン(万能人間)だった。ゲレーロは、貴族的な育ち方をした。母はピアノの名手であり、姉妹や兄弟たちも医者や大学教授で同様だった。

もちろん彼の音楽の才能は、異色なほど優れていた。サン・サーンスのオペラ《サムソンとダリラ》を聞いた後、急いで家に帰り記憶を頼りに全曲を弾きとおしたというエピソードを、生徒の[10]スチュワート・ハミルトンに言ったことがあるのだが、ハミルトンはさすがに本当とは思えなかった。だが目の前のゲレーロは、何十年もスコアを見たことがない《サムソンとダリラ》の第1幕を弾き通した。他の生徒のレッスンでは、ハチャトリアンのピアノ協奏曲をレッスンする必要があったのだが、自分の楽譜が見つからなかった。そのときもゲレーロは、やはり、記憶を頼りにオーケストラのパートすべてを伴奏した。

もちろん、彼の才能は音楽だけではないのだった。彼はエスペラント語を含め数か国語を話し、文学や哲学に通じ、[11]コント、フッサールやサルトルまでが話題に上った。絵画通で自分でも画を描いた。美食家でもあり、ワイン通でもある洗練された教養の高い紳士だった。

ゲレーロは、また現代音楽に精通する擁護者だった。

彼は、シェーンベルクをグールドが16歳のときに教えた。

グールドは、最初この音楽をゲレーロから聴いたとき、この音楽を拒絶し、二人で激しい議論になる。しかし、数週間後にグールドはシェーンベルクの様式で作曲した曲をレッスンに持ってきた。ゲレーロは、手放しでその曲を褒め、現代音楽がグールドの目標の一つになる。

ただ一方で、ゲレーロはピアノの打鍵技法については、具体的に詳細な研究を重ね、独特の技法を編み出していた。[12]フィンガータッピングというのだが、右手と左手に分けて、右手の音を弾くときには、鍵盤の上に右手を置き、左手で右手の指をおして打鍵し、音を出す。こうして右手が自然に跳ね返る感触を身につけ、指の独立を促すというものだった。また、背筋を鍛えさせ、指の方には力を入れないで、曖昧さやむらのない打鍵ができるようにする。このような奏法では、火山の噴火のような爆発的な強音は出せない。つまり、リストやラフマニノフの協奏曲は諦めるしかなかったが、ゲレーロもグールドも、大ホールで何千人をも圧倒しようとする音楽にはあまり興味を持っていなかった。

グールドは、あまり練習をしない、むしろ練習をしない方がうまく弾けるというようなことを、プロになってからはよく言って周囲の反発をかうのだが、少年期は、このフィンガータッピングを徹底的にやり、とことん時間を忘れて練習に没頭していた。

ゲレーロが、グールドにピアノを教えようとすると、グールドは怒った。反発して従わないばかりか、逆のことをしようとした。このため、ゲレーロは、「この子を教えようとするのは逆効果だ。やめよう。」とすぐに悟った。マートルがゲレーロから聞いていたのは、「グールドを教える秘訣は、答えを自分自身で見つけさせることだ。すくなくとも見つけたと思わせること」だった。

実際、グールドとのレッスンで、

「グレン、それでいいよ」とゲレーロが言っても、

「いいえ、まだです」とグールドはと答えた。

完璧に弾けるまで延々とグールドは止めなかったので、いつも時間をオーバーしていた。おまけに、ピアノの実技というより、音楽に対する姿勢の議論が中心だったのも事実で、ゲレーロはグールドの音楽観を明確にすることに大いに貢献した。

グールドは成長するにつれ、ピアノは生涯独学だったと言い、ゲレーロを傷つけた。しかし、グールドのピアノを弾く時の極端に低い姿勢や、フィンガータッピング奏法は、はっきりとゲレーロの影響を受けている。

ゲレーロは、1959年(73歳)のときにヘルニアの手術後の合併症で亡くなるのだが、その直前に、先妻との間の娘メリザンドが、グールドが師のゲレーロを非難するような記事を見つけ、怒りながら父に見せると、ゲレーロは、”Al maestro cuchillada”(師をナイフで刺す[生徒は教師を恨むものだ])とむしろ誇らしげに言ったという。

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恩師を出し抜く

グールドは、1944年(11歳)になると、トロントで行われるキワニス音楽祭[13]へ3年連続で参加している。

あるトロント大学の美学の[14]教授は、この音楽祭の審査員たちを評し「いかにも忌まわしいタイプのイギリス人審査員、異邦人たちを啓蒙するのが目的でやってきた植民地主義者」と評した。イギリス風の音楽観だけでなく、イギリス人の風俗習慣や価値観をも強化することにあり、礼儀正しさがなにより優先される音楽祭だった。

グールドは、1966年の《[15]ハイ・フィデリティ》誌に《コンクール落ちこぼれ候補からひとこと!》というタイトルで、キワニス音楽祭にふれたユーモアあふれる辛口エッセイを書いている。

「・・・・ただし英語圏カナダでも、マイナーリーグ風の音楽祭の伝統は確かにある。しかしそれは、新進音楽家がプロとして立てるかどうかの命運を分けるようなものではなく、学生を審査する地域的な年中行事であり、高齢退職したような英国系学校関係者が主宰する。このような催しはお情けとなれ合いの雰囲気に包まれている。・・・」

それに続き、グールドはこの審査員たちを茶化し、「これはこれは、とても結構でした。67番の方ね。すばらしい気迫とか、ですね。ただ、複縦線のところでもつれたので1点だけ引かねばなりませんがね。慣れた提示部を通して4度というのは、ちょっとうんざりじゃないかな。」と書いた。

この1944年の第1回キワニス音楽祭で、グールドは一位を3つとった。1つは、バッハのプレリュードとフーガ部門で、周りはほとんどグールドより年長者ばかりだった。グールドは、200ドル(現在価値で2800ドル=31万円)の奨学金を得る。

1945年には、バッハとベートーヴェン部門で、一位2つと三位を取り、100ドルの奨学金を得る。この演奏はラジオで放送され、グールドにとって、初のオンエアとなった。

1946年には、またも一位を2つ獲得したが、それぞれバッハと協奏曲部門だった。

このとき、ゲレーロを伴奏者にして、ベートーヴェンの[16]ピアノ協奏曲4番第1楽章を弾いた。このころには、新聞などにはっきりと「神童」と批評が載るカナダ国内の本物の有名人になっていた。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番は、めずらしくピアノの独奏から始まるピアニストなら誰もが挑戦する名曲である。ベートーヴェンのピアノ協奏曲は第5番の「皇帝」が最も有名なのだが、第4番はピアノとオーケストラ(弦楽器)がまるで深遠な対話をするような違った趣で、「皇帝」以上に好まれる曲だ。

