「草枕」(Three-Cornerd World) その3 グールドが読んだ夏目漱石

グールドが読んだ夏目漱石

夏目漱石の弱点、男尊女卑と大衆蔑視

グレン・グールドは、1965年に発刊された《Three-Cornered World》(三角の世界:「草枕」)を1967年に手に入れた。35歳の時である。

夏目漱石が「草枕」を書いたのは、さらに遡ること60年も前の、1906年(明治39年)である。「草枕」は漱石にとって、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」に次ぐ3作目だった。グールドが読んだ1967年は、自由を謳歌し民主主義が高まった時代だった。それに対し、後にも触れるが、漱石が書いた1906年は、日本では日露戦争が終わった直後だが、西欧列強の《持てる国》と《持たざる国》が対立を深め、二度の世界大戦へと向かう時代だった。

夏目漱石の作品を今読めば、男尊女卑や、教育のない者に対する蔑視が潜んでいるという指摘があるのは当然だろう。しかし、それは大戦前という時代、女性に選挙権もなかった時代背景と、高等教育を受けた者が大衆に対する責務を果たさないとならないというノブレス・オブリージュの義務感があったからだろう。それらを考えれば、漱石の天才は少しも損なわれるものではない。制度的なジェンダー平等はもちろん必要だが、批判覚悟でいえば、性差が生まれる原因はすべて社会環境にあり、生まれながらではないという考えは説得力を欠くものだろう。また、教育を受けたものの義務感であるノブレス・オブリージュの方は、逆に、現在まったく霧消してしまい漱石の時代のほうがずっとマシだったとしか思えない。

つまり、漱石の世界観が当時のスタンダードなもので違和感がないと考えれば、夏目漱石は普遍性をもつ世界的な作家であることは間違いない。

夏目漱石をシェイクスピア以上と評価するダミアン・フラナガン


ダミアン・フラナガンというイギリス人日本文学研究者がいる。イギリスで夏目漱石に魅せられ日本とイギリスを往来しながら、日本語を学び博士号をとり、日本語で2冊の本を出版している。その苦労たるや相当なものだろう。逆に、その熱意の大きさが推量できるというものだ。

その[1]ダミアン・フラナガンは、漱石が、日本では単に森鴎外と並ぶ国文学の先駆者に過ぎないと考えられていること、加えて、有名な評論家の江藤淳や吉本隆明らさえ、漱石の作品を個人的な経験をもとにした私小説の延長といった捉え方をしていると批判する。漱石は、日本では「則天去私」が、理想のキーワードとして語られるが、「則私去天」も場面によって、おなじく理想のキーワードだという。

彼は、実際のところ、夏目漱石がシェイクスピアをも超える世界的なスーパースター作家であり、小説は自身の苦悩を表現する手段ではなく、哲学的な問題について深く掘り下げ、人生そのものの普遍性を探求する手段であり、背後にはニーチェ思想があるという。漱石の思想には、ニーチェの「冒険」というコンセプトに惹きつけられているというのだが、皮肉なことに、そのことを日本人は理解できていないという。

例えば漱石の『門』について、[2]「崖の下に住む冒険に向かない男と、満州の冒険者、ニーチェ的な謎を喜ぶ冒険と、禅と儒教と。」と指摘し、「『門』は、宗教に対する挫折感を話題にする、気の滅入るような小説と見るより、むしろある種の意思のない人間を風刺する、精密に考案された小説と見るべきであろう」という。

 また、上記に続いて『それから』については、「『それから』のように堕落を超越しようとする冒険を書くより、冒険が堕落だと恐れているために、宗教へ逃避する過程を書くことによって、このいくつかの観念を融合させるのは何よりも当然だったであろう。しかし、皮肉なことに、この冒険からの逃亡のために、主人公は禅という大冒険をするはめになる。・・・数多くの批評のように、(『門』の)宗助が宗教的な冒険に失敗するのが、宗教に対する漱石自身の悲観を表している推定するのは決して適切ではない。」という。

なお、ダミアン・フラナガンの分析は、従来の日本人評論家と比べて、非常に説得力がある。また、これについて項を改めて書きたい。

カナダ人ピアニストのグレン・グールドは、芸術論と日常の苦悩との関係が、奔放にユーモアを含んで展開される英訳の「草枕」を愛読して止まなかったが、同時に彼は、他の手に入る英訳された漱石作品も読んでいたはずだ。その時「草枕」を含め、漱石の個人的な感想や感情を読み取っていたのではなく、ダミアン・フラナガン同様、もっと深い人間の普遍的な真実をそれらの作品に見ていただろう。

おしまい


[1] ダミアン・フラナガン 1969年イギリス、マンチェスター生まれ。ケンブリッジ大学モードリン・カレッジ在籍。93~99年に神戸大学で、修士、博士課程を経て2000年に博士号取得。著書に「日本人が知らない夏目漱石」「世界文学のスーパースター夏目漱石」がある。

[2] ダミアン・フラナガン「日本人が知らない夏目漱石」第二章『門』までの道 『門』の新しい冒険から引用

「草枕」(Three-Cornerd World) その2 画工の芸術観と芸術家観

つぎに画工の芸術観と芸術家観はなにか

いままでストーリーを追ってきたが、次は「草枕」に書かれた画工の芸術観と芸術家観について抜き出してみたい。またのちに、グールドが読んだ英訳ではどのような印象になるのかも考えてみたい。

  1. あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。
  2. 明暗は表裏のごとく、日の当たる所にはきっと影がさすと悟った。喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。
  3. 余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵芥を離れた心持になれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少なかろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。・・・うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したものがある。・・・すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願い。一つの酔興だ。
  4. (日本の伝統芸能である能について)我らが能からうけるありがた味は下界の人情をよくそのまま写す手際から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。
  5. 芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿(いばり)するのをさえ(みやび)な事と見立てて発句した。
  6. 世にはありもせぬ失恋を製造して、自ら強いて煩悶して、愉快を貪るものがある。常人はこれを評して愚だと云う、気違いだと云う。しかし自ら不幸の輪郭を描いて好んでその中に起臥するのは、自ら[1]()(ゆう)の山水を刻画して[2]壺中(こちゅう)の天地に歓喜すると、その芸術的の立脚地を得たる点において全く等しいと云わねばならぬ。この点において世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家としては常人よりも愚である。気違いである。・・・してみると四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
  7. (現実の美である)燦爛(さんらん)たる彩光(さいこう)は、[3]炳乎(へいこ)として昔から現象世界に実在している。・・・[4]ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らず、・・・[5]サルヴァトル・ロザは泥棒が研究して見たい一心から、おのれの危険を賭けにして、山賊の群れに這入り込んだと聞いたことがある。飄然と画帳を懐にして家を出たからには、余にもそのくらいの覚悟がなくては恥ずかしい事だ。
  8. (どうすれば)詩的な立脚地に帰れるかと云えば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に据え付けて、その感じから一歩退いて有体に落ちついて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。詩人とは自分の死骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。
  9. 茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人ほどもったいぶった風流人はない。広い詩界をわざわざ窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに[6]鞠躬如(きっきゅうじょ)として、あぶくを飲んで結構がるものはいわゆる茶人である。・・・あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育のない連中が、どうするのが風流か見当がつかぬところから、器械的に利休以後の規則を鵜吞みにして、これでおおかた風流なんだろう、とかえって真の風流人を馬鹿にするための芸である。
  10. われらが俗に画と称するものは、ただ眼前の人事風光をありのままなる姿として、もしくはわが審美眼に濾過して、絵絹の上に移したるものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の[7]能事(のうじ)は終わったものと考えられている。もしこの上に[8]一等地を抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの趣を添えて、画布の上に[9]淋漓(りんり)として生動させる。ある特別の感興を、己が捉えたる[10]森羅の裡に[11]寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が明瞭に筆端に迸っておらねば、画を製作したとは云わぬ。己はしかじかの事を、しかじかに観、しかじかに感じたり、その観方も感じ方も、前人の[12]籬下(りか)に立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっと正しくして、もっと美しきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。
  11. わが感じは外から来たのではない、たとい来たとしても、わが視界に横たわる、一定の景物ではないから、これが原因だと指を挙げて明らかに人に示す訳に行かぬ。あるものはただ心持ちである。この心持ちを、どうあらわしたら画になるだろう ー否この心持ちをいかなる具体を[13]()りて、人の合点するように髣髴(ほうふつ)せしめるかが問題である。
  12. 普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すればできる。第三に至っては存するものはただ心持ちだけであるから、画にするには是非ともこの心持ちに恰好なる対象を択ばなければならん。・・・古来からこの難事業に全然の績を収め得たるものを挙ぐれば、[14]文与可の竹である。[15]雲谷門下の山水である。下って[16]大雅堂の景色である。[17]蕪村の人物である。泰西の画家に至っては、多く目を具象世界に馳せて、[18]神往の気韻に傾倒せぬ者大多数を占めているから、この種の筆墨に[19]物外の[20]神韻を伝え得るものははたして幾人あるか知らぬ。
  13. 惜しい事に雪舟、蕪村らの(つと)めて描出した一種の[21]気韻は、あまりに単純でかつあまりに変化に乏しい。・・・・考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした吾子を訪ね当てるため、六十余州を回国して、寝ても覚めても、忘れる間がなかったある日、十字街頭にふと邂逅して、稲妻の遮るひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。画でないと罵られても恨みはない。
  14. (那美さんが振袖姿で廊下を何度も行きつ戻りつするのを見て)うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚(うつつ)のままで、この世の呼吸(いき)を引き取るときに、枕元に病を護るわれらの心はさぞつらいだろう。四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生甲斐のない本人はもとより、傍に見ている親しい人も殺すが慈悲と諦められるかも知れない。しかしすやすやと寝入る()に死ぬべき何の科があろう。
  15. (裸体画について)うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせんと焦るとき、うつくしきものはかえってその度を減ずるが例である。・・・放心と無邪気とは余裕を示す。余裕は画において、詩において、もしくは文章において、必須の条件である。今代芸術の一大[22]弊竇(へいとう)は、いわゆる文明の潮流が、いたずらに芸術の士を駆って、[23]拘々(くく)として随所に[24]齷齪(あくそく)たらしむるにある。裸体画はその好例であろう。
  16. 余はこの温泉場に来てから、まだ1枚の画もかかない。絵の具箱は酔興に、担いできたかの感さえある。人はあれでも画家かと嗤うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。ちっぱな画家である。こういう境を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
  17. 芸術の定義を下しうるとすれば、芸術はわれら学問教養を身につけた人の胸に潜んで、邪を避け正に就き、曲を斥け直にくみし、弱を扶け強を挫かねば、どうしても堪えられぬと云う一念が結晶して、[25]燦として白日を射返すものである
  18. 余は画工である。画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に堕在するも、東西両隣の没風流漢よりも高尚である。社会の一員として優に他を教育すべき地位に立っている。詩なきもの、画なきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美しき所作ができる。人情世界に在って、美しき所作は正である、義である、直である。正と義と直を行為の上において示すものは天下の公民の模範である。
  19. 汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を踏みつけようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと()()かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を(ほしいまま)にしたものが、この鉄柵外にも自由を(ほしいまま)にしたくなるのは自然の(いきおい)である。憐れむべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に嚙みついて咆哮(ほうこう)している。文明は個人に自由を与えて虎のごとく(たけ)からしめたる後、これを[26]陥穽(かんせい)の中に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を(にら)めて、寝転んでいると同様な平和である。檻の鉄棒が一本でも抜けたらー世の中はめちゃめちゃになる。第二の()(らん)西()革命はこの時に起こるのであろう。個人の革命は今すでに日夜起こりつつある。北欧の偉人[27]イプセンはこの革命の起こるべき状態についてつぶさにその例証を吾人に与えた。余は汽車の猛烈に、見界(みさかい)なく、すべての人を貨物同様に心得て走る様を見るたびに、客車のうちに閉じ()められたる個人と、個人の個性に寸毫(すんごう)の注意をだに払わざるこの鉄車とを比較してーあぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻を()かれるくらい充満している。おさき(まっ)(くら)に盲動する汽車はあぶない標本の一つである。

