グールドとジュリアード弦楽四重奏団は、なぜ《亀裂》を生じたのか?

グレン・グールドは、前期ロマン派の曲をたいがい嫌っていた。しかし、1968年にロベルト・シューマン (1810-1856)のピアノ四重奏曲変ホ長調作品47をコロンビアレコードから正規録音でジュリアード弦楽合奏団と残している。シューマン唯一の曲の録音である。これがなかなかいい曲である。

コロンビアレコードの当初の計画では、このピアノ四重奏曲を録音した後に、同じくシューマンのピアノ五重奏曲も録音する予定だった。しかし、ジュリアードと意見が合わず、五重奏曲の方は、バーンスタインがグールドに変わって起用されて、この2曲を入れたレコードが発売された。確執が起こったという発売されたの四重奏曲の演奏は、とても素晴らしくて、とても「亀裂」が入ったとは思えない出来栄えである。

グールド推しである親爺は、カップリングで入っているバーンスタインがピアノを弾いた五重奏曲とともに、他の現代の感情をこめた演奏より、曲の構成に気を配ばり統一感を重視した演奏のこちらの方が好みである。

こちらがそのジャケット

ついては、グールドとジュリアードの間で、何が合わなかったのか、それを考えてみようと思う。それを考えるにあたって、《おしまい》のうしろに二つのユーチューブを張り付けた。最初の方であるレコード盤が写っている方が、上に写真を貼り付けたジャケットに入っているグールドとジュリアードの演奏と同一である。

その後ろのYOUTUBEが、樫本大進さん(ヴァイオリン)が入った合奏団である。樫本大進さんは、最高峰と言われるベルリンフィルハーモニーの主席コンサートマスターである世界的ヴァイオリニストだ。

ここから、グールドとジュリアードの演奏と、現代の豪華メンバーの演奏を比べてみたい。なお、親爺は別に音楽の専門家ではないので、間違っているところもあると思う。その辺をお含み下さい。

また、音楽の曲は何といっても、いくら強弁しても、最後は好き嫌いです。好きだったらそれでよろしい、というのが大前提だと思います。

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グールドとジュリアードの演奏の方は、ピアノに圧倒的な存在感がつねにある。グールドは、全曲を通じて、(存在を消して)控えに専念するということがない。存在感がありながらも、他の楽器を喰ってしまうということもない。曲全体を眺めると、自然でとても楽しい演奏になっている。

グールドは、弦楽器(バイオリン、ビオラ、チェロ)が主旋律を鳴らしているときでも、その背景で、あまりにも正確なタイミングでピアノをポロンとさまざまな音色と音量で鳴らすので、曲のリズムと強弱ががピアノの演奏に制限される。弦楽器奏者に、勝手なリズムと表現を許さない。 

その理由は、楽器の特性が影響していると思える。ピアノは、鍵盤を叩いた瞬間に出る音が最も強く、弦楽器群は、弓をこすりながら音を出すので、音量のピークを自在に変えられる。ピアノは、弦楽器よりリズムに関して、《切れ》がはるかに良い。リズムが明確である。そのため、弦楽器も強音を頭にもってくるのであればそうした弾き方を意識的にする必要がある。 ピアノが弦楽器側に、ピアノと同じように、正確なリズムで演奏するように強要している。

しかも、グールドの弾き方は、コンピューターのようにリズムを崩さないで一音一音を弾ける。速く弾いたときに、《パルス》や《ビート》、《ドライブ感》という表現で言われるグールドの演奏の心地よさを生んでいる。グールドの弾く旋律は、32分音符、64分音符などの音符でも正確に、一音一音刻むことが出来る。アーティキュレーション(旋律のひとかたまり)を弾くときに、字余りだったり、帳尻合わせに、スピードを変えて調整するということがなく気持ちよい。逆に言うなら、他のピアニストは、グールドのように旋律を一音一音はっきり区切りながら弾かずに、ダラダラっとアーティキュレーションの中で一まとめにして弾くのが普通である。