その曲の始まりは、「ダ、ダ、ダ、ダーン」と始まる交響曲第5番「運命」と同じ、同音連打を3度繰り返す。もちろん、「運命」のような大音響ではない。楽譜には「ピアノ」と「ドルチェ」と書かれているので、「小さな音」で、「やわらかく」という指示がある。しかし、これをピアノで習う生徒は、適度な快速さ(アレグロ・モデラート)で和音を和音として鳴らし、「運命」の動機と同じだと教わる。もちろん、グールドもピアノ教師からそのように教えられていた。このため普通は、同音の和音の連打であることを意識しながら弾くのだが、グールドは、「[17]アレグロ・モデラート」と指示されたこの曲をさらにゆったりと感情をこめて、わざと和音を強調するようには弾かず、下声部の和音を小さめの音量で弾き、高音部を引き立たせて弾いた。

このピアノ独奏の入りは、次に入ってくるオーケストラの同じ旋律の演奏に大きな影響を与える。「ほどよく快速」に、ピアニストが「運命」動機のように弾けば、オーケストラも「運命」動機のようにあっさり演奏する。しかし、ピアニストが穏やかにゆったりとモデラートで始めると、当然、受けるオーケストラもそのように演奏する。

グールドは、ピアノ教師から練習で何度か弾き方が違うと注意されるのだが、グールドははっきりと反論せず、はにかみながらも自分の弾き方を改めようとはしないのだった。

また、この2台のピアノによる第1楽章のみの演奏の後、この音楽教師からグールドは、来年の王立音楽院の年度末コンサートで、トロント交響楽団とこの曲で、プロオーケストラ・デビューするよう言われる。この話があった時、グールドは、11歳の時から2年間、毎日のようにこの曲をレコードで聴き、レコードに合わせ自分も演奏していたので、問題はないだろうと考えていた。

グールドが聴いていたレコードは、[18]シュナーベルだった。シュナーベルは、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、ブラームスといった狭いレパートリーを、単に技巧的に上手に、美しく弾くというものではなく、はっきりとメッセージ性を出し、曲からくみ取った自分の意図を聴き手に伝えようとしていた。

この演奏は、78回転のSPレコード全8面からなり、グールドは自動裏返し装置のついたプレイヤーで鳴らしながら、シュナーベルそのままに、ピアノパートを弾いていた。78回転で回るSPレコードは、裏表に溝があり、表面が終わると盤を自動的にひっくり返し、裏面の演奏を始める。レコードは全8面に分割されていたから、7回中断するのだが、グールドはその中断の間、[19]カデンツァを弾き、高揚を保っていた。また、その中断は、曲想の変化の造形上の重要な区切りでもあり、シュナーベルは表現法を変え、《[20]個人的述懐》を開陳するのだった。グールドも、同様の嗜好であり、この豊かで柔らかい曲の区切りを決するはっきりしたポイントを無視して弾くやり方は、我慢がならない。軽率かつ無配慮に、ゴール目指してすたすた前進する演奏では、もっと我慢がならないと考えていた。

ところが、グールドの演奏を良しとしないピアノ教師は、生徒の嗜好を甘やかすなどとはもっての外と考えて、グールドからシュナーベルのレコードを取り上げ、《個人的述懐》風な表現をするんじゃないと生徒に釘をさした。

そこで、グールドは一計を案じ、この教師との練習の間、[21]ゼルキン風にきびきびとした素早い演奏をし、ときに、洗練された[22]カサドシュ風熱情によって緩めて演奏してみせた。そして、教師のゲレーロは、グールドの進歩と従順さ、個人指導の分野における自分の腕前に至極満足を覚えていた。

ところが実際のトロント交響楽団(指揮は[23]バーナード・ハインツ)との本番で、グールドは、リハーサルでもやっていなかったシュナーベル風の演奏をはじめた。一部には、不満なところもあったが、幸い、オーケストラもうまく従いてきた。演奏後、グールドは意気軒高、師ゲレーロは面目丸つぶれになる。

この演奏を聴いた聴衆は、何度もアンコールを求め、報道関係者はこの少年の演奏を絶賛した。ただ、トロントの新聞《グローブ・アンド・メイル》は違った見解を載せ、「ベートーヴェンのとらえがたい『ピアノ協奏曲』第4番が昨夜一人の子どもの手にゆだねられた」「この坊やは、自分を誰だと思っているのだろう。シュナーベルだとでも思っているのだろうか」と結びに書いた。

ついで母殺し

グールドは、トロント交響楽団との思い出のうち、母親の思い出をユーモアと皮肉交じりで書いている。

これを書いたのは、グールドが7歳の頃、[24]「たわむれに記憶はすまじ あるいはトロント・シンフォニー・オーケストラの思い出」で、後に王立音楽院の校長になるサー・アーネスト・マクミランが指揮していたトロント交響楽団で、一般の聴衆の一人として見たときの母の様子を語っている。

「このコンサートに関して、もうひとつこんなことも覚えている。私は、両親といっしょに、たぶん私よりいくつか年上のごく上品な二人の男の子のすぐうしろに座っていたのだが、母が、彼らはサー・アーネストの息子たちだと断言した。私は、母がどこからそういう話を仕入れていたのか知らないが、彼女はこの種の情報を集めることに奇妙な偏愛を示していた。とりわけ、それらの情報を何らかの宣伝目的に使えるようなときはそうだった。あのとき、その二人の男の子は非の打ちようもなく飾り立てられていた。(あれはすみからすみまで宣伝の対象になっていた。ところが私は、実際のところ、その頃、われわれの社会の人びとにとっての模範になるには程遠い存在だった。)そして母は、彼らこそ、礼儀作法に関して私があこがれなければならないものの見本だと頭ごなしに断言した。そして私は、直ちに、彼らが大嫌いになった。」

同様に、グールドが初めてオーケストラと共演した1947年1月(14歳)、ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲』第4番の指揮者であるバーナード・ハインツを見た時の母を、次のように語っている。

「ソリストとして私がはじめてトロント・シンフォニーと出会ったのは、1947年のことだ。客演指揮者はオーストラリアのマエストロ、サー・バーナード・ハインツで、私はベートーヴェンの『協奏曲第4番』をひいた。サー・バーナードに関しては大したことは覚えていない。彼がきわめていんぎんな人物で、英国風の警句や、オーストラリア風の女性の手への口づけに夢中になっていた。母はすっかりのぼせあがっていた。」

グールドが公立中高一貫校のマルヴァーン高校に12歳で入学し、午前は授業を受け、午後はトロント王立音楽院へ行くようになってからは、グールドは「ダバ、ダバッ、ダッ」と歌いながら指揮をして、歩道と車道を交互に歩き、全くの変人で有名人だった。しかし、同級生がグールドを見る目は、将来グールドが天才的な音楽家になると自然に受けとるように変わっていった。

両親は、グールドの才能を潰さないように気にかけ、コンクールなどの競争は才能を潰しかねないと危惧していた。バートは、毛皮商としての商売でしっかり稼いでいたから、ピアニストの収入は大したことがないと思っていたし、息子にはもっと運動もして元気で暮らしてほしいと考えていた。ただ、息子の才能は高く感じていて、希望は何でも叶えようと思っていた。フローラは[25]不可能な子供を望んでいた。

