グールドの力づよい《ハミング》《鼻歌》は、な、な、なんと、目の前にあった!!

ハミングを止められないグレン・グールドは、ゴルトベルク変奏曲を録音するとき戦争で使われたガスマスクをしてスタジオに現れ、皆を大いに楽しませたという。
(Why would Glenn Gould wear a gas mask in the studio? | CBC Music | Scoopnestから)

グレン・グールドは、歌を歌いながらでないとピアノを弾けなかった。母親が、幼児の頃からピアノを弾くときにメロディーを歌いながら弾くように教えたからだ。この癖は、生涯抜けなかった。また、ピアノを弾くときに非常に低い位置で弾いた。そのために父バートが作ってくれた、4本の脚を約10センチほど切り長さと傾きを微調整できる折り畳み椅子を、何処へでも持ち運び、死ぬまで使った。この2つの逸話は彼の人物を語るうえで一番重要なものかもしれない。

グールドが生涯使い続けた椅子。最晩年には座面がなくなっても、この椅子を前傾するように調整して弾いていた。もちろん、代わりの椅子は作られるのだが、グールドは気に入らなかった。
歌いながら弾くグールド:USB版コンプリートエディションから

今年の春に、清塚信也さんと鈴木愛理さんがMCをされている毎週放送のNHK「クラシックTV」が、グレン・グールドを特集した。(下がその「クラシックTV」を取り上げた親爺のブログです。)この番組で清塚さんは、冒頭にグールドが《エキセントリック》な人物であることを説明するのに、演奏に彼の《ハミング》《鼻歌》が入っているとこのようにいわれていた。

う~、ふぅ~ん、う~んって声が入っているから、子供の頃、グールドのレコードを聴いたとき《心霊現象》だと思った。音程も取らずにう~、ふぅ~ん、う~んってやるから、音楽にはなっていない。歌では、ないんです。・・・・常識が通用しない人なのかなっていう節が、そういうところに見られる。」

ゲストは、ハリー杉山さんである。

この番組で放送された《ハミング》《鼻歌》を、親父のブログを見てくださった方に伝えたところ、「え~っ!、ブラジルさんはグールドのハミング、鼻歌分かっていないんじゃないですか?」と言われてしまった。たしかにそうだよなあ、と納得してしまった。

というのは、グールドの演奏は有名なゴルトベルク変奏曲の録音が1956年であり、当時はモノラル録音で音は良いとはいえなかった。彼が出したレコードのうち最初の正規録音4枚は、モノラル録音である。最近グールドの録音が発掘されて新発売されるが、これらはもっと音の悪いCBCカナダ公共放送のモノラルのラジオ放送が音源のことが多い。要するに、コロンビア・レコードのモノラル録音が当時の最高技術水準だった。

グールドは、2番目の録音に、ヴィルトゥオーソと言われるような老練のピアニストが好んで弾く、ベートーヴェンの最晩年のピアノ・ソナタ30番、31番、32番を『強烈』な演奏で録音した。『強烈』という意味は、楽譜の指示どおりに弾いてないところもあり、正統的、伝統的な演奏とかけ離れたクラシック音楽界への挑戦だった。この曲が入ったCDを親爺は、曲の良し悪しより録音の悪さが気になって正直敬遠していた。親爺は、てっきり雑音だらけだと思っていた。

ところが、指摘を受けて聴き直してみると、録音が悪いというのはあるが、グールドの唸り声がずっと録音されているじゃあありませんか。雑音と唸り声が同じレベルで入っている。

親爺は、グールドにハマって、1950年代のグールドの録音を何とか良い音で聴きたいと思ってオーディオにお金をかけてきた。だが、グールドの唸り声を知らなかった。下の写真のB&Wというイギリスのスピーカーとヘンな格好のヘッドホンは、結構な値段がした。はっきり言って情けない。まあ~、わからなかったものは仕方がないかなあ。

何といっても《ハミング》《ハナウタ(鼻歌)》という表現はかなり商売上の忖度が入った手加減をした表現ではないかと思う。実際はそんな生やさしくキレイなものではない。あれは、清塚さんがいう《心霊現象》である。親爺には《背後霊の呻き声》に聞こえる。だいたい歌のようにながくつづこともなく、なんの意味も持っていない。ピアノの音の背景で、ときどき《妙な声》が瞬間瞬間に入っている。まれにグールドの歌が声楽家のように入っている演奏があるが、長い時間ではない。

