小説グレン・グールド「はじめに」をリライトしました

はじめに

クラシック音楽の世界に、グレン・グールドという多くの音楽評論家が《異端》で《エキセントリック(変人)》というピアニストがいた。ときに作曲家が書いた楽譜に手をくわえ、しばしば書かれた音楽記号を無視した演奏をして、身なりも振る舞いも非常に変わっていた。

彼は、カナダ、トロントに生まれたピアニストで1932年に生まれ、1982年に没した。生まれて92年、亡くなってから42年が過ぎた。

1932年といえば、第二次大戦へ向かう世界恐慌のさなかで、職を失い食事にもありつけない人々が世界中に溢れた時期だった。だがカナダは戦争の影響はすくなく、彼の家は裕福だったので影響はほとんどうけなかった。第二次大戦が終わった1945年から、彼が死んだ1982年までといえば、世界中が民主主義を謳い、自由と平等へと全速力で走り、人類が一番幸せな時期だった。もちろん資本主義と共産主義のふたつの陣営が対立し、人種差別もはげしかった。いっぽうでプレスリーやビートルズがでてきてそれまでのかたくるしい既成概念を破壊し、人々の生活はまえより格段に向上し、人々は希望をいだいていた。若者が社会をリードした”Love and Peace”の時代だった。

グールドには、べつに進行するものごとを同時並行的に把握するという、一般の人にはない特殊な才能があった。グールド研究家のケヴィン・バザーナは、「グレン・グールド神秘の探訪」[1]で、こう書いている。

「グールドの脳は日常生活においても対位法的[2]な調子で動いていた。レストランやその他の場所で、グールドは他の客たちのそれぞれの会話を同時に盗み聞きするのが好きだった。また、原稿を書き、そして音楽を聞きながら、電話で話をすることがあったが、その3つの行為を同時に完璧にこなすことができるのだった。」

彼の不倫相手だった画家のコーネリアは、映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」[3]のなかで、グールドがテレビドラマを見ながら楽譜を覚えていたエピソードを語っている。

「テレビドラマも子どもたちと楽しんだ。テレビを見ているときも、グレンは、楽譜を広げていた。観ながら覚えてしまうの。一緒にドラマを観たあと腑に落ちない点をグレンに尋ねたものよ。ドラマの展開のことをね。グレンは、テレビの内容もすっかり頭に入っていて答えてくれた。そのあいだに楽譜もすっかり覚えていた。とても驚いたわ。」

グールド自身も、一番楽譜をよく勉強できるのは、テレビをつけ、ラジオでニュースを流しているときだと言い、3つを同時に理解していた。

グールドは、ピアノを弾くとき、弦楽四重奏を奏でる4人を頭の中にイメージしていた。ソプラノである第1ヴァイオリン、アルトの第2ヴァイオリン、テノールのヴィオラ、バスのチェロ奏者が、頭の中で演奏していると思いながら指を動かしていた。

このような彼の演奏には、いくつかの特徴があった。

多くのピアニストは、バッハがポリフォニー[4]で書いた曲を演奏しても、高音のメロディーとバスの音だけがずっと鳴っていることがある。というのは、現代の音楽は、基本的にメロディーと伴奏の和声のからなるホモフォニー[5]といわれる。このホモフォニーで書かれた音楽をまず身につけようとピアノを学習し、過去の音楽様式ともいえるポリフォニーは学習機会がすくない。

いっぽうバッハの音楽は、ポリフォニーからホモフォニーへの過渡期にあった。ポリフォニーとは、複数の旋律がどうじに進行する。グールドは、高音と低音の中間にある《内声》にもスポットライトをあて、その旋律も浮かび上がらせた。まるでふたりで連弾しているかのように弾き、高音、内声、低音どれも交代させながら主役の座につけた。たとえば、ソプラノのメロディーからアルトのメロディーへと、テノールからソプラノへと、また、他のピアニストとくらべると、足でバスのメロディーを弾くオルガンを習っていた経験をしていたので、バスの旋律をピアノでも強調し、旋律が喧嘩しないよう調和をとりながら、自分の考える強調したい声部が応答するように弾いた。

また、彼の演奏の基本は、音を短く区切るノンレガート(スタッカート)にあった。ピアノ学習者は、ピアノはレガートに弾く楽器だと教わる。「音はポツポツ切って鳴らしてはダメです、音符のつながりを意識して、なめらかに音をつなぎなさい」と教わる。しかし、レガートだけの演奏では、表現のバリエーションがかぎられる。変化をだすためには、小さい音で弾くか大きい音で弾くか、速く弾くか遅く弾くかしかない。もし聴くものを圧倒して感動させたかったら、大音量で弾くか、高速度で弾くという方法しかない。

彼はレガートを《緊張》であり、ノンレガートを《弛緩》であり《透明感》だと考えた。楽譜どおりに鳴らされるノンレガートの音は、音が実際に繋がっていなくとも、繋がっているように聴こえる。レガートは、ここぞという美しく緊張感のある場面に取っておいた。[6]

彼が、聴くものを圧倒するには音量も速度も必要なかった。静かに遅く弾いても圧倒できた。それは、圧倒的に正確で、どんなに、速く弾いてもおそく弾いても崩れない自由自在のリズム感があるからだった。

こうして彼は、10本しかない指でソプラノ、アルト、テノール、バスのメロディーを同時に弾き分けながら、しかもレガートとノンレガートを使い分け、引き立たせたいメロディーを変えていた。

この彼のテクニックが良くあらわれている演奏に、もっとも高い評価をしたJ.S.バッハが18世紀半ばに作曲した「フーガの技法」という曲がある。グールドは、18世紀に作曲された曲の中で、ふつう、最高の曲はその世紀にいちばん流行ったスタイルで書かれた曲のなかにあるが、この曲は当時の流行に背をむけていたと評していた。バッハが、流行が、メロディーと伴奏の和声を重視するホモフォニーへと移りつつあるなか、流行に背を向けて人気が廃れたポリフォニーの終着点であるフーガにこだわっていたといっていた。

しかし、彼はピアノで正規録音をだすことは、最晩年までひどく怖がっていた。なぜなら、この曲を録音するのが恐ろしかったから[7]である。

まだグールドがまだツアーをしていた1962年、オルガンで「フーガの技法」の前半部分だけを愉悦にあふれ軽快で、やはりノンレガートで弾いた正規録音を残した。やはり、新しい解釈の素晴らしい演奏だったが、批評家はこの演奏をオルガンらしくないといって酷評した。ところが、グールドは、コンサート・ツアーではピアノを使い、オルガンとは180度ちがった演奏をしてみせ、シュヴァイツァーがいう「『静寂で厳粛な世界、荒涼とした色も光も動きもない世界』を描いていた[8]

