GLENN GOULD 中毒 (書籍について その4)

グレン・グールドに関する書籍をさらに読んだ。感想第4弾。

【グレン・グールドの生涯】オットー・フリードリック著 宮澤淳一訳 青土社 (4800円税抜)

グレングールドの生涯本書は、グールドの死後、グレン・グールド・エステイト(グールドの遺産を管理する法律事務所)が「公式」の伝記を作るためにアメリカ人ジャーナリストである著者に依頼したものだ。

さすがに「公式」の伝記だけあって、誕生から死亡まで網羅されている。読み物としても、グールドのファンならはずせないだろう。事実が網羅され掘り下げられていること、様々なエピソードを紹介しながらも、読み物風に書かれており読みやすい。

500ページ以上あるので要約は難しい。また、落ち着いて再読しようと思っている。このため、二か所を引用したい。

(デビューアルバムのバッハ「ゴールドベルグ変奏曲」発売後の大反響について)   しかし、大切なのは、グールドの《ゴルトベルク変奏曲》が大変な名演であり、名盤であったこと、この録音がレコード史上最高傑作のひとつであったという事実である。タウン・ホールでの演奏会を聴かなかった私たち多くの者は、この録音によってグレン・グールドを発見する最初の機会に恵まれたのである。しかも、バッハの変奏曲は(それはバッハの全作品をも暗に意味するが)一歩退いて敬意を示すような、ある種の知的構成物ではなく、強烈な情熱とはかり知れない美の創造物であることを初めて知った。そしてまた、グールドピアノの演奏は世界中の誰のものとも違うことを。彼は欠くべからざる才能をすべて持ち合わせていた ── 歌うような音色、きわめて正確なアーティキュレーション、巧みにコントロールされた強弱。だが、独特なものでないにしろ、稀有な天賦の才がさらにあと二つあった。ひとつは、このような柔和な音楽のリズムに、信じられない推進力のあるドライヴ感を与える能力だった。グールドは速いスピードであれだけ正確な演奏ができるおかげで、バッハの作品を跳ね上げ、突進させ、また宙に舞わせることができる。こうしてグールドは作品に強い生命力あふれるエネルギーを注ぎ込んだ。そして、もうひとつの非凡な才能とは、三声の対位法のすべての声部を、ほつれぬようしっかりと織り合わせつつ、完全に独立を保たせる能力だった。《ゴルトベルク変奏曲》のカノンは宗教的な意味を秘めている。このいくつものカノンはバッハの頭の中に会ったものに違いないが、つまり、ひとつが三つに、三つが一つに、という三位一体の考え方である。

(もうひとつ、驚きの才能の一端を)                        グールドはいくつもの事柄を同時に考えることを生涯にわたって実践し続けた。あるときファンであった友人が、グールドが演奏中の曲に「信じられないほどの集中力」をみせていると指摘すると、グールドはこう反論した。「それは全く見当はずれだ。つい先日、シカゴ交響楽団と共演したけれど、協奏曲の終楽章の演奏中、僕が考えていたのは、僕が呼んだハイヤーは終わったときに楽屋裏にやって来てくれて、すぐに退散できるだろうか、それだけだったよ。」

 

買ってがっかり 映画「グレン・グールドをめぐる32章」

相変わらずグレン・グールドにハマっている主だが、映画もほとんど見てしまった(と思う)。残るは、「グレン・グールドをめぐる32章」(1994年)ぐらいしかない。32章と言うのは、もちろんゴールドベルグ変奏曲が、最初と最後のアリア、その間にある30の変奏曲を合わせると32曲あるつけられたタイトルだ。英語名は「32 SHORT FILMS ABOUT GLENN GOULD」で、エピソードが32個描かれている。この映画、本人ではなく、他の俳優がグールドを演じていて、「グロテスクだろうな。」と思ってずっと買わなかったものだ。

実際に買ってみて、後悔した。最低と言っていいだろう。子供時代のグールドも出てくる。ピアノのキーを人差し指でバーンと力いっぱい叩き、まるで悪夢だ。あんなに乱暴に鍵盤を叩いてどうだっちゅうのだ!そんなん、ただのガキのすることやろ!繰り返し鍵盤を押さえ、出された音が減衰して聞こえなくなるまで耳を傾けないでどうする。当たり前かもしれないが、母親も子供も他に書籍で知っている人物とまるで違っており、非常に違和感がある。

大人になったあとの俳優は、やはり無理がある。それっぽくふるまっているのだが、やっぱりグロテスク。共感できるのは身長だけだ。

最悪なのは使われている音楽も良くなかった。流れる音楽。1曲目にゴールドベルグ変奏曲のアリア。これは理解できる。2番目は「シムコー湖で」で、ワーグナーのオーケストラ曲「トリスタンとイゾルデ」。いきなりグールドの演奏ではない。最後のクレジットをよく見ると「ピアノの演奏は全てグールド」と出てくる。ピアノが出てこない演奏は、ソニーの音源を使っているとあり、必ずしもグールドと関係するものではないようだ。3番目は、「45秒と椅子」。これが意味が分からない。グールドには部屋の中央で椅子に足を組みながら座ってカメラのレンズを見据えているインパクトの強い有名な写真がある。これを真似しているのがわかるのだが、グールドの有名な「椅子」が出てこない。有名な「椅子」とは、父親が椅子の足を切り落とし、手作りした折り畳み椅子で、床から35センチしか高さがないもので、一生涯どこへ行くにも持ち歩いたものだ。

椅子

「ハンブルグ」ここに描かれているグールドは完全に変質者だ。ヨーロッパ公演の最中、ハンブルグのホテルからカナダのウォルター・ホンバーガー(グールドのマネージャー)へ宛てて、慢性の気管支炎で来週のコンサートをキャンセルするという電報を電話でグールドが依頼しているシーンだ。グールドは電話機を片手で持ちながら、部屋を掃除しに来た美人のメイドが帰らないように空いた手で引き止める。同時に、電話しながら自分が演奏するベートーベンのピアノソナタのレコードの一節を聞かせる。部屋にはグランドピアノがあるのだ。レコードのジャケットに写された自分の姿をメイドに見せて、有名人ぶりを知らせるより、自分でピアノを弾けばよいだろう。おまけにベートーヴェンのピアノソナタは13番の第2楽章のところが唐突に流れ、格別に良い選曲とは思えない。時間の長さで選んだのではないか。

この映画は本人が語る形式で作られているが、内容はいろいろな書物に書かれているものの域を出ない。これだけ陳腐な内容の映画が、いまだに絶版にならないのは、グールド人気がいかに根強いかを物語っているかと思う。「グレン・グールド」と書かれているだけで、ファンは買ってしまうのだ。ちなみに、この映画の感想をGOOGLEで検索したところ、一つも見つけることができなかった。きっと、これが最初だ。何かを書こうという気にはならない、そんな映画だ。

ただ、ラッキーだったのは、従妹のジェシー・グレイグが出ていたこと。映像はともかく音楽は楽しめたし、特にエンドロールで流れるバッハのフーガの技法は、オルガンを使った演奏で一般に高い評価とは言えないのだが、聴きやすい演奏で再発見した気分になった。