このように、ピアノが一音一音明確に鳴るので、弦楽器もそのような演奏をせざるを得ない。結局、ピアノが全体の曲想を支配しているのだが、ピアノだけが主役という感じはまったくしない。主役のメロディーを鳴らしているのは誰?という感じが往々にする。主役のメロディーが鳴っているときに、その主役が、弦からピアノへ、ピアノから弦へと入れ替わるのはとても快い。

また、グールドの奏法はノンレガートが基本である。ノンレガートは、素人のようにポツポツ弾いただけではだめで、正確なタイミングで弾かなければ逆効果である。ところが、普通のピアニストはレガートが基本である。こちらは、リズムが少々脱線してもアーティキュレーションの中で調整できるので誤魔化しがきく。とうぜん、その分曲想が曖昧になる。

ちょっと話がそれるが、バッハの有名な「イタリア協奏曲*」の第2楽章アンダンテで、バスが同じ音で一定のリズムで出てくるのだが、グールドはノンレガート(スタッカート)奏法でこのバス音を印象的に弾いている。あまりに正確なタイミングで鳴るので、とても説得力があり、コミカルな印象を与えているのだが、これと同じ芸当をする他のピアニストを親爺は知らない。ノンレガートで弾くのも、レガートで弾きなれているピアニストには結構難しい感じがする。

(注)*イタリア協奏曲は、協奏曲と言いながらピアノソロの曲です。なにやら、リトルネロ形式というバロック時代の書風で書かれているので、協奏曲というのだそうです。

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一方、ベルリンフィルのコンマスである樫本大進組は、画面を見ると全員が楽譜を前に演奏している。

ここでまたまた脱線するが!!、グールドは、ザルツブルグ音楽祭でチェリストの大先輩のシュナイダーと共演した際、「オマエ、楽譜をピアノの前に置いて演奏しろ。いいな。」と釘を刺されるのだが、舞台に現れたグールドは、楽譜をお尻に弾いて演奏をはじめたというエピソードを思い起こした。このグールドは、自分のパートを暗譜しているだけでなく、他の楽器のパートも暗譜していて、そうした記憶力は共演者から嫌がられたらしい。

再び、樫本大進組の演奏に話を戻す。 こちらの演奏では、アーティキュレーションの中で、ピアノも小さく速度を変え、抑揚も変えている。それは、弦楽器もおなじである。ピアノは弦楽器が主体的な場面では、音量を控え、リズムも崩し気味である。ピアノの存在がないかのような場面もある。逆に、弦楽器が控えめで、ピアノが主体的な場面では、ピアノが名人芸を披露するのを弦楽器が伴奏にまわってサポートする。個性を尊重するのを良しとしているのか、別個の主張をして、あえて3台の弦楽器が揃わない場面もある。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノがそれぞれ主役をとる場面があり、すべての楽器の音が鳴りながらも、主役が交代していく。その時に、主役の楽器は、かなり感情を込めて個性を出すように演奏し、他の楽器はサポート役に回っている。そして、どの楽器も感情を籠めて自分の役割を最大限に発揮しようとする。それがずっとである。クライマックスを、思いを込めた《緊張感》で表現しているように思える。

(ロマン派の音楽を演奏する際に)一音一音明確に区切るより、ロマンチックに崩すことで、感情たっぷりに歌いたい気持ちがどの演奏家たちの根本にもあるように感じる。

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グールドは、弦楽器の背景に回っても正確なリズムを刻んでいるのが聞こえる。しかも、その背景のピアノの音が、控えめに優しく弾けば、弦楽器は激しく大きな音で弾くわけにはいかない。逆にクレッシェンドしながら、弾けば、弦楽器もそのように弾かざるを得ない。ピアノという楽器は、弾きようだとは思うが、非常に目立つ音を出す楽器だ。グールドは、曲の全体の構成と楽章の構成を考え、どのように演奏するともっとも効果的かを考えているように思える。

そのために、インテンポ(正確なテンポ)を重視し、各自が自由に速度を変えるルバートを排除しようとしているようにみえる。統一感を大事にするからだろう。ルバートすることで、感情の抑揚を表現するのことは、ときとして、頑張りすぎが感動の押し売りになる。名人芸を示したいのかもしれないが、長くこれをやられると、聴く方は疲れる。

おかげで、グールドとジュリアードの演奏は、大きな音で演奏する場合にも、強い主張や《驚き》があっても、《緊張感》はない。

逆に、こうした演奏を強いられるジュリアードの面々は、この不自由さが嫌だったんではないでしょうか。どうですかね?

