第4章 カナダという国、両親のフローラとバート

イギリス領だったカナダが、自治権を得て独立した[1]建国は、1867年である。今もって150年あまりしか経っていない。日本の明治維新のわずか1年前だ。

カナダは、今でこそ、[2]人口3,700万人のうち、約30%が他国からやってきた移民が暮らす多国籍国家だが、グールドが生まれた1932年は、人口は全土で1,000万人ほどしかなかった。カナダが世界で一番移民を受け入れるようになったのは、移民政策が始まった1971年の「多文化主義」宣言が契機だ。このとき、インドや南米、フィリピン系などの移民が爆増し、コスモポリタンな姿になった。

もっとさかのぼれば、この国はエスキモーの呼称で知られるイヌイットが住む国だった。世界の約7%をしめる広大な土地に、15世紀にわずか2百万人しか住んでいなかった。大航海時代がはじまった16世紀に、この地に最初にやってきたヨーロッパ人はフランス人だった。南米大陸などと同様、自然免疫のない先住民たちのところに、銃と病原菌をもった侵略者がやってきて、インフルエンザやはしかなどの感染症にまったく免疫のない先住民の25%~80%が死亡した。17世紀には、フランスとイギリスの領土争いが起こり、カナダは英連邦の一員になる。この国を最初につくった人たちの多くは、スコットランドやアイルランド、ドイツ、イタリア、中国、ウクライナの出身者だった。

グールドが生まれたオンタリオ州の州都のトロントは、現在、人口250万人、周辺都市を入れると500万人を超えるカナダ最大の大都市だが、彼の生まれた1930年代の人口は、周辺都市を入れてもわずか80万人ほどしかなく、宗主国イギリス移民のプロテスタントが多い、静かな田舎だった。同じオンタリオ州の他の町からは、多くの豚を生産、販売していたから[3]ホグタウン(豚の街)というありがたくないニックネームでずっと呼ばれていた。近代的な大都市ではなく、反外国人、反ユダヤ人の空気の強い保守的な場所だった。

グールド家のルーツは、父バートがイギリスとスコットランドで、アメリカを経由したカナダ移民だった。母フローラは、スコットランドからの移民だった。

両家はどちらもプロテスタントだったが、父の家系は、メソジスト派、母の家系は長老派で、伝統的な中産階級の信仰である。この二つの宗派は、1925年に統一し、カナダ合同教会になった。当時のカナダで成功するには、信心深いことが不可欠だったが、あからさまな、例えばバプテスト派やエホバの証人は「裏通りの信仰」と陰口を言われていた。

グールドの父バートは教会に熱心に通い、合唱に加わるほど歌がうまかった。また、ヴァイオリンもずっと愛好していた。

グールドの母となる[4]フローラ・グリーグは、1891年生まれだった。フローラは、祖先に有名なノルウェーの作曲家、エドヴァルド・グリーグがいることが誇りで、祖父の従弟にあたった。フローラは結婚前、オペラ歌手をめざし、トロント王立音楽院の教授やほかの先生からも学んでいた。同時に、自宅では声楽とピアノの個人レッスンをしながら家計を助けていた。

ふたりは、教会の音楽が縁で結婚したが、音楽は単なる娯楽ではなかった。音楽は、信仰と同じく重要だった。二人は、篤い信仰としっかりした道徳心を持ち、聖書を尊重し地域の奉仕活動に貢献し、生活のあらゆる場面で神の存在を感じられないとならないと思っていた。

二人が結婚したのは、1925年10月31日、フローラの誕生日で、バートが23歳、フローラが34歳で11歳年上だった。

この時代、女性が結婚することは主婦に専念し、職業につくことを諦めることと同義だった。二人は道義をわきまえ、高潔で責任感が強く、しかも愛想のいい心の温かい隣人として文句のつけようがなかった。しかし逆に言えば、古い観念に縛られ、文化的に洗練されず、感情表現は紋切り型だった。

一家の自宅は、トロントの東の郊外のビーチといわれる中産階級のイギリス系白人が住む地区にあった。バートの順調な商売のおかげで、ビーチの中では、グールド一家は裕福な方だった。住み込みの家政婦がいたし、必要な時には、乳母や家庭教師を雇えた。ビーチというグールドの生家がある地区は、南をオンタリオ湖に面しているが、バートが経営するトロント中心部の商業地域と約10キロ離れ、のどかで保守的で、ダウンタウンの猥雑さがまったくなかった。

グレンの父のバート・グールドは1901年生まれで、祖父が経営する毛皮商を手伝っていた。その店はユニオン駅に近いトロントの中心部、となりが新聞社のある金融街の端に位置するビルの上階にあった。「高級毛皮問屋」の看板を掲げ、顧客にコートを販売し、同業者たちと毛皮を売買するのが業務内容だった。経営は実直で誠実だったが、大きな儲けをあげていた。

フローラが結婚前の30歳の頃、友人の歌仲間の女性と合唱を楽しんだあと、将来の希望を語っている。

「わたしは、いつか結婚して、可愛い子供を産んでグレンと名付けるの。」

「きっと音楽の豊かな才能に恵まれるわね、その子は。あなたは、ありきたりのものにはぜんぜん満足しないで、いつも最高のものだけを追い求めてきから。」

「ええ、そうするつもりよ。その子は、音楽家として成功しなくてはならない。できれば大ピアニストにしたいわ。」

フローラは、何度かの流産の末、グレンを妊娠する。フローラは、グレンがお腹の中にいる胎児の時から、ピアノを弾き、歌い、ラジオやレコードであらゆる好ましいと思う音楽を聴かせていた。友人はだれもが、「まちがいなく赤ちゃんは、豊かな音楽の才能を持って生まれるでしょう。」というのだった。

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[1] カナダ建国 イギリスから自治権を得た1867年7月1日を指す。外交権を得たのは、グールド誕生の前年である1931年である。

[2] カナダの人口の歴史 https://en.wikipedia.org/wiki/Population_of_Canada

[3] How Toronto got the nickname Hogtown. https://www.blogto.com/city/2013/10/how_toronto_got_the_nickname_hogtown/

[4] フローラ・グリーグ(1891~1975) 正しくは、フローレンス・エマ・グリーグ・グールド(Florence Emma “Flora” Greig Gould)。フローラは愛称。

第3章 恋人バッチェンと新人ライター グラディス・シェンナー

バハマの休暇から帰ってきたグールドは、政治や文化を取り上げる[1]マクリーンズ』という雑誌に特集されることになっていた。記者としてやってくるのは、グラディス・シェンナーという23歳の女性だった。年齢からすると経験が浅く、初の大仕事に意気込んでやってくるのだろうとグールドは思った。

グールドは、恋人である[2]バッチェンのアパートメントをインタビューを受ける場所として指定した。

バッチェンは、彼より7歳年上でこのとき30歳だった。バッチェンは、青灰色の才気溢れる瞳が印象的で、黒に近い茶髪のブルネットを長く広がるように伸ばし、小柄だがとても美しかった。