「行儀がよく、姿勢よく座り、悪ガキのような、あるいはませた考えをしない天才少年、そして飛びぬけてはいるが、同時に周りに溶け込んでいくような子供を欲しかった。」

ある日、グールドがカナダの新聞記者からインタビューを受けた。

「グレン、君はどんなジャンルの音楽が好きなの。同い年の子は、ポップスだけど、興味はないの」

「ぼくはクラシックだけです。価値を認めているのは。」

それを横で聞いていたフローラがたしなめた。

「あなた、そんなことをおっしゃってはいけません。ポップスも好きな人が大勢いらっしゃるのよ。それに、あなたの気持ちもいつか変わるかも知れないでしょ」

フローラは少し立腹していたが、グールドは譲らない。

「そんなのクラシック以外の音楽に価値なんてないよ。ポップスなんて、うわっ滑りで下品で、当然じゃないか。」

「そんな決めつけるようなことを子供のあなたが言い張ってはいけません」

また、話は[26]カルーゾへ移る。カルーゾは、母フローラとグールドがこの会話をしていた20年以上前の1921年に亡くなったテナー歌劇歌手だった。一般大衆に広がったオペラ歌手の草分けといっても良かったが、テナー歌手でありながら、低いバリトンの声からテノールまでの広い音域を滑らかに出し、その声は明るく軽いテナーの声ではなく、むしろ暗くて渋い声も出せた。それはオペラ界で求められる声質だった。当時は、マーラー、トスカニーニと言った厳しい指揮者や、プッチーニと言った作曲家の前で歌うこともあり、彼はいつも原曲に忠実で端正な歌唱力で歌った。

同時に、レコードプレイヤーを蓄音機と呼んでいた時代に、レコード録音を初めてした数少ない歌手だった。彼の実力により、いつまでも世界的な人気があった。あまりに人気が衰えないので、過去の録音が新録として再発売されていた。

グールドは、よく知らないカルーゾを批判的に断罪した。

「カルーゾなんて、偽物だよ。ちっともたいしたことないね」

「だめです、そんなこと言っちゃいけません。どうしてあなたがそうとおわかりなの。あなたはまだ子供で、判断するには経験がまったく足りていないでしょ」

「彼は道化でインチキなんだよ。人気なのは、競争相手がいないので運が良かっただけだ」

「いい加減になさい、グレン。カルーゾのことをあなたはどれだけわかっているの。あなたはレコードもろくに聴いていないでしょ。レコードでは、瘦せた音でしか聞こえないわ。カルーゾは、バリトンからテノールまで出せる、巨匠なのよ。わたしもおとうさまも、熱中したものよ」

「そんなの、すこし聞けば分かるじゃないか。ママは耳が悪いの。」

と、グールドは、今は亡きカルーゾのことをよく知らないまま断定し、母との論争を最後まで譲らなかった。

フローラは、オペラ歌手を目指していた過去があった。カルーゾは、イタリアの歌劇王であり、フローラがレコードを何枚も持っている尊敬する歌手だった。しかし、グールドはカルーゾにショービジネス的なものがあるのを感じ取っていた。グールドは、そうした商業主義は敵だと感じていた。しかし、クラシック音楽に商業主義的性質があるのは、当然だろう。その商業主義的な演奏の中に、優れたものとそうでないものがあるだけだろう。

自説を曲げないグールドは、ある程度成長するにつれ、北欧の音楽であるバッハやベートーヴェン、シェーンベルクなどの新ウィーン学派の現代音楽を肯定し、南欧の音楽であるイタリアオペラなどは享楽的だとして好きにはなれなかった。


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[1]  レオ・スミス 1881-1952 作曲家。トロント音楽界の重鎮

[2]  フレデリック・シルヴェスター1901-1966 イギリス。オルガン奏者、合唱団指揮者

[3] アーティキュレーション(articulation) 音楽の演奏技法において、音の形を整え、音と音のつながりに様々な強弱や表情をつけることで旋律などを区分すること。

フレーズより短い単位で使われることが多い。強弱法、スラー、スタッカート、レガートなどの記号やそれによる表現のことを指すこともある。アーティキュレーションの付けかたによって音のつながりに異なる意味を与え、異なる表現をすることができる。(Wikipedia)

[4]  サー・アーネスト・マクミラン1893 – 1973 カナダの指揮者。遅めのテンポを好むことから「ラルゴ卿」の異名をとった。

[5]  アルベルト・ゲレーロ 1886 – 1959 チリ出身のカナダのピアニスト・作曲家・音楽教師。現在では、グレン・グールドの学生時代の指導者として記憶されるが、トロント王立音楽院での長年にわたる指導を通じて、何世代にもわたって人材を輩出してきた。

[6] リリー(Lily Wilson Guerrero) チリの上流階級で生まれ、高価なものを好んだために家計を圧迫した。夫婦二人とも人柄がよく魅力的で不倫や浮気の噂があった。メリザンドという名前のむすめがいる。

[7] マートルローズ(Myrtle Rose) 1906年、サスカチュワン州ノースバトルフォード生。アルバータ州レスブリッジで幼少期の教育を受けた。彼女は1928年にトロントにやってきて、トロント王立音楽院で学び、最初はピーター・ケネディ、次にゲレロに師事した。

[8] マーガレット・プリヴィテッロ ゲレーロの生徒の一人だが、彼女はゲレーロから「一日中ピアノばかり弾いていてはだめだ」と言われ、音楽以外にも興味を持つように指導されていた。彼女は、「グールドはゲレーロの息子がわりだった」ともいったことがある。

[9] クロッケー イギリス発祥の芝生上の球技。クロッケーはフランス語、英語はクリッケット。体力的なハンディキャップがなく年齢や体力に関係なくプレイできる。特徴はクロッケー・ショットで、接触させた2個のボールのうち自分のボールを打ち、任意の位置に転がす。ビリヤードと同様、ボールの転がる割合と、転がる方向を打ち方で制御し、他のボールを利用して早くゴールを競い合う。技術と知力が必要。

[10] スチュワート・ハミルトン(Robert Stuart Hamilton)1929 – 2017)ピアノ伴奏者、声楽の教師でもある。カナダ・オペラ界の顔の一人で1985年、カナダ勲章を受章。

[11] コントとサルトルはフランス、フッサールはオーストリアの哲学者

[12] フィンガータッピング 神秘の探訪・ケヴィン・バザーナ

[13] キワニス音楽祭 1944年からトロントで開催された音楽祭。多くの少年、少女がカナダ全土から参加したが、プロを目指す音楽家の登竜門でない。

[14] トロント大学の美学の教授 1926年、カナダ東部のハリファックス生まれのジェフリー・ペイザント。トロント大学哲学部で美学を講じ、グールド存命中の1978年に《Glenn Gould, Music & Mind, Geoffrey Payzant》《日本語版 グレン・グールド、音楽、精神 訳:宮澤淳一 音楽之友社》を刊行し、グールドの音楽的思考を真正面から再検討した。

[15] ハイ・フィデリティ誌 1951年から1989年までアメリカで刊行されたオーディオと音楽の専門雑誌で、1989年半ばに、《ステレオ・レヴュー》誌に吸収された。