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親爺は思うのですが、グールドは、ロマン派の音楽を弾くときに感情を排し、バッハなどの古典曲を弾くときにはロマンチックに弾くのがグールドなのかもしれません。そうなら、なかなかの天邪鬼ですね。

おしまい

【以下、YOUTUBEのキャプションから】11,244 回視聴 2021/07/30
グールドが録音したすべての室内楽作品の中で、1968年5月9日と10日にニューヨークで録音されたピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのためのシューマン四重奏曲変ホ長調作品47ほど物議を醸す作品はない。
グールド自身も、この録音の過程で、彼とジュリアード四重奏団の3人のメンバーの間に、ますます深まり、最終的には取り返しのつかない「亀裂」が生じたと認めた。
この歴史的な摩擦にもかかわらず、グールドとジュリアード四重奏団は共に素晴らしい音楽を作りました。
彼らのシューマン四重奏曲はドラマチックで騒がしく、それでいて所々抒情的でもあり、弦楽器とピアノの優しい音色が響きます。
この音楽の中にはかなり速く演奏されるものもあり、グールドの正確なピアニスト能力がこの作品に素晴らしい華やかさと興奮を与えています。
グールドが演奏した唯一のシューマン作品です。
コロンビアは五重奏曲作品 34 も演奏することを計画し、望んでいた。
しかし、それは実現しませんでした。
バーンスタインはレコードの裏側のピアニストでした。
I. ソステヌート・アッサイ – アレグロ・マ・ノン・トロッポ 8’57”
II. スケルツォ・モルト・ヴィヴァーチェ・トリオ I – トリオ II 3’37”
III.Andante cantabile 7’57”
IV. Finale. Vivace 6’59”
ジュリアード弦楽四重奏団のメンバー
ロバート・マン、ヴァイオリン ラファエル・ヒリヤー、ヴィオラ クラウス・アダム、チェロ
【以下、YOUTUBEのキャプションから】417,574 回視聴 2019/02/11
ロベルト・シューマン (1810-1856): ピアノ四重奏曲第 1 番 変ホ長調 op.47 (1786)
樫本大進、ヴァイオリン / ギラッド・カルニ、ヴィオラ / G ガベッタ、チェロ / ネルソン・ゲルナー、
ピアノ ソステヌート・アッサイ – アレグロだがやりすぎない ( 00:12 )
スケルツォ: 元気いっぱいのモルト – トリオ I – トリオ II ( 08:51 )
アンダンテ・カンタービレ ( 12:23 )
フィナーレ: ヴィヴァーチェ ( 19:19 ) )
ソルスベルク音楽祭 201 8 で録音 © HMF Productions フィルム: ヨハネス・バッハマン 音響: ジョエル・コーミエ タグ: ロベルト・シューマン、ピアノ四重奏曲、クラヴィーア四重奏曲、第 1 番、第 1 番、第 1 番、変ホ長調、エス-デュル、作品147、作品47、
樫本大進、ヴァイオリン、ギラッド・カルニ、ヴィオラ、ソル・ガベッタ、チェロ、ネルソン・ゲルナー、ピアノ

(修正版)グレン・グールド・ギャザリング その2 「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」 内田光子さんと比べて

リライト2021/10/8 YOUTUBEのリンクがうまくつながっていなかったので、加筆・修正しました。

YOUTUBEにアメリカでのテレビ番組「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」があるのを見つけた。2種類のモーツァルトのピアノソナタK333もあった。