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この曲の弾き方にグールドの技術がよく現れている。テーマである第1曲の4声のフーガは、アルトで始まり、5小節目からソプラノ、9小節目からバスが入ってくる。どんなピアニストでも、曲の冒頭部分では、自分の技量をじゅうぶんわかってもらい、観客のこころを掴みたい。そのために最善をつくして弾きたいと思うので、ほとんどのピアニストがアルトの4小節を左手で弾きはじめ、ソプラノの4小節を右手で弾きはじめる。ところが、グールドは、8小節のアルトとソプラノの両方を右手で弾き、空いた左手は右手の指揮をし、9小節目になってやっと両手で弾きはじめた。

「フーガの技法」の第1曲(対位法1番)グールドは、8小節まで右手だけで弾いた。

また、多くのピアニストは音を長く延ばすためには、指で鍵盤を抑え続けるより、すぐにペダルを踏む。それが簡単だからだ。グールドはペダルをほとんど使わず指を持ち替えながら弾く。このため音が混じらず、クリアで非常に美しい。

そうした違いに加え、最大の違いは、楽譜に手を加えることをためらわないことだ。彼の演奏は楽譜に書かれた音高と音長は変えないとしても、それ以外は楽譜に囚われない。どうしたらその曲の最善を引きだせるかを、自分の頭で考える。クラシック音楽界の伝統は、作曲家の意図をできる限り忠実に再現することを最重要視する。ところが、ベストな演奏にするために再作曲をする。そんな彼の演奏は、例えばベートーヴェンの『月光ソナタ』や、美しいアルペジオで始まるバッハの『平均律クラヴィーア集第1巻第1番前奏曲』といった誰もが知っているような有名な曲であるほど、誰もやらない奇抜な演奏をした。これはあまりに挑発的で、評論家や音楽界の重鎮だけでなく、リスナーの度肝も抜いた。これをもっとも徹底的にやったのが、「死ぬのが早すぎたのではなく、遅すぎた」と彼がいうモーツァルトのピアノ・ソナタの演奏だった。彼は、モーツァルトが書いた美しいピアノ・ソナタ全曲に、新しい旋律の声部を書き足し、「曲が良くなったかはともかく、ビタミン剤を注入した」と言ってはばからなかった。そうした彼の強い主張は、もちろん音楽界の重鎮や音楽評論家たちとのあいだに衝突をひき起こしたが、一切の妥協をしようとしなかった。


彼は、椅子の脚を15センチほど切り、ピアノの3本の脚を3センチほどの高さの木製のブロックの上に乗せて演奏した。手首を平らにして指で鍵盤を引っ張るように弾くので、力が抜けた自然で美しくはっきりとした音を出した。爆発するような大音量は出せず、何千人もはいるようなコンサートホールの隅々まで届かないかもしれないが、粒が揃った美しい音色を出した。コンピューターのような明晰なリズムはビート感があり、情感たっぷりで落ち着いた現代的な旋律が、聴く者を魅了した。

鍵盤をうえから体重をかけて叩くのではなく、低い位置でピアノを弾き、すべての音をコントロールしようとしたのには、かるく反応のよい鍵盤のピアノに執着したことも大いに関係がある。グールドの最大の理解者で友人のP.L.ロバーツは、「グレン・グールド発言集」で、グールドから「息を吹きかけてもキーが下がらないピアノは弾きたくないね」[9]というのを聞いている。グールドは、それほど反応の速い、軽いタッチのピアノを求めていた。

もうひとつの演奏の特徴に、《エクスタシー》があった。彼が演奏をはじめると、すぐさま、彼は現世の浮世から離れて、恍惚とした音楽の世界へ行ってしまうように見えた。これをやはり、コーネリアが映画の特典映像「コーネリア・フォスが語るグールドの哲学」で語っている[10]

「自分に酔うことと、自我を超越することは矛盾しない。それどころか相乗効果がある。自分に陶酔すればするほど、自我を超越したいと思うものよ。当然のことね。演奏中のグールドは、超越していた。個人としての欲求や恐れなど世俗的な感情を忘れ去ってしまうの。自分自身を森羅万象と融合させることができた。自分を取り巻く宇宙と一体化して人間としての存在を深めていくことができるの。ヴァイオリニストやチェリストでも同じ。偉大な演奏家ならではの神秘的な境地ね。演奏技術の問題でなく大きな何かが働くの。」

この話には、ふたりのユーモアを示すオチがある。

「ある日、グレンが帰ってくるなり息せき切って話し始めた。『大変だよ。』『なんなの?』と尋ねたわ。『グレン・グールドの精神』という講座がトロント大学で開かれていると言うの。彼は身をよじって笑っていた。おかしくてたまらなかったのね。『聴講しなきゃならないよ。うまく変装して行こう。最後列に座ればいい。勉強になるぞ。』言うまでもなく、2人とも行かなかったわ。だから『グレンの精神』はわからない。」

母親の不安症が原因で、彼は子供のころから薬物に依存していた。向精神薬を飲みすぎて精神に不調を来すまでになったのは自分を守るためだった。その依存症は、年月を経るほどに激しくなり、やがて、幻影や被害妄想に()りつかれるまでになった。音楽に追い詰められ、音楽だけが彼を救うことができる唯一だったのは皮肉だった。

彼は芸術家としての責任をいつも感じていた。見せたい自分を生涯にわたって演じ続け、音楽にすべてをささげていた。音楽で結婚しなかったし、薬物依存になったのもこの強迫観念が原因だった。

彼がデビューしたとき、すばらしくハンサムなジェームズ・ディーン[11]の再来だと音楽誌だけでなく一般誌まで騒いだ。一方で彼は、映画王、航空王で潔癖症だった世界一の大富豪ハワード・ヒューズのように生きたいと公言して、ずっと世間の目を隠してきた。それが原因で、ゲイとかホモとか、ノンセクシャルと言われるのを知っていたが否定しなかった。だが、近年、ゲイどころかプライベートな生活では、実に多くのロマンスがあったことが女性たちへのインタビューでようやく分かった。数々のロマンスが世間に知られなかったのは、グールドが、女性たちをそれぞれ孤立させ口止めをしていたことと、私生活を詮索するような人物がいると、交友をすぐに断ったから周囲の人たちはグールドの私生活を詮索しなかったからだった。そして彼女たちは、グールドに忠誠を誓い、守ろうとしたからだった。

この多くの女性関係を明らかにしたのは、映画「グレン・グールド《天才ピアニストの愛と孤独》[12]」の原作本である「グレン・グールド・シークレットライフ《恋の天才》[13]」を書いたマイケル・クラークソンだった。彼の女性関係は、この原作に基づいている。