[16] 《神秘の探訪 88頁》

[17] Allegro Moderato アレグロ・モデラート ほどよく快速に

[18] シュナーベル アルトゥル・シュナーベル(Artur Schnabel, 1882- 1951)オーストリア→アメリカのユダヤ系ピアノ奏者、作曲家。シュナーベルは技巧よりも表現を重視した演奏を行ったが、大げさな表現をよしとせず客観的な表現に特に重きを置いた。シュナーベルのベートーヴェン解釈は内面的な精神と外面の造形を絶妙に両立させたものといわれ、後の世代のベートーヴェン弾きであるバックハウスやケンプらとの解釈とは一線を画す解釈を繰り広げた。(WIKIPEDIA)

[19] カデンツァ 協奏曲などで、独奏楽器がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏をする部分のこと

[20] 《個人的述懐》:音楽誌である《ハイ・フィデリティ(1970年6月)》にエッセイ「孤島のディスコグラフィ」にグールドが寄稿している。孤島へ持って行くレコードとして、中世の作曲家ギボンズ、シェーンベルク、シベリウスの3枚をあげたあと、思春期に独特の役割を果たした思い出の曲として、ベートーヴェン第4番の協奏曲を4枚目に挙げている。この14歳のコンサートデビューのエピソードに、ピアノ教師であるゲレーロに逆らって、練習ではゼルキン風に弾き、本番ではシュナーベル風に弾いて、ゲレーロの面目をつぶしたと書いている。このシュナーベル風演奏を《個人的述懐》と表現している。(「グレン・グールド著作集2」(みすず書房、ティム・ペイジ編 野口瑞穂訳))

[21] ゼルキン ルドルフ・ゼルキン(Rudolf Serkin, 1903 – 1991)は、ボヘミア出身のユダヤ系ピアニスト。

[22] カサドシュ ロベール・カサドシュ(Robert Casadesus, 1899 – 1972)は、フランスのピアニスト・作曲家。

[23] Bernard Heinze (1894– 1982)オーストラリアの指揮者。この時の演奏のことを、グールドは、「彼がきわめていんぎんな人物で、英国風の警句や、オーストラリア風の女性の手への口づけに夢中になっていた。母はすっかりのぼせあがっていた」と書いている

[24] 「たわむれに記憶はすまじあるいはトロント・シンフォニー・オーケストラの思い出」《ぼくはエクセントリックじゃない グレングールド対話集》音楽之友社 ブリューノ・モンサンジョン編 この文章は、モンサンジョンによるとグールドの死後時間がたって見つかったようだ。

[25] フローラは不可能を望んでいた(神秘の探訪:バザーナ) 友人フルフォードの回想

[26] エンリコ・カルーソー(1873 – 1921)Enrico Caruso、イタリア、ナポリ生まれ。歌劇歌手。オペラ史上において有名なテノール歌手の一人。レコード録音を盛んに行ったスター歌手は彼が最初だったこと、20世紀最初の20年間という時代もあって、カルーソーは円盤型蓄音機の普及を助け、それが彼の知名度も高めた。カルーソーが行った大衆的なレコード録音と彼の並外れた声、特にその声域の広さ、声量と声の美しさによって彼は当時の最も著名なスター歌手である。


第5章 神童誕生

神から授かった念願の子

グレンが生まれたのは、フローラが41歳になる直前だった。何度もの流産をへた高齢出産で、出産の1週間前から看護婦が泊まり込み、医者が毎日往診にやってきた。そうして生まれたグールドは夫婦にとって、やっと「神から授かった念願の子」だった。

1932年9月25日に生まれたグレン・グールドの出生証明書には、「[1]ゴールド、グレン・ハーバート」と書かれている。つまり、グールドが生まれた一家の苗字はもともと、ユダヤ人に多い「ゴールド」だった。バートが従事する毛皮業界は、衣料業界と同様ユダヤ人労働者が多く、ユダヤ人と誤解されることを避けたかった。そのため、一家は第二次世界大戦が勃発した1940年ころ、ユダヤ人排斥運動の激化にあわせ、「グールド」姓に改名した。

この1932年は、世界大恐慌のただ中にあり、日本では昭和恐慌と呼ばれ、人々のひどい貧困や悲惨な状態を目にせずにはいられなかった時代だった。しかし、裕福な家庭と幼い年のせいで、グールドは、そのような現実から守られていた。

音楽を愛した両親の目には、グレンの音楽の才能が明らかだった。生まれてすぐ、グレンは、まるで音階を弾いているように指を動かし、両腕を前後に揺らし指は動きつづけた。赤ん坊のグレンは、ほとんど泣かず、手をひらひらさせながらハミングするのだった。しかし、赤ん坊がほとんど泣かないというのは、あきらかな異常だ。手をひらひらさせる動きは、言語の発達における異常に関連して、自閉症を示しているのかもしれない。

バートは、グールドの誕生の様子を、彼の死後1986年にフランスで行われた「グールド展」のパンフレットにこう書いている。

「祖母の膝に乗ってピアノに向かえるようになるや、たいていの子どもは手全体でいくつものキーを一度に無造作に叩いてしまうものですが、グレンは必ずひとつだけのキーを押さえ、出てきた音が完全に聞こえなくなるまで指を離しませんでした。次第に減衰していく音に、すっかり魅せられていたのです。・・・・」

フローラは、グールドの首がすわるようになると、揺れる膝の上に赤ん坊をのせ、ピアノと美しい歌声を混然一体に演奏し、赤ん坊は母を感じながら聴いていた。母は、自分が親しんでほしい音楽を弾いて聴かせた。小さいころに覚えた歌、古い民謡、日曜日の礼拝の讃美歌やコラール、自分が生徒に教えているバッハやショパンの小品・・・。母はピアノを弾きながら、同時に美しい声で旋律を歌い、大事な旋律はこれよと赤ん坊に教えた。

息子の小さい手を取り、光沢のある「黒」と「白」のレバーに触れさせた。そしてその手を押し下げて、出てくる音を彼女の豊かな歌声や演奏と重ねた。母と子とピアノはすぐに一体化する。

フローラは、グレンが「[2]特別な子」となり、将来、音楽をとおして世界に貢献することを常に願っていた。そんなフローラの価値観は、ちょっと変わったところがあった。「音楽」に重きをおきすぎ、その他の面の成長はあまり顧みないのだった。

フローラは、ピアノを「[3]ピアナー」という変わった発音をして、何か特別な思いがあったのかもしれない。

フローラはまず、グールドに音楽の仕組みと決まりを教えようとした。フローラは厳しい教師だった。正しい打鍵と正しい発声をさせ、正しくできると褒め、できないと非難の声を出し定規で叩いた。経過句ひとつでもいいかげんに弾かせず、一音たりとも間違った音を許さなかった。グールドはすぐに理解し、ほどなく間違わなくなった。フローラは、この指導法を他の生徒にもとる厳しい教師だった。

グールドが、3歳になるころ、両親は息子に絶対音感があることに気づく。絶対音感は、調性や転調をすぐに識別する能力であり、耳で聴いたり、想像した音楽を書き留める能力も含まれる。複雑な曲の構造を直感的に理解するには必須の才能だが、大人になってから獲得するのは難しい。