これらを聴いてもらえると、グールドの弾くモーツァルトが、いかに過激か!よくわかっていただけると思います。

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2017年12月に建国150周年を記念したカナダ大使館で、グレン・グールド・ギャザリングという催しがあったことを前回書いたが、そこで映画「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」を見てきた。写真の席の左側に座ってパンフレットを広げておられるのが、グールド財団の方で、今回の上映を許可してくださったそうだ。また、右側と下の写真は、ずっとこのシリーズの解説と、字幕翻訳の監修をして下さった宮澤淳一氏である。氏は、青山学院大学教授で世界的なグールド研究の第一人者だ。

今回紹介する、超過激なタイトル!の映画、「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」は、アメリカで1968年4月28日に放送されたテレビ番組の一部だった。グールドは当時36歳だったが、彼は32歳の時からコンサートを開かなくなっていた。そのため、もっぱらスタジオでのレコード作りをしていたので、テレビとはいえ、4年ぶりに生の姿を現したと話題になったらしい。この放送があった1968年頃といえば、第二次世界大戦後の文化、経済、政治あらゆる面で、大きく民主化や大衆化が世界的に進んだ時期と言っていいのではないか。ベトナム戦争の最中だったが、反戦運動も激化し、ヒッピー文化、サイケデリックなサブカルチャーやドラッグ、性の解放などが進んだ時代だった。そうしたアメリカでの2時間番組の40分ほどが、このグールドの放送だった。なお、再放送されることはなかったようだが、ググると仏語のDVDがヒットするので、販売されていた時期があったのかもしれない。(下の写真は大使館に展示されていたもので、コロンビアレコードのハンスタインさんが撮られたものである。晩年のグールドでこのように笑っている写真は少ないと思う)

ビデオを見て驚くのだが、グールドのモーツァルトへのこき下ろし方は半端ではない。モーツアルトは35歳で早逝しているのだが、グールドは前から「死ぬのが早すぎたのではなく、死ぬのが遅すぎた」と言っていた。

この番組では、モーツァルトの作曲態度を、安易で紋切り型の繰り返しに過ぎないとピアノで演奏しながら説明する。この説明には、ピアノ協奏曲の24番を使って説明するのだが、オーケストラが演奏するパートをすべてピアノ1台で弾きながら説明する。このピアノが、鮮やかで、オーケストラに引けを取らないくらい魅力的なのだ。ピアノの演奏の上手さと、語り口の激しさが、見ている方にとっては、メチャメチャ刺激的だ。

大体、天下の大作曲家、モーツァルトを、ここまで正面切って誰が否定するか?モーツアルトの美しいメロディーが変化していくさまを、ピアノを弾きつつグールドが解説し、その変化のさせ方が簡単に予想がつき、手抜きだというのだ。だが、グールドの語り口はともかく、演奏の方は見事で申し分ない。こんなに美しく移ろうのに、どこが悪いの?

この説明には、「クリシェ」というフランス語がキーワードで使われており、WIKIPEDIAではクリシェを「乱用の結果、意図された力・目新しさが失われた句(常套句、決まり文句)・表現・概念を指し、さらにはシチュエーション、 筋書きの技法、テーマ、性格描写、修辞技法といった、ありふれたものになってしまった対象にも適用される。否定的な文脈で使われることが多い」と書かれている。

この発言だが、どこまで本気なのか真偽のほどはわからないが、グールドの言っていることは一理あり、完全に本気なのかもしれない。だが、彼はモーツアルトのピアノソナタは、反面教師的に否定的なことを言いながらも全曲録音しているし、「モーツァルトが書く展開部は、展開していない」とこき下ろしたピアノ協奏曲のうち、番組で取り上げた第24番だけは見事な録音を残している。

この番組の最後の部分では、高く評価できるというピアノソナタ第13番変ロ長調K.333を13分程度で全曲演奏する。これがまた素晴らしい演奏で、主は大使館のホールですっかり感動してしまった。この曲は3楽章あり、驚異的なスピードの第1楽章、比較的ゆったりした第2楽章は、強弱のつけ方や、レガートに弾いたり、スタッカートで弾いたり、響きを区切ったり、残響を残したり変化をつけて飽きさせないで見事なのだが、第3楽章の中盤あたりにいわゆるサビがあり、とても盛り上がっていき、ひねりも加わって曲全体のハイライトがここにある。

