小説グレン・グールド「はじめに」をリライトしました

はじめに

クラシック音楽の世界に、グレン・グールドという多くの音楽評論家が《異端》で《エキセントリック(変人)》というピアニストがいた。ときに作曲家が書いた楽譜に手をくわえ、しばしば書かれた音楽記号を無視した演奏をして、身なりも振る舞いも非常に変わっていた。

彼は、カナダ、トロントに生まれたピアニストで1932年に生まれ、1982年に没した。生まれて92年、亡くなってから42年が過ぎた。

1932年といえば、第二次大戦へ向かう世界恐慌のさなかで、職を失い食事にもありつけない人々が世界中に溢れた時期だった。だがカナダは戦争の影響はすくなく、彼の家は裕福だったので影響はほとんどうけなかった。第二次大戦が終わった1945年から、彼が死んだ1982年までといえば、世界中が民主主義を謳い、自由と平等へと全速力で走り、人類が一番幸せな時期だった。もちろん資本主義と共産主義のふたつの陣営が対立し、人種差別もはげしかった。いっぽうでプレスリーやビートルズがでてきてそれまでのかたくるしい既成概念を破壊し、人々の生活はまえより格段に向上し、人々は希望をいだいていた。若者が社会をリードした”Love and Peace”の時代だった。

グールドには、べつに進行するものごとを同時並行的に把握するという、一般の人にはない特殊な才能があった。グールド研究家のケヴィン・バザーナは、「グレン・グールド神秘の探訪」[1]で、こう書いている。

「グールドの脳は日常生活においても対位法的[2]な調子で動いていた。レストランやその他の場所で、グールドは他の客たちのそれぞれの会話を同時に盗み聞きするのが好きだった。また、原稿を書き、そして音楽を聞きながら、電話で話をすることがあったが、その3つの行為を同時に完璧にこなすことができるのだった。」

彼の不倫相手だった画家のコーネリアは、映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」[3]のなかで、グールドがテレビドラマを見ながら楽譜を覚えていたエピソードを語っている。

「テレビドラマも子どもたちと楽しんだ。テレビを見ているときも、グレンは、楽譜を広げていた。観ながら覚えてしまうの。一緒にドラマを観たあと腑に落ちない点をグレンに尋ねたものよ。ドラマの展開のことをね。グレンは、テレビの内容もすっかり頭に入っていて答えてくれた。そのあいだに楽譜もすっかり覚えていた。とても驚いたわ。」

グールド自身も、一番楽譜をよく勉強できるのは、テレビをつけ、ラジオでニュースを流しているときだと言い、3つを同時に理解していた。

グールドは、ピアノを弾くとき、弦楽四重奏を奏でる4人を頭の中にイメージしていた。ソプラノである第1ヴァイオリン、アルトの第2ヴァイオリン、テノールのヴィオラ、バスのチェロ奏者が、頭の中で演奏していると思いながら指を動かしていた。

このような彼の演奏には、いくつかの特徴があった。

多くのピアニストは、バッハがポリフォニー[4]で書いた曲を演奏しても、高音のメロディーとバスの音だけがずっと鳴っていることがある。というのは、現代の音楽は、基本的にメロディーと伴奏の和声のからなるホモフォニー[5]といわれる。このホモフォニーで書かれた音楽をまず身につけようとピアノを学習し、過去の音楽様式ともいえるポリフォニーは学習機会がすくない。

いっぽうバッハの音楽は、ポリフォニーからホモフォニーへの過渡期にあった。ポリフォニーとは、複数の旋律がどうじに進行する。グールドは、高音と低音の中間にある《内声》にもスポットライトをあて、その旋律も浮かび上がらせた。まるでふたりで連弾しているかのように弾き、高音、内声、低音どれも交代させながら主役の座につけた。たとえば、ソプラノのメロディーからアルトのメロディーへと、テノールからソプラノへと、また、他のピアニストとくらべると、足でバスのメロディーを弾くオルガンを習っていた経験をしていたので、バスの旋律をピアノでも強調し、旋律が喧嘩しないよう調和をとりながら、自分の考える強調したい声部が応答するように弾いた。

また、彼の演奏の基本は、音を短く区切るノンレガート(スタッカート)にあった。ピアノ学習者は、ピアノはレガートに弾く楽器だと教わる。「音はポツポツ切って鳴らしてはダメです、音符のつながりを意識して、なめらかに音をつなぎなさい」と教わる。しかし、レガートだけの演奏では、表現のバリエーションがかぎられる。変化をだすためには、小さい音で弾くか大きい音で弾くか、速く弾くか遅く弾くかしかない。もし聴くものを圧倒して感動させたかったら、大音量で弾くか、高速度で弾くという方法しかない。