母と子は、和音の当てっこで遊ぶようになる。母が、さまざまな和音を弾き、離れた部屋の息子が弾かれた和音をあてる。多くの音楽の天才たちがするゲームである。

「グレン、これは?」とフローラが、ピアノで和音を鳴らす。フローラは、不協和音に近いジャズで鳴らすような和音を弾いた。

「ママ、そんなのチョー簡単だよ!オクターブ下のD、Bと真ん中のD、F#、Gだよ。」

グールドは、この和音あてを間違えることは全くなかった。遊びのあと、フローラは、グールドを膝の上で頭を犬のように撫でるのだった。グールドは、母の願いを受け止め、母の願いをかなえることでご褒美がもらえると知るのだった。

少しするとグールドは、一度聞いた曲を覚える才能をみせる。一瞥しただけの初見で曲が弾けるようになる。また、聞いた曲を音符にしたり、作曲もするようになる。

グールド家には、メイドも乳母もいたが、グールドは、一人っ子で、やってくるのは叔父、叔母、祖父母などの老人、それも女性が多かった。同年齢の友だちや競争相手がいなかった。唯一の競争相手は、母にピアノを教わりに来る他の子どもたちだけが、母がとられる不安をひき起こしたくらいだった。

グールドは、両親の愛情を過剰なほど与えられ、経済的になに不自由のない家庭で、ユーモアのある才気煥発な子へと成長する。母は、息子への定期的なピアノ・レッスンを始め、他の子どもたちのレッスンを減らした。彼は、文字を読むよりも早くに、楽譜が読めるようになる。母は、グールドの健康を心配して、ときどき外で遊ぶよう言うものの、強くは言わなかったし、グールドは運動より、ピアノの中に、自分の世界を見つけて熱中する。

グールドが、何かの理由で両親の言いつけを守らないとき、グールドを叱りつける一番良い方法は、ピアノの蓋を閉じ、鍵をかけてしまうことだった。放っておくとグールドは何時間でもピアノを弾き続けた。そのため、フローラは、グールドにピアノを弾いてよい時間を一日4時間に決めていた。

他の生徒と比べると、グールドの才能は明らかに頭抜けていた。そのうえグールドは、音楽の技量と知識を恐るべきスピードと正確さで身につけていく。

教会で親子の出演

グールドは5歳の時に、両親と初めて公開の場で演奏をした。[4]トロント郊外の教会で、日曜午後の礼拝の中で両親が歌う二重唱に合わせて、グールドがピアノ伴奏をした。会場の2,000人の観客の誰もが、5歳の子どもの演奏に大いに感銘を受けた。続くプログラムで、ふたたび父バートが独唱曲を歌った。

この翌日、トロント市内の[5]教会の50周年の祝典の一環として、グールドはピアノ演奏をした。このとき地元の新聞はこう書いた。

「グールド夫妻のグレンという名の5歳の子息が数曲のピアノ演奏を行ったが、聴衆ははじまるやいなや強い印象を受けた。音楽の天才の卵を目の当たりにしたからである。演奏曲目はどれもすばらしかったが、この少年自身の作曲した2曲はことのほかすばらしく、その年齢を考えると驚くべきであり、近い将来カナダの才能ある作曲家たちの仲間入りをするであろうと思わせたのである。」

半年後には、トロントのはずれにあるインマヌエル長老教会で、金曜日の晩に催された子どものための演奏会で独奏をした。このときの演奏会は有料で、大人25セント、小人15セントだった。(現在価値で、大人23ドル=2500円、小人14ドル=1500円)入場料は、慈善団体に寄付され、グレンの演奏は11の演目中の3番目だった。

フローラは、グールドが3歳になるころには、モーツァルトと比べられる才能があるのではと思うようになる。育ち方や、子供時代が同じようだと思い、天才の素質があると確信する。ますます、グールドの音楽教育に力を入れるフローラ。それにこたえるグールド。フローラは、音楽に専念するようしむけ、家での手伝いを免除し、グールドはさらに友達と遊ばなかった。

確かにモーツァルトは、神童で天才だった。しかし、背を向けて後ろ手でピアノを弾いたり、軽業を披露しながら、父レオポルドについて猿回しの猿のように、貴族の間を回りながら育った。貴族たちに支持され、華やかな時代も過ごしたのは事実だが、やがて浪費癖により生活に困窮し、健康にも恵まれず失意のうちに35歳で早逝した。大演奏家で、大作曲家だったことは間違いないが、才能が駆け足で浪費され、人生は幸福ではなかった。

スペイン風邪

フローラは体が弱く、強い心配性だった。息子がちょっと鼻水を垂らせば、薬を飲ませて床につかせた。いつも風邪をひかないように、たいそうな厚着をさせていた。他の子供が薄着で走り回っている夏でさえ、つねに厚着をさせていた。

しかし、彼女の心配性には理由があった。夫バートの父、トマス・グールドが、先妻との間にもうけた第1子を1歳になるかならないかで亡くしたということを聞いていたし、それよりもつよい不安をもっていたのは、1918年のスペイン風邪の記憶だった。スペイン風邪を、フローラが27歳、バートが17歳の時に経験していたからだ。このスペイン風邪の伝染は、3波に及び、まずアメリカから広がり、最終的に当時の世界の人口18~19憶人の約27%にあたる、5億人が感染し、じつに4,000万人以上が死亡したといわれる。この年に終わった第1次世界大戦の死者数が1,000万人ともいわれ、スペイン風邪の猛威は圧倒的だった。

そのうちアメリカの死者は、最終的に50万人だったが、日本にも広がり、当時の人口5,500万人のうち39万人が死亡、焼き場では順番待ちの行列ができた。しかも、この感染症は、子供や高齢者より、若年層の死亡を多くひき起こし、人々の恐怖も強かった。

フローラの病原菌にたいする心配は、このスペイン風邪が原因だったが、他にもあった。グールドが生まれた1930年代はポリオ(小児麻痺)が大流行し、おおぜいの子供たちの命を奪い、助かった場合も、手足のまひなどの運動障害を残すことがあった。当時の医療水準では、《鉄の肺》と呼ばれる箱の中の気圧を下げた鉄製の拷問器のような人工呼吸器に子供たちを入れなければならず、この治療法もフローラをおおいに不安へと陥れた。

1950年代、「鉄の肺」で治療を受けるポリオ患者の少年
Photo: Kirn Vintage Stock / Corbis / Getty Images

しかし、やはりフローラの心配性はたしかに度を過ぎて、[6]パラノイアといってよいレベルだった。彼女のしゃくし定規な性格からくるパラノイアは、息子へと確実に引き継がれた。

変わった性格

また、グールドの生まれながらの性格もどこか変わっていた。それは、ある女性から、消防車のおもちゃをもらったときだったが、赤色の消防車の「色」が原因で、かれは激しいかんしゃくを起こした。消防車は、赤く塗られているのが普通だが、彼は、明るい色、とくに赤色がまったく苦手だった。彼が好きで心が落ち着く色は灰色であり、彼がいうには、《戦艦グレー》と《ミッドナイトブルー》だった。