このK.333の第3楽章を、ジェフリー・ペイザントが「グレン・グールド、音楽、精神」で次のように評している。「・・・グールド本人はいくつかのモーツァルト演奏において、まさにこの芝居ががった演技性を探求している。例えば、彼の演奏する変ロ長調ソナタ(K.333)の第3楽章は明らかにオペラ的であり、≪魔笛≫でタミーノが歌う <彼はパミーノを見つけたのかもしれない> に実によく似ている。グールドの弾くモーツァルトの終楽章には、モーツァルトのオペラの第一幕末尾を思わせるおどけた性格が頻繁に現れる。・・・」 要は早い話が、普通のピアニストが弾くモーツァルトの原曲とは、違う曲になっているんですね!!

主は、このブログを書くにあたって、英国で活躍する内田光子さんの演奏と比べてみた。内田さんは、日本を代表する世界的ピアニストなのだが、情熱ほとばしるというか、のめりこむところを表に出す正統派のピアニストだろう。

第1楽章を聴くと、何回繰り返すの?と思うくらいリピートしている。おそらく、グールドが、楽譜どおりの繰り返しをしていないのだろう。第2楽章は、大人しくて美しい。文句のつけようがないが、主はそれがどうしたと思うだけで、面白くない。いつまで弾いているの。第3楽章、やはり美しい。がそれ以上のものがない。全体をとおして、平板だ。美しい音色で美しい演奏だが、それ一本。びっくりする要素がない。ひたすら高音部のメロディーだけが、存在を主張している。

グールドは、低音部に自分で考えて勝手に音を加えて、低音部にもメロディーがあるように再作曲しているにちがいない。アーティキュレーション(フレージング)も自在だ。基本的にインテンポ(テンポを崩さず)で弾くのが彼の特徴なのだが、人に真似のできないようなスピードで弾ける(人に弾けないような遅さでも弾ける)。同じ弾き方を、何回もしない。繰り返すときはデタシェ(ノン・レガート)で弾いたり、弾き方を変え、サービス精神があって飽きさせない。なにより、低音部が伴奏ではなく、主役の一部を構成する。全ての音が、全体を考えたピースの1個であるかのようにコントロールされている。

50年経った今でも、未だにグールドは、アバンギャルドなのかもしれない。

・・・主は、グールドがモーツァルトの偉大さは認めながらも、言っていたのは本気だと思う。ちなみに、番組では「作曲家としてはダメだったが、音楽家としては偉大だった」と強調していた。

うまい具合に、YOUTUBEにどちらもあったので、はめ込んだ。グールドは、まったく違う2種類の演奏が見つかった!(どちらも、残念ながらテレビの録音は良くなく、CDやSACDはずっとよい。)

最初は、内田光子さんの演奏。3つに分かれている。ゆったり弾かれているのがわかる。

4番目からグールドの演奏。グールドの最初は、1967年3月のCBC(カナダ放送協会)のものだ。これは18分あり、モーツァルトをこき下ろした番組に比べると、わりとおとなしい(オーソドックス)な演奏をしている。

グールドの2番目が、テレビ放送「いかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」の方である。きわめてエキセントリック、挑発的(だが、魅力的!)な演奏だ。 

大使館での上映では、宮澤淳一氏が監修された日本語字幕付きの映像を見ることができた。ぜひ機会を見つけて販売してもらえると嬉しい。(さもなくば死蔵することなく、YOUTUBEなどの手段をとってでも見られるようにしてもらえることを願うのみだ。)

https://www.youtube.com/watch?v=D_1pJ9sptk8

Glenn Gould performs Mozarts “Piano Sonata No. 13 in B-flat major“, at the classical music television series “Music For a Sunday Afternoon”, 140 years after the death of the legendary composer, originally broadcast on March 19, 1967.

こちらは、1967年5月19日カナダの公共放送であるCBCテレビで放送されたもの。

https://www.youtube.com/watch?v=L52LqcVAhGY

Excerpt from the “Return of the Wizard”, where concert pianist Glenn Gould enumerates on “How Mozart Became a Bad Composer.”