彼はレガートを《緊張》であり、ノンレガートを《弛緩》であり《透明感》だと考えた。楽譜どおりに鳴らされるノンレガートの音は、音が実際に繋がっていなくとも、繋がっているように聴こえる。レガートは、ここぞという美しく緊張感のある場面に取っておいた。[6]

彼が、聴くものを圧倒するには音量も速度も必要なかった。静かに遅く弾いても圧倒できた。それは、圧倒的に正確で、どんなに、速く弾いてもおそく弾いても崩れない自由自在のリズム感があるからだった。

こうして彼は、10本しかない指でソプラノ、アルト、テノール、バスのメロディーを同時に弾き分けながら、しかもレガートとノンレガートを使い分け、引き立たせたいメロディーを変えていた。

この彼のテクニックが良くあらわれている演奏に、もっとも高い評価をしたJ.S.バッハが18世紀半ばに作曲した「フーガの技法」という曲がある。グールドは、18世紀に作曲された曲の中で、ふつう、最高の曲はその世紀にいちばん流行ったスタイルで書かれた曲のなかにあるが、この曲は当時の流行に背をむけていたと評していた。バッハが、流行が、メロディーと伴奏の和声を重視するホモフォニーへと移りつつあるなか、流行に背を向けて人気が廃れたポリフォニーの終着点であるフーガにこだわっていたといっていた。

しかし、彼はピアノで正規録音をだすことは、最晩年までひどく怖がっていた。なぜなら、この曲を録音するのが恐ろしかったから[7]である。

まだグールドがまだツアーをしていた1962年、オルガンで「フーガの技法」の前半部分だけを愉悦にあふれ軽快で、やはりノンレガートで弾いた正規録音を残した。やはり、新しい解釈の素晴らしい演奏だったが、批評家はこの演奏をオルガンらしくないといって酷評した。ところが、グールドは、コンサート・ツアーではピアノを使い、オルガンとは180度ちがった演奏をしてみせ、シュヴァイツァーがいう「『静寂で厳粛な世界、荒涼とした色も光も動きもない世界』を描いていた[8]

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この曲の弾き方にグールドの技術がよく現れている。テーマである第1曲の4声のフーガは、アルトで始まり、5小節目からソプラノ、9小節目からバスが入ってくる。どんなピアニストでも、曲の冒頭部分では、自分の技量をじゅうぶんわかってもらい、観客のこころを掴みたい。そのために最善をつくして弾きたいと思うので、ほとんどのピアニストがアルトの4小節を左手で弾きはじめ、ソプラノの4小節を右手で弾きはじめる。ところが、グールドは、8小節のアルトとソプラノの両方を右手で弾き、空いた左手は右手の指揮をし、9小節目になってやっと両手で弾きはじめた。

「フーガの技法」の第1曲(対位法1番)グールドは、8小節まで右手だけで弾いた。

また、多くのピアニストは音を長く延ばすためには、指で鍵盤を抑え続けるより、すぐにペダルを踏む。それが簡単だからだ。グールドはペダルをほとんど使わず指を持ち替えながら弾く。このため音が混じらず、クリアで非常に美しい。

そうした違いに加え、最大の違いは、楽譜に手を加えることをためらわないことだ。彼の演奏は楽譜に書かれた音高と音長は変えないとしても、それ以外は楽譜に囚われない。どうしたらその曲の最善を引きだせるかを、自分の頭で考える。クラシック音楽界の伝統は、作曲家の意図をできる限り忠実に再現することを最重要視する。ところが、ベストな演奏にするために再作曲をする。そんな彼の演奏は、例えばベートーヴェンの『月光ソナタ』や、美しいアルペジオで始まるバッハの『平均律クラヴィーア集第1巻第1番前奏曲』といった誰もが知っているような有名な曲であるほど、誰もやらない奇抜な演奏をした。これはあまりに挑発的で、評論家や音楽界の重鎮だけでなく、リスナーの度肝も抜いた。これをもっとも徹底的にやったのが、「死ぬのが早すぎたのではなく、遅すぎた」と彼がいうモーツァルトのピアノ・ソナタの演奏だった。彼は、モーツァルトが書いた美しいピアノ・ソナタ全曲に、新しい旋律の声部を書き足し、「曲が良くなったかはともかく、ビタミン剤を注入した」と言ってはばからなかった。そうした彼の強い主張は、もちろん音楽界の重鎮や音楽評論家たちとのあいだに衝突をひき起こしたが、一切の妥協をしようとしなかった。