バッチェンもプロのピアニストを目指していたが、映画や演劇、音楽、アニメなど、当時の前衛的な芸術に関心を持つ若者のグループでも活動して、彼女は、そのグループが作った無声映画で、上流階級の女主人の美しいヒロインを演じメンバーから慕われていた。実際の彼女は、田舎町の貧しい家庭の育ちで、バッハが何より好きで、将来ピアニストになる夢を持ち、明るく聡明だった。

ブルネット(Hot Pepper Beautyから)

グールドとバッチェンがはじめて知り合ったのは、トロント王立音楽院で、二人は、17歳と24歳だった。グールドは、上級クラスで、年長者にまじって華々しく活躍をしており、いつも王立音楽院の話題をさらっていた。そんなグールドにバッチェンが声をかけたのが最初の出会いだった。最初、グールドは女性に無知でナイーブな子供にすぎなかった。しかし、グールドが王立音楽院をやめ、グールド一家が所有するシムコー湖の別荘で長い時間を過ごすようになる18歳のころには、ふたりは恋人関係になっていた。グールドは、このシムコー湖で時間を過ごすようになって、弦楽四重奏曲作品第1を長い時間をかけて少しずつ作曲し、進み具合を毎夜遅くにバッチェンに電話していたのだが、翌日に仕事のあるバッチェンにとっては負担だった。

グールドの求婚のセリフは「[3]僕たちは結婚すべきだ。(”We should get married.”)」だった。しかし、バッチェンは、グールドがあまりに社会生活に向かず、結婚はできないと判断し、受け入れなかった。このとき、二人の関係は、もうすでにぎくしゃくして、修復不能だった。

記者のシェンナーが部屋に入ってきたとき、グールドはソファで横になり、バッチェンの膝にプードルのように頭を置き、頭を撫でてもらっていた。彼はいつまでもウジウジしていた。彼を取材にやってくる記者がどう感じるか、まったく頭になかった。

シェンナーは、グールドを禁欲的で中性的な修道士のようなピアニストだと予想していた。しかし、意外な性的な光景を見て、息をのんだ。驚きがはっきりと表情に出ていた。恋人たちはソファから離れることなく、バッチェンは相変わらずグールドの頭を撫でていた。何故、私にこのような場面を見せるのかとシェンナーは思った。

「マクリーンズ社の依頼で、グールドさんの記事を書くことになったフリーランスのグラディス・シェンナーです。一昨年、マニトバ大学を出て、昨年は、ウィニペグの新聞社で働いていました。今年から、マクリーンズの仕事をするためにトロントへ出てきました。この記事は、どんなに長くなってもいいと言われています。グールドさんは、今やカナダ最大のスターです。」とシェンナーは、言った。

型通りの挨拶が終わって、シェンナーは、恋人の膝でぐずぐずしている《ペット男》の記事が書ければ、確実に特ダネになると思って動悸がした。しかし、まず記事への協力を取り付けることだと思いなおした。

「フラニー、もっと下の方も撫でて。キスして。」と彼は横になったまま、バッチェンに言った。バッチェンは、グールドの髪を下の方も撫で、軽くキスして言った。

「グレン、私はこの町を出て、ニューヨークへ行くかも知れないわ。私は、もう少し稼がないとならないのよ。わかるでしょ、あなた。そうなっても、私なしでしっかりしなさいよ。」

「わかってるよ。だけど、その考えを変えられないの?どうしてもだめなの?僕には、世話を焼いてくれる女性が必要なんだよ。」

彼は、いつまでも未練たらしく懇願していた。

「グールドさん、私の話も聞いてください。」

「何だっけ?えっ、きみは誰だっけ?!」

シェンナーは、グールドより1歳若かった。利発で愛らしく、やはりブルネットの髪をした美人だった。彼女はマニトバ大学で政治学を学び、21歳の時にトロントへ出てきた。当時は、まだ多くの女性が働く時代ではなかった。そのような1950年代に、若い女性がどれだけちゃんとした仕事に就けるかを考えると、自分は時代の先端を走っていると感じていた。現に直前まで他の雑誌で、クロスワードパズルを担当していたばかりだった。

「私は、突然に、世界的なピアニストの仲間入りを果たしたあなたのことを書きたいんです。とても読み応えのある記事になると確信しています。私は、発売になったばかりの『ゴルトベルク変奏曲』を聞きました。とても生き生きしていて素晴らしかったです。これまでのクラシックの演奏とはまったく違うものを感じました。まったく新しいものを感じました。演奏の素晴らしさとあなたの人間そのものについて、読者に知らせたいのです。そのためにいろいろ教えてほしいんです。」

「あーん。・・・いいよ、問題ないよ・・・いくらでも協力してあげるよ。」と彼は、ようやく体を起こしていった。

———————–

その日から2週間ほどの間、二人で記事にとりかかった。グールドは、まとまった時間のインタビューを受け、シェンナーがドラフトを書いた。グールドは、彼女の書いたドラフトに深夜の長電話で、彼女を励ましながらコメントを伝えた。

それはバッチェンの時にもいつもしていた、彼女を疲れさせた深夜の長電話だった。グールドは、対面して話をするより、電話の方が気安く話ができ、夜型人間で、相手の迷惑も顧みず、深夜長電話するのだった。ただ、グールドの話はユーモアにあふれて才気煥発であり、電話をかけられた方は、人気者からの電話の聞き役になることを迷惑に思う者はいなかった。だが、毎晩深夜に電話を受けるバッチェンにとっては、睡眠不足になり、翌日の仕事に差しさわりがあるのだった。

シェンナーの記事は、よく書けている部分もあったが、足りない部分もあり、グールドは率直に情報を提供した。

はじめのうち、記事は、恋人のバッチェンを含んだグールドの女性関係も書かれていた。しかし、やがて彼は、女性のことが書かれるのは、イメージダウンになると思いだした。

そのため、一時は、記事の掲載そのものをシェンナーに止めるように言いだした。当然ながらシェンナーは、雑誌への掲載を許してほしいと懇願し、女性関係に関わる部分を削ると申しでた。最終的に、グールドは彼女の条件を了承し、その部分を削る形で記事が完成した。

そうして、インパクトのある風変わりなピアニストの写真数枚とともに、大作である記事が出来上がった。もとの記事から、グールドの女性関係をバッサリ削っても10ページ以上ある長文だった。それが、《[4]演奏したくない天才》だった。

MACLEAN’S April/2/1956

バッチェンは職を求めてニューヨークへ旅立ち、二人はとうとう別れた。グールドは、いつまでも思いを引きずっていた。

この記事で、シェンナーは有望な記者として認められ地位を確立した。

グールドとシェンナーの関係は、グールドがコンサートツアーをしなくなる7年ほどの間、彼女はグールドの演奏旅行に同行し、記事にするという関係が続き、二人の親密な交際を示す手紙がいくつも残っている。

シェンナーはグールドの頭の髪の毛を犬のように撫でるという役目をバッチェンから引き継ぐとともに、グールドが住んでいる世界と、現実の世界の間の橋渡しの役目をした。

また、グールドは同時に他の女性にも恋心を抱いていた。

グールドの物語を、彼の性格がよくわかるようにアメリカでの成功の後、プロポーズの失敗と、その後のセンチメンタルジャーニーにスポットライトを当ててきたが、ここからは、グールドの出生から順を追って語ろうと思う。