こちらが、「いいかにしてモーツァルトはダメな作曲家になったか」で放送された、モーツァルトのピアノソナタ13番K333を抜粋したもの。挑発的だ!

https://www.youtube.com/watch?v=1pR74rorRxs

Glenn Gould – “How Mozart Became a Bad Composer”の全編。設定のところをいじると、大いに問題がある怪しい日本語訳を表示させることができます。

おしまい

シューマン:ジュリアード弦楽四重奏団/ピアノ五重奏曲&ピアノ四重奏曲 グールドvsバーンスタイン

グールドは、ロマン派の曲をあまり演奏しなかったが、シューマン(1810-1856)については1曲だけ残している。ジュリアード弦楽四重奏団とピアノ四重奏曲(変ホ長調作品47・1968/5/8-10録音)で、このレコードはレーナード・バーンスタインがピアノを演奏したピアノ五重奏曲(変ホ長調作品44・1964/4/28録音)がカップリングされている。本来であれば、ピアノ五重奏曲もジュリアード弦楽四重奏団と録音するはずだったが、グールドとジュリアード弦楽四重奏団には演奏をめぐって「ひび」が入ってしまい、2曲目の共演は実現しなかったらしい。このレコードは、1969年11月にコロンビアから発売されていることから、2曲ともグールドの演奏で売り出す予定を、バーンスタインの演奏ですでに録音していたピアノ五重奏曲とのカップリングへと変更したのだろう。

四重奏曲と五重奏曲どちらの曲も、付点音符によるシンコペーションが多用され後拍にアクセントがあり現代的で気持ちよい。同じ変ホ長調なので雰囲気はよく似ているのだが、楽章の中でも旋律や曲想が目覚ましく変化するので、聴いていて飽きない。比べると四重奏曲の方が全般に穏やかで優しく、五重奏曲はより激しく、両方とも最終楽章ではより前衛的な不協和音に近いところが出てきてドキッとさせられる。

主は、このブログを書くために何度もこの曲を聴いたのだが、すっかりシューマンに魅せられてしまった。実際にシューマンは精神的に病み自殺未遂をしたこともあったようなので書きにくいのだが、この2曲には「狂気」が感じられる。音符には不協和音は出てこないが、不協和音に近い淵までは行っている。その淵をもっと長く見せてほしいくらいだが、他の部分も予定調和の音調ばかりではない。主は、クラシック音楽に「狂気」が感じられないものは値打ちがないと思っている。ベートーヴェンに「狂気」があると言われると分りやすいだろう。クラシック音楽の歴史は、過去の音楽様式の超克の歴史であり、発表当時は常にアバンギャルドであり、前衛音楽だったはずだ。

話を戻すと、四重奏曲は、4楽章あり、急(Allegro)、急(Vivace)、緩(Andante)、急(Vivaceo)で構成されている。第3楽章の緩(Andante)のところでは、穏やかで愛らしい韓国ドラマ「冬ソナ」のようなピアノの右手が奏でる美しいメロディーが出てくる。

この曲では、グールドのピアノの存在感がすごい。逆説的だが、存在感がすごいのだが、その存在感が表に出ることはなくて、曲の良さや楽しさ、激しさや穏やかさを引き出すことに徹している。グールドが弦楽器の背景で音量を抑えて低音で伴奏をするときや、小さく高音を弾く時でさえ、耳がそちらに行く。リズムが正確で心地よいことと、強弱のつけ方が上手い。弦楽器が主役の時にはピアノの音量を抑え、ピアノが主役に代わる時には表に出ていく。常に滑らかなのだ。グールドのピアノが、弦楽器の背景で鳴っている時でさえリズムに説得力があるので、ジュリアード弦楽楽団のメンバーはリズムを崩せない。グールドのこのアンサンブルは、次のバーンスタインもそうだが、きわめて正統的でこの曲自体が持つ魅力を十分に気付かせる演奏だ。

バーンスタインによる五重奏曲は4楽章あり、急(Allegro)、緩(Modo)、急(Vivace)、急(Allegro)で構成されている。極端なシンコペーションと徹底した裏打ちのアフタービートが現代的で過激、時代を超えたところがある。バーンスタインはジュリアード弦楽四重奏団をぐいぐい引っ張っていく。弦楽器よりもピアノの方がキレが良く、弦楽器の方が合わせるのに苦労しているように聞こえる。バーンスタインは、指揮者だけではなく、ウエストサイドストーリーの作者としても有名だが、ピアノもこれほど上手いとは思っていなかった。バーンスタインの演奏は、後拍のリズムが徹底していて、その一貫性に確信のようなものが感じられる。グールドの演奏の方がむしろおとなしく、バーンスタインの演奏はアナーキーなところがある。どちらも天才だ。

グールド、バーンスタインの演奏のどちらも、楽団全体のバランスがとても良い。バーンスタインの五重奏曲は、ヴァイオリンが2丁になるのでより激しく動的な感じを受けるのかも知れない。ちなみに下のリンクで、グールドの演奏をYOUTUBEで聴けるはずだ。

https://www.youtube.com/watch?v=iSiwMR3dBUY&list=RDepchw_8tKow&index=3

主は、「ひび」が入ったというのは、グールドが弾く四重奏曲がとても正統的な演奏に思えたので、ジュリアード弦楽四重奏団の要望に折れる形でグールドが妥協したのかと思っていた。それほどにどこにも違和感がないのだ。

ところが、YOUTUBEで他の演奏者のシューマンのピアノ四重奏曲、五重奏曲を聴いてみてわかった。やはり「折れている」のはジュリアードの方だ。いろいろ名演奏があるのだが、アルゲリッチが著名な部類だろう。若い時分のものと最近のお婆さんになった現在のものも聴くことができた。日本の若手のものなどもあった。そういえば、辻井伸行が優勝したヴァン・クライバーン・ピアノコンクールのピアノ五重奏曲の演奏もYOUTUBEにアップされており、短いものだったがなかなか良い雰囲気だった。

若いころのアルゲリッチ。中学生のころに父親が持っていたLPレコードジャケットを見て、あまりの美人ぶりに日本人としてコンプレックスを感じたのを思い出す。

これらを聴くといずれも弦楽器、ピアノともどんなアーティキュレーション(メロディーライン)であってもほどほどルバートしない演奏はない。アルゲリッチでさえ、弦楽器が好きなようにリズムを揺らしながら旋律を歌わせている時には、ピアノは出しゃばらない。かなり音量を抑えて控えめに弾いている。そしてピアノの出番になると、自分もリズムを揺らして感情をこめて弾く。お互いがずっとこの調子で進んでいく。

好みはあるのだろうが、グールドのアプローチは、頭に入っている4人分の楽譜を俯瞰してどのように演奏するのが良いかについて自分の考えがあるところだろう。そのため、グールドのピアノは弦楽器の伴奏に該当する部分でも存在感があり、弦楽器各自が感情をこめてルバートするのを許さなかった。すなわち、グールドとジュリアード弦楽団が対立したのは、グールドが基本的にインテンポ(テンポを変えない。ルバートしない)での演奏を弦楽奏者に求め、楽章ごとにメリハリをつけながら、4楽章全体を見通して考えた構成に合ったドラマを作ろうと考えていたに違いない。こうしたアプローチは、素人の主には当然と思われるのだが、おそらくクラシックの演奏家にとっては違っていて、特に弦楽奏者にとってはルバートしながらリズムを揺らし、思い入れたっぷりな演奏をするのが名人芸なのだと思う。ここで付け加えたいのは、グールドの演奏がインテンポで常にルバートしないとしても、機械的な演奏だとか、冷たい演奏になっているのではなく、彼の演奏には非常に心がこもっている。ペースを守っているのだが、間の取り方がうまく、音量の変化も繊細で、とてもロマンチストなのが良く分かる。常に冷静に計算しながら、恍惚としたエクスタシーの中へ入り込むことが同時にできている。

彼のバッハもそうだ。彼のバッハは普通のバッハではない。非常にロマンティックな演奏だ。バッハにぜんぜん聴こえない。

おしまい 良いお年を!