彼は、椅子の脚を15センチほど切り、ピアノの3本の脚を3センチほどの高さの木製のブロックの上に乗せて演奏した。手首を平らにして指で鍵盤を引っ張るように弾くので、力が抜けた自然で美しくはっきりとした音を出した。爆発するような大音量は出せず、何千人もはいるようなコンサートホールの隅々まで届かないかもしれないが、粒が揃った美しい音色を出した。コンピューターのような明晰なリズムはビート感があり、情感たっぷりで落ち着いた現代的な旋律が、聴く者を魅了した。

鍵盤をうえから体重をかけて叩くのではなく、低い位置でピアノを弾き、すべての音をコントロールしようとしたのには、かるく反応のよい鍵盤のピアノに執着したことも大いに関係がある。グールドの最大の理解者で友人のP.L.ロバーツは、「グレン・グールド発言集」で、グールドから「息を吹きかけてもキーが下がらないピアノは弾きたくないね」[9]というのを聞いている。グールドは、それほど反応の速い、軽いタッチのピアノを求めていた。

もうひとつの演奏の特徴に、《エクスタシー》があった。彼が演奏をはじめると、すぐさま、彼は現世の浮世から離れて、恍惚とした音楽の世界へ行ってしまうように見えた。これをやはり、コーネリアが映画の特典映像「コーネリア・フォスが語るグールドの哲学」で語っている[10]

「自分に酔うことと、自我を超越することは矛盾しない。それどころか相乗効果がある。自分に陶酔すればするほど、自我を超越したいと思うものよ。当然のことね。演奏中のグールドは、超越していた。個人としての欲求や恐れなど世俗的な感情を忘れ去ってしまうの。自分自身を森羅万象と融合させることができた。自分を取り巻く宇宙と一体化して人間としての存在を深めていくことができるの。ヴァイオリニストやチェリストでも同じ。偉大な演奏家ならではの神秘的な境地ね。演奏技術の問題でなく大きな何かが働くの。」

この話には、ふたりのユーモアを示すオチがある。

「ある日、グレンが帰ってくるなり息せき切って話し始めた。『大変だよ。』『なんなの?』と尋ねたわ。『グレン・グールドの精神』という講座がトロント大学で開かれていると言うの。彼は身をよじって笑っていた。おかしくてたまらなかったのね。『聴講しなきゃならないよ。うまく変装して行こう。最後列に座ればいい。勉強になるぞ。』言うまでもなく、2人とも行かなかったわ。だから『グレンの精神』はわからない。」

母親の不安症が原因で、彼は子供のころから薬物に依存していた。向精神薬を飲みすぎて精神に不調を来すまでになったのは自分を守るためだった。その依存症は、年月を経るほどに激しくなり、やがて、幻影や被害妄想に()りつかれるまでになった。音楽に追い詰められ、音楽だけが彼を救うことができる唯一だったのは皮肉だった。

彼は芸術家としての責任をいつも感じていた。見せたい自分を生涯にわたって演じ続け、音楽にすべてをささげていた。音楽で結婚しなかったし、薬物依存になったのもこの強迫観念が原因だった。

彼がデビューしたとき、すばらしくハンサムなジェームズ・ディーン[11]の再来だと音楽誌だけでなく一般誌まで騒いだ。一方で彼は、映画王、航空王で潔癖症だった世界一の大富豪ハワード・ヒューズのように生きたいと公言して、ずっと世間の目を隠してきた。それが原因で、ゲイとかホモとか、ノンセクシャルと言われるのを知っていたが否定しなかった。だが、近年、ゲイどころかプライベートな生活では、実に多くのロマンスがあったことが女性たちへのインタビューでようやく分かった。数々のロマンスが世間に知られなかったのは、グールドが、女性たちをそれぞれ孤立させ口止めをしていたことと、私生活を詮索するような人物がいると、交友をすぐに断ったから周囲の人たちはグールドの私生活を詮索しなかったからだった。そして彼女たちは、グールドに忠誠を誓い、守ろうとしたからだった。

この多くの女性関係を明らかにしたのは、映画「グレン・グールド《天才ピアニストの愛と孤独》[12]」の原作本である「グレン・グールド・シークレットライフ《恋の天才》[13]」を書いたマイケル・クラークソンだった。彼の女性関係は、この原作に基づいている。

