お客も楽団員も演奏の最後で《発散》できれば良いと思っている?? ー コンサート3つへ行って思うこと。 

  • 読響交響楽団  5/31 名曲シリーズ 6/14 定期演奏会
  • 7/3 弦楽3重奏による『ゴルトベルク変奏曲』

最近のことだが、親爺は安いチケットがあるとあちこちのコンサートへ出かけている。最近行った三つのコンサートのうちの二つは、読売交響楽団のサントリーホールの演奏会で、有名な交響曲「新世界」交響詩「フィンランディア」と鳥羽咲音さんのエルガーのチェロ協奏曲、現代曲のウェーベルンとシェーンベルク、ダン・タイ・ソンのモーツアルトピアノ協奏曲である。三つ目は、市ヶ谷ルーテル教会であった弦楽3重奏の「ゴルトベルク変奏曲」である。(後に曲目を貼り付けました)

コンサートホールへ出かけていつも思うのは、生で聴く楽器の音は素晴らしいということである。ピアニッシモからフォルテッシモへと、音がひずむことなく移行する。鳥羽咲音さんのエルガーのチェロ協奏曲を聴きながら、「独奏チェロは、こんな素晴らしい音色で、オーケストラに負けずに演奏するのか!」と思うほど朗々と響いていた。

失敗したのは、ピアノのダン・タイ・ソンである。親爺は、サントリーホールの値段の安い舞台の後ろの席に座っていた。ところが、ピアノは舞台の最前方に置かれ、正面の観客によく聞こえるように屋根を観客席の方に向けてあげていた。このため真後ろの席では、音が小さいのだった。

こうした生演奏を聴いて、いつも思うのは、曲の最初と最後だけは聴衆の心をしっかり掴み、フィナーレで爆音・轟音が鳴り響くトゥッティ(全奏)になり、圧倒された観客が拍手大喝さい、ブラボーの叫びを送るのがお定まりの約束だと思う。言い換えれば、似たような奏法で変化のない長い演奏が続く。曲の中間で多くの観客は退屈している。そして、いよいよクライマックの号砲をさりげなく挟んで、フィナーレが始まる。「終わりよければ全て良し」のポリシーでコンサートは演出されている。 こんなことじゃ、クラシックのコンサートは流行らないよな!

同時に、曲の表現が、音量の変化、耳をそばだてないと聞こえないようなピアニッシモと鼓膜が破れそうになるフォルテッシモの対比を乱用しすぎだ。たしかにフォルテッシモは、観客の度肝を抜くが、何回も繰り返されるので慣れてしまう。もっと、メロディーを引き立たせ、変化をつけないと駄目な気がする。これはメロディーを担当する楽器が頑張るというより、オブリガード(助奏)に回る楽器が、存在のレベルをぐんと下げることだ。両者をバランスよく、楽器が交代しながら響かせる。目立たせたい・強調したい旋律を観客に分かりやすく聴かせる。そして主従をすばやく交代すべきだ。どの楽器も自分の役目を精一杯果たそうと頑張りすぎ、目立とうとし過ぎだ。楽譜通り再現すればいいというものじゃない。演劇を見なさい、映画を見なさい。古典を忠実に再現するより、時代に合わせてリメークし、お客に再発見させることだ。

クラシック音楽のつまらなさの最大の原因は、音楽界の間違った思想にあると親爺は思っている。クラシック音楽界の重鎮たちは、口をそろえて、作曲家の書いた楽譜を忠実に再現しなくてはならぬという。作曲家の時代背景を研究し、当時の楽器を使い、楽器の調音(チューニング)も、平均律でなく純正律でやろうとさえする。こうなると、リスナーを楽しませる観点を失った狂信的な原理主義である。

カラヤン大先生の発言は分かり易い。『演奏者だけが盛り上がって聴衆は冷めているのは三流、 聴衆も同じく興奮して二流、 演奏者は冷静で聴衆が興奮して一流。』ヘ ルベルト・フォン・カラヤン

その点、グールドは音楽の演奏にあたって、楽譜の改変することを含めて、何通りもの演奏を試して、どうしたら最良の演奏になるかを考えていた。つまり、作曲家の思いを忠実に再現しようとすることは、たった一つの最善の演奏を探ることだが、グールドは曲のアプローチは何通りもあると考えていた。また、音楽を学ぶ学生たちに「余計な固定観念を植え付けられてしまうから、曲の練習をする前に、他の演奏者の演奏を聴いてはダメだ。」という意味のことを言っている。

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以下は、実際のコンサートの感想である。

5/31のシベリウスの交響詩「フィンランディア」は、10分足らずの曲で、知っているかなと思っていたが、あっさり終わってしまう。ドボルザークの「新世界から」は耳慣れているというものの、聞き覚えがあるのは、1楽章と最終楽章で、途中は退屈である。エルガーのチェロ協奏曲は、チェロの響きが素晴らしかった。どの曲も、始まりと終楽章だけが耳に残り、クライマックスで盛り上がって観客の拍手大喝さいとなる。

6/14のウェーベルン「夏風の中で」、シェーンベルク「交響詩ペレアスとメリザンド」は、今となっては印象がなにも残っていない。ダン・タイ・ソンがピアノを弾いたモーツアルト「ピアノ協奏曲12番」で観客は大喝さいしていたが、親爺には、ダン・タイ・ソンってこんなものなの?という感じで、拍子抜けである。

7/3の弦楽3重奏による「ゴルトベルク変奏曲」は、80分かけて楽譜どおりの繰り返し(反復)をしているのだろう、グールドは反復を大胆に省略し、旧録、新録とも40分程度で弾いており、旧録は疾走しながら、新録は瞑想、祈るように弾くのだが、ダラダラ繰り返すことなく、凝集されている。

おしまい

第10章 ストラトフォード音楽祭でベートヴェン「幽霊」を演奏する

グールドは、すでに10代の初めからカナダ国内で注目されはじめ、10代の後半から22歳のアメリカ・デビューをする前には、国内の一流オーケストラすべてと共演するまでになっていた。1950年代は、まだラジオの全盛期だったが、ラジオ番組にたびたび登場する最も人気のあるスターになっていた。しかし、その人気はあくまでカナダ国内に限られていた。

1953年、カナダは文学、演劇、音楽の総合的な祭典であるストラトフォード・フェスティヴァルを始めた。

グールドは、開始当初からこのフェスティヴァルに参加し、世界的なピアニストとなってからも、10年以上ずっと参加しつづけた。

1953年、アンサンブルへ1回、リサイタルへ2回出演したグールドは、「隙間だらけの楽屋、ぼくでさえも上着なしで弾いたほどの蒸し暑さ、ひどい楽器、無計画、準備のわるさ」と10年後に回想している。しかし、出演料が127ドル(2023年現在価値で4,165ドル≒58万円)だけだったことには触れていない。

なぜなら、グールドは、この音楽祭を通常のコンサートでは実現できないレパートリー、着想、演奏へのアプローチの探求や実験ができる場だと考え、シェーンベルクなどの現代曲を重点的に取り上げたり、持論である「拍手禁止計画」[1]の実行をした。そうした新しい試みをしたいという思いは、多くの他の出演者たちにも共通だった。

グールドは、22歳の時、CBCテレビ(カナダ国営放送)「サマー・フェスティヴァル」というシリーズの一環で、テレビの録画とラジオでの生放送をする[2]ために、すでに名のとおったヴァイオリン奏者のアレクサンダー・シュナイダーと女性チェロ奏者ザラ・ネルソヴァとの3人で、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲ニ長調作品70第1「幽霊」とバッハ、ブラームスの室内楽の作品の演奏をした。

シュナイダーは1908年、リトアニア(旧ロシア帝国)にユダヤ系として生まれ、ハンブルグのオーケストラのコンサート・マスターを務めていた。しかし、ナチスの台頭により解雇され、ブダペスト弦楽四重奏団に加入する。たまたま行った1939年のアメリカ公演の際に、移住許可を得ることができアメリカへ移住していた。

3人が共演したこの年は、46歳でプラド音楽祭、マールボロ音楽祭をすでに成功させて、ヴァイオリン奏者としてだけではなく、指揮にも精通して、評価はすでに高かった。

36歳のチェリスト、ザラ・ネルソヴァはウィニペグ生まれで、フルート奏者だった父の影響でチェロを習い始めた。彼女が生まれた1918年は、歌手を別にすると、女性が演奏する楽器は、ピアノやオルガンなどの鍵盤楽器、ハープやリュートなどに限定され、チェロを女性が演奏するのはまだ珍しい時代だった。このため、ネルソヴァは男性の音楽家から「ああ、あの女のくせにチェロを弾く」[3]などと形容されながら、キャリアを切り拓いてきた。この時、彼女はアメリカ・デビューを果たし、前年にアメリカ市民権を得たばかりだった。

リハーサルを行ったのは7月の午前中だったが、カナダといっても、気温がすでに30℃ある暑い日だった。グールドは、分厚いオーバーコートを着て、マフラー、手袋、帽子といういつもの冬のいでたちで現れた。どこへでも持ち運んでいる折りたたみ椅子[4]、薬が入っているブリーフケースなども運んできた。

椅子は、父親が作ったもので、折りたたむことができ、4本の足を約4インチ(約10センチ)切り、その脚先を真鍮の金具でかこみ、ねじで固定し、そこに引き締めねじ(ターンバックル)の受け側を溶接した。その先にねじを取り付け、ねじを回すことで、足の長さを別個に微調整でき、傾きも変えることができた。椅子を開いた時の座面の高さは、床上35.6センチしかなかった。グールドの身長は180センチで、かれはいつもこの椅子にずり落ちそうな角度をつけて座ると、鍵盤と顔をくっつきそうになるほど近づけ、指先より手首が下にきて、ピアノにぶら下がっているように見え、姿勢の悪さで《オランウータン》だと言われることすらあった。