(抜粋おしまい)


[1] どこにも存在しない風景

[2] 自分だけの別世界

[3] きわめて明らかなさま

[4] イギリス19世紀前半の風景画家

[5] イタリア17世紀の画家、銅版画家

[6] (きっきゅうじょ) 身を屈めてかしこまる様子

[7] なすべき事柄

[8] 一段と優れている

[9] 勢いが盛んにあふれ出ているさま

[10] 森羅万象 ありとあらゆるもの

[11] 直接示さないで他の事物に託して表現する

[12] りか 垣根のそば。低い位置にあることのたとえ。

[13] 藉(か)りて かこつけて

[14] 中国、宋代の画家

[15] 雲谷等顔 桃山時代の日本画家

[16] 池大雅 江戸中期の文人画家

[17] 与謝蕪村 江戸中期の俳人、画家

[18] 心が惹かれるような風雅な趣(おもむき)があること

[19] 物質界を超える世界

[20] 詩文・絵画などの、神わざのようなすぐれた趣のこと

[21] 気品の高い趣

[22] 弊害、欠点

[23] ものごとにとらわれ、こだわるさま

[24] あくせく、こせこせすること

[25] 燦として→きらびやかで美しい、白日→照り輝く太陽

[26] ワナ 落とし穴

[27] イプセン ノルウェー19世紀の劇作家。社会の矛盾をえぐりだし、近代劇の祖と称される

「草枕」(Three-Cornerd World) その1 ストーリー

「草枕」の冒頭は、次の有名な文で始まる。

「山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」

30過ぎの西洋画を描く画工が、[1]熊本とおぼしき山中に絵を描きにやってくる。

この小説は、画工の持つ芸術観とこの山中で起こる物語を交互に語る形式をとっているが、物語の方は那美さんという魅力的な女性の画を、どう描くかがテーマである。

まずはどんなストーリーか

この画工が、「非人情」の旅に出かける。いきなり「非人情の旅」といわれても誰も分からないので説明すると、画工がいう「非人情の旅」というのは感情抜きで、物事を突き放して客観的に見る旅と言えばよいだろう。本文には、こうある。

「恋はうつくしかろ、忠国愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風(つむじ)に捲(ま)き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。」「これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。」

これが「非人情」の地位である。

画工は、那古井(なこい→な恋→「恋をするな」という暗喩)という地を目指し、山を登っていく。途中で雨に降られ、お婆さんがいる茶屋に寄る。そこで、お茶とお菓子をだしてもらった画工が写生帖を出し俳句をひねっている。そこへ、那古井から茶屋へ馬子の源さんが馬を曳いて立ち寄る。お婆さんと源さんの二人は、「那古井の嬢様と比べれば幸せに暮らしているが、あんな器量をもった嬢様が気の毒だ、近頃は具合はどうだろうか。」と心配している。馬子の源さんは、5年前に船ではなく、馬に乗った嬢様が高島田で城下にお輿入れしたとき、馬の手綱をひいて、桜の花びらが高島田の上にはらはら落ちて美しく、いまも忘れられないと言う。

画工は、ミレーが描いた[2]オフィーリァを思い出し、オフィーリァとその嬢様がだぶるのだが、顔だけはすっぽり抜けている。画工が、さぞかし、高島田でお輿入れの嬢様は綺麗だったろうと言うと、お婆さんは「たのんでご覧され。着て見せてくれましょう。」と真面目に答える。驚きながら画工が聞いていると、この村の《長良の乙女》の言い伝えになり、墓と五輪塔があると言う。

ミレーのオフィーリァ
五輪塔(Wikipediaから)

昔、《長良の乙女》という美しい娘がおり、二人の男が一度に[3]懸想して「ささだ男になびこうか、ささべ男になびこうかと、娘はあけくれ思い煩ったが、どちらへもなびきかねて、とうとう[4]『あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもゆるかも』と云う歌を詠んで川へ身を投げ果てました。」と、突然、お婆さんは予想外の教養を示す言い伝えを語る。さらに、長良の乙女と嬢様は、二人の男が祟(たた)った推移が似ていると言う。一人は嬢様が京都へ修行に入った時の男、もう一人は城下随一の物持ちで、本人は京都の男を強く望んだが、事情があり親が地元の物持ちに決めた。ところが、戦争で男の勤めの銀行が潰れ、嬢様は那古井へ戻り、世間から不人情だとか薄情とか言われていると語る。

画工は、志保田という唯一の宿屋に宿泊する。その最初の晩、長良の乙女がオフィーリァになっている夢を見ていたら、遠ざかる歌声に目を覚ます。床を出て障子をあけると、月明かりの向こうの[5]海棠を背に、化物かと思ったら女の影がある。時刻は、深夜1時10分である。あれは化け物か、化け物でなければ嬢様の那美さんかも知れぬが、夜中に出戻りの嬢様が庭に出るのは不穏当だとか、懐中時計の音も気になって寝付けない。画工は、気味悪がっていてはならんと思い直し、俳句を画帳に書きつらねているとうとうとと眠くなる。そうして覚醒とも眠るともつかないでいると、入り口の唐紙がすーと開く。幻のごとく仙女のような影が現れ、そろりと部屋の中へ入る。仙女は戸棚を静かに開け閉めして出て行った。 翌朝、朝から風呂に入って裸で出てきたら、那美さんが「これをお召しなさい」と柔らかい着物をかけた。向き直ると那美さんは、二三歩後ずさるのだが、那美さんの表情は、「悟りと迷いが一軒の家に喧嘩しながら同居している体(てい)だ」「不幸に押し付けられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。不仕合せな女に違いない。」と画工は思う。

画工が部屋に戻ると、夜中に書いた画帳の俳句の下に、真似をしたのか、添削をしたのか、馬鹿にしたのか誰かの字で俳句が付け加えられている。画工が夕べの名残はどこかと障子を開けて庭を見ても、食事は出てこない。やがて、小娘が食事を運んできて、画工は那美さんのことを聞き出そうとするのだが、画工が寝ていた部屋は、那美さんの普段使っている部屋だとしかわからない。小娘はなかなか口が堅い。食事が終わり片づけに小娘がふすまを開けた瞬間、庭の向こうの建物の二階で、静かな目で俯いている那美さんが美しいのだが、その音に気付いた刹那、毒矢のような視線が空を貫き、会釈もない。はっと思う間もなく、襖はしまり、平穏な春に戻る。

ごろごろしていると、那美さんがお茶と見事な青磁の皿にのせた羊羹を持って来る。皿をほめると那美さんの父親が骨董が好きだという話になり、長良の乙女の五輪塔の話になる。お婆さんが『あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもゆるかも』と歌を聞かせたというと、那美さんは、昔お婆さんが志保田に奉公している時分に何度も教えて聞かせるうちに覚えたという。画工が「あの歌は、憐れな歌ですね。」というと、憐れな歌でしょうか、私ならあんな歌は詠まない、第一淵川へ身を投げるなんてつまらない、と那美さんは言う。画工があなたならどうするのかと問うと、那美さんは「訳ないじゃないですか。ささだ男もささべ男も、男妾にするばかりですわ。」「当たり前ですわ。」と答える。そこで、鶯が「ほーう、ほけきょーう。ほーー、ほけっーきょうー」と鳴き、「あれが本当の歌です。」と那美さんが言う。

画工は髪結い床へ出かけ、江戸で暮らしたことのある髪結いの親方に髭を剃ってもらっている。この親方は、客の首を抜けるほど乱暴に扱い、しかも酔っている。江戸で、那美さんの父親に世話になったらしく、志保田の家に詳しい。那美さんは、本家の兄とも仲が悪い、き印だ、気違いだと村で言われていると言い、どんな証拠があるのかと尋ねると、観海寺の下級僧の泰安という坊主に見初められ、出戻った那美さんが、お寺の御堂で「仏様の前で、いっしょに寝よう」と泰安の首っ玉にかじりついたと言う。その後、泰安さんはどうなったのかと尋ねると、それは生きてはおられんだろう、姿を隠した、だが、相手が気違いだからひょっとすると生きてるかも知れんと言う。

そこへ了念という若い坊主頭の坊さんが、「一つ剃ってもらおうか。」とやってくる。了念と親方がお互い減らず口をききながら罵り合っていると、泰安さんは死んだっけかという話になり、泰安さんは東北へ修行に行き、今では智識という高僧になっている、那美さんのことは、「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めておられる」との新情報をもたらす。このあたり、江戸に住んだことのある髪結い床の親父と駆け出しの僧のやり取りがユーモラスである。

画工は、夕暮れの机に向かう。障子も襖も開け放つ。芸術と芸術家について思案していた画工が漢詩を作っている。ふと鉛筆を握ったまま入り口の方を見ると、開け放った三尺の空間を綺麗な影がとおった。画工は、漢詩を捨て入り口を見守る。一分も経たぬうちに反対の方向から向こう二階の縁側を振り袖姿のすらりとした女が、音もせず寂然として歩いていく。画工は思わず鉛筆を落として、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。暮れんとする春の夕刻まぼろしに彩る中に、目も醒むるほど鮮やかな織物は行きつ戻りつ一分おきに消えて去る。

画工は、春の宵の湯舟に浸かっている。湯舟のふちに仰向けの頭を支えて、体を浮かしながらミレーのオフィーリャも悪くないが、ミレーはミレー、余は余だ、一つ風流な土佐衛門を描きたいと思い、土佐衛門の詩を作っていると、どこかで三味線の音が聞こえる。画工が、子供時代によく聞いた三味線の音に触発され、無邪気な子供に戻った気分でいると、突然風呂場の扉がさらりと開いた。誰か来たなと思っていると、画工は女と二人風呂場にいることを覚った。女は芸術的に見ても申し分のないたっぷりとした美しさを奥ゆかしくほのめかし、月の宮殿を逃れた月世界に住む仙女が、追手に取り囲まれてしばらく躊躇する姿のように画工は見る。女が湯舟から出るとき、せっかくの仙女があわれ俗界に堕落すると思う刹那、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭く笑う女の声が、廊下を響き、次第に遠のく。