グールドは全般に率直な人だったが、本質的な性格は分かりにくい。私生活を隠していたからということもあるが、非常に感受性が強く、才能は一般の人とは比べものにならないほど大きかった。話すことも書くことも核心をついていながら、言い回しは遠回しだった。しかも彼自身ずっと様々なことに格闘していた。親の世代から譲り渡された宗教観や道徳観との葛藤もあったし、自分を真の芸術家だと考えて、芸術家はこうあるべきだという思いも強かった。

グールドに関する伝記や評論は非常に多数ありながら、人物像の核心部分を知るのは難しい。しかし、これまでに書かれた多くの著作を辿ることで、彼の本性に極力近づきたいと思っている。

なぜなら、ひとりでも多くグールドの演奏を聴いて欲しいからである。

おしまい


[1] 「グレン・グールド神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ サダコ・グエン訳 白水社) 第5章「アーティストのポートレート」 P423

[2] 対位法 複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ、互いによく調和させて重ね合わせる技法

[3] 映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」特典映像にでてくる

[4] ポリフォニー・ ポリフォニーは複数の独立した声部(パート)からなる音楽のこと。ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味する。

[5] ホモフォニー バッハ後盛んになったホモフォニーには、最大の特徴は主旋律と伴奏という概念がある。

[6] グールドは、レガートとノンレガートの奏法について「グールド発言集」、「異才ピアニストの挑発的な洞察」P279で、「私がレガートの旋律よりもスタッカートの旋律が好きなのは、・・・孤立したレガートの瞬間を非常に強烈な体験にしたいからです。実は私は潔癖なものにあこがれる人間でして、デタシェを基本としたタッチを支配的に用いるときに得られるテクスチュアの透明感が大好きなのです。ところが、さらに、デタシェの響き方を支配的に用いるとき、ほぼすべての音が、次の音からの分離をかなえる独自の空間を備えるようになったところでレガートの要素を導入します。するとたいへん感動的なものが生まれます。それはある種の情緒的な流れですが、もし、ピアノはレガートの楽器であり、音はなめらかなほどよいのだ、という通常の仮定をしていたら、音楽に現れようのないものなのです。」と書かれている。

[7] 怖がっていた 「グレン・グールド神秘の探訪」(ケヴィン・バザーナ)で「最後の清教徒」P475に次のように書かれている。《ブリュノ・モンサンジョンが作った「グレン・グールド・プレイズ・バッハ」で、この番組は未完に終わった最後のコントラプンクトゥス(対位法)を弾いて幕を閉じるのだが、グールドはこの作品を「人間がこれまで構想したなかで最も素晴らしい曲」と呼んだ。実はグールドはそれまでこの曲を演奏したことがなく、怖気づいていた。「これまで取り組んだなかで、一番難しいことだ」と述べている。グールドはこの曲についてまったく異なる4通りの解釈を検討したあと、結局は哀調を帯びた、非常に内省的な演奏を選んだ。・・・》

[8] ピアノによる「フーガの技法」の演奏は、モンサンジョンと作った「GGプレイズバッハ」の中でこう語っていた。《「あの未完のフーガは確かに情にも訴える。何しろバッハの絶筆だし[・・・]しかし本当の魅力は平穏さと敬虔さ。本人も圧倒されたはず。このフーガに限らず曲集全体に言えるのは、バッハが当時の音楽の流行全てに背を向けていたことだ。彼の晩年、フーガは流行らなくなっていた。[・・・]フーガでなくメヌエットの時代なのにバッハはきわめて意識的に自分の和声のスタイル変え[・・・]別の地平に達していた。バッハは100年以上さかのぼり、対位法や調性の処理法を借用した。バロック初期の北ドイツやフランドルの作曲家のもので、調性を使いながら鮮やかな色彩を避け、代わりに薄い色合いが無限に続く。私は灰色が好きだ。シュヴァイツァーがいいことを言っている。『静寂で厳粛な世界、荒涼とした色も光も動きもない世界』と」未完のフーガの最後の音を弾いた瞬間、グールドは感電したように左手をさっと持ち上げる。映像は静止し、腕は宙で凍りつく - 「あらゆる音楽の中でこれほど美しい音楽はない。」この未完のフーガを弾くグールドの姿を見た者は、この瞬間の映像を決して忘れることができない。(訳:宮澤淳一)》

[9]「グレン・グールド発言集」(P.L.ロバーツ 宮澤淳一訳 みすず書房)中、「はじめに」で、P5に「息を吹きかけてもキーが下がらないピアノは弾きたくないね」と書かれている。

[10] 映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」特典映像「コーネリア・フォスが語るグールドの哲学」

[11] ジェームズ・ディーン:(James Dean、1931年- 1955年)は、アメリカの俳優。孤独と苦悩に満ちた生い立ちを、迫真の演技で表現し名声を得たが、デビュー半年後に自動車事故によって24歳の若さでこの世を去った伝説的俳優である。

[12] 映画「グレン・グールド天才ピアニストの愛と孤独」監督:ミシェル・オゼ、ピーター・レイモント 角川書店、2012年発売

[13] 《The Secret Life of Glenn Gould: A Genius in Love》 Michael Clarkson ECW press

第16章 グールドが安部公房「砂の女」に傾倒する

1963年9月、ルーカス・フォスが、バッファロー交響楽団の常任指揮者になった。バッファローは、アメリカとカナダの国境にあり、車でトロントからわずか90分しか離れていない。

グールドは、現代音楽の作曲家、指揮者としてルーカス・フォスを尊敬していたので、バッファローに来るまえから親交があり、妻のコーネリアとも親しかった。グールドとコーネリアは、フォス一家がバッファローへ移ってきたことを契機に、より親密になった。グールドがルーカスに電話をし、ルーカスが不在のときには、コーネリアがかわりに話をするようになった。いつしか、グールドはコーネリアに電話をするようになり、二人はもっと親密な間柄になった。

Lukas Foss(Wikipediaから)

グールドとコーネリアの不倫関係はゆっくりとすすんだ。「不幸にしてわたしは結婚したことがない。そしてありがたいことに、いまだに独身である。[1]」というブラームスの意味深長な言葉がある。果たして結婚することが幸福なのか、独身でいることが幸福なのか。その答えはさまざまだろう。

だた、私生活と仕事の両立は、だれにも困難をともなう。とくに芸術家にとっては、究極的な問題になることが多いだろう。誰しも、家庭を基盤とする安定や心のささえが必要だが、それを芸術と両立させるには困難がある。なによりグールドは、孤独なしに独創性は生まれない、孤独がない創作活動はありえないと考えていたからだ。だが、一方で、一人では生きていけないとも感じていた。