同じように、眩しく晴れた日はテンションが上がらずダメだった。晴れた日よりも、曇った日が好きだった。彼は成長し、学校を退学した18歳の頃、教会へ行くのを完全に止め、昼夜が逆転した生活を送るようになる。夜は、仕事がはかどるという理由で好きで、朝日を嫌う彼は、明け方、日の出の直前に眠る生活の《夜型人間》になる。

英語には、「[7]どの雲も、うらは銀白」という(ことわざ)がある。この言葉はどんな不幸にもよい面があるという意味だが、グールドは、これを裏返しにモジり、「どんな銀白も、裏には雲」を生涯のモットーにしていた。

母親とピアノの世界を彷徨っていた彼は、やがて小学校に上がる年齢になる。学校へ行かないわけにはいかないが、他の子供たちとの付き合いがない。当然ながら、音楽以外の教育をどうするかという問題がとうぜんある。ただ、グレンが普通の子ではないことはすでに明らかで、音楽の才能を伸ばすことも親の務めだと、両親は考えていた。学校に行くのが心配なのはグールドだけではなかった。両親も心配だった。結局、最初の1年間は、グールドを学校へ行かせず、家庭教師を雇うことにした。

グールドは、28歳の1960年に、雑誌《ニューヨーカー》の人物紹介欄に載ったインタビューで、ライターの[8]ジョゼフ・ロディに次のように語っている。

「6歳の時に両親に言って、なんとか納得させたのは、自分はまれに見る繊細な人間なのだから、同じ年頃の子供たちから受ける粗野な蛮行に曝されるべきではないということでした。」

その結果、グールドは、6歳の1938-1939年の学年(9月から翌6月まで)は自宅で家庭教師をつけてもらい、学校へ行くのを猶予された。

これにグールドは付け加えている。「わたしを書こうとする記者のなかには、これによって自ら墓穴を掘ったのだと考える人もいます。」と。

結局、グールドは、1年遅れで、自宅の裏にあるウィリアムソン・ロード・パブリックスクール小学校に入学する。しかし、学校は彼にとって明らかに不幸な場所だった。集団活動を忌み嫌い、スポーツもすべて苦手だった彼は、ピアノを優先しほかの子供たちとの接触を避けた。級友がボールを投げても、後ろ向きに体をくねらせてボールを触ろうともしないという態度を、級友たちはののしり、いっそうグールドを自意識過剰で不愉快にさせた。

父殺し


グールド家は、トロントから北に車で2時間(約150KM)ほどの[9]シムコー湖に別荘を持っていた。その別荘からもっとも近い町がオリリアである。そこで一家は、毎年、夏の休暇を過ごしていた。

グールドは、6歳の時、バートと近所の家族と、シムコー湖へボートで釣りに出かけた[10]。ビギナーズラックだったのかもしれない。最初にパーチを釣り上げたのは、グールドだった。彼は、釣り上げた魚と目が合って、魚の目に周囲の景色を見たような気がした。あまりに強烈な体験をしたグールドは、魚の苦痛を感じて湖に放そうとする。グールドが、バタバタと魚と苦闘するとボートが揺れ、近所の父親がパーチをグールドの手の届かないところへやってしまった。

「船を揺らすんじゃない!座るんだ!」

と大きな声でどなり、グールドを席に押し戻した。皆は笑った。パニックになったグールドはひどい癇癪を起し、飛んだり跳ねたり足を踏みならし、自分の髪を引っ張ったりして、岸に戻るまで、金切り声を上げ続けた。グールドは、

「その家の子どもたちとは、夏の終わりまで一言も口を利かなかった。」という。

グールドは、父に魚釣りを止めるよう10年間にわたり懇願し続け、とうとう最後には、父に魚釣りの趣味を諦めさせた。グールドは、「たぶんこれまでぼくの成し遂げたなかで最もすばらしいことだ」と言った。

大人になってからは、愛犬や友人を連れて、しばしば轟音を立ててボートを乗り回し、釣り人たちの怒りや罵声は無視し魚を追い散らし、釣り人が釣りをするのを妨害するようになり、自らを「[11]シムコー湖の征服者」と呼んでいた。

当時のプロテスタントの家庭が一般的にそうであるように、グールド家で、性的なこと、下品なことを言うのはタブーだった。グールド家では、この傾向が特に強く、こうしたことをいうのは教養のなさだと考えていた。

ある程度の年齢になると、少年たちは平気で「ファック!」などと卑猥な言葉や異性をからかうような言葉を口に出すものだが、グールド家ではこのような性的な発言は徹底的に避けられた。

友人が、「ファック!」というのを聞いたグールドは、

「そんなことを言っちゃいけないよ。」

「そういうことを言うならおうちに帰って。」

と、母親が言うように言い、友人たちを面食らわせた。

また、グールドは毛皮商という職業が、ミンクやその他の動物を捕獲し、動物を殺すことを知り、嫌い、公然と父の職業を批判した。

グールド家では、グールドが12歳になると、フローラは54歳になっていたが、グールドと父バートが、一晩ごとに交代でフローラのベッドで寝る取り決めだった。父バートは、フローラより10歳年下で堅実な性格で商才に長けたスポーツマンだったが、口数が少なく家庭では影が薄かった。

のちのことだが、フローラが亡くなった後、バートは再婚するのだが、これにも反対し結婚式にも出なかった。

音楽への逃避 映画「ヒアアフター」から

グールドは、小学校に入るころには、まったく近所の子供たちからかけ離れた存在になり、そりが合わないグールドは、ますますピアノに逃げ込んだ。彼は、ピアノに《音楽》という別の世界を見つけ、そこを住処にした。それが人付き合いの術や社会性を成長させなかった。

グールドは、動物好きで、飼っていた動物に名前を付けていた。金魚、犬。父、母。人間よりも動物の方がうまく付き合える。

ヴァイオリン奏者で映像プロデューサーの[12]ブリュノ・モンサンジヨンが2006年に作った映画、「[13]HEREAFTER(ヒアアフター/彼岸へ)」のなかで、グールドを演じたナレーターが、小学校へ行きはじめたころのグールドを語っている。

この映画では、グールドが家庭のテープレコーダーに録音した、メンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソ[14]の穏やかなアンダンテの4拍子がプレストの3拍子へと変わるところまで流れる。練習をやめ、グールドがピアノから立ち上がるシーンである。この曲は、ピアニストを目指す者なら誰でも弾く有名な曲だ。ダボっとした服を着たまるで映画の主役の美男子の青年が、恍惚としてピアノを弾いているのだが、突然ピアノ[15]から立ち上がる。

場面が変わり、母フローラが、生まれたばかりのグールドを抱いている写真や、一家が生まれたばかりの赤ん坊を中心にして、幸福そうな父母と赤ん坊の写真がつぎつぎ写される。グールドの声のナレーションは、こう続く・・・

「母、フローレンス・グレイグ・グールドは、僕の最初のピアノ教師だ。キリスト教を信仰する家庭の出身で、トロントにある長老派教会のオルガン奏者として、神に仕えていた。」

「5歳のとき、僕は、自分が並外れた繊細さの持ち主であり、その繊細さを粗野な蛮行ばかりを求める現代の子供たちの前でさらけ出すことは無理だと、両親を説得することに成功した。だから、僕は1938年と39年の間、僕が預けられた家庭教師のもとでとても気持ちのいい余暇を過ごすことができた。」