画工は、美術品の愛好家の那美さんの父親、観海寺の和尚大徹と24、5歳の甥の久一と4人でお茶を飲みながら茶器、漢詩を書いた書や硯など美術品を愛でている。頼山陽、荻生徂徠などの名前がでてくる。那美さんの父親、和尚大徹と画工の3人は、骨董品には博識だが、久一は、鏡が池で写生をして西洋画を描いたりするのだが博識とまでいかない。

(ここでは、この愛好者垂涎の端渓の硯にまつわる4人の関係が分かりやすく現れているシーンがある)

この端渓の硯には、松の皮をそのまま使った蓋がついている。持ち主の那美さんの父親が、この蓋は松の皮には違いないが、山陽が庭に生えている松の皮を剥いで手ずから作ったものだと言うのだが、画工は山陽が俗な人物と思っているから「どうせ自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。」と遠慮なく批判する。すると和尚が磊落に笑い、「ワハハハハ、そうよ、この蓋はあまり安っぽいようだな。」と画工に賛成する。それを久一は気の毒そうに祖父を見ている。不満顔の老人なのだが、硯本体のすばらしさに話が弾む。そのあと話が、久一に中国で硯を買ってきてもらうかという話になり、久一は、志那へ、満州の荒野へやがて出征することが決まっている。

端渓の硯

画工が泊っている部屋で本を読んでいると、那美さんが来る。「お入りなさい。」というと、那美さんは、遠慮することなくつかつかと入ってくる。なかなかの美貌である。

西洋の本で難しいことが書いてあるんでしょうと言われ、なあにと答えると、じゃあ何が書いてあるの、実は私にもよくわからない、それでお勉強なのと突っこまれる。勉強じゃないんだ、パッと開いたところを読むんです、それが面白いんですか、小説なんかそうして読むのが面白い、筋を知る必要なんかないと画工はいう。那美さんが、筋を読まないで何を読むんですかと、反駁すると、「あなたは小説が好きですか」と画工は質問する。那美さんが、「小説なんか読んだって読まなくたって・・・」と口ごもる。「じゃあ、それなら初めから読まなくたって、終いから読んだって、いい加減なところをいい加減に読んでもいい訳じゃありませんか」「しかし若い時分は随分御読みなすったろう」と画工。「今でも若いつもりですよ。」「そんなことが男の前で言えれば、もう年寄りのうちですよ。」「そういうあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年とっても惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですが」「ええ面白いんです。死ぬまで面白いんです」「おやそう、だから画工なんぞになれるんですね」「全くです。パッと開いた小説を読むのは面白い。あなたと話をするのも面白い。あなたに惚れ込んでも良い。いくら惚れ込んでも夫婦になる必要はない。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初めから終いまで読む必要があるんです」

「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」

「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情な読み方をするから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、おみくじをひくように、ぱっと開けて、開いたところを、漫然と読んでるのが面白いんです

那美さんは、画工が読んでいた英文の[6]ジョージ・メレディスの小説を読むようにいう。画工が本を訳しながら読み、那美さんが的確なちゃちゃを入れる。パッと開いて読んだところは、次のような話である。————

船から夕暮れの都会ヴェニスが見える。血をたぎらせた男が、情を漂わせる女を助けながら船首へ向かい、船べりで二人はきわめて近い距離にいる。やがて、完全な日没になり、ヴェニスを離れた女の心は自由を取り戻す。星が次第に増し、真夜中の船べりの甲板で帆綱を枕に、男女が横たわり、一夜だけはつれない、幾夜を重ねてこそとか言うのが聞こえる。男は、しっかりと女の手を握りながら、強いられた結婚をした女を救い出さんと決心する。

そのとき突然地震が起こり、ぐらっと来る。那美さんが小声で叫び、画工に寄りかかる。お互いの体がすれすれになり、顔がくっつきそうになる。その時、一羽のキジが藪から飛び出す。

「非人情ですよ」と女はたちまち居住まいを正しながら屹(キッ)と言う。

「無論」と言下に余は答えた。

岩のくぼみに溜まった水が、地震で揺れている。これを見て、「非人情でなくっちゃ、こうは動けませんよ」と言うのに対し「非人情がお好きなこと」と那美さん。画工は、那美さんが振り袖姿で行ったり来たりして見せたこと、夜中の風呂に入ってきたことに話題を向けるのだが、那美さんは、何食わぬ顔で大徹和尚が書いた漢文の額を読み上げ、話を逸らす。そのあと、和尚や久一の話、鏡が池の話になる。鏡が池は絵を描くのに良いところかと聞く画工に、那美さんは身を投げるのによいところだ、私は近々投げるかもしれないと答え、次のように言う。「私が身を投げて浮いているところを ―苦しんで浮いているところじゃないんです― やすやすと往生して浮いているところを― 綺麗な画に描いてください」「え?」「驚いた、驚いた、驚いたしょう」女はすらりと立ち上がり、にこりと出るときに振り返る。「茫然たる事多事。」

画工は、うららかな春の日を受ける鏡ヶ池に来ていた。時折、月下の海棠の愛らしさとは真逆の、毒々しい妖女のような椿の花がぽたりぽたりと池に落ちる。こんなところへ美しい女の浮いているところをかいたらどうか、と思案する。那美さんを題材に、椿の木の下の池に浮かせ、上から椿を幾輪も落とす。だが、どうも物足らない。那美さんの顔は物足らない。嫉妬の表情を加えたら、憎悪を加えたら、怒りを加えたら、恨みを加えたらと考えるうち、神にもっとも近い憐れの表情が欠けていると気づく。―「あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする薄ら笑いと、勝とう、勝とうとする焦る八の字のみである」

そんな風に思っていると、熊笹の中から、馬子の源さんが馬を曳いて現れる。二人は、お婆さんの茶屋で会ったことを思い出し、源さんは、この鏡が池の命名の言い伝えを画工に教える。ずっと古い昔、やはり美しい嬢様がおり、尺八を吹きながら諸国を行脚修行する梵論字(ぼんろんじ=虚無僧)が、志保田の庄屋に逗留しているうちに、その嬢様が梵論字を見染めて、一緒になりたいと泣いた。ところが庄屋どのは、聞き入れず、梵論字は婿にならんと言って、追い出してしまった。そこで、この池まで追いかけてきた嬢様は、向こうに見える松のところから身を投げた。その時、その時1枚の鏡を持っていたので鏡が池というのです。さらに、あの志保田の家には、代々気違いができます。去年亡くなった嬢様の御袋様がそうだった、祟っている、お嬢様も近頃は少し変だと村人は言います。

源さんが去った後、画工はどのような絵にしたらいいだろうか、どう工夫したものかと思案していたが、ふと顔を上げて絵筆を取り落とした。夕日を背に高い岩の上に振り袖姿の那美さんが微動だにせず立っていた。その一瞬、女はひらりと身をひねり、すでに向こうへ飛び降りた。

画工は、朧月夜に観海寺の石段を考えながら上る。「世の中は、しつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴で埋まっている。・・・浮世の風にあたる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。五年も十年も人の尻に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人生と思っている。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みせぬ事を教える。うるさいと云えばなお云う。よせと云えばますます云う。・・・そうしてそれが処世の方針だという。方針は、人々勝手である。ただひったひったと云わずに方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針がたたぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本の運の尽きだろう。」

画工は、開け放しの観海寺の庫裏(台所)から入ろうとすると、小坊主の了念が出てくる。画工が下駄を脱いで上がろうとすると、「行儀がわるい画工さんじゃの」といいながら、了念がそこをご覧と「脚下を見よ」と書いた注意書きを蠟燭で示す。画工は、下駄を丁寧に揃えなおす。

画工は和尚と雑談をする。「あなたは、方々歩くように見受けるが画を描くためかの」「道具を持って歩きますが、画はかかないでも構わないんです」「じゃあ、遊び半分かの」「そう云ってもいいですが、屁の勘定をされるのが、嫌ですから」「屁の勘定た何かな」「東京にいると屁の勘定をされますよ」「衛生のことかな」「衛生じゃありません。探偵の方です」・・・・和尚が小坊主の時に先代によく言われたのは、日本橋の真ん中に臓腑を晒して、恥ずかしくないようにしなければ、修行を積んだとはいえないと言われたといい、画工は画工になり澄ませばなれると言う。和尚がそれなら画工になり澄ませばよいと言うと、屁を勘定されちゃ、なり切れませんよと画工。

「志保田の那美さんも、出戻ってからわしのところに法を問いに来たじゃて。ところがだいぶできて来て、あのような訳のわかった女になったじゃて」「わしのところに修行に来ていた泰安という若僧(にゃくそう)も、あの女のために大事を究明せんならん因縁に逢着して、今によい智識になるようじゃ」

画工の帰り際、和尚が庫裏を出たところまで送り、わしが手を叩くと鳩が寄ってくると手を叩くのだが、一羽の鳩も飛んでこない。不思議がる和尚、少し微笑する了念。和尚は、鳩は夜目が効かないことを知らない。

画工は、朝食後に煙草を吹かしながら、芸術家についてどういう境遇に達しないとなれないかとか思案している。襖を開けて縁側に出ると、向こうの二階に那美さんが立っている。画工が、挨拶をしようと瞬間に、右手を風のごとく動かしたら、白刃が光った。姿はたちまち障子の影に隠れた。

画工は、那古井の宿屋を出て、石がごつごつした山道を登りながら、那美さんの振舞の御蔭で画の修行がだいぶ出来たと考えている。

―「あの女の所作を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日もいたたまれん。義理とか人情とかいう、尋常の道具立てを背景にして、普通の小説家のような観察点からあの女を研究したら、刺激が強すぎて、すぐいやになる。現実世界に在って、余とあの女の間に[7]纏綿した一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は言語に絶するだろう。余のこのたびの旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものはことごとく画として見なければならん。能、芝居、もしくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。この覚悟の眼鏡から、あの女を覗いて見ると、あの女は、今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりもなおうつくしい」

山を登りきると、歩いてきた蜜柑畑の向こうに海が見える平らな場所に出た。画工は、春の日の木瓜の小株のなかにごろりと寝る。五言律詩の漢詩を作りながら唸っていると、エヘンという人間の咳払いが聞こえた。

木瓜(ぼけ)

雑木の間から、茶の形の崩れた中折れ帽を被った野武士のような男が現れた。男は、山道を降りるかと思えば曲がり角から引き返し、行きつ戻りつを繰り返した。男はときどき立ち止まり、四方を見渡す。そこへ那美さんがやってくる。

中折れ帽

画工は、那美さんが短刀を出すかと思ったが、長財布を出し野武士に渡す。財布を受け取ったあと、野武士は雑木林に姿を消すところで一度振り返るのだが、那美さんは後をも見ない。那美さんがこっちへやって来て、画工に木瓜の中にいないで出ていらっしゃい、今のをご覧になったでしょう、という。あれは、離縁された亭主です、お金を拾いうに行くんだか、死に行くんだか分かりませんが満州に行くんです、という。