グールドは、コンサートの会場で演奏することから1964年に完全にドロップ・アウトした。4月10日にロサンゼルスでバッハ、ベートーヴェンといつもコンサートで弾いている彼が最も好きなヒンデミットのピアノソナタ第3番を[2]を演奏したのが最後だった。

コンサートから引退するといい続けてきたグールドだったが、実際にこの日が最後の演奏会だという表明はしなかった。グールドは黙ってコンサートから姿を消した。

コンサートから引退する直前の彼の1回の出演料は、3,500ドル(2023年価値で、79,285ドル≒1千1百万円)以上、年収は、10万ドル (2023年価値で、2,265,311ドル≒3億17百万円)以上だったといわれる。彼は、人気絶頂のときにコンサート出演をやめた。

グールドがコンサートをやめると何年もまえに言ったとき、マネージャーのホンバーガーだけではなく誰もが、観客の前で演奏しない音楽家は過去にいない、そんなことをすればすぐに観客に忘れられるぞと忠告するのだった。しかし、彼の決心は強かった。マネージャーのホンバーガーもみとめるしかなく、秘書のヴァーナ・サンダーコックは、新しい演奏会のスケジュールをずっとまえから入れていなかった。

ツアーを巡っているあいだ彼は忙しく、自分の時間をもてず疲れ果てていた。各地を回るツアーでは、自分にあわないピアノで弾かされ、慣れないベッドや不満足な空調の部屋で眠らされた。コンサートは、同じ曲を毎回くりかえすだけで何の発見も進歩もなかった。音楽で自分のやりたい、あたらしいことが何ひとつできないと思っていた。しかし、彼を求める周囲の動きはあまりにつよかった。

そんなとき、1964年9月、安部公房原作、勅使川原宏監督の映画「砂の女」が、英語字幕付きでニューヨーク映画祭で公開された。

グールドは、20代後半から官能的で男女のきわどい性描写がでてくる映画をこのんで、少年のような驚きの目でみていたから、この映画につよく魅了された。彼は、この映画の中に、人生の意義に対するヒントのようなものが隠されていることを直感した。彼は長い時間をかけ、なんと100回以上繰り返して見、原作の「砂の女」を読み、作者が問いかけているすべての意味を理解しようとした。

映画「砂の女」

日常生活にたいした希望や夢ももっていない教師[3]が、砂地に生息する新種の昆虫を発見し、その虫に自分の名前を付けてもらえるかもしれないという唯一でかすかな望みをいだいている。彼は、3日間の休暇をとって昆虫採集をするために砂丘へやってくる。砂丘で夕方になるまで昆虫採集に夢中になり、国道へ戻ってその日の宿を探そうとする。そこへ村人がやってきて、部落の宿を紹介するという。その宿は、砂丘を20メートルほど掘った砂の中にあり、縄梯子で降りなければならなかった。

村人から「お(ばあ)」、「おかあちゃん」と呼びかけられているその宿の女主人は、30歳前後の女だった。その宿は砂の底にある木造の隙間だらけの建物だが、砂に浸食されたらしく古びて今にも崩れ落ちそうな建物だった。その建物へ、穴の周りの砂が絶えず崩れ落ちてくる。また風に飛ばされた砂が、雨のようにふりながら落ちてくる。食事をするときには、降ってくる砂を避けるために、頭上に番傘をさしてその下で食べなければならない。風呂もない。女主人は、その建物が壊れないようにするため、毎晩重労働の「サルでもできる砂()き」をしていた。その砂掻きは、穴の底にある家の周りの砂を空の石油缶に集め、その砂を入った石油缶を穴の上で待つ村人たちがモッコで引き上げるという一晩中をかけて行われる重労働だった。

モッコ

翌朝、男が起きると、女は素っ裸で顔だけを隠してまるで銀色の彫像のように寝ていた。男が、その宿を出て帰ろうとすると縄梯子が取り外されてなくなっている。村人と女のたくらみによって、男は穴の底に囚われてしまった。

男は最初のうち、砂の穴から脱出しようと、あらゆる努力をする。まず、女を縛って自由を奪い、村人に女を助けたかったら自分をモッコで引き上げるように要求する。村人たちは、まるで男の要求を受け入れたかのようにモッコを数メートルまで引き上げるのだが、村人たちは途中で手を離してしまう。男は空中から地面にたたき落とされる。

男はつぎに、脱出のため村人たちを困らせるために持久戦にもちこもうとする。そうすると、穴の底へ配給されていた水が供給されなくなる。村人は、二人が労働をしないと、罰として水を与えない。穴の上から放り込まれた週に1度配給される煙草と焼酎を飲みながら、苛立った男は、家の木の壁を壊して梯子の材料にしようとする。制止する女と男がもみ合いになったことをきっかけに、やがて動きを止めた二人は、がつがつした情欲で交わる。

男は、村人が水を止めたことに屈服し、女と砂掻きをはじめると水の供給が再開される。

やはり男は、女に「サルでもできる砂掻き」をなじる。

この場面で原作にはない映画だけにある、わかりやすい女の台詞がでてくる。

(決然として女は言う。)「だって砂がなかったら、誰もわたしのことなんかかまっちゃくれないんだから。そうでしょ、お客さん。」

それでも穴からの脱出をしようと、男はひそかに縄をこしらえていた。女が眠っている隙に脱出するために、男は風邪をひいたと偽り、女だけに砂掻きを一晩させて疲れさせた翌日、行水用の水で体を女に洗わせる。それを契機に男は倒錯したはげしい情熱で女と交わる。そして男は、嫌がる女に無理やりアスピリン3錠と湯呑いっぱいの焼酎を飲ませる。女はたちまち前後不覚に熟睡する。

男は、家の屋根に上がり、用意していた縄を何度か投げると、縄はモッコを引き上げるための支柱に絡む。村人たちがモッコの砂を引き上げにくる時間の少し前に、男は囚われてから46日目の脱出に成功する。しかし、方向感覚をなくしていた男は、そこら中を走り回り、犬や子供に見つかりながら、村人も犬も近づかない「塩あんこ」と呼ばれる沼地のように人が飲み込まれる場所で下半身が埋まって身動きがとれなくなる。男は再び囚われ、モッコにぶら下げられて穴の底へ戻される。

男は穴の生活に順応し始め、夜には女と砂掻きを行うようになる。その一方で、《希望》という名のカラスを捕まえるワナを作り、捕まえたカラスの足に救助を要請する手紙をむすんで放そうとする。