ここで映画は、グールドが脚本と主演を兼ねた「グレン・グールドのトロント」(1979年、[16]CBC放送局)のシーンが使われる。グールドがトロント市内を案内するという趣向のテレビ番組で、グールドが、カナダ軍近衛兵の儀礼砲が飛び交う中に紛れ込むシーンがつかわれる。頭上で炸裂する空砲の煙と音に首をすくめ、「ゴッド、セイブ・ザ・キング”God, save the king”(国王陛下万歳)」とつぶやくグールド。

「だが、1939年がやってきて、イギリス人の魂を持つ者たちにとって、武器を持ち自らを捧げなくてはならない時がやってきた。こうして9月のある寂しい朝に僕の幼年期は終わりを告げた。」

「無為に暮らすために生まれた僕は、お国のために学校への道をたどらなくてはならなかった。どうやったら自分を外界の不条理な風俗から守ることができるのだろう?この突然の変化には目が回りそうだった。僕は子供社会の渦巻きの中に飛び降りたようなものだった。僕には団体で行動するという意思が完全に欠けていた。僕が一番嫌いだったのは、勉強のためにあてられた時間ではなく、余暇や休憩にあてられていた時間だった。」

「耳が少しでもいいすべての女性教師が好んだのは、音楽的な娯楽、あるいはカノンなどの原始的な多声音楽だ。クラスの一列ごとに[17]カノンのパートを受け持った。クラスの友達はそれぞれちゃんと役割を果たしていたが、僕は自分が役立たずに思えたので、もっと個性的な活動だけに専念し、自分の力を発揮することに決めた。だから、クラスの中で僕だけが拍子はずれに歌った。このことで、僕らの歌に半音階の興趣を与えたかったのさ! しかし、僕らの先生、ミス・ウィンチェスターは歌を途中で止めさせ、僕の頭上でチョークを叩き潰した。」

こんどは、ショパンのエチュード第2番イ短調が流れる。ショパンの練習曲の中でもっとも難しいとされ、アレグロなのだがもっと速く、難なくサラサラサラっと弾いている。こんどはたっぷり流れる。手袋をはめた親指と中指が素早くこすりあわされる画面が大写しになり、頭上に、先生のチョークが降ってくるのがイメージされる。家庭用のテープレコーダーに採られた16歳の録音だが、すばらしくキレの良い演奏だ。

「初めて自分と他とを非好意的に識別したのは、音楽においてのことだった。他の生徒たちと仲良くできない、ということが僕を音楽へ、そして想像世界の奥深くまで逃げ込ませた。」

「音楽に対する僕の情熱は、仲間たちとの紛争よりも大きな比率を占めていた。10歳からピアノとオルガンでの技術獲得が、僕の存在全体を飲み込んでいった。そして僕の[18]対位法への情熱がミス・ウィンチェスターまでを黙らせた。」

こころの中の魔物と一家のモンスター

こうして、小学校へ入学したグールドは、級友たちとのつき合いもぎこちなく、目立って変人で、同級生たちにいじめられる。グールドはのちに当時をふりかえってインタビューでこう答えている。

「学校へ行くのは本当に悲しかった。教師たちのほとんどとうまくいかななかったし、同級生とはだれともだめだった。」

また、トロント・デイリー・スター紙に「グールドは、いじめられて、よく学校から泣きながら帰った。」と書かれると、グールドは、

[19]僕が手を出さないものだから、近所の子供たちは僕を殴っては喜んでいた。しかし、毎日殴られていたというのは、誇張だ。実際には、一日おきだったから。」

彼は、本当は興味がなくとも、アイス・ホッケーや野球に興味があるふりをする子ではなかった。誰かとつき合うという考えがまったくなかった。ほかの生徒たちから、ぽつんとはなれていた。

ある日、いじめっ子がグールドを追いかけて家の近くまでやってきて、グールドをついに殴ってしまう。ところが、グールドは、即座にその子を力いっぱいに殴り返し、その子の襟をつかんで揺さぶりながら、

「二度と近寄るな、今度近づいたらぶっ殺すからな!」

とやりかえした。いじめっ子はグールドの気迫に完全に震え上がり、グールドも自分の本気さに恐ろしくなる。両親から教わってきたキリスト教の教え、それに背く自分の心の中に、得体のしれないものを見たのかもしれない。

またある日、具合が悪くなった級友が、みんなの前で突然吐いてしまうということが起こる。吐いた子どもと汚物の周りで同級生たちが凍り付いてしまう。衆人環視の状態で自分の尊厳が傷つけられることを極度に恐れるグールドは、いつでも飲めるようにミントをポケットに忍ばせる習慣をはじめる。成長につれて、ミントは、アスピリンへ、向精神薬へとかわっていく。

母親と喧嘩した時にも、自分に恐怖を感じるようなことがあった。1965年から1979年までの15年間、レコード・プロデューサーを務めた[20]アンドルー・カズディンは、フローラとの間にあった、確執のエピソードを聞いている。

グールドが子供の頃、母親と家庭内で以前から取り決めてあった何かの約束事に反する行いを彼がしたため、母親がたしなめ、それでつい言い争いになったことを聞いている。そのとき、グールドは怒り心頭に発し、一瞬自分の母親さえ肉体的に傷つけてしまう、いやそれどころか殺害してしまうことさえできる気持ちになったという。むろんそれは、瞬間的な激情の高まりにすぎなかったが、彼自身は、たとえ一瞬とはいえ、自分が母親を殺すという恐ろしいことまで考えたという、動かしがたい事実に愕然としたという

そして、その後人前に出るときグールドは、憤怒という彼の内側に棲む魔物を二度とふたたび外にだすまいと自ら誓って生きてきたとそのプロデューサーに語っている。

父バートは、手堅い商売を営む男で、現実的で深く音楽を愛していたものの、グレンには健康で男らしくスポーツもし、将来は家業を継いでくれる子供を望んでいたが、やはり子供の才能は誇らしく、子供の願いを何でも叶えたいと思っていた。

グールドは子供時代から、同じピアノに長く満足することはなかった。バートは息子のために、新しく、質のよいピアノを買いつづけた。最初はアップライトを何度か買い替え、のちにはグランド・ピアノを買い替えるようになった。グールドが12歳の時に無邪気に欲しがったパイプオルガンは、さすがに尻込みしたが、10代のグールドはすでに夜更かしの癖がつき、夜半まで練習したがったため、バートは、6,000ドル(現在価値で3,500万円)をかけて、家の後部の壁を取り壊し、音楽室を作った。グールドは、その部屋をたくさんの本、楽譜、録音装置、そして「もう一台のグランド・ピアノ」などでいっぱいにした。

一家はトロントの北部、シムコー湖に別荘をもっていたので、バートはほぼ毎年、アップライトピアノを新しく買い換えていた。冬の厳しい寒さのために1,2年でピアノはダメになってしまうからだった。

フローラは、このグールドが7歳の頃には、自分にはもうグールドにピアノを教えることがないと感じていた。あまりに、グールドはフローラの教えることを完璧にこなすようになったからだ。