画工と那美さんは、本家である兄の家に向かう。そこで、那美さんは甥の久一に父からの餞別である白鞘に入った短刀を畳の上に転がして渡す。ぴかりと刃の部分が光る。

川舟で駅まで久一を送りに行く。舟に乗ったものは、画工、那美さん、久一、那美の兄さん、那美さんの父親、荷物の世話をする源兵衛の6人である。舟の中で、那美さんは、自分を描いてくれと頼む。画工はあなたの顔を描きたいのだが、あなたの顔はそれだけじゃ画にならない、それが出ないままに描くのは惜しいという。一行は、舟を降り鉄道駅に向かう。漱石は、鉄道が文明の象徴で、文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの手段をつくして、個性を踏みつけようとする、汽車ほど個性を軽蔑したものはないという。

いよいよ列車が動き始める。久一が車窓から首を出している。未練のない鉄車がごとりごとりと動きはじめる。最後の三等列車が前を通るとき、また一つ頭が出た。野武士である。那美さんと野武士が思わず顔を見合わせた。野武士の顔はすぐに消えたのだが、那美さんは茫然として、汽車を見送る。その茫然のうちには、不思議にも今までかつて見たことのない「憐れ」が一面に浮かんでいた。

「『それだ!それだ!それがでれば画になりますよ』と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである」

(その1 ストーリー終わり)

――――――――――


[1] 熊本県玉名市の小天温泉に、漱石は30歳の時に、第五高等学校で英語教師をして数日間、保養に来ている。温泉旅館の主として登場する「志保田家」は、帝国議会議員で自由民権運動をしていた前田案山子、娘、卓(つな)が那美のモデルではないかと言われている。

[2] ロンドンのテイト・ギャラリーに夏目漱石も見た、ミレーの「オフィーリァの面影」の絵があり、シェイクスピアの《ハムレット》の女主人公の入水の場面である。

[3] 懸想(けそう)異性に思いをかけること

[4] 「秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも我(あ)れは思ほゆるかも」万葉集に出てくる日置長枝娘子(へきながえをとめ)の歌。(意は、秋めいてくると尾花の上に露がおきます。その露のように今にも消え果ててしまいそうに私はあなたのことが、この上もなく切なく思われます。) この万葉集が詠まれた当時、妻争いの説話があった。:美しい娘に数多くの男が言い寄ったが、最後まで望みを捨てずに争った男が二人、一人は同郷の莵原壮士(うないおとこ)、一人は隣国和泉の信太壮士(しのだおとこ)があり、娘は信太に心を傾けていましたが、信太がよそ者なので同村の若者達の妨害を受け遂に思い余って入水して果ててしまいました。すると二人の男も負けじと娘の後を追って果てたのです。後世の人は哀れに思い、娘の墓を真ん中にして左右に男の墓を建てて弔ったという。

[5] 海棠 バラ科の落葉高木。高さ3~7メートルになる。

[6] ジョージ・メレディス イギリス、ポーツマス生まれ。1849年、彼が21歳のとき、30歳の未亡人メアリーと結婚するが、その9年後に妻メアリーは画家と駆け落ちしてしまう。この体験をもとに『リチャード・フェヴェレルの試練』を書いて小説家として成功した。1864年、36歳のときに再婚し幸福な家庭生活を送ったが、晩年は多病のうえ聴覚の衰えに悩まされた。早くに夏目漱石などが日本に紹介し、特にその思想が『虞美人草』などに影響を与えている。

[7] 纏綿(てんめん) 物がまつわりつくこと。からみつくこと。情緒が深く離れがたいこと。

グールドのプロコフィエフ「戦争ソナタ」を聴いて書き加えました。《読響 小林愛実さん ショパンピアノ協奏曲1番を聴いてきた》

読響のHPから

第613回定期演奏会 2021 12.14〈火〉 19:00  サントリーホール

12月14日、2021年のショパンコンクールで4位入賞された小林愛実さんのコンサートへ行ってきた。これがとても良かった。

このコンサートは、サントリーホールで行われた読売交響楽団の定期演奏会で、指揮者が2回、ピアノ独奏者が1回、コロナの影響で外人から日本人へと変わった。写真は、指揮者の高関健と、小林愛実さんである。

小林愛実さんは、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏したのだが、見事なリズム感、説得力のあるアーティキュレーションとその強弱、オーケストラのトッティの中での超絶的なスケールの上行と下降のみごとさなど、どれをとっても完璧な演奏だった。

涙腺の弱くなってきた主は、長いオーケストラの前奏のあとに入ってくるピアノに、思わず涙が出てきて困った。第3楽章の本当の最後のフィナーレの部分のピアノにも泣きそうになってしまった。年齢のせいで、涙腺が緩み、しょっちゅう涙を流しているとはいうものの、コンサートホールで、こうした経験はさすがに初めてだった。

ショパンのこの曲は、スラブの民族音楽の雰囲気が色濃くあり、それが心情的に訴えてくるのかも知れない。理知的なバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったドイツ主流派と、そこが違うところだろう。

彼女は、前半のプログラムの2曲目、休憩の前に登場した。彼女の演奏が終わった後、観客の拍手がいつまでも鳴り止まずに、アンコールで小品を1曲(ショパン前奏曲 Op.28 第17番変イ長調)を弾いてくれた。最近のコンサートでは、アンコール演奏がないことが多いように感じていたので、これも珍しい。

————————

余談だが、主は、NHKが1985年に放送したショパンコンクールでブーニンが優勝した時の番組を見たのがきっかけで、クラシック音楽を聴き始めた。ちょうど、レコードがら、CDへ切り替わる時期だった。

主がハマっているグレン・グールドは、「やがてコンサートはなくなるだろう」と言った。彼は、コンサートホールの聴衆を、闘牛を見に来た観客に例え、演奏者が失敗するのを期待していると考えていた。同時に、完璧主義者のグールドは、見事な演奏に聴衆から熱狂的な拍手喝采を受けている際に、「今の演奏には、マズいところがあった。もう1度やり直したい。」と思っていたらしい。

あがり症と完璧主義者的性格によって、彼はコンサートから32歳の時にドロップアウトし、スタジオに籠ってレコード制作をするようになる。そこでは、何度でも気に入るまでテイクを取り直せる。

そうしたグールドは、技術の進歩により、リスナーが音楽の一部分、例えば、だれだれの演奏(キット)と、だれだれの演奏(キット)をつないで、自分だけの好みの演奏を作って楽しむだろうといったことも言っていた。こうした実験的な試みは、パソコンを使ってデスクトップミュージックという分野で、確かにそうしたことができる時代になったが、一般のリスナーはそこまではしないし、コンサートはなくならなかった。

生演奏の、生の楽器の素晴らしい音は、自宅で簡単には再現できない。コロナ禍で、マスコミはテレワークと同様、オンラインで音楽を楽しめるとしきりに流していたが、自宅のスピーカーでコンサートホールの音が再現できるなど、ちゃんちゃらおかしい。 まして、遠隔で、合奏(アンサンブル)できるみたいなことも言っていたが、それをコンサートホールと同様の音質でわれわれが聴けるとはとうてい思えない。

完成度の高さでは、録音物の方が高いのは間違いないだろうが、やはり、生の音は良い。弦楽器が実際に音を出す前には、一瞬前に弦と弓がこすれるかすかな音がするし、クラシック音楽で使われるどの楽器でも、アコースティックな響きは非常に心地よく、録音物では表現できない良さがある。 そのため、コンサートの意義はなくなっていないのではないか。

サントリーホール

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プログラムの後半には、高関健指揮で、プロコフィエフ(1891-1953)の交響曲第5番が演奏された。主は、このプロコフィエフという作曲家の交響曲を初めて聴いた。パンフレットの解説によると、革命を嫌気して西側へのがれたプロコフィエフだが、結局、革命後のソ連に戻ってくる。このソ連時代に書かれた曲で、旋律がニュース映画に出てきそうで、いかにもソ連的だ。

ソ連の国旗のデザイン

演奏するオーケストラの団員数は、ショパンの協奏曲と比べるとずいぶん多い。特に、後列の打楽器奏者は、5人ほどいたはずだ。彼らが銅鑼やらシンバル、大太鼓などを鳴らすので、フォルテッシモでは、超絶、大迫力である。

こうした曲をCDやストリーミングで自宅で聴くのは、大掛かりな再生装置が必要になるので、難しい気がする。こうした大曲は、生でコンサートホールで聴くに限る、そんな気がする。大音量で、こうした交響曲をホールで聴くのは、ストレス発散にいいかも知れない。

————————

そう思ったところで、確かグールドはプロコフィエフを弾いていたはずだと思い調べてみたら、コロンビア(現在ソニー)の正規録音で、ピアノソナタ第7番「戦争ソナタ」を1968年にニューヨークのスタジオで残していた。

レコードのジャケット

このピアノソナタは、6,7,8番をひっくるめ、第二次大戦中に作曲されたために「戦争ソナタ」と西側陣営がつけたらしい。だが、ソ連ではたんに「3部作」と呼ばれていたようだ。交響曲第5番も、同時期に作曲されていて、雰囲気が似ている。

このグールドの演奏だが、「おお、交響曲第5番も、こんな感じやったぞ!」と思った。グールドの演奏はピアノソナタなので、ピアノ1台なのだが、そもそも、オーケストラの交響曲の雰囲気を出すのがうまい。とにかく彼の演奏は切れが良い。音量を変えながら、気持ちの良いリズムを刻んでいく。また、和音の響きが、古典派などの予定調和な響きとは全く違って、現代的で、これはこれで、なんとも気持ちよい。彼は手を変え品を変え、曲の魅力をリスナーに見せる。

多くのピアニストは、右手の高音部と左手の低音部だけしか聞こえてこないのだが、グールドは内声部も強調する。そのように弾くには、楽譜の音を単に鳴らせばよいというものではなくなり、別のメロディとして弾く必要があるので、彼はしばしば指を持ち替える。(=最初に鳴らした音を鳴らし続けるために、別の指で押さえ続ける。)

3声や4声を弾き分けることで、複数の声部があらわれて鳴っているので、聴いていると発見がある。現代曲にあるような気難しさより、多彩なきらめきが勝っている。

また、彼は和音を同時に打鍵することがほとんどない。もちろん、同時に鳴らした方が良いときは同時に打鍵するが、和音は、複数の旋律の音が合わさっている場合が多いので、バラしながら打鍵することがほとんどだ。はやいアルペジオ風で、目立たせたい音を最初にもってくる。

彼は、ピアノを弾くときに、弦楽四重奏の奏者のように、ソプラノ、アルト、テノール、バスの4人の奏者がいるようなイメージをしているという。ピアノを習うときには、楽譜の同じ拍のところにある音符は同時に鳴らしなさいと習うはずなので、拍を崩さずに和音をばらして弾き、なおかつ、自然に聴こえるように弾くのは、難しい。

最終楽章である第3楽章は、早い烈しいリズムで、ジャズ風に聴くとことができる。狂気を感じることもできる。 ここには、ソ連的という地域に根差した音楽ではなく、もっと普遍的な音楽の楽しさがある。ちょうど、第3楽章のYOUTUBEがあったので、聴いてください。

激しくアップテンポで連続する和音の中に、二つの高音の違ったリズムのメロディが出入りしていて、「こりゃあ、超絶技巧だな。」と思わせる。やがて、もりあがった最終盤にちょっと速度を緩めることで、「もう終わりよ。」と示して、突然終止する。