とじこめられていた男は、むしょうに外の世界を見たくなる。村人に、逃げないから1日に30分でいいから、外の世界を見せてくれとたのむ。思案した村人の老人は、「みんな見物してる前でだな、・・・あれをやって見せてくれりゃ、・・・あれだよ、雄と雌が、つがいになって・・・」と条件をだした。男は戸惑うもののたいしたことではないと思い、女を襲おうとする。穴の上で群がって二人を好奇の目で見、口笛を吹き、手を打ち合わせる音と卑猥な呻き声をだす村人たち。村人が照らす懐中電灯が揺れながら、二人に焦点をあわせるように追いかける。村人たちは、覆面をかぶったり、ゴーグルをしているので誰が誰だかわからない。和太鼓が激しくならされる映画の音楽は、最高潮に達する。男は必死に女をおさえつけようとするが、女は「あんた、気が変になっちゃったんじゃないの?・・・色気違いじゃあるまいし!」と逃げ回る。男は女に「真似事でいいんだから」と哀願するのだが、女は、肩の先で男の下腹を突き上げ、拳を顔に交互にめり込ませ、男は鼻から血を流しうちのめされる。穴の上にいた村人たちの興奮も急速にしぼみ、唐突にはじまった興奮は唐突に終わった。

代わりばえのしない何週間が過ぎた後、男はカラスを捕まえるワナ《希望》の底に水が溜まっているのを発見する。そのワナは、おとりの餌の下の砂の中に埋められた樽をおき、底に毛細管現象で水が溜まっていた。男はこの発見に興奮しながら、水の心配がなくなったと大喜びをする。男はたまる水の量、気温や天候の関係を記録し始める。

男と女は、せっせと砂掻きに精をだし、男は女の内職にも協力する。女が望んでいたラジオが、男にとっても天気予報の概況を知りたい二人の共通目標になる。

やがて、冬が過ぎ3月の春が来た頃、女は突然、腹痛を訴える。村人のなかに、獣医のもとで蹄鉄を打っていた男が子宮外妊娠だろうといい、女は布団ごと穴から連れだされる。

女が連れ出された後には、縄梯子が残されていた。待ちに待った縄梯子である。男は、縄梯子を登って、半年ぶりに外界へ出る。しかし、男は逃げ出さなかった。べつに慌てて逃げ出したりする必要はないのだと思う。べつに自分は、自由を奪われているわけでもないと思うようになっていた。逃げる手立ては、またその翌日にでも考えればよいと思っていた。

映画の最後に、失踪宣告が7年後に裁判所から下されたことが映し出される。

グールドは、この不条理な話の中に、人間の本質が描かれていると思った。

《自由》には、好きに動き回る自由と精神の中で感じられる自由の2種類がある。この主人公の男は、都会での生活を奪われ、妻や同僚とも会えなくなり、最初のうちは、「サルでもできる砂掻き」を拒否し、この生活から脱出しようとする。しかし、やがてその生活に順応する。順応するだけでなく、不満をおぼえず満足しはじめる。

いったい《自由》とは、何なのだ。だれもが思うままに生きたいと願い、そのように動き回れることが一番たいせつなことだと思っている。しかし、都会での生活のすべてをとりあげられた《男》が穴の中に囚われたとき、やがて《男》は、《自由》は失っていない、ここを出ていきたくなったら明日にも出ていける、それは自分の決心しだいだと思い、《砂の女》と今後の生活で生まれてくるかもしれない《子供》と、ずっと《サルでもできる砂掻き》をしていく()切り(ぎり)をつけたと(ほの)めかされている。

つまり、《自由》は、人間の心の中にあるものであり、見栄や虚勢、自己欺瞞のためにする争いや戦争してまで守るほど重要なものではない。人間の本質は、実はそんなところにはないのだろうとグールドは思った。

グールドは同時に、この映画のバックにながれる音楽にもつよい関心をもった。音楽を担当しているのは、日本の現代音楽を代表する武満徹だった。全編を流れる調性のない12音技法を使った不協和な弦楽器の音を細く、ときにふとく、上行させたり下降させたりしながら、緊迫した場面でときに強音を鳴らし、全編をとおして不安感を効果的に煽り、衝撃をあたえていた。ハイライトとでもいうべき、顔を隠した村人たちが、穴のうえに集まり好奇の目の衆人環境のなか、男が女を襲うシーンでは、和太鼓が神楽のようにはげしく打ち鳴らされる。

「砂の女」は、安部公房が書いた不条理文学ともシュールレアリスムともいわれる。これを勅使河原宏監督が、映画にするときに、安部公房自身が脚本を書いた。主演をしたのは、日本で一番人気のあった岡田英次と、三島由紀夫の戯曲で活躍をはじめた岸田今日子だった。岡田英次は日本でもっとも人気のある俳優であり、フランス映画「24時間の情事」にも出演し国際的にも名が知られていた。

この映画は、アカデミー賞外国語映画部門にノミネートされただけではなく、カンヌ映画祭審査員特別賞、サンフランシスコ映画祭外国映画部門銀賞を受賞した。

グールドは同時に、この映画をみながら、この映画には《自由》がもつ意味だけでなく、人間の《性》への作者のメッセージも隠れていると確信した。彼は、すぐにこの原作を読みたいと思った。

原作「砂の女」

1962年6月に刊行された阿部公房の「砂の女」は、翌年、読売文学賞を受賞した。映画は1964年4月に日本公開され、9月に英字字幕付きでニューヨークで公開された。英訳された《砂の女》[4]もほぼ同時に発刊された。

この小説は、《罰がなければ、逃げる楽しみもない》という裏表紙に書かれた《箴言》のような一文で始まる。

 ―― 罰がなければ、逃げる楽しみもない ―― 

人は罰せられなければ、自由を奪われ奴隷状態に置かれても逃げださないと作者は冒頭で暗示する。

この不条理で理屈のとおらない物語には、妙に現実感のある村人たち、男と女が発する会話のリアルさと、砂の穴に閉じ込められるという荒唐無稽な状況の奇妙さが同居し、映画では時間の制約により描いかれていないような細いプロットが多く書かれている。

まず、この小説の冒頭で、ある《男》が行方不明になったのだが、捜索願も新聞広告も無駄になった。何もわからぬまま7年が経ち、法律にもとづき、失踪宣告がなされ死亡が認定され帰ってこなかったと種明かしされている。

主人公の《男》は既婚者で中学校の教師[5]である。『情熱を理想化しすぎたあげくに凍りつかせてしまった』という結婚をして2年4ヶ月が経つ妻の《あいつ》とは別居中[6]である。もう一人、《男》が一応の信頼をよせる同僚の《メビウスの輪》[7]が登場する。