(以下は、ネットからペーストした映画の内容。)http://movie.walkerplus.com/mv16454/

 1「アリア」雪原の彼方から近づく人影。 2「シムコー湖」鍵盤を叩く幼いグールド。ラジオから流れるワーグナーに涙する。 3「45秒と椅子」肘掛椅子に座る成人したグールド。 4「ブルーノ・モンサンジョン」『ゴールドベルク変奏曲』を記録した映像作家・ヴァイオリニストが語る。 5「グールド対グールド」スタジオで2人のグールドが対論する観念世界。 6「ハンブルク」演奏旅行の途中で、病気となったグールドがメイドに自分のレコードを聞かせる。 7「変奏曲ハ短調」フィルムのサウンドトラックを映写したもの。 8「練習」控室で頭の中の音楽を指揮し、舞うグールド。 9「L.A.コンサート」舞台係の男のプログラムにサインするグールド。64年のロサンゼルスでの最後の演奏会でのエピソード。 10「CD318」グールドが長年愛したピアノCD318のアクション。 11「ユーディ・メニューイン」名ヴィオリニストの回想。 12「グールドの情熱」スタジオでの録音風景。 13「弦楽四重奏曲作品1」グールド唯一の本格的作曲作品の演奏。 14「出会い」メイド、マネージャーなど関係者の証言。 15「ドライブイン」行きつけのドライブインの食堂で周囲の雑談に耳を傾けるグールド。 16「北の理念」同題のラジオ・ドキュメンタリーの制作場面。 17「孤独」ラジオ・ドキュメンタリーに関する質問に答える。 18「答えのない質問」批評家、作家たちに質問を浴びせられるが、答えはない。 19「手紙」ある女性に恋していることを友人に告白する手紙。 20「グールド対マクラレン」『平均律』第1番に基づいてノーマン・マクラレンが製作したアニメ「球体」の収録。 21「秘密の情報」グールドが株で大儲けをしたエピソード。 22「個人広告」怪しげな募集広告を書き上げるグールド。 23「錠剤」グールドが服用していた様々な薬。 24「マーガレット・パテュ」友人の回想。 25「ある日の日誌より」日誌の血圧値などのメモ書きとレントゲン撮影。機能障害でピアノが弾けなかった時のものらしい。 26「モーテル・ワワ」湖岸のモーテルで電話インタヴューを受けるグールド。 27「49」49歳の誕生日の前日、従妹のジェシーに電話をかけ、4+9が13である不安を話す。 28「ジェシー・グレイグ」その従妹の回想。 29「旅立ち」車を降りて電話ボックスに駆け込むグールド。カーラジオがグールドの訃報を知らせる。 30「ヴォイジャー」ロケットの発射。 31「アリア」惑星探査機ヴォイジャー1号と2号にはグールド演奏のバッハ『平均律クラヴィア曲集』第1巻の前奏曲第1番ハ長調が搭載された。グールドは雪原の彼方へ消え去る。 32「エンドクレジット」

 

グレン・グールド考7 普通の男だった「天才ピアニストの愛と孤独」

グールドは、私生活を明らかにしてこなかったことが原因で、これまでずっと禁欲的なイメージを世間に与えてきた。一部には「グールド=ゲイ」説もあったくらいだ。自身でも「20世紀最後の清教徒」を標榜していた。ところが、そうしたイメージは実際はレコード会社の販売戦略によるものだった。映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」(2009年。日本公開は2011年。)で、グールド研究者のケヴィン・バザーナが、これまでの禁欲的なイメージに対し、揶揄するように実際の彼は、女性に関して全く普通の男だった」と語っている。

この映画で、生涯独身だった彼と関係が深かった女性が3人登場する。グールドが亡くなったのは1982年、50才だったから、映画の公開時の2009年は、彼が生きていれば77才という計算になる。このため登場する3人はいずれも、今ではお婆さんになっているのだが、映画に出てくる当時の姿は、それはそれは非常に魅力的だ。今でも笑った表情などに当時の面影が現れ魅力を保っている。

一番最初に出てくるのが、フランシス・バロー(写真)。グーグルで検索すると、ティーンエージャー時代の8才年上のガールフレンドで、グールドがピアノを教えたと出てくる。グールドはチッカリングというハープシコードのような音を出すピアノで、デビュー作のゴールドベルグ変奏曲(バッハ)を練習したのだが、このピアノは彼女から譲ってもらったものだ。 映画で、グールドを愛していたかときかれ「もちろん」と即答し、グールドはロマンティックだったかときかれ、4,5秒ほどの非常に長い間のあと「ある種の(sort of)」と答える。また「一緒に暮らすのは困難(too difficult to live with)」と答えている。グールドは20代のはじめの時期、自身の唯一の大曲「弦楽四重奏曲作品1」を2年間かかって作曲していた。このことをに夢中になりながら電話で毎晩彼女に語っていた。下の写真ではタバコをくゆらせているが、若い時の写真でもタバコを魅力的にくゆらせ、グレタ・ガルボを彷彿とさせる。

バロー

二番目に出てくるのは、コーネリア・フォス(写真)。コーネリアは、グールドの友人である作曲家、指揮者、ピアニストのルーカス・フォスの奥さんで画家だ。グールドはルーカスを尊敬していた。そのため、ルーカスに電話をよくしていたのだが、ルーカスがいないときにはコーネリアと話をし、やがて、ルーカスではなくコーネリアに電話するようになり、二人は恋に落ちる。二人は1962年に知り合い、1972年に別れたというから、ちょうどグールドが30才から40才の10年間にあたり、最後の4年間半はトロントに家を借り、グールドの近くで暮らしている。コーネリアにはルーカスとの間に2人の子供(9才のクリストファーと5才のエリザ)がいた。グールドは1964年以降(32才以降)、コンサートに出ることはなくなり、もっぱらスタジオで録音をするのだが、音楽評論やラジオ番組の制作などもしていた。グールドは演奏以外の場でもさまざまに発言するのだが、これがピアニストとしてではなく批評家として、厳しい批判に晒される。こうしたことで彼の聡明でユーモアあふれる性格は影を潜め、メディアに対しては防御的になり、世間から徐々に遠ざかるようになる。グールドは緊張を緩和するために安定剤などを飲んでいたのだが、複数の医者で同じ薬を処方してもらい大量に飲むようになる。この薬物依存症はエスカレートし、恐怖症に苛まれ続ける。心気症が激しくなったグールドは、コーネリアをトロントで1枚も絵が描けないほど束縛し、やがて二人の家庭は維持できなくなる。

コーネリア

コーネリアに復縁を迫るグールドだが、もとに戻ることはできない。失意に暮れるグールド。

その後、グールドはたまたまロクソラーナ・ロスラックがルーカス・フォス(コーネリア夫!)の曲を歌うラジオで聞く。グールドはロクソラーナを探し出し、ともにシェーンベルクやヒンデミットの現代歌曲を録音するようになる。ロクソラーナはオペラ歌手としては有名ではなかったようで、大きなチャンスを得たと感じたようだ。グールドの生活はこのころには昼夜逆転し、映像には不健康さが漂っている。