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[1] マクリーンズ:カナダのニュースマガジン(1905年設立)で、政治、ポップカルチャー、時事問題などのカナダの問題について報道。2017年1月から週刊から月刊になった。

[2] バッチェン:フラニー・バッチェン(Frances Batchen Barrault)

[3] 「僕たちは結婚すべきだ」“We should get married.”「The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter4, page51」この表現は、英語のプロポーズの文例をネットで調べてみると、かなり上から目線で、普通はこう言わなないのではないか。(著者注)

[4] 「演奏したくない天才」The genius who doesn’t want to play 巻末に拙訳を添付した。

おことわり 小説・グレングールド

おことわり

小説グレングールドを何とか書こうとしているのだが、ドキュメンタリーなのか小説なのか、いろんな人が読んで楽しめるものを書くのはとても難しい。そうした才能は残念ながらどうもないらしく、一生懸命書いたら難しくて誰もが読めるというものではなくなってしまう。

長い間試行錯誤しているのだが、どうもうまく行かない。

しかし、そういうばかりでは進まない。それで試行錯誤の最中であるが、出来たものをアップしようと思っている。

コメントなどあれば、今後の改良に役立つと思うので、もしいただければありがたい。そういったこともあり、随時改訂しながら進めるつもりだ。

おしまい

はじめに

クラシック音楽の世界に、グレン・グールドという人物がいた。彼は、カナダ人のピアニストで1932年に生まれ、1982年に死んだ。つまり、生誕90年、没後40年ということになる。

普通のピアニストは、まっすぐな姿勢で指を鍵盤に振り下ろすように叩いて音を出すのに対し、彼は手首を平らにして指で鍵盤を引っ張るように弾くので、非常に美しい音を出す。爆発するような弾き方はできないが、リズムが明瞭で粒が揃って天国へいざなう説得力がある。

人気は、今なお根強く、放送局に眠っていたテープなどを使ってCDが新たに発売されたり、曲の組み合わせを変えてCDが発売されたり、音楽雑誌でピアニストの特集があれば、必ず取り上げられる人気を保っている。

この本は、音楽について素人で、クラシック音楽に精通しているわけでもない作者が、グールドの音楽について語ろうというものだ。このため至らぬ点や間違いがあるに違いない。また、グールドは、全般に率直な人だったが、素の自分を語らず、隠していた部分が多かった。このため、グールドに関する伝記や評論は非常に多数ありながら、核心部分を知るのは難しい。だが、これまでに書かれた著作を辿ることで、彼の本性にかなり近づけたと自負している。

ただ、これを書こうと思った動機は、何といっても彼の音楽を知らなかった人にもグールドを聴いて欲しいということだ。

このため、グールドの事について、あまりに音楽の専門的なことを詳しく語ると、多くの人は気楽に読めないだろうし、逆にそうしたことを全く語らないと、説得力の弱いものになってしまう危惧があった。そのため、本書は誰にとっても読みやすいものにしながら、細かい専門的なことやこれまでの研究家の研究結果は、なるべく脚注や別の参考資料に書く形にした。こうすることで、もっとグールドを深く知りたい人は、そちらを読んでいただければ深く理解できるように心掛けた。

彼の演奏は、他のピアニストと大きく違っている。

どこが違っているのかというと、一般のピアニストは、高音部のメロディーと伴奏の低音部の二本立てが普通だ。しかし、彼は、その中間にある内声と言われる部分にスポットライトをあて、別の旋律を浮かび上がらせる。まるで連弾しているかのように弾き、どの旋律にも対等に主役の座を与える。

また、演奏の基本を、音を短く区切るスタッカート奏法においている。一般のピアニストは、ピアノはレガートに弾くものだと教わるが、ずっとレガートの演奏を聴かされると飽きるし、疲れる。レガートは緊張、スタッカートは弛緩と考える彼は、ここぞという場面に美しく緊張感のあるレガートを取っておく。

彼は、一般のピアニストと違って、ペダルをほとんど使わず指を持ち替えながら弾く。このため、音が混じらず出てくる音がクリアで非常に美しい。

また、最大の違いは、作曲家が書いた楽譜に手を加えることをためらわないことだ。彼は、楽譜に書かれた音楽記号に囚われない。正統派のクラシック音楽界は、作曲家の意図の再現を最重要視するのに対し、彼は、どうすればベストな曲になるかを考えて、再作曲をする。これをもっとも過激にやったのがモーツァルトである。

彼は、[1]ジェームズ・ディーンの再来といわれるほどの美男子だった一方で、ずっと独身で私生活を隠してきた。グールドは、潔癖症の大富豪ハワード・ヒューズのように生きたいと言い、私生活を徹底的に隠した。そのせいで長い間ゲイとか、ホモセクシュアルだと言われ、女性関係がまったくないと思われてきた。だが、近年、ゲイどころかプライベートな生活では、実に多くのロマンスがあったことが分かった。

この多くのロマンスを明らかにしたのは、映画「[2]グレン・グールド《天才ピアニストの愛と孤独》」の原作本である「[3]グレン・グールド・シークレットライフ《恋の天才》」だ。彼の女性関係は、この原作に基づいている。

彼は、母親の不安症が影響し、子供のころから薬物に依存していた。その依存症は、年月を経るほどに激しくなり、やがて、幻影や被害妄想に憑りつかれるまでになる。

だが、彼は芸術家としての責任をつねに感じていた。見せたい自分を生涯にわたって演じ続けた。音楽にすべてをささげていた。それが原因で、結婚しなかったし、強迫観念によって薬物依存にもなった。

他方、日本ともゆかりが深く、彼が後半生に熱中した夏目漱石をはじめ、阿部公房原作の映画「砂の女」、音楽を担当した日本の現代作曲家武満徹、そして実際に親交があった小澤征爾が登場する。

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[1] ジェームズ・ディーン:(James Dean、1931年- 1955年)は、アメリカの俳優。孤独と苦悩に満ちた生い立ちを、迫真の演技で表現し名声を得たが、デビュー半年後に自動車事故によって24歳の若さでこの世を去った伝説的俳優である。

[2] 映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」監督:ミシェル・オゼ、ピーター・レイモント 角川書店、2012年発売

[3] 《The Secret Life of Glenn Gould: A Genius in Love》 Michael Clarkson ECW press, KINDLE版

第1章 ゴルトベルク変奏曲のビッグセールス

1956年1月、カナダ人ピアニストのグレン・グールドは、J.S.バッハのゴルトベルク変奏曲でレコード・デビューを果たした。

このレコードはすぐさま、ジャズやポピュラーを含めた[1]北米の新盤の中でベストセラーになった。

彼は、このゴルトベルク変奏曲を死ぬ直前に再録音した。どちらも、楽譜通りに反復はせず、1回目とは対照的に2回目は非常にゆったりと、形容しがたいほど瞑想的で穏やかな演奏をした。もし仮にCDショップのバッハのコーナーへ行けば、一番目立つ場所に並べられているはずだ。