CD集アウトテイクから・・・・最初は椅子にもちろん座面があった。しかし、グールドはこの椅子を生涯どこでも使い続けこのように座面が無くなってしまった。

その日のグールドは、黄色っぽい顔をして、いかにも具合が悪そうに見えた。とくに午前中のはじめのうち、練習ができる状態でないのは明らかだった。

おまけに、季節に合わないちぐはぐな服装だけでなく、髪の毛も乱れ、どこか汚く見える服装で現れたのだった。

しかし、長身で細身のグールドの髪はゆるくウエーブした濃いブロンドで、ほとんど髭のないつるんとした中性的な肌、綺麗な眉、すっとした鼻梁、きりっとした口元は、ハンサムで美男子であることがすぐにわかる。どこか遠くを見るような目は、青年に達したばかりの若々しさと繊細さの陰に、どこかに確固とした意志を秘めていた。

ネルソヴァがグールドに訊ねた。

「あなた、大丈夫なの?」

「ぼくなら大丈夫ですよ。昨日の晩、徹夜でトルストイを読んでいたんです。古典の小説は、手あたり次第、何でも読みたいと思ってるんですよ。大丈夫です。具合はすぐに回復しますから。」

ちょっと時間を取った後、リハーサルを始めることになった。だがグールドは、演奏するときにピアノ譜を見ようとしなかった。

シュナイダーが驚いていった。

「きみは楽譜を見ないのかね」

「ええ、いつもそうです。ぼくは慣れていますから。楽譜はぜんぶ頭に入っていますよ。ヴァイオリンとチェロの楽譜もわかってます。みなさんは、お好きにしてください」

室内楽の演奏では、楽譜を譜面台において演奏するのが一般的だ。弦楽四重奏や、今回の三重奏などもそうだ。ただし、オーケストラと共演する協奏曲は、大曲ということ、ソリストが名人芸を披露する晴れの場と考えられているので、団員が楽譜を見ながら演奏しても、ソリストは暗譜で演奏するのが通例だ。過去には、名人芸を誇る器楽奏者が、すべて暗譜で演奏する時代もあったが、記憶が飛ぶ不安を頭の片隅に抱えて演奏するより、楽譜を前にして演奏した方が安心して、のびのびとした演奏ができると考えられている。

ただ、3人の奏者の足並みがそろわず、グールドが暗譜でピアノを演奏するのに、シュナイダーとネルソヴァがもし楽譜を前にして演奏すれば、弦楽器奏者のふたりが曲を十分に理解していないように観客に映るだろうという懸念はあった。だが、グールドにそういわれると、それ以上楽譜を譜面台におけとは言いにくいのだった。

「きみの意見はわかったよ。まあ、やってみようじゃないか」

実際に、3人で演奏を始めると、すぐにふたりは、グールドの演奏に驚嘆する。正確なリズムと明確なアーティキュレーション[5]、強弱のつけ方、音色や表情の変化のつけ方、どれをとってもすべてが出色のできで、すべてがコントロールされていた。

もちろん室内楽は、アンサンブルである。ひとりでやるのではない。3人でどのような演奏にするのか、同じ認識をもつことが何よりも大切だ。そのためには、それぞれの楽器が、自制心、駆け引き、慎み、一体感といったものを共有しなければならない。

グールドは、楽譜を読んで自分が演奏したい「幽霊」像を持っていた。それは、シュナイダーが描く像と正反対だった。

ベートーヴェンの「幽霊」に対するシュナイダーの考えは、緩急の幅や、重さと軽さの表現上の違いをしっかりと描き出し、チェロ、ヴァイオリン、ピアノの存在感をおのおのの楽器が十分に出し、小気味い良いユーモア感覚から悲痛な表現までを対比させることで、曲の推進力を生むというものだった。

とくにアレグロの第1楽章とプレストの第3楽章では、旋律の強弱を激しく交代させ、対立させることがこの曲をドラマチックにさせ、ラルゴの第2楽章は、「幽霊」らしく不気味な雰囲気を醸し出すべきだと考えていた。楽器の扱いは、アンサンブルとしての調和よりも、むしろ各楽器が激しく、それぞれが主張すべきだと考えていた。

しかし、グールドの解釈は全体的に見ると「幽霊」という標題にこだわらず、3つの楽器が一つになって穏やかで美しい曲にすべきだ、と主張し譲らなかった。

「ここのパッセージは、ダン、ディー、ディー、ダーという感じでやってみよう。」とシュナイダーは、ふたりに伝える。

「でも、あなたのアクセントは間違った場所におかれていますよ。」とグールドは抗議する。

「ぼくは、心で弾くんだ。頭じゃない!」とイラっとなり噛みつく。

「ぼくは、ベートーヴェンが書いたように演奏します。」

「ああ、わすれていたよ。偉大なグールドさんは、ベートーヴェンとすっかり昵懇だってことをね。」

グールドは、楽譜の分析をするためにリハーサルを止めている。シュナイダーは、その必要はないと言う。

「ぼくは、カザルス[6]と共演しているんだぞ!」と、当時のカリスマともいえる指揮者、作曲家でもあるチェリストの名前をだして、グールドを黙らせようとする。

「ぼくは、あなたが誰と共演していようと気にしません。ぼくは、ぼくのやりかたでやりたいんです。」

そのリハーサルでは、グールドはピアノのパートを弾くだけでなく、ヴァイオリン、チェロのパートをピアノで弾き、自分が望む演奏すべきスタイルをふたりに説明しはじめた。シュナイダーは、自分の演奏するヴァイオリンの旋律に、ピアノ奏者に注文をつけられたのは初めての経験だった。経験の浅い、まして他の器楽奏者から演奏を指図されるのは、最善の演奏は何かをもとめる自然な議論のはずだとしても、自尊心を傷つけられるようで不愉快が先んじた。ところが、グールドの説明は、明確で説得力のあるものだった。

残るネルソヴァは、年齢的にもキャリアの点でも、3人の中間的な立場にあり、従来の伝統的な解釈にこだわるシュナイダーに同調せざるを得なかった。しかし、カナダで一番成功している若者がもつ、まったくあたらしい解釈に驚くとともに、彼の音楽への姿勢にもおおきな魅力を感じていた。

「そんな風に極端にヴァイオリン、チェロ、ピアノがそれぞれ目立とうとするのは反対です。楽器を対立させるような演奏にすると、この楽章の構造自体がわからなくなりますよ。3つの楽器を調和させ、このように進行させるべきです。」

さらに、グールドは続けた。

「ここは、この楽章のハイライトに向けて徐々に盛り上がりが分かるように演奏すべきです。また、楽章の終わりは、音の大小に関係なくつねにクライマックスであり、同時に、次の楽章へ向かうことを暗示すべきです。そして、最終楽章のフィナーレへと演奏全体が向かうのです。」

「私は何度もこの曲を演奏しているんだ。この曲は、各楽器が存在感を発揮することで、その競争関係がダイナミズムを生むのだ。いったい、きみは、この曲を何回演奏したことがあるんだ?」

「3度です。」

「私は、この曲を25年間、何百回も演奏しているよ。」

「回数は問題じゃない。量より質です。ぼくは十分に楽譜を読んで考えてきましたから。」

最後は、シュナイダーがネルソヴァに意見を求めた。陰で「女のくせにチェロを弾く」と言われながら、ようやくこの世界で認められるようになってきたネルソヴァは、シュナイダーについた。

このため、グールドはシュナイダーの考えるこれまでどおりの演奏を余儀なくされる。弦楽器奏者と意見が合わなかったグールドだったが、実際に演奏するとグールドの演奏は見事だった。特に正確なリズムが光り、弦楽器をサポートするところでは、抑え目ながらしっかり存在感をだしてサポートし、自分が前に出るところでは、明確な表現でピアノを十分に歌わせた。常に、3人のバランスは非常に揃っていて、崩れることはなかった。

その夜、グールドはネルソヴァを脇へ呼び出し、声をかけた。

「ザーラ、あなたは去年、アメリカの市民権をとられたんですよね。ウィニペグ生まれのあなたでも、アメリカで成功することが大事だと思われたんでしょうね。まえから、カナダを卒業してアメリカへ行こうと思われていたんでしょう。ぼくが演奏活動をどうやっていくのがいいか、教えてもらえませんか。アメリカで成功するには、どうしたらいいでしょう?」

ネルソヴァは、カナダの若くてハンサムな人気ピアニストから真剣な相談をもちかけられ、少しうれしくなってこたえた。

「そうね。カナダ人は、アメリカン・ドリームを信じていないくせに、アメリカ人を羨んでしまうところがあるわよね。だからよく、『カナダでは自国の才能のある人を認めず、もし認めるとしても、時期を逸してからしぶしぶ認めるか、アメリカで成功してからやっと認める』っていうわよね。もちろん、カナダはとても良いところよ。だけど、いつまでもカナダにとどまって、アメリカを見ているだけでは駄目だわ。アメリカでデビューしないことにははじまらないわ。まずは、アラスカへ演奏旅行をしたら、どうかしら。わたしの親しい友人のピアニストで、そういう演奏旅行の企画が組めるのがいるわ。かれに連絡を取ってみるのはどう?」

グールドはこたえた。

「ありがとうございます。そうして教えてもらえると、とてもありがたいです。」

しかし、グールドには、その時すでに契約したマネージャーがいた。アメリカでのデビュー演奏旅行の計画は、グールド、両親たちと、マネージャーにとって、最大の懸案で、実のところ、かれがネルソヴァにそのようなことを相談する必要はまったくなかった。