ジャズか現代音楽か、どちら属するのかよく知らないが、スティーヴ・ライヒという人がいて、「ディファレント・トレインズ」という曲があるのだが、ちょっと似ている。

なお、少し上等のイヤホンを使って、近年リマスターされた正規版のCDを聴くと、グールドの唸り声と生涯使い続けた椅子がきしむ音が聞こえてきます。

おしまい

読響 小林愛実さん ショパンピアノ協奏曲1番を聴いてきた

読響のHPから

第613回定期演奏会 2021 12.14〈火〉 19:00  サントリーホール

12月14日、2021年のショパンコンクールで4位入賞された小林愛実さんのコンサートへ行ってきた。これがとても良かった。

このコンサートは、サントリーホールで行われた読売交響楽団の定期演奏会で、指揮者が2回、ピアノ独奏者が1回、コロナの影響で外人から日本人へと変わった。写真は、指揮者の高関健と、小林愛実さんである。

小林愛実さんは、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏したのだが、見事なリズム感、説得力のあるアーティキュレーションとその強弱、オーケストラのトッティの中での超絶的なスケールの上行と下降のみごとさなど、どれをとっても完璧な演奏だった。

涙腺の弱くなってきた主は、長いオーケストラの前奏のあとに入ってくるピアノに、思わず涙が出てきて困った。第3楽章の本当の最後のフィナーレの部分のピアノにも泣きそうになってしまった。年齢のせいで、涙腺が緩み、しょっちゅう涙を流しているとはいうものの、コンサートホールで、こうした経験はさすがに初めてだった。

ショパンのこの曲は、スラブの民族音楽の雰囲気が色濃くあり、それが心情的に訴えてくるのかも知れない。理知的なバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったドイツ主流派と、そこが違うところだろう。

彼女は、前半のプログラムの2曲目、休憩の前に登場した。彼女の演奏が終わった後、観客の拍手がいつまでも鳴り止まずに、アンコールで小品を1曲(ショパン前奏曲 Op.28 第17番変イ長調)を弾いてくれた。最近のコンサートでは、アンコール演奏がないことが多いように感じていたので、これも珍しい。

余談だが、主は、NHKが1985年に放送したショパンコンクールでブーニンが優勝した時の番組を見たのがきっかけで、クラシック音楽を聴き始めた。ちょうど、レコードがら、CDへ切り替わる時期だった。

主がハマっているグレン・グールドは、「やがてコンサートはなくなるだろう」と言った。彼は、コンサートホールの聴衆を、闘牛を見に来た観客に例え、演奏者が失敗するのを期待していると考えていた。同時に、完璧主義者のグールドは、見事な演奏に聴衆から熱狂的な拍手喝采を受けている際に、「今の演奏には、マズいところがあった。もう1度やり直したい。」と思っていたらしい。

あがり症と完璧主義者的性格によって、彼はコンサートから32歳の時にドロップアウトし、スタジオに籠ってレコード制作をするようになる。そこでは、何度でも気に入るまでテイクを取り直せる。

そうしたグールドは、技術の進歩により、リスナーが音楽の一部分、例えば、だれだれの演奏(キット)と、だれだれの演奏(キット)をつないで、自分だけの好みの演奏を作って楽しむだろうといったことも言っていた。こうした実験的な試みは、パソコンを使ってデスクトップミュージックという分野で、確かにそうしたことができる時代になったが、一般のリスナーはそこまではしないし、コンサートはなくならなかった。

生演奏の、生の楽器の素晴らしい音は、自宅で簡単には再現できない。コロナ禍で、マスコミはテレワークと同様、オンラインで音楽を楽しめるとしきりに流していたが、自宅のスピーカーでコンサートホールの音が再現できるなど、ちゃんちゃらおかしい。 まして、遠隔で、合奏(アンサンブル)できるみたいなことも言っていたが、それをコンサートホールと同様の音質でわれわれが聴けるとはとうてい思えない。

完成度の高さでは、録音物の方が高いのは間違いないだろうが、やはり、生の音は良い。弦楽器が実際に音を出す前には、一瞬前に弦と弓がこすれるかすかな音がするし、クラシック音楽で使われるどの楽器でも、アコースティックな響きは非常に心地よく、録音物では表現できない良さがある。 そのため、コンサートの意義はなくなっていないのではないか。

サントリーホール

プログラムの後半には、高関健指揮で、プロコフィエフ(1891-1953)の交響曲第5番が演奏された。主は、このプロコフィエフという作曲家の交響曲を初めて聴いた。パンフレットの解説によると、革命を嫌気して西側へのがれたプロコフィエフだが、結局、革命後のソ連に戻ってくる。このソ連時代に書かれた曲で、旋律がニュース映画に出てきそうで、いかにもソ連的だ。

ソ連の国旗のデザイン

演奏するオーケストラの団員数は、ショパンの協奏曲と比べるとずいぶん多い。特に、後列の打楽器奏者は、5人ほどいたはずだ。彼らが銅鑼やらシンバル、大太鼓などを鳴らすので、フォルテッシモでは、超絶、大迫力である。

こうした曲をCDやストリーミングで自宅で聴くのは、大掛かりな再生装置が必要になるので、難しい気がする。こうした大曲は、生でコンサートホールで聴くに限る、そんな気がする。大音量で、こうした交響曲をホールで聴くのは、ストレス発散にいいかも知れない。

おしまい

N響ソロイスツによる 本邦初演、編曲のマーラー10番を聴いてきた

マーラー(1860-1911)は、後期ロマン派、しかもその最後の音楽家に当たり、オーケストラの編成を極限まで巨大化したことで知られる。

マーラーの交響曲を演奏する際の演奏者の数は、モーツァルトやベートーヴェンの時代よりはるかに多い。

マーラーの交響曲第8番は、「千人の交響曲」と言う別称があり、壇上に150人を超えるオーケストラ、後ろの合唱団、バルコニーの少年合唱団が800人いる。楽器編成も凄くて、ハープが2台、マンドリン、ピアノなどが複数舞台にのっているし、パイプオルガンも登場する。打楽器は何種類もあり、大太鼓やシンバル、タムタム(銅鑼みたいなもの)もある。管楽器なども、大きな音量をだすということだけでなく、息継ぎをわからないようにするという理由で、一つのパートを大勢で分担したりする。

そのマーラーの音楽は、次の世代が、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ヒンデミットなどの現代音楽へと連なる。このため、マーラーの音楽もけっこう形容しがたい音楽だと主は思っている。はっきり言うと、「ようわからん」のだが、不思議な魅力があり、気になり、心のどこかに引っかかっており、時間がたつとマーラーが聴きたくなる、そんな音楽である。

マーラー Wikipediaから

そんな風に感じているマーラーなのだが、この大規模な曲を編曲して、小編成でやってみるという催しを見つけて行ってきた。下が、そのチラシである。

本邦初演!室内楽のマーラー

主は、違った角度からスポットライトを当てることで、分かりやすくなる、編曲のもののクラシックが結構好きだ。主のひいきのグレン・グールドは、ベートーヴェンの交響曲やワーグナーの前奏曲を、ピアノ編曲で弾いており、原曲とは違った魅力がたっぷりとある。

開演前の白寿ホール 満席になった

演奏があった白寿ホール(代々木・300席)は上の写真のようなところで、音響が素晴らしかった。開場直後にとった写真なので、観客がまばらにしか写っていないが、実際は満席になった。この時間には、打楽器奏者が、ティンパニのチューニングに時間をかけていた。

さて、感じたことなのだが、どの楽器も「音がでかい」。大勢のオーケストラの中で響くハープなどは、ほとんど聞き取れないような音量なのだが、こうした小編成の中のハープは、たいした存在感である。

弦楽器、管楽器もさることながら、打楽器奏者は大活躍をしていた。彼は、360度を楽器で囲まれ、ティンパニを大音量で鳴らすだけでなく、銅鑼やシンバルもならすし、トライアングルを鳴らすための金属棒を口にくわえながら、マリンバ(木琴)とグロッケンシュピール(鉄琴)なども演奏していた。

グロッケンシュピール Wikipediaから

トライアングルも、頻繁に登場するのだが、良く聞こえる。このトライアングルは、打楽器奏者と鍵盤奏者が分担しており、打楽器奏者が他の楽器を演奏して手を離せないときに、右側の鍵盤奏者が担当していた。

不思議だったのが、鍵盤奏者である。鍵盤奏者は、前にピアノと後ろにアルモニア(リードオルガン)とその中間にトライアングルの支柱を立てて、3つの楽器を担当しているのだが、ピアノとアルモニアの音は、他の楽器に埋もれてよく聞こえなかった。なぜなんでしょう。

この交響曲第10番は、マーラーの最後の交響曲で、めちゃ長くて、第5楽章まであり、およそ1時間半かかる。そのため、途中の休憩がないというアナウンスがある。それもあって、この日のプログラムは、この1曲のみである。 たしかにこの曲の後に、どんな曲を演奏すればこの曲の余韻を壊さないのか、アンコールがないのも仕方がない。

この大規模なオーケストラ曲を、編曲して室内楽の団員数で演奏することで、意外な効果があるもんだと感じた。

つまり、一つは、オーケストラの主要なパートである、ヴァイオリン、チェロ、コントラバスなどの弦楽器群の数、フルート、クラリネット、ホルン、トランペットなどの管楽器の数が通常より少ないことで、ハープやトライアングルなど、他の楽器群の大音量に負けていた楽器の音量が相対的に増し、さすがに、マーラーさん、うまい具合にハープを使っているもんだとか実感する。トライアングルも効果的に鳴らされる。打楽器もそうで、ティンパニ、太鼓だけでなく、木琴、鉄琴も好く鳴っているのが分かる。こうした楽器の音は、本来の大編成では埋もれがちだと思う。

二つ目は、大編成のオーケストラでは、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンが、それぞれ10名程度はいるような気がする。しかし、今回の編成では2名ずつだったように思う。 これがスリルを生む気がした。つまり、曲の冒頭など、第1ヴァイオリンが、静かに小さな音で長い主題を演奏するのだが、10名ほどの合奏と、2人だけの合奏では、観客への聴こえ方がまったく違う。10名ほどでやると、安心感というか安定した旋律になるが、二人というのは、完全に音が一致して重なり合うわけではないので、鮮明に楽器ごとの音が聞こえ、長い音符の区切りや節回しをどのように演奏するかとか、不一致が起こってないかとか、緊張感をはらんでくる。

協奏曲の場合のソリストは、主役なので好きなように弾けるが、二人で同じ旋律を鳴らすのは、これとも違う。

これと同じような他の楽器が鳴っていない、旋律が一つだけのときに、他の弦楽器でもそうだし、管楽器でも起こる。

最終的に、マーラーをよく理解できたか?楽しめたか?ということについてだが、残念ながら、相変わらず「ようわからん曲だ」「まあまあ、楽しめた」ということになるのだが、大音量の全奏では驚くし、ヴァイオリンが囁くように密やかになる部分では、耳をそばだてて聴き入った。