ロクソラーナ

このあたり、次のリンクにはよく書かれている。(興味のある人は見てね。)

http://www.capedaisee.com/2011/12/gould/ 

http://plaza.rakuten.co.jp/mamakuncafe/diary/200710030000/

グールドは死亡する50歳の直前、グールドののデビュー作で、一夜にして巨匠たちのピアニストの仲間入りさせたゴールドベルグ変奏曲の再録音にとりかかっていた。彼は一度録音した曲の再録音はほとんどしないのだが、デビュー作の演奏の解釈には、改善の余地があることを感じていた。そして再録音が完成し、50歳になった9日後、脳梗塞で亡くなる。身近にいるものは容態の悪化に気付かなかったものの、久しぶりに会うものには容態の悪化は明らかだったという。そして、死の直後、再録音盤が発売され大きな反響を呼び、この録音はグラミー賞を受賞する。

主は、この映画のもとになった書籍「グレングールド シークレット・ライフ」(マイケル・クラークスン、道出版)を手に入れた。書籍では他にも女性関係が描かれているようだ。そのあたり、読後にまたアップすることにしよう。

 

 

GLENN GOULD 中毒 (書籍について その3)

グレン・グールドに関する書籍をさらに読んだので、感想第三弾。

【グレン・グールド演奏術】ケヴィン・バザーナ著 サダコ・グエン訳 白水社CD付   税抜き5,400円

演奏術今回は大著だ。値段も高いが、ちょっと大き目の単行本で、グレン・グールドの演奏を楽譜とともに説明するためにCDがついている。原書は、ケヴィン・バザーナ(カナダ人。音楽ライターで音楽史と文学の博士号を持っている。)がカリフォルニア大学で書いた博士論文に手を加える形で1997年に出版され、日本語版初版は2000年に出版された。本書は、その新装版であり2009年に出版された。グールドの演奏の特徴や音楽に対する思考を中心にしたこれまで読んだ本の中で最大の大作だ。

ケヴィン・バザーナは、映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」でグールド研究者として登場し、グールドの様々な姿を紹介している。グールドは生涯独身をとおし、私生活を一切明らかにしなかったので、この映画が作られるまでグールドの女性関係は全くの不明だった。だが、この映画でケヴィン・バザーナは「女性観は、他の男と全く同じだ。」と何故か揶揄するように言っている。(もう少し、詳しく説明してほしいのだが、残念ながらそれはない。)

 書かれている内容は一言で言ってしまうと、非常に深く掘り下げられていながら、バランスがうまく取れている。グールドの評価には常に賛否両論があるのだが、どちらの意見もうまく取り入れており、公平に書かれている。特にグールドの発言や意識は演奏と違い、本人が思っているほど彼自身のオリジナルでなかったり、レベルが高いものではなかった。また、グールドの演奏を具体的に楽譜で示し、オリジナルの楽譜とどのように違うのかを説明している部分もある。(この部分を理解するには楽譜が読めることが必要だ。残念ながら、CDをパプアニューギニアに持ってこなかったので、聴きながらこの本を読めなかった。もう一度読み返したいと思っているので、その時にじっくり吟味したい。)

他のメディアでも明らかにされているが、この本はグールドが他のピアニストと異なる点を非常に深く考察している。例えば、対位法に対するグールドの考え、すななち、複数の旋律を弾き分け、曲の構造を明らかにしようとする姿勢。どのような曲に対しても従来の演奏スタイルとは全く違うアプローチを検討し、独創的な演奏法を見出そうとする姿勢。(強弱やスピードなどの音楽記号を無視し!、反復しなかったり、独特の装飾法であったりする。)しばしば元の曲に手を加え、対位旋律を付け加えててしまうこと。演劇と映画の対比のように、コンサートとスタジオ録音を対比し、スタジオ録音では映画の編集をするようにテープを編集すること。

また、グールドの音楽の原点を次のように考察している。(ちょっと長くなるが容赦してほしい。)「・・その中のある二人の作曲家が、グールドのレパートリーで最も重要であり、音楽的価値のモデルと考えられている。バッハとシェーンベルクである。この二人はグールドの若いころから重要な作曲家であり、その作品はグールドの音楽の好みの中心を成していたのである。バッハはルネサンスとバロック期の正統な対位法の核であり、シェーンベルクは二十世紀の構造的に密度の高い音楽の核であった。しかし、この二人は重なり合ってもいたのである。つまりバッハは構造的に密な音楽の典型でもあり、シェーンベルクは対位法の模範でもあった。そして両者とも音楽に対する観念主義的姿勢の手本なのだった。」と書き、「数からいえば、バッハの作品の方がレパートリーの中心をなすものであるし、演奏習慣にも強い影響を与えたが、十代にゲレーロ(グールドを教えたチリ人ピアニスト)から学んだシェーンベルクの音楽と思想は、知的見地から言えば、より重要だったかもしれない。」「・・つまりグールドの考え方と演奏に非常に大きな影響を与えたバッハは、シェーンベルクの目を通して見たバッハという事になる。」たしかに、一理ある。 

ところで、グールドは、モーツァルトの演奏は多くの批評家から酷評されるのだが、これについてもこの本で触れている。 具体的に紹介する前に、グールドのモーツァルト演奏をざっと説明すると次のようなものである。グールドはモーツァルトに対する評価をメロディーに対位法的な要素が少ないために、非常に低い評価しかしていない。モーツァルトの曲の展開部は展開していないなどといい、また、有名な曲ほどエキセントリックに弾く傾向がある。たとえば、トルコ行進曲で有名なピアノソナタK331では、近所の幼稚園児が弾くようなスタッカートで弾き始め、アダージョの指定のところをアレグロで弾いてみせる。トルコ行進曲は異常なゆっくりとしたスピードだ。こうした演奏を本書は次のように書いている「・・・ところがグールドの演奏といえば、音楽批評に挑戦、いや音楽批評を挑発しているのである。グールドは自らにふさわしいことは、モーツァルトを弾くことではなく、グレングールドのモーツァルトを弾くことだ、と他のどの演奏者よりも自分の役割を強く主張したのだった。そしてグールドの賛美者は、そうした態度に関心を寄せる人びとなのである。(グールドのレコーディングを聴いて、モーツァルトが「どう弾かれるべきか」を知ろうとするものはいない。)」「なぜグールドは、スウェーリンク( 1562年ー1621年。オランダの作曲家。バッハ直前の作曲家である。)やクルシェネック(1900年ー1991年。オーストリアの現代作曲家。)を称賛しながら、その作品をあまり演奏しなかったのか、そしてしばしば非難しながらもベートーヴェンやモーツァルトの作品を多く演奏したのか。これは後者はよく知られた、権威のある作品で、それゆえ挑戦すべき伝統や機会が多くあるからなのだった。」「私は、演奏者としてのグールドの業績は、単なる個々の演奏の集積以上の重要性があると信じる者である。なぜなら、グールドのさまざまな演奏の総体が論述と挑戦を意味するのであって、それは個々の演奏自体やそれぞれの演奏で具体的に表現してみせた知的な立場に対する評価とは、別個になされうるものだからである。たとえば、実に複合的なモーツァルトのレコーディングのような企画は、もちろんそれぞれのソナタや、作曲家についてピアニストが暗示する見解を吟味し、批評的な結果に達することが可能である。しかし同時に、それぞれのソナタの評価とは別に、あのモーツァルトの企画全体が演奏における拡大された批評的論述だと解釈できるのである。いや、それどころか、あの企画は、実際的な表現方法を用いて、このような論述が可能であることを示すモデルだと考えられるし、またそう考えた方が実りも多いのである。・・」非常に説得力のある分析だ。グールドが演奏する力は有り余って、自分が考えた正しいと思う演奏のほかにも、アンチテーゼともいえる演奏をも披露できたのだ。