グールドは全般に率直な人だったが、本質的な性格は分かりにくい。私生活を隠していたからということもあるが、非常に感受性が強く、才能は一般の人とは比べものにならないほど大きかった。話すことも書くことも核心をついていながら、言い回しは遠回しだった。しかも彼自身ずっと様々なことに格闘していた。親の世代から譲り渡された宗教観や道徳観との葛藤もあったし、自分を真の芸術家だと考えて、芸術家はこうあるべきだという思いも強かった。

グールドに関する伝記や評論は非常に多数ありながら、人物像の核心部分を知るのは難しい。しかし、これまでに書かれた多くの著作を辿ることで、彼の本性に極力近づきたいと思っている。

なぜなら、ひとりでも多くグールドの演奏を聴いて欲しいからである。

おしまい


[1] 「グレン・グールド神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ サダコ・グエン訳 白水社) 第5章「アーティストのポートレート」 P423

[2] 対位法 複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ、互いによく調和させて重ね合わせる技法

[3] 映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」特典映像にでてくる

[4] ポリフォニー・ ポリフォニーは複数の独立した声部(パート)からなる音楽のこと。ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味する。

[5] ホモフォニー バッハ後盛んになったホモフォニーには、最大の特徴は主旋律と伴奏という概念がある。

[6] グールドは、レガートとノンレガートの奏法について「グールド発言集」、「異才ピアニストの挑発的な洞察」P279で、「私がレガートの旋律よりもスタッカートの旋律が好きなのは、・・・孤立したレガートの瞬間を非常に強烈な体験にしたいからです。実は私は潔癖なものにあこがれる人間でして、デタシェを基本としたタッチを支配的に用いるときに得られるテクスチュアの透明感が大好きなのです。ところが、さらに、デタシェの響き方を支配的に用いるとき、ほぼすべての音が、次の音からの分離をかなえる独自の空間を備えるようになったところでレガートの要素を導入します。するとたいへん感動的なものが生まれます。それはある種の情緒的な流れですが、もし、ピアノはレガートの楽器であり、音はなめらかなほどよいのだ、という通常の仮定をしていたら、音楽に現れようのないものなのです。」と書かれている。

[7] 怖がっていた 「グレン・グールド神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ)で「最後の清教徒」P475に次のように書かれている。《ブリュノ・モンサンジョンが作った「グレン・グールド・プレイズ・バッハ」で、この番組は未完に終わった最後のコントラプンクトゥス(対位法)を弾いて幕を閉じるのだが、グールドはこの作品を「人間がこれまで構想したなかで最も素晴らしい曲」と呼んだ。実はグールドはそれまでこの曲を演奏したことがなく、怖気づいていた。「これまで取り組んだなかで、一番難しいことだ」と述べている。グールドはこの曲についてまったく異なる4通りの解釈を検討したあと、結局は哀調を帯びた、非常に内省的な演奏を選んだ。・・・》

[8] ピアノによる「フーガの技法」の演奏は、モンサンジョンと作った「GGプレイズバッハ」の中でこう語っていた。《「あの未完のフーガは確かに情にも訴える。何しろバッハの絶筆だし[・・・]しかし本当の魅力は平穏さと敬虔さ。本人も圧倒されたはず。このフーガに限らず曲集全体に言えるのは、バッハが当時の音楽の流行全てに背を向けていたことだ。彼の晩年、フーガは流行らなくなっていた。[・・・]フーガでなくメヌエットの時代なのにバッハはきわめて意識的に自分の和声のスタイル変え[・・・]別の地平に達していた。バッハは100年以上さかのぼり、対位法や調性の処理法を借用した。バロック初期の北ドイツやフランドルの作曲家のもので、調性を使いながら鮮やかな色彩を避け、代わりに薄い色合いが無限に続く。私は灰色が好きだ。シュヴァイツァーがいいことを言っている。『静寂で厳粛な世界、荒涼とした色も光も動きもない世界』と」未完のフーガの最後の音を弾いた瞬間、グールドは感電したように左手をさっと持ち上げる。映像は静止し、腕は宙で凍りつく - 「あらゆる音楽の中でこれほど美しい音楽はない。」この未完のフーガを弾くグールドの姿を見た者は、この瞬間の映像を決して忘れることができない。(訳:宮澤淳一)》

[9]「グレン・グールド発言集」(P.L.ロバーツ 宮澤淳一訳 みすず書房)中、「はじめに」で、P5に「息を吹きかけてもキーが下がらないピアノは弾きたくないね」と書かれている。