穴にとじ込められた《男》が、はじめて《砂の女》と交わるとき、別居中の妻《あいつ》が対比されるように出てくる。このとき、《男》の葛藤が長く語られる。

穴からの脱出に失敗した《男》が焼酎をあおり、逃亡するための梯子の材料にしようと家の壁をスコップで壊しはじめる。それをとりあげようと《砂の女》が《男》にむしゃぶりついて二人は絡み合い、突然、叫んだ《砂の女》は力をぬいた。《男》が《砂の女》を押さえつけると、むきだしになった乳房に手がすべった。スコップの取り合いあいが男女のカラミになっていた。突然、《砂の女》は言う。

「でも、都会の女の人は、みんなきれいなんでしょう?」

《男》は、勃起しはじめていたが、「都会の女?」という言葉に白け、腫れあがったペニスの熱がさめていった。

「どうやら、ほとんどの女が、股一つひらくにしても、メロドラマの額縁の中でなければ、自分の値段を相手に認めさせられないと、思い込んでいるらしい。しかし、そのいじらしいほど無邪気な錯覚こそ、実は女たちを、一方的な精神的強姦の被害者にしたてる原因になっている。」

《男》は過去に淋病にかかったことがあり、いつまでも全快したという確信がない。医者はノイローゼだというが、《あいつ》とのときは、かならずコンドームを使うようにしている。

コンドームを使うことを《あいつ》は、「私たちの関係は、お気に召さなかったらいつでも返品できる商品見本を交換しているような」もので、「たまには、押し売りしてやろうくらいの気持ちになってはいいんじゃない。」となじる。《男》が、「いやだね。押し売りなんて・・・」「そういうなら、合意の上で、素手にしようじゃないか」と返すと、《あいつ》は、「じゃあ、あなたは一生、帽子を脱がないつもり?あなたは、精神の性病患者なんだな・・・」と口論になる。

《男》は、性病がメロドラマとは対極にある真実だという。メロドラマはこの世に存在しないことの絶望的な証拠の品である、「おまえは、鏡の向こうの、自分を主役にした、おまえだけの物語に閉じこもる。・・・おれだけが、鏡のこちらで、精神の性病を患い、おれの指は、帽子なしでは萎えて役に立たない・・・おまえの鏡が、おれを不能にしてしまうのだ・・・女の無邪気さが、男を女の敵に変えるのだ。」と思う。

「都会の女の人は、みんなきれいなんでしょう?」と《砂の女》に言われた《男》はいまいましく感じたものの、奇妙な情感、コンドームなしでも彼の指は立派に脈うち、いきみかえった名残の火照りが残っていた。だが、《男》は、精神的強姦は生こんにゃくを塩をつけずに食うようなもの味気ないものであり、相手を傷つけるより前に、自分を侮辱するものだと気乗りがしない。

《メビウスの輪》は女を口説くときに、性欲には2種類あるという味覚と栄養の話をする。飢えきった者にとっては、食物一般があるだけで、神戸牛とか、広島の牡蠣の味だとかいうものはまだ存在していない。満腹が保証されてから、個々の味覚も意味を持ってくる。性欲も同様だ。時と場合に応じて、ビタミン剤が必要になったり、うなぎ丼が必要になる。《メビウスの輪》の理論に従って、口説かれた女はいないが、精神的強姦が嫌なばかりに、《メビウスの輪》は、せっせと空き家の呼び鈴を押している。《男》も、純粋な性関係を夢想するほどロマンチストではない。そんなものは、おそらく、「死に向かって牙をむきだす時にしか必要ない。涸れはじめた笹はあわてて実を結ぶ。飢えた鼠は、移動しながら血みどろの性交をくりかえす。結核患者は一人残らず色情狂に、王や支配者はハレムの建設に情熱をかたむけ、敵の攻撃を待つ兵士たちは、一刻もおしんで、オナニーにふけりだす・・・・」

だが、現実の世界は、死の危険ばかりにさらされているわけではない。冬さえ、恐れる必要のなくなった人間は、季節的な発情からも自由になれることが出来た。

しかし、戦いが終われば、武器はかえって手足まといになる。秩序というやつがやって来て、自然のかわりに、牙や爪や性の管理権を手に入れた。そこで、性関係も、通勤列車の回数券のように、使用のたびに、かならずパンチを入れてもらわなければならない。その確認のためにあらゆる証文がある。しかし、証文はこれで足りているのだろうか、男も女も、相手がわざと手を抜いているのかと、暗い猜疑のとりこになる。《あいつ》は、《男》を理屈っぽすぎると非難する。性に贈答用の熨斗(のし)をつけたりするような悪趣味まで、我慢しなければならないほどの義理はない。もし、秩序の側で見合った生命の保証をしてくれるなら譲歩の余地もあるが、現実は、空から死の(とげ)が降り、地上でもありとあらゆる種類の死で、足の踏み場もない。どうやら、つかまされたのは空手形だったらしい。

こうして不服な性を相手にした、回数券の偽造がはじまる。精神的強姦が必要悪として黙認される。こいつなしには、ほとんどの結婚がなりたたない。互いに強姦しあうことを、もっともらしく合理化しているだけのことじゃないか。あわれな指には、もう帽子をぬいでくつろぐ場所さえない。

《砂の女》は、服を脱ぎ始める。こういう女が本当の女なのだ。女の体が、とりひきに使われる段階は、とうに過ぎてしまった・・・いまは暴力が状況を決している・・・かけひきを度外視した、合意のうえの関係だと考える証拠はじゅうぶんにある。

・・・・それにしても、女の太股に、なぜこれほど激しく誘いよせられるのやら、わけがわからない・・・・《あいつ》との時には、おおよそ経験したことのない一途さだ。・・・いまのおれに必要なのは、このがつがつした情欲なのだ。

けいれん・・・・同じことの繰り返し・・・・・別のことを夢みながら、身を投げ入れる相も変わらぬ反復・・・・食うこと、歩くこと、寝ること、しゃっくりすること、わめくこと、交わること・・・

けいれん…絶叫し、狂喜して進む、この生殖の推進機構の行く手をはばむことは出来なかった。・・・やがて、身もだえながら振りしぼる、白子の打ち上げ花火・・・無限の闇をつらぬいて、ほとばしる流星群・・・