[2]ゴルトベルク変奏曲は、不眠に悩むカイザーリンク伯爵が眠るとき、ゴルトベルクに隣室で弾かせたという有名な逸話がある。アリアで始まり、30もある変奏曲の最後に、[3]クオドリベットという俗謡を二つ合体させ、その気楽で楽しい曲が演奏されたあと、再び、静かで美しいアリアに戻る。最初のアリアに戻るので、もう1回始まってもおかしくない。始まりも終わりもない曲といわれる。

グールド以前に、女性鍵盤奏者の[4]大御所がこの曲をチェンバロで演奏し、教養と謹厳さを感じさせる重々しい演奏だったが、楽しいものではなかった。グールドはこの曲をピアノで演奏し、まったく違ったアプローチをとった。それは、快活で、現代的なドライヴ感が(みなぎ)った過去にまったく例のないバッハだった。

このレコードの発売である翌月の2月には、グールド自身が作曲した現代曲の弦楽四重奏曲作品1を、モントリオール弦楽四重奏団がCBCテレビ(カナダ放送協会)で初演した。この弦楽四重奏曲は、主題の[5]上昇する4音の構成するたった一つのモチーフを楽想にして、すべての旋律、和声を作り出した調性がある現代曲だった。この曲はすべての音楽家から高い評価を受けたわけではなかったが、ゴルトベルク変奏曲ヒットのセンセーションが起こった直後だったので、23歳のグールドは一夜にして、作曲もできる国際的なスターになった。

ただ、その成功の裏にはグールドのさまざまな奇癖があった。この奇癖をレコード会社をはじめとするメディアが大々的に宣伝した。

彼が出かけるときは、30℃ある真夏の暑い盛りでも、オーバーコートを着てウールのベレー帽を被り、マフラーを巻き手袋をはめて歩いていた。父が作った折り畳み式のピアノ椅子をいつも持ち歩き、その椅子の脚の下部は10センチ切りとられ、そこへ金具をはめて高さを微調節できた。彼は演奏を始める20分前から肘から先を熱いお湯の中に浸け、血行をよくする儀式が必要で、電気湯沸かし器も運んでいた。抗不安薬や鎮静剤、血液の循環を良くするための処方薬をしょっちゅう飲み、大量の薬剤を携行していた。

ピアニストにはあり得ないような悪い姿勢でピアノを弾き、ピアノを弾き始めるとすぐに恍惚としたトランス状態に入り、上体をぐるぐる旋回し、鼻歌ともハミングともつかない声を出すことを止められなかった。

グールドのレコードが驚異的なほど売れるにつれ、前年に24歳で自動車事故で亡くなった映画俳優の[6]ジェームズ・ディーンと比べられ、音楽誌だけでなく一般誌でもセンセーションを引き起こした。

ジェームズ・ディーン
グレン・グールド

ファッション誌の[7]グラマー』は4月号で特集し、やはり女性向けの『[8]ヴォーグ』は5月にグールドを特集した。さらに、報道誌の『[9]ライフ』は4ページにわたる写真を中心にした特集を組んだ。

そうした記事や写真のどれにも、格式ある伝統的なクラシック演奏家の姿はなかった。175センチの痩身のグールドが、流行に無頓着な服装で、乱れた長い髪で写り、ピアノに向かう彼の指は長く細く痩せて、その表情は完全に心ここにあらず恍惚として、ピアノの音の向こうに心があるように見えた。

とくに女性誌はグールドがどこか雌鹿のようで男性を感じさせず、中性的で、女性ファンに強い母性本能を感じさせる、同性愛者に強烈なセックスアピールがあると書いた。

のちにグールドは、自虐的なユーモアでこの時をこう書いている。—「[10]あれがわたしの人生で最も困難な年の始まりだった」

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[1] 当時、北米で、一番売れていたのは、ポピュラーで女優・歌手のドリス・デイだった。ジャズでは、ルイ・アームストロングだった。アフリカ系アメリカ人のジャズ・ミュージシャンで、 サッチモ (Satchmo) という愛称で親しまれた、20世紀を代表するジャズ・ミュージシャンの一人でトランペット、コルネット奏者である。

[2] ゴルトベルク変奏曲:J.S.バッハが1741年に出版。カイザーリンク伯爵(ザクセン宮廷駐在のロシア大使)の委嘱と考えられるが証拠がなく、バッハの弟子、ゴルトベルクは当時まだ14歳であり、演奏技術を考えると困難で、この逸話は懐疑的といわれる。

[3] 30番目のカノン変奏をクオドリベット(Quod libet)という。クオドリベットは、ラテン語で「好きなものをなんでも」という意味で、大勢で短いメロディの歌を思いつきで歌い合う。

[4] ランドフスカ:ワンダ・ランドフスカ(1987-1959)ポーランド出身のチェンバロ奏者、ピアニスト。忘れられた楽器となっていたチェンバロを20世紀に復活させた立役者である。(Winkipedia)

[5] 上昇する4音 フーガの主題の最初の4音(嬰ハ-ニ-嬰ト-イ) (「神秘の探訪」P.150)

[6] ジェームズ・ディーン(1931年 – 1955年)アメリカの俳優。「エデンの東」「理由なき反抗」などが代表作。

[7] 『グラマー』4月号は、「あなたに会わせたい男たち」という見出しで「華奢でしなやかな体つき、豊かな明るい茶色の髪をしたカナダ人は、その特異な振る舞いで伝説につつまれている。その振る舞いを構成しているのは、どこにでも持って行く何種類もの薬、ミネラルウォーター、特製の椅子である。また食生活に関する独特な考え方もそうだ。「友人は言う、『グレン、何か君にあわないものでも口にしたのかい?まさか食べ物じゃなかろうね?』」と書いた。

[8] 『ヴォーグ』は、「グレン・グールドは・・・・今年アメリカの批評家の間で祝いのかがり火を真っ赤に燃やした。緊張し、やつれた容貌をもつ、ブルーベリーの目をしたグールドは、調教されていない馬のようにピアノに向かい、強力かつ抒情的な音を生み出すのである・・・・・」

(グラマーとヴォーグの記事:「グレン・グールドの生涯/オットー・フリードリック/宮澤淳一訳」青土社96頁)

[9] 『ライフ』は、スタンウェイ社の地下室にいる姿、コートを着て、例のピアノ椅子を抱えてニューヨークの通りを歩く姿、ミルクとクラッカーの軽食をとりながら、スタジオの技師たちと冗談を言い合う姿、靴を脱いでペダルを踏む足、革の手袋を脱いでその下のミトンをはめた手を見せる姿、洗面所で腕を湯に浸している姿、ピアノを弾いていない方の腕で、空(くう)を指揮する姿などを掲載した。

[10] 《グレン・グールド神秘の探訪》ケヴィン・バザーナ第3章寄席芸人 P172

第2章 バハマ休暇旅行

グールドは、1956年1月、ゴルトベルク変奏曲のビッグセールと2月、自作の弦楽四重奏曲の初演で、作曲もできるピアニストとして、世界レベルの音楽家の仲間入りを果たした。一方で、3月24日から4月5日までの2週間、カリブ海のバハマへ休暇旅行へ行った。