最初に書いたが、このマーラーの次の時代の音楽は、シェーンベルクなどの現代曲に連なる。マーラーの曲は、無調ではないにしろ、調性もあいまいで、12音音楽までもちろんいかないのだが、前期ロマン派の美しく、自己陶酔的で感傷的な音楽とはまったくちがう。個人的な感傷に浸ることを許さない、もっとスケールの大きな世界観や哲学を感じさせる音楽に感じられたのだが、どうだろうか。

この日の観客の反応は非常に良かった。いつまでもカーテンコールの拍手が鳴りやまなかった。

きっと、マーラーの巨大さをはぎ取って、残ったコアの部分をわかりやすく、明晰に客に示すというこの編曲の試みは成功したということなんだろうと思う。

おしまい

(修正版)バッハ ピアノ・コンチェルトにまつわる話

2020/12/17に書いたものを、2021/10/8に、シフのYOUTUBEが聴けなかった点を修正しました。

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バッハの時代はピアノがなかった。そのため、バッハは、チェンバロで協奏曲を多数作っていて、WIKIPEDEAによると、チェンバロ1台用が8曲(1曲は断片)、2台用3曲、3台用2曲、4台用1曲の計14曲も作ったらしい。

ところが、チェンバロ協奏曲、チェンバロは大きな音が出ないために、他のバイオリンやチェロと合奏すると、音量的に完全に負けてしまう。バッハの時代の協奏曲は、大オーケストラというわけではなく、バイオリン、チェロ、コントラバスあたりの弦楽器だけの編成になっており、次に貼り付けたYOUTUBEがそうだ。チェンバロを使ったトン・コープマンという有名な奏者のものだが、オーケストラとチェンバロの音量比は、こういう感じで、どうもチェンバロの存在感は埋没的と言わざるを得ない。

ところが、グレン・グールド。チェンバロ曲をピアノで弾くのはタブーだった時代に、「バッハの時代にピアノがなかったからといって、ピアノで弾かないというのはおかしい。もしあったら、バッハはピアノを使っただろう。」と言って、作曲家の生きた時代に使われた楽器を使う古楽器ブームに轟然と逆らって、表現力が豊かなピアノで弾き、結局、それ以降、バッハを大勢の演奏家がピアノで弾くようになった。

グールドが、バッハのゴルトベルク変奏曲をピアノで弾いてデビューした後、それこそ星の数ほどの演奏家が、この曲をピアノで演奏している。つまり、チェンバロは音量が小さいだけでなく、打鍵の強弱で音量を調節できない。音色が非常に美しいのが魅力だが、表現力ははっきりピアノの方がある。

そこでグールドが《バッハのチェンバロ協奏曲》をピアノで弾き、チェンバロと区別するため《ピアノ協奏曲》と言われる。ところが、この曲のシリーズは、グールドの表現力が圧倒的で、有名なピアニストもあまり弾いていないように思える。

矢印をクリックすると、設定画面が開きます。

つまり、24歳のグールドが、ロシアツアーを行ったとき、ゴルトベルク変奏曲をモスクワで聴いたスヴァトスラフ・リヒテルという大ピアニスト「この曲を二度と自分のレパートリーに入れまいと決心した」(グレン・グールド神秘の探訪:ケヴィン・バザーナ 255頁)と書かれている。これと同じことが《バッハのピアノ協奏曲》でも起こっていると、主は信じている。グールドの演奏が余りに素晴らしく、圧倒的に説得力があり、とても楽しめる曲にもかかわらず多くのピアニストが避けているとしか思えない。

なにしろ、リズムが、定規で測ったか、コンピューターかのように圧倒的に正確で、聴いていて気持ちよくハラハラし、音量の出し入れも最高だし、また、緩徐楽章の右手一本で旋律を弾く際など、これはこれはもう完璧なロマンチックさで、うっとり拍動が激しくなるほどだ。

ことろで、YOUTUBEの字幕機能について、すでにご存じの方も多いと思うが、この動画、冒頭部分でけっこう長くしゃべるバーンスタインの解説を、日本語字幕で出すことがでる。上の写真の赤い矢印の歯車をクリックすると、設定画面が出る。そこで、「字幕オフ」になっているのを「オン」にし、「英語自動生成」をクリックすると「自動翻訳」が出てくる。スクロールして一番下にある「日本語」をクリックするとできるはずだ。

このバーンスタイン大先生は、演劇同様に、バッハの書いた楽譜にはほとんど指示らしい指示が書かれていないので、演奏者が自分で考えなければならないという意味のことを言っている。演奏が始まると、グールドの指が細いのに驚く。女性でもこんなに細くないだろう。ほぼ骨が浮き出て、骸骨のようだ。

(こちらの動画は、残念ながら第1楽章しか入っていない。次のURLのは全楽章入っている。→ https://www.youtube.com/watch?v=JUBYGfjx_54&ab_channel=DeucalionProject)

ところで、ポリーナ・オセチンスカヤというピアニストをYOUTUBE(400万回弱再生されている)で見つけた。この人の演奏は、主は結構好きだ。ちょっとした狂気が感じられるし、とても大きな表現力を感じる。第3楽章は、アレグロ(快速に)なのだが異常に速く、プレストかプレスティッシモ(極めて速く)というスピードである。この人の演奏には、グールドと同じくスイング感、グルーヴ感があり、さすがにもっと現代的なところがあり、楽団を圧倒して背負い投げするような感じがする。グールドには、楽団を圧倒するところはない。主は、第二楽章のアダージョは、グールドの方が好きだけど・・。

楽章の合間に、珍しく毎回、拍手が入る。

最後に、アカン人。ハンガリー出身のアンドラーシュ・シフ「グールド以来のバッハ解釈者」と形容され、グールドを尊敬しているというような意味のことをテレビで聞いた記憶がある。それできっとシフ・ファンの方がけっこうおられると思う。しかし、申し訳ないが、主はこの人の演奏を聴くと、音が耳に刺さって、耳が痛くなる。原因は、この人の鍵盤の弾き方にある。グールドは、手の甲をむしろ下げ、指を平らにして、指だけで弾くのだが、シフは腕全体を鍵盤に落下させて、鍵盤をガンガン叩いている。手の動きを見ていただければわかるかと思う。こちらは、第3番の協奏曲だ。

おしまい

(修正版)グレン・グールド・ギャザリング その2 「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」 内田光子さんと比べて

リライト2021/10/8 YOUTUBEのリンクがうまくつながっていなかったので、加筆・修正しました。

YOUTUBEにアメリカでのテレビ番組「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」があるのを見つけた。2種類のモーツァルトのピアノソナタK333もあった。

これらを聴いてもらえると、グールドの弾くモーツァルトが、いかに過激か!よくわかっていただけると思います。

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2017年12月に建国150周年を記念したカナダ大使館で、グレン・グールド・ギャザリングという催しがあったことを前回書いたが、そこで映画「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」を見てきた。写真の席の左側に座ってパンフレットを広げておられるのが、グールド財団の方で、今回の上映を許可してくださったそうだ。また、右側と下の写真は、ずっとこのシリーズの解説と、字幕翻訳の監修をして下さった宮澤淳一氏である。氏は、青山学院大学教授で世界的なグールド研究の第一人者だ。

今回紹介する、超過激なタイトル!の映画、「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」は、アメリカで1968年4月28日に放送されたテレビ番組の一部だった。グールドは当時36歳だったが、彼は32歳の時からコンサートを開かなくなっていた。そのため、もっぱらスタジオでのレコード作りをしていたので、テレビとはいえ、4年ぶりに生の姿を現したと話題になったらしい。この放送があった1968年頃といえば、第二次世界大戦後の文化、経済、政治あらゆる面で、大きく民主化や大衆化が世界的に進んだ時期と言っていいのではないか。ベトナム戦争の最中だったが、反戦運動も激化し、ヒッピー文化、サイケデリックなサブカルチャーやドラッグ、性の解放などが進んだ時代だった。そうしたアメリカでの2時間番組の40分ほどが、このグールドの放送だった。なお、再放送されることはなかったようだが、ググると仏語のDVDがヒットするので、販売されていた時期があったのかもしれない。(下の写真は大使館に展示されていたもので、コロンビアレコードのハンスタインさんが撮られたものである。晩年のグールドでこのように笑っている写真は少ないと思う)

ビデオを見て驚くのだが、グールドのモーツァルトへのこき下ろし方は半端ではない。モーツアルトは35歳で早逝しているのだが、グールドは前から「死ぬのが早すぎたのではなく、死ぬのが遅すぎた」と言っていた。

この番組では、モーツァルトの作曲態度を、安易で紋切り型の繰り返しに過ぎないとピアノで演奏しながら説明する。この説明には、ピアノ協奏曲の24番を使って説明するのだが、オーケストラが演奏するパートをすべてピアノ1台で弾きながら説明する。このピアノが、鮮やかで、オーケストラに引けを取らないくらい魅力的なのだ。ピアノの演奏の上手さと、語り口の激しさが、見ている方にとっては、メチャメチャ刺激的だ。

大体、天下の大作曲家、モーツァルトを、ここまで正面切って誰が否定するか?モーツアルトの美しいメロディーが変化していくさまを、ピアノを弾きつつグールドが解説し、その変化のさせ方が簡単に予想がつき、手抜きだというのだ。だが、グールドの語り口はともかく、演奏の方は見事で申し分ない。こんなに美しく移ろうのに、どこが悪いの?

この説明には、「クリシェ」というフランス語がキーワードで使われており、WIKIPEDIAではクリシェを「乱用の結果、意図された力・目新しさが失われた句(常套句、決まり文句)・表現・概念を指し、さらにはシチュエーション、 筋書きの技法、テーマ、性格描写、修辞技法といった、ありふれたものになってしまった対象にも適用される。否定的な文脈で使われることが多い」と書かれている。

この発言だが、どこまで本気なのか真偽のほどはわからないが、グールドの言っていることは一理あり、完全に本気なのかもしれない。だが、彼はモーツアルトのピアノソナタは、反面教師的に否定的なことを言いながらも全曲録音しているし、「モーツァルトが書く展開部は、展開していない」とこき下ろしたピアノ協奏曲のうち、番組で取り上げた第24番だけは見事な録音を残している。

この番組の最後の部分では、高く評価できるというピアノソナタ第13番変ロ長調K.333を13分程度で全曲演奏する。これがまた素晴らしい演奏で、主は大使館のホールですっかり感動してしまった。この曲は3楽章あり、驚異的なスピードの第1楽章、比較的ゆったりした第2楽章は、強弱のつけ方や、レガートに弾いたり、スタッカートで弾いたり、響きを区切ったり、残響を残したり変化をつけて飽きさせないで見事なのだが、第3楽章の中盤あたりにいわゆるサビがあり、とても盛り上がっていき、ひねりも加わって曲全体のハイライトがここにある。

このK.333の第3楽章を、ジェフリー・ペイザントが「グレン・グールド、音楽、精神」で次のように評している。「・・・グールド本人はいくつかのモーツァルト演奏において、まさにこの芝居ががった演技性を探求している。例えば、彼の演奏する変ロ長調ソナタ(K.333)の第3楽章は明らかにオペラ的であり、≪魔笛≫でタミーノが歌う <彼はパミーノを見つけたのかもしれない> に実によく似ている。グールドの弾くモーツァルトの終楽章には、モーツァルトのオペラの第一幕末尾を思わせるおどけた性格が頻繁に現れる。・・・」 要は早い話が、普通のピアニストが弾くモーツァルトの原曲とは、違う曲になっているんですね!!