1959年録音のバッハのイタリア協奏曲とパルティータの第1番、第2番のLPを、1999年にSACDにしたものには、日本語で書かれた帯がついており、「*一部ノイズはオリジナル・マスターテープに存在するため、ご了承ください。グールド自身の声(ハミング)もございます。」と書かれている。

基本的に、当時の録音技師たちも、グールドの歌声が録音されないように格闘したはずだ。親爺は、ピアノの演奏を録音する際に、音源であるピアノの中にマイクを突っ込み振動する弦の音を取るようになったのは、グールドが出てきたときが最初だったのかもしれないと想像するのだが、どうだろう。

先に書いたように、同じ椅子を彼は生涯つかい続けた。最初は、座面がありクッションがあった。時間の経過とともに、座面の詰め物が飛び出した。やがて、座面のクッションの部分は完全になくなり、木の枠、骨組みだけになった。椅子が軋むようになったので、演奏の際には、音がしないように絨毯が敷かれるようになった。写真を見ると、椅子の傷み具合で、何年頃の演奏なのか見当がつくといわれる。

グールドの凝り性の程度が分かろうというものだが、敷物をおいても骨組み自体がきしむ。この音が、ヘッドホンではわかる。スピーカーではわからない。といいながら、何の曲だったのか探そうと、録音時期の遅いトッカータ集やフランス組曲などを聞いて見たのだが、生憎よくわからなかった。

最後に静かな曲がいいだろうと思って、1981年録音のバッハのフーガの技法の終曲コントラプンクトゥス第14番(未完)を聴いて見た。この曲を聴いているとグールドはずっと大きな声で歌っている。見事にハモっていると言っていいくらいだ。おそらくなのだが、椅子のきしむ音もときどき入っている気がする。曲想が変わる部分で右手だけで長い旋律を弾くところがわかりやすいと思う。書物などのページを繰るような、ピアノでもないグールドの声でもない、雑音らしきものがする。

テニス・クラブの仲間に言われたことがある。「ピアニストの演奏する椅子が軋む音を聴いて、喜んでいても仕方ないんじゃない?」

そりゃそうだ。おっしゃるとおりです。返す言葉がありません。

ところが一方で、グールドのいろんな曲を聴きながら、あらためて「やっぱり、グールドの演奏はどれも凄い、素晴らしすぎる!」と思ってしまった。

おしまい

グレン・グールドのSACDハイブリッド バッハ全集が出ました!!

Tower RecordのHPから

昨年から順次、生誕40年、没後90年を迎えたグレン・グールドのリマスターされた録音物が発売されており、SACD規格によるバッハ全集も発売された。

詳しいことは次のTowerRecordの記事を見てください。

https://tower.jp/article/feature_item/2022/10/03/1110

SACD規格というのを簡単に説明すると、これは現段階でもっとも音質が良いとされるハイレゾの規格の一つである。ハイレゾには、CDの録音規格を高規格化したPCM録音という方式と、変調方式の違うDSDがあるのだが、SACDはDSD方式とほぼ同一と言われる。インターネット販売ではどちらも販売されている。

ただし、SACDをこのようなリアルな媒体で買うと、CDのようにコピーすることが出来ない。また、SACDを再生できるプレーヤーが必要である。今回発売されたメディアはハイブリッド盤なので、CD再生機でも再生できるが、CDレベルの音質でしか再生できない。CD再生専用機を使用するのであれば、CD向けにもリマスターされた規格のものが売られているのでそちらを買えばよい。

今回の全集に含まれるバッハ作品のうち、《平均律クラヴィーア曲集》、《インベンションとシンフォニア》、《パルティータ集》、《イギリス組曲》、《フランス組曲》もこの全集に含まれているのだが、これらはSACDで従来から販売されていた。

今回新たにSACD規格で発売されたのは、《1955年録音のゴルトベルク変奏曲》、《フーガの技法(オルガンとピアノ)》、《ヴァイオリンソナタ集》、《チェロソナタ集》、《ピアノ協奏曲集》、それにCBCテレビ局音源、ソ連公演、ザルツブルク音楽祭のリマスターなどである。