この旅行は、表向きは、アメリカデビューとゴルトベルク変奏曲の録音、自作の弦楽四重奏曲が初演され、これらが一段落を迎えた骨休みということになっていた。しかし実際のところは、グールドは17歳のときから5年間付き合っていた恋人[1]フラニー・バッチェンにプロポーズを断られた感傷旅行だった。グールドは一人っ子で親からの愛情を一身に受けて育ち、大人の中に混じってトロント王立音楽院で学び、コンクールへ出れば大人たちを差し押さえて優勝する神童で、挫折を経験したのは初めてだった。新進の世界的ピアニストの階段を上りはじめたスターが、プロポーズを断られるとは彼自身、思ってもいなかった。

バッチェンと知り合ったのは、グールドが17歳のとき、彼女は7歳年上だった。バッチェンは、グールドと同じロイヤル音楽院で、グールドと同じピアノ教師についていた。

グールドのピアノの演奏技術は完成していたが、性的なことは何も知らないナイーブなままだった。バッチェンは、はじめてグールドに性的な世界もあることを教えた。

グールドのプロポーズの言葉は、”We should get married.”(結婚しようよ。)だった。だが、このセリフは、まるでぼくたちは役場へでも行かないといけないというニュアンスで、結婚するのが当然であり、断られるなんて頭にまったくないものだった。つまり、自分のどこが悪いのか、結婚生活に不向きなのかを全く理解していなかった。

彼女は、世界一有名な若いピアニストの夫人になるか、ずいぶん長い間考えた。しかし、彼にはあまりに社会性がない、世界を股にかける新進の大スターでも、結婚して一緒に暮らすのは割が合わないと結論を出した。

グールドのセンチメンタルジャーニーには、グールドの複雑な性格をよく表す事情が背後にあった。

この旅行には、カナダの雑誌《ウィークエンド・マガジン》社の記者である[2]ジョック・キャロルが同行して、彼は、世界を股にかける新進の大スターが、休暇でどのような息抜きをするのか、その複雑でエクセントリックな性格を解き明かす切れ味のよい物語を書き、写真も撮って来いと言われていた。

もちろん、この旅行中、グールドはキャロルにバッチェンに振られたことはおくびにも出さなかった。付き合っているガールフレンドがいることすら隠していた。

しかし一方でこの旅行では、キャロルに、かなりありのままの素のグールドを見せていた。

しかしながら、最終的にグールドは考え、キャロルに旅行の時の様子をそのままに記事にすることは認めなかった。写真の掲載は認め、記事は自分で書き、キャロルの名前で発表させた。そして発表されたのが、《[3]ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》である。

旅行からトロントへ帰ってからも、グールドはキャロルと友人のように電話で率直に話をしていた。しかし、キャロルが電話の内容をメモに取っていたことに気づき、グールドは、すぐにキャロルとの交際を断った。グールドは、人間関係に気に入らない兆候を見つけるとすぐにその関係を絶った。

グールドにとって、たとえ友人たちとの交友関係であろうと、何か許しがたいことがあるとすぐにその関係を解消した。彼は、あらゆるものをコントロールしようとした。それができないと不安になるのだった。そのため、周囲の関係をいくつかの小さなサークルに分け、コントロールできない相手は、関係をいきなり断ち切ってしまうのだった。関係を断たれた方は、心当たりもなく何が原因なのかさっぱりわからなかった。

これは、グールドが生涯続けた人間関係の避けがたいポリシーだった。彼は、自信家で、ユーモアのある誰にも好かれる人物だったが、小さなことで交友関係を断ち、死ぬときに親しい関係があったのは、父親も除外され五指に満たなかったと言われる。

キャロルは、バハマ旅行の様子を公表しないという約束を守り、グールドが生きている間、旅行記を発表しなかった。しかし、死後である1995年に『[4]グレン・グールド光のアリア』でその時の様子をようやく明らかにした。

この時に、ちょっとした事件が起こった。というのは、グールドの死後設立されたグールド財団が、キャロルと出版社を著作権違反で訴えた[5]。キャロルが、この旅行で撮った写真とインタビューに使ったテープとメモから書いた記事が、保護すべき著作権を侵害していると訴えた。プライバシー侵害か、パブリシティ権が優先するのかが控訴審まで争われ、最終的に、キャロルの死後の1998年に著作権の侵害よりも公開することの公益性の方が大きいと結論付けた。

この時の被告側(キャロル)の主張は、こうだった。

ここでも、誰もいないマッシー・ホール、グールドの母親の家、バハマでの休暇といったインフォーマルな場で行われたインタビューの性質は、グールドがリラックスしているときの自然な姿をとらえるためのカジュアルなものであった。二人の会話は、グールドが友人と交わすようなものであった。実際、グールドとキャロルはその後しばらく友人として付き合うことになる。グールドは、講義をしたり、キャロルに指示を出したりしていたわけではない。むしろ、キャロルはグールドと気楽に会話を交わし、その中からグールドの性格や私生活を見抜くようなコメントが出てくるのである。グールドは、公の場に出ることを承知で、何気ないコメントをしていたのである。これは、著作権法が保護しようとする会話とは異なるものである。

控訴審の判決はこうだった。

キャロルは、写真、テープ、グールドとのインタビューのメモを持っていた。キャロルは、自分の記憶をたどり、グールドに初めて会った場面を再現できる唯一の人物であった。その結果は魅惑的である。この本は、天才音楽家の人物像に説得力を与えてくれる。キャロルの芸術的創造物を保護することで、法律は、そうでなければ否定されるであろうグールドの初期の時代への洞察から、公衆が利益を得ることを許可している。

つまり、『キャロルのフォト・ルポルタージュ』は、彼が世間に見せたかった面を自分で書き、『グレン・グールド光のアリア』こそが、キャロルが見た、グールドの普段の自然な姿が表れている。

《ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》

まずは、旅行直後に発表された《ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ》を紹介しよう。

《「ぼくはエクセントリックじゃない」右隅にweekend magazine vol.6 No.27, 1956 と書かれている》

前に書いたように、こちらは、キャロルが撮った写真を使いながらグールドが語っている。書かれた内容は刺激的で、彼の自信とエクセントリックさに対する弁解が、ユーモア交じりに語られていて面白く読める。だが、この旅行の事はほぼ出て来ない。グールドの音楽に対する姿勢が、願望とともにオーバーに書かれている。

この記事は、ウィークエンド・マガジンにキャロルの記事として発表されていて、グールドが記事を書いたとは明記されていない。なぜ、グールドは、キャロルに記事を書かれるのが嫌ったのだろうか。

グールドが、休暇を取ってその休暇に記者が同行するということは、生涯このバハマ旅行しかない。グールドは、365日音楽に身を捧げているところがあり、クリスマス休暇でも音楽に没頭していた。そのため、2週間の休暇を取ったバハマ旅行のようなことは他になかった。