そのきらめきも、ふいに尾をひいて消えてしまい・・・男の尻を叩いて、はげましてくれる女の手も、もう役には立たない。

結局、なにも始まらなかったし、なにも終わりはしなかった。欲望を満たしたものは、《男》ではなくて、まるで《男》の肉体を借りた別のもののようでさえある。・・・・役目を終えた個体は、さっさとまた元の席へと戻って行かなければならないのだ。幸せなものだけが、充足へ…悲しんでいるものは、絶望へ・・・死にかけているものなら、死の床へ、と・・・こんなペテンを、野生の恋などと、よくもぬけぬけ思いこんだり出来たものである・・・回数券用の性とくらべて、はたしてどこかに取り柄らしいものでもあっただろうか?・・・・こんなことなら、いっそ、ガラス製の禁欲主義者にでもなっていたほうがましだった。

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グールドは映画を観たあとに読んだ原作に、やはり、とても驚いた。彼がふだん感じている自由と性への疑問や懐疑といった、もっとも関心がある問いに作者が答えているように感じたからだ。

グールドはこう考えた。―  ほとんどの女にとっては、精神的強姦の被害者を生むいちばんの原因は、股一つひらくにしても、メロドラマのなかでしか相手に価値を認めさせられないという思いこみがあるからだろう。それは、結婚生活のなかにも隠れている。ヒロインになって相手に幻想をいだかせなければならないというあせりがあるからだろう。もちろん、メロドラマは幻想にちがいない。そうかといって精神的強姦は、相手を傷つけるより前に自分を侮辱するものだ。

戦闘行為がすめば、兵器はじゃまになる。戦闘後の秩序のなかで、何度も繰り返す性関係は、通勤列車のような回数券で管理される。この管理をするために、たくさん証文が発行されるのだが、時間がたつと証文は効力を失ってしまう。現実にはあらゆるものが変質し、死屍累々となってしまう。やがては、不服な性の相手に回数券の偽造をはじめ、生こんにゃく[8]を塩もつけずに食うような味気のない精神的強姦が必要悪として許される。互いに強姦しあうことが合理化される。これがほとんどの結婚の本質だ。

グールドは、心に描く女性、作曲家ルーカス・フォスの妻であり画家のコーネリア・フォスを思い浮かべた。

「彼女はとてもまれな存在であり、メロドラマのヒロインになって、自分を実際より値打ちがあるように見せようとするような女性ではない。ぼくは、女性をメロドラマのヒロインのように崇め、ナイトのように男らしく振る舞おうとしてきた。しかし、女はヒロインである必要はなく、男はナイトになる必要もないのかもしれない。彼女は、明るくて利発で、ぼくを理解している。なにより、ぼくたちは対等な芸術家であり、芸術をうみだす苦悩をともにしている。《砂の女》と《男》とはちがう。ぼくがもし砂の穴に囚われたら、脱出してピアノを弾き続けることを選ぶだろう。ぼくは、この《男》のように砂の中で囚われて、砂を掻きながら《砂の女》と暮らすことを選択しない。ぼくは芸術家であり、選ばれた使命をもってうまれてきた人間だからだ。」

「ぼくには、音楽以外なにもない。人付きあいもできないし、世渡りができる特別な知識も技能もなにもない。ぼくにあるのは、ただ音楽だけだ。」

「なにも出来ないぼく、すべての身を音楽に捧げるぼくが生きていくには、だれか世話をやいてくれる母親のような存在が必要だ。それは、結婚相手だろうか?」

「真の恋愛と結婚は精神的強姦をしない前提にした、おたがいが尊重しあい認めあうことが必要で、一方的に世話をやいてもらいずっと受けとり続けるわけにはいかない。だが、時の経過がすべてをかえてしまい、変わらないと思ことは、あり得ない空手形をつかまされることなのだろうか?」

「たしかに恋愛も、はじめはかけひきを伴う戦争かもしれない。しかし、やがて戦争は終わる。戦闘に使った武器は不要になり、くりかえす日常と秩序があらわれる。結婚はあらゆる証文にまもられた秩序だ。だが、秩序は、猜疑心と欺瞞ですりへり変質していく。こうして回数券の偽造がはじまる。」

グールドは、13歳の子供の頃から「僕は独身をつらぬく」[9]といっていた。芸術にすべてをささげるためには、結婚は余分だと考えていた。母フローラは、息子が「特別な子供」[10]となり、音楽をとおして世界に多大な貢献をすることをつねに願っていた。そしてそのためには、音楽以外の優先順位はひくく、寄り道は許されなかった。若い間は恋愛を後回しにして、立派な音楽家、ピアニストになってから、息子が結婚すればよいと考えていた。

息子はその思いを最初はそのとおりに受けとっていた。しかし、ゲレーロとのレッスンでの議論をなんどもくりかえすうちに芸術に結婚はじゃまだ、芸術は《これまでにないものを追及すべきだ》、《反社会的でなければ、芸術家は新しいものは生みだせない》と考えるようになっていった。彼は、母フローラを乗り越えるだけでなく、さらにその向こうへ行こうとしていた。彼の目指す音楽は、過去の名演奏を再現することでも、作曲家の意思を忠実に再現することでもなかった。作曲家が作曲した曲の内側から光を当て、これまで誰も知らなかった発見や表現を見つけだすことであり、それには、生活態度や思考が保守的ではあってはできないと考えていた。こうした考えが、ピアノの恩師、ゲレーロとさいごに対立してしまうのだった。

しかし、性的にずっとナイーブだった彼も、恋愛と性体験をするにつれ、異性を好きになり、自分のものにしたいという願いが、芸術を生み出そうと生み出すまいと、抜き去ることはできなかった。ぼくのエクスタシーは音楽だと思うものの、性のエクスタシーを否定することはできなかった。

性交にたいする欲求は否定しがたい。落ち着いた人生を送りたい。だが、結婚は証文にまもられた秩序だ。その証文の効力もいつまであるのか怪しい。激しい情欲、絶叫し狂喜して進む、この生殖の推進機構の行く手のけいれんは、なにも始めないし、何も終わらせないことはわかった。偽造された回数券で性交をするより、ガラス製の禁欲主義者になったほうがましなのか?