[10] 映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」特典映像「コーネリア・フォスが語るグールドの哲学」

[11] ジェームズ・ディーン:(James Dean、1931年- 1955年)は、アメリカの俳優。孤独と苦悩に満ちた生い立ちを、迫真の演技で表現し名声を得たが、デビュー半年後に自動車事故によって24歳の若さでこの世を去った伝説的俳優である。

[12] 映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」監督:ミシェル・オゼ、ピーター・レイモント 角川書店、2012年発売

[13] 《The Secret Life of Glenn Gould: A Genius in Love》 Michael Clarkson ECW press

第10章 ストラトフォード音楽祭でベートヴェン「幽霊」を演奏する

グールドは、すでに10代の初めからカナダ国内で注目されはじめ、10代の後半から22歳のアメリカ・デビューをする前には、国内の一流オーケストラすべてと共演するまでになっていた。1950年代は、まだラジオの全盛期だったが、ラジオ番組にたびたび登場する最も人気のあるスターになっていた。しかし、その人気はあくまでカナダ国内に限られていた。

1953年、カナダは文学、演劇、音楽の総合的な祭典であるストラトフォード・フェスティヴァルを始めた。

グールドは、開始当初からこのフェスティヴァルに参加し、世界的なピアニストとなってからも、10年以上ずっと参加しつづけた。

1953年、アンサンブルへ1回、リサイタルへ2回出演したグールドは、「隙間だらけの楽屋、ぼくでさえも上着なしで弾いたほどの蒸し暑さ、ひどい楽器、無計画、準備のわるさ」と10年後に回想している。しかし、出演料が127ドル(2023年現在価値で4,165ドル≒58万円)だけだったことには触れていない。

なぜなら、グールドは、この音楽祭を通常のコンサートでは実現できないレパートリー、着想、演奏へのアプローチの探求や実験ができる場だと考え、シェーンベルクなどの現代曲を重点的に取り上げたり、持論である「拍手禁止計画」[1]の実行をした。そうした新しい試みをしたいという思いは、多くの他の出演者たちにも共通だった。

グールドは、22歳の時、CBCテレビ(カナダ国営放送)「サマー・フェスティヴァル」というシリーズの一環で、テレビの録画とラジオでの生放送をする[2]ために、すでに名のとおったヴァイオリン奏者のアレクサンダー・シュナイダーと女性チェロ奏者ザラ・ネルソヴァとの3人で、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲ニ長調作品70第1「幽霊」とバッハ、ブラームスの室内楽の作品の演奏をした。

シュナイダーは1908年、リトアニア(旧ロシア帝国)にユダヤ系として生まれ、ハンブルグのオーケストラのコンサート・マスターを務めていた。しかし、ナチスの台頭により解雇され、ブダペスト弦楽四重奏団に加入する。たまたま行った1939年のアメリカ公演の際に、移住許可を得ることができアメリカへ移住していた。

3人が共演したこの年は、46歳でプラド音楽祭、マールボロ音楽祭をすでに成功させて、ヴァイオリン奏者としてだけではなく、指揮にも精通して、評価はすでに高かった。

36歳のチェリスト、ザラ・ネルソヴァはウィニペグ生まれで、フルート奏者だった父の影響でチェロを習い始めた。彼女が生まれた1918年は、歌手を別にすると、女性が演奏する楽器は、ピアノやオルガンなどの鍵盤楽器、ハープやリュートなどに限定され、チェロを女性が演奏するのはまだ珍しい時代だった。このため、ネルソヴァは男性の音楽家から「ああ、あの女のくせにチェロを弾く」[3]などと形容されながら、キャリアを切り拓いてきた。この時、彼女はアメリカ・デビューを果たし、前年にアメリカ市民権を得たばかりだった。

リハーサルを行ったのは7月の午前中だったが、カナダといっても、気温がすでに30℃ある暑い日だった。グールドは、分厚いオーバーコートを着て、マフラー、手袋、帽子といういつもの冬のいでたちで現れた。どこへでも持ち運んでいる折りたたみ椅子[4]、薬が入っているブリーフケースなども運んできた。

椅子は、父親が作ったもので、折りたたむことができ、4本の足を約4インチ(約10センチ)切り、その脚先を真鍮の金具でかこみ、ねじで固定し、そこに引き締めねじ(ターンバックル)の受け側を溶接した。その先にねじを取り付け、ねじを回すことで、足の長さを別個に微調整でき、傾きも変えることができた。椅子を開いた時の座面の高さは、床上35.6センチしかなかった。グールドの身長は180センチで、かれはいつもこの椅子にずり落ちそうな角度をつけて座ると、鍵盤と顔をくっつきそうになるほど近づけ、指先より手首が下にきて、ピアノにぶら下がっているように見え、姿勢の悪さで《オランウータン》だと言われることすらあった。