フェスティヴァル本番の演奏では、シュナイダーは、舞台に上がる前にグールドに暗譜ではなく、楽譜をピアノの前に置いて演奏するように釘をさしていた。

しかし、グールドは楽譜を持って舞台へ登場したものの、楽譜を椅子の上に置き、その上にお尻をおいて演奏した。

そのかれの演奏スタイルは、目をつぶり、自身の恍惚としたエクスタシーの世界に没入しているとしかいいようがなかった。悪い姿勢で、鍵盤をまともに見ることは一度もなく、音楽に合わせて上体をくるくる旋回させながら、のけぞったかと思うと、鍵盤に鼻がつくかというほど近づけ、もし、片方の手だけで弾く時は、もう一方の手で指揮するように腕をふりまわし、唸り声ともハミングともつかない歌をうたいながら演奏するのだった。

観客の側からは、明かに音楽の深奥のなかに吸い込まれたグールドと、姿勢を正し、楽譜をまえに悪戦苦闘する弦楽奏者が対比しているとしか見えなかった。恍惚となっているグールドにカメラがクローズアップする時、シュナイダーは侮辱されていると感じる。しかし、その3人で行った演奏は、聴衆から大喝采を浴びた。

演奏の後、シュナイダーはネルソヴァに言った。

「実に立派な、グールドの演奏だったね。あの変人は将来、まちがいなく大物になるよ。あいつの才能は本物だね。」

つづく


[1] 「拍手禁止計画」 もっとも古い音楽雑誌《ミュージカル・アメリカ》に、1962年2月、グールドは、「拍手喝采おことわり!」という論考を掲載している。グールドは、もともとコンサート嫌いで、聴衆を「自分は安全なところにいながら、闘牛場の闘牛士を見るように、演奏家が失敗するのを待っている」敵だといい、身近な人が観客席にいることさえ苦痛を感じるタイプだった。この論考は、さまざまな角度から拍手喝采について検討しているのだが、同時にユーモアと韜晦に充ちていて、音楽監督を務めたストラトフォード音楽祭を「こじんまりした雰囲気が喝采ぬき演奏会にうってつけ」と書き、同年7月の音楽祭で「拍手禁止計画」を実行した。

[2] CBCテレビ(カナダ国営放送)「サマー・フェスティヴァル」《神秘の探訪 注:519頁》と《”The Genius who doesn’t want to play, Gladys Shenner,1956.4.28 Maclean’s Magazine”と《グレン・グールドの生涯 巻末放送番組一覧 35頁》

[3]女のくせにチェロを弾く 《チャイコフスキー・コンクール 中村紘子》171頁

[4]折りたたみ椅子 《グールドの生涯》91頁、《グールド変奏曲》の訳者あとがきのバートのインタビュー

[5] アーティキュレーション(articulation) 音楽の演奏技法において、音の形を整え、音と音のつながりに様々な強弱や表情をつけることで旋律などを区分すること。

フレーズより短い単位で使われることが多い。強弱法、スラー、スタッカート、レガートなどの記号やそれによる表現のことを指すこともある。アーティキュレーションの付けかたによって音のつながりに異なる意味を与え、異なる表現をすることができる。(Wikipedia)

[6] カザルス パブロ・カザルス(1976-1973) スペイン生まれのチェロ奏者、指揮者、作曲家。チェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において20世紀最大のチェリストとされる。有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていたヨハン・ゼバスティアン・バッハ作『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、広く紹介したことが挙げられる。(Wikipedia)

第9章 グールド 学校もレッスンもやめてコテージにこもる

(コテージのあるオンタリオ湖畔)

● 自分に足りないもの

グールドは、18歳の頃には教会へ行かなくなり、両親を失望させた。次いで、マルヴァーン高校も中退した。両親は、高校だけは卒業するよう強く言ったが、学校に意義を見出せず無頓着になっていたグールドは、卒業せず進学もしなかった。

「グレン、あなたどうして高校を卒業しないの。卒業しないと大学へ行けないのよ。みっともないことをしないでちょうだい。よくお考えなさい。」

「あんな学校の授業なんて何の意味もないよ。本を読んだ方がよっぽど、よく勉強ができる。あんなの時間の無駄だよ。」

「いい加減にしろ。お前に、どれだけ金をかけてきたのかわかっているのか。プロのピアノ演奏家より商売の方が儲かるんだぞ。立派に大学へ行って、私の事業もやって、ピアノも続けたらどうなんだ。」

「馬鹿なことを言わないで。あんな意味のない場所へは行かないよ。それに動物を殺して儲ける毛皮商なんかになるわけないじゃないか。ぼくには音楽家になる、作曲家になる目標があるんだ。」

1952年、グールドは、19歳でゲレーロのレッスンも止めた。ゲレーロから学ぶことは何もないと感じたからだ。これまでゲレーロのところで《レッスンそこのけで、音楽の議論ばかりをしていた》というのは、グールドの脚色が入った明らかな誇張だったが、ゲレーロを「感情の人」、自分を「理性の人」と決めつけたかったグールドとゲレーロの間に大きな溝が広がっていた。

ただゲレーロ自身が「[1]グールドには、もう教えることは何もない。」と認めていたのは確かだった。

ピアノを弾く姿勢も、フィンガータッピングも、曲の解釈や学問としての音楽の研究成果や音楽史についても、グールドが教わったのはすべてゲレーロからであり、あきらかに大きな影響を受けていた。しかし、グールドは都合よくこれらのことはすべて自分で見つけたと思っていた。そうしたことで、この頃にはグールドは、ゲレーロと無意識のうちに意見を対立させるまでになった。別にゲレーロは、グールドがいうような「感情の人」ではなかった。しかし、グールドは恩師を踏み越えていく必要性を無意識のうちに感じていて、師の恩をどこかへ置き去ることにした。

グールドが9年間続けてきたゲレーロのレッスンを止めると言ったときにも、両親は猛反対した。従姉のジェシー・グレイグが横で見ていた。

「もう、ぼくはゲレーロのレッスンは止めるよ。もう習うことなんか前からないんだ。レッスンでは議論ばかりしていて、ぼくと意見がまったく合わないんだ。」

「何をおっしゃるの、グレン。ゲレーロ先生の意見を聞きなさい。あなたはまだまだ未熟でしょ。」

「学校の次に今度は、ゲレーロ先生か。そんなことでピアニストとして一人立ちできるとでも思ってるのか。」

3人の議論は、ずっと堂々巡りをした。グールドは、最後に本音をこう言った。

「僕に足りないものを考えてみたんだ。もう僕は、音楽のことなら何でもできる。唯一足りないのは、強い自我だけだ。芸術家がもつべき大切な素質だよ。僕にないのは自分自身なんだよ。[2]

「馬鹿なことを言うのは、いい加減になさい。」

「いい加減にしろ。自分自身をつくるのと、レッスンをやめるのは関係ないだろう。」

なかなか両親も譲らなかった。めったに泣くということのなかったグールドだが、目に一杯涙をためながら訴える様子を従姉のジェシーが横で見ていた。両親の不満は消えなかったが、学校もゲレーロのレッスンも止めた。

グールドは、恩師ゲレーロを認めず「ピアノは独学だ。」とまで言っていた。しかし、グールドの演奏の本質的な部分は、完全にゲレーロから受け継いだものばかりだった。

例えば、極端に低い位置でピアノを弾く姿勢、フィンガー・タッピングという平たく伸ばした指で鍵盤を押すのではなく引っ張るような弾き方、演奏技術の困難さにより演奏表現を妥協するのではない、楽譜をすべて暗譜した上で、作りたい曲の構想を表現することなどはゲレーロの考えだった。

「グールドは、ゲレーロの息子がわりだった。[3]」と言った生徒がいたが、この生徒はゲレーロからやはり「一日中ピアノばかり弾いていてはだめだ[4]」と言われていた。

実際にゲレーロは、ピアノの演奏だけをする演奏家ではなかった。美術に詳しく、絵画通であり自分で絵筆をとった。文学や哲学に造詣が深く、レッスンでコント[5]、フッサール[6]、サルトル[7]といった時代の最先端を行くむずかしい哲学をとりあげて、生徒と人生についてどう取り組むべきかということまで話題にとりあげた。彼は、エスペラント語を含めて数か国語を話すことができた。同時に、美食家でワインが大好きだった。驚くほど教養の高い、礼儀正しい紳士であり、グールドがなりたいと思う万能人間(ルネサンスマン)そのもだった。

ゲレーロは、ピアノの演奏にも、トータルなその人の人間性や人間力があらわれると思っていた。

そしてなにより離婚が許されないキリスト教徒でありながら、20歳年下の教え子と堂々と不倫し同棲していた。音楽界だけではなく、芸術の分野全般で不倫や同性愛は珍しくなかったが、ゲレーロとマートルが結婚したのは1948年で、知り合ってから17年という長い年月が必要だった。[8]

マートル・ローズ

ほかにもゲレーロの人物をあらわす逸話はたくさんある。

彼が好んで演奏する場所は、こじんまりとした美術館、小ホールや個人宅で、《通》の人たちを相手に演奏することを好んだ。そうした彼は、ツアーで世界各地を巡業しながら回るピアニストの生活について、「あんなのは人生じゃないよ。[9]」と言っていた。

「『最上の習得方法は楽譜の読み込みに基づく自己の判断と熟考だ』とグールドは言い、さらにまた『最上の教師とは、生徒のじゃまをしない人であり、教えるといっても生徒にせいぜい質問するくらいの人だ』とも言っていた。・・・ゲレーロは控えめな性分で、教師としての功績を認められるかどうかは気にもとめていなかった。・・・ゲレーロは音楽家としての功績が称賛されるのを望まなかったし、記録に残ることさえ好まなかった。[10]

このような考えのゲレーロは、グールドを教え、カナダのスターに上り詰めたことについて、教え子でのちに作曲家になった生徒[11]に「わたしには語るべきことは何もない。[12]」と言っている。

ゲレーロは、バッチェンとルームシェアをしていた、歌唱指導者になったスチュワート・ハミルトンに「グレンはだれに教えられようと、自分のやりかたを見つけただろう。[13]」と言っている。