ここで主は、モーツァルトのピアノソナタではなくピアノ協奏曲を1曲だけグールドが録音しているのを思い出した。どのように演奏しているのか気になって、改めてピアノ協奏曲26番を聴いてみた。

いやーすごい演奏だ!最初のピアノの導入こそおとなしいが、途中から低音のメロディーをガンガン鳴らし、ソロの部分はいろんな音を加えているようで、モーツァルトの協奏曲には聞こえない。悪くいえば破壊的、普通にいってエキセントリック、良くいって刺激的である。高音のメロディーより、中音部さらに異常な存在感の低音部が暴れまわる。途中で、思わず吹き出してしまった。他のピアニストのモーツァルトのピアノ協奏曲を知っていれば、驚愕するだろう。(クラシックファンでない人のために付け加えると、モーツァルトのピアノコンチェルトは、流れるような高音部のメロディーを美しく、哀しく楽しむのが普通。)だが、グールドのテクニックには他のピアニストにない気持ちの良いリズム、自由自在な音の長さと音の大きさからくる素晴らしさがあり、説得力がある。グールドの技量があまりにすごいので、荒唐無稽ともいえる演奏が曲の持つ新たな魅力を引き出している。この後、比較のためにYOU TUBEでアシュケナージの演奏を聴いてみた。アシュケナージはピアニストだけではなく指揮者としても有名な巨匠だ。しかし、こちらの演奏はいたってノーマルだが、退屈して途中で止めてしまった。今再び、グールドの演奏を聴いている。はるかに刺激的でこれはこれで面白い。寝た子も起きる新しいモーツァルトだ。 

(ここからは、おまけ)                            グールドは10歳まで母親からピアノを習っていた。10歳からはチリ人ピアニストのゲレーロに習っていたが、ゲレーロにとってグールドはUnteachable な生徒だったという。このため、次のように本書に書かれている。「ゲレーロはかつて、グールドを教える秘訣は、何事でもグールド自身に発見させることだ、といったことがある。グールドに、ありふれた考えを、いかにも自分で考えついたように思わせるのはむずかしいことではなかった。しかしそうさせたからこそ、グールドはその考えを活性化できるのだった。」グールドは両親の教育方針でコンクールに出場するという事がなかった。コンクールに出場するという目標を与えられることなく、のびのびとピアノを弾かせたのである。この成果は非常に大きかった。先生のいう事を絶対視し、コンクールに出場するために型にはめられることがなかったのだ。(一方で、このことが、グールドの倫理観から競争という概念を排除した。コンサートを開かなくなったのもこの「競争」が関係している。)

ゲレーロはグールドにフィンガータッピングという奏法を教えている。フィンガータッピングというのは、指がピアノの鍵盤をはじいた時に自然に跳ね返る、この原理を利用してすべての指が独立して動かせるようになるまで修練するのだ。フィンガータッピングは他のピアニストで聞いたことがない、ゲレーロ独自のものだ。ゲレーロも非常に低い椅子に座って演奏したが、グールドもそうだ。一般的なピアニストは高い椅子に座り、姿勢を正しく背筋を伸ばし手の重みで弾く。フォルテは肩から腕に力を入れ、上の方から指を鍵盤に激突させて大きな音を出す。こうした奏法は、何千人も入るホールの後ろの客にも聞こえるようにするには必要なテクニックなのだ。しかし、フィンガータッピングではこのような衝突するような大きな音は出せない。しかし、非常に粒がそろった美しい音がだせる。また、自在に音量をコントロールすることもできる。グールドのフォルテは、このような爆音を出せないため、段丘状に音量を上げていき、フォルテを表現している。主は、グールドを聴きだしてから、他のピアニストの演奏を「何と乱暴な演奏だ!」と感じてしまう事が多くなった。他のピアニストは必ずこの指の落下により爆音をとどろかせる、これが原因だ。この奏法は確かに強烈な印象を与え、効果的な場面が実際にあるのだが、その効果は一時的で下手なピアニストはその後たいがいバランスを崩す。指を振り下ろした場合と鍵盤に指を添わせて弾く場合で、ギャップが大きいため中間的な音を出すのが難しいことと、曲全体の構造をよく考えていないのだ。また、感動の押し売りという感じがする。

グールドは、18歳で高校を中退している。しかし、彼の活動分野はピアノの演奏家だけでなく、著述業、指揮者、作曲家、ブロードキャスターとしても才能を発揮した。グールドは常に自分の意見を発信し続けたが、ピアノを離れるとやはりそこには限界があり、アマチュアといっても良かった。そうした方面でも才能は大きくあったのだが、評論家から強い反論やバッシングを受けていた。グールドはライナーノーツなども自分で書いていたし、音楽家として様々な著作を発表していたが、これらが否定されるとき、ピアノの演奏までも否定されることもあった。これに対し、グールドは主張を撤回するどころかますます強く主張し続けたが、メディアに対して徐々にひきこもるようななる。また、子供時代から薬を持ち歩いていたがこれが高じて、複数の医者から同じ薬を処方してもらい、薬物依存が進んでいく。また、ほとんど食事をとらず、睡眠もとらなかったという。

グレン・グールド考 お勧め作品(その2)

グレン・グールドを描いた映画に「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」(2009年。日本公開は2011年。)がある。このなかで、グールドが初めて弾く曲を練習する時の様子を、数年間不倫関係にあった画家のコーネリアが語っている。グールドは36歳ころから40歳ころまでコーネリアと二人の子供と一緒に過ごしている。グールドが演奏家として一番充実していた時期と言って良いだろう。(グールドの女性関係は、別に書きたいと思っている。)

グールドが初めて曲を弾く様子は、他のピアニストと全く違っている。練習を始める前に女中に部屋で掃除機をかけさせ、同時にテレビとラジオの音量を最大にする。つまり、自分が弾くピアノの音が聴こえないようにするのだ。初めて弾く曲にとりかかる時は、すでに楽譜は頭の中に入っており、曲のイメージもすでにあった。そのようなときに不慣れな指使いから出る音が、自分の抱いているイメージに影響することを嫌ったのだ。 グールドは、「ピアノは指で弾くんじゃない。頭で弾くんだ。」と言っている。『当然だろう!』と言われるかもしれないが、彼の言っていることは、身体的な制約を受けずに頭の中にある音を直接出すことを言っている。実際、彼の演奏は指(手)の存在を感じさせない。彼の演奏は、直接音楽に触れているようだ。

プロは、テクニックを保つために毎日4時間も5時間も練習練習するというが、様相が全く違う。同じような意味だが、「演奏に技術的な困難を感じることがありますか?」とインタビュアーから質問されると「僕は戦場を見ないようにしているんだ。」と答えている。この場合の『戦場』とは、鍵盤のことだ。つまり、彼は意識を技術的な指使いなどのテクニックのことから逸らし、もっと重要なこと、たとえば曲の構成や、旋律ごとの強弱、どのような表現方法をとるべきかかなどを、陶酔の中にありながら常に計算している。彼は「もし、演奏家が意識を演奏技術に向けたら、困難さはさらに増すだろう。」と言っている。 また、子供時代を別にすると練習をしないピアニストで有名だ。1週間以上ピアノを弾かないことは普通にあったようだ。さすがに1か月弾けないと心理的にピアノを弾くことを渇望し、ピアノが弾けると嬉しくなるという事を言っている。