CD集アウトテイクから・・・・最初は椅子にもちろん座面があった。しかし、グールドはこの椅子を生涯どこでも使い続けこのように座面が無くなってしまった。

その日のグールドは、黄色っぽい顔をして、いかにも具合が悪そうに見えた。とくに午前中のはじめのうち、練習ができる状態でないのは明らかだった。

おまけに、季節に合わないちぐはぐな服装だけでなく、髪の毛も乱れ、どこか汚く見える服装で現れたのだった。

しかし、長身で細身のグールドの髪はゆるくウエーブした濃いブロンドで、ほとんど髭のないつるんとした中性的な肌、綺麗な眉、すっとした鼻梁、きりっとした口元は、ハンサムで美男子であることがすぐにわかる。どこか遠くを見るような目は、青年に達したばかりの若々しさと繊細さの陰に、どこかに確固とした意志を秘めていた。

ネルソヴァがグールドに訊ねた。

「あなた、大丈夫なの?」

「ぼくなら大丈夫ですよ。昨日の晩、徹夜でトルストイを読んでいたんです。古典の小説は、手あたり次第、何でも読みたいと思ってるんですよ。大丈夫です。具合はすぐに回復しますから。」

ちょっと時間を取った後、リハーサルを始めることになった。だがグールドは、演奏するときにピアノ譜を見ようとしなかった。

シュナイダーが驚いていった。

「きみは楽譜を見ないのかね」

「ええ、いつもそうです。ぼくは慣れていますから。楽譜はぜんぶ頭に入っていますよ。ヴァイオリンとチェロの楽譜もわかってます。みなさんは、お好きにしてください」

室内楽の演奏では、楽譜を譜面台において演奏するのが一般的だ。弦楽四重奏や、今回の三重奏などもそうだ。ただし、オーケストラと共演する協奏曲は、大曲ということ、ソリストが名人芸を披露する晴れの場と考えられているので、団員が楽譜を見ながら演奏しても、ソリストは暗譜で演奏するのが通例だ。過去には、名人芸を誇る器楽奏者が、すべて暗譜で演奏する時代もあったが、記憶が飛ぶ不安を頭の片隅に抱えて演奏するより、楽譜を前にして演奏した方が安心して、のびのびとした演奏ができると考えられている。

ただ、3人の奏者の足並みがそろわず、グールドが暗譜でピアノを演奏するのに、シュナイダーとネルソヴァがもし楽譜を前にして演奏すれば、弦楽器奏者のふたりが曲を十分に理解していないように観客に映るだろうという懸念はあった。だが、グールドにそういわれると、それ以上楽譜を譜面台におけとは言いにくいのだった。

「きみの意見はわかったよ。まあ、やってみようじゃないか」

実際に、3人で演奏を始めると、すぐにふたりは、グールドの演奏に驚嘆する。正確なリズムと明確なアーティキュレーション[5]、強弱のつけ方、音色や表情の変化のつけ方、どれをとってもすべてが出色のできで、すべてがコントロールされていた。

もちろん室内楽は、アンサンブルである。ひとりでやるのではない。3人でどのような演奏にするのか、同じ認識をもつことが何よりも大切だ。そのためには、それぞれの楽器が、自制心、駆け引き、慎み、一体感といったものを共有しなければならない。

グールドは、楽譜を読んで自分が演奏したい「幽霊」像を持っていた。それは、シュナイダーが描く像と正反対だった。

ベートーヴェンの「幽霊」に対するシュナイダーの考えは、緩急の幅や、重さと軽さの表現上の違いをしっかりと描き出し、チェロ、ヴァイオリン、ピアノの存在感をおのおのの楽器が十分に出し、小気味い良いユーモア感覚から悲痛な表現までを対比させることで、曲の推進力を生むというものだった。

とくにアレグロの第1楽章とプレストの第3楽章では、旋律の強弱を激しく交代させ、対立させることがこの曲をドラマチックにさせ、ラルゴの第2楽章は、「幽霊」らしく不気味な雰囲気を醸し出すべきだと考えていた。楽器の扱いは、アンサンブルとしての調和よりも、むしろ各楽器が激しく、それぞれが主張すべきだと考えていた。