グールドのゲレーロに対する恩を忘れた態度に、ゲレーロが傷ついたという噂も流れたことがある。しかし、かつてマートルに言ったように、ゲレーロは「もしグレンが教師としてのわたしから何も学ばなかったと考えているのなら、これ以上の賛辞はない。」というのだった。[14]

つまるところ、グールドはあらゆるゲレーロの考えを自分のものにしたのだが、それを都合よく忘れ、ゲレーロはそれを許す心のひろい人物だった。

しかし、ゲレーロの恩を都合よく忘れたグールドだったが、二人の意見がどこまでも違う点もあった。

「ゲレーロは、グールドが演奏するときの独特の癖や姿勢を注意し、スコアに書かれた作曲家の指示を守るように言う。しかし、グールドは師の主張に反発し、独特の癖や姿勢を直そうとしなかったし、スコアを守るという一線すら超え、独自の道を歩もうとした。[15]こうしたことから、二人の間の音楽的衝突は避けられないものになっていった。ゲレーロはときにグールドの考えに狼狽し、ますます変人じみていく振舞を不愉快に思うのだった。」[16]

こうしてグールドはゲレーロのもとを去るが、自宅を出て独立することはせずシムコー湖のコテージを本拠地にして、両親がコテージを使うときには実家へ帰るという生活をはじめた。

コテージで、グールドは思う存分ピアノの練習に没頭し、本を読み漁り、念願の作曲を本格的にはじめた。両親や人の目を気にする必要はなく、恋人とガールフレンドたちとも一緒に時間を過ごすようになった。

グールドは両親と衝突したものの両親は折れ、自我を作り世に出るための2年間の準備期間に入った。

[1] ゲレーロは、生徒の一人シルヴィア・ハンターにこう言っていた。

別の場面で、彼女は、グールドが1953年12月に同年夏に亡くなったシェーンベルクに弔意を表し、ピアノ協奏曲の緻密で長い講演をした際、「聴衆は何を言っているのか一言も分からなかったと思う。」と言っていた。「神秘の探訪 ケヴィン・バザーナ」 注釈

[2] 「グレン・グールド書簡集」(ジョン・PL・ロバーツ ギレーヌ・ゲルタン 宮澤淳一訳 みすず書房)P33 「6」 私が19歳のときからずっと独学でいることに関してですが、これはほかの人がまねてよい青写真だとは非常に言いにくいものです。・・・私はアルベルト・ゲレーロのもとで学びました。彼をとても敬愛していましたが、ある時点で私はすべてを身につけました。ただし、しっかりとした自我だけは別です。自我こそは、結局、芸術家の素養の最も大切な部分なのです。思うに、たとえ何かのときに間違いをしても、その間違いをしたことは、ある意味で絶対的に正しいのです。これこそ私が独学中に経験し、非常にプラスになったことです。」

[3] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ P84 生徒の一人のマーガレット・プリヴィテッロ

[4] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ P70 生徒の一人のマーガレット・プリヴィテッロ

[5] コント (1798-1857)フランスの哲学者。実証主義を完成させ、晩年は個人は人類から抽象されたものであり、人類こそ最高の実在であるとし、人類への愛と尊敬を説く人類教をとなえた。

[6] フッサール (1859-1938)ユダヤ系オーストリア生まれ。現象学を提唱し、いかなる前提や先入観、形而上学的独断にも囚われずに、現象そのものを把握して記述する方法を求めた

[7] サルトル (1905-1980)フランスの哲学者。実存主義を唱え、「実存は本質に先立つ」「人間は自由という刑に処せられている」などと論じた。

[8] Beckwith, John (2006). In Search of Alberto Guerrero.

[9] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ P69 生徒のレイ・ダットリーに言った。

[10] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP83

[11] 生徒 音楽院でゲレーロに習い、作曲家になったジョン・ベックウィズである。

[12] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP84

[13] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP85

[14] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナP84

[15] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 第1章P83

[16] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 第2章P143

● 自分にありすぎるもの

グールドは、母フローラの極度の心配性の影響をまともに受けて育った。音楽の嗜好については、母が熱烈に愛するオペラ歌手のカルーソーを馬鹿にして、軽蔑した違う意見をいうグールドだったが、健康に関しては母の意見を否定することなく、まともにそのままを引き継いだ。フローラは、病原体やばい菌が人間を病気へと陥れると恐れていた。それは、グールドが生まれる間に流行ったスペイン風邪や子供たちの運動能力を奪ったポリオの影響があった。しかし、フローラの心配は強すぎて尋常の域を超えていた。人がたくさん集まる催しや展覧会に行ってはいけないと、グールドを何度もきつく戒めた。病気を心配するあまり、グールドが夏でも厚着をするようになったのは、フローラの恐怖が原因だ。グールドは、フローラの恐怖をそのまま自分の恐怖にした。人込みを避けたし、電話口で話し相手がくしゃみをするだけで怯えて電話を切るようになった。

そのようなグールドだったが、10歳の頃に、グールドがコテージのボートから転落し激しく背中を打つという事件があった。

グールド一家は、夏の間、シムコー湖の湖畔のコテージで過ごしていた。父バートは、グールドがそこにあるボートを引き上げやすいように、波打ち際とコテージの間にレールをひいていた。グールドは、友人と乗ったボートをレールの上に滑らせながら湖水へと出そうとしていた。ところが、彼は船尾で足を踏み外し、60センチほどの高さから岩場へと垂直に落ち背中を強打した。

グールドは大変痛がった。そこで、バートは考えられるあらゆる専門家に見せることを2,3年という長い期間ずっとした。グールドは、普通の医者にはじまり、整骨医、カイロプラクター、マッサージ師とX線医へと通うようになった。カイロプラクターによる施術が効果があると感じたグールドは、近所のアーサー・ベネット療法士、さらにはこの療法士が引退した後は、1957年から1977年まで20年間、ハーバート・ヴェア療法士の治療をずっと受けていた。また、オランダ人マッサージ師、コーネリアス・ディースが、長年グールドのマッサージに当たって、コンサート・ツアーに同行させることもあった。

カイロプラクターのヴェア療法士は、「慢性的な姿勢の悪さが原因で、ゲレーロのもとで身につけた屈みこむような演奏姿勢が、悪化させている。」という診断をしていた。しかし、グールドの首、方、腕と手の痛みは生涯続き、とくに左の腕と手の症状は消えなかった。

しかし、バートは「息子がほんとうの意味で病気だった日は、生涯1日としてありませんでした。」という。

少年時代のグールドは、父母と舞台に立ちピアノやオルガンの演奏をして聴衆から絶賛を浴びると、すなおに喜んでいた。しかし、13歳ころからカナダ国内では最も評価の高いトロント交響楽団とも協演し始め、リサイタルも始めるようになった。グールドはこの年齢になると、少年時代の「無責任で気楽な」気分でピアノを弾けなくなっていく。それは、聴衆の期待に応える責任感を自覚するようになったからだ。一方で、人前で恥をかく恐怖を克服するための、自分との戦いをする必要もあった。それは、すべての演奏家が直面する「あがり症」の問題だった。

だが、グールドは楽々とあらゆることをこなし自信満々であることをモットーにしていたから、「あがり症」の存在を認めようとしなかった。自信満々なだけではなく完璧性でもあった彼は、ステージでのわずかなミスや思いどおりの表現が出来ないことが許せなかった。グールドの演奏後、観客がスタンディングオベーションをして大喝采をおくっているときでも、「ちいさなミスをした。もう一度、弾き直したい。」と、忸怩たる思いで立ち尽くしていた。

そのような彼は、「あがり症」の存在を認めるのではなく、「コンサートは死んだ。」、「群衆としての観客は敵だ。」とコンサートの価値を否定するような発言をする。これはあきらかに問題のすり替えだったが、彼にしてみれば当然だった。彼は、「コンサートは死んだ。」という自説を時間とともに肉付けをして強化する。

そのような発言をしながらも、グールドは、コンサートが音楽家として名前を売り地位を確立するまでは必要だと考えていた。実際に彼が、周囲の反対を押し切って、コンサートに出なくなるまでには、10年以上の年月が必要だった。

自分が信じる音楽の演奏と、現実のさまざまなギャップ、例えば、初めて弾くピアノが自分にあわずもっと軽いアクションのピアノで弾きたい、コンサートホールの空調が自分に合っていない、評論家たちが思うように高い評価をくれない、観客たちがまるで闘牛でも見るようにピアニストが失敗をするのを待っている、ささいなミスをするとかして、自分のコントロールできないことをすべてをなくせない。そうしたコントロールできないことがあると、グールドは大きなストレスを感じ不安がおこるのだった。

不安はコンサートだけでなく、日常生活にもあらわれた。もともと、フローラから「あれを食べなさい、これを食べなさい」とガミガミいわれてきたグールドは、摂食障害を起こしていた。まともな食事を日に1度しか食べないグールドだったが、ガールフレンドたちと食事に行っても、スパゲッティしか食べられず、食べても吐くということを繰り返していた。ピアノを弾くときには、アロールート・ビスケット[1]とポーランド・ウォーター[2]だけを取り、何も食べない方が頭が冴えて都合が良かった。

睡眠障害も起こっていた。グールドがシムコー湖のコテージで暮らすようになると、生活のリズムは狂い昼夜が逆転した。長い時間熟睡することが出来ず、グールドは睡眠薬を飲み始めた。グールドが飲んだのは、バルビツレート[3]系のネンブタール[4]やルミナル[5]だけでなく、プラシディル[6]とダルメーン[7]も飲んでいた。こうした薬は耐性があり、効きが悪くなるので分量が増えがちになる。現在では作用が強力で依存性が強いため、使用に規制が行われているものばかりだ。