グールド・オタクに有難いと思えるのは、ブックレットが充実しており、ライナーノートが日本語でそのまま読めたり、グールド研究の第一人者である宮澤淳一さんの解説だったり翻訳を読める。また、ミヒャエル・ステーゲマンのしっかりした解説も読める。また、ジョン・マックルーアとティム・ペイジの対談CDが含まれているのだが、こちらも完全な日本語訳がついている。至れり尽くせりです。

特に親爺が有難たいと思ったのは、リマスターされていなかったピアノ版の《フーガの技法》が初めてSACD規格でリマスターされたことである。親爺は、この曲が一番好きで、この《14番の未完のフーガ》をしょっちゅう聴いている。

この未完のフーガについて、グールドが映像作家のブリュノ・モンサンジョンに次のように語ったとブックレットにある。

  • 「あの未完のフーガは確かに情にも訴える。何しろバッハの絶筆だし[・・・]しかし本当の魅力は平穏さと敬虔さ。本人も圧倒されたはず。このフーガに限らず曲集全体に言えるのは、バッハが当時の音楽の流行全てに背を向けていたことだ。彼の晩年、フーガは流行らなくなっていた。[・・・]フーガでなくメヌエットの時代なのにバッハはきわめて意識的に自分の和声のスタイル変え[・・・]別の地平に達していた。バッハは100年以上さかのぼり、対位法や調性の処理法を借用した。バロック初期の北ドイツやフランドルの作曲家のもので、調性を使いながら鮮やかな色彩を避け、代わりに薄い色合いが無限に続く。私は灰色が好きだ。シュヴァイツァーがいいことを言っている。『静寂で厳粛な世界、荒涼とした色も光も動きもない世界』と」
  • 未完のフーガの最後の音を弾いた瞬間、グールドは感電したように左手をさっと持ち上げる。映像は静止し、腕は宙で凍りつく ー 「あらゆる音楽の中でこれほど美しい音楽はない。」この未完のフーガを弾くグールドの姿を見た者は、この瞬間の映像を決して忘れることができない。(訳:宮澤淳一)

追加情報なのだが、3月26日(日)にタワレコで宮澤淳一さんによるこのSACD発売トークイベントがあります。まだ間に合います。駆けつけましょう。

https://tower.jp/article/campaign/2023/03/23/02

おしまい

チェンバロリサイタルは最前列で。 辰巳美納子リサイタル・東京文化会館小ホール

1月29日(金)、東京文化会館小ホールで行われた辰巳美納子のリサイタルへ行ってきた。曲目は、バッハのフランス組曲第5番とゴルトベルク変奏曲の2曲である。

この小ホールは649席ある
開演前、休憩中ともずっと調律している

上の写真が開演前の様子である。コロナの真っ最中で、公演中止を心配していたのだが、無事開かれ、観客席は3分の1くらいが埋まっていた。

チェンバロは、おそらく鍵盤楽器では最古参だろう。金属製の弦を張り、爪が弦を引っ掻いて、音が出る仕組みになっている。鍵盤を強く叩いたからといって大きな音が出るわけではなく、優しく弾いても音量が小さくなるわけでもない。音量も小さい。そのため、楽団と合奏すると埋もれがちだ。 しかし、繊細で美しい音色が最大の魅力の楽器だ。

主は、熱烈なコンサートファンではないので、お好みのプログラムの時に、チケットの値段がほどほどのコンサートに出かけている。オーケストラの場合、S席などより、むしろホールの後ろの方とか二階席の方でも、音響設計が良くされているので問題はないし安いので、こういう席を選んでいる。今回も、足が延ばせるという理由で、中央右側の端っこの席を選んだ。鍵盤楽器の場合、演奏者が舞台に向かって左側に座るので、左側の方が手の動きが見えてよいのだが、左側は人気があり、選択できなかった。

チューニングを聞きながら、「この楽器、これはすぐ近くで聴くに限る。」と思った。大音響が出る楽器は、反響音により後ろの席のほうがよく聞こえるのだが、チェンバロは音自体が繊細で小さく、間近で聴くのが良い。

また、常にチューニングが必要なようで、20分間の休憩の間も、調律師がずっとチューニングをしていた。

そもそもこの楽器は、ヨーロッパの貴族が室内で楽しんだ楽器だ。大きなホールで民主化さとれた大衆どもが聴く楽器ではない。 というわけで、主は、コロナのせいで観客席が空いていたこともあり、休憩を挟んでほぼ最前列に移動して聴いていた。 同じように考えた観客もいるらしく、周囲には何人かステージ近くに移ってきた人がいたようだった。

この日のプログラムは、前半がバッハのフランス組曲第5番、後半がバッハのゴルトベルク変奏曲だった。

バッハは、鍵盤楽器のために有名なところでは、パルティータ集、フランス組曲、イギリス組曲、トッカータをそれぞれ6曲ほど作曲している。トッカータは、1楽章形式で、アドリブ的で奇想的な曲である。パルティータ集、フランス組曲、イギリス組曲が、当時のダンスミュージックである舞曲を何曲も組み合わせて作られた大曲である。

フランス組曲も素晴らしいのだが、やはりパルティータが全体としてのまとまりをよく考えて作られており、さらに大曲という趣がある。

辰巳美奈子のゴルトベルク変奏曲の感想を書いてみる。

何といっても、

① 演奏時間がめちゃ長い。

おそらく、80分間以上演奏していたが、グールドの倍程度になるはずだ。原因は簡単で、おそらく反復を全部しているからだ。グールドは、溌剌とした1955年のデビュー録音が38分、瞑想的な1981年の再録音が51分である。反復は、「1955年にはグールドは一切のくり返しをしなかったが、1981年には、カノン9曲と厳格な対位法の変奏曲4曲で、前半のみを繰り返した。」(「グレン・グールド神秘の探訪」 ケヴィン・バザーナ:サダコ・グエン訳 478頁)と書かれており、この日の演奏はちょっと冗長だ。グールドの2回の録音は、長短あるが、いずれの場合にも、極端に遅い演奏と極端に早い演奏が組み合わさっており、きわめて刺激的だ。

辰巳美納子の演奏も、現代的で明るく楽しい演奏を繰り広げているのだが、古楽器を使って楽譜に忠実に、当時のままに演奏しようとしているのかと思えるフシもあり、強いて言えば、指向性がはっきりしない。おそらく、彼女は、古楽を忠実に演奏するより、現代的で楽しくこの曲を演奏しようと考えているのだろうと思うのだが、さらにメリハリがほしい。冒頭のアリア、最後のアリアなどは極端にゆっくり弾いて欲しいし、疾走するところは疾走して欲しい。

逆に、グールド以前の大御所であるワンダ・ランドフスカ(1879年 – 1959年)の演奏のように、博物館にあるような年代物の演奏を、現代の今やったら、それはそれで面白く値打ちがあるだろうと思う。

要は、その人なりの「狂気」がないと面白くない。グールドは、音高と音価(=楽譜上の音の長さ)は変えていないが、拍子や速度記号を無視し、場合によっては音符も加えている。

② この日のパンフレットに「鋭い感性と自在な表現で全体を支える通奏低音に定評がある」と書かれていた。伴奏ともいえる通奏低音をホメるというのは、パンフレットとして、どうなのかなと思った。しかし、通奏低音のリズム感は安定していて、こういうことなんだと納得する。聞いていて安定していて、とても気持ちが良い。もちろん、他の声部もなかなか良かった。 

③ このゴルトベル変奏曲は、最初と最後のアリアの間に、30曲の変奏曲が挟まるのだが、最後の方に近づくにつれ、クライマックスに近づくのが感じられ、最後の変奏曲、クオドリベット(=宴会などで行う、複数人がそれぞれちがう歌を同時に歌う遊び:Wikipedia)で爆発する、その感じがよく出ていた。

このクオドリベットは、当時の俗謡が2曲入っていて、楽しくてとても聞きやすい。それまでのバッハの小難しさが消えて、すっかり楽天的になる瞬間である。ある意味、この曲はクオドリベットが出てくるまでが辛抱であり、この曲の到来で辛抱から解放され、最終的に、再び静かで美しいアリアの円環に戻る。

そう考えると、アリアに戻るところは、もっとゆっくり、極端にゆっくり、じっくり聴かせたらどうなんだろう。 しかし、終わりよければすべて良し。とても、感動的で、楽しめる演奏だった。観客も大きな拍手を盛大におくっていた。 主は、アンコールになにか、最低もう1曲を弾いて欲しかった。

おしまい