フローラは、非凡なグールドを教えるようになってから、生徒の数を減らし、ほぼ慈善学校の生徒に絞って教えていた。ただ、以前から、ピアノ教室の優秀な生徒に、これまでも[21]トロント王立音楽院の実力認定試験を受けさせていた。

グールドが、地元の小学校、ウィリアムソン・ロード公立学校へ通っているこの7歳の時から10歳までのあいだに、同じように、トロント王立音楽院の試験を3種類受けさせた。グールドは、いずれも国内最優秀と言ってよい成績で合格する。

グールドの幼年時代、一家では、母フローラが息子とべったりと密接し、グレンに自分のもっている音楽のすべてを教え、いつもグレンの顔色を白すぎると心配し、《食べなさい、これこれをもっと食べなさい、これをやりなさい、あれをやりなさい、外へ出て日に当たりなさい、ちゃんと座りなさい》とガミガミいうのだった。だが、一方で、グールドの才能が誇らしく、ほかに競争相手のいないグールドはつねに一挙手一投足を注視されいつも過保護だった。

両親は、グールドに大きな才能があることを確信し、このまま埋もれさせるのは社会への義務を果たせないと思う一方で、どのような形で世に出すのが良いのか、グールドを見ながら考えていた。社会生活を普通に送れる必要もある。両親は慎重だった。幼くして才能を消してしまう音楽家も多いからだ。

両親の二人は、子供をかなり早い時期から尊敬の目で見始めた。

グールドは時間をおかず、一家のモンスターになる。

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[1] ゴールド、グレン・ハーバート Gold, Glenn・Herbert 父バートのバートという名は愛称であり、ハーバートが正式な名前である。Goldが旧姓で、ユダヤ人に間違われないよう一家はGould姓へと改姓した。

[2] 「特別な子」従妹のジェシー・グレイグがCBCテレビで1985年、「グレン・グールド:肖像」で語った言葉。(グレン・グールド伝、ピーター・オストウォルド 筑摩書房 原注429ページ)

[3] 「ピアナー」グラディス・シェンナーがフローラが、‘pian-a.’という言い方をしていたと言っている。(Genius in Love Michael Clarkson 第5章)

[4] トロント郊外 ここはアックスブリッジ uxbridgeをいう。 トロントから約60キロ北方、車で1時間。グールドの両親は、ともにアックスブリッジの出身で、聖歌隊の仕事をつうじて、この町で知り合った。毛皮商を始めた祖父トマス・グールドは、トロントに寝泊まりする場所を持っていたが、アックスブリッジから汽車で通っていた。

[5] トロント市内の教会 トリニティ合同教会をいう。

[6] パラノイア ある妄想を始終持ち続ける精神病。妄想の主題は、誇大的・被害的・恋愛的なものなどさまざまである。偏執(へんしゅう)病。妄想症。

[7] どの雲も、うらは銀白=“Every cloud has a silver lining”  これをグールドは、次のように語っている。“my private motto has always been that behind every silver lining there is a cloud.” このような表現は、夏目漱石の「草枕」にもたびたび出てくる。

[8] ジョセフ・ロディ 《ニューヨーカー》は、アメリカの1925年に創刊された週刊誌で、ルポ、批評、エッセイ、風刺漫画、詩、小説など幅広い記事が掲載される。村上春樹の作品が多く掲載されている。ジョセフ・ロディは、ライターで、グールドの死後、追悼に友人たちが原稿を寄せて発刊された「グレングールド変奏曲」(東京創元社)に、ニューヨーカーに「アポロン派」(アポロン派は、美と秩序と制御を重んじる。これに対し、ディオニュソス派は、陶酔と快感と激しさを重んじる。)と題して書いた記事が、転載されている。

[9] シムコー湖 五大湖の一つであるオンタリオ湖に面するトロントから北に約140キロのところにアプターグローブという小さな町があり、そこからすぐのところにグールド家のシムコー湖の別荘があった。なお、シムコー湖は琵琶湖の4倍、オンタリオ湖は28倍の大きさである。

[10] 釣りに出掛けた:「グレングールド発言集」(ジョン・P・L・ロバーツ) 新聞のインタビュー《私は自然児です》中、「強烈な幼児体験」P45

[11] シムコー湖の征服者:「グレン・グールド 神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ)48P。

1956年「ウィークエンド・マガジン」第6巻第27号《ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》では、《シムコー湖の疫病神》と呼ばれていたと書かれている。

[12] ブリュノ・モンサンジヨン Bruno Monsaingeonフランス人。(1943~)20世紀の有名なミュージシャンについて、グールド、リヒター、オイストラフ、メニューインなどの数多くのドキュメンタリー映画を製作している。グールドについては、他にAlchemist(錬金術師・1974年)、Extasis(エクスタシス・1995年)も作っている。

[13]映画「HEREAFTER(来世)・時の向こう側へ」 2006年 晩年のグールドと一緒に仕事をしていたバイオリニストのブルノ・モンサンジョンによる映画。『ブリュノ・モンサンジョンが撮影・構成したこのフィルムは、世界各地でグールドに“啓示を受けた人々”が登場し、初出の映像も交えて、グールド自身のナレーションや演奏映像などによって彼の本質が解き明かされていく・・・未公開映像を含み、グールド自身が語っているかのような、彼の生涯と作品を振り返る。』(HMVのコピー)。日本語字幕は、グールド研究の第1人者、宮澤淳一氏の監修による。

[14] 映画「Hereafter 時の向こうへ」で、1948年(16歳)の家庭録音となっている。

[15] この時使われているピアノは、当時の恋人だったフラニー・バッチェンがレンタルで使っていたチッカリングという会社のグランドピアノだった。ところが、バッチェンが経済的に困窮して、レンタルを続けられなくなっていた。グールドはバッチェンの気持ちを考えず、そのレンタル契約を続けられないことを良いことに、グールドがそのピアノを買い取ったものだった。

[16] CBC Canadian Broadcasting Corporation カナダ放送協会

[17] カノン 多声音楽(ポリフォニー)の一つの典型で、一般に輪唱と訳されるが、輪唱は全く同じ旋律を追唱するのに対し、カノンでは異なるものが含まれる。(Wikipedea)

[18] 対位法 対位法とはカウンターポイントとも呼ばれ、複数の独立したメロディーを同時に組み合わせる曲を作る時に使われる技法のことを指す。対位法と並び、西洋音楽の音楽理論の根幹をなすものとして和声法がある。和声法が主に楽曲に使われている個々の和音の種類や、和音をいかに連結するか(声部の配置を含む和音進行)を問題にするのに対し、対位法は主に「いかに旋律を重ねるか」という観点から論じられる。バッハの時代にこの二つが大成し、以後古典派、ロマン派の時代になるとともに和声法(旋律と伴奏)が優勢になる。

[19] ケヴィン・バザーナ真理の探訪P.49

[20] アンドルー・カズディン 「グレン・グールド アット・ワーク 創造の内幕」(アンドルー・カズディン 石井晋訳 1993年・音楽之友社)P.170

[21] トロント王立王立音楽院 今はロイヤル王立音楽院(The Royal Conservatory of Music)に改称されている。