例により、前置きが長くなっってしまったが、おすすめ作品を続けよう。No.2はやはりこれ、J.S.バッハの「フーガの技法」だ。これだ。グールドの演奏は35分である。

「フーガの技法」は、バッハ(1685-1750)の最晩年である1740年代後半に書かれており、最後のフーガが未完のままで終わっている。シュバイツァーは、この曲を“静粛で厳粛な世界、色も光も動きもない”と言っている。確かに、静謐で宇宙的な深遠さがある。また、心的に穏やかな充足感が感じられ、宗教的な統一感を感じることができる。

この曲は楽器の指定がないこともあり、ピアノ、チェンバロ、オルガン、弦楽四重奏、オーケストラなど様々な形式の演奏が行われている。チェンバロやオルガン単体では音色の変化や強弱などの表現力が乏しい。一方、合奏形式のものは、各楽器が個性を主張しまとまりが感じられなかったり、逆にまとまっている場合も、伝えたいものが何なのか分からなかったりすることがある。合奏に比べるとピアノ独奏の場合は、一人で演奏するため、演奏者の伝えたいものが等身大で伝わってくる。やはりピアノ独奏の場合に、曲の統一感が一番よく出る。

名前が「フーガの技法」と言うだけあり、最初の主題が次々と対位法的に展開する。対位法は、複数の独立した声部(パート)からなる音楽をポリフォニーといい、ポリフォニーである対等な関係の最大4声の旋律が奏でられる。異なる旋律が同時に奏でられるので、必然的に和声(ハーモニー)も形成されるが、各声部の旋律(メロディー)が中心となる。グールドは単純な和音にならないように和音を崩しアルペジオにして旋律の違いが分かるように演奏するところが特長だ。そういう意味では逆に、オーケストラのお互いの楽器が主張しあう旋律の重なり自体を楽しむという聴き方もできる。DVDのベルリン古楽アカデミーの演奏は、最初主はまとまりがないと思っていたが、数十人の演奏者による様々な弦楽器、管楽器による旋律がそれぞれ行きつ戻りつする様子に着目すると楽しい。また、ピアノなのだが、コンスタンチン・リフシッツというピアニストはピアノ1台だが多重録音している。明らかに4手で弾いている。

だが、グールドのこの曲の演奏は、他の演奏家のどれとも全くレベルが違う。最初のテーマのテンポの遅さ。強い緊張感を保ちながら、この遅さで演奏できる奏者を知らない。テーマの終わりで2度休符するのだが、グールドの演奏は、完全な何秒かの無音を奏でる。初めて聞いた主は、ステレオ装置が具合悪くなったと思ったほどだ。最初のテーマの後、テーマを様々に変形させたフーガやカノンが続く。これらをグールドは旋律を弾き分け、あたかも全体を一つの構築物を見せるかのように演奏する。その演奏は、誰より明晰で、押しつけがましさがない全く自然なものだ。ついに終曲。シュバイツァーが“静粛で厳粛な世界、色も光も動きもない”と言ったのはこの曲だろう。この曲を聴いていると、普遍性、宇宙、抑えた愉悦、幸福、善といった表現が浮かぶ。ところが、そうした落ち着いた幸福感が虚空に突然ストップする。絶筆なのだ、この曲は。それでもこの曲の価値は失われることがない。

つづく

 

 

 

グレン・グールド考 お勧め作品(その1)

ブログの主のお気に入り、カナダ人クラシック・ピアノ奏者グレン・グールド(1932-1982)のおすすめCD、DVDを挙げてみよう。グールドって誰?、と言う人に読んでもらえれば幸いである。

グレン・グールドは、今では没後32年という事になる。カナダ人ピアニストなのだが、人気絶頂の31歳の時にコンサートに出なくなる。(コンサート・ドロップアウト。コンサートに来る集団としての聴衆は「悪だ」といっている。)その後、スタジオでレコードの制作を行った。亡くなって30年以上たつが、HMVやタワーレコードなどの大型店のクラシック売り場では、グールドのCDがずらりと並んでいる。また、バッハやベートーベンなどのシリーズものが次々形を変えて発売されている。

主がグールドにハマったきっかけは、ツタヤで借りたレンタル映画2枚「エクスタシス」「アルケミスト(錬金術師)」の2枚だった。映画の中で、グールドがいかに素晴らしいかを絶賛する声とグールドの演奏の二つを同時に見聴き出来る。聴覚と論理の両方から攻められるわけだが、この2点攻撃は強い。

確かにCDで聴くだけより、見る方が強烈だ。脚の一部を切った椅子(床から座面まで35センチしかない!)に座り、時に顔を鍵盤に触れそうになるほど近づけ、また、ハミングしながら上半身を旋回させる。椅子が異様に低いので、身長175センチのグールドの膝がお尻より高い位置に来る。椅子をこれ以上低くすると無理な姿勢になってしなうため、ピアノが数センチ持ち上げられている。この椅子はグールドのシンボルと言えるほど有名で、グールドはこの椅子を亡くなるまで何十年もずっと持ち歩いていた。後年の演奏時には座面の部分がなくなり、お尻が載るところには木の枠だけがあった。グールドの演奏時の姿勢は、巨匠と言われるピアニスト達とは真逆だ。良い姿勢では、上から大きな腕力を鍵盤に一気にかける事が出来、何千人も入る大ホールに響き渡る大音量を出すことが可能だ。グールドはこのような弾き方が出来ないことを自身で認めている。だが、彼のピアノの音色は非常に美しい。録音では、この椅子が軋む音がかすかに入っている。彼がいったん演奏を始めると、天才的な集中力を発揮し、陶酔・恍惚となったトランス状態と自己を超越した状態に同時に入ってしまう。トランス状態にありながら、非常な冷静さ、明晰さを失わない。メロディーを右手だけで弾ける時は、空いた左手をまるで指揮をするように振り回す。子供時代からピアノを弾く時は常に歌っていたので、この習性が大人になっても抜けなかった。このため、彼の演奏には鼻歌が録音されている。ピアノを弾く、イコール無意識にハミングなのだ。映画の中ではコロンビアレコードのプロデューサーが、第二次世界大戦で使われた毒マスクをスタジオに持って来て、ハミングが録音されないよう『これを被って演奏したら?!』と半ば本気で言っている。

かたやオーケストラとの共演では、オーケストラが全奏(トッティ)している間、週刊誌を見ているグールドの姿が衝撃だ。

SMAPの木村拓哉が、グールドのことを女性向けの雑誌クレア(96年5月号)で次のように言っている。「友達が『えーっ、クラシックぅ?ピアノぉ?』って言ってる人にもスンナリ聴けるピアニストを教えてくれたんです。それがグレン・グールドのおっちゃん。あの人って、弾き方もバカにしてるみたいでしょ。猫背で、すごい姿勢も悪くて。それが、いいなあと。」と語っている。いろんな評論家が様々にグールドを評しているが、キムタクのこの発言が一番うまくグールドを表している。正当的なクラシック音楽をずっと聴いていた人より、興味のなかった層に受け入れられやすいことは間違いない。