自信満々で傲慢なほどの態度のグールドには、対人恐怖症もあった。大勢の中にいると、場をコントロールできないため居心地が悪くなる。人と接するには、コントロールが効きやすい二人が良かった。さらにもっと都合が良いのは、電話だった。相手の目を見ないで話をするグールドにとって、電話はもっとも好きな手段だった。

そうした不安を起こしやすい複数の人間が集った場面を乗り切るために、グールドはこのころから精神安定剤や抗不安薬を飲むようになっていた。グールドは、長年ジアゼパム[8]系の精神安定剤ヴァリウム[9]を飲んでいたが、ステラジン[10]、リブラックス[11]も飲んでいる。この時期の向精神薬は、第1世代と言われ、中毒性などの副作用が強いのは睡眠薬と同じだった。

彼には内科的な不調として、睡眠とストレスおよび不安解消にこのような向精神薬を処方されていたが、本来の病気と言えるものは尿酸値がたかいことと、高血圧だけだった。したがって、筋骨の痛み、不眠症、尿酸値の数値、高血圧症については、医師の治療を受けていた。

しかし、もっと大きな問題は、精神的にさらに問題があったことだ。グールドの《病気への恐怖》が和らぐことはなかった。彼は《心気症》であり、《心気症》は年とともに悪化の一途をたどった。

彼は、平行して複数の医師から診断を受け、一人のかかりつけ医だけの診断で処方箋を書いてもらうのではなかった。彼は、他の医師の診察を受けていることを隠し、大量の処方薬を手に入れた。処方薬の一日あたりの許容量を無視し、ストレスがかかるたびにポンポンと精神安定剤や抗不安薬といった向精神薬を口に放り込んでいた。

多くの身近な人たちが、そうした処方薬の飲みすぎは体に良くない、副作用があるぞと忠告したが、グールドは「非科学的だ。」とこうした忠告をはねつけた。《グールドは、長年不健康な生活をし、ほとんど運動をせず、新鮮な空気を吸わず、太陽を避け、薬を飲みすぎ、自宅でも仕事場でも肉体的、心理的なストレスを始終感じていた》のに、《自分の不調の原因が不養生にあるとは考えず、自分は『自然児』[12]だ》と言って、症状にのみ目を向け薬物に頼って症状を緩和しようとした。

このようなグールドの処方薬への依存は、あきらかに《異常》なレベルだった。

記者に「トランク一杯の薬を持ち歩いているそうですね。」と聞かれると「トランク一杯は大げさだよ。アタッシュケース一杯だよ。」とユーモアを交えながら答えたりしていたが、あまりに大量の薬を所持しているために、カナダとアメリカ国境の税関で拘束されたこともある。

また、新しい薬が発売されるとその効き目に異常な興味を持ちその効果を知りたがった。近くに体調の悪いガールフレンドがいれば、アタッシュケースの薬箱を開いて見せ、「どの薬を飲む?」と聞くグールドだった。

こうした普通ではないグールドの振舞を見た精神科医の友人は、グールドの不安は、躁うつ病や分裂病などではないかと疑い、診断をつけるための精神分析によるカウンセリングを勧めた。しかし、グールドは慎重で、この戦後間もないこの時期に精神科医にかかっていることは、現在とは違い《気違い》扱いされる可能性があった。慎重なグールドが、女性関係を明らかにしなかったのと同様、精神病としてどのような診断が下されるのか、彼は注意を払って診断を受けようとしなかった。

そうした背景には、グールドの読書があった。グールドは興味をもったあらゆる分野の本を驚くべきスピードで驚くほど大量に読み、知識を生兵法とはいえ、専門家並みに蓄積するのだった。

とりわけグールドがシムコー湖のコテージで一番熱心に読んだのは、医学書であり、薬に関する本だった。中でも、当時急速に進歩した精神に作用する向精神薬、抗不安薬、安定剤などについて最先端の研究書を読み漁るのだった。

医学、薬学の知識に加え、彼がこの時期に熱中したのは、[13]現代文学、神学に加え、カナダの政治と愛国心、女性のオーガズムの原理、株式市場(とくにカナダ鉱山関係)、映画、音楽産業、超感覚的知覚(超常現象)など膨大な本を読むようになった。日本文学では、後に熱中する夏目漱石を別にすると、[14]三島由紀夫や安倍公房だった。当時に流行していた本ももちろん読んでいた。


[1] アロール・ビスケット カナダで売られている赤ちゃん用のビスケット

[2] ポーランド・ウォーター ペットボトル入りミネラルウォーター

[3] バルビツレート 鎮静薬、静脈麻酔薬、抗てんかん薬などとして中枢神経系抑制作用を持つ向精神薬の一群。乱用薬物としての危険性を持つとされる。

[4] ネンブタール《薬学》〔バルビツール系の催眠薬。多用により薬剤への耐性が生じ、次第に効かなくなる。ために服用量を増やして行きがちになる。服用を中止すると超興奮状態になり、時には死に到る。(英辞郎から)

[5] ルミナル 代表的な催眠薬。強力で持続力があり、鎮痙剤(ちんけいざい)として多用される。(コトバンクから)

[6] プラシデイル 弱い鎮静と催眠効果のある薬(WEBLIOから)

[7] ダルメーン 日本では、フルラゼパムと呼ばれるベンゾジアゼピン系の長時間作用型の睡眠導入剤の一種。(Wikipediaから)

[8]ジアゼパム(英語: Diazepam)は、主に抗不安薬、抗痙攣薬、催眠鎮静薬として用いられる、ベンゾジアゼピン系の化合物である。(Wikipediaから)

[9] ヴァリウム ジアゼパムと同じ。商品名。

[10] ステラジン 統合失調症などの不安神経症や精神病性障害の治療に使用されるフェノチアジンと呼ばれる一群の抗精神病薬。

[11] リブラックス 神経系を遅くする薬です。(Libraxカプセル)は抗コリン作用薬です。

[12] 自然児 すみません、「調査中」です。

[13] 「グレングールド変奏曲:(木村博江訳)東京創元社」 《エレクトロニック時代のバッハ》リチャード・コステラネッツ

[14] 「グレン・グールド 神秘の探訪」ヴィン・バザーナ 人間国宝147頁


● きしみ始めるバッチェンとの交際

グールドは、シムコー湖のコテージに籠もる生活を始めた。そして、バッチェンをしょっちゅうそこへ連れて行った。

グールドは二人になると孤独な一面を捨て、暇があればピアノの下でセックスをした。読書家のグールドは、女性のエクスタシーへのプロセスは本を読んで知っていたし、彼女は彼より7歳年上だったので、彼は《グッド・ラヴァー(Good lover)》[1]になった。

セックスが終わると、バッチェンとピアノの演奏だけでなく、ロシアやドイツの文学について語りあった。グールドは女性に対して生涯、非常に献身的だった。

グールドのレコードを40枚以上、約15年間にわたって一緒に作ったコロンビア・レコードのプロデュサーのアンドルー・カズディン[2]は「グレン・グールド・アットワーク[3]」という本の中で、グールドの女性に対する態度をこう書いている。

プロデューサーのアンドルー・カズディン

「グールドには、正常な発達がどこかで阻害されたのではあるまいかと思われるようなところが幾つかあった。それはいろいろな形で表に出てくるのだが、特に感情的な振舞いとか情緒的な面でその傾向が顕著だった。世間一般の常識からすると、確かにグールドの女性に対する態度は変わっていた。それはわたしにもはっきり感じられた。彼は女性を、あたかも思春期前の少年のような眼差しで見ていたのである。・・・・」

彼は一家のモーター・ボートのアルバン・B号とアーノルド・S号で、シムコー湖へ出るのが好きだった。夏には、釣りという行為に反対する彼は、そのボートでS字カーブを切り大きな波をたてて釣り人を追い払ったり、架空の指揮に夢中になって両手を離したまま船を走らせた。冬には車にバッチェンを乗せ大胆に、凍った湖面を走らせた。

一方で、大きな自尊心と釣り合う自虐的なユーモアを示そうと、大きな耳を揺らして見せたり、父親のアライグマのコートを着て、派手なものまね芸を見せたりした。グールドの大きな耳は、アメリカデビューをしたときには、セクシーだと評判になった。

しかしながら、バッチェンは彼を「人となかなか気楽にコミュニケーションを取ろうとしなかった。」と言う。

バッチェンは、グールドとのプライベートな付き合いを今も具体的に語りたがらない。それはグールドが、ガールフレンドに対し二人の付き合いを秘密にしたがっていたから、彼が死んだ今でもそれを守っているからだ。このことは、他のガールフレンドにも言えた。他のガールフレンドたちも、グールドが望まなかったことは、彼が死んでも守りつづけたいと考えていた。

グールドは、バッチェンを自分のガールフレンドとして実家に連れて行き、両親に紹介した。バッチェンは、これは答えても差し支えないと判断したのだろう。実家へ行ったときの様子をインタビューで次のように答えている。

「私は彼の両親ととても親しくなりました。いい人たちでした、社会的な意識が高く、正しいことをしようと意識が向いていました。グレンは、母親を慕っていましたが、少し恐れていたような気がします。グールド夫人は、私が使ったことのないスチームアイロンを買ってくれたり、お父さんが毛皮のコートをくれたのですが、グレンは動物好きで、動物愛護者でもあったので、その事実を嫌っていました。私を暖かくしてくれたそのコートが大好きでした。両親はとても私に親切にしてくれました。私たちが結婚すると思っていたのです。[4]

バッチェンは、グールドにピアノの演奏について指導をしてもらっていたし、バッハの解釈などは二人で考えてきた。もちろん、バッチェンは最大限の努力もしてきた。だが、彼女の技量はなかなか水準を超えなかった。

27歳のバッチェンは、1953年2月のキワニス音楽祭のシニアコンペティションの「現代部門」に参加した。ゆっくりとメランコリックで時に暗い、彼女自身が「素晴らしく陰鬱な世紀末の作品」と評したベルクのピアノ・ソナタ第1番を弾いた。この曲は、グールドのもっとも好きな曲の一つと言ってもよい曲だった。20歳のグールド先生は、バッチェンにこの曲の自分の解釈を伝え、彼女はずっと練習してきた。

本番のコンペティションの演奏で、バッチェンはうまく弾けなかったと感じながら舞台を降りた。そして、彼女はこう言った。

「私は壇上から降りて彼に言ったの。『ええ、これで美しい友情もお終いね。』ところが彼は、『いや、そんなことはない。きみは上手だった。』」[5]

実際に、審判員はグールドに賛同するかのように彼女に1等賞を与えた。

この時もそうだったが、バッチェンは、自分が試されているという感覚が抜けず、あがり症に悩まされていた。人前で弾くときに思いどおりに弾けないかった。

グールドもおなじだった。「あがり症」を克服する術につねに悩んでいたが、その悩みを誰にも打ち明けることなく、彼は、「コンサートは死んだ。」「コンサートは過去の遺物だ。」と言い、やがてコンサートから逃避する道を選んだ。

この頃、バッチェンは、生計を立てるために仕事をかけ持っていた。昼は、広告を製作する映像会社で、フィルムをファイリングする司書の仕事をし、夜は彼女のアパートのスタジオで、子供たちにピアノ講師として教えていた。

しかし、グールドは、唯一の大作、弦楽四重奏曲ヘ短調作品1の作曲に取り掛かっていて、深夜遅い時間にお構いなく、バッチェンに電話で作曲した数小節を説明するのだった。

グールドは、昼夜逆転した生活を送っていたから昼間に眠れば済んだ。しかし、バッチェンが深夜2時や3時までの電話に付き合うのは、翌日の仕事があるので、負担で窒息しそうだった。

バッチェンは、グールドがニューヨーク・デビューをするしばらく前、アスキス46番地からグレンロードという場所へ引っ越しをした。アスキスのアパートは、ハミルトンと共同で借りていたが、二人で月に200ドル(2023年現在価値PER Capita GDP換算6,652ドル、日本円で約93万円)かかって大金だった。それでバッチェンは昼には映像会社のフィルムライブラリアン(司書)の仕事と、夜にはピアノ講師をかけもちする生活をしていた。

そこにはグランド・ピアノを置ける広さの部屋があったので、チッカリングのグランド・ピアノを知人からレンタルで置いていた。チッカリングというのは、アメリカのピアノメーカーの名前で、そのピアノはハープシコードのような軽い音色がして、なによりタッチが軽く即応性が良かった。ピアノを打鍵してすぐに音がでる反応の早いピアノが好きだったグールドは、これに夢中になった。

やがて、バッチェンはさらに生活費に困るようになる。とうとう、このレンタル契約を解約せざるを得なくなるのだが、バッチェンはその費用をグールドが肩代わりしてくれることを願っていた。

ところが、グールドはそうはせず、1957年にそのピアノを555ドル(2023年現在価値換算16,038ドル、日本円で約225万円)で自分で買い取って、シムコー湖のコテージへ運び、自分のものにしてしまった。[6]このことをバッチェンはインタビューをされた今でもずっと恨んでいる。

ある晩、グールドとバッチェンが話をしていた時、海に浮かぶ氷の上に二人が取り残されたらどうするかと言う話になった。

「いいかい、バッチェン。二人が流氷の上で取り残されるんだ。氷は小さくて、二人がずっとは乗ってられないんだ。そんな時にどうする?」

バッチェンは少し困って、

「二人でじっとしてるわ。」と言った。

「ええっ、そうなの。ぼくが生き残れるように海へ飛び込まないの?!」[7]とグールドは言った。

グールドは、バッチェンが身を挺して自分を助けてくれると当然のように期待していて、そうでないことが不思議で理解できなかった。

この会話で、グールドの気持ちにはさすがについていけないとバッチェンは思い始めた。

グールドは、ニューヨーク・デビューのあと、バッチェンにプロポーズしたと、前に書いた。

彼は、プロポーズの言葉に”We should get married.”(結婚しようよ。)と言ったが、普通はこんな命令口調や上から目線で言わないだろう。「幸せにするから結婚してください。」とか、「ずっと一緒に暮らしていこう。」とかいうのが一般的だろう。

バッチェンは、世界一有名な若いピアニスト夫人になるか、ずいぶん長い間考えた。しかし、彼にはあまりに社会性がない、結婚して一緒に暮らすのはあまりに割が合わないと結論を出した。

結局、バッチェンは仕事で忙しく、グールドの最大のイベントとでもいうべきアメリカ・デビューを聴きに行けなかった。


[1] セックスが上手 英語で”Good lover”という。

[2] アンドルー・カズディン 本の英語タイトルは、「Glenn Gould at Work-Creative Lying」で、カズディンも書いているが、”Creative Lying”は『独創的な嘘』という意味にとれる。

[3] 「グレン・グールド・アットワーク 創造の内幕」アンドルー・カズディン 石井晋訳 音楽之友社 118P

[4] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter3, page39

[5] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter3, page38

[6] チッカリングのピアノ ”The secret life of Glenn Gould” Chaptet5 P60

[7] 流氷の話 ”The secret life of Glenn Gould” Chaptet4 P52

● 他のガールフレンドたち

グールドはバッチェンと交際し、シムコー湖のコテージで長い時間を過ごしていたが、同じ時期に両親に紹介したり、シムコー湖のコテージへ連れて行く仲の良い二人のガールフレンドがいた。

一人はカナダの公共放送局CBCでプロデューサーとして働いていたエリザベス・フォックスであり、もう一人はグールドが14歳の時から、3歳年上でピアニストを目指していたアンジェラ・アディソンだった。

陽気なブロンドのエリザベス・フォックスは、1952年から1953年(グールド20歳から21歳)にかけて、グールドと一緒に音楽を聴いたり、当時の流行りだったTSエリオット[1]、クリストファーフライ[2]などについて話していた。フォックスが働いていたCBCは、日本のNHKにあたり、放送の分野で圧倒的な存在である。ラジオの時代は1920年代から始まり、流れる音楽にはクラシック音楽が多く含まれていた。グールドも熱心にラジオから流れるクラシック音楽を聴いていた。CBCは音楽家たちが刺激を受ける大きな拠りどころであり、生活の糧を得る場でもあった。グールドは、6歳の時に地元のラジオ局に出たし、1945年3月キワニス音楽祭の入賞者たちと早くからラジオに出演し10ドルの出演料をもらった。1950年から1955年までグールドは、CBCラジオに30回出演したが、その最初にCBCへ出演した18歳の時に、「マイクとの情事がはじまった。」[3]と語っている。

国内では早くからスターだったグールドは、CBCに何度も出演する中でフォックスと知り合った。

その時のグールドは、髭をそる必要のないほどつるんとした肌をしており、彼女は、その言葉を知らなかったが、アンドロジナス(両性具有)だと思っていた。

フォックスは、彼の家へも行き、両親は思いやりがあり親切だとおもうものの、グールド一家を全米で260万部売れ、映画にもなった「スチュアートの大ぼうけん」という童話を引き合いに出し、次のように見ていた。

スチュアートの大ぼうけん

「彼の家を訪ねたら、そこはまさしく実に心暖まる、快適な場所だと分かるでしょう。わたしはよく食べましたし、歓待されたのを覚えています。室内には明かりがたくさんついていました。両親はどちらもいい人でした。あの人たちが他の人にどのように接していたのかは知りませんが、わたしが遊びに行くと、とても親切にしてくれました。しかしいつも - やはり息子に対して敬意を払っているようなところがありました。あとになって、E・B・ホワイトの『スチュアートの大ぼうけん』[4]ことを考えました。鼠を子供のように飼う夫婦の話です。鼠は人間のように立派に服を着こんでいますがすることといえば、下水管を上がったり下がったり、それだけ。そう、誰でもグールドの家にいたら、あの夫婦は自分たちには属さない何かを生み出したのだと思ったでしょう。一応は人間に似せて服を着せられていて、ピアノを弾くけれど、うーん、なんと言ったらよいのかしら - 両親は常に畏怖の念をもって接していました。[5]

もう一人のアンジェラ・アディソンは、グールドより3歳年上で同じくゲレーロの生徒だった。グールドとアディソンは、ゲレーロのレッスンが終わった後、交代でピアノを弾きながら一緒に時間を過ごした。

グールドはさまざまな曲を演奏し、その解釈をアディソンに納得させようとし、彼女の演奏を批評した。

グールドが18~19歳になると車を運転するようになり、彼女を乗せてドライブし、後には人前で食事をすると緊張して胃痛や下痢などを起こす摂食障害を起こすようになっていたが、この時期はしょっちゅう二人でスパゲッティを食べた後、シムコー湖のコテージへ行っていた。

コテージは、カエデの木、アライグマや海岸に打ち寄せる波に安らぎを感じ、頭の中の思考パターンとメロディーを乱す唯一のものは、松林の突然の風の音や遠くのジープだけで、何々しろという人がいなかった。

少なくとも母親がトロントに戻っているときは、ファンから離れられるし誰にも触る必要がない。

彼は、「ピアノ・クォータリー」1977冬・1978夏号にこう書いている。

「わたしが思うに芸術家は、外界から入る知識でいつでも編集でき、環境をコントロールできる孤独な時に、一番良い仕事ができる。グレン・グールドは言う、『ぼくは、空き時間にピアノを弾くカナダ人の著述家で、ブロードキャスターだ』が、芸術家の理想とその実際が形づくる不可分な組み合わせ[6]を妨害することは許されない。」

アディソンはグールドをこう見ていた。

「人がいないところでは、グレンは複雑で多面的で、そして可能な限り奔放な自分自身でいることができたのです。」

彼は一人になると珍しく運動をしたし、ボートにも乗り、森で子供たちと犬と一緒にワルツを踊った。

アディソンは、グールドのコンサートへも何度か足を運んだが、彼はコンサートがいかに嫌かを、彼女に理解させようとした。普通、有名な演奏家は、観客の中に完璧な聴衆を求めるが、グールドは聴衆に興味はなかった。観客のことなど本当はどうでもよかった。それは、自分のコントロールが効かなくなることを極度に恐れていたからだ。彼には周囲を常にコントロールしている状態が必要だった。

グールドの死後、アディソンは彼への賛辞の中でこう書いている。

「天才との友情は決して簡単なものではありません。それはおそらく、最も人間関係の中で最も脆いものです。私はグレン・グールドというとらえどころがなく、謎めいていて、私的で孤独な友人でした。私はまた、忠実で、寛大で、礼儀正しく、楽しく、そしてもちろん第一級の輝きを持つ友人を持っていたのです。」

アディソンは、グールドとベッドインしたかという問いに、次のように答えている。

「私たちの間には性的な雰囲気はありませんでした。彼は私を友人、うるさく言わない友人として見ていました。私は、グレンにどんなわずかでも脅かすようなことは言わなかった。彼は、女性との関係が濃厚になると、感情的な要求やコミットメントを期待され、全く気がホッとできなかった。彼はそれをとても恐れていました。間違いなくある女性たちとの間に、コントロールの問題があったのです。」

「グールドは親密な関係には口が堅く、同じことを彼女らに期待していました。もしあなたが、彼の真の友人であれば、互いを完全に信頼しなければならない。その信頼を打ち砕くことはできないのです。」[7]

つづく


[1] Thomas Stearns Eliot、1888 – 1965アメリカ生まれ、イギリスの詩人・文芸批評家。ノーベル文学賞受賞。ミュージカル「キャッツ」は、彼の児童向け作品が原作。

[2] Christopher Fry 1907-2005 イギリスの劇作家 T.S.エリオットとともに戦後イギリス演劇の主流の座を守り続けた。

[3] マイクとの情事 1974年「音楽とテクノロジー」という記事で、この初めてのCBCラジオでもスタジオ生放送で、モーツアルトのソナタK281とヒンデミットのソナタ3番を弾いた印象を「・・・・そのときわたしは、自分の人生の進むべき方向をぼんやりとではあるが感じ、テクノロジーは芸術を妥協させ、芸術に侵入して人間性を失わせるものだという同僚や先輩たちの言葉はナンセンスであると悟った。そしてマイクとの情事が始まったのである。」《神秘の探訪》P134

[4] 『スチュアートの大ぼうけん』AMAZONのコピー: リトル家の次男は身長5センチ、ハツカネズミそっくりだった…。公開映画「スチュアート・リトル」原作本!全米260万部突破の大冒険物語。

リトル家の次男は身長5センチ、ハツカネズミそっくりだった……小さな体に大きな勇気のスチュアートがくりひろげる楽しい大冒険。《アマゾンのコピーから》

[5] 「グレン・グールドの生涯」オットー・フリードリック 宮澤 第2章P50

[6] 組み合わせ グールドは「ユニット」という言葉を使っている。

[7] The secret life of Glenn Gould, Michael Clarkson, Chapter3 P29

手が小さいからピアノが上手に弾けないって、本当? 《5歳の天才ピアニスト》、《ムカデが100本の足を動かす》と《30分でピアノを教える》

親爺のブログを見てくださった方が、ロシアの5歳の天才少年ピアニスト、エリゼイ・ミシン(Elisey Mysin)を教えてくださった。現在は、12歳になっているようなのだが、この子が、本当に5歳でこんな素晴らしい演奏をするのかと驚いたのだが、一つ疑問に思ったことがある。

というのは、ピアノの鍵盤を弾くときに、手が小さくて鍵盤の遠く(オクターブ)を押さえられないと、小さい手の女性は不利だという意味のことをよく聞く。指を開けるためにマッサージや手を柔らかくするトレーニングとかさまざまなことを、嘘か真か親爺には判断がつかないことをするらしい。

ところが、この少年の手は上の写真のとおりで、司会者の手の大きさと比べると5歳の少年らしく相当小さい。

だがこの少年は大人顔負けの演奏をする。むしろ、この子ほどのレベルで演奏できるピアニストは大人でも少ないのではないかと思えるほどだ。そうすると、この少年はどのように弾いているのだろうかのだろうか。

そこで、グールド推しの親爺としては、グールドはピアノを弾くということをどのように考えていたのかを見てみたい。

グールドは、ピアノ演奏の技術的困難さに直面するときの対処方法として、この困難さに正面から立ち向かってはならないという意味の答えを《足を動かせなくなるムカデ》の比喩で何度も発言している。

また、グールド自身、自分は弾けるのだが、なぜ弾けるのかは説明できない、だから、誰かに教えることができないということがよく言われる。 では、具体的なグールドの発言を見ていきたい。

1.1968年:CDコンサートドロップアウト ー ジョン・マックルーアとの対話から

このCDは、1968年にリスト編曲のベートーヴェン交響曲第5番のピアノ用編曲が発売された際に、インタビューがボーナス・トラックとして同梱されていた。なお、ジョン・マックルーアは、アメリカ人でコロンビア・レコードの有名な音楽プロデューサーである。

宮澤淳一さんが、この翻訳を2022年末に発売された『バッハ全集(SACDハイブリッド)』の冊子で翻訳されている。

ジョン・マックルーア:「・・・演奏中の歌声はいったいどんな機能があるのですか?説明してくれませんか。」

グレン・グールド:「難問です。これはムカデ問題ですよ。あるときシェーンベルクがこう言いました。私はなぜこれこれの手順をとるのかと作曲専攻の学生に尋ねられるのが苦手だ。100本の足をどいう順番で動かすのかと尋ねられたために、足を1本も動かせなくなってしまったムカデの気持ちになるからだ、と。この問いには人の能力を奪うところがあります。ちょっと怖いですね。

ジョン・マックルーア:「それなら避けていただいた方がよいでしょう。そんな危険にさらしたくありません。」

グレン・グールド:「いや、1パラグラフ以内で答えますよ。歌わないと弾けないのです。やめられるものならそうしています。・・・・・」

2.「ムカデの気持ち」「グレン・グールド伝 天才の悲劇とエクスタシー (ピーター・オストウォルド 宮澤淳一訳 筑摩書房)」から 355ページ

以下、著者オストウォルドの記述の引用である。

「グレンはこの『ピアノ・クォータリー1』誌が気に入り、いくつかの号に、特に、後に知り合ったが、ある女性のピアノ教師の日記を掲載した号に関心を示した。この教師にグレンが注目したのは、自分の母親もピアノ教師だったからかもしれない。教えることに関して、グレンには二つの想いがあった。自分がピアノを決して教えられないのは、どう演奏するのかと生徒に尋ねられると、どの順番に足を動かすのか説明を求められた『むかで』の気持ちになってしまうからで、足をまったく動かせなくなったこの哀れな生物を襲ったのと同様に即時に体が麻痺してしまうのだ。彼は繰り返しそう主張していた。ジョン・ロバーツ2によれば、ああした奇蹟のような結果をピアノからどうやって生み出せるのか『グレンは本当に知らなかった』という事実自体が『本人にとって脅威だった』という。『彼はピアノ演奏について分析的に考えたくなかったのです。・・・・・・ピアノ談義を嫌悪していました。つまり、指や手をどう動かすか、といった話題のことです。自分にはそうできる、ということしか知らなかったのです』」

「かたやグレンには教えることにうぬぼれがあった。教育者たちの集団に向けて、彼は次のような怪しからぬ発言をしている。『時間と心と静かな部屋を30分貸してもらえれば、誰にでもピアノの弾き方を教えてさしあげます。ピアノ演奏について知るべきことはすべて30分で伝授可能なのです。自信がありますよ。』私の知る限り、この挑戦に応じた生徒は一人もいない。」

3.「ピアノは30分で教えられる」「グレン・グールドは語る ジョナサン・コット 宮澤淳一訳 筑摩書房」

以下、著者ジョナサン・コット3が書いたものを引用する。

「最近、教育者の集まりで話をする機会があり、施設化された技能的な「工場(ファクトリー)」でピアニストを教えるときの諸問題を取り上げました。音楽教師という職業は、ある誤信を生み出したと思います。すなわち、それを知るためには一連のものごとをこなさなくてはならない、というものです。だから私は言いました ー 時間を30分、それから皆さんの熱意と静かな部屋さえ提供していただければ、誰にでもピアノの弾き方を教えてさしあげます。ピアノ演奏について知るべき内容のすべては30分で伝達可能なのです。自信があります。ただし、実行したためしもなければ、実行しようと思ったためしもないのです。なぜならこれはシェーンベルクの言ったムカデの話だからです。ムカデの気持ちになるから、と言って、シェーンベルクは音列の使い方を質問されるのを恐れていた。ムカデは100本の足の動かし方を考えるのが嫌いです。能力を損なわれるからです。動かし方を考えるとまったく歩けなくなるのです。私はこう続けました ー ですから、私は30分のレッスンをするつもりはありませんが、もしすると決めたなら、身体的な側面はごく最小限にとどめますので、集中して私の説明に静かに耳を傾けてくだされば、伝授可能です。カセット・テープに録ってもかまいません。あとで聴きなおせば、授業を受けなおす必要がなくなりますからね。皆さんは、あとで、一連の訓練を実行しなくてはならなくなるでしょう。それによって、私のお伝えしたわずかな情報と、その他の身体的な動きとの相互関係を確かめられます。すると今の自分には何ができなくて、どこに座れないか、また、どんな自動車には乗れないかに気づくはずです。」

「これを話し終えないうちに、先生方は大笑いを始めました。練習を反復作業だと思い込んでいたからです。しかしそれはまったく違う。私が真剣に訴えたかったことはこういうことです。つまり、これさえきちんとできれば、触感的・運動的な問題から自由になれるのだ、と。いや、訂正します。自由にはなれないし、そうした問題は永久についてまわります。ただ、問題が身近であればこそ、かえって三次的な関心事として片づけられるのです。攪乱要因が折り重ならない限り、『混乱した』(disarrenged)状態は起こりません。」

  1. 「ピアノ・クォータリー」誌 作曲家、ピアニストのロバート・シルヴァーマンが発行人兼編集長の季刊のピアノ誌。グールドが、「ハイ・フィデリティ」誌ともめているときにグールドは寄稿していた。グールドは14本の原稿を寄稿していた。 ↩︎
  2. ジョン・ロバーツ ジョン・P・L・ロバーツは、1930年シドニー生まれ。1955年にカナダへ渡り、CBC(カナダ公共放送局)ウィニペグの音楽プロデューサーになる。グールドと親交が深かった。「グレングールド発言集」、「グレングールド書簡」を発行した。 ↩︎
  3. ジョナサン・コット 1942年ニューヨーク生まれのノンフィクション作家・詩人。『ローリング・ストーン』誌創刊以来の中心的な書き手で、ジョン・レノン、ボブ・ディランなどのロングインタビューを行う。 ↩︎

親爺の結論

きっとピアノを上手に弾けるという才能と、ピアノを上手に教えるという才能は違う。しかし、ピアノを弾く際に、テクニックに気を取られてしまうと、その瞬間に演奏が難しくなる。演奏が全体として支離滅裂になりがちなのは、誰もが経験することだろう。

グールドは、ピアノを弾きながらなぜ鼻歌が止められないのかと聞かれたときに、「僕にとって鼻歌を止めるのは自殺行為だ。」と答え、自分が出来ているピアノの演奏をどうのようにしているかと質問されると、「これに答えようとするのは、能力を削ぐ行為であり、自殺行為だ。」と答えていた。

ところがその一方で、グールドがピアノを教えられるという自惚れは捨てきれず、30分あればピアノの演奏を教えられると大袈裟なことを言っている。しかしその具体的な中身は言わない。「繰り返し練習することなく、触感的・運動的な問題から自由になれる。」と一旦言うものの、すぐに前言を翻し、「いや、そうした問題は永久について回るが、かなりの程度問題は解決されるはずだ。」という。ここは、分かったような分からないような発言だと親爺は思う。

やはりこの《ムカデ論争》と《30分でピアノを教えられる》という議論は、天才はなぜ天才かという側面があり、天才の技術をいくら分析しても、凡人は天才になれない。また、凡人が少なくとも、いくら練習を反復する方法をとっても天才にならない、というのは明らかだろう。指使いが可能な範囲で演奏しているようでは、平凡な演奏にしかならないだろう。技術の制約が原因でブレーキをかけるのではなく、頭の中で描く理想像へとジャンプしないとダメだろう。

グールドの言っていることは、確かにどこか変でおかしいし説得力もないかもしれない。しかし、彼は天才的で自分の世界を解釈し表現することができた。その演奏のプロセスを人様にうまく説明できなかったとしても、それがなんだ。彼は学者ではない。彼は良い演奏を残した演奏家だ。

しかし、彼の発言に説得力がないのに、妙なプライドがあり強弁をするのは、それも天才だからだろう。もちろん、グールドの発言全てを肯定することも可能だし、否定することも可能だ。ただ、そうしたグールドの態度や性格が、天才を生み出したのは間違いない。

おしまい

N響ソロイスツによる 本邦初演、編曲のマーラー10番を聴いてきた

マーラー(1860-1911)は、後期ロマン派、しかもその最後の音楽家に当たり、オーケストラの編成を極限まで巨大化したことで知られる。

マーラーの交響曲を演奏する際の演奏者の数は、モーツァルトやベートーヴェンの時代よりはるかに多い。

マーラーの交響曲第8番は、「千人の交響曲」と言う別称があり、壇上に150人を超えるオーケストラ、後ろの合唱団、バルコニーの少年合唱団が800人いる。楽器編成も凄くて、ハープが2台、マンドリン、ピアノなどが複数舞台にのっているし、パイプオルガンも登場する。打楽器は何種類もあり、大太鼓やシンバル、タムタム(銅鑼みたいなもの)もある。管楽器なども、大きな音量をだすということだけでなく、息継ぎをわからないようにするという理由で、一つのパートを大勢で分担したりする。

そのマーラーの音楽は、次の世代が、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ヒンデミットなどの現代音楽へと連なる。このため、マーラーの音楽もけっこう形容しがたい音楽だと主は思っている。はっきり言うと、「ようわからん」のだが、不思議な魅力があり、気になり、心のどこかに引っかかっており、時間がたつとマーラーが聴きたくなる、そんな音楽である。

マーラー Wikipediaから

そんな風に感じているマーラーなのだが、この大規模な曲を編曲して、小編成でやってみるという催しを見つけて行ってきた。下が、そのチラシである。

本邦初演!室内楽のマーラー

主は、違った角度からスポットライトを当てることで、分かりやすくなる、編曲のもののクラシックが結構好きだ。主のひいきのグレン・グールドは、ベートーヴェンの交響曲やワーグナーの前奏曲を、ピアノ編曲で弾いており、原曲とは違った魅力がたっぷりとある。

開演前の白寿ホール 満席になった

演奏があった白寿ホール(代々木・300席)は上の写真のようなところで、音響が素晴らしかった。開場直後にとった写真なので、観客がまばらにしか写っていないが、実際は満席になった。この時間には、打楽器奏者が、ティンパニのチューニングに時間をかけていた。

さて、感じたことなのだが、どの楽器も「音がでかい」。大勢のオーケストラの中で響くハープなどは、ほとんど聞き取れないような音量なのだが、こうした小編成の中のハープは、たいした存在感である。

弦楽器、管楽器もさることながら、打楽器奏者は大活躍をしていた。彼は、360度を楽器で囲まれ、ティンパニを大音量で鳴らすだけでなく、銅鑼やシンバルもならすし、トライアングルを鳴らすための金属棒を口にくわえながら、マリンバ(木琴)とグロッケンシュピール(鉄琴)なども演奏していた。

グロッケンシュピール Wikipediaから

トライアングルも、頻繁に登場するのだが、良く聞こえる。このトライアングルは、打楽器奏者と鍵盤奏者が分担しており、打楽器奏者が他の楽器を演奏して手を離せないときに、右側の鍵盤奏者が担当していた。

不思議だったのが、鍵盤奏者である。鍵盤奏者は、前にピアノと後ろにアルモニア(リードオルガン)とその中間にトライアングルの支柱を立てて、3つの楽器を担当しているのだが、ピアノとアルモニアの音は、他の楽器に埋もれてよく聞こえなかった。なぜなんでしょう。

この交響曲第10番は、マーラーの最後の交響曲で、めちゃ長くて、第5楽章まであり、およそ1時間半かかる。そのため、途中の休憩がないというアナウンスがある。それもあって、この日のプログラムは、この1曲のみである。 たしかにこの曲の後に、どんな曲を演奏すればこの曲の余韻を壊さないのか、アンコールがないのも仕方がない。

この大規模なオーケストラ曲を、編曲して室内楽の団員数で演奏することで、意外な効果があるもんだと感じた。

つまり、一つは、オーケストラの主要なパートである、ヴァイオリン、チェロ、コントラバスなどの弦楽器群の数、フルート、クラリネット、ホルン、トランペットなどの管楽器の数が通常より少ないことで、ハープやトライアングルなど、他の楽器群の大音量に負けていた楽器の音量が相対的に増し、さすがに、マーラーさん、うまい具合にハープを使っているもんだとか実感する。トライアングルも効果的に鳴らされる。打楽器もそうで、ティンパニ、太鼓だけでなく、木琴、鉄琴も好く鳴っているのが分かる。こうした楽器の音は、本来の大編成では埋もれがちだと思う。

二つ目は、大編成のオーケストラでは、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンが、それぞれ10名程度はいるような気がする。しかし、今回の編成では2名ずつだったように思う。 これがスリルを生む気がした。つまり、曲の冒頭など、第1ヴァイオリンが、静かに小さな音で長い主題を演奏するのだが、10名ほどの合奏と、2人だけの合奏では、観客への聴こえ方がまったく違う。10名ほどでやると、安心感というか安定した旋律になるが、二人というのは、完全に音が一致して重なり合うわけではないので、鮮明に楽器ごとの音が聞こえ、長い音符の区切りや節回しをどのように演奏するかとか、不一致が起こってないかとか、緊張感をはらんでくる。

協奏曲の場合のソリストは、主役なので好きなように弾けるが、二人で同じ旋律を鳴らすのは、これとも違う。

これと同じような他の楽器が鳴っていない、旋律が一つだけのときに、他の弦楽器でもそうだし、管楽器でも起こる。

最終的に、マーラーをよく理解できたか?楽しめたか?ということについてだが、残念ながら、相変わらず「ようわからん曲だ」「まあまあ、楽しめた」ということになるのだが、大音量の全奏では驚くし、ヴァイオリンが囁くように密やかになる部分では、耳をそばだてて聴き入った。

最初に書いたが、このマーラーの次の時代の音楽は、シェーンベルクなどの現代曲に連なる。マーラーの曲は、無調ではないにしろ、調性もあいまいで、12音音楽までもちろんいかないのだが、前期ロマン派の美しく、自己陶酔的で感傷的な音楽とはまったくちがう。個人的な感傷に浸ることを許さない、もっとスケールの大きな世界観や哲学を感じさせる音楽に感じられたのだが、どうだろうか。

この日の観客の反応は非常に良かった。いつまでもカーテンコールの拍手が鳴りやまなかった。

きっと、マーラーの巨大さをはぎ取って、残ったコアの部分をわかりやすく、明晰に客に示すというこの編曲の試みは成功したということなんだろうと思う。

おしまい