しかし、グールドの解釈は全体的に見ると「幽霊」という標題にこだわらず、3つの楽器が一つになって穏やかで美しい曲にすべきだ、と主張し譲らなかった。

「ここのパッセージは、ダン、ディー、ディー、ダーという感じでやってみよう。」とシュナイダーは、ふたりに伝える。

「でも、あなたのアクセントは間違った場所におかれていますよ。」とグールドは抗議する。

「ぼくは、心で弾くんだ。頭じゃない!」とイラっとなり噛みつく。

「ぼくは、ベートーヴェンが書いたように演奏します。」

「ああ、わすれていたよ。偉大なグールドさんは、ベートーヴェンとすっかり昵懇だってことをね。」

グールドは、楽譜の分析をするためにリハーサルを止めている。シュナイダーは、その必要はないと言う。

「ぼくは、カザルス[6]と共演しているんだぞ!」と、当時のカリスマともいえる指揮者、作曲家でもあるチェリストの名前をだして、グールドを黙らせようとする。

「ぼくは、あなたが誰と共演していようと気にしません。ぼくは、ぼくのやりかたでやりたいんです。」

そのリハーサルでは、グールドはピアノのパートを弾くだけでなく、ヴァイオリン、チェロのパートをピアノで弾き、自分が望む演奏すべきスタイルをふたりに説明しはじめた。シュナイダーは、自分の演奏するヴァイオリンの旋律に、ピアノ奏者に注文をつけられたのは初めての経験だった。経験の浅い、まして他の器楽奏者から演奏を指図されるのは、最善の演奏は何かをもとめる自然な議論のはずだとしても、自尊心を傷つけられるようで不愉快が先んじた。ところが、グールドの説明は、明確で説得力のあるものだった。

残るネルソヴァは、年齢的にもキャリアの点でも、3人の中間的な立場にあり、従来の伝統的な解釈にこだわるシュナイダーに同調せざるを得なかった。しかし、カナダで一番成功している若者がもつ、まったくあたらしい解釈に驚くとともに、彼の音楽への姿勢にもおおきな魅力を感じていた。

「そんな風に極端にヴァイオリン、チェロ、ピアノがそれぞれ目立とうとするのは反対です。楽器を対立させるような演奏にすると、この楽章の構造自体がわからなくなりますよ。3つの楽器を調和させ、このように進行させるべきです。」

さらに、グールドは続けた。

「ここは、この楽章のハイライトに向けて徐々に盛り上がりが分かるように演奏すべきです。また、楽章の終わりは、音の大小に関係なくつねにクライマックスであり、同時に、次の楽章へ向かうことを暗示すべきです。そして、最終楽章のフィナーレへと演奏全体が向かうのです。」

「私は何度もこの曲を演奏しているんだ。この曲は、各楽器が存在感を発揮することで、その競争関係がダイナミズムを生むのだ。いったい、きみは、この曲を何回演奏したことがあるんだ?」

「3度です。」

「私は、この曲を25年間、何百回も演奏しているよ。」

「回数は問題じゃない。量より質です。ぼくは十分に楽譜を読んで考えてきましたから。」

最後は、シュナイダーがネルソヴァに意見を求めた。陰で「女のくせにチェロを弾く」と言われながら、ようやくこの世界で認められるようになってきたネルソヴァは、シュナイダーについた。

このため、グールドはシュナイダーの考えるこれまでどおりの演奏を余儀なくされる。弦楽器奏者と意見が合わなかったグールドだったが、実際に演奏するとグールドの演奏は見事だった。特に正確なリズムが光り、弦楽器をサポートするところでは、抑え目ながらしっかり存在感をだしてサポートし、自分が前に出るところでは、明確な表現でピアノを十分に歌わせた。常に、3人のバランスは非常に揃っていて、崩れることはなかった。

その夜、グールドはネルソヴァを脇へ呼び出し、声をかけた。

「ザーラ、あなたは去年、アメリカの市民権をとられたんですよね。ウィニペグ生まれのあなたでも、アメリカで成功することが大事だと思われたんでしょうね。まえから、カナダを卒業してアメリカへ行こうと思われていたんでしょう。ぼくが演奏活動をどうやっていくのがいいか、教えてもらえませんか。アメリカで成功するには、どうしたらいいでしょう?」