前置きが長くなっってしまったが、おすすめ作品をはじめよう。まずは、CDから。No.1はやはりこれ、J.Sバッハの「ゴールドベルグ変奏曲」だ。これは後回しに出来ない。デビュー作(23歳。1954年録音)と、遺作(49歳。1981年録音)の2種類がある。(正確にはライブ録音が別に2回ある。)亡くなる直前に、若いころに弾いたこの曲の解釈に不満を感じ、再録音をしたのだ。もちろん、両方の演奏にグールドらしさが溢れているが、この2枚は趣が全く違う。一言で言えば、デビュー作は、溌剌としているが、遺作は深遠だ。どちらも、驚くべき明晰さですべての音がコントロールされており、このことはグールドの演奏すべてに当てはまる。デビュー作の「ゴールドベルグ変奏曲」が世界中で大ヒットし、一躍トップピアニストの仲間入りをした。

グールドは22歳当時、すでにカナダでは人気を博していたが、この人気はカナダ国内にとどまっていた。カナダの次は当然アメリカだ。1954年1月ニューヨークでデビューコンサートを開く。この時、コロンビアレコードのディレクター、オッペンハイムがこれを聴き、翌日には専属契約を申し込んでいる。コロンビアは、バッハの平易な曲である「インベンションとシンフォニア」を専属契約を結んだ最初のレコーディングにしようと考えていた。しかし、グールドは「ゴールドベルグ変奏曲」を主張し、コロンビアが譲歩した。

この曲は、演奏時間がデビュー作で42分、遺作の方は52分だ。冒頭のアリアに続き30の変奏曲が演奏された後、再びアリアに戻る。30番目の変奏曲、つまり最後から2曲目はそれまでの変奏曲の形式とは違っており(『クオドリベッド』という形式で当時の流行りの複数の俗謡が同時に出てくる。)、非常に親しみやすく高揚すると同時に、大曲の終わりも感じさせる。そして最後に、穏やかで美しいアリアに戻る。

真偽は定かでないが、寝つきの悪いカイザーリンク伯爵のためにバッハの弟子ゴールドベルグが寝室の隣室で演奏したという逸話がある。しかし、あまりに素晴らしい曲なので、この曲を聴きながら安眠するのは無理だろう。グールドが登場するまでは、バッハの鍵盤曲はチェンバロやオルガンで演奏することが当然とされていた。それをグールドのピアノが変えてしまった。ピアノはチェンバロやオルガンに比べ格段に表現力が優れており、音色、強弱、音の長短を自由にコントロールできる。このため難解で退屈と言われていたこの曲の評価を、親しみやすいフレーズが続き、曲全体の一体感が楽しめる曲に一変させたのだ。

つづく

 

 

 

グレングールド考 その6 奏法

ブログの主お気に入りカナダ人ピアニストグレン・グールド(1932-1982)の演奏が、普通のピアニストと違うところは、右手の主旋律だけに重きを置くのではなく、左手の旋律が、右手の旋律と全く対等にに扱われるところだろう。対等に扱うというより、対旋律をある意図をもって効果的に演奏することで、元の曲とは違う曲になると言った方がいいのかもしれない。おかげで、曲が持っている魅力を、新発見できる。

他の演奏者と対比するために、ベートーベンのピアノソナタ第1番などを題材にグールドの演奏と、フリードリヒ・グルダ(1930-2000)の演奏と比べてみた。フリードリヒ・グルダはジャズに傾倒したり、素っ裸で舞台に出たり物議を醸す時期もあったので、クラシックの世界で異端児扱いされることがあり、不当に評価が低い面がある。しかし、クラシック音楽の中心地ウイーンに生まれ育った正統派の巨匠である。(主はグールドにハマる前にフリードリヒ・グルダに熱中していた。)二人は同時代のピアニストでありながら、発言にお互いの名前は全く出てこない。どちらも天才なのだろう。

ピアノソナタ第1番は、当然、ベートーベンの初期の作品だ。初期の作品はモーツアルトの影響が濃いと言われる。フリードリヒ・グルダの演奏は一般的に世間で弾かれるとおり、右手中心に弾いていて、そのメロディーを中心に演奏する。左手は、控えめに弾かれ彩を添える脇役だ。テンポも主旋律に合わせ早くなったり、遅くなったり、緩急を常につける。確かにモーツアルトの影響を強く感じる。しかしこの演奏は、そのメロディーが冴えないときやメロディーが休みの時は、曲がつまらないし、聴いていても楽しくない。発見がないのだ。フリードリヒ・グルダは名ピアニストだが、この人が演奏するベートーベンのピアノソナタで面白いのは、「月光」や「悲愴」や「熱情」と言った有名な曲だけに値打ちを感じることになる。副題のついていない曲は、聴きごたえがない。

一方、グールドの演奏は、常に左右の手のメロディーが拮抗していて、往々に左手の方が強調され、非常に変化に富んでいる。また、グールドはテンポを「どうして?」と思うほど一定にキープし、その一定のテンポの中で、右手と左手をまるで他人が弾いているように独立して演奏し、主旋律、対旋律ごとに強弱を明確につけ、スタッカート、テヌートなど演奏方法を変える。また、その低音部は全曲を通し第1楽章から第4楽章まで通奏低音のように意識させるので、曲のつながりを聴く者に気付かせる。 その曲が持っている全ての価値を伝えるべく、あらゆる旋律が考え抜かれたうえで、聴き手に提示されている。

きっと、作曲したベートーベンもグールドの演奏のような意図はなかっただろう。その作曲者も意図しない魅力をグールドは引き出している。 この複線の旋律を意識しながらグールドの演奏を聴くと、ベートーベンのピアノソナタ32曲すべてが聴きごたえがあることに気づく。ベートーベンの初期の作品は、モーツアルトに似ていると思っていたが、グールドの演奏では、ベートーベンは初めからモーツアルトとは全く違い、むしろ、最初の段階からベートーベン以降のロマン派の作曲家の方法論を先取りしていることに気付く。

グールドは唯一無二というか、違う。 売れないピアニストの「青柳いずみこ」が、「グレン・グールドー未来のピアニスト」という本を書いている。彼女は、グールドにかなりネガティブなのだが、「未来のピアニスト」という副題がどういう意味なのか気になっていた。グールドは、楽譜にない音符を勝手に付け加え、何通りも録音したテイクのうちの最良の演奏が出来たテープを切り張りし、伝統的な表現方法と全く違う方法(彼はすでにある演奏と同じ演奏をするなら、意味がないと言っている。)で弾き、コンサートを否定しスタジオに何日もこもりながらレコードを作っていた。こうしたことは、普通のピアニストである彼女の価値観に収まりきらないのだ。それで、「未来のピアニスト」と言う言葉が浮かんだのだ。

 

 

GLENN GOULD 中毒 (書籍について その2)

グレン・グールドに関する書籍をさらに読んだので、感想第二弾。

【グレングールド孤独のアリア】ちくま学芸文庫 1,100円 2014/1/5追加

著者のミシェル・シュネーデルはフランスの官僚であり、精神分析の専門家である。そのためか非常に抽象的な内容である。翻訳であることも相まってストレートに理解するのは難しいが、なかなか興味深い。シュネーデルが書いているように、ここに書かれているグールドの逸話は彼自身が調べたものではなく、他の書物からの引用であり、目新しいものはない。だが、音楽をどのように意味づけ、どのように捉えるかということを掘り下げて考えてみる時、この本は面白い。