グールドは、北米で名を上げた後、ソ連公演とヨーロッパへの演奏旅行をして、ソ連では通訳が同行している。ヨーロッパでは、この後出てくる恋人グラディス・シェンナーが同行して記事を書いているが、バハマ旅行は、記者と過ごす初めての経験だった。

つまり、グールドは、休暇を取るのが初めて、記者の同行も初めてで、率直に素の姿をキャロルに見せていたが、その姿を世間に公表することを選択しなかった。きっとさまざまな影響を考え、怖気づいたのだろう。彼は、女性関係を徹底的に秘密にするだけでなく、ホモセクシュアルではないかという噂を否定も肯定もしなかった。しかし、それ以外の、例えば処方薬の摂取の問題やばい菌への不安などは初めから公表していた。つまり世間に対し、見せたい自分は見せ、見せたくない自分は隠すという印象操作を明らかにしていた。

他方、キャロルが書いた1995年の『グレン・グールド光のアリア』に、音楽に「[6]私は門外漢で、『フーガ』はおろか、『フォルティッシモ』の意味すらわからなかった」と書いている。彼は、クラシック音楽について深い知識を持っていなかった。

《グレン・グールド光のアリア》

では、次に『グレン・グールド光のアリア』に書かれている内容を順に見てみよう。

グールドとキャロルは、バハマの首都ナッソーの飛行場に降り立った。グールドは、この南国のリゾートに来ても、相変わらずの服装だった。丈の長い黒のオーバーコート、目深に被ったいつものベレー帽、ぐるぐると首に巻き付けたウールのマフラー、黒い手袋、オーバーコートからわずかに先を覗かせた茶色のデザートブーツという恰好だった。

ナッソーがあるニュー・プロビデンス島は、マイアミからは南方へわずか200KMほどしか離れていない。東西が30キロ、南北が10キロほどの小島である。さらにバハマのすぐ南にはキューバがある。

グールドたちは、海に面したフォート・モンタグ・ビーチホテルに泊まった。人口が10万人程度のこの島で、このホテルは一番大きなホテルだった。

グールドは、到着してから数日間、部屋のドアに「Do not Disturb.(入らないで)」という札をぶら下げ、ずっと部屋に籠りっぱなしだった。

キャロルが、旅行の前、グールドの実家に打ち合わせに行ったとき、母親のフローラが、グールドの姿が見えなくなる瞬間を捉え、こういったのを思い出した。フローラは、グールドを41歳の直前に出産していたから、この時すでに63歳だった。彼女は、女性としての魅力に乏しく、草臥れ世間の常識に囚われたおばさんにしか見えなかった。

「この旅行にご同行願えるのであれば、洗濯物をしっかり出すようにグレンに言ってくださいませんか。あの子は何度も言わないと、いつも同じ服ばかりを平気で着ているのです。ですので、あの子にきちんとした服を買うように言ってくださいませんか。それと、太陽の光を浴びるように言ってくださいませんか。体が心配なんです。」

しかし、グールドは、あいかわらず部屋から一歩も出てこなかった。キャロルは、意を決してグールドの部屋をノックした。意外にも、グールドは返事をすぐに返して、しぶしぶながらに、彼を部屋に招き入れた。戸外は太陽がギラギラ照りつけていたが、部屋は厚いカーテンがしっかり引かれ、ほぼ真っ暗だった。

「ぜんぜん出てこないから、死んでいるんじゃないかと思ったよ。」

「まさか…。仕事をしていたんですよ。オペラを3小節書きました。このオペラは、完成させるのに3年はかかるでしょう。テーマは、トーマス・マンから取ったものです。『創造的な芸術家が、作品を生み出すには、いかに反社会的にならなくてはならないか』というのがテーマです。」

グールドは、2台のベッドをくっつけ、交差するように寝そべっていた。化粧台には、薬瓶がいくつも置かれ、血圧の薬、抗ヒスタミン剤、ビタミン剤、睡眠薬があった。

グールドは、有名な作家が、音楽の知識を小説にどのように生かしたかを話し始めた。やがて、フーガの技法における全音音階や不協和音の進行に話が及びはじめ、音楽に深い知識のないキャロルは、話についていけなくなった。

グールドは、発表したゴルトベルク変奏曲の演奏だけでなく、ジャケットの裏面のライナーノーツの解説も書いていた。こうした解説を演奏者自身が書くことはこれまでになく、これも話題を呼んでいた。キャロルは、このライナーノーツを旅行前に読んでいた。しかし、それは何度読み返しても理解できない代物だった。楽譜を掲げながら音楽理論を展開するのだが、文章も長文で、言い回しが難しく理解不能だった。

キャロルは、我慢しながら3度この文章を読み返した。しかし、彼が理解できたことは、その曲を作曲者J.S.バッハの不眠症のパトロンであるカイザーリンク伯爵が入眠儀式に用いたこと、それと、その曲が「終わりも始まりもない音楽であり、真のクライマックスも、真の解決もない音楽であり、[7]ボードレールの恋人たちのように、『とどまることのない風の翼に軽々ととまっている』音楽である」というところだけだった。この比喩は、よく考えると意味深でエロチックだとキャロルは思った。

グールドは、つなげた2台のベットを横切るように寝るのをやめ、机の椅子に座りなおした。そこは、ホテルのマッチが、箱から取り出されて山のようになっていた。彼はその一本を手に取り、火をつけると、目から15センチほどのところへ持って行き、燃え尽きるまで炎をじっと見ながら言い始めた。

「逃げなくちゃだめだ、って思うんです。」

「この前のコンサートの時も、本番の数分前まで今日もできるのだろうかととても不安でした。」

「いったい、何が問題なんです?」

「病気なんですよ。」病気という言葉をグールドは、強調して言った。

「痙攣性の腹痛、下痢、喉を締め付けられるような感覚。今、3人の医者にそれぞれ診てもらっています。もちろん、どの医者も残りの2つの症状については知りません。他の医者にかかっていることは、知らせていないのです。でもこの病気のせいで、他人と一緒に食事ができない。家族とだってダメです。ああ吐くぞ、吐くぞ、といつも考えている。今度は精神科ですね。」

キャロルは、この告白に非常に驚いた。

「もちろん記事には、一言も触れちゃダメですよ。何か書かれでもしたら、私の演奏家生命は一巻の終わりになりかねませんからね。」

「演奏家活動はどんな具合ですか?」

「去年は6000ドル(2020年一人当たりGDP比で、149,689ドル=1650万円)ほど稼ぎました。それでもいつもお金に困っています。これまでの出演料は、一晩750ドル(230万円)から1,000ドル(300万円)でした。来年は、1,250ドル(同380万円)になります。でも、お金のことは書かない方がいいですね。マネージャーが嫌がりますから。」

