『アイスランドのグレン・グールド』 ヴィキングル・オラフソン「ゴルトベルク変奏曲」リサイタル

(2023/12/6 一部修正しました。)

2023年12月3日、サントリーホールでヴィキングル・オラフソンのゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ってきました。ネットで調べると、オラフソンは、1984年アイスランド生まれで、2008年にジュリアード音楽院を卒業しているそうです。

なかなか良いリサイタルでしたが、親爺は、グールドおたく、グールド推しなので、グールドファンでない人には申し訳ない内容になるとおもいます。天才と比べてどうするんだ、という批判はあるでしょうが感じたことを忖度なしに書いてみたいと思います。

やはり一番は、何と言っても演奏時間がとても長い、長すぎる点です。グールドはゴルトベルグ変奏曲をデビュー時と、亡くなる直前の2回録音をしています。ビートを効かし、みずみずしい演奏をした1回目が38分で、観念的で沈思するように弾いた2回目が51分でした。これに対して、オラフソンは(CDによると)反復を楽譜どおりにして74分かかって弾いていました。1 演奏会場のロビーには、「演奏時間約80分。途中休憩なし。」と掲示されていました。これだけ差があるのは、グールドは、1回目の録音では全曲で反復をしていませんし、2回目の録音では30曲ある変奏曲中の13曲の前半だけを反復しているにすぎないからです。このため、グールドの演奏を聴き慣れた耳には、「何度もリピートしないで!次へ行って。」と思います。

このオラフソンは、29変奏と30変奏『クオドリベット2』のところで盛大なクライマックスを持ってきて、フォルテッシモでガンガン弾き、32番めの(最後の)アリアをソフトペダルで音量をぐっと抑え、静謐で穏やかな印象でこの曲を閉じました。このために、観客に極めて大きな感動を与えることに成功したと思います。

親爺が思うに、このゴルトベルク変奏曲は、終曲のアリアの一つ前の『クオドリベット』が、それまでの格式ばった印象を解き放ち、俗謡「キャベツとかぶ」のメロディーによって気安く楽しい雰囲気へと一気に変わります。そして、最後のアリアで再び、天国のような美しい歌声で終わりました。オルフソン、なかなか良かったです。「終わりよければ全てよし」と満員の観客から感動の大喝采を浴びていました。

ここで、他の演奏家の演奏時間もざっと調べてみましょう。ファジル・サイは79分、ラン・ランは90分、バレンボイムも90分、アンジェラ・ヒューイットの1999年録音は、79分、2015年の録音は82分、親爺が好きなシュ・シャオ-メイは85分、辰巳美納子(チェンバロ)は80分、グスタフ・レオンハルト(チェンバロ)は、79分、カール・リヒター(チェンバロ)は、79分です。親爺が知るなかで唯一、高橋悠治(1938年 -)は、1976年に37分で演奏しています。つまり、高橋悠治を除くピアニストは、楽譜どおりにせっせと反復をしていると思います。高橋悠治の演奏もいいですね。

こうしてみると、グールドはあらゆる演奏において、パイオニアであり、かつ変人だったのは間違いがないとして、繰り返しをしていないピアニスト(兼作曲家)に高橋悠治がいるわけですが、この人はグールドと6歳違いのほぼ同世代で、小澤征爾、武満徹、トロント交響楽団と一緒に活動していた時期があり、おそらく、グールドとも会っていただろうと思います。

グールドは、「コンサートは死んだ」といい、演奏会の価値を否定しましたが、実際に会場で聴く生の音の心地よさを、自宅で再現することはなかなかできないと思います。アコースティックな電気をとおさない響きは、何にも代えがたいと思います。

コンサートの開場の前の、群衆としての観客の多さを見て、グランドピアノというのは、1台でこの2000人以上の観客に音を届けられるんだと感心するだけでなく、ピアニストが、この人たち全員に音が届くように弾くのは、ある種、目の前で弾くのとは違った技術を要求されるだろうと感じました。

開場を待つ観客が集まったところ。こんなにたくさんの人にピアノの音が届くんですね。

オラフソンは、すべてを暗譜で弾いていました。そのため変奏の切れ目で、一音をずっーと伸ばしたまま響かせ、次の変奏へ自然にうつる工夫をしていました。おかげで、楽譜のページをくるインターバルの違和感がなくなったと思います。

どのピアニストもグールドのように弾けないんだなと思うのは、グールドは、どれだけ弱く小さい旋律を弾いていても、一つ一つの音が、はっきり主張しています。早く弾いてもそうです。一音一音が粒のように分離しています。ところが、他のピアニストはスケール(音階)などを速く弾くと、ダラダラっと塊になってしまって、聞き分けられません。

グールドは、デタシェ、ノンレガート、スタッカートとレガートを弾き分けます。デタシェは、ノンレガートと同じで、音を切ることをいいます。スタッカートはもっと速く切ります。

グールドの演奏の基本はノンレガートにあります。ノンレガートには、緊張を和らげる効果やユーモラスな効果があります。レガートは美しく感動を呼びますが、それだけでは、どうしても平板になりがちですし、聞き手の緊張はいつまでも続かないので飽きてきます。グールドは、このノンレガートとレガートをバランスよく弾け分けます。しかも、ソプラノ、アルト、バリトン、バスの声部をレガートとノンレガートを交代させながら弾きます。 しかし、ノンレガートを使って、ずっと弾けるピアニストは、音の粒を揃えるのが難しいために、なかなかいないようです。

オラフソンは、ダンパーペダルを使いまくっています。最初から最後まで、あらゆる場面で細かく、激しくこのペダルを使っています。ピアノ(弱音)の小さい音を表現したい時には、ソフトペダルもずっと踏んでいました。ダンパーペダルを押し下げると、鍵盤から指をはなしても音を伸ばすことが出来ます。

グールドの演奏の特徴は、ペダルをほとんど使わないところにあります。つまり、音を延ばしたいときには指を持ちかえながら、鍵盤を押さえつづけるというピアノ演奏の基本にあります。そうすることで、音が濁らず明晰に聴こえる効果があると思います。

オラフソンは、超速でパッセージを弾くことができ、見事にリズムを保っていました。ただ、前に書きましたが、音がつながって聴こえ明晰ではありません。メロディーも高音ばかりが目立って、ときどき低音や内声のメロディーも聴こえますが、ポリフォニーという感じがせず、声部が交代している感じがしません。グールドは、いつでもつねに声部の対比を楽しませてくれます。

終演後、観客が熱狂的に拍手と歓声を送りました。ですが、オラフソンはアンコールの演奏をしませんでした。何度かステージにでてきた最後に、「日本へきてこのように盛大な拍手をもらえるのはうれしいですが、このような素晴らしい曲を弾いた後に、他の曲を弾くのはできません。」といった意味を言っていました。会場もすぐに明るくなり、観客は帰り支度をしなければなリませんでしたが、アンコール曲の演奏を聴きたかったという人は多いと思います。

サイトから、第1番の変奏だけを聴くことが出来ます。

おまけ

実は、翌日(12月3日)に葛飾シンフォニーホールの公演では、オラフソンのゴルトベルク変奏曲だけでなく、清水靖晃とサキソフォネッツ(5サキソフォンと4コントラバス)によるこの曲の演奏会があったのです。これを親爺は、チケットを買う際にうっかり間違えてしまったのです。もったいないことをしました。(涙、涙)

おまけ2

ファジル・サイのゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ったときの記事です

おまけ3

辰巳美納子のゴルトベルク変奏曲のリサイタルへ行ったときの記事です

おしまい

  1. グールドは、「1955年には、32曲全曲反復なしのA-B-(なお、1959年のライブ演奏の録音では、A-B-が30曲、AAB-が2曲でした。)でしたが、AAB-は1981年には13曲となり、その分だけでも全体の演奏時間は長くなっています。ちなみに、どちらのグールドの演奏にも、後半の反復をするA-BBあるいはAABBの形式は採用されていません。」(http://wisteriafield.jp/goldberg/#part13ch1325 から引用させてもらいました。) ↩︎
  2. クオドリベット(Quod libet) ラテン語で「好きなものをなんでも」という意味で、大勢で短いメロディの歌を思いつきで歌い合うことです。 ↩︎

ゴルトベルク変奏曲 終わりよければすべて良し ファジル・サイ リサイタル

2022年1月29日、ファジル・サイの J.Sバッハ、ゴルトベルク変奏曲のリサイタルに墨田トリフォニーホールへ行ってきた。

ファジル・サイは、トルコ、アンカラで1974年生まれなので、49歳ということになる。トルコ人と言うことで、ドイツ正統派とみなされないハンディキャップがおそらくあると思うのだが、彼の演奏は明晰で明るく、構成が明確で非常に好ましい。

親爺は、バッハのオリジナルがヴァイオリン独奏で演奏される《シャコンヌ》という有名な曲をピアノ用に編曲したCDを聴き、なかなか良いと思っていた。

また、彼は作曲もやり、ブルーノート東京でジャズもするようだ。

スタンウェイ。休憩時は調律していました。

コンサートの印象なのだが、ゴルトベルク変奏曲は、「やはりグールドの演奏はうまいなあ」というのが基本にある。以下は、音楽家でもない親爺の気づいた感想なので、間違いもあるかもしれない。

ファジル・サイは、この曲を1時間かけて演奏したのだが、グールドは40分~50分くらいで演奏する。グールドは反復記号をかなり無視している。楽譜通りに反復すると、くどいなあと感じることもある。グールドは、遅い曲はより遅く、速い曲はより早く弾く。

ファジル・サイは、グールド以上に、バッハをバッハらしく、理知的で数学的に弾くのではなく、まるでロマン派の曲のように感情をこめて弾くのだが、そこは共通するなあと思った。

開演前の様子。1800席は満席でした。

一番違うのは、他のピアニストもそうなのだが、内声がグールドほど明確に聞こえないことだ。つまり、一番高い旋律と低音の伴奏だけになり、内声は低音部と一緒になっているように聴こえる。グールドは、ソプラノ、アルト、テノール、バスがそれぞれ別個に主張する。(よくわからないが、グールドは声部が違う場合、優先順位をつけ同時に打鍵していないのだろうと思う。)

また、多くの場合、グールドのようにデタシェ(スタッカート)とレガートを使い分けない。グールドは、デタシェが基本で、これは《弛緩》であり、レガートは《緊張》だと考えているので、レガートはここぞというところに使うために取っておく。しかも、そのデタシェとレガートを異なる声部で同時に使い分けながら弾くことが出来る。普通のピアニストは、基本レガート一本なので、曲想を変えるのは音量と速度の変化だけなので、飽きてくる。

ペダルの使い方も大分違うのではないか。グールドは、ペダルをあまり使わないのだが、普通のピアニストは曲が盛り上がってくると、ダンパーペダルをじゃんじゃん踏み音を延ばす。当然音は濁ってくるのだが、簡単に迫力を出せる。 グールドは逆に、密やかさを出すために、逆に3本の弦が2本しか鳴らないようにするソフトペダルを多用する。

グールドは装飾音符を装飾音符と感じさせずに弾いていることが多い様に思う。第1曲のアリアからして、グールドは楽譜通りのメロディーに弾いていないのだが、こちらの方が非常に自然な解釈だ。ファジル・サイは、基本、楽譜通りに弾き、トリルなどはトリルらしく、華やかに見事に演奏するのだが、グールドはトリルでも装飾音符と感じさせずに自然に弾くことが多いと思う。

曲全体の解釈も大分違っている。最後の数曲はもうすぐ終わりという感じで、変化球が投げられ、徐々に盛り上がっていく。ファジル・サイは、最後の1曲前であるクオドリベットで最高潮に達するのだが、最後のアリアもその最高潮を維持する。グールドの場合は、この《ゴルトベルク変奏曲》は、《円環の曲》というだけあって、最初のアリアに戻るように弾くので、密やかに静かに閉じるのだが、ファジル・サイは、最後のアリアをクライマックスのように弾く。

このクオドリベットは、ドイツの俗謡が2曲入っていて、この曲だけがこれまでのような格調の高い雰囲気から砕けた気安さに満ち、曲想が違う。ある意味、この曲でゴルトベルク変奏曲は、一気に弛緩し、最後のアリアで最初の地点に戻るのだが、これをグールドは、平穏で、静謐なアリアへ戻ろうとし、ファジル・サイは、最初とは違うクライマックスを持って来たわけだ。

ファジル・サイは、ずっと楽譜を見ながら弾いていた。このため、変奏の変わり目に楽譜をめくることがあるのだが、CDで聴くときのようにインターバルが揃わず、わずかに興が削がれる時がある。もちろん、生の演奏がCDの録音のように完成度が高くならないのは、当然なのだが、すべてが暗譜であれば、インターバルもより演奏者の意図したものになり違うかもしれない。

この日、このホールは1800席あるのだが、いくらコンサート・グランドと言われるピアノがデカい音を出せるとしても、300人くらいの小ホールがふさわしい気がしなくもない。

この日の観客の反応はとてもよく、近くに座っていた女性が「まるで教会で聴いているようで、目をつむりながら感動していた。」という声が聞こえて来て、そのとおりだなと思った。

第2部では、シューベルトのピアノソナタが演奏された。全体として、とても良いコンサートで、観客は演奏が終了した後も盛大な拍手がなり続け、スタンディングオベーションする外人や日本人も多かった。

錦糸町のイルミネーション

そのアンコールを期待していた親爺なのだが、ドビュッシーの月の光とショパンのノクターン遺作の2曲を演奏してくれた。これまでの曲とガラッと雰囲気が変わり、どちらも凄く素敵で、こうした感じが生のコンサートの良さなんだと実感する。

2曲終わったところで、早く帰れと催促するように、ホールの照明が明るくなってしまった。もっと聴きたかったのに。

おしまい