主は、このブログを書くにあたって、英国で活躍する内田光子さんの演奏と比べてみた。内田さんは、日本を代表する世界的ピアニストなのだが、情熱ほとばしるというか、のめりこむところを表に出す正統派のピアニストだろう。

第1楽章を聴くと、何回繰り返すの?と思うくらいリピートしている。おそらく、グールドが、楽譜どおりの繰り返しをしていないのだろう。第2楽章は、大人しくて美しい。文句のつけようがないが、主はそれがどうしたと思うだけで、面白くない。いつまで弾いているの。第3楽章、やはり美しい。がそれ以上のものがない。全体をとおして、平板だ。美しい音色で美しい演奏だが、それ一本。びっくりする要素がない。ひたすら高音部のメロディーだけが、存在を主張している。

グールドは、低音部に自分で考えて勝手に音を加えて、低音部にもメロディーがあるように再作曲しているにちがいない。アーティキュレーション(フレージング)も自在だ。基本的にインテンポ(テンポを崩さず)で弾くのが彼の特徴なのだが、人に真似のできないようなスピードで弾ける(人に弾けないような遅さでも弾ける)。同じ弾き方を、何回もしない。繰り返すときはデタシェ(ノン・レガート)で弾いたり、弾き方を変え、サービス精神があって飽きさせない。なにより、低音部が伴奏ではなく、主役の一部を構成する。全ての音が、全体を考えたピースの1個であるかのようにコントロールされている。

50年経った今でも、未だにグールドは、アバンギャルドなのかもしれない。

・・・主は、グールドがモーツァルトの偉大さは認めながらも、言っていたのは本気だと思う。ちなみに、番組では「作曲家としてはダメだったが、音楽家としては偉大だった」と強調していた。

うまい具合に、YOUTUBEにどちらもあったので、はめ込んだ。グールドは、まったく違う2種類の演奏が見つかった!(どちらも、残念ながらテレビの録音は良くなく、CDやSACDはずっとよい。)

最初は、内田光子さんの演奏。3つに分かれている。ゆったり弾かれているのがわかる。

4番目からグールドの演奏。グールドの最初は、1967年3月のCBC(カナダ放送協会)のものだ。これは18分あり、モーツァルトをこき下ろした番組に比べると、わりとおとなしい(オーソドックス)な演奏をしている。

グールドの2番目が、テレビ放送「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」の方である。きわめてエキセントリック、挑発的(だが、魅力的!)な演奏だ。 

大使館での上映では、宮澤淳一氏が監修された日本語字幕付きの映像を見ることができた。ぜひ機会を見つけて販売してもらえると嬉しい。(さもなくば死蔵することなく、YOUTUBEなどの手段をとってでも見られるようにしてもらえることを願うのみだ。)

https://www.youtube.com/watch?v=D_1pJ9sptk8

Glenn Gould performs Mozarts “Piano Sonata No. 13 in B-flat major“, at the classical music television series “Music For a Sunday Afternoon”, 140 years after the death of the legendary composer, originally broadcast on March 19, 1967.

こちらは、1967年5月19日カナダの公共放送であるCBCテレビで放送されたもの。

https://www.youtube.com/watch?v=L52LqcVAhGY

Excerpt from the “Return of the Wizard”, where concert pianist Glenn Gould enumerates on “How Mozart Became a Bad Composer.”

こちらが、「いいかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」で放送された、モーツァルトのピアノソナタ13番K333を抜粋したもの。挑発的だ!

https://www.youtube.com/watch?v=1pR74rorRxs

Glenn Gould – “How Mozart Became a Bad Composer”の全編。設定のところをいじると、大いに問題がある怪しい日本語訳を表示させることができます。

おしまい

チェンバロリサイタルは最前列で。 辰巳美納子リサイタル・東京文化会館小ホール

1月29日(金)、東京文化会館小ホールで行われた辰巳美納子のリサイタルへ行ってきた。曲目は、バッハのフランス組曲第5番とゴルトベルク変奏曲の2曲である。

この小ホールは649席ある
開演前、休憩中ともずっと調律している

上の写真が開演前の様子である。コロナの真っ最中で、公演中止を心配していたのだが、無事開かれ、観客席は3分の1くらいが埋まっていた。

チェンバロは、おそらく鍵盤楽器では最古参だろう。金属製の弦を張り、爪が弦を引っ掻いて、音が出る仕組みになっている。鍵盤を強く叩いたからといって大きな音が出るわけではなく、優しく弾いても音量が小さくなるわけでもない。音量も小さい。そのため、楽団と合奏すると埋もれがちだ。 しかし、繊細で美しい音色が最大の魅力の楽器だ。

主は、熱烈なコンサートファンではないので、お好みのプログラムの時に、チケットの値段がほどほどのコンサートに出かけている。オーケストラの場合、S席などより、むしろホールの後ろの方とか二階席の方でも、音響設計が良くされているので問題はないし安いので、こういう席を選んでいる。今回も、足が延ばせるという理由で、中央右側の端っこの席を選んだ。鍵盤楽器の場合、演奏者が舞台に向かって左側に座るので、左側の方が手の動きが見えてよいのだが、左側は人気があり、選択できなかった。

チューニングを聞きながら、「この楽器、これはすぐ近くで聴くに限る。」と思った。大音響が出る楽器は、反響音により後ろの席のほうがよく聞こえるのだが、チェンバロは音自体が繊細で小さく、間近で聴くのが良い。

また、常にチューニングが必要なようで、20分間の休憩の間も、調律師がずっとチューニングをしていた。

そもそもこの楽器は、ヨーロッパの貴族が室内で楽しんだ楽器だ。大きなホールで民主化さとれた大衆どもが聴く楽器ではない。 というわけで、主は、コロナのせいで観客席が空いていたこともあり、休憩を挟んでほぼ最前列に移動して聴いていた。 同じように考えた観客もいるらしく、周囲には何人かステージ近くに移ってきた人がいたようだった。

この日のプログラムは、前半がバッハのフランス組曲第5番、後半がバッハのゴルトベルク変奏曲だった。

バッハは、鍵盤楽器のために有名なところでは、パルティータ集、フランス組曲、イギリス組曲、トッカータをそれぞれ6曲ほど作曲している。トッカータは、1楽章形式で、アドリブ的で奇想的な曲である。パルティータ集、フランス組曲、イギリス組曲が、当時のダンスミュージックである舞曲を何曲も組み合わせて作られた大曲である。

フランス組曲も素晴らしいのだが、やはりパルティータが全体としてのまとまりをよく考えて作られており、さらに大曲という趣がある。

辰巳美奈子のゴルトベルク変奏曲の感想を書いてみる。

何といっても、

① 演奏時間がめちゃ長い。

おそらく、80分間以上演奏していたが、グールドの倍程度になるはずだ。原因は簡単で、おそらく反復を全部しているからだ。グールドは、溌剌とした1955年のデビュー録音が38分、瞑想的な1981年の再録音が51分である。反復は、「1955年にはグールドは一切のくり返しをしなかったが、1981年には、カノン9曲と厳格な対位法の変奏曲4曲で、前半のみを繰り返した。」(「グレン・グールド神秘の探訪」 ケヴィン・バザーナ:サダコ・グエン訳 478頁)と書かれており、この日の演奏はちょっと冗長だ。グールドの2回の録音は、長短あるが、いずれの場合にも、極端に遅い演奏と極端に早い演奏が組み合わさっており、きわめて刺激的だ。

辰巳美納子の演奏も、現代的で明るく楽しい演奏を繰り広げているのだが、古楽器を使って楽譜に忠実に、当時のままに演奏しようとしているのかと思えるフシもあり、強いて言えば、指向性がはっきりしない。おそらく、彼女は、古楽を忠実に演奏するより、現代的で楽しくこの曲を演奏しようと考えているのだろうと思うのだが、さらにメリハリがほしい。冒頭のアリア、最後のアリアなどは極端にゆっくり弾いて欲しいし、疾走するところは疾走して欲しい。

逆に、グールド以前の大御所であるワンダ・ランドフスカ(1879年 – 1959年)の演奏のように、博物館にあるような年代物の演奏を、現代の今やったら、それはそれで面白く値打ちがあるだろうと思う。

要は、その人なりの「狂気」がないと面白くない。グールドは、音高と音価(=楽譜上の音の長さ)は変えていないが、拍子や速度記号を無視し、場合によっては音符も加えている。

② この日のパンフレットに「鋭い感性と自在な表現で全体を支える通奏低音に定評がある」と書かれていた。伴奏ともいえる通奏低音をホメるというのは、パンフレットとして、どうなのかなと思った。しかし、通奏低音のリズム感は安定していて、こういうことなんだと納得する。聞いていて安定していて、とても気持ちが良い。もちろん、他の声部もなかなか良かった。 

③ このゴルトベル変奏曲は、最初と最後のアリアの間に、30曲の変奏曲が挟まるのだが、最後の方に近づくにつれ、クライマックスに近づくのが感じられ、最後の変奏曲、クオドリベット(=宴会などで行う、複数人がそれぞれちがう歌を同時に歌う遊び:Wikipedia)で爆発する、その感じがよく出ていた。

このクオドリベットは、当時の俗謡が2曲入っていて、楽しくてとても聞きやすい。それまでのバッハの小難しさが消えて、すっかり楽天的になる瞬間である。ある意味、この曲はクオドリベットが出てくるまでが辛抱であり、この曲の到来で辛抱から解放され、最終的に、再び静かで美しいアリアの円環に戻る。

そう考えると、アリアに戻るところは、もっとゆっくり、極端にゆっくり、じっくり聴かせたらどうなんだろう。 しかし、終わりよければすべて良し。とても、感動的で、楽しめる演奏だった。観客も大きな拍手を盛大におくっていた。 主は、アンコールになにか、最低もう1曲を弾いて欲しかった。

おしまい

グレン・グールド 夏目漱石「草枕」と出会った経緯など

グレン・グールドは、「草枕」を読んでその芸術観につよく共感する。その経緯を、漱石研究者であるダミアン・フラナガン(Damian Flanagan)が、アラン・ターニーの翻訳による”The Three-Cornered World(草枕)”のペーパーバックの再版のイントロダクションで詳しく書いている。

ダミアン・フラナガンは、イギリス生まれの夏目漱石研究者で、日本とイギリスを往来しながら、日本語、英語の双方で著作や評論を発表されている。彼の書いた評論は、日本人研究者よりよほど核心をついていて、読んでいて納得がいく。非常にお勧めである。

そのダミアン・フラナガンが書いたイントロダクションのうち、グールドが出てくる段落を、拙いが、主が翻訳したものを最後に書いてみた。もし、目を通してもらえると有り難い。