キャロルは言った。

「だんだん考えがまとまってきたんですけどね。今回の記事は、普通、記録に残らないような内容に絞ろうかと思うんです。」

グールドは声を出して笑い、言った。

「いいんじゃないですか。どんな神経症患者を相手にしているかわかるでしょう。」

グールドは、相変わらずマッチに火をつけ、燃え尽きるまで炎をじっと見ていた。キャロルは、催眠術をかけられているような気持になり言った。

「一山に一度に火をつけたらどうですか?」

「それはとっておきの方法なんですよ、一人でいるときのね!…でも母には内緒ですよ。この癖を直させようと必死ですから。」

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翌日、キャロルは、グールドを部屋から出すことに成功する。キャロルは、男二人よりも若くて美しい女性がいれば、グールドの会話も弾むだろうと踏んで、ホテルの副支配人の婚約者である女性に来てくれるように依頼していた。婚約者は、聡明ですらりとしてスタイルがよく、髪の毛を後ろで束ね、ショートパンツを穿いた魅力的な女性だった。

グールドは、彼女とのたわいのないおしゃべりにすぐに夢中になり、上機嫌で言い始めた。

「ぼくはいつまでも演奏会活動をやるつもりはないんです。作曲と、それから出来れば指揮者に転向したいんですよ。」

「70歳になるまでには、オペラが2,3曲、交響曲が数曲あるといいですね。ああ、もちろんレコードだってどっさりできています。」

この婚約者が、マリーナでモーターボート借りられると言い、マリーナまで車で送ってくれた。この車を運転しながら、婚約者が、海水浴をしないのかと訊いた。グールドは、答えた。

「海水浴はしたいけど、海水が腕に悪影響を及ぼさないかが心配なんです。海水浴するなら、肘より上まで包み込むようなゴム手袋を嵌めなくちゃだめでしょうね。」

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グールドとキャロルは、沖へ向かって全長4メートル半のモーターボートを出した。

キャロルは、グールドが、別荘がある[8]シムコー湖でモーターボートに乗り込み、自然保護派を標榜する彼が、湖面を左右にカーブを切り波を起こしながら爆走して釣り人の邪魔をするのが趣味だ、と聞かされていた。

それで、グールドが同じ爆走をするのではないかとキャロルは気が気ではなかったが、その不安は現実のものとなる。グールドは沖に大型船が停泊しているのに気づくと、そこを目標に定め爆走を始めた。沿岸部が穏やかでも、沖へ外洋へと出ると、小舟は大きく揺れ、キャロルは、船外に放り出される恐怖にかられ叫んだ。

「このままでは海に放り出されてしまう!スピードを緩めてくれ!!」

しかし、グールドは聞こえないふりを続けた。

やがて、大型船の下まで到着し、乗客が見下ろす中、何やら熱狂的な衝動にかられた様子のグールドは立ち上がり、指揮者のポーズをとりながらオーケストラのメロディーを大声で歌いだした。

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グールドは、ピアノの練習のため深夜の2時から4時まで、ナイトクラブのグランドピアノを自由に使えるようキャロルに頼んでいた。二人がそこへ行くと、ピアノは舞台の隅に置かれていた。

キャロルが、そのピアノを照明がよくあたる舞台の中央へ移動させようと動かしたところ、突然、舞台の床の一部がバリっと音を立てて破れ、ピアノの脚の一つが舞台の下へめり込み、ピアノが斜めに傾いてしまった。

これを見たグールドは、意地の悪い笑いを浮かべたまま、このありさまとキャロルの狼狽ぶりをじっと見ていた。彼は、吹き出しそうになるのを懸命にこらえながら、真面目くさった顔でこう言った。

「あのね、ぼくはわずかに角度をつけて弾くのは好きなんだけど、これじゃちょっと角度のつきすぎだね。」

と言って、自分の冗談にけらけら笑うと、楽譜を持ってさっさと部屋に戻って行った。

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次の晩、二人は改めて同じ時刻にナイトクラブへ向かった。

ピアノを弾き始めるグールド。グールドの写真を撮るキャロル。

キャロルは、グールドの様子に驚く。キャロルは、巷間言われている、[9]オランウータンのような姿勢で、歌を歌いながらピアノを弾くとか、空いている手で指揮をするということに半信半疑だった。しかし、グールドは誰もいないこの空間で、言われている伝説のまま、大きな声でハミングしながら、歌いながらピアノを弾き、片方の手が空いているときには、想像上のオーケストラを指揮しながら恍惚となってピアノを弾いていた。

脚を切った低い椅子に座ったグールドが、猫背になって前に屈みこむと、指の方が手首より上にあり、長い髪が鍵盤に触れた。彼はピアノで、頭の中に響く音楽と一体になっていた。アコースティックな生のピアノの音は圧倒的で、キャロルは、グールドを現世とどこか神の世界とつなぐ伝道師かシャーマンのように感じた。

キャロルは、クラシック音楽のことはよく知らなかった。しかし、グールドの演奏の強烈さに圧倒され、ときおり写真を撮るのを忘れ見惚れてしまった。グールドは、普段ピアノを弾いていないときでも美男子で、フォトジェニックだった。しかし、ピアノを弾き始めると、現実の世界から別の世界へと行ってしまい、現世を飛び越え、エクスタシーの中に入り込み、別の世界へ行ってしまったようだった。

ナイトクラブを閉めて出るとき、他の宿泊客から昼間言われたことを、キャロルは、グールドに何気なしに質問した。このホテルに女性の宿泊客がいて、娘がジュリアード王立音楽院のピアノ科の学生で、娘がグールドさんの演奏を見学できないかとキャロルは言われていた。

「グレン、そのジュリアード王立音楽院の娘に練習を見せても構わないか?」

グールドはそれを聞いた瞬間、真っ青な顔をして、いきなり人が変わったようにすごい剣幕でキャロルを怒鳴り始めた。

「いったいぼくが練習しているということを、その婦人に伝える権利が、きみのどこにあるんだ!?」

「ごめんよ。わかったよ。悪気はなかったんだ。明日その人に会ってだめだって言っておくよ。」

「どうして、黙っていられなかったの?」とグールドは、キャロルをなじり、最後にぴしゃりと捨て台詞を吐いた。

「気を付けて行動するんだね。ぼくの写真が撮りたいのなら。」

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翌日、グールドの運転で、二人は赤いオープンカーで島を巡った。

グールドが運転するそのオープンカーは、ギアを入れるなり、がくんと揺れ、キャロルは前につんのめった。次の一瞬、エンジンをふかしたその車はタイヤの金切り音をあげ、猛ダッシュをはじめた。スピードの出しすぎではすまないスピードをだして、グールドはわき道を抜けてナッソーの市外へ向かった。キャロルがスピードを落とせといくら喚いても、グールドは聞く耳を持たなかった。

いなか道には、現地の人の住む粗末な小屋がいくつかずつまとまって見えた。オープンカーは、小さな丘を勢いよく登った。そして、鶏や犬や子供たちを追い散らしながら、この丘を猛烈な速さで駆け下りた。グールドはゲラゲラ笑っていた。彼には、こんな運転をしていたら、事故を起こしかねないと理解できていないようだった。キャロルは、「前に子供がいるぞ、速度をおとすんだ!」「カーブだ、左側を走って曲がるんだ!」と何度も叫んだ。