けっきょく、この物語の《男》は、猿でもできる毎日の砂掻きと、《砂の女》との回数券の性を選んだ、

ぼくは、芸術を生みだすために絶対に必要なものは、孤独だと思っている。孤独なしに芸術は生まれない、と思っている。もし、他の人間と1時間いると、それをX倍した時間だけ一人になる必要がある。孤独は人間の幸福に欠かせない要素だ。

この小説の他の場所には、こうも書いてあった。

「欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦(れんが)を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実は、うっかり手もふれられない、あぶなっかしいガラス細工になってしまう。・・・・・だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえるのである。」

グールドは繰り返しこの映画を見、原作を読んで、芸術と結婚について考え、おかしいのは社会通念の方だと思った。

おしまい


[1] ブラームスの言葉 「神秘の探訪」 「アーティストのポートレイト」P373

[2] プログラム 「グレン・グールド大研究」宮澤淳一年表から バッハの「フーガの技法」から4曲、パルティータ第4番、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番、ヒンデミットのピアノ・ソナタ第3番

[3] 「砂の女」(新潮社版)88ページに「教頭が捜索願の書式を問い合わせに警察を訪れる段取りになる」と書かれている。

[4] 英訳は、”The woman in the dunes”というタイトルで、E. Dale Saundersにより1964年に刊行された。この「砂の女」は世界40か国語以上に翻訳され、ノーベル文学賞候補になる。(NHKブックス・ヤマザキマリから)

[5] 教頭が捜索願を出すだろと書かれている。

[6] 「砂の女」の14章に、「主人を失った彼の下宿を一目見ただけで・・・読みさしの本・・・すべてが中断をこばみ、生き続けようとしている・・・」とあり、その下宿に彼は置手紙をしてきたことが書かれている。

[7] メビウスの輪 一度ひねった紙テープの両端を貼り合わせたもので、裏も表もなくなる。

[8] 生こんにゃく 英語版では、生こんにゃくを“unsweetened tapioca”と訳されている。

[9] 「独身をつらぬく」 「愛と孤独」にロバート・フルフォードの発言として“He is a confirmed bachelor at thirteen,” Fulford wrote in the Malvern newsletter on April 3, 1946.と書かれている。

[10] 「特別な子供」 「グールド伝」第4章35ページ 注釈にジェシー・グレイグが1985年のCBCテレビのインタビューで答えている。

グレン・グールド・ギャザリング その4 宮澤淳一さんのトークショー

12月15日(金)に行われたグレン・グールド・ギャザリング(Glenn Gould Gathering = GGG)の一環で行われた宮澤淳一さんのトークショーのことを書いてみたい。宮澤さんは、ライブに先立ち、13日~14日にカナダ大使館で上映されたグールドに関連する映画5本すべての解説をされた。ご自身でも、吉田秀和賞を受賞した「グレン・グールド論」(2004年 春秋社)を書かれている。また、今年でグレン・グールドに関する書物は、85冊が刊行されているとのことだが、日本語に翻訳されたものの半分は、宮澤さんが翻訳されていると思う。また映画など映像の字幕の翻訳は、ほぼすべて宮澤さんが監修されているのではないか。日本のグールド研究の第一人者であるだけではなく、世界の第一人者だ。

では、メインイベントの宮澤さんから伺ったお話の主なところを紹介しよう。下が、トークショーが行われた会場の様子だが、開始時には満席になっていた。

まず最初に、おっしゃっていたのは、クラシック音楽の特殊性あるいは伝統のことだ。つまり、クラシック音楽は、ずっと作曲者が一番偉くて、演奏者は下。聴衆はさらに下という歴史があった。(この言い方は、ちょっとデフォルメがあると思うが、喩えとしては分かりやすい)。作曲者が王で、演奏者は家来、聴衆は臣民という位置づけで、仮に作曲者がなくなっても、演奏者は作曲家のことを尊重するのは自明のことだ。(そういう教育が音楽大学でずっと行われてきたはずだ)。それが、曲の言い表し方に端的に表れている。クラシックでは、誰が演奏しようと作曲者と曲名が表記される。例えば、「ベートーヴェンの交響曲第5番」と言われる。付随的に、バーンスタイン指揮、ニューヨークフィルというのが説明的に出てくるが、曲名はあくまで「ベートーヴェンの交響曲第5番」だ。これが、ポピュラーやジャズ、歌謡曲であれば、「マイルス・デイヴィスのカインド・オブ・ブルー」がタイトルになり、そのものズバリである。

ところが、グレン・グールドは正統的なクラシックの演奏家とはまったく違った。ケヴィン・バザーナが「グレン・グールド演奏術」で明らかにしているように、グールドは音程と長さは守っているものの、それ以外のテンポ、強弱、アーティキュレーション(フレーズの作り方)、装飾音、反復記号など、作曲家の指示があっても自分の考えを優先し、囚われていない。さらには、モーツァルトのピアノソナタなどで低音部に音符を足して、低音部に別のメロディーラインを作っている。これが、「再」作曲家と言われる所以だ。

映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」で、不倫関係にあったコーネリア・フォスが、グールドのバッハ演奏を次のようにいう。 : 「グレンの演奏は、いわば楽曲を組みなおした感じね。分解した時計を元どおりでなく別の形にしたのよ。時計は動くけど全く異質のものになった。音楽に対する前例のない画期的なアプローチだったわ。私はあまり好きじゃない。バッハの良さが台無しだと思った。でも音楽家は衝撃を受けたでしょうね。演奏技術はすばらしかったわ。見事だった」

同じ映画でチェリストのフレッド・シェリーはいう。 : 「作品と作曲家の内面に侵入し、その反対側に突き出た。作曲者に対する共感を通り越し、作品を完全に乗っ取っていたと思う。自分の個性に塗り替えたんだ」

グールドが、このような演奏態度をとった理由をいくつか宮澤さんは上げられていた。そのうちの大きなものとして、グールドは作曲家でもあったことを指摘されている。すなわち、グールドがニューヨークでデビューし、コロンビアレコードと専属契約した1955年は当時22歳で、「ゴールドベルグ変奏曲」を録音した時期でもあるが、「作品1番 弦楽四重奏曲」を完成した時期でもあった。こうした彼は、他の作曲家が書いた楽譜を作曲家である自分の目で見ていた。こうした態度をとるクラシックの演奏家は、他にまったくいないわけではないが、ここまで徹底した態度をとり、それが説得力を持ったのはグレン・グールドだけだろう。

そうしたグールドは、レコードが爆発的に売れ、一夜にして世界一流のピアニストになった。そのため、世界中を演奏旅行する期間が1964年(32歳)まであった。その後は、よく知られているようにスタジオから自分の「再」作曲家としての試みで挑戦を続け、彼本来の作曲活動は、結果的に十分にできなかった。

こう言われると、彼の特異な演奏については「やっぱり、そうだったんだ!!具体的な証拠があるのね!」という風に感じる。

ところで、カナダ大使館は巨大だった。上の3枚の写真は、カナダ大使館の外側から撮ったもの、4階のロビーへ向かうエスカレータ、地下2階にある、GGGの映画が上映されたオスカー・ピーターソンホールの入り口受付の写真だ。カナダ大使館は実にでかい!欧米の大使館は、ずいぶん立派だと思う。日本の海外の大使館と、比べ物にならない。いろいろ税金を使っている関係で、あれこれ言われるのだろうが、この大使館をみていると日本ももう少し頑張ってもいいような気がする。

おしまい