意外だと思ったのは、訳者あとがきの次に岡田敦子の解説があり、この解説が実にグールドの演奏にネガティブだ。Googleで調べると、音楽大学でピアノ教えているようだが、「グレン・グールド未来のピアニスト」の著者である青柳いづみこと同じ視点であり、懐疑的だ。青柳いづみこは、日本のピアニストだ。岡田は書く。「ふつうに演奏されるバッハやベートーヴェンやヴァーグナーやシェーンベルクやストラヴィンスキーを聴くときには、それがどういう音楽で、どう感動すべきなのか、私たちはおおよそのガイドライン(鑑賞の手引き)を教わって知っており、おおよそそのとおりに感動してしまう。(それが教養というものだ)。ところがグールドについてはそれがない。グールドがいかに能弁であり、本がこれだけ書かれていても、グールドの演奏に感激することが、はたして個人的な問題なのか、もっと歴史的、文化的に広がりのある事象なのかさえ、もうひとつ確信が持てない。・・・」

この二人は、日本の教育システムの中でクラシック音楽を学んできており、グールドの演奏は異常に映るようだ。どうも音楽の価値についての考え方が、主のようなファンと本格的に音楽教育を受けてきた彼女たちとは、根本的に違っているようだ。

主は、グールドの演奏が非主流とか伝統的でないとか考えたことは全くない。聴いていて楽しいし、示唆に富んでいるから聴いているのだ。楽譜どおりでなく、スタッカートの多い演奏。しかもピアノを弾きながら唸り声を発し、死ぬまで使った椅子が軋み、演奏はテープを切り張りしている。このようなことは、彼女たちにとって許しがたいのだろう。 だが、良いものは良いのだ。切り張りされた結果、演奏はベストなものになっている。ここを理解しないと、グールドを評価できないだろう。

主も若いころは時々クラシックのコンサートへ行った。しかし、感動できる演奏会は2割くらいの率である。残り8割はお金を使って失敗。一度、国内ではテレビのコマーシャルに出ているくらい有名なので、それほど悪くはないだろうと思って或るピアニストの演奏会に行ったことがある。10年ほど前のステージで、冬ソナの話を聞いた記憶があり、トークは面白かった。確かショパンのピアノ協奏曲だったと思うが、演奏は最悪。冒頭を聴いただけで嫌になるというか腹立たしくなり、我慢しながらその曲が終わるのを待ち、帰宅した経験がある。それでも「ブラヴォー」と叫ぶ観客がおり、これには普段どんな演奏を聴いているのかと驚いた。 ピアニストの演奏会では、シューマンを弾いたイエルク・デームスは素晴らしかったが・・。

この本が出版された1991年、この評論で岡田敦子は、グールド存命中に盛んになる古楽器演奏と対比し、この取組についてグールドが論評していないことを指摘している。だが明らかに、グールドはピアノが自分の解釈を最大限に表現できる楽器であると考えたのであり、古典の曲であってもオルガンやチェンバロを使うことは、表現力に劣ると考えたのだ。 古楽器演奏は、現代の大ホールにおける大オーケストラによる演奏への懐疑や反省から、作曲者の時代に戻り、その時代の楽器、楽器編成を使おうというものだ。その方向性とグールドが示した演奏の方向性は、全く違う。グールドが示した曲の解釈は、主にとって恣意に富んだポピュラー音楽のようなものだ(これを神の使いという人もいる。)し、作曲家の意図を忠実に再現しようとするムーブメントとは全然違う。

【グレン・グールドは語る】ちくま学芸文庫 1,100円 2013/12/25追加

著者のジョナサン・コットは、1942年ニューヨーク生まれのノンフィクション作家。グールドの10歳年下である。グールドとの関わりを本書の中で語ってているが、デビュー作「ゴールドベルグ変奏曲」を13歳の時に聴いて以来ファンとなり、ニューヨークで行われる公演をすべて聴きに行く。ファンレターも書いて、返信を貰うこともあったと書いている。コットは、その後「ローリング・ストーン」誌の中心的なライターになり、1974年に3日間6時間にわたる電話インタビューをもとにして、同誌へ2回にわたって記事を連載する。グールドの映画を見ていると、長電話、それも明け方や深夜の普通でない時刻にもグールドは話をする相手がいたことがわかるが、コットも生涯にわたって、その一人だった。

個人的には、ジョージセルによるグールドの良く知られた逸話がでっち上げだったこと、ワーグナーの「マイスタージンガー」前奏曲、ベートーヴェン「第5番交響曲」(ピアノ版)で多重録音していることを知った。

ジョージ・セルの逸話というのは、1957年(グールド25才)にクリーヴランド管弦楽団との共演のリハーサルの際に、準備万端の楽団員の前で、グールドが生涯持運びつづけた特製の椅子(座面が床から35センチしか離れていない!)の調整に時間を費やし、苛立ったセルが「君のお尻を16分の1インチ削ったら、リハーサルを始められるのだがね。」「あいつは変人だが天才だよ。」と言ったと言うものだ。この記事は、雑誌『タイム』に載ったものだが、記者にもっとユーモアのある逸話がないかと聞かれたセル自身が創作したものだった。 他に主が感心した点は、椅子をこれ以上に低くすると無理な姿勢になってしまうため、自宅で実証済みの方法、ピアノを持ち上げるというグールドのこだわりだ。映像を見ていると、実際彼のピアノは何センチか持ち上げられている。

本書は、コットが「ローリング・ストーン」誌のインタビュー記事にジョージセル事件を付け加えたかたちで1984年に出版され、邦訳が晶文社から1990年に「グレン・グールドとの対話」として出版されていた。2010年にそれを出版社と訳者が変わり出版されたものだ。最後に訳者の宮澤淳一の分かりやすい「解説」に、「付録」としてレーパートリーなどのデータが載っている。

グールドの書籍の中では、昔から刊行されているもので、定番と言える書籍だろう。「ローリング・ストーン」誌は、その名の通りクラシック愛好者向けの雑誌ではない。ロックや、政治を取り上げる雑誌で、日本でも翻訳が売られているほどのメジャーな雑誌だ。この本で、彼のインタビュアーへの(ユーモアのある)真剣な回答、彼らしさが多面的に分かるし、読者層を意識してかビートルズに対するネガティブな評価なども語っている。クラシックを聴かない層にもインパクトを与えた。◎だ。

 

消費される音楽 グレングールド考 その5

音楽は、本来消費されるものではないはずだ。良い音楽は、いつまでも良いし、時代とともに進化し続けるというものでもない。 ところが、音楽雑誌、新聞の音楽欄、各種音楽紹介本などでは、音楽評論家の諸先生がもっともらしく次々と新しく素晴らしい演奏、演奏者を紹介して下さる。何処で、誰々が至高の演奏、今世紀最大の精神性を発現した演奏をしているので買いなさい!といった具合だ。新しい演奏に特別の価値があろうとなかろうと、音楽ファンは評論家の皆さんのご意見に従って、これを有難がって手に入れようと思う。音楽評論家は値打ちのないものを、いかに値打ちがあるように音楽ファンに思わせる。音楽ファンの方は、評論家の言葉に踊らされ一種の洗脳状態、自己暗示にかかり、蒐集欲を満たさないとならないという強迫観念に陥る。もちろん、音楽も一つの産業だし、音楽評論家も立派な職業であり、この分野もほかの分野と同様、次々と新しく生産し、古いものは廃棄しなければ、経済が回っていかない。消費のためには、人々に幻想を植え付けることが必要なのだ。