途中、グールドは何度か車を降りて、キャロルはグールドの写真を撮ったが、この時だけが心休まるときだった。

キャロルの我慢も限界に近づいていた。やがて、ホテルへ帰るという道で、キャロルが横を見ると、グールドは、両手を宙に浮かせ、指揮をしていた。

「バカヤロー、ハンドルを握れ!」とキャロルが大声をだすと、グールドはハンドルを握ったが、顔はニヤニヤと笑っていた。

「この運転のことを母には言わないでね。いつも、止めろとうるさいんだ。内緒だよ。」

この1年後、案の定グールドは、トラックに追突する事故を起こし、それまでの事故と合わせ4回の事故により、裁判所から自動車学校へ通うべしという判決が下りる。グールドは、生涯しょっちゅう交通事故を起こしていた。

グールドは、その後も危険運転を止めず、キャデラックのような一番大きなサイズの自動車を運転する。このような大型車は、事故にあっても自分が負傷する可能性が低く、無謀な運転をしても対向車が道を譲ってくれることが多いからだ。

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休暇の時間もいよいよなくなってきた。

グールドは、キャロルが映画の機材とフィルムを持って来たと知り、それで映画を撮ろうと言い出した。

シナリオは、いかに自分が性的誘惑に無縁かを描くことにしようという。

グールドが、浜辺で読書をしていると、褐色でエキゾチックな現地女性ダンサーがグールドのオーバーコートを羽織って現れる。彼女がグールドの正面にやってきて、オーバーコートを脱ぎ、ビキニ姿になって、腹と腰を交互に突き出すバンプというディスコの踊りを激しく踊って彼を挑発する。ビキニのお尻にピンクの貝殻が多数ついていて、楽し気に揺れている。

それでも、グールドは読書をやめず、ダンサーは悲しげに再びレインコートを羽織って、椰子の木立に帰っていく。そこで、グールドが読んでいた本が、《決断をためらうことの美徳》を語る[10]ツルゲーネフの随筆だとわかる。

これが、シナリオだった。キャロルは内心、ずいぶん妙なシナリオだなと思っていた。

ところが、準備が整い、さあ撮影というばかりになって半ば予想されたことだが、グールドが出演したくないと言い出した。その理由は、熱があって、頭が痛いという些細なものだった。

キャロルは、憤懣やるかたなかったが、主役が嫌だというのではどうしようもない。しかたなく、自分がグールドの役になって、映画を撮り始めることにした。彼にとって、演技は簡単だった。激しく腹と腰をゆするバンプを踊るダンサーの挑発に乗らず、浜辺で読書に集中するふりをすることは難しいことではなかった。

映画のフィルムが残り半分になったときに、グールドが「ぼくも出たい。」と言い出した。

グールドは、海辺のディレクターズチェアに向かって歩く。長いオーバーコートを着て、マフラーを首に巻き、デッキシューズを穿き、ベレー帽を横向きに被り、サングラスをずらして鼻にかけ、葉巻を手にしている。手袋を脱ぎながら、チェアに座ったグールドは、振り返る格好で話し始める。

もう一つの撮影で、グールドは、浜辺に落ちていたビールの小瓶を振り回しなはら、ビキニのダンサーに対抗するように熱狂的に踊り始める。ついには、海の中へ入って奇妙な手ぶりで自分の頭の中にあるオーケストラを指揮した。

グールドは、振り返る格好で社会的な貧困問題を声色を使って話し始める。

次のシーンでは、降り注ぐ太陽の下で海水パンツをはいたキャロルが浜辺で、《ためらうことの美徳》を語るツルゲーネフの随筆を読んでいる。

そこへグールドのオーバーコートを羽織った褐色の若いダンサーがやって来て、オーバーコートを脱いでビキニ姿になり、キャロルの周りを誘惑しながら踊り始める。バックの音楽には、カリブ海の軽快なサルサがずっと流れている。

魅力をふりまくダンサーが、キャロルの気を惹こうとするのだが、無視するキャロル。

今度は、場面が変わって、グールドが憑りつかれたように踊っている姿と、ビキニ姿のダンサーの踊りが交互に切り替わり、二人が向かい合って踊っているようにフィルムが繋がれている。

ついには、グールドは海の中に入り、奇妙な手ぶりで、オーケストラを指揮をしているのかのように踊り続ける。最後のシーンで、キャロルはとうとうツルゲーネフの随筆を顔に乗せて、浜で寝てしまう。

エンディングは、口惜し気に、ダンサーがキャロルを誘惑するのを諦め、オーバーコートを再び着て、トボトボと林の方へ帰っていく。

実際に出来上がった短編映画《ためらいの美徳》は5分ほどの長さで、たいした意味のないバカバカしいものだったが、クラシックピアニストの巨匠のイメージを拭うには十分だった。

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[1] バッチェン:フラニー・バッチェン(Frances Batchen Barrault)注釈21と同じ。

[2] ジョック・キャロル Jock Carroll (1919 – 1995) カナダのトロントテレグラムを含むメディアで働いたライター、ジャーナリスト、写真家。キャロルはこの時、37歳だった。

[3] 雑誌に掲載:『ウィークエンド・マガジン』第6巻第27号(1956年)ジョック・キャロルのフォト・ルポルタージュ。この記事は、『ぼくはエクセントリックじゃないグレン・グールド対話集』(音楽の友社ブリューノ・モンサンジョン編粟津則雄訳)で読める。

[4] 『グレン・グールド光のアリア』(筑摩書房ジョック・キャロル宮澤淳一訳)原書は、”GLENN GOULD some portraits of the artist as a young man”Jock Carroll, 1995, Stoddart, Toronto

[5] この裁判の概要は、https://en.wikipedia.org/wiki/Gould_Estate_v_Stoddart_Publishing_Co_Ltd から引用している。また、参考資料として、巻末に張り付けている。

[6] 私は門外漢で:『グレン・グールド光のアリア』(筑摩書房ジョック・キャロル宮澤淳一訳)5P

[7] ボードレールの恋人たち:ボードレール(1821年 – 1867)は、フランスの詩人、評論家。韻文詩集。象徴主義詩の始まりとされ、「近代詩の父」と称される。唯一の韻文詩集「惡の華」は、反道徳的であるとして、多くが罰金を科され、削除を命じられた。ボードレールの恋人たちとは、娼婦を含む、彼自身の生涯にわたる多くの恋人たちの意味。

[8] シムコー湖 注37参照

[9] オランウータン:グールドのアメリカデビュー後、ブリュッセルの万国博覧会(1958年)で、指揮者ボイド・ニールとバッハのピアノ協奏曲第1番ニ短調を演奏し、『ル・ソワー』紙は米国の新聞報道を真似て、グールドの「オランウータンのようなスタイル」に不満を示した。

[10] ツルゲーネフ(1818 – 1883):ドストエフスキー、トルストイと並ぶ、19世紀ロシア文学を代表する文豪。人道主義に立って社会問題を取り上げる一方、叙情豊かにロシアの田園を描いた。


 [*]オストウオルドの伝記には、キャロルの書いたものとして、エキセントリックさに対する弁解が出てくる。つまり、オストウォルドは、この記事をキャロルの原稿ととらえていたはずだ。