また、そのイントロダクションと重複する部分があるのだが、ざっとした経緯を主も書いてみた。

1967年、35歳のグールドは、すでにコンサートの世界から身を引き、コンサートを開かなくなっていた。

休暇を過ごしたノヴァ・スコシア州アンティゴニッシュ(カナダの最東部にあり、トロントから約2000キロ離れている。)からトロントへもどる列車で、化学の大学教授のウィリアム・フォレイが、グールドが同じ列車に乗っていることに気づき、思い切って話しかける。二人は意気投合し、グールドは別れ際に、前年5月に「音の魔術師」と評される巨匠、ストコフスキー(1882-1977)と録音したばかりのベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番のレコードをプレゼントする。フォレイは、この日話題に上った「草枕(三角の世界)」を返礼として送った。

GoogleMapから 赤丸がアンチゴニッシュ
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番のレコードジャケット

グールドのお気に入りの本は、トーマス・マンの「魔の山」だった。しかし、アラン・ターニーの翻訳による、”The Three-Cornered World”(三角の世界・「草枕」)を読んでからは、今や彼が愛情を注ぐ本は、「三角の世界・「草枕」」が完全にとって代わった。

夏目漱石が「草枕」を発表したのが、1906年、アラン・ターニーが、27歳の1964年に、”The Three-Cornered World”というタイトルで「草枕」を翻訳した(刊行は1965年)。アラン・ターニー(1938-2006)は、1978年にロンドン大学で日本文学博士号取得、ICU(国際基督教大学)や清泉女子大学教授を務めた人である。

ちなみに、「草枕」の翻訳は、アラン・ターニー版だけではなく、何種類か出ている。夏目漱石の原作は、日本語で読むと、漢語や仏教用語がふんだんに使われ、多くの和歌や俳句、英詩やヨーロッパ文学者への批評も同時に出てきて、漱石の小説の中でももっとも難解で、漱石の知識の深さ広さに圧倒される。注釈を対照しながら読むのだが、腰を落ち着けてそれでも分からない単語をGoogleで調べて読まないと、しっかり理解できない。逆に、英訳のほうが、分かりやすく読み易いという。

グールドは、この本を知った後、従妹のジェシー・グレイグに二晩かけて、電話でこの本全部を朗読して聞かせたという。また、死の前年になるが、1981年に15分間のラジオの朗読番組で、第1章を抜粋して朗読した。この番組の冒頭で、グールドは次のように解説している。「・・・草枕は、いろいろな要素を含んでいますが、とくに思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観といった対立や、『モダニズム』のはらむ危険をあつかっています。私が思うに、これは二十世紀小説の最高傑作のひとつです・・・」と。

さらに、死の直前は「草枕」を使ったドラマ番組を作ろうとしており、死の床には聖書と「草枕」が残されていたという。

この小説を、漱石は脱稿するまで、わずか2週間で書いたというから驚くが、漱石(主人公)の芸術観と、主人公の絵描きの旅行先での出来事(ストーリー)が交互に語られるという珍しいスタイルで作られている。

下の絵は、「草枕」に出てくるシェイクスピアのハムレットの登場人物オフィーリアが、川で溺れる直前、歌を口ずさみながら死にゆく情景を描いたもので、漱石はこの絵を批判的に描写している。

Wikipediaから

主が手にしている、アランターニーによる”The Three-Cornered World”のペーパーバックは、2011年発行のもので、《序論》を書き加えたダミアン・フラナガン(Damian Flanagan)の「天才から天才へ」という段落を引用する。二人の天才というのは、もちろん、夏目漱石とグレン・グールドである。もし誤訳があれば、ご海容願いたい。

(以下の日本語訳文は、以前に書いたブログを改めたものです。)

序論の抜粋《天才から天才へ》(ダミアン・フラナガン)

草枕が、全員が同じく平等だという現代風の考えによって、大いに哄笑される理由となる落日の列車に乗っていると考えると、十分に皮肉なことだが、漱石の折衷的(和洋折衷的であり、過去と現代の折衷的)な傑作に精通したいと考える、おそらく、その小説を西洋でもっとも熱烈に評価する偉大な人物が、その列車に乗っていた。さらには、この熱烈な評価者は、芸術形式と音楽の第一人者であり、その小説のナレーターの音楽の第一人者は、ー おそらくは、すべての他のものの上位にあるこの芸術という形態が、穏やかな超越状態にもっとも到達できると躊躇なく認めるとはいうものの ー (「草枕」のバックボーンを)からきし何も知らないと認めている。

1967年、その世界的に有名なピアニスト、グレングールド(1932-1982)は、ノヴァ・スコシア州のアンティゴニッシュでの休暇から戻る列車旅行をしていた。グールドは22歳で彼の革命的なバッハのゴールドベルグ変奏曲の解釈で名声を獲得し、9年間の間、世界のコンサートホールをピアノ演奏の異端的なスタイルで聴衆を目も眩むような思いにさせてきた。レーナード・バーンスタインのようなクラシック音楽界の巨人たちは、ちゅうちょなく彼を天才と認めた。

グールドは、行動においてだけではなく、思想においても完全に独創的だった。彼は、ショパンとモーツアルトの多くの作品をあざ笑い、モーツアルトが、そのオーストリア人が手早い称賛のために、本質をいつも犠牲にする単に派手で「ぼくを見て」的な子供でありながら、批評家からそのような尊敬を集めたことに驚かされると主張する。グールドは、(楽壇の)支配者層を無視し、彼自身の道を追求することが完全に心地よかった。彼は、彼自身を音楽家だけではなく一人のオールラウンドな創造的な芸術家と見なして、音楽の演奏同様、著述と記述された言葉で演じることに興味を抱いていた。クラシック音楽の世界の尊大さとうぬぼれを揶揄するために、彼は想像上の性格の過度さを生み出し、彼は興味を持っているテーマのラジオ放送に関心を向けた。

1967年に、グールドは列車のラウンジに一人座っている時に、聖フランシス・シャビア大学の化学の教授であるウィリアム・フォレイが気付く。彼は、グールドの音楽の録音物への称賛を表明する勇気を奮い起こし、会話に引き込んだ。二人の男は意気投合し、その会話で、フォレイは最近読んだ「草枕(三角の世界)」と呼ばれる魅力的な本に言及した。二人の男たちが別れる時、グールドは自身のベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」の演奏のレコードをフォレイにプレゼントし、そして、後にフォレイは、ピーター・オーウェン版の「草枕」をグールドに送ることで好意に報いた。

行き当たりばったりに出会った本が、それほどのインパクトを読者に与えるのはまれなことだ。「草枕」は、たんにグールドの好きな本になったというだけではなく、彼の人生の残りの15年間で夢中になりとり憑かれたものの一つになった。日本に特別な興味を持っているわけでもなく、その国を訪れたわけでもないのに、最後にはその本の版を4冊所有し、2冊が英語版で、驚くことには2冊はオリジナルの日本語版だった。彼は、他の小説家の手による本よりも多く、書店に並んでいる全ての漱石の売られている小説の翻訳を、購入したと思われる。彼の人生を通じて彼にもっとも近かった人物である、従妹のジェシー・グレイグに、彼は、「草枕」への愛を、電話口でその全部を二晩かけて読むことで表明した。

彼がフォレイから受け取った版に激しく注釈を書き込んだだけではなく(残念なことに、これと、その他の素材は1988年に行われたパリでのグールドの展覧会での運送で失われた)、グールドは実際に37ページの別のノートを小説として生み出した。彼は第1章を凝縮し、それを1981年11月にCBCラジオ「ブックタイム」で、15分のラジオ放送番組として朗読した。(同じ月に、彼は、26年の歳月を経て、ゴールドベルグ変奏曲を改めて解釈し直し再録音した)また、彼は、翌年の死の間際まで、「草枕」に基づくラジオ劇を書き、公演する準備をしていた。彼が亡くなった時に、たった2冊の本しか枕元になかった。1冊は聖書で、もう1冊は「草枕(三角の世界)」だった。

その「草枕(三角の世界)」が1965年に刊行されたとき、その若い翻訳者もその刊行者も、その文学史上の重要性の観点からなんの真の理解をしていなかった。当時のスタイルに適合させるために、その本のカバーは日本に言及されることはなく、上品で最小限主義の黒地に中心を外れた小さな円の絵があった。それは、ピンク・パンサーかゴールド・フィンガーの一連のタイトルと同種なものに見え、その小説は東洋的な作品の一つとして印をつけられ、その著者は世界中の主要な、あるいは主要でない才能の大勢のひとりとして、ひとくくりにされていた。

グールドにとって、それは本当に単純に20世紀のもっとも偉大な大作の一つだった。以前には、グールドのお気に入りの本はトーマス・マンの「魔の山」だったが、今や彼が愛情を注ぐもののなかで、これ「草枕(三角の世界)」が完全にとって代わっていた。実に、グールド自身が指摘したように、多くの親和性が二つの小説の中にあった。マンの小説もせかせか立ち回る資本主義の世界から、穏やかなアルプスの風景への後退を描いているが、漱石の小説のなかの大量殺戮(戦争)の引力同様、ここの若いヒーローのハンス・カストルプが世界大戦を逃れられない。

何がグールドの興味をそれほど漱石の小説が呼び起こしたのか。それは、彼にとって、ほとんど自分のためにだけに書かれた一つの小説がここにあったと思えることに違いない、あるいは、彼自身によるものかと思えるほどに、完全に彼の芸術的な信念を例示していた。グールドは、音楽と芸術が非常に感情主義になっていることに飽き飽きし、悪態をつき、それから自由になることを求めていた。すなわち、彼の願いは個人へ向かい、超越することと静穏さだった。さらに、グールド自身の(従来の観念から)超然としたクラシック音楽の再解釈よりも、漱石の芸術の区分ほど、主題物と単なる雰囲気を定義し明らかにするものはなかった。漱石はいかにすべてものが見られ、再び違って見られるか、聴かれ再び違うように聴かれるか、書かれ再び違うように書かれるかを示し、創造性と芸術は文化的なパースペクティヴと精神的な状態から生まれるだけではなく、たえず、再発明と再解釈されるものだと示した。

実のところ、グールドは、「草枕(三角の世界)」を自分のラジオ劇に書きなおしたいという彼自身のアイデアがあった。もし、ターニーが「草枕」を「三角の世界」へ変えることを決めたのであれば、グールドは他のタイトルを使うことを計画していた。彼が持つその本の表紙と彼が書いた37ページのノートの両方に、グールドは傑出している志保田の娘を描いた。誰もが無慈悲な早すぎる心臓発作が、芸術の天才たちの間のこのもっとも魅力的な衝突の世界を奪ったことを残念に思うだけだ。もし、グールドがさらに長生きしていれば、「三角の世界」が、「カルト・クラシック(少数ながら熱狂的なファンを獲得している過去の有名人)」という評価を打ち壊し、英語圏で受けるべきより高い世界の名声を獲得したと信じられる十分な理由はある。

Introduction by Damian Flanagan
“The Three-Cornered World” by Natsume Soseki Tlanslated by Alan Turney

次回のブログは、このダミアン・フラナガンさんの研究成果をもとにいろいろ書ければと思っている。

おしまい