だが、音楽の価値は、この経済サイクルとはもちろん違うところにあり、こうした評論家の意見に踊らされるのは、愚かだ。

ブログの主は、カナダ人ピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)の熱心なファンだ。彼の奇抜ともいえる演奏スタイルや彼の生き様がよく知られているが、他のピアニストと本質的に違っているところは、対位法的に弾く点だろう。普通のピアニストは右手の旋律に左手で伴奏を付ける。ところが彼は、右手、左手だけではなく、3つ、4つの旋律を同時に明晰に弾き分ける。多くのピアニストは、和声(和音)を楽譜通りに弾いて、そのうちの主旋律のみにフォーカスする。ところが、グールドの関心は、対位法的な表現をすることにあり、和音は複数の旋律の重なり合いだ。普通のピアニストは、このように複数の声部を同時並行しながら明晰に弾けない。このために『一人で、まるで連弾しているようだ』、『曲の構造が明晰にわかる』、『再作曲している』などと評される。 グールドは結婚をしなかったが、友人の指揮者ルーカス・フォスの妻で画家のコーネリアと不倫関係になり、彼女の子供たちと一緒に数年間、家族生活を過ごしている。このコーネリアが映画「天才ピアニストの愛と孤独」の中で「(グールドは作曲家が作った曲を)時計の様にいったん分解して、もう一度組み立てるのだけど、元の時計とは違ったものになっている。」と言っている。

こういう手法は、対位法の大家ともいえるバッハに特に向いている。このため、バッハ演奏に関するグールドの評価は非常に高い。主は、時々、グールドの演奏と他のピアニストのバッハ演奏を比較するのだが、他のピアニストの演奏は、つまらないと思ってしまう。(ただ、モーツァルトなど対位法的要素が少ない作曲家の作品は、一つのメロディーをさまざまに装飾したり変形させたりするもののため、グールドのアプローチは、他の演奏者がやっていない独創的な演奏方法を目指すことになり、これが成功しているかどうか、好悪が分かれるところだ。)

グールドの録音の姿勢は、スタジオに何日間もこもりながら、何通りもの演奏方法のアプローチの中から最終的に選択した演奏のうちから、なおかつ、もっとも上手く弾けた演奏をつなぎ合わし、彼の考える曲の構成に合致する納得のいく演奏に仕上げるというものだ。グールドは、バッハの「ゴールドベルグ変奏曲」でデビュー(1956年)し、2回目の録音が遺作(1981年)となったが、デビュー盤のアリアはテイク21、遺作の変奏曲は、テイク26になったものがあるそうだ。(ピアニストに神がかり的な演奏ができる瞬間があると信じる人々にとって、こうした作為的な行為が一番反感を買う点だろう。) 他のピアニストが、スタジオでこれほどの集中力を見せているのか正確なところを知らないが、ここまでの集中力は発揮出来ていないだろう。また、グールドの「ゴールドベルグ変奏曲」デビュー以前は、バッハの鍵盤曲は、チェンバロで演奏するのが正しいとする音楽界の通念があった。だが、彼の演奏が、難解で楽しくないとされていたこの曲の評価を全く一変させ、バッハの鍵盤音楽を表現力豊かなピアノで演奏することがふさわしいことを証明した。彼の録音の後にこの曲を弾いた演奏者は、全員グールドの演奏から影響を受けていると言っても過言でない。(出だしのテーマから多くのピアニストがグールドの弾き方に倣っている。)

誰の演奏に限らず音楽は、イージーリスニング的に聞き流していては、正しい評価はできない。(これが、結構困難なのだが。)

特にグールドの音楽に対する集中力は、異常なレベルまで高い。彼は、すべて暗譜で演奏する。シェーンベルグなどの抽象的な曲は、ピアニストにとっても暗譜すること自体が困難だと言われている。また、すべての歌曲や交響曲のスコアを頭脳にインプットしており、音楽DVDでは、バッハの平均律のフーガを例に挙げながら、4声あるなかからバスを選び、曲の途中から歌いながら弾いてしまう。

また、多くのピアニストは、リズムを揺らすのだが、意図したものではなく演奏の技術的制約から来ていることが多い。どんな曲にも、演奏が困難な個所があり、演奏者はその部分を弾きこなせるように曲全体の構成を変更し、逆算しがちだ。

グールドは、インタビュアーから「演奏に困難を感じることはないか?」という質問に「技術的な困難さに意識を向けると、ますます演奏は困難なものになっていくでしょう。表現するために、エクスタシーの中でも常に明晰な意識を保ち続けることです。」と言っている。グールドの弾く曲は、全体の構成が一種の構築物のように明確だ。その構成の中で、リズム、音量、ペダルの使用などを効果的に決定している。彼の演奏を聴いていると、テクニック上の問題は微塵も感じられない。

 

 

クラシック音楽の愉しみ

ブログの主は、カナダ人ピアニスト、グレン・グールドの熱心なファンだが、彼の演奏を聴いていて、演奏家の演奏だけではなく作曲家に感動することも多くある。

具体的には、ベートーヴェンの曲を聴いているとこんな音が次に鳴るのか、こんな美しい和音をどうして思い浮かべるのか、どうしてこんな美しく転調していくのか、とか彼の才能に感動する。バッハも、当然、尋常ではない。こんな普通のメロディーの中に、予定調和だけではない微妙な音が次々繰り出され、時には時代を超えた音がどんどん出てくる。現代音楽に聞こえることがある。やはり、有名な作曲家の手になる曲は、素晴らしい響きがする。勿論、ロマン派の音楽にその魅力を感じる人も多いだろう。モーツアルトがベストだという人もいるだろう。いや、ショパンだ、ドビッシーだ、ジャズだ、歌謡曲だ・・・どのような曲に、共感するかという事が好みというものかもしれない。

ブログの主は、クラシックギターを20歳前後の時に弾いていた。クラシックギターは豊かな表現力のある楽器で、ベートーヴェンに「小さなオーケストラ」と言われた位だ。しかし、クラシックギターの曲の作曲者には、悲しいかな偉大と言える者は少ない。有名な「アランフェス協奏曲」を作曲したロドリーゴは、一発屋だ。ギター曲をたくさん作曲したソルは、バッハやベートーヴェンなどとは比べるべくもない。「魔笛の主題による変奏曲」と言う名曲があるのだが、原曲がモーツアルトだから(素晴らしい)と言われているくらいだ。このため、クラシックギターの曲は、バッハのバイオリン、チェロ曲の編曲、アルベニスのピアノ曲の編曲などがよく演奏される。(スペインの作曲家アルベニスの曲は、ピアノ版よりギター版の方が原曲と思えるほど馴染んでいる。)

話が脱線したが、音楽を聴くという行為は、響きを楽しむことだろう。他のジャンルはあまり聴かなくなったが、クラシック音楽はやはり素晴らしいと思う。同じ曲を聴いても飽きるという事がない。作曲家が作り出した音の響きに身を任せるとき、感動が訪れる。過去の素晴らしい曲は、人類の遺産だ。