ネルソヴァは、カナダの若くてハンサムな人気ピアニストから真剣な相談をもちかけられ、少しうれしくなってこたえた。

「そうね。カナダ人は、アメリカン・ドリームを信じていないくせに、アメリカ人を羨んでしまうところがあるわよね。だからよく、『カナダでは自国の才能のある人を認めず、もし認めるとしても、時期を逸してからしぶしぶ認めるか、アメリカで成功してからやっと認める』っていうわよね。もちろん、カナダはとても良いところよ。だけど、いつまでもカナダにとどまって、アメリカを見ているだけでは駄目だわ。アメリカでデビューしないことにははじまらないわ。まずは、アラスカへ演奏旅行をしたら、どうかしら。わたしの親しい友人のピアニストで、そういう演奏旅行の企画が組めるのがいるわ。かれに連絡を取ってみるのはどう?」

グールドはこたえた。

「ありがとうございます。そうして教えてもらえると、とてもありがたいです。」

しかし、グールドには、その時すでに契約したマネージャーがいた。アメリカでのデビュー演奏旅行の計画は、グールド、両親たちと、マネージャーにとって、最大の懸案で、実のところ、かれがネルソヴァにそのようなことを相談する必要はまったくなかった。

フェスティヴァル本番の演奏では、シュナイダーは、舞台に上がる前にグールドに暗譜ではなく、楽譜をピアノの前に置いて演奏するように釘をさしていた。

しかし、グールドは楽譜を持って舞台へ登場したものの、楽譜を椅子の上に置き、その上にお尻をおいて演奏した。

そのかれの演奏スタイルは、目をつぶり、自身の恍惚としたエクスタシーの世界に没入しているとしかいいようがなかった。悪い姿勢で、鍵盤をまともに見ることは一度もなく、音楽に合わせて上体をくるくる旋回させながら、のけぞったかと思うと、鍵盤に鼻がつくかというほど近づけ、もし、片方の手だけで弾く時は、もう一方の手で指揮するように腕をふりまわし、唸り声ともハミングともつかない歌をうたいながら演奏するのだった。

観客の側からは、明かに音楽の深奥のなかに吸い込まれたグールドと、姿勢を正し、楽譜をまえに悪戦苦闘する弦楽奏者が対比しているとしか見えなかった。恍惚となっているグールドにカメラがクローズアップする時、シュナイダーは侮辱されていると感じる。しかし、その3人で行った演奏は、聴衆から大喝采を浴びた。

演奏の後、シュナイダーはネルソヴァに言った。

「実に立派な、グールドの演奏だったね。あの変人は将来、まちがいなく大物になるよ。あいつの才能は本物だね。」

つづく


[1] 「拍手禁止計画」 もっとも古い音楽雑誌《ミュージカル・アメリカ》に、1962年2月、グールドは、「拍手喝采おことわり!」という論考を掲載している。グールドは、もともとコンサート嫌いで、聴衆を「自分は安全なところにいながら、闘牛場の闘牛士を見るように、演奏家が失敗するのを待っている」敵だといい、身近な人が観客席にいることさえ苦痛を感じるタイプだった。この論考は、さまざまな角度から拍手喝采について検討しているのだが、同時にユーモアと韜晦に充ちていて、音楽監督を務めたストラトフォード音楽祭を「こじんまりした雰囲気が喝采ぬき演奏会にうってつけ」と書き、同年7月の音楽祭で「拍手禁止計画」を実行した。

[2] CBCテレビ(カナダ国営放送)「サマー・フェスティヴァル」《神秘の探訪 注:519頁》と《”The Genius who doesn’t want to play, Gladys Shenner,1956.4.28 Maclean’s Magazine”と《グレン・グールドの生涯 巻末放送番組一覧 35頁》

[3]女のくせにチェロを弾く 《チャイコフスキー・コンクール 中村紘子》171頁

[4]折りたたみ椅子 《グールドの生涯》91頁、《グールド変奏曲》の訳者あとがきのバートのインタビュー

[5] アーティキュレーション(articulation) 音楽の演奏技法において、音の形を整え、音と音のつながりに様々な強弱や表情をつけることで旋律などを区分すること。

フレーズより短い単位で使われることが多い。強弱法、スラー、スタッカート、レガートなどの記号やそれによる表現のことを指すこともある。アーティキュレーションの付けかたによって音のつながりに異なる意味を与え、異なる表現をすることができる。(Wikipedia)

[6] カザルス パブロ・カザルス(1976-1973) スペイン生まれのチェロ奏者、指揮者、作曲家。チェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において20世紀最大のチェリストとされる。有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていたヨハン・ゼバスティアン・バッハ作『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、広く紹介したことが挙げられる